たかちゃんの部屋

2008-07-21

新しいはじまり、笙の響き

友人のLちゃんプロデュースの「笙と曼荼羅の集い・祈り」」に行ってきました。

小ぶりのホールながらもお客さまであふれかえり、そんな中、壁にかけられた曼荼羅が静かで荘厳な雰囲気を醸しだしています。そこに、笙の響き・・・。「天からさす一条の光」のような音色をイメージしていたのですが、それはもっと力強く「天からふりそそく光の束」のようでした。写真は、演奏者の大津典子さん。演奏はもちろんすばらしく、お話も興味深いものでした。「笙」は、おうちが一軒買えるほど高価だそうです(これは、楽器を美しくつくるには、それだけふさわしい竹をさがすのが大仕事だということだそうです)。

さて、今回の主催者のLちゃんですが、彼女は以前体調がおもわしくなかったり、「本当の自分」への方向性に悩んだり・・・そんな日々に、より自分らしい自分を模索しながら一生懸命に過ごされてきたことを知っていたので、このパフォーマンスの連絡をいただいたときには「あ!ついにきたわね!次ぎのステージが!」と嬉しくなりました。

わたしたちは誰でもそうですが、たゆまず成長してゆく存在です。そして、気づかないうちに成長している自分が今までの古い状況にあわなくなったとき、苦しさ、葛藤を感じます。そのうれしくな感情をバネに現状というカラを破って新しい、より大きな自分に変化し、新しい世界を築いてゆかなければならないのです。

でも、その変化の前触れである苦しさや葛藤だけですでにメゲでしまい、せっかくより大きな新しい自分へのご招待状がきているのにムダにしてしまう人の多いこと。その「苦しさ」は、よりつきぬけた世界への道しるべだったのに・・・。

Lちゃんは、そんな変化の日々に勇敢に立ち向かい、ついに脱出、そして次ぎなるステージに飛び立ったのでした。

そんな思いで見つめた今回のパフォーマンス。もちろん、笙の響きはすばらしくって鳥肌がたってしまいましたが、わたしは、曲と曲のあいまのLちゃんのナレーションの声に深い落ち着きと新しいLちゃんを感じていたのでした。

新しいLちゃんが創りだした新しい現実に、たくさんの人が集い、感動し、そしてまたあらたな動きがはじまる・・・これこそがわたしたちに目指す「成長」なのだな〜と感じました。

12:46:39 - furukawa - No comments

2008-06-14

ホントの世界はあなたの外にある!

いつもいろんなことに対して「あ〜でもない、こ〜でもない」と思い悩んでいる友人がいます。

見ているとなにやら大変そう・・・でも、話を聞いてみるとそんなにさし迫った状況にあるわけでもないのです。たぶん、これが彼女のふつ〜の状態。「あ〜だ、こ〜だ」しているのがノーマルで習慣になっているようです。そんなこと言ったら怒られそうです。「真剣に悩んでいるのよ!」と。(でも、こころの状態って習慣になっているのでご注意を。怒っている人はいつも怒っているし、心配している人はいつも心配している。それが自然らしいのです。)

私は彼女の目の前に座って、「きゃ〜!このブルーベリータルトおいしい〜!食べてごらん」とノーテンキ。

もちろん、わたしもときには落ち込み、友人にお助けコールをしたりすることもあります。でも、基本的にはお気楽人間です。

だって、わたしたちは五感で人生を感じて楽しむために、この身体をもってこの世にやってきているのです。それなのに、五感で人生を感じることもなく、頭の中にばかりとじこもっていたらもったいない!頭の外に出なくちゃ。感じなくちゃ!

それに、ブルーベリータルトのおいしさを満喫しているときは、同時に悩みにはまることはできないのです。「おいしい〜♪」とか「楽し〜♪」「幸せ〜♪」と言っていると、人生はじつにシンプルになります。なぜなら、それしか見えない。

今日の空の色は今日だけのもの。今そよいでいる風だって、たったこの瞬間だけのもの。そして「ブルーベリータルトの味なんてしってるよ!」というかもしれないけど、このブルーベリータルトだって、きょうしか味わえないブルーベリータルト。

生活の中には何ひとつとして同じではないサプライズが毎瞬用意されているというのに、思考にはまって、思考の中に住んで、イメージを巡らせることで疲れてしまってはもったいない。それは、現実逃避。

たった今の風を感じて、たった今のブルーベリータルトを味わって、たった今一緒にいる人をいつくしむ。ちゃ〜んと「今」ここに生きていると、ほら、自然とあなたの次ぎのステップさえも用意されているのがわかるのです。でも、それは頭の中に住んでいては見えてこない。

頭のおしゃベりのスイッチはきって、今ここにいて五感のすべてを使って今を生きる。すると、どうやら自分のための人生の流れに乗れるよう。

さあ!外に出て、五感をフル活用して、「今、生きてる!」って実感してみて!

18:22:10 - furukawa - No comments

2008-06-10

たまには「心の目」の視力測定もね!

コンタクトレンズをリニューアルいたしました。

メニコンメルスプランのメンバーになっているので、年に一回は新調の機会がやってきます。しかし、こまごま視力を測定したり、眼科にかかったりが面倒で一年たち二年になり・・・。ようやく重い腰をあげました。

足が遠のいているあいだに新しい製品ラインが開発され、さらに薄く、さらに小さく、さらにクリアに。そして、微妙に変化している視力にもあわせてもらい、視界がくっきりさわやか。心持ちも変わろうというものです。単純。 (^。^;)

でも、わたしたちはふだん「心の目」で世界を見ているので、実際の視力の矯正よりもじつは「心の目」の矯正のほうが大切。実際の目は外側で起ったことを映すだけですが、それをどのように解釈し、どのように自分の経験とし、どのように自分の成長の糧とするかは心の目が判断すること。

心の目が近視になっていると問題に固執してどんどん狭い視野にはまりこんでゆきます。だから、ドツボにはまったように困った状況から抜け出せなくなります。問題の解決は、問題よりも大きくならないとできないのですよね。
あるいは、心の目が乱視になっていたら、自分に向けられるたくさんの優しさや愛情があったとしても、それを歪曲してしか体験できないかもしれません。。

だから、心の目の視力も計れたらいいのにな〜と思います。
「今、ちょっと心の目の視力がおちていますね〜。お疲れのようですから、おいしいものを食べてたくさん寝ましょう」とか、「心の目が乱視ぎみですよ。ラクになる新しいものの見方、考え方を処方しておきましょう」なんてね。

心の目が健康で澄んでいると、同じ世界に住んでいても見える景色が違ってきます。
ふだん感じてる世界よりも、より平和で愛にあふれて、そして思いやりのある、そんな世界を体験できるでしょう。

「心の目」の視力こそ、幸せを感じるキーポイント。
「オフィス・るん」では心の視力測定でもはじめましょうかね〜。

14:19:53 - furukawa - No comments

2008-06-02

もうひとつのお正月気分

なにやらお忙しな一週間。

バースデー日記のご利益で、今年はたくさんの「おめでとう」メールと予期せぬプレゼントを頂戴してしまいました。\(^O^)/ みなさま、ありがとうございます。

「心境の変化は・・・?」と問われると・・・、いままでどおりに「楽しく♪軽やかに♪」がモットー。

ときには気になる仕事の成果や、お金のこと、その他もろもろ。
でも、最後の瞬間にはそんなこと、「じつに、ど〜うでもよかった」っても思うに違いありません。

以前からそのように感じていました。けれど、バースデー直前に「人生の終わり」についてのいくつかのメッセージを受けとり、シンプルに「愛する」ことと「楽しむこと」そして、「目のまえにやってくることに熱中すること」こそがすべてだ!とあらためて確信いたしました(こちらのシェアはまた後日の日記にて)。

私にとって大切なことは、「愛する人たちと、たくさん笑ったか」ということと、「人生で巡りあい、与えられたひとつひとつの瞬間を味わいつくしたか」どうか。・・・これに関しては。いまのところかなり順調なできあがりです。この調子でいきましょう。

ちょうど一年の半ばまでさしかかって、ほどよくリフレッシュ、リセット。わたしにとっては、もうひとつのお正月なのでした。

14:23:23 - furukawa - No comments

2008-05-19

知ってるようで知らない本心

自分がある経験に直面することによって、はじめて自分の本心、望みが見えてくることがあります。

どういうことかというと・・・、
信じていることがわたしたちの現実を創りだすという考え方から、「その人が経験していることを見れば、その人が何を本当に信じているかがわかる」といいます。

つまり、私たちの経験は自分が「何を信じているか」にもとづいて創りあげられるわけなので、結果としての経験をつぶさにながめることによって、自分の深いところにある潜在意識下の本当の思いを知ることになるのです。

人との関係がダメになるとき、潜在意識下では「もうこの関係は十分だわ」「終わりにした方がいい」ということを「お互い」(これは片方ではないのですね)がわかっていて、それが表面化されついには別れにいたるものです。でも、表面の意識、つまり理性ではそのことが理解できずパニックに陥ったり、被害者になったり・・・・。でも、こうして見ると、両者同時にあきらめに達しているので、被害者は存在しません。

また、何か目ざすものがなかなか手に入らないような場合も、たんにたくさんのモノを持ちたがるエゴ(表面意識)がそれをほしがっているだけで、じつは深いところにある自分の目的にはそぐわないのです。つまり、深い部分では望んでいない。手に入らなくて当然なのですね。

だから、目の前の結果が好きでなくても、でもじつは重要な軌道修正だったり、真実の自分に気づかせてくれるチャンスだったりします。

でも、興味本位のエゴはいぜん「そっちに進みたい〜!」と抵抗を続けることもありますが・・・。 (^。^;)

「なるほど〜、これがわたしが欲しかったものかぁ」と完璧に自分が創りだした結果として味わうとき、また次ぎの選択、つまりあらたに何が欲しいか意識的に選びなおすことができ、次ぎなる展開もやってくるのでしょう。むむ・・・。

22:45:00 - furukawa - No comments

2008-05-11

「うんざり」レベルが人生を変える!

セラピーでのひとこま。

クライアントさんがご自分の問題を話されます。

よ〜くお話をうかがったうえで、違った角度からのものの見方を提案させていただくことがあります。「こんなふうに考えることもできますよね〜?」と。

そんなとき、「そうそう、そうなんです。それはもう知っています」とか「それは聞いたことがありますから」と、どんな考えもアドバイスも立て板に水のごとく、ソク右から左へと却下されることがあります。

そんなとき、ちょっともったいないな〜と思います。

なぜなら、知識で知っているかどうかをお尋ねしているわけではないからです。「頭でその知識を知っていること」と、それを「人生に受け入れる」「それを生きてみる」ということはまったく別なことなのです。

たしかに、どこか本で読み知った知識かもしれません。でも、知識はあくまでも知識。「頭のレベル」です。

わたしたちをつき動かし、人生を操作しているのは、「心のレベル」「潜在意識のレベル」です。頭のレベルに山のように知識をつんでも、行動はなかなか変えられません。

頭でさんざん知っていることだからこそ、本当に変わろうとするときは、それをもう一度受け入れて、どういうことなのかじっくり感じて、味わって、そして潜在意識に落ちるまで気長につきあってあげなければならないのです。ほんとうに心を開いて、自分に迎えいれてあげることなのです。

たとえば、自己啓発本などで「よ〜〜し!元気をもらったぞ!」というとき。直後はまるで人生が変わったように生き生きするのですが、一週間もするとあの感動パワーはどこへやら。なにひとつ変わっていない・・・。読書という頭脳レベルの刷り込みは、日常生活の刺激によってすぐにかき消されてしまいます。

そうならないためには、「知っている」「わかった」というレベルから、「もう、聞くのもイヤ」という「うんざりレベル」までもっていかなければなりません。

たとえば、この本の考え方はすばらしい!と思ったら、今日から三ヶ月間は寝る前に同じ本を読み続けるとか。感動したセンテンスを書き出して、毎日目を通すとか。とにかく、(頭で)「わかったぞ!」のレベルを超越して「いいかげんにしてくれ〜!うんざりだ」というところまでいかなくてはなりません。「うんざり」すると、その考え方と自分がひとつになって、あらたな自分の考え方のスタンダードとして確立します。潜在意識に落とし込むことができるのです。

今はなんでもスピードの時代。「はい、わかった!次ぎ!」といいたいところです。が、是非自分があらたに持ちたい考え方、生き方があったら、「わかった」段階から「もう、うんざり」までしつこく取り組んでみてください。ここまでくると知らぬ間に、ものの見方が変わっています。

しつこ〜いコテコテ読書は魂を育ててくれますよ。

18:13:45 - furukawa - No comments

2008-04-11

「君を幸せにできるのは僕しかいない」症候群 その2

「君を幸せにできるのは僕しかいない」
このセリフ、「あなたの幸せの責任は僕がとります」と断言してるようなもの。いいんですか〜?そんなこと言っちゃって?

幸せか幸せじゃないかって、「個人」の心が選ぶもの。早く言ってしまえば、人が最悪って思う環境でも「幸せ〜♪」と満喫してしまう人もいるし、こんな申し分ない環境だったらさぞ幸せであろうという人でも、「わたしほど不幸モノはいない」とおもってる人もあり。「個人」の心のバランスなわけです。そのバランスは他人には変えることはできないのです。

だから、「ぜんぜん幸せになれない!」と、ダンナさんを何回とりかえてもモトノモクアミ。その奥さんが自分のものの見方と共存している限り何も変わらないのです。自分が問題のみなもとだから。

それを他人が満たしてあげることができると誤解すればするほど、乾きを増長させるというメカニズム。奥さんの心の中の「幸せを感じるセンサー」は故障しているので、ちょっとでも献身的に与えてくれる人を見つけると、この人さえもっとたくさん与えてくれれば問題は解決すると思ってしまい、いよいよ吸血鬼化してしまいます。

結局、どんな問題でも外側から何かを与えたり加えたりして癒すことはできないのですね。なぜなら、どんな問題も外側には存在せずに、そのひと個人のものだから。「幸せにしてくれ!」といっくら外側に向かって叫んでも何をどうすることもできません。

結局はすべては自分。視点をぐるりと180°転換させて自分に向けること。他人に期待するのはやめて、自分の心と正直に向き合って、心の声をきいて、何が自分にとって心地よいのか、そのために自分がどうすればいいのかをちゃんと聞いてあげなくてはならないのです。自分に与えられるのは自分しかいないのですね。

11:01:29 - furukawa - No comments

2008-04-03

「君を幸せにできるのは僕しかいない」症候群

「ぜったい幸せにするから僕と結婚してくれ」
・・・・よくあるプロポーズの言葉。

いっけん、ウルワシ〜ク響きます。女性にしてみれば言われてみたいセリフかもしれません。

が・・・「ええっ!!そんなこと言っちゃっていいの?」というのがわたしの正直な感想。こんなプロポーズするから離婚率が高くなるってものです。それに、ダンナさん、ご自分の首を限りなくしめることになりますぜ・・・。

だって、こう言われた奥さんは、ちょっとでも幸せ感が薄くなったとたんに、「ちょっと、ちょっと、アンタの努力がたりないせいでワタシちっとも幸せじゃないわよ。あの約束はどうしたの?」とダンナさんを責めはじめます。

すると、だんなさんはアセって、「じゃ、じゃあ、これならどうだ!」と甘やかし、「ぜんぜん、たんな〜〜〜い!」とダンナさんにさらに要求(人の欲望は限りなし)、「ほんじゃ、こ〜したらどうじゃ?」と頑張れば、「まったく的をえていない」と奥さんの怒りが爆発し・・・さらなる悪循環へ突入。で、奥さんのくちぐせときたら「あなたと結婚したばかりに・・・云々」。ダンナさんは自信も魅力も失い、たんなるダメおやじと化してゆきます。そして、奥さんはさらに見捨てる・・・。

こういう奥様は、誰と結婚しても結局は幸せじゃないのがわかってないのですよね。

人が幸せに感じるか感じないかは「誰かに何をされたか、されないか」とう問題ではない・・・ということになかなか気づけません。

ダンナさんが外側から幸せ感を押しつけてたとしても、一瞬は「あ〜幸せ♪」って感謝されるかもしれませんか、その努力はあっというまに底なし沼に吸い込まれ、あらたに拡大した要求となってダンナさんに襲いかかることになるでしょう。
(次回につづく)

17:26:23 - furukawa - No comments

2008-03-28

咲きかた、いろいろ







ポインセチアが桜をまねて大きな木になったら、ちょっとびっくり。せっかくの可憐さがだいなし・・・。





桜が一株地面に花開いても、これまたちょっとちがう・・・。


それぞれにそれぞれの咲き方があって、その咲き方がいちばんそれらしい。魂がきめたひらきかた。





わたしたちだって開花の時期や季節がそれぞちがうし、スタイルだってちがうはず。だから、「自分であること」「自分らしさ」を、自信をもって胸をはって生きること。

すると、自分も気持ちがいいし、まわりも嬉しい♪
10:33:10 - furukawa - No comments

2008-03-12

気づきの日記「気分って、選べるって知ってた?」その2


どうしても、「あいつが悪い!」「私は被害者だ」といいたいときは・・・・、結局戦いのゲームが好きなだけ。誰かを悪者にして、じつはコッソリみずからの劣等感のうめあわせをしているのです。

ネガティブな感情を感じるとき、そう感じたいならどうぞぞんぶんに感じてみましょう!脇にどけて無きものにしたとしても、決してなくなりませんからね。感じるときは、いさぎよく5分だけね。しっかり向きあって感じていると、あんがい5分で跡かたもなく消えてしまったりします。そして、必ずしもそう感じる必要がないことを自分に教えてあげてください。


幸せって、こんなちいさな感情のコントロールから手に入るもののようです。

真綿で首をしめるようにあなたを苦しめる「真実の感情」のフリをした「エゴのささやき」にご用心。そんな真綿は拒絶して、堂々と幸せの王道となる考え、感じ方を自分で選ぶこと。いらない感情は無視してやりすごし、感じたい感情のために自分にとって健全な考えを選びましょ♪そう!「選べる」んです。

でも、「今、カッカと感じている自分の感情から離れるのはむずかしい」と感じるかもしれません。


そんなときには、「幽体離脱モード」を使ってみましょう。

つまり、自分をいきなり「彼」とか「彼女」とか「それ」にしちゃって、ちょっと身体の外から感じてみます。
「なるほど〜。彼女は今、怒っているんだな。大切にされていないと感じているんだな」というように。

ちょっと外に出て自分をながめてみると、自分の怒りや落ち込みの理由が見えてきたりします。怒っている裏側には、じつは自信のなさがある・・・とか、落ち込んでいる裏側には無力感があるなど。


そうすると、自分の外にあるものに腹を立てていたのが、実は「自分で自分が限りなくふがいない」と信じてあたりちらしていたことに気がつきます。そんな気持ちを見つけたら、自分自身が愛してあげてください。「ああ、そんなふうに感じてたんだね。そっか〜そっか〜。こわかったんだね」と。

べつに何かすごいアドバイスをしてあげる必要はありません。ただ、「うん、うん」と耳を傾けて、理解してあげれば十分。


なぜなら、外側にあたりちらして被害者になりたいときには、じつは自分で自分のことを好きになってあげてないときだからです。外に見える不快なものは、すべて自分の映し絵。自分の影帽子。自分で自分を足蹴にして、切り刻もうとしてるわけです。

こんな自分の弱さ、ふがいなさをちゃんと見て、気にとめて、受け入れてあげる。そんなプロセスの中で、小さいころの癒されていない感情の数々に気づくことになるかもしれません。ただ気づいて、受け入れることによって、外側の世界は少しづつ平和になってゆくのが感じられることでしょう。
Good Luck♪



23:42:00 - furukawa - No comments

2008-03-10

気づきの日記 「気分って、選べるって知ってた?」


クライアントさんとのやりとりの中で、あるいは自分の心の中のつぶやきに耳をかたむけて・・・つくづく思うのですが、どうして人は「自分を幸せにしない考え」に固執するのでしょう?

「あの人ったらヒドすぎる」「なんで私ばっかり」「どうせ私なんて」・・・自分をみじめにさせ、イライラさせ、未来もない絶望的な気分にさせる考え方・・・それをいつまでも手放そうとしません。たいてい、みなさんこうおっしゃいます。「だって、それは今私がそう感じているんだから、まぎれもなくホントのことでしょ!」と。


「感じている」からホントのことなのか・・・?
「感じ」ってそんなに普遍的な真実なのでしょうか?そのわりには、その日の天気や、寝起きや、他人の言葉でころころ変わるような・・・。

「感じてるからホントなの?あんがい違うかもよ〜」とわたし。
その場面で、そう感じなきゃいけないルールなんてないんですもの。同じシチュエーションで十人の人に気分を聞いたら、たぶんみんな違うはず。


「気にもとめない」人もいれば、「一生の大事!」とあたふたする人もいたり・・・。ということは、そのものごとよりも、その人の「経験」から生み出される「考え方」が人を苦しめたり楽しませたりしている正体ということです。

そして、たいていネガティブな感情の裏には「たくらみ」があります。腹をたてることによって、まんまと被害者になりすまし相手に罪悪感をおしつける。「ひっひっひっ。あなたってじつは、こ〜なにヒドイ人だったのよ〜。知ってた〜?」と相手を無言で脅迫。あるいは、落ちこんで無力な自分を装うことによって、優しい誰かさんをまんまとコントロール・・・。
こんなたくらみの上によい人間関係がきずけるはずもありません。


「ある感情」を感じたとき、ちょっと考えてみてください。
「この感情は、私をハッピーにしてくれてる?」
もし、そうじゃないとしたら、じゃあ何でやっているんだろう?ほんとうは、どんな感情で自分の人生を満たしたいのだろう?と。

(次回に続く)



16:43:06 - furukawa - No comments

2008-02-09

気づきの日記「おひとよしの考察」

以前、掲示板の書き込み(#701)で、天使の風さんから「おひとよし」についての考察を依頼されておりました。かなり遅ればせながらですが(汗)、分析させていただきま〜す。

「お人好し」と「親切」あるいは「めんどうみがいい」というのは似て非なるものです。「おひとよし」というと、自分を犠牲にしたり、いいように使われてしまうというようなちょっと負のイメージ。実際、ほんとうに「いいように」使われちゃっているのでしょうか?「おひとよし」の正体とは?

「おひとよし」には、二つのタイプがあると思います。

たとえば、悪口や陰口をいわれても心底反応しない、というか好意的にしかとらえられない人。「あの人がこんなこと言ってたよ」といっても、「そうなんだ〜♪そういうとこもあるかもね〜」とにこにこどこ吹く風。ほんとうに気にしていないし、どこかノーテンキなのです。

このタイプは、自分の外側に存在するものに対しての信頼があるので、争わず、戦わず、風になびく葦のように、ものごとを愛でています。そして、自分が苦しくなる余計な信念はかかえないのです。そして、何も失うものはない、とわかっているので怖れがありません。存在していることで、どこか自然に人を癒してしまう天然「おひとよし」さん。

さてもう一方は、「人からよく見られるために」「あるいはいイイ人だと思われたいため」に「おひとよし」を装います。これは、心底の「おひとよし」というよりは、「見返り」を期待してやっているもの。一見いいなりになることで、ちゃっかり欲しいものを手にしようという隠れた意図あり!いいなりになることで、優位な立場に立とうとするのですね。しかし、周囲の人々は潜在意識下でその策略に気づいています。「おひとよしね〜」というニュアンスの中には、「あざとい」とか「ぶりっこ」とか「ちゃっかり」という批判や皮肉がこもっている場合もあります。

このタイプは、誰の心の中にもある負の感情をよびさますします。まわりで見ている人は、自分の中の同じイヤな部分を白昼にさらされるようで不快感をおぼえることも。

なので、天然の「おひとよし」さんはおおいに結構!でも、もしなんらかの意図(自分を守るとか、手に入れるとか、他人をコントロールする)でやっているとしたら、結局それは自分を傷つけることになってしまいます。なぜなら、「自分はガマンをしないと欲しいものが手に入らない存在だ」と決めてしまうことになるから。それに、せっかく「おひとよし」をやっても思うような見返りがなかったら、いつか大きな怒りと恨みにかわり豹変・大爆発するおそれも・・・おおコワ。

自然体がいちばん!

21:40:14 - furukawa - No comments

2008-02-05

メタボ注意報

このおみかんMサイズ、2個食べてもまだ886g。
ずっしり重いです。

じつは、年末年始、完全にジムをさぼりきって、二ヶ月ぶりに行ってきました。お正月を過ぎてもなかなか腰があがらなかった最大の理由は、体重計がコワイから。仕事が詰まっていると、唯一の運動はスーパーマーケット一週ぐらい。

予想では、2〜3キロオーバーかと気をもんでいましたが、どうにか1キロオーバーにとどまっておりました。フ〜〜・・・(汗)。でも、1キロといってあなどるなかれ!このみかんの袋の重みを思うと、これ以上がお腹まわりに蓄積したかと思うとぞっといたします。想像上の1キロよりも、視覚と体感で確認する1キロは迫力ありますよ。

なぜ急にジムに行ったかというと、見ちゃったんですよ〜!昨晩TVで体重500キロのおじさんを!(見ました?すごかったですね〜。これも、やっぱりビジュアルはインパクトがありますね〜)。塵も積もれば山となる・・・で、早期に手を打たなければ!と思った次第です。みなさま考えることは同じなのか、本日ジムは超満員!(笑)そう・・・サッカーワールドカップの日本戦の翌日もよく混雑していて、ヒデや俊輔くんが走り回るのをみているとジッとしてられなくなるようなのです。

昨日のTVに出てきたメガ級肥満のおじさんのひとりは、食事と運動でごくごくふつ〜に痩せたのです。とってもスリムに。ところが、その後もっとすごいリバウンドが・・・。

これを見てて思いましたよ。太るには理由があると・・・。それは、食べるとか食べないの問題じゃないのです。なぜなら、身体にはもとから体重をなるべく一定にしようとする働きがあるからです。この場合、超メガ級のおでぶちゃんが痩せたらすごいイケメンになってしまって、女の子にもてもて!そこで、怒ったのが奥さん。「痩せたあなたは軟弱になった!」と非難。見れば奥さんもおでぶちゃん。だんなさんだけが、かっこよくなるのを許せるはずがありません。

結局、この男性、潜在意識では「再びおデブになって奥さんの愛をとりもどす」ことを選んだわけです。奥さんの信念も「痩せて他の女性にとられるぐらいなら、多少みてくれが悪くても(といっても、500キロ)私を大切にしてくれた方がいい」なのでした。同じ穴のムジナなわけです。ダイエットは二人仲良くね♪

15:34:35 - furukawa - No comments

2007-10-11

気づきの日記 「大恋愛した〜い」あなたへ、新恋愛考察 その2

10/4日の「気づきの日記」の続きです。(インターバルをおいたら、自分でも何を書いてたか忘れてしまいました!笑)

そうそう、「大恋愛」についての話でしたっけ。

相手のイヤな部分でも、スキな部分でもそうなのですが、ようは相手に見えるものは自分のものなのです。自分の中になかったら触覚にひっかからないので、「好き」でも「嫌い」でもなくどうでもよくなります。

でも、今までの話では「無いからこそ、持ってる相手を好きになるんじゃ???」 ・・・・それもそうなんです。

じつは、自分の中にその部分は持っているけど、でもどこか奥ふか〜くにうもれてしまって忘れさってしまった自分の一部。自分が見失ったり否定したそんな自分を相手の中に見つけて憧れる・・・ようは、自分で自分に恋してるようなものです。

でもここで、「A男さん、なんてステキ。あんな人が私なんかとつきあってくれるなんて!」という相手を礼讃しはじめるとコワイことになります。相手はすばらしいから、私はダメ。だから嫌われないように努力する。いつもつま先立った状態で背伸びして、もとに戻せなくなります。そして、相手は素敵だけど、わたしは違う・・・という思いから、どんどん自分の価値をなくしてゆくのです。だから、熱病型恋愛はひとつまちがうと地獄絵巻となります。自分の魅力を取り戻すどころか、相手にパワーを与えて自分はもぬけのカラ。自分は小さなものになり下がってゆきます。相手なしでは自分の価値さえ感じられなくなって、ついにはゴースト人間になってしまいます。

・・・・・ほんとは、相手に見えているのはまぎれもなくホントの自分であるのに。

だから、相手に魅力を見つけた段階で、「こんな素敵なものが見えちゃったってことは、わたしの中にも同じ魅力がうもれてるってわけ??」と気がつくことがポイント。ここは鏡の世界。相手に見えるものはすべて自分のもの。自分が忘れてた、気づかなかった魅力が今まさに復活しようとしている兆候なのです。

相手のいいところを愛でつつも、そんな相手を好きになった自分を大事に大事にしてあげること。あくまでも、その恋愛の中で、自分をVIP扱いにしてあげることです。彼のことは大好きだけど、その関係の中で自分はどう感じているのか。心地よいのか、ムリをしているのか、必死なのか。そして、いつも相手にあわせてムリをしているようだったら、勇気をもって自分が心地よくなる提案をしてゆくことが大切です。相手だって、あなたが自分を大切にしていたら、もっと魅力を感じるようになるのです。

この人生の中で、自分を最高に大切に扱ってあげなかったらいったい誰がそうしてくれるのでしょう。DV(家庭内暴力)にしても、校内暴力にしても、イジメにしても、もし自分が人から大切に扱われないと不満があるようでしたら、まず自分が自分の気持ちを無視していないか、自分をないがしろにしていないかをチェックしてみてください。

いい恋愛をしたかったら、まず自分で自分を最高に可愛がることです。そうすると宇宙は、「ふむ、この子は自分はこんなに素敵だといっている。よし、とっておきの男性でないとダメなようだじゃな」ということになります。

なんにしても「大好き」「大嫌い」・・・「大」のつくものはあんまり健全ではありません。それよりも、真ん中「中庸」がいいのです。(すでにバアチャンじみた発言ですね・笑)、

大恋愛が「執着」や「コンプレックス」だなんてガッカリでした?でも、自分の中の未知の魅力が引き出されて、相手への執着がうすれたあたりから、本当のパートナーシップが築けるかどうか、二人の関係がホンモノに値するかどうかが確かめられるときがやってくるのです。そこからですよ〜〜、ホントの恋愛は!

12:14:40 - furukawa - No comments

2007-10-05

「存在に癒される」とはまさにこのこと!

その昔、ローマ法皇、故ヨハネ・パウロ二世が来日されたおり、幸運にも来日記念のミサにあずかる機会がありました。そのとき、ローマ法皇が姿を現すなり、どっと涙が溢れ出しとまらなかったのを思い出します。まわりを見まわすと、誰もがハンカチを握りしめ感動で顔をくちゃくちゃにしながら笑っていました。

なぜそんなことを思い出したかというと、きょう同じような体験をしたのです。「東京都写真美術館」にドキュメンタリーフィルムを観に行ったのですが、上映がはじまるといっせいに鼻をすする音がしてみんな泣いている様子。じつは、私もずっと涙がこぼれてしょうがありませんでした。

何を観たかというと、マザー・テレサの没後十年のドキュメンタリー。その活動と言葉を記録したものです。

マザーは「すべての人には愛し愛される権利がある。だから、これは福祉活動ではなくて魂にかかわる「愛」の行為である」と、政府からの援助はいっさい受けとらないという方針で活動を世界に広げてきたといいます。貧困を救うというよりも、もっと深刻な愛のない乾いた心を救うこと。ひとつまちがうと自己満足におちいりがちなボランティア活動ですが、純粋な愛に根ざした行為が人をひきつけ感動させる源となっているのでしょう。

マザーがアメリカの病院に活動で訪れたとき、すすめに従って健康診断を受けたそうです。そのとき心臓が悪いことが判明したそうなのですが、ただちにこのことは口止めされたとか。自分の状況、状態、それは神から与えられたもの、だから静かに受けとめるのだと。たとえどんな状況におかれたとしても、それが今いるべき「自分の居場所」であると。身体の悪いことはマザーにとっては普通の状態となったわけです。忙しい活動を緩めるどころか、同じように心臓に病と共生するように活動を続けたそうです。

自分のおかれた状況をまさに自分の居場所として選択しつづける、「すべてにサレンダーする」生き方。これは、セラピーの中でもつねにキーワードとなる言葉です。今までわかっていたつもりでしたが、マザーがまさにそれを生きる姿を見たとき、理解できたというよりもお腹の深いところにポト〜ンと落ちた気がしました。

「癒し」の仕事の原点をみせていただきました。


21:11:12 - furukawa - No comments