日々のあれこれに役立つたかちゃん「気づき」の数々。
掲示板に「夢を叶えること」についてのご質問(7-16)がありましたので、小さなアドバイスを!
夢を叶えるときに、ちょっとしたポイントがあります。それは、夢にまつわる「感情」がキーになるということです。
たとえば、「お金持ちと結婚したい!」という夢をもった女性がいたとします。しかし、なぜか「お金持ちと結婚する!」と宣言しているその女性よりも、「そんなことどうでもいい!安らぎがいちばん!」と思っている女性のほうがさっさとお金持ちと結婚してしまうのです。
これはどうしてか?というと、私たちが本当に手に入れたいと願っているのは「夢」の下に隠されている感情なのです。「お金持ちと結婚する」ということは、本当に欲しているもののラッピングにすぎないと考えてください。中には、「限りない安泰」とか「すべてが満たされる感じ」とか「自分に自信がもてる」とか・・・そんな感情がつまっています。ですから、ほんとうの願望はこの「中味」だったわけです。
パッケージを求めても、自分の潜在意識はピンときませんのでそれを引きつけることはできません。底にあるほんとうの願望を丁寧に気づいてあげて、そして自分の「今」の生活の中にできる範囲でその手に入れたいと思っている「感情」を体験させてあげてください。
ささやかなことでかまいません。たとえば、「満たされてる感じ」というのであれば、大好きな友人とおいしいものをたべながら気兼ねなくおしゃべりに興じることを自分に許してあげるとか。自分にエステをプレゼントするとか。とにかく、生活の中にプチ「満たされ感」をつくってあげます。
自分の中でその感情がなじみになってくると、どんどんそれと同質のものが雪だるま式に引き寄せられてきてきます。そして、ついにはラッピングである「お金持ちと結婚」という夢も自然と叶うようになるのです。
日野原先生の目下の楽しみは、小学校に行くことと、小学生と遊園地で遊ぶことだとか。遊園地では、はじめての乗り物にチャレンジすることで達成感を味うそうです。今月は、ディズニーランドなのだと嬉しそうな先生(でも・・・スペースマウンテンはやめられたほうがぁ・・・)。
さて、日野原先生は小学生に質問します。朝起きてから一日の行動をひとつづつ言ってごらん、と。「顔を洗った!」「ごはんを食べた!」「学校行った!」「あそんだ!」・・・。先生いわく、「一日を見るとキミのために使っている時間しかないじゃないか」。そして、キミの時間を使うということは、キミの「いのち」を使うということなんだよ・・・と。
う、う・・・、耳がイタイ。はい・・・私も、きょう自分のためにジムに行きました。自分のためにスタバでホットチョコを飲みました。自分のために、うんぬん、うんぬん・・・。
日野原先生のすばらしいお言葉をシェアしたいと思います。
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いのちとは
いのちとは、あなたが持っている時間
あなたがもっている時間が、あたなのいのち
いのちを使うということは、時間を使うということ
二十四時間、あなたはいのちを使っています
あなたは今までたくせんの時間を使ってきましたが
これからあるたくさんの時間を
誰のために使いますか?
人がお悩みにはまっているとき、当人はもちろんのこと、ハタで見ている者もツライものです。
私も、去年の秋ごろ慢性的な問題にどっぷりつかり、にっちもさっちも身動きができないような時期がありましたっけ。そういうときは、考えだすと過去の癒されていない心の傷がつぎつぎ噴出し、増幅し、はては健康を害するところまでいってしまいます(ああ、究極の体験でありました・・・。今だから笑えますが)。
そのとき、全身で悟りましたね。自分の感情に責任を持つのは自分であると。感情は勝手にやってくるままにするのではなく、自分で選ぶものであると。自分が何を感じたいのかを責任をもって選んで創り出していかなければならないのです。さもないと、自分の感情パターンのくり返しで、過去の心の傷のえじきになってしまいます。ネガティブなエネルギーは雪だるま式に増幅し、そのうち怒りに火がついて、まわりまで汚染しはじめるのです。こうなると何が問題だったかさえわからなくなります(とほほ・・・・経験者は語る)。
幸せと健康の秘訣は、考えても答えが出ないものに関しては、考えることをきっぱりやめること。注意をはずすこと。もともと、「悩む」っていうことじたい答えが出ないから悩むわけで、これはもう自ら積極的に「悩む」ことを放棄するしかありません。そうしないと、途方もないエネルギーと時間と健康を浪費することになります。
問題は解決する時期がくると、おのずと動きはじめるものです。
人生は基本的には楽しむためのものだと思います。「お悩みごとはあってあたりまえ」ぐらいの気持ちで、小さなことでもおもしろおかしく楽しむことですよね。そう、笑って、いろんな体験をして、楽しんでこそ人生!痛〜い体験から骨身にしみて学んだのでありました。
重要な仕事をひかえている友人がしきりに風邪の心配をしています。聞けば、数日前、飛行機でとなりに坐った女性が「咳だ、鼻水だ、クシャミだ」とかなりひどい風邪だったとか。「うつっていませんように、祈って!」
しか〜し、そんなお祈りをしようものなら、もれなく「風邪」を引きよせます。なぜなら、「風邪」そのものに注意が注がれて、それはすみやかに現実になってしまうから。
「で、その女性は今もとなりにいるの?」と私。「ううん、あれは二日前だよ」・・・とっくに、過去になった出来事を、わざわざ頭の中に呼び出して注意を払えば、それは現実として創造されてしまうのです。
このての方を「牛さん」タイプと呼びます。「とっくの昔に終わったネガティブな体験や痛みを、ときどき引っぱりだしてきては味わって、またもやいや〜な気分にどっぷりとひたる」という繰り返し。何度でも楽しめちゃうタイプです。まるで、牛さんが一回食べたものを、何度も何度も反芻していつまでもくちゃくちゃしているように・・・。
そのつら〜い、いやな経験は、今、この瞬間、どこをさがしてもじつは存在していないのです。牛さんタイプの頭の中以外には・・・。そして、自分さえそれを呼び出して、そして何度も「くちゃくちゃ」しない限りは、もう自分には何の影響も及ぼすことはないのですよね。
くちゃくちゃするのは、ガムだけにいたしましょうね(笑)。
最近、カウンセリングをしていて感じるのは、「ほとほと、人は自分の身体になじみきった感覚しか受けつけないな〜」ということです。
どういうことかというと・・・、幼少の頃の生活環境や扱われ方、自分の役割、自分への価値など・・・たとえ、それが気に入っていようがいまいが、幼少の頃のすべてがわたしたちのスタンダードになっていて、知らぬ間にそれと同じ感覚を選ぼうとするのです。
なので、幼少の頃あまり豊かでなかった場合、大人になって物事がスムーズにいったり、豊かさがどんどん入ってくると、とたんに居心地が悪く不安になります。「こんな状況はおかしい」「いいことばかりが起ったら、あとが大変かも・・・」「きっと長くはつづかない・・・」、案の定、そのとおりになります。だって、そう決めているのですから(世界はあなたの意識の反映です)。
あるいは、両親が忙しくていつも孤独を感じながら育つと、つねに自分とともにいてくれる相手を探し求めます。でもいざ、理想の相手が現れると急に逃げ腰になるのです。「こんな素敵な人が自分を愛してくれるはずがない・・・」「こんなにうまくいくはずがない・・・」。はい、やっぱりこれも遅かれ早かれ行き詰まり、破綻します。
ほんとうに、人は自分がずっと夢見ていたものがようやくやってきたとき、無意識でぶちこわしにかかるのです。だって、潜在意識は言うのです。「それはあなたが知らない感覚だよ。だめだ!あぶない!離れなさい。知ってるところにもどりなさい!」そして、なじみきった古巣へと戻って、文句をいいつつもどこかどっぷりと安心感を感じています。
もちろんご本人は壊しているなんて思ってもみないのですが、無意識に自分のとる行動、言動がすべて裏目にでて、結果すべての欲しかったものを自分から追いやるこことなってしまうのですね。そして、「ああ、やっぱり手に入らない・・・」と落胆するのです。
じゃあ、どうしましょう??ステップアップするにはどうしたらいいのでしょう?
(次回につづく・・・(^^)v )
ほしいものを後ろ足ですべて蹴り飛ばしてしまうあなた・・・では、どういたしましょ・・・?
すべてをけちらすというこの行為は、「知っているもの」だけを受け入れて安全を確保するという「自己防衛」からきているわけです。しかし、もともとのプログラミングがまちがっているので、完全に誤動作しているんですよね。「自己防衛」どころか、「自己攻撃」!
この「安全装置」を解除するには、自分の「知らなかった感覚」を「なじみの感覚」に変えていかなければなりません。
「知らないこと」をどうやってなじみにするのか?・・・これは、自分で自分に教育を施してあげなければなりません。人からそれを与えてもらおうとする前に、自分で自分にプレゼントしてあげるのです。
たとえば豊かさになじみがない場合、急に億万長者になったとしても「安全装置」が許すはずがありません。「億万長者」のスリル感、わくわく感、可能性に免疫がありませんから。でも、いつも自分に対して心から満足できて楽しい感覚を与えてあげる習慣をつけてあげて「わくわく」感が免疫化していると、それがどのような形であらわれようとすんなりと受け入れられるようになるのです。
たとえばこんなふうにやります。毎日、たったひとつでいいので、自分自身に対して心から満足できて幸せを感じる豊かな瞬間をプレゼントしてあげます。それは、仕事のあとにお気に入りのカフェで飲むカプチーノの一杯であるかもしれません。わずらわしいことは忘れて、心から楽しんでみてください。あるいは、夜、バスタブに入れる香りのいい入浴剤をいつもよりふんぱつして時間をかけて入浴することかもしれません。好きなDVDを借りてきたり、ダイエットを忘れてスウィーツを食べたり・・・・ほんのささいなことで心が満足する時間を毎日の自分の習慣にしてあげます。
すると、あら不思議、「知らない感覚」がどんどん「おなじみの感覚」へと変わっています。「ああ、いつもわくわくしていていいんだ!」って。あとは、やってくるものの大小にかかわらず、心地よく受け取ることができるようになるのです。
「教え込む」ことほど大切なことはありません。知らなかったら、教えてあげましょう。豊かさにしろ、愛情にしろ、自分が欲しいものがあるとき、外側にそれをもとめるよりも先に、自分でそれを自分に教えてあげてください。
理想のもの、まるごとでなくていいのです。そのエッセンスで十分。理想のパートナーだったら、そこで感じたい「安らぎ」というものをあの手この手で自分にたっぷり与えてあげましょう。
「なにがなんでも欲しい!」と言う感じがうすらいで力が抜けたときこそ、かんたんに手に入ってしまうようです。
あなたの一日の時間の使い方、何にどのぐらいの時間をさいているのでしょう?
「えっと・・・仕事が8時間でしょ。通勤が2時間、食事に入浴、雑用もあって、あと睡眠!」
いえいえ、わたしが聞いているのは「行動」ではなくって、「心」の時間割のこと。一日の生活の中での、あなたの「心」の行方についてなのです。
「心がどこに行ってるかなんて、気にしたことがない?」・・・じゃあ、ためしに5分タイマーをセットしてみてください。・・・・さてこの5分の間、あなたは何を考えていたのでしょう?どんな気持ちでしたか?
たった5分といえども、わたしたちの心はあっちにふらふら、こっちにふらふら。一日観察していたら、とどまることを知りません。心理学ではこんな心の状態を「酔っぱらいのサル」と呼んでいますが、まったくひとところにおちつく気配がありません。
でも、「心」はわたしたちにとって、「ものごとを創り出すエネルギー」そのもの。長い時間、何回も心にとめたものが、現実となって現れてくるのです。だから、心が「どこにいっているのか」という行き先が、わたしたちの次の瞬間、そして将来をかたち創ってゆくことになるわけです。とくに、Negative方面に転落するのか、Positive方面に上昇するのかは、心の状態によって左右されるのです。
では、日常、何を考え、どう感じる習慣をもっているのでしょう?毎朝、出勤するまでの時間、何を考えていますか?仕事中は?ランチタイムは?仕事が終わったあとは?そして就寝前はどうでしょう?
「そうね〜。きょう考えたことは・・・朝起きて、だるい〜、かったる〜い、会社では、上司うざい〜、終業後は疲れた〜、眠る前は明日も仕事〜?」
おやおや、これはキケンな状態です。
わたしたちの注意がたくさん向けば向くほど、同じことを考えれば考えるほど、そのモノゴトを即、現実化し強化しちゃいます。だから、一日グチっていると、さらに数倍グチらなくちゃならない状況を創りまくってしまうわけです。ってことは、さらなるだるくて、かったるくて、うざくて、疲れる、仕事ばかりの将来に身をさらす可能性が高いということです。毎日、日課のように考えれば、もれなく現実化されることでしょう。(次回につづく・・・(^^)v )
身体の調子とかお金のこと、そして一日のスケジュールにはいろいろと心をくだくわたしたち。でも、ハッピーに豊かに暮らすには、じつは自分の「心の行方」についてもうちょっと注意深く管理しておく必要がありそうです。なんせ、心があなたの人生の舵をとっているわけですから。
細かなことはいりません。ただ、自分が今「いや〜な気分を感じているのか」それとも、「心楽しく感じているのか」にもっと敏感になることです。今の気分こそが、将来の自分の人生をうつしだしているのですから。
いつもイヤな感じを感じがちなあなたは、もしかすると自分の心の声をちゃんと聞いてあげていないのかもしれません。人が嫌がることには敏感に反応するのに、自分が嫌がることには構っちゃいません。・・・というか、「自分がこういうふうに感じるのは人のせいだから、自分ではどうしようもない」と決めて、自分の気持ちを無視する習慣がついているのかもしれません。しかし、あなたに「そういうふうに感じさせている」原因はあなたにあるのです。他人は、あなたがどういうふうに感じるかなんてコントロールすることはできません。あなたが決めたように、感じたいように、ただ感じているだけなのです。「あなたの心」は、あなたに管理責任があるのです。
他人の気持ちを思いやるように、いえ、それ以上に自分の心の声に耳を傾けて尊重してあげてみてください。あなたを不愉快にするもの、不幸にするものにはしっかり距離をおくようにしてあげること。
あなたにふさわしい未来をつくりだすためには、「今」、この瞬間のあなたにやさしく、心地よい環境をつくってあげることなのです。この瞬間の自分自身をなぐさめ、いたわり、愛し、自分が心地よく感じる時間をふやしてあげることなのです。
あなたが自分自身を誰よりも大切に扱って、その気持ちを尊重して、いつも気持ちよくしていられるように心を配ってあげること。そうやって自分をいちばん大切な人として扱うことによって、その気持ちにふさわしい未来を引きよせることができるようになります。自分を大切にすることは、この大切な自分には幸せな未来がふさわしいと自ら認めてあげることなのです。自分をとりわけ大切にすることによって手に入る心の平和と安らぎが、次ぎの瞬間への平和と安らぎにつながってゆくのです。
さて、私自身の心に聞いてみました・・・最近どう?・・・「毎日むし暑くって、お疲れ気味!」じゃあ、本日はすゞやかなパジャマでとびっきり早寝することにいたしましょう♪
とけちゃいそうに暑いですね〜。こうなったらもっと暑くなってしまえ!とジムでさらに汗だくです。
更衣室にて、ひとりの嘆くオバサマ発見。「あきれちゃうわよね〜!まったく、近頃の人ってさぁ。どうなっちゃってるのよ、いったい・・・&※#%」・・・・かなりご立腹のご様子。
何かと思えば、部屋のすみのコンセントに携帯の充電器がつながっている。どなたかがコンセントを無断使用していることにたいして、怒り心頭のご様子です。
数日後、またジムに行くと、例のオバサマが嘆いていらっしゃる。「シャワールームからお掃除の男の人が出てきたのよ〜。まったく、信じられない。あきれちゃうわ!」
「あきれちゃう」・・・このセリフ前回もきいたな〜、と私。
世の中、たしかに「あきれちゃう」ことは多々ありますが、「この世の中はあきれちゃうことばっかりだ!」といつもうんざりしている人は、この世のありとあらゆる種類の「あきれちゃう」を総動員させて自分のもとに強烈に引寄せちゃうのですよね。で、さらにそれをみて「あきれちゃうわ〜」と思うと、いよいよ倍増。どんどんあきれちゃって、「あきれちゃう」人生まっしぐら!その人にとっては、まぎれもなく「世の中」=「あきれちゃう」になってしまうのです。・・・そうです。いつだって人生は自分の心の反映、心の中にあるものをつぶさに見せてくれる。
と・・・ここまで書いてハタと気づきました。「あきれちゃう!」と嘆く人を毎回目撃しちゃう私って・・・・。ああ、わたしこそ、「人生、あきれちゃう!」って思っている張本人だった?・・・かも(笑)。はい・・・消します。この信念。 (--;)
わりとクルクルよく動き回るほうだと思っていたのですが、なんだか「やらなくっちゃ」とか「やってもいいのにやらない」ということが日々たまってストレスを感じているこの頃です。
たとえば、図書館に頼んでおいた本。すごく読みたくて頼んだのになかなかとりに行かない・・・とか(図書館なんて、ものの3分なのにね)、友人がプレゼントしてくれたアロマボディトリートメントのチケット。「わ〜い!楽しみ〜」と大騒ぎしたわりには、何ヶ月もそのままになっているとか・・・(いつも、「行ってきた〜?」ときかれるのですが・・・)、それから「あれ買わなくちゃ、これ買わなくちゃ」という日常の何気ない買い物ものばしのばし・・・・。もう、挙げだしたらきりがない。これって、たんにモノグサ?
う〜〜ん、以前はそうでもなかったのですが、ここのところとみに動かないデス。で、なんでこんなことになっているのか自分のなかの行動プログラミングである信念をさぐってみることにしました。わたしたちは、「すること」も「しないこと」も「どちらでもないこと」も、ある考えにそってそうしているのです。表面的には気がつかなくても。自分の中で何を信じているかによって行動を起こしているのですね。だから、クセや悪癖や、こんなモノグサにもちゃんと理由があるはずです。そして、それはたいてい「何かを避けるため」か「何かを経験するため」にそうしているのです。
な〜〜るほど!何を「避けたいのか?」はたまた「何を経験したい」のか。自分の信念をほりさげてみました。すると・・・「そんなに毎日いろんなこと片付けたら、あっというまにゲームオーバーになっちゃうよ」ですと。つまり、「すべてのことは有限だから、たくさん経験しちゃったらなくなって人生終わり、つまりこの世を去らなくっちゃいけなくなっちゃう。だから、なんでもゆ〜っくりとっておこうよ〜!きょうはとにかく何もしないほうがいい!安全!」
我ながらしみったれた信念だと笑えました。だって、読みたい本を一冊読んだり、アロマトリートメントに行くだけで、人生終わっちゃうの???(笑)
もちろん、この「すべては限られてる!」信念、消去いたしました。そして、「豊かさに限りがない」信念におきかえましたよ。どうやら、幼い頃お小遣いやおやつをもらうときに、「これだけよ!」というセリフが強固にすりこまれてしまったのかもしれませんね〜!
さて、九月は新しい信念を携えて三倍速で活動いたします。では、これから図書館!あしたはアロマボディトリートメントに行っちゃうぞ! きゃ〜〜♪たのし♪
「私もPちゃんみたいな大恋愛がしたいよ〜!」と友人。
Pちゃんとは、現在熱愛ロマンスまっただなかで、寝ても覚めても愛する彼のことばかり。彼がどうしたの、こうしたの、彼なしじゃ生きて行けないの、典型的な熱病型恋愛。そのエキサイトぶりを見て友人は、「そこまで好きになれる人がいるなんて、うらやましい」と。
「うらやましい?ほんまですかい?」と私。冷めてます(笑)。
だって、口をひらけば彼しかない。「週末、会いたかったのに仕事だって〜(泣)」とか「わたしがこんなに好きなのに〜!彼ときたら・・・(泣)」とか、当の本人はけっこうキツそうですぜ。いつもボロボロ。
はて?「大恋愛」って、ほんとに幸せな愛の形なのでしょうか?
「大恋愛」を他の言葉に置きかえると「執着」と「コンプレックス」のかたまりともいえるものなのです(なんか、こういっちゃおしまいって感じですが・・・)。そして、客観的にみるとひどくバランスを崩した状態(これは、あくまでも「大」がつく重度の恋愛に関しての話ですが)。こんなこと書くと、ぜんぜんロマンチックじゃない!と怒られそうです。
そもそも、なぜそこまで我を忘れてのめりこむのか?
「のめりこみ」には、自分の中の欠乏感が関係しています。自分の中に「足りない」「穴があいた」部分、つまりコンプレックスがあって、長年これさえどうにかなればもっと幸せになれるのに・・・と胸をいためてきた部分。そんな痛いところをまんまとクリアして、そんなコンプレックスとは無縁に生きている人。足りない部分を気持ちよく満たしてくれるようにみえる人。これこそが理想のヒトの正体。
その人と近くなればなるほど、自分がいきなりOKになったように感じるから心地よいのです。その人といると、足りなかったところが全部癒されちゃったみたいで、パワー全開!!でも・・・、その人がいなくなると、また穴があいちゃう。相手の魅力でカバーされたように感じているだけで、じつは自分自身は何ら変わっていないのですよね。相手の中のものは、あくまでも相手のものであって決して自分のものではないのです。王子さまがいなくなったら、崩壊。たちまちカボチャの馬車に逆戻り。だから、逃すまいと、そりゃ〜必死。執着度はすごいことに。
でも、恋愛だって何だってすべては宇宙からのプレゼント。こんなボロボロになりそうな関係だって上手につきあえば自分を変革させて本当に穴やコンプレックスとさよならできるハズ。その秘訣は・・・ (次回に続く♪ )
10/4日の「気づきの日記」の続きです。(インターバルをおいたら、自分でも何を書いてたか忘れてしまいました!笑)
そうそう、「大恋愛」についての話でしたっけ。
相手のイヤな部分でも、スキな部分でもそうなのですが、ようは相手に見えるものは自分のものなのです。自分の中になかったら触覚にひっかからないので、「好き」でも「嫌い」でもなくどうでもよくなります。
でも、今までの話では「無いからこそ、持ってる相手を好きになるんじゃ???」 ・・・・それもそうなんです。
じつは、自分の中にその部分は持っているけど、でもどこか奥ふか〜くにうもれてしまって忘れさってしまった自分の一部。自分が見失ったり否定したそんな自分を相手の中に見つけて憧れる・・・ようは、自分で自分に恋してるようなものです。
でもここで、「A男さん、なんてステキ。あんな人が私なんかとつきあってくれるなんて!」という相手を礼讃しはじめるとコワイことになります。相手はすばらしいから、私はダメ。だから嫌われないように努力する。いつもつま先立った状態で背伸びして、もとに戻せなくなります。そして、相手は素敵だけど、わたしは違う・・・という思いから、どんどん自分の価値をなくしてゆくのです。だから、熱病型恋愛はひとつまちがうと地獄絵巻となります。自分の魅力を取り戻すどころか、相手にパワーを与えて自分はもぬけのカラ。自分は小さなものになり下がってゆきます。相手なしでは自分の価値さえ感じられなくなって、ついにはゴースト人間になってしまいます。
・・・・・ほんとは、相手に見えているのはまぎれもなくホントの自分であるのに。
だから、相手に魅力を見つけた段階で、「こんな素敵なものが見えちゃったってことは、わたしの中にも同じ魅力がうもれてるってわけ??」と気がつくことがポイント。ここは鏡の世界。相手に見えるものはすべて自分のもの。自分が忘れてた、気づかなかった魅力が今まさに復活しようとしている兆候なのです。
相手のいいところを愛でつつも、そんな相手を好きになった自分を大事に大事にしてあげること。あくまでも、その恋愛の中で、自分をVIP扱いにしてあげることです。彼のことは大好きだけど、その関係の中で自分はどう感じているのか。心地よいのか、ムリをしているのか、必死なのか。そして、いつも相手にあわせてムリをしているようだったら、勇気をもって自分が心地よくなる提案をしてゆくことが大切です。相手だって、あなたが自分を大切にしていたら、もっと魅力を感じるようになるのです。
この人生の中で、自分を最高に大切に扱ってあげなかったらいったい誰がそうしてくれるのでしょう。DV(家庭内暴力)にしても、校内暴力にしても、イジメにしても、もし自分が人から大切に扱われないと不満があるようでしたら、まず自分が自分の気持ちを無視していないか、自分をないがしろにしていないかをチェックしてみてください。
いい恋愛をしたかったら、まず自分で自分を最高に可愛がることです。そうすると宇宙は、「ふむ、この子は自分はこんなに素敵だといっている。よし、とっておきの男性でないとダメなようだじゃな」ということになります。
なんにしても「大好き」「大嫌い」・・・「大」のつくものはあんまり健全ではありません。それよりも、真ん中「中庸」がいいのです。(すでにバアチャンじみた発言ですね・笑)、
大恋愛が「執着」や「コンプレックス」だなんてガッカリでした?でも、自分の中の未知の魅力が引き出されて、相手への執着がうすれたあたりから、本当のパートナーシップが築けるかどうか、二人の関係がホンモノに値するかどうかが確かめられるときがやってくるのです。そこからですよ〜〜、ホントの恋愛は!
以前、掲示板の書き込み(#701)で、天使の風さんから「おひとよし」についての考察を依頼されておりました。かなり遅ればせながらですが(汗)、分析させていただきま〜す。
「お人好し」と「親切」あるいは「めんどうみがいい」というのは似て非なるものです。「おひとよし」というと、自分を犠牲にしたり、いいように使われてしまうというようなちょっと負のイメージ。実際、ほんとうに「いいように」使われちゃっているのでしょうか?「おひとよし」の正体とは?
「おひとよし」には、二つのタイプがあると思います。
たとえば、悪口や陰口をいわれても心底反応しない、というか好意的にしかとらえられない人。「あの人がこんなこと言ってたよ」といっても、「そうなんだ〜♪そういうとこもあるかもね〜」とにこにこどこ吹く風。ほんとうに気にしていないし、どこかノーテンキなのです。
このタイプは、自分の外側に存在するものに対しての信頼があるので、争わず、戦わず、風になびく葦のように、ものごとを愛でています。そして、自分が苦しくなる余計な信念はかかえないのです。そして、何も失うものはない、とわかっているので怖れがありません。存在していることで、どこか自然に人を癒してしまう天然「おひとよし」さん。
さてもう一方は、「人からよく見られるために」「あるいはいイイ人だと思われたいため」に「おひとよし」を装います。これは、心底の「おひとよし」というよりは、「見返り」を期待してやっているもの。一見いいなりになることで、ちゃっかり欲しいものを手にしようという隠れた意図あり!いいなりになることで、優位な立場に立とうとするのですね。しかし、周囲の人々は潜在意識下でその策略に気づいています。「おひとよしね〜」というニュアンスの中には、「あざとい」とか「ぶりっこ」とか「ちゃっかり」という批判や皮肉がこもっている場合もあります。
このタイプは、誰の心の中にもある負の感情をよびさますします。まわりで見ている人は、自分の中の同じイヤな部分を白昼にさらされるようで不快感をおぼえることも。
なので、天然の「おひとよし」さんはおおいに結構!でも、もしなんらかの意図(自分を守るとか、手に入れるとか、他人をコントロールする)でやっているとしたら、結局それは自分を傷つけることになってしまいます。なぜなら、「自分はガマンをしないと欲しいものが手に入らない存在だ」と決めてしまうことになるから。それに、せっかく「おひとよし」をやっても思うような見返りがなかったら、いつか大きな怒りと恨みにかわり豹変・大爆発するおそれも・・・おおコワ。
自然体がいちばん!
クライアントさんとのやりとりの中で、あるいは自分の心の中のつぶやきに耳をかたむけて・・・つくづく思うのですが、どうして人は「自分を幸せにしない考え」に固執するのでしょう?
「あの人ったらヒドすぎる」「なんで私ばっかり」「どうせ私なんて」・・・自分をみじめにさせ、イライラさせ、未来もない絶望的な気分にさせる考え方・・・それをいつまでも手放そうとしません。たいてい、みなさんこうおっしゃいます。「だって、それは今私がそう感じているんだから、まぎれもなくホントのことでしょ!」と。
「感じている」からホントのことなのか・・・?
「感じ」ってそんなに普遍的な真実なのでしょうか?そのわりには、その日の天気や、寝起きや、他人の言葉でころころ変わるような・・・。
「感じてるからホントなの?あんがい違うかもよ〜」とわたし。
その場面で、そう感じなきゃいけないルールなんてないんですもの。同じシチュエーションで十人の人に気分を聞いたら、たぶんみんな違うはず。
「気にもとめない」人もいれば、「一生の大事!」とあたふたする人もいたり・・・。ということは、そのものごとよりも、その人の「経験」から生み出される「考え方」が人を苦しめたり楽しませたりしている正体ということです。
そして、たいていネガティブな感情の裏には「たくらみ」があります。腹をたてることによって、まんまと被害者になりすまし相手に罪悪感をおしつける。「ひっひっひっ。あなたってじつは、こ〜なにヒドイ人だったのよ〜。知ってた〜?」と相手を無言で脅迫。あるいは、落ちこんで無力な自分を装うことによって、優しい誰かさんをまんまとコントロール・・・。こんなたくらみの上によい人間関係がきずけるはずもありません。
「ある感情」を感じたとき、ちょっと考えてみてください。
「この感情は、私をハッピーにしてくれてる?」
もし、そうじゃないとしたら、じゃあ何でやっているんだろう?ほんとうは、どんな感情で自分の人生を満たしたいのだろう?と。
(次回に続く)。
どうしても、「あいつが悪い!」「私は被害者だ」といいたいときは・・・・、結局戦いのゲームが好きなだけ。誰かを悪者にして、じつはコッソリみずからの劣等感のうめあわせをしているのです。
ネガティブな感情を感じるとき、そう感じたいならどうぞぞんぶんに感じてみましょう!脇にどけて無きものにしたとしても、決してなくなりません。でも、感じるときは、いさぎよく5分だけね。しっかり向きあって感じていると、あんがい数分で跡かたもなく消えてしまったりします。そして、必ずしもそう感じる必要がないことを自分に教えてあげてください。
幸せって、こんなちいさな感情のコントロールから手に入るもののようです。
真綿で首をしめるようにあなたを苦しめる「真実の感情」のフリをした「エゴのささやき」にご用心。そんな真綿は拒絶して、堂々と幸せの王道となる考え、感じ方を自分で選ぶこと。いらない感情は無視してやりすごし、感じたい感情のために自分にとって健全な考えを選びましょ♪そう!「選べる」んです。でも、「今、カッカと感じている自分の感情から離れるのはむずかしい」と感じるかもしれません。
そんなときには、「幽体離脱モード」を使ってみましょう。
つまり、自分をいきなり「彼」とか「彼女」とか「それ」にしちゃって、ちょっと身体の外から感じてみます。「なるほど〜。彼女は今、怒っているんだな。大切にされていないと感じているんだな」というように。
ちょっと外に出て自分をながめてみると、自分の怒りや落ち込みの理由が見えてきたりします。怒っている裏側には、じつは自信のなさがある・・・とか、落ち込んでいる裏側には無力感があるなど。
そうすると、自分の外にあるものに腹を立てていたのが、実は「自分で自分が限りなくふがいない」と信じてあたりちらしていたことに気がつきます。そんな気持ちを見つけたら、自分自身が愛してあげてください。「ああ、そんなふうに感じてたんだね。そっか〜そっか〜。こわかったんだね」と。
べつに何かすごいアドバイスをしてあげる必要はありません。ただ、「うん、うん」と耳を傾けて、理解してあげれば十分。
なぜなら、外側にあたりちらして被害者になりたいときには、じつは自分で自分のことを好きになってあげてないときだからです。外に見える不快なものは、すべて自分の映し絵。自分の影帽子。自分で自分を足蹴にして、切り刻もうとしてるわけです。
こんな自分の弱さ、ふがいなさをちゃんと見て、気にとめて、受け入れてあげる。そんなプロセスの中で、小さいころの癒されていない感情の数々に気づくことになるかもしれません。ただ気づいて、受け入れることによって、外側の世界は少しづつ平和になってゆくのが感じられることでしょう。
「ぜったい幸せにするから僕と結婚してくれ」
・・・・よくあるプロポーズの言葉。
いっけん、ウルワシ〜ク響きます。女性にしてみれば言われてみたいセリフかもしれません。
が・・・「ええっ!!そんなこと言っちゃっていいの?」というのがわたしの正直な感想。こんなプロポーズするから離婚率が高くなるってものです。それに、ダンナさん、ご自分の首を限りなくしめることになりますぜ・・・。
だって、こう言われた奥さんは、ちょっとでも幸せ感が薄くなったとたんに、「ちょっと、ちょっと、アンタの努力がたりないせいでワタシちっとも幸せじゃないわよ。あの約束はどうしたの?」とダンナさんを責めはじめます。
すると、だんなさんはアセって、「じゃ、じゃあ、これならどうだ!」と甘やかし、「ぜんぜん、たんな〜〜〜い!」とダンナさんにさらに要求(人の欲望は限りなし)、「ほんじゃ、こ〜したらどうじゃ?」と頑張れば、「まったく的をえていない」と奥さんの怒りが爆発し・・・さらなる悪循環へ突入。で、奥さんのくちぐせときたら「あなたと結婚したばかりに・・・云々」。ダンナさんは自信も魅力も失い、たんなるダメおやじと化してゆきます。そして、奥さんはさらに見捨てる・・・。
こういう奥様は、誰と結婚しても結局は幸せじゃないのがわかってないのですよね。
人が幸せに感じるか感じないかは「誰かに何をされたか、されないか」とう問題ではない・・・ということになかなか気づけません。
ダンナさんが外側から幸せ感を押しつけてたとしても、一瞬は「あ〜幸せ♪」って感謝されるかもしれませんか、その努力はあっというまに底なし沼に吸い込まれ、あらたに拡大した要求となってダンナさんに襲いかかることになるでしょう。
(次回につづく)
「君を幸せにできるのは僕しかいない」
このセリフ、「あなたの幸せの責任は僕がとります」と断言してるようなもの。いいんですか〜?そんなこと言っちゃって?
幸せか幸せじゃないかって、「個人」の心が選ぶもの。早く言ってしまえば、人が最悪って思う環境でも「幸せ〜♪」と満喫してしまう人もいるし、こんな申し分ない環境だったらさぞ幸せであろうという人でも、「わたしほど不幸モノはいない」とおもってる人もあり。「個人」の心のバランスなわけです。そのバランスは他人には変えることはできないのです。
だから、「ぜんぜん幸せになれない!」と、ダンナさんを何回とりかえてもモトノモクアミ。その奥さんが自分のものの見方と共存している限り何も変わらないのです。自分が問題のみなもとだから。
それを他人が満たしてあげることができると誤解すればするほど、乾きを増長させるというメカニズム。奥さんの心の中の「幸せを感じるセンサー」は故障しているので、ちょっとでも献身的に与えてくれる人を見つけると、この人さえもっとたくさん与えてくれれば問題は解決すると思ってしまい、いよいよ吸血鬼化してしまいます。
結局、どんな問題でも外側から何かを与えたり加えたりして癒すことはできないのですね。なぜなら、どんな問題も外側には存在せずに、そのひと個人のものだから。「幸せにしてくれ!」といっくら外側に向かって叫んでも何をどうすることもできません。
結局はすべては自分。視点をぐるりと180°転換させて自分に向けること。他人に期待するのはやめて、自分の心と正直に向き合って、心の声をきいて、何が自分にとって心地よいのか、そのために自分がどうすればいいのかをちゃんと聞いてあげなくてはならないのです。自分に与えられるのは自分しかいないのですね。
セラピーでのひとこま。
クライアントさんがご自分の問題を話されます。
よ〜くお話をうかがったうえで、違った角度からのものの見方を提案させていただくことがあります。「こんなふうに考えることもできますよね〜?」と。
そんなとき、「そうそう、そうなんです。それはもう知っています」とか「それは聞いたことがありますから」と、どんな考えもアドバイスも立て板に水のごとく、ソク右から左へと却下されることがあります。
そんなとき、ちょっともったいないな〜と思います。
なぜなら、知識で知っているかどうかをお尋ねしているわけではないからです。「頭でその知識を知っていること」と、それを「人生に受け入れる」「それを生きてみる」ということはまったく別なことなのです。
たしかに、どこか本で読み知った知識かもしれません。でも、知識はあくまでも知識。「頭のレベル」です。
わたしたちをつき動かし、人生を操作しているのは、「心のレベル」「潜在意識のレベル」です。頭のレベルに山のように知識をつんでも、行動はなかなか変えられません。
頭でさんざん知っていることだからこそ、本当に変わろうとするときは、それをもう一度受け入れて、どういうことなのかじっくり感じて、味わって、そして潜在意識に落ちるまで気長につきあってあげなければならないのです。ほんとうに心を開いて、自分に迎えいれてあげることなのです。
たとえば、自己啓発本などで「よ〜〜し!元気をもらったぞ!」というとき。直後はまるで人生が変わったように生き生きするのですが、一週間もするとあの感動パワーはどこへやら。なにひとつ変わっていない・・・。読書という頭脳レベルの刷り込みは、日常生活の刺激によってすぐにかき消されてしまいます。
そうならないためには、「知っている」「わかった」というレベルから、「もう、聞くのもイヤ」という「うんざりレベル」までもっていかなければなりません。
たとえば、この本の考え方はすばらしい!と思ったら、今日から三ヶ月間は寝る前に同じ本を読み続けるとか。感動したセンテンスを書き出して、毎日目を通すとか。とにかく、(頭で)「わかったぞ!」のレベルを超越して「いいかげんにしてくれ〜!うんざりだ」というところまでいかなくてはなりません。「うんざり」すると、その考え方と自分がひとつになって、あらたな自分の考え方のスタンダードとして確立します。潜在意識に落とし込むことができるのです。
今はなんでもスピードの時代。「はい、わかった!次ぎ!」といいたいところです。が、是非自分があらたに持ちたい考え方、生き方があったら、「わかった」段階から「もう、うんざり」までしつこく取り組んでみてください。ここまでくると知らぬ間に、ものの見方が変わっています。
しつこ〜いコテコテ読書は魂を育ててくれますよ。
自分がある経験に直面することによって、はじめて自分の本心、望みが見えてくることがあります。
どういうことかというと・・・、
信じていることがわたしたちの現実を創りだすという考え方から、「その人が経験していることを見れば、その人が何を本当に信じているかがわかる」といいます。
つまり、私たちの経験は自分が「何を信じているか」にもとづいて創りあげられるわけなので、結果としての経験をつぶさにながめることによって、自分の深いところにある潜在意識下の本当の思いを知ることになるのです。
人との関係がダメになるとき、潜在意識下では「もうこの関係は十分だわ」「終わりにした方がいい」ということを「お互い」(これは片方ではないのですね)がわかっていて、それが表面化されついには別れにいたるものです。でも、表面の意識、つまり理性ではそのことが理解できずパニックに陥ったり、被害者になったり・・・・。でも、こうして見ると、両者同時にあきらめに達しているので、被害者は存在しません。
また、何か目ざすものがなかなか手に入らないような場合も、たんにたくさんのモノを持ちたがるエゴ(表面意識)がそれをほしがっているだけで、じつは深いところにある自分の目的にはそぐわないのです。つまり、深い部分では望んでいない。手に入らなくて当然なのですね。
だから、目の前の結果が好きでなくても、でもじつは重要な軌道修正だったり、真実の自分に気づかせてくれるチャンスだったりします。
でも、興味本位のエゴはいぜん「そっちに進みたい〜!」と抵抗を続けることもありますが・・・。 (^。^;)
「なるほど〜、これがわたしが欲しかったものかぁ」と完璧に自分が創りだした結果として味わうとき、また次ぎの選択、つまりあらたに何が欲しいか意識的に選びなおすことができ、次ぎなる展開もやってくるのでしょう。むむ・・・。
昔から、「くじ引き」「抽選」「じゃんけん」のたぐいは、妙に自信があります!得意です。
だいたい「歳末抽選会」のようなものは家族代表として引かされていたし、実際それなりの実績もあげておりました。
「くじ引き」だったら、すくなくとも二〜四等はあたりまえ、ときには一等も!
生涯二度だけ買った「宝くじ」は、六千円と三万円の当たり。かなりささやかですが、いちおう当たりだわ!(^-^;
ハガキで行われる「抽選」ものは、当たりの常連。だから、ぬいぐるみやら、ブランドものの食器やら、雑誌の無料購読やら、戦利品は数えきれません。
「じゃんけん」も、イケます!その昔、「ランチただメシ」を賭けてよくじゃんけんをしましたっけ。もちろん圧勝。でも、わたししか勝たないからつまらな〜い・・・と文句jを言われましたよ〜。
でも、英会話のグループレッスンに通っていた頃は、じゃんけん圧勝がわざわいに。いつも「じゃんけん」でそのチャプターのサマライズ(要約)をする人を決めていたのですが、それもなんなく連勝。勝って「まぬがれた!」と喜んでいると、外人の先生に「勝ちとった君ができるんだ!おめでとう」と言われ、毎度四苦八苦でサマリーをしてました。
ある人は、「運には限りがあるから、そんなことで使い切ったらつまらない」などとおっしゃいます。なるほど〜。そう思っているその方には、使いきった運は支給されはしないでしょうね〜。
こういう「当たり」ものの場合、生計や生存がかかっていないので「当たらなかったらどうしよ〜」とか「お願いだから、当たってくれ〜!」という怖れや執着がないので、一回「当たるぞ!」とインプットしてしまうと、そのプログラミングはまったく邪魔されずに繰り返されるようです。
わたしの場合は「当たりグセがつけばつくほど、もっと当たる!」と信じているので、どんどんパワーアップ。信じれば信じるほど、加速してゆきます。
そして、「運」に限りがあるほど、神さまはケチではありません。むしろ、いっぱい受けとってほしいのです。プレゼントしたいのです。(^-^)v
だから、「いっぱい受けとるぞ!」と軽く決めてしまいましょう♪
すると、ほらお届けものがひとつ・・・。
「ウェスティンホテル東京」のお食事券一万円分!!けど・・・・、いったいこれいつ応募したかしらん・・・??(笑)
コンタクトレンズをリニューアルいたしました。
メニコンメルスプランのメンバーになっているので、年に一回は新調の機会がやってきます。しかし、こまごま視力を測定したり、眼科にかかったりが面倒で一年たち二年になり・・・。ようやく重い腰をあげました。
足が遠のいているあいだに新しい製品ラインが開発され、さらに薄く、さらに小さく、さらにクリアに。そして、微妙に変化している視力にもあわせてもらい、視界がくっきりさわやか。心持ちも変わろうというものです。単純。 (^。^;)
でも、わたしたちはふだん「心の目」で世界を見ているので、実際の視力の矯正よりもじつは「心の目」の矯正のほうが大切。実際の目は外側で起ったことを映すだけですが、それをどのように解釈し、どのように自分の経験とし、どのように自分の成長の糧とするかは心の目が判断すること。
心の目が近視になっていると問題に固執してどんどん狭い視野にはまりこんでゆきます。だから、ドツボにはまったように困った状況から抜け出せなくなります。問題の解決は、問題よりも大きくならないとできないのですよね。
あるいは、心の目が乱視になっていたら、自分に向けられるたくさんの優しさや愛情があったとしても、それを歪曲してしか体験できないかもしれません。。
だから、心の目の視力も計れたらいいのにな〜と思います。
「今、ちょっと心の目の視力がおちていますね〜。お疲れのようですから、おいしいものを食べてたくさん寝ましょう」とか、「心の目が乱視ぎみですよ。ラクになる新しいものの見方、考え方を処方しておきましょう」なんてね。
心の目が健康で澄んでいると、同じ世界に住んでいても見える景色が違ってきます。
ふだん感じてる世界よりも、より平和で愛にあふれて、そして思いやりのある、そんな世界を体験できるでしょう。
「心の目」の視力こそ、幸せを感じるキーポイント。
「オフィス・るん」では心の視力測定でもはじめましょうかね〜。
いつもいろんなことに対して「あ〜でもない、こ〜でもない」と思い悩んでいる友人がいます。
見ているとなにやら大変そう・・・でも、話を聞いてみるとそんなにさし迫った状況にあるわけでもないのです。たぶん、これが彼女のふつ〜の状態。「あ〜だ、こ〜だ」しているのがノーマルで習慣になっているようです。そんなこと言ったら怒られそうです。「真剣に悩んでいるのよ!」と。(でも、こころの状態って習慣になっているのでご注意を。怒っている人はいつも怒っているし、心配している人はいつも心配している。それが自然らしいのです。)
私は彼女の目の前に座って、「きゃ〜!このブルーベリータルトおいしい〜!食べてごらん」とノーテンキ。
もちろん、わたしもときには落ち込み、友人にお助けコールをしたりすることもあります。でも、基本的にはお気楽人間です。
だって、わたしたちは五感で人生を感じて楽しむために、この身体をもってこの世にやってきているのです。それなのに、五感で人生を感じることもなく、頭の中にばかりとじこもっていたらもったいない!頭の外に出なくちゃ。感じなくちゃ!
それに、ブルーベリータルトのおいしさを満喫しているときは、同時に悩みにはまることはできないのです。「おいしい〜♪」とか「楽し〜♪」「幸せ〜♪」と言っていると、人生はじつにシンプルになります。なぜなら、それしか見えない。
今日の空の色は今日だけのもの。今そよいでいる風だって、たったこの瞬間だけのもの。そして「ブルーベリータルトの味なんてしってるよ!」というかもしれないけど、このブルーベリータルトだって、きょうしか味わえないブルーベリータルト。
生活の中には何ひとつとして同じではないサプライズが毎瞬用意されているというのに、思考にはまって、思考の中に住んで、イメージを巡らせることで疲れてしまってはもったいない。それは、現実逃避。
たった今の風を感じて、たった今のブルーベリータルトを味わって、たった今一緒にいる人をいつくしむ。ちゃ〜んと「今」ここに生きていると、ほら、自然とあなたの次ぎのステップさえも用意されているのがわかるのです。でも、それは頭の中に住んでいては見えてこない。
頭のおしゃベりのスイッチはきって、今ここにいて五感のすべてを使って今を生きる。すると、どうやら自分のための人生の流れに乗れるよう。
さあ!外に出て、五感をフル活用して、「今、生きてる!」って実感してみて!
梅雨明けとともに、なにやらとっても忙しくなってきました。どんなに暑くとも、やっぱり人間は太陽が顔をだすと活発に動きはじめる生き物なのでしょうか?
なので、一日が「あっ!」というま。時間に追われるというよりは、時間を追っている感じです。
そんななか、いちばんフラストレーションの原因になるのが、「心」がついてこないとき。自分のしていることがなかば自動的になって、しっかり「心」がこめられていないとき、楽しさも充実感も達成感も消え失せてしまうようです。
ふと、そんなわたしを心配そうに見つめる二つの目・・・。カメちゃんじゃありませんか!お友達が花をいける剣山として焼いて下さったカメちゃん。形も表情も愛らしくて、花瓶に入れるよりはいつのまにかペーパーウェイトとしてデスクからわたしを見上げています。
彼をみていたら、自分の「あたふた」度に気がつきましたよ〜。
心がお亡くなりになると書いて「忙しい」。思わずゆっくり大きく呼吸をするのを思い出しました。「ゆっくり、ゆっくり、ていねいに、心をこめて・・・」ね。
ホコリというものは、知らぬうちに、うっすら、うっすら、つもっていって。
ついには、ホコリにすべてがおおわれていることにすら気づかなかったりします。
たとえば、自分の部屋のホコリ。
ふだんは、どこにどれだけたまっているのか気づきもしない。
はじめて、誰かが遊び来ることになったとき、
あらためて他人の眼で部屋の汚れをチェックしてびっくり。
こんなところに、こんなにホコリが・・・。
心も同じ。しらぬまに、うっすら、うっすら、ホコリがたまるのです。
セラピー中に使う心のクリーニングメソッドをあれこれ考案するとき、
いつもまず自分を実験台にしてみます。
やってみたらどんな感じがするのか・・・? を試すのです。
で、新しいメソッドを試みてみました。
・・・・おっ!なんか、なんだか、いい感じ。
たまりにたまっていたものがゴッソリとれたような気分。
世界がよりヴィヴィッドに見え、より安らいで平和に感じられます。
すると・・・、ここ数年、「こんなことしたいな〜」とおもい描いていたコト、
どうやってすすめたらいいのかな〜とずっと思案していたコトが、
あらら、向こうから勝手にやってきたではありませんか。それも、三つも。
目標を達成するのにしゃかりきになって疲れはててしまうことがありますが、
これこそホントの目標の達成の仕方。
「リラックスしながら、目標のためにやることはちゃんとやって」あとは、
「自分自身の真のパワーを覆い隠しているホコリを取り除く」すると、
「案外簡単に、なるようになってしまう!」
わたしたちの日常の「あ〜だ!こ〜だ!」の感情は、
一見どこかに消え去ったように感じても、
じつは心の奥深くにストックされて、本来のパワーを覆ってしまうようです。
自然の流れの中で手に入れられるものをも遠ざけてしまいます。
三つの目標のうちの一つは長年あたためてきたもの。
どうやってとっかかりを作るかを友人とも話し合ってきました。
しかし、なんのことはない、あっけなく向こうからやってきた。
それも、極上のもの、自分がイメージしたものよりもずっといいものです。
そとがわの物質にいどみかかって目標を達成しようと頑張るよりも、
心のすす払いをして、自分のほんとうのパワーを解放してあげることが大切なのですね。
目標達成としては、しごく省エネな感じですが、結果はけっこう大満足ものですよ。
思わず「欲」が出て、ヒマさえあればすす払いにいそしんでいます(笑)。
家族、友人、パートナーと親密な関係を持てることはすばらしいこと。まさに、人生の贈り物です。でも、最近は「愛情」で結びつくというよりは「執着」で結びついて、自ら苦しむケースがふえているように感じるのです。あまりに相手に多くを期待・要求しすぎたり、また犠牲しすぎることで、自分の自由がなくなりボロボロになってしまうというように。
幼少期の両親との関係のなかで「自分が欲しくても得られなかった!」という体験は誰にでもあるもの。誰の幼少期も完璧ではありません。でも、その欠落を現在の親密な関係の中で埋めようとすると、ひどく相手に期待したり執着することになります。そして、そんなコテコテの感情を愛情だと勘違いしてしまい、「こんなに愛してるのにあなたは何もしてくれない。あなたはひどい!」あるいは「愛を得るためには奴隷になる」という苦しさに突入します。どちらも自由がない状態です。
自分の愛する相手が、この「欠落」(たとえば、認めてもらうこと、甘えさせてもらうこと、無条件に愛されること・・・etc)を埋めてくれて当然だと考えると、「なぜ、あなたはわたしの思うようにしないの」とつねに文句たらたらになります。相手を責めます。そして、欲しいものが手に入るように密かにコントロールし、攻撃し、ついには思うようにいかない現実を相手のせいにして恨みつらみをつのらせる。
おそらく、いくら相手を変えようとして戦っても、それは負け戦となります。なぜなら、どんどん嫌われてしまうからです。。
もともと人間関係は「他の人間」との関係ではないのです。どういうことかというと、人間関係は自分自身との関係、つまり「自分」関係。自分がその状況をどうとらえるのか、どう対処するのか。だから、誰とつきあおうとすぐに自分のパターンが露呈してしまうことになります(この相手だとうまくいかない!と、次ぎの相手をさがしても、また同じ結果になったというのはよく聞く話ですね。ようは自分です)。
人間関係で怒りを感じると、相手に責任を負わせて悪者にしたくなりますが・・・ちょっと待って!さて、なんで自分はその「怒り」を感じているのでしょうか?自分の中で何が起きているのでしょうか?あなたは相手の何に刺激されたのでしょうか?たぶん、「怒り」の下には弱い自分がいます。泣いてる自分、打ちひしがれている自分。その声を聞いてあげてください。
「何を手に入れたかったのか?」そして「それは、過去の誰との間で手に入らなかったのか?」・・・・。そう考えると、本当に怒りを感じているのは自分の「目の前の人」ではないのがわかります。何かに触発されて、古い感情パターンを繰り返しているのです。
わたしたちは、その感情のほんとうの声に耳を傾けてあげる必要があるのです。「そうか〜、子供のとき、いつもお母さんに認めてもらいたいって思ってたんだ。その穴を、わたしはこの人で埋めようとしてたんだな〜。あのときは、自分をそのままちゃんと見てほしかったんだよね」と耳を傾けて、過去の感情の穴をちゃんと認めてあげます。
つらくて直面するのがこわいからずっと穴があいたままなのですが、ちゃんと穴ぼこの存在を認めると不思議と穴はうまろうとします。ただ、その悲しみをそのままうけとめたら、手放してあげるのです。傷ついた自分がほっとするのに気づくはずです。
そして、「怒り」の分析がすんだら、相手にはおだやかに「あなたの行動に怒りを感じたけど、じつはわたしの中にはこんな悲しみや癒されない痛みがあってね・・・」という話をすると、相手は受け取れるものです。「そうか〜、そんなふうに感じていたのか〜。その気持ちが癒されるように助けになるよ」となるわけです。
わたしたちはその人を愛するがゆえに、この穴を埋めてくれるのはこの人しかいないと勘違いし、期待し要求し、ついには「ほしいものが得られない怒り」を感じて大切な人との関係をこわしてしまいます。しかし、つねに自分の感情としっかり向き合う気持ちを持つと、相手を悪者にせずに「大切な人」としての関係が深まってゆくのです。そして、なによりも自分自身が相手から自由になれることがいちばんすばらしいところです。
大切な人だからこそ、長くおつきあいしたいものですよね。
「リコネクション」のセミナーが終わった〜! \(^O^)/ といいつつも、その後「マネジメントセミナー」「公認プラクティショナー認定試験」のお手伝い、エリックの「ライト&インフォメーション」と続き・・・いよいよこれでほんとのほんとに終わったぞ〜!と雄叫びをあげたい気分です(笑)。
セミナーやもろもろの行事の間は、TA(ティーチングアシスタント)のお仲間と「同じ釜の飯」ならぬ「同じ冷たいお弁当」をつつきつつ、あれやこれやと同じ時間を過ごしてきました。でも、いざ終わってみるとそんな日々も妙になつかしい・・・。
エリックがセミナーのなかで「Next!」という言葉をよく使っていました。
文字どおり、「つぎ!」ということなのですが。つまり、クライアントさんにヒーリングを施したら決してふりかえるな!と。つまり、「あの人、どうなったかな〜」とか「ちゃんとできてる?」などなど・・・。
「必要なことがすでに起ったことを知り」「けっしてふりかえらず」そして、大きな声で元気よく「つぎっ!(Next!)」ということ。
これはプロセスを信頼すること以外のなにものでもありません。この信頼が、起るべきことのすべてを起こしてくれるのです。なんにしてもそうですが、わたしたちは往々にして過去に目線が向きがちです。「あのとき、ああすればよかった」「こうだったら、うんぬん」・・・。でもそれって、ほおっておけばなるべくようになるものの邪魔をしてしまうことなのですね。
ひとつ心をこめてなしとげたら、もうふりかえらない。「Next!(つぎっ!)」と号令をかけて、いさぎよく未来に目線を向ける。わたしたちは、過去でななくてまっさらな時間を生きるためにここにいるということ。「Next!」、これこそ新しい扉をどんどん開いてゆく秘訣だと思うのです。
Eric, Thank You!
昨年の暮れからきょうまで一ヶ月、まるで喉にひっかかった魚の小骨のように、消そうとしても消えない思いがず〜っとそこにあったのです。いいえ、小骨なんかじゃない!それはタイのあばら骨級!痛み、悲しさ、怒り、無力感・・・。
いつもそこにそれがあって、痛みとともに生きることを選択しつつも、自然に治癒することを祈りつつ、ときには自分で強引に引き抜いて投げ捨てたくなったり・・・。
そんなわたしの状況を知る友人は、毎日電話でわたしのつらさの「ゴミ箱」になってくれたり、また数人の友人は顔をあわせなくてもエネルギーで一生懸命応援してくれているのをひしひしと感じたものです。
ものの本には「どんな体験も贈りものです」とあり、たしかにわたしも経験からよくこの言葉を使います。でもね〜、当の本人はそんなこと考えたくもなかったりするのですよ。渦中にいるときは。(お〜、クライアントさんの気持ちがよ〜くわかる!)
そんなツライ思いをかかえているなか、わたしにやってきたメッセージは、「全部、失ったと思って振り出しにもどれ!」だったのです。「振り出しにもどる」・・・??「振り出しにもどる!」ってけっこう潔くって、イメージしただけでも晴れ晴れするものを感じました。自由になって身軽になる。逆に、どんな可能性でもあるような。晴れ晴れしたらふと浮かんだ次ぎなるメッセージは、「ああ、わたしが欲しいものではなくて、宇宙、神さまがわたしに与えたいと思っているものを受け取りたい!」という気持ちだったのです。わたしのエゴから望むものではなくて、ほんとうに私の存在を慈しむ方が与えたいと思っているものを。そこでお願いしました。「わたしに与えたいと思っていらっしゃるその最高のものをください」と。
すると、次ぎの瞬間、ひとつの電話がかかってきて見事にわたしの喉の「大骨」はポンっと抜け去ったのでした。あっけなく宇宙の彼方へ。・・・すごい。あまりにも簡単に片づきすぎ・・・。この一ヶ月のあの思いはなんだったの?!
でもね〜、今、はっきりと声を大にして言えます。一ヶ月、正直シンドかったけれど、でもこの体験がわたしの人生にあったことに心から感謝します!と。「宇宙の流れに対する信頼」「手放すこと」「人に助けをもとめること」「自分を信じること」・・・ひとつひとつ書き現せないぐらいたくさんのことを学びました。お腹の底から「知る」って、こういうことだって思った。
年始からハードなレッスン、いえ、素晴らしいギフトをいただきました。う〜〜ん♪まわりのモノが人が出来事が、以前にもましてステキに見えます。神さま、でももうちょっとお手柔らかに・・・。
しばしホテル住まいをして自宅にもどってきたら・・・ありゃ?使っていなかったわりには、なに?この綿ぼこりと荒れた雰囲気は・・・?
こんなことに気づいたことありませんか?ふだんお庭の手入れなどしていないお家。それでも、どうにかなっているのですが。いざ引っ越しをされて人の気配がなくなったとたん、びっしり雑草だらけ。ふだんから草むしりをしていたとも思えないのに、あっというまに背丈ほどの雑草で埋め尽くされています。雑草は人がいるとかいないとか、わかっているのかい?と思ってしまうほどです。
ほんと「人の注意」が欠落すると、ものごとは崩壊してゆくようです。モノゴトは注意で支えられているから。たとえば、しっかり向き合って大切にしていない人間関係、とくに男女関係。他の人によそ見をするや、あっというまに崩壊の一途。慈しみの眼差しをもって育てなければ、関係は枯れてしまいます。あるいは、ぞんざいに扱っている自分の身体。いたわりの気持ちが足りないと、あなたの注意が欲しくて病気になりますよ〜。そう、わたしのパソコンやカメラさえも、ねぎらってあげないとストを起こします。ほんとに。
一方、もしも自分の人生に「いらないもの」があったなら・・・・注意を向けない。ただ、ただ、静かに注意を外すだけ。あなたの身体の調子の悪いところから静かに注意をそらして、健康でよく働いてくれてるところに向けてあげる。また、いらない彼氏(彼女)ともバトル前に注意をはずしてしまいましょう。これで、すべてしょうめ〜つ!!(笑)のハズ。
わたしも最近忙しくてほっておいたモロモロ、いつくしんで過ごしましょう♪
ヒューレン博士の「ホ・オポノポノ セミナー」どうでした〜?とみなさんに質問されます。
もともと、このヒューレン博士、「犯罪を犯した精神障害者の施設で、ただの一度も面会やカウンセリングを行うことなく、ことごとく全員を癒し退院させてしまった」という幻のセラピストとして存在が広まりました。セラピーを生業にするものにとっては、「それって、いったい何?」とたいそう興味をひかれたものです。
ヒューレン博士の考えでは、「自分の外側に見える問題は、すべて自分の潜在意識の中のまちがった情報が投影されて起っている」ということ(これはまさに、わたしの行うセラピーでも基本中の基本の考え方です)。そして、「ごめんなさい」「許してください」「ありがとう」「愛しています」という言葉を言うことによって、自分の潜在意識の中のまちがった情報をクリーニングしてゆくのです(潜在意識のクリーニングというのも、ヒプノセラピーのやり方と同じです)。このメソッドの大きな利点は、一人でいつでも何に対しても行うことができること。
セミナーでは、自分のほかに、場所、人、モノ、食べ物を浄化するためのクリーニングツールをたくさん習います。このモノ、人、場所の浄化に関しては、少々「・・・・??」なわたしでした。
なぜなら、もともと「自分の外側には何も存在しない」と信じているからです。外に何もないなら、外を浄化してもしょうがないというわけです。それに、「浄化しなきゃ」という怖れをもつことで、浄化しなきゃいけないことを体験するはめになります。
わたしたちは何かを「怖い」と思ったときに、はじめてその影響を受けてしまうのです。自分の「怖れ」から浄化しなくきゃならないものを創りださない限り、浄化が必要なものなど何一つないわけです。「あれも、これも浄化しなきゃ」という考えを持つと、わたしたちはどんどん小さな存在になり、じつはそれを創り出している自分の存在さえも忘れてしまいます。怖れるものは、ただひとつ。「自分の内側」、「自分の怖れ」だけ。外にその理由を作ってしまうと、わたしたちはどんどん無力になるいっぽう。だから「自分の内側の怖れ」だけを手放して、外のことはほっておきましょう。というわけで、このモノ、人、場所に関するクリーニングツールは、わたしにとってはおまじない的ちょっとしたお遊びだと思っています。
今回のセミナー出席の目的は、ヒューレン博士のオーラを感じること。たくさんの言葉よりも、ヒューレン博士の存在自体がわたしにとってはしみわたるものがありました。
「ホ・オポノポノ」での自分の潜在意識のクリーニングはとってもシンプル、お手軽で気に入っています♪すべてのことを「自分が創りだした」「責任はわたしにある」と全面的に受け入れる気持ちをもつだけでも、すぐに現状に変化がでてくるものです。
むずかしいけど、偉大なパワーをもつ「自分で責任をとる」とういう考え方。はい!精進いたします。
カウンセリングでしばしば耳にするコメント、それは「世の中って不公平。知り合いの○○さんは親がお金持ちだから生まれたときから何でもやり放題。わたしときたら云々・・・」
たしかに、各家庭の経済状態はおのおの違います。
昔はわたしも「はじめからすべてを持っている人は人生ラクでいいな〜」と思ったものです。しかし、長年こういう仕事をしているとまた違った目線を持つようになるのですね。
その人にそのとき起っていることは、その人の人生のほんの小さな通過地点にすぎないということ。すべてのことは変化してゆくのです。そして、それぞれの人生の中には山あり谷あり、さまざまなことが起こります。たった一点、一時期を見てその人の人生を判断することはできないものです。おうおうにして、谷間の部分は人に語られることがないのです。カウンセリングルームの中で語られることはあっても。そして、人の心はたくさんの葛藤を抱えているのが常なのです。
だから、もし誰かの人生をうらやましく思うなら・・・「生まれてから死ぬまで、容姿も家庭環境も性格も感じ方も、苦しみも葛藤もなにもかも、その人と入れ替ってみましょうか?」とわたしはたずねます。それは、今の自分をみじんも残さず、その人になり替わるということ。
もれなく、みなさまのお答えはNo!です。「いやだ〜!○○ちゃんの経済状態はうらやましけど、まるごと彼女にはなりたくない」と(この問いでYes! と答えた人が一人もいないことから、結構わたしたちって自分が思っている以上に自分を愛してるのかも・・・)。
わたしたちはその人の光っている部分にばかり注目して欲しがるけれど、隠されているどんよりした部分もたくさん存在しているのです。それに人生は長い。今、光っているからといって、一生光り続けられるとも限らない。自分の人生も長い目で見てあげましょうよ。
いちばん幸せなのは、何かが「欲しい」という気もちがあって、そしてそれがなんとか「手に入って」、そのことに「感謝して」「喜べる」こと。
おうおうにして、はじめから持っている人には、それがあまりにもあたりまえすぎて、それを「持っている」」という自覚すらないし、「欲する」気持ちもないのです。「わくわく」も「どきどき」も「やった〜!」も「神様、ありがと〜」もないわけです。つまり、体験としては何も起こっていないわけです。けっこう、退屈?
それにくらべて、「欲しい」「持ちたい」「体験したい」と思っている人は、豊かな人生に恵まれます。なぜなら、わたしたちはその気持ちのすべてを体験できるから。
なぜ、わたしたちが身体をもってここにいるのか。結局、「体験」したいのですよね、せっかく創り出した身体を通して。そして、「持ってない」を知っているからこそ、「持ったぞ〜!」を素直に喜べる、感動できる。
なので、持っていないことを憂うなかれ!持ってないは「持っている」といことを劇的に感じるお恵み、最高のチャンスなのです。そして、わたしたちはそんな豊かに「感じる」人生を選んできたのですよね。バンザイ!!たくさん感じて、たくさん体験しましょう♪
こちらは、「宇宙から」とはいかないけれど、52階からの眺めです。
こまごま、おもちゃ箱みたい。
果てしなく続く雑居ビル群。その中にさらにたくさんの人が詰まっていて、それぞれがそれぞれの想いを抱えて一日を過ごしているのです。もしここにマンガのような「吹き出し」をつけたとしたら、スゴイことになるな〜。そのほとんどは、悩みや心配、お願い、祈り、そして怒りもまじっていて、耳を澄ませても「人生、サイコ〜!」って声はあまり耳にできそうにありません。
この都会に渦巻く想いのエネルギー。でも、神さまはそのひとつひとつにしっかりと耳を傾けて、全部のパズルがうま〜くかみ合うように、全員に深い学びと癒しがやってくるように、絶妙なタイミングで完璧な配置をしてくださっているのですよね〜。
そう考えると、あれこれ抵抗するよりは、力を抜いてリラッックスしているのが得策だな〜と感じます。
宇宙から地球をながめたものは「神を感じる」ことによって視点の大転換が起るといいますが、この弱冠の高さ(宇宙からくらべたら高いうちに入らないね)でも、ちょっと「神の手」を感じることができたのでした。
フラれちゃったり、大失敗したり、リストラされたり・・・で、「ああ、もうつらい、悲しい」「不安で不安でしょうがない」「こんなわたしなんて・・・いっそ、死んじゃいたい」
そんな状態でセッションにいらしたクライアントさんに、小さなぬいぐるみをそっと渡すことがあります。
キョトンとするクライアントさんに、「では、その子を今のあなただと思って、感じている気持ちを表現させてあげましょう。できるだけ感情をこめて、ボディーランゲージもつけてわたしに話してくれますか」
はじめはためらいながら、徐々にぬいぐるみと一体化するクライアントさん。「・・・じつは〜、昨日、突然彼に別れるって言われちゃって・・・。まるで心臓をつかまれたように苦しいし、悲しいし、息ができなくて・・・。ただただ涙がでて・・・」とうなずかせたり、手足をバタバタさせたり、腹話術師のようにぬいぐるみにお喋りさせます。そして、「そうですか〜。その子はそんなにショックを受けているんですね」「その子はもうダメだと思っているんですね」とわたし。
しばし続けると・・・。
この段階で、すでに深刻さから抜け出して不思議と痛みがうすらいできたり、あるいはまるで他人の悩みのように客観的にながめていたり、はたまた突然おもしろおかしくなっちゃったり、ハタと気づきがやってきたりするクライアントさんもいます。
「ああ、この人、こんなに苦しんでいるんだ〜って、客観的に見ている”もうひとりのワタシ”に気がつきました。じつは、苦しんでいるのは自分じゃないような・・・。自分の考えってゆうか・・・アタマってゆうか・・・堂々めぐりするセリフってゆうか」とクライアントさん。そう、わたしたちの中には、いわば、このぬいぐるみのような存在が住んでいて、”それ”はつねに文句を言ったり、新しい現実におびえたり、抵抗しては大騒ぎをしているのです。
苦しんだり悩んでいるとき、それをしているのは、じつはワタシの「エゴであり思考」。悩んでいるのは「ワタシ」なんかじゃない。こうして客観的に「おお、こんなに苦しんでいるぞ・・・・」とながめているのがホントの自分自身です。
でも、あまりにもエゴや思考とひとつになってしまうと、悩んでいる状態こそが「本当の自分!」「わたしが悩んでいる」と勘違いしてしまいます。そして、だんだんとエスカレートしてゆき、自分が痛みに食べられたようにまったく無力になってしまうのです。完全に悩みに征服されちゃった状態。自分を悩みそのものだと思ってしまいます。
(その2へ続く・・・)
悩んでいるのは・・・”それ”なんです。
そして、”それ”の怖れや不安や怒りの後ろで、しずかにながめている存在がいるのに気がつきます。とても冷静に客観的に「あ〜、こわがっているのね」って。これがじつは、ほんとうの自分。真のパワーを持った自分。そして、全然こわがってなんていない自分。
あなたを苦しめているのは「考え」であって、「あなた自身」ではない、のです。悩んでいるのは、あなたのエゴ、あなたの考え。”それ”が悩んでいるのです。
「考えている自分」と、その状態を「冷静にながめている自分」。この二つの存在があるからこそ、わたしたちは葛藤します。イジワルな自分を「なんか違うぞ」と感じるもう一人の自分・・・。一人しかいなかったら、この葛藤は生まれません。違う自分が存在しているからこそ、違和感を感じてしまうのです。
いったん、後ろにひかえている存在に気づいてしまうと、ネガティブな気持ちを持ったとき、そこから観察することができます。「おっ、はじまった。エゴは何て主張してるの?」と。
そして、聞き耳をたてると、エゴはおもしろいようにしゅるしゅると姿を消します。ネガティブな声がすぐに薄らぎます。エゴはいつだって、こっそりと正体を知られずにわたしたちを乗っとりたいと思っているのですから、気づかれたら一気に弱気になって、しっぽを巻いて逃げ出すのです。
もし、しゃしゃり出たエゴや思考をそのままにしておくと、どんどん図にのって、過去の同じような感情までもを巻き込んで、「わたしがあなたそのものだ!」と主張しはじめます。じつは、わたしたちはいつもまんまとこの手にのってしまい、エゴにぶるんぶるん振りまわされているわけです。「あなたがわたしだって言うんだから、そうなんでしょうね〜。汗」という具合に。
だから、否定的な思考に支配されはじめたな〜と気づいたら、興味をもってただ観察してみましょう。「おお、”それ”は主張しはじめたぞ!」「”それ”は、すごくこわがっている。なるほど、そういうふうに主張したいんだ〜」と。非難したり、やっつけようとすることなく、ただながめてみます。
ときには、ぬいぐるみを使って感情を表現してみると、自分の中にいるエゴがこっけいな動物などみ見えて、それを静かに眺めている自分がまさに本当の自分だ!と感じやすくなります。
自分のエゴのお喋りに気づいたり、それによって引き起こされる感情を冷静に見つけることができるようになれば、こっちのもの。すぐに穏やかさを取り戻せるようになります。心が静まります。平和です。
そして、わたしたちはエゴに吸いとられていたパワーを取りもどして、「今の現実」の手綱をとることができるようになるのです。エゴや思考は、当然のように乗っとろうとしますが、ほんとうの自分のパワーにくらべたらほんの小さな力しか持っていません。うわべだけの力です。ほんとうの自分でいることによって、ものごとへの抵抗がなくなるので、すべてのことにおいて流れがスムーズになります。ものごとがおさまるべき場所へと自然におさまるような感覚を感じるかもしれません。おそらく、今、怖れを感じていた問題も、おのずとよい方向へと変化するこおでしょう。
さあ、きょうから怖くなったとき、ネガティブになったとき、「おおっ、”それ”が反応しはじめたぞ♪どれどれ、何て主張しているかな?」と楽しんでながめてみてくださいね。
「いつも同じことをクヨクヨ考え続けてしまうんです」「いやなことばかりが頭の中でグルグルしています」・・・こんなご相談をよく受けます。
ぐるぐる考え続けてしまう悩みには、いつぐかの原因があります。
ひとつは、悩むことに慣れ親しんでいる、悩んでいることが本人にとって日常になっている場合。それがいかに有害であっても、あまりに習慣化しすぎてしまって自動的にやりはじめます。わたしたちは意図的にならない限り、いつでも無意識のクセに支配されています。新しい習慣は意識して選びとらなければなりません。
たとえば、暴力のある家に育ったこどもは、たとえそれがどんなに怖くて不快であっても「家庭」の原風景になってしまいます。いざ生活の中に暴力がなくなると不安になるのです。同様に、うじうじ悩む思考回路が日常になりすぎていると、いざ何も問題がないと不安になってしまい、「こんなはずはない!」とわざわざ問題をつくる行動を起こしはじめます。つまり、やめてもいいのに、やめられない。
また、もうひとつの原因としては、人生の中にたくさんのルールがある場合。「人とはうまくやらなくちゃいけない」「すべてをちゃんとできるようにならなくてはいけない」「いつも幸せであるべきだ」「充実した人生を送るべきだ」・・・。たくさんの「べき」を教え込まれていて、それを貫き通そうとします。だから、目の前の現実と自分のルールとの折り合いをつけるのに大変な労力がいるのです。
「べきだ」「しなくちゃいけない」って感じてしまうことじたい、じつは本人は「そんなこと、さらさらしたくない」と思っているのです。でも、世の中の規格にあっていない自分にひけめや怖れを感じています。
ホントは、「むかつく」・・・OK! 「落ちこむ」・・・OK! 「うまくできない」・・・OK! なんだってOK。どう感じようが、どう生きようが個人の勝手なのです。感じるままに感じる権利があるのです。そしてなによりも、自分の弱さ、うまくいかなさを無視することなく、感じるままの自分にOKをだして認めてあげなければなりません。
つまり、堂々めぐりの悩みやクヨクヨ考え続けるのは、「こうあるべき」に気をとられて、その下にあるほんとうの自分の気持ちを無視して、切り離している状態です。ほんとうはこう感じているのに、そんなはずはない!とねじまげようとしています。すると、ほんとうの気持ちが反乱を起こして、ルールとぶつかりあい苦しみが生まれます。
(その2に続く・・・)
たとえば、こんな問題。「今の彼は浮気をしたり約束を守らないので別れたい、でも別れたらまた一人になっちゃうし、そのあと誰かを見つける自信もない」「でも、関係を続けるのもしんどい」「だけど、自分のトシも考えいると・・・うんぬん」「でもやっぱり・・・」「だけど・・・」これは延々と続くし、意外と体力を消耗します。
まるで頭の中で空回りしているよう。じゃあ、この空回りの下にあるホントの気持ちって何でしょう?
「この男性といても、わたしはハッピーではない」「わたしは自分の人生をもっと大切にしたい」「自分をもっと尊重したい」・・・・なのです。まず、この正直な気持ちを非難することなく、慈しみをもって受け入れます。「そっか〜、わたしはそんなふうに感じていたんだね。いいんだよ、そう感じても。そう感じてあたりまえだよ」と肯定してあげます。
そして、その正直な気持ちに対して、今自分ができることを考えてみます。「じゃあ、わたしが何をいやだと思っているのか相手にちゃんと伝えて話しあおう」、あるいは「自分を大切にしたいという気持ちは、人に期待するよりもまず自分で自分を思いっきり大切にしてみよう」「相手に幸せというものを依存してきたから、自分ひとりでも幸せ感が持てるようにしてみよう」・・・などと、「変えてみよう」というところが出てくるはずです。そして、そのために小さな行動を起こしてゆきます。
たいてい思考にはまっているときは頭の中だけ試行錯誤して、体験がお留守になっています。「小さな変化」を行動レベルにできると、行動することが楽しくなって頭の中のぐるぐるは減ってきます。こうして少しづつ進んでゆけばよいのです。
まずは、ぐるぐるくよくよのパターンに気づく → その下にある弱気な本心を探る → それを暖かく認める → その気持ちを尊重し、そのためにできることを考える → 小さな行動に出てみる。考えるだけでなく行動がともなうと、自分の中に自己信頼や喜び生まれてきます。→満足する。安心する。もっとやってみようと思う。
思考は幻想、そしてそれはエスカレートするもの。自分で自分の首をしめます。思考を自分ができる小さな行動に変化させてゆきましょう。
是非、おためしを♪
PS Happy Halloween!!
わたしたちの周りは、わたしたちをヘルプしてくれる天からのメッセージに溢れているといいます。受けとる気さえあれば、そこここにメッセージが見つかり、それは人生をサクサクと導いてくれる大切なカギになったりします。道の真ん中に障害物があろうとも、ぽっかりと穴があいていようとも、ちゃんと迂回してへっちゃらに進んで行けちゃう、そんなお助けメッセージも多数含まれていることでしょう。でも、メッセージは繊細なエネルギーなので、きらん・・・と静かにやってきます。そして、たいていそのあとに「いやいや、思い過ごしだ〜」と打ち消しのエゴが登場するのがつねなのですね。
と、そんな話しをクライアントさんにはよくするものの、じっさい自分はどうよ??・・・と考えてみました。まあ、耳は傾けている方だとは思うのですが・・・じゃあ、もっとマジメになってみることにしました。
つまり、「毎日、天からのメッセージのどじょうすくい(?)」。
なので、きらり☆とひらめくものがあればソク足を運び、ちらり♪とお顔がちらつけばランチに誘い・・・。
先日も、ある心理学のスクーリングのあと、どうしても「スタバ」に立ち寄りたくなりました。それも、遠い方の「スタバ」。「なんで遠い方に行かなくちゃいけないのよ〜。雨がふっているのに」とブツブツしつつ遠い方へ。ひとつ席があいていたのでさっそく荷物をおきつつ、お隣の男性と目があった。「ありや〜?Mさん!」そして、その男性の前にすわっていたのも友人のC子ちゃん。お二人まとめて会えてしまったわけです。はい、たしかにその朝、お顔がちらついておりました。
おもしろいもので、メッセージをすくう気まんまんになっていると、足を運んだり、連絡をとる前にむこうからやってくることがふえてきます。
「ここ2~3日、Lちゃんが気になるな〜」と思っていたら、案の定連絡あり。さっそく「お告げランチ」と称して、ミーティング。おもしろいもので、お告げにしたがっていると「こっちの話しが、あっちにつながり・・・」というように、なんだかどれもつながっているぞ・・・。そして、ひとつのアイデアが浮かんできたりします。
というわけで、しばし「お告げライフ」に身をゆだね、どんな方向に流れてゆくのか楽しんでみましょう。
PS 「お告げ」に従って選んだLちゃんとのランチのお店。これはちょいとカラぶり気味。あ、これは「お告げ」ではなくって、「新しいお店は要チェック!」のエゴが選んだのでした〜(笑)。
セッションやセミナーの中で、「あなたの短所は、じつはあなたらしさの宝庫!贈りものなんです」という話をよくします。
短所が自分のかけがえのない長所・・・だなんて、頭がこんがらかりそう?
だからこそ、カウンセリングルームでクライアントさんの問題をひとこと伺っただけで、だいたいの見当がついてしまいます。「なにを取り戻しに、この方はここに坐っているのか」と。
たとえば、ある男性クライアントさん。「人の気持ちがわからない、自分勝手だとまわりに言われます」と。そこでわたしは思うわけです。「ああ〜、この方はなんて純粋で誰にも負けないほど人の気持ちがわかる方なんだろう」、「わかりすぎるぐらい、わかってしまったんだな〜」と。
なぜなら、すべての問題は幼少期か、さらに遡って(もしあるなら)過去生に由来します。そこで傷つく体験をして、気持ちが閉じてしまい、「だったらもういいよ!たくさんだ!こんな気持ちを味わうなら、違う自分になってやる」と本当の自分とは逆さまの生き方をはじめるのです。
と、いうことは、この男性を例にすると、「人の気持ちがわからない」どころか、「人一倍、人の気持ちに敏感だった」・・・けれど、あるとき最も愛する誰かからそれを拒絶されているのです(もちろん、その誰かにも心の痛みがあってこそ、なのですが・・・)。傷ついたその男性は、「こんなにつらいなら、この感情というやっかいなものにはフタをしてしまおう」と感受性豊かな自分をプッツリ切り離し、今にいたる、というわけです。
案の定、幼児期のセッションを行ったところ、男性が4~5才だったころ、おうちの中でお母さまが泣いている場面が登場します。少年はもちろん母を愛していますから、びっくりしているし、可哀想だし、助けたい。そこで、その気持ちに従って母に近寄って声をかけます。
ところが、思いもよらぬ母からの反応が少年をうちのめします。『子どものくせに!』、という拒絶のひとこと。
その少年は、愛する母を助けようとしたとき、子どもというよりは「一人のたのもしい男性」になっていたのだと思います。でも、母からの反応は予想を裏切る冷たく突き放すもの。少年は愛する人からのその反応に深く傷つき、「もう人の気持ちにかかわるのは金輪際やめにしよう」と心に決めたのです。
(その2に続く)
こうしてわたしたちは、自分自身の贈りものである純粋なやさしさや無条件の愛というものを閉ざしながら成長します。
そして、「傷つくなら違う自分になる!」と誓ったこともいつしか忘れて、「人の気持ちがわからない」(正しくは、「わかりたくない」のですが)と言われる大人になったわけです。
ほんとうは、わからないどころではなく、「わかりすぎ」てしまっていた。「わかりすぎる」自分を守る手だてとして、自分のやさしさを切り離して「わからなく」するしかなかったのです。
この男性のお母さまは小さい頃いじめられていたようで、どうやら泣いていたその日も知人にいじめられたかいやがらせをされていたようなのです。泣いているところを見られた無防備な母は、とっさに少女のような気持ちになり、恥ずかしさから防御したのがあの冷たいひとこと。それに、やさしくされることに慣れていないので必死で助けの手を振り払おうとしたのです。
お母さまもまた幼少の頃の心の傷があって、愛されるのがコワイのです。誰かが自分の見方になってくれるなんて思いもよらないし、まさか幼い息子にその姿を見られて声までかけられて動揺したのでしょう。
その男性は、「ああ、母の中の小さな女の子が傷ついていたのか。自分が間違ったことをしたから怒られたわけではなかった。あれは母の幼少期からの問題なのだ。自分がとった行動はあれでよかったのだ」とあらためて気がつくことができました。そして、現在の大人の自分がその頃の少年だった自分にやさしく事情を説明していたわってあげることによってその痛みを解放することができたのです。
こうして、自分にとって悲しい出来事がなぜ起きたのかを広い目線で理解することにより、自分の中で起きていた機能不全を解消することができます。母親の背景にある出来事を理解することで、プッツリ回線が切れていた自分の良さ、自分のやさしさ、自分の豊かさとようやくつながりなおすことができたのです。
あとは、しめたもの。いったん「そっか〜!そういうことだったのか」と気づいてしまうと、もうもとの自分には戻れません。せき止めていたブロックは取り去られます。心のカラクリはとはそんなもの。気づかないからやり続けられるのですが、気づいてしまったら、それは The End。
もう誰にも「人の気持ちがわからない人」「勝手な人」なんて言わせないし、すべてのことを感じるままに感じることができる誰よりも心豊かな男性がそこにいることでしょう。
その男性にいちばん初めのカウンセリングでお目にかかったとき、「ああ、なんて純粋で優しい心をもった方なのだろう」とすぐに感じとることができました。そして、その男性の本当の自分という素晴らしさの上に降りつもっていたホコリをはらいのけたことで、今、もっともっとその優しさが光を放ちはじめました。少年のままの純粋なやさしさと、お年を重ねた厚みのあるやさしさと。まずは、きっとご自身自らがその光(ご自分らしさ)に癒されることでしょうね。
PS 人に対して、えてしてひどい態度をとってしまうとき、深い部分で傷ついているかハッピーではないときです。やさしくしてくれる人に対しても怒りや悲しみをぶちまけて、そしてその相手さえも汚染してしまうことがあります。あつあつのピザが手のひらにのっていて、その熱さに耐えきれずに誰かに投げつけたい・・・そんな感じです(やってから反省してます。許してね・笑)。これはじつは、環境汚染よりも悪質です(ハイ、反省してますってば・・・m(__)m)。
今年最後の「気づきの日記」は、よくある男性、女性のすれ違いについて。
先日、アサーションの勉強会に参加したとき、おもしろいモデルケースがありました(「アサーション」とは、自己表現。自分と相手の権利を尊重しながら意見や感情を適切に表現するテクニック。ここで実際に演じながら気づきを得ます。)
たとえば、こんなケース。
出勤前、食卓で新聞を読む旦那さんに奥さんが・・・
妻「あなた、最近、○ちゃん(娘)を公園に連れて行くと帰りたがらなくて大変なのよ〜。昨日も、お昼を食べる暇もなくなっちゃって・・・、結局なにもできずに終わってしまって。ほんとに疲れるし・・・」
夫「時間は時間だから、ちゃんと連れて帰れよ」
妻「そうは言っても、この子の気持ちもあるし・・・」
夫「はじめからしっかり時間を決めてないからだよ。何時になったら帰らせるとか・・・だからこんなに洗濯ものもたまってるし・・・」
妻「・・・(涙)」
夫「(出勤前にうざったいな〜・怒)」
朝から、いっきにいやな気分に転落・・・。
この場合のいちばんの問題は、「奥さんはべつに旦那さんに解決方法を尋ねたわけではない」ということなのです。なぜなら、奥さんのほうが子どもの気持ちや家事のことはよ〜くわかってる。家庭のエキスパート。でも、子どもの気持ちを尊重しながら子育て、そして家事をする難しさを語りたいわけです。
旦那さんはといえば、「問題提起」があったと認識するとソク解決プロセスに入ります。これぞデキるオトコというわけです。「だったら、これはこうして、あれはあのように・・・はいっ、一丁あがり!」てな具合に。これは男性の習性なのか、はたまた会社人間としてのサガなのか?問題解決のエキスパートというわけです。
たいてい、女性はこれをされると憤りを感じます。なぜなら、家事や子育てに関してはあなたよりもずっとわかっている!と言いたいし、解決方法が知りたいわけじゃない。時間の配分の悪さなんて、わかってのことです。それに、経験が伴わない上から目線の単なる理論にうんざり。ここで起きていることは、決して4÷2=2的なことではないからです。家事や子育ては、こうすればああなるというロジカルなものではなく、もっと曖昧模糊とした感覚的なこと。すべてが決めたように運ぶなんてことはないのです。
奥さんは、その曖昧模糊さの中で手探りする「フラストレーション」を受けとめてほしかったのです。つまり、「時間が思うようにならない」「子育てって重労働」ということを「たんにグチりたい」。そして、共感してねぎらってほしい。しかし悲しいことに男性にとっては、「グチ?そんな、非生産的な!さっさと解決しよう」「それは、時間管理がわかってないから」ということになります。
男性は論理的に筋道をたてて物事を解決することには慣れているけれど、こと「感情」がらみの話しや、生身の人間としての悩みなどは不得意中の不得意(もちろん得意な男性もいらっしゃいますが)。誰かが感情的になれば、恐れを感じてさっさとしっぽを巻いて逃げ出します。ふだん、感情を感じない習慣がついてしまったので、単に「わからない」ということもるのでしょうが・・・(感情にたいして麻痺してしまったので未知なる世界になっちゃったのです)。
でもね、「感情」の理解こそが、わたしたちがココ、地球にいるいちばんの意味でもあるのです。すべてのことは、感情を通して学びます。後悔、罪悪感、自己嫌悪、悲しみ、喜び、満足、慈しみ・・・ここからあらゆることを学び、行動を起こすわけです。
話しは戻りますが、ではこの夫婦のコニュミケーション、いったいどうすれば・・・?
(その2に続く)
このコミュニケーションで奥さんが期待していたのは、「そっか〜、そんなに大変なんだね」と、(まず、心をより沿わせてほしい)。そして、「どんな感じなの?」と、(起きていることをただ判断せずに聞いてくれて)、「公園に連れて行くのがそんなに大変だなんて知らなかったよ」と、(自分の知らない世界を素直に認めて理解してほしい)。「でも、昼ぐらいはちゃんと食えよ」と、さらに(やさしく気遣ってほしい)」ということなのです。
しかし、そもそも共感能力を今まで使っていなかった人にこのようなレスポンスを求めることじたい、大きな落胆の原因になります。それだったら、「グチって共感できて気遣ってもらえる」同じ境遇のママ友のほうがまし。
男性からの模範的なレスポンスを引き出すためには、女性側にもテクニックが必要なようです。つまり相手を教育すること。
”相手に解決策や答えを求める態度をいっさい見せず”に、「このぐらいの年頃になると、公園から連れてかえるだけでもとっても大変なのよ」と”言い切る”ことにより、アドバイスや提案がいらないことを示します。そして「あなたは一日面倒みていないからわからないかもしれないけど、とっても○○なのよ、子育てって!」と、”あなたの知らない世界がある”ということをちゃんと認識してもらいます(つまり徐々に知らない世界を教育してゆきます)。
でも、いちばんいいのは、「疲れちゃった、ちょっと話しを聞いてくれる?ただ聞いてくれるだけでアドバイスはいらないから」ときっぱり会話の目的を伝えて自己満足的にぐちったほうがいいかもしれません。相手の理解の範疇を越えることに、自分が欲しい反応を求めるのはムリなのです。
もちろん、女性ももう少々ロジカルにシンプルに考える練習をするべきだし、男性は解決を求めない会話や感情にまつわる曖昧模糊とした話しに参加できるように訓練する必要があるのでしょうね。
このロールプレイでは、これを体験した奥さんが自分の旦那さんの役をしてみたりと、相手の立場に身をおいて同じ発言をしてみます。おもしろいことに、その人になってみるとその人の中で何が起きてそのような発言になっているのかよ〜くわかります。この奥さんは旦那さんになってみて、「ああ、この人はほんとうにこれしか応対の仕方を知らないんだ。問題をもちかけられたら、解決策を出すのが親切だとおもっている」ということに気がついたそうです。
そうです・・・この人って、なんでこんな態度するの?こんな対応するの?というときには、たいてい、たんにどうしていいのかわからない、「やり方を知らない」だけなのですね。
しかし、コミュニケーションはもともと「相手はわかっていない」「相手とわたしは違う」という前提で行うほうがよさそうです。そうすれば、ズレが生じてもあたりまえ、腹が立たずにせっせと相手にわかってもらう努力ができるから。最初からわかっていて当然、と思うと、わかっていないことに無性に腹が立っちゃうものです。
それに、同じ価値観、同じものの見方ではないからこそ、それについてああだこうだとたくさんのコミュニケーションをとることができて、相手の価値観を新しいものの見方として楽しむことができます。「同じ」であることを期待するコミュニケーションから、「違い」を楽しむコミュニケーションにすると、きっといらいらが驚きへと変わってゆくことでしょう。
気づきの多いお勉強会でした。
医大受験をひかえたGくんが、リラクゼーションとリフレッシュにいらっしゃいました。
そこで、現在、何らかのチャレンジをひかえている方、新しいことに挑戦しようとしている方に、Gくん御用達の「自分のカベ乗り越えメソッド」のひとつをご紹介したいと思います。
何かを制したいと思う時、大切なのはその何かよりも小さくなってはいけない、つまり大きくならなければならない、ということです。しかし、その問題がすでに大きいので手に負えない、だからこそ心配するわけです。心配したり、頭で考えすぎると、わたしたちはどんどん萎縮して小さくなり、しまいには問題よりも小さく小さく固くなって、問題の中に閉じ込められてしまいます。こうなると、にっちもさっちもいかない気分満載。まさに、問題に食われちゃった状態。自分の方が強くならないと、問題やカベを制することはできません。その問題を食ってしまわなければならないのです。
では、その問題の食らい方。それは、簡単、ただ、ただ、自分を大きくふくらませます。拡大します。静かに椅子にすわり、目を閉じて深く呼吸をくり返してみましょう。そして、息をゆっくり吐くときに、まずは自分がその部屋いっぱいに広がっているイメージをします。自分自身でその部屋をぱんぱんにしてみましょう(自分が風船になったのをイメージするとやりやすいかもしれません)。次ぎは、その建物いっぱいになり・・・。そして、その街・・・、地域・・・、空も含んで、果ては宇宙まで・・・すべてとひとつになって、惑星も銀河も地球そのものも自分の中に存在しています。
さらに、その宇宙をつき抜けて、宇宙の向こう側の静かで平和で光に満ちている空間にまで達します。ここは神さまの領域、そしてすべてが存在する空間。その穏やかな空間の中で、すでに「すべてが叶っている」「すべてがうまくいっている」「すべての答えがそこにある」という満足感を感じてみます。「ああ〜、ここにすべてがあったんだ〜!」「すべてが、もうすでにうまくいっている!」と、微笑みたい感じ。とてもいい気持ちになってきたら、片手をぎゅっと握るか、片肘をぎゅっと掴んで、その感覚をアンカリングします(身体に覚え込ませます)。そして、十分感じたら、その気持ちをもったまま平常の意識にもどってきます。
このように拡大することを習慣にしていると、問題が問題であると感じなくなるかもしれません。また、わたしたちは、いつも平和な気持ち、すべてがうまくいっている気持ち、満足な気持ちを感じていれば、同じ質のものが自分の日常に写しだされます。アンカリングした場所をさわれば、すぐに深い穏やかさを感じることができるので、日常でリラックスしたいとき、落ち着きたいとき、あるいはイメージングや瞑想をするときにこのアンカリングを役立ててみましょう。
もともと宇宙よりも大きかったわたしたちが、あえてこんなちっちゃな身体に入っているのですから、考えすぎてもっとちっちゃくならないようにしましょうね。
「ココロには時間の概念がない」といいます。なので、わたしたちは数十年前のココロのままで生きていたりするのです。つまり、こどものまま。
「ふ〜ん、そんな人いるのか〜」と思っているあなた、例外ではありませんよ〜。
たとえば、こどもの頃、親に言われたひとことがいつまでたっても自己イメージになっている場合があります。その昔、顔が丸かったわたしは、お月さまのようだと母に言われましたっけ。そして、大人になって美容院で髪型を決めていたときのこと。「わたし、お月さまのように顔が丸いから・・・」とつぶやくと、美容師さんが真顔で「お客さまは全然丸顔じゃないです、タマゴ型!」と断言。そのときは、「この美容師さん、わたしをなぐさめてる?」とさえ思ったものです。しかし、その後、何人かに「たかちゃんは、タマゴ型」と言われたこともあり、ようやく認識のゆがみを正すことができました。「丸顔だと信じてきたけど、どうやら違うらしい」と。嗚呼・・・三つ子の魂、百まで・・・。現状をまったく把握していませんでした。
権威の象徴である親や親しい人に言われたことは、普遍的な真実として受けいれられ、自分の固定したイメージとなって後生大事にキープされてゆくのです。
こどもの頃、いじめられて育った人も同様。あれはとうの昔のことなのに、今でも「わたしはいじめられる存在だ」と信じ、怖れを感じているのです。もう、そのいじめっ子もいないし、自分だってそんなに弱くはないのに。いくら成長して過去の自分とは似つかない自分になっても、ココロの刷り込みは依然むかしのまま。昔のイメージを確固として持ち続け、過去の自分に生きているのです。
さて、先日いらしたM子さん。突然上司に「この仕事は君にはあっていないから違う仕事をしなさい」と5年も積み上げてきた仕事をあっけなく変えられてしまったそうです。
いつも勉強熱心でチャレンジ精神旺盛なM子さんは、「ステイタスと将来性のあるポジションを奪われてショックです・・」と、落ち込んでいます。しかし、いっぽうで「本当のところ、この仕事好きじゃなかったんです。ストレスが多すぎるし」・・・と本音もチラリ。
まあ、潜在意識の中にある本音はやがて現実化するので、「結局、本音が実現した」ということですが、それでもどこか納得がいかない様子。
彼女にとっては、「がんがん勉強して」「がんがん実力をつけて」「がんがん仕事をして」「がんがん昇進して」「がんがんお金をかせぎたい」、そして「がんがん成功する」、それが憧れ。そのためには、常に自己啓発にいそしみ、読書をかかさず、ステップアップの資格のためには努力をいとわず。でも、かなり強迫的な前進の仕方で、端から見て大変そうだし当のご本人もまったく楽しんでいないようです。
そこで、聞いてみました。「もし、神様が”成功”か”楽しみ”かどちらかをくれるとしたら、どっちがいい?」 間髪入れずにかえってきた答えは「楽しみ!!」
あらあら、こんなに努力して、こんなにステップアップを重ねてきても、結局とところ「成功」はどうでもいいんだ〜・・・ふ〜ん・・・とわたし。
ただ”楽しみ”をとりたいってことは、ほんとうは”成功”なんてどうでもいい!!そもそも、成功への道のりはハッピーじゃないし・・・。けれど、どうでもよくない理由がありそうです。彼女を成功にむけて突っ走らせる、彼女もわかっていない思い込みが。わたしたちは、アタマでは「ああだ」「こうだ」と理由づけをしますが、ホントのホントの理由ってあんがい本人も分かっていないものです。
では、何がいったい彼女をつき動かしているのでしょう?彼女はどんな「こどものココロ」を生きているのでしょう?
ここからM子さんの潜在意識の探求がはじまりました。彼女のココロをどんどん掘り下げてゆきます。
「何がなんでも成功したい」=「なぜなら・・・人生は競争だから」「なぜなら・・・お金があれば何でもできるから」「なぜなら・・・ステイタスがつくから」・・・etc。どんどん聞き出してゆくと、あるとき「お父さんとお母さんが・・・」とつぶやくなり大粒の涙を流すM子さん(これは、核心近し!)。
「がむしゃらに頑張って成功しなければならない」をどんどん掘ってみた結果、出てきたのは幼い頃に決めたひとつの小さな決心。愛する両親が何やら大変そうにしているのを目にしたM子ちゃん。彼女は幼いながら胸を痛め、心に決めた一つの決心があったのです。それは、お金で苦しむ両親(当時、二人には借金があった様子)を助けるということ。「お父さんとお母さんの借金をどうにかしてあげたい。けれど、わたしは非力で助けられない」 「今は何もできないけれど、大きくなったら必ず愛する両親を救おう。わたしが借金のために一生懸命働くんだ」という強固な信念を作ったのです。
もちろん、これは大人のM子さんの表面意識には残っておらず、潜在意識の中にひっそりと忘れさられていた信念。時は流れて両親は苦境を乗り越え、彼女も大人になり、そんな記憶はどこへやら・・・。しかし、潜在意識の中にインプットされた決心は決してチャラにはならないのです。デリートボタンを押さない限り。だから、彼女は両親への愛を感じるたび、無意識に「わたしが両親を助ける=わたしが借金のため働く=苦しくてもより多く稼ぐ=がむしゃらに=いやなことでも何でもする」をやり続けていたわけです。今となっては、その真の目的は忘れさられ、「がむしゃらに成功する」の理由は「わたしの幸せ」にすり替えられてしまいました。
しかし、カウンセリング中に明らかになったように、M子さんの幸せな状態は「がんがんやって成功」よりも、「人生を楽しむ」ことだったのです。あくなき成功のための脅迫的な自己啓発グセが、まさかこんな「幼い女の子のけなげな動機」に根ざしていたと気づいてご本人もびっくり。
おもしろいもので、この役にたたない信念を処理してしまうと、むしょうに楽しい人生がやりたくなってきます。今までのキャリア、試験、ステップアップ?! あら〜、わたしには関係ないわ! ってな具合に。別人化して自分らしい人生を、まさに彼女がしたかったように「楽しめる」ようになるのですね。あるいは、依然「成功」を目指したとしても、そこに悲壮感はまったくなくなり、あらたな動機が見つかるでしょう。おもしろいものです。
これは彼女に限ったことではなく、誰でもこのような幼い頃の痛みから誓った古〜い信念をかかえて、それがどんなものであったのかも忘れて、無意識につき動かされていたりするものです。
「幸せになるためにはこうするべきだ!でも、ぜんぜん楽しくない」というようなときは要注意!自分のとっている行動と感じている感情の辻褄があわないときは、潜在意識の中の忘れ物をお掃除するチャンス。すると、不可解なナゾがとけて、自分でも「ああ!びっくり!」になるかもしれません。
わたしたちの自然な状態は、ただ「幸せ」であること。でも、あまりにもずれることに慣れきってしまっているこの世の中。自然に「幸せ」である感覚を多くの人が忘れがちです。ほんとうは、わくわく楽しいと感じる方向にだけ触覚をのばして進んでゆくということを覚えておけば、自分らしい流れに導かれることでしょう。
PS 今回はカウンセリングのセッションで探求しましたが、同様にヒプノセラピーのセッションでも幼少期の感情や場面を思い出すことにより「役立たずの信念」を見つけることができます。
Good Luck, M子さん!楽しんでね〜! (^-^)ノ
1/20、23日のブログ、「自分のホンネ、わからな〜い (^^;」で登場していただいたM子さんから、後日談の報告メールが届きました。ご本人の了解をいただきましたので、そのまま掲載させていただきますね。
あくなき成功へのチャレンジを続けながら、難関の資格試験のための準備を長年にわたり重ねていたM子さん。しかし、長く苦しい「成功への道のり」に執着するホントの理由を知ってしまった今、いったいどのような変化を体験されたのでしょうか?
以下、M子さんメールです。
... ♡ ... ♡ ... ♡ ... ♡ ...
たかこさま、
おはようございます!新しい朝を迎える毎日です!
先週の木曜、資格試験受験のためのレファレンスレターを書いてもらうために、ボスとランチの約束をしていましたが、そのランチで、「受験やめます」宣言をしました。超すっきり!です。もうその職業は目指さないし、好きなことをやって行きます!と。(仕事はやめませんが^^)
翌日の金曜の夜から、いきなり部屋の掃除がしたくなり、資格試験の参考書をドカドカ捨て(1回で35冊売り、まだまだあります。)勉強と仕事でほったらかしになっていたホコリまみれの床の掃除開始したら、とにかく熱中して気がついたら朝の5時過ぎ!
こんなに自分の生活をほったらかしにして、好きなダンスも減らし、コンサートにもまったく行かず。全然楽しんでない人生を送り続けようとしてたなんて、いまでは信じられないけど、渦中はそのことに「まったく気がついていなかった」なんてびっくりです。
たかこさんのところに通いだしてから、もう数年?経っていますが、今回のことが一番「クリア」にしたかったことなんだろうなと思います。まったくつながっていない問題にみえる、なかなか理想の誠実な男性に出会えなかったことも、いま思うとその理由は、「まだ成功していないのに、結婚しちゃったら稼げなくなる!!」と思っていたのだろう^^とよくわかります。
今日も、というかもう昨日の夜ですが、ダンスを踊りに行ったら、過去最高に楽しかったです。「ああ、あたしもう『自由』なんだっ!」って、音楽に対する身体の反応が、すごく良かったんですよ。
たかこサマ!本当にありがとうございました。やっと、自分の本当にかなえたかった人生が始められます。本当にありがとうございました。
... ♡ ... ♡ ... ♡ ... ♡ ...
なるほど〜・・・、いらない信念を処理しちゃうと、やっぱりご自分の本当の気持ちに正直になれるようです。
わたしたちは気づいたら最期、もう同じところには戻れないのです。
M子さん、Conguratulations!!
ご自分の触覚をのばして、いつもわくわくすること、楽しいこと、時間を忘れるようなことに向かって進んで行くようにしましょうね。その先には、いつもわたしたちが人生で受けとるべきたくさんの贈りものがあるはずだから。(^O^)/
人との関係の中で、あなたはガマンしてしまうほうですか?たとえば、ネガティブな感情を隠したり、いつも人に譲ってしまったり・・・。
ガマンの理由はいろいろあると思います。たとえば相手のことが好きだから、相手の気持ちを優先することに甘んじてしまう場合。あるいは相手との力関係で譲るのがあたりまえになってしまっている場合。または相手にあわせることが無意識の習慣になっている場合などもあります。
「人との関係を平和に保ちたい」「嫌われたくない」と思えば思うほど、このガマンは習慣になりがちです。また、「人間関係は常に良好でなければならない」
「波風がたつのはいけないことだ」という思い込みも正直なコニュニケーションをさまたげます。「人間関係、一回こじれたらおしまいだ」という危機感から相
手にあわせてしまう人もいます。
腑に落ちない、納得していない、いやだと思いながらも、じっとガマン。でも、ガマンは百害あって一利なし。ガマンするのとナットクしているのとは決定的に
違うので、ガマンしても腹の虫がおさまることはありません。納得のいかなさをを隠しもったまま、相手への恨みつらみが徐々に肥大化してゆきます。
同じ相手とは、たいてい同じシチュエーションが繰り返されるものです。そうすると、小さなイライラが重なって、やがておさえがたい怒りとなり、遅かれ早か
れバクハツします。つまりキレる、ということですね。ここまでガマンを重ねてきた痛みが噴出。一気に感情が攻撃的な言葉となって、態度となって、相手にな
げつけられます。
そこで、「ああ、そんなにマンしていたんだね。気づかずにコメン」といたわって欲しいわけです。
しか〜し、しかし、ガマンにガマンを重ねた怒りは、まったくもって「伝わらない」のです。ぜんぜん伝わらない。怒りをぶつけられた相手は目がテン。急転直下の怒りに「何に腹を立てているのかさっぱりわからん?」とチンプンカンプン。
こう言われると、怒っているほうはもっと腹がたちます。「わたしが今日の今日までガマンしてきたのに、その言い方はなによ!わからない?ふざけるな!わたしはずっとガマンしてきたのよ」と。
でもね〜、これ、ホントにわからないのですよ〜。
どうすればいいの??
(その2へ続く)
PS もうすぐバレンタイン!素直なコニュンミケーションでよい関係を育てましょうね。
(♡が可愛い一番のりのバレンタインチョコ、おいしそう!ありがとうございます♪)
なぜ、ためた怒りは伝わらないのか?
だって、当の本人は怒りを熟成させながら「今日の今日までゆずってきた」と思っているかもしれませんが、相手にしたら途中の経過がスッポリ抜けているのです。ずっと平和だったのに、何を急に烈火のごとく爆発してるのか・・・さっぱり??怒ってるって?そりゃ、青天の霹靂!ってなわけになるのです。「ガマンのはて」は、まったく伝わらないコニュニケーションの代表選手なわけです、
相手の立場だと、ガマンしてニコニコしながら怒りをためこまれるよりは、いやなときには素直にいやだとその場で言ってほしかった、ということです。まあ、言えない人には、「感情を伝えたときにうまくゆかなかった苦い過去」があるのですが。ためこんだすえの爆発は、そこにたくさんの恨みつらみがくっついているので攻撃的で凶器のような言葉になります。
そのときどき感情は小出しにするのがよいようです。感情を伝えるやり方は、むずかしくありません。ただポツリと静かに感想をつぶやけばいいだけです。そう、何か違和感を感じたときには、かる〜く、さわやかに、悪びれることなく、「それって好きじゃないな」「え?それはいやかも」と軽くコメント。心の痛みに変わるまえにね。
それができないのは、どうやら本人に問題あり。このガマンするクセ、じつは相手をおもいやっているようでいて、自分自身を卑下している態度なのです。自分が感じていることを自分で無視しているという、自分を尊重していない失礼な態度。自分よりも人を高いところにおいてしまうことにより、その結果、自ら自分が軽んじられるようにしむけてしまうのです。人は、その人が自分を扱っているやり方にならってその人を扱うようになります。自分で自分を大切にしないと、誰も大切にはしてくれません。
ちいさいときに誰も自分自身の扱い方、そして感情の扱い方を教えてくれませんでした。だからとても不器用になってしまうのです。「素直な感情の表現」はいっけん危険に思えますが、感情はためこみさえしなければ凶器にはならないのですね。自分のためにも、人のためにも、くれぐれもためこまずに小出しにいたしましょう。
悪びれずに、かる〜く、さわやかに、正直に・・・感じたときに感じたままを!自分の気持ちに耳を傾け、自分を尊重し、自分を大切にするコニュニケーションを心がけてみてくださいね。きっと、まわりもあなたにやさしくなるのが感じられることでしょう。(^_^)
最近ふえている恋愛&パートナーシップのカウンセリング。お一人の場合とカップルの場合があります。
お二人だと、ともすれば、ここぞとばかりに日頃のうらみつらみの応酬になりかねません(ここはリングじゃないよ〜ん!)。お互いの言い分に耳を傾けると、
日頃どのようなパターンで、何が繰り広げられているのかがたちまち浮き彫りになります。日々のバトルとジレンマの様子が、第三者からは手に取るようにわか
るのです。
どんなカップルにおいてもそうですが、「自分のペースを侵害されたくない」、だから「自分はこのままでよい」、じゃあ「ふつ〜じゃない相手が変わるべき
だ」という考え。誰だって、自分は正しくて、自分の感じていることがホントだと思っています。しかし結局のところ、自分も正しいけど相手も正しい・・・こ
れが真実です。誰にとっても自分の真実があり、それは自分にとってまさにホントなのですから。
そもそも、まったく違う環境、教育、体験を通して育った二人が、同じように感じるはずもなし。パートナーシップシップは、「お互いまったく違う」「その違いを探求しよう」ぐらいの気持ちがないと、いったいどちらが支配するのかという権力争いにおちいります。
「縁を感じた」というだけで、相手は自分の理想の人だという幻想をもち、すべてが自分の思いどおりにいってあたりまえと信じ込みます。勝手に相手を完璧に
したてあげ、少しでもそこからはみだそうものなら「こんなはずではない!」と目くじらをたて、さっそく相手を矯正しようとします。でも、さっきも書いたよ
うに、相手と自分はまるで違うのです。それに「好みの人」はいても「理想の人」なんて幻想に等しいでしょう。それを押しつけられても、押しつけられた当人
は困ってしまいます。うまくやるには、関係性の中で必ず努力や思いやり、また妥協も必要なのです。人間関係、とくにパートナーシップは最初からあるもので
はなく、しっかり手を入れて大切に育ててあげるもののようです。
また、関係性の中で相手と争うことを怖れるあまり相手の言いなりになり続けると、今度は相手に対するうらみ&つらみが鬱積しはじめます。やがて「自分の気
持ちにウソをついている」ツケがまわってきます。パートナーシップどころか相手に対する怒りとなり、それはあきらめに変わり、また自分に対するあきらめと
なり、人生に対するもあきらめとなり・・・無気力、無感動、無感覚へ。生きていることじたい何の楽しみもなくなってしまいます。
うまくいっているカップルというのは、すべてがはじめから同じに感じているわけではありません。ふたりの根底には「一緒に楽しみたい」という気持ちがあっ
て、戦うぐらいだったらここはゆずろうとか、自分の存在がおびやかされること意外は妥協するという姿勢がみられます。かなり重要なこと意外は、のらくらゆ
るゆるしているのです。そして、自分の正しさを貫くための「戦い」よりは、ちょっとは妥協しても二人でいる「平和」をめざしているのです。
そうなんですよね。人は全員違うのですから、違ってあたりまえ。ときには、相手の「ぎょえ〜っ!」と思う行動、考え方に遭遇するかもしれません。だからと
いって、自分の考え、行動が普遍の真理でもないわけです。そういう場合は、お互いどうしたいのかをよくよく確認し合わなければなりません。どちらかが我慢
するのではなく、できうる限り二人の希望の中間地点を探り、両方から歩み寄って妥協ポイントを二人でゆずりあう必要があります。怒りをためない上手なパー
トナーシップは、我をおしとおすわけでもなく、かといって我慢して犠牲者になるでもなく、柔軟になってお互いのここちよい落としどころを探ってゆく地道な
作業です。二人ともさっさと理想は手放して、素直に両方から歩み寄ってゆくことなのですね。
そうそう!この妥協点を見つけることと、もうひとつとても重要なポイントがありました!
(その2へ続く)
結局のところ、どんな人間関係においても「相手を変える」ことはできません。対象(相手)にイライラしているのも、ムカムカしているのも「自分の心」が勝手にしていることであって、相手にしてみたらどんな場面でこの人がイラつくのかムカつくのかなんて知ったことではありません。それをいちいち「あなたのせい」と言ってしまうと、自分が気持ちよく感じるためには世界中の人を正して歩かなければならなくなります。
幸せを感じるか否かは、自分の心の「反応の仕方」がすべてです。外側のものごとにどのような意味づけをしているのか?それによって、「ど〜でもいいや」という反応になったり、「絶対に許せない!」という反応にもなります。また、「相手は自分をハッピーにするべきである」「ロマンス小説や映画のように、パートナーはいつもやさしく愛を表現してくれなくてはならない」「男性とは(女性とは)こうあるべき」・・・と、どっかから持ってきた都合のいい信念を押しつけると現実とのギャップにバリバリ期待が裏切られることでしょう。
少々ムカついても死活問題にかかわることでない限りサラリと水に流し、なかったことに。一方、幸せを感じられそうなポイントではめいっぱいリアクションし、楽しさや喜びを増幅する。いわば、自分の反応の静と動の使い分けをする。これ、幸せを増幅する秘訣です。ものごと何にでもことごとく反応しないことなのです。ときには、無反応(右から左へと受けながし、即なかったことにする)ことを決め込むことも自分を守るうえで大切なのです。自分の感情の照準を、心地よいこと楽しいことに積極的にあわせることです。結局、ネガティブな感情をしょいこむことになるのは自分自身。自分の心の環境汚染は自分でしっかり守るしかないのですね。
わたしたちは物ごとを外側のせいにしはじめると、どんどん自分のパワーを失いはじめます。「あいつが悪い」「こいつのせいだ」・・・と自分には何の力も無いようにふるまい、いつも外側から何かが襲ってくる無力でかわいそうな自分をアピールします。しかし、みずから自分には力がなくて周りが力を持っているのだと言ってしまえば、もともとある自分のパワーを失うことになるのです。自身が本来持っている未来を自在に創りだす力すら放棄することになってしまいます。そして、みるみる自分の人生がコントロール不能に陥ってゆくことでしょう。相手のせいにする、というのはそれだけコワイことなのです。
一見、犠牲者はラクチンそうです。誰かが悪いと言ってしまえば、可哀想な被害者になり同情や注意ももらえそうです。でも、これは自分の人生の操縦桿をみすみすドブに捨てたことと同じです。ですから、たとえ何が起きようとも、何がやってこようとも、「はい、すべてはわたしの責任です。わたしの内面の反映です。わたしの中のものが映し出されているのです」と自分が創りだしたと言い切って責任をとってしまうところから、わたしたちは自分の外側にあることすべてをコントロールする力を自分の手の中に取り戻すことができるのです。
何かがイヤだと感じたら、「ふむ。わたしはいったい何に反応してるのかな?これはどうあるべきだと信じているのだろう?そう思うわたしは、いったい何に抵抗していて、どんな体験を避けたいと思っているのかな?」と自分の内側を探求してみてください。ほったらかしにしていた思わぬ心の痛みを見つけるかもしれません。見つけたらこっちのもの!気づいてしまえば、それはもう終わりを迎えます。そして、外側の抵抗していた敵は姿を消すことでしょう。
相手を責めるのは簡単ですが、自分の成長を考えたら「ちょっとイヤ」でも自分が変わる決意をしてしまったほうがおトクですね。自分が変われば外側はおのずと変わってゆきます。案外、いちばん変えてやりたいと思っていた相手が真っ先に変化しているのに気がつくかもしれません。外側の敵は、じつは自分の心の中の住人だったとは・・・・びっくりですね。責任をとる態度を身につけると心が安らかになり、心の波立ちがなくなれば人生のよい流れにも乗りはじめることでしょう!
まわりの人の言葉が気になるというクライアントのA子さん。「あなたって八方美人ね」と近しい人から言われ、ずっとそれを気にしているのです。
あなたにもそんなことありませんか?まわりからのあまり嬉しくない自分に対するコメント。それが心のトゲとなり、ずっとちくちく痛むのです。それは短所と
して自己イメージに加えられ、自分に対して悪い印象を持ってしまいます。「わたしって八方美人なんだ・・・誰にでも調子のいいいやなヤツなんだ」と。
しかし、ものごとには表と裏というふたつの側面があることを思い出さなければなりません。すべては短所にもなれば、また長所にもなる。「八方美人」だって
他の人に言わせれば、「人あがりがよくて素敵な方」「誰とでもわけへだてなくつきあえる気持ちのいい方」と、長所にもなりほめられちゃうのです。
人からの意見は、あくまでも「その個人」の「そのとき」の「ひとつの意見」にすぎないのです。その人は、独自の信念、経験、生育環境、教育、心の状態、そ
の日のご機嫌でものを言います。地球上のたった一人の意見を自分の真実として受け入れてしまうのは危険です(その意見が自分を気持ちよくしてくれるもの
だったら大歓迎ですが)。
世界には今や68億もの人がいて、そのうちのたった一つの意見です。68億分の1!もし、まわりの意見を聞き入れてしまうなら、68億通りのあなたが必要になってしまうでしょう。これは七変化の帝王カメレオンも真っ青。
だから、意見の丸呑みは危険です。まわりの意見はあくまでも「意見」として客観的に聞く習慣をつけましょう。「この人はそう思っているのだな〜」と。じゃ
あ、なぜこの人はそう思うのでしょう。たいてい、あれこれ他の人を批判したり価値判断するときは、そのひとが幸せではないときです。誰かを自分よりも下に
見て優越感を感じたい、自分の自信のなさをうめたい、と思っているわけです。あるいは、「人とうまくやれないコンプレックス」をうまくやれるA子さんに投
影して、自分へのいらだちを相手を責めることで解消している場合もあります。
人からのコメントに対しては、ちょっとクールになりましょう。「なるほど、この人はそう思うのか。ひとつの意見として聞いておこう」と。しかし、それがあ
まりにもひどいコメントの場合は、そもそも「受けとりを拒否する」ことです。勝手にその意見を却下しちゃいます。「それはあなたのもの(考え)であって、
わたしのものではありません。あなたにまるごとお返しいたします。以上」と心の中でつぶやきお返しします。何から何まで受け取る必要はありません。自分に
ふさわしくないものはお返しする、という毅然とした態度は自分の尊厳を守ることでもあるのです。注・返却はあくまでもイメージ。ケンカは売らないでね
(^。^;。
しかし、人に言われたことであなたが猛烈に怒りを感じるときは要注意。なぜなら・・・。
(その2に続く)
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サクラ、見〜つけた♪
もうすく、ここの景色は一変します。
人に言われたことであなたが猛烈に怒りを感じる・・・こんなときは何が起っているのでしょう?
相手に言われて「超腹がたった」「許せないと感じた」ときは・・・相手の発言がBINGO!!だった、まさに図星だった!、隠しもっていた劣等感にみごとにストライク!という時です。ホントのことは、ツボにはまりすぎて笑えないのです。カッとなっちゃう。受けとれない。人は関係ないことにはまったく反応を示しません。キョトンとするか、まったく理解できないか、この人なにを言っているのだろ〜と疑問に思う程度。しかし、ホントのことを言われちゃったときがいちばんヤバイのです。
だから、必要以上に腹がたっちゃったときは認めましょう。じつは、そうだったんだ、と。つまり、「まったくそうなんですよ。いやだわ!なんでわかっちゃったのかしら。隠してたのに・・・」と、自ら認めて笑っちゃえばいいのです。そして、ここが自分の弱点か!と認識すると、気づくことによって克服されてくるものです(クセや欠点はばれちゃったらおしまいなのです。自分に対してさえ、こっそりやっているところに醍醐味があるのですね)。
先ほども書いたように、自分に正当な自信があり、自分を認め、自分の人生をちゃんと生きている人は、そもそも他人に対してコメントしているヒマなどありませんし、他人のいちいちに興味などないのです。それよりも自分の現実と向き合い、それを変化させてゆくことに夢中。他人のことをとやかく言うときは、それだけヒマ、やることがないという時です。ですから、そのような方のお相手をしてしまうと、まさにいいカモにされてしまいます。
また、自分も他人のことが気になって仕方がないときも、赤信号。自分の人生に満足していないときかもしれません。他の人の揚げ足をとることに刺激を求めてしまっているのです。自分の人生の中で楽しいことを見つけましょう。
さて、こんな場合はどうでしょう?他人のコメントがほんとうに正しい場合。あなたが気づかなければならないことを言ってくれている場合。そういうときは、ちゃんと自分でわかるものです。痛いことを言われたな〜と感じるし、自分のエゴや優越感や計算がみすかされてしまった・・・(汗)という、バレちゃった感、バツの悪さがあるからです。そこには、自分の策略や隠れた意図があるのですね。他人に何か言われて良心が痛むとき、とても居心地悪く感じる時には、ウラがばれちゃった時です。さっさと指摘を受け入れて改善に務め、あとは水に流しましょう。
わたしたちは言葉にしろエネルギーにしろ、外側からやってくるものにあまりにも無防備だったりします。無意識に外側に反応していると、反応することに忙しい人生になり、なにひとつ自分で人生の舵がとれなくなってしまうことでしょう。何を受けいれるかは、身体にとり入れる栄養素と同じぐらい大切なことです。自分を傷づける、価値をおとす、気分が悪くなる、役に立たない、そんなものは断じて受け入れを拒むべきものです。身体をはぐくむ栄養素と同じぐらい、外からのエネルギーは大切なのです。自分を元気に明るくしてくれる、価値を認めてくれる、・・・・そんな外側からのインプットは大歓迎。大いに心を開いてとり入れましょう。つまり、ちゃんと自分で選択することです。
そしていちばん大切なことは、人生は反応するものではなく、自分が決めるもの、創り出すもの。この意識を持たないと、まわりにぶるんぶるん振り回されて疲れ果て、気づいたときには人生がThe End なんていうことにもなりかねません。自分のあり方、自分のものの見方、そして自分の未来さえも、自分で意識して選んでゆく意識をもつこと。そうすると、創り出す方向にエネルギーが流れます。そして創り出しやすくなります。そのためには、自分の心、感じていることに正直になることです。被害者ではなくて、創り出す人へ。すると、あんがい外側の世界は自分にやさしく感じるかもしれません。

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目黒セーヌは桜が満開!!おやつを買いに行こうにも、人ごみをかきわけなければなりません。
友人がやってきて、お花見第1ラウンド終了。あと、3ラウンド楽しむ予定です♪
セミナーを受けたはずなのに、時間が経つと“昔から引きずってきている自分”にかなり戻ってしまってる友人がいるけど」と相談されました。さて、変われる人と、なかなか変われない人との差ってなんでしょう?
まず、知っておかなければならないのは、人間には恒常性を保つ機能があるということ。平熱を保つ、体重を保つ(痩せてる人はそれなりに、太った人もそれなりに)、そして人格を保つ。きょう観た映画や読んだ小説によって、毎日コロコロ人格が変わってしまっては大変です。いったい、あやつは何者ぞ!ということになってしまいます(まあ、人格障害としてコロコロ変わる人もいますが・・・)。しかし基本的には、わたしたちは日々同じ自分を保とうと無意識の努力をしているのです。
たまに自己啓発セミナーなどでかなりショッキングな体験をして、まったくの別人28号になってしまう人もいます。しかし、必ずリバウンドがやってきます。ハイになっていた人はどん底へ。逆の方向に落ち込んでプラマイゼロにしようという心の働きが起ります。なので、そもそも人間は突然変えては副作用がある。そして、またもとに戻ってしまうということです。そのためには、地道に気づきを重ねるか、セラピーなどでやわやわと目覚めてゆくのがよい方法です。だましだましのようですが、変わるそのときには勝手にど〜んと気づきがやってくるものです。
そもそも、しつこい幼児体験、つまり両親に五百回位言われて培われたある習性を、たった一回話しを聞いたり本を読んだだけで変えようとするのはムリがあります。幼児体験だけでなく、何千年も前の過去生的な思い癖もあります。しかし、おもしろいもので、たった一回の、ホンノささいな一言で、すべてが変わってしまう人もいます。確かにいるのです。一回のカウンセリングにいらして、目からウロコが一万枚!そのような方は、ずっとずっと心の中で答えを探し求め、出口を手探りして、その一言がツボにヒットしてしまったということなのです。その人の心が求めた結果なのです。
ある一言が「知識」としてではなく、「気づき」としてお腹におちたとき、「おおっ!そうか!」と「腹の底からわかった」体験をします。一言で大きな気づき、変化がやってくる人は、まさに「お腹に落ちた」のです。一方、「ほうほう!そうですか」という右から聞いて左に流す聞き方ではこれは起りません。たとえば、クライアントにとってよい本は、うんざりするまで読み込むことをおすすめしています。「頭でわかった」レベルを越えないと、気づきはやってこないからです。もう、書いてあることは十分わかった!というレベルから読み込むと、文章の深い智恵が語りかけてきます。著者が理解していたのと同じレベルにたどりつきます。そのときに、「ああ、ほんと〜にわかったぞ!そういうことだったのか!」という深い気づきがやってくるのです。
たまに男性クライアントさんで、何かお話すると「ああ、それはもう知っていますよ。これこれこういうことですよね」「そのことについては聞いたことがありますよ」と知識として知っている段階から決して前に進もうとしない方がいます。知識のテストをしてるわけではなくて、それを「生きているかどうか?」を問うているのです。「知ってることと」と「それを生きていること」には雲泥の差があります。ある役に立つ知識を知ったら、それを自分の人生にどう取り入れるか?それを生きてみて、どんな自分を発見できるのか?自分で体験してみなければなりません。往々にして中年の男性(すべてではありませんが)は、「知っている」と言ったら、それ以上そこから考えたり深めたりすることがないことがあるのです。まるで、それ以上進むことを怖れているように拒絶に入ったりします(本心を観られるのを怖れているようにも見えます)。ですので、「変われる人」の特徴としては、「知ってる」「わかった」で片付けずに、自分の人生で実践、行動してみて、それがどうなるのか、どんなふうに感じるのか、どんな結果になるのかをちゃんと体験できる人。行動に移せる人です。そうすると、次ぎのレベルへの階段は自然と降りてきます。
そして、もう一つ大切なことは・・・。
(その2へ続く)
そして、もうひとつ「変わる」ために大切なこと・・・それは、「自分の人生は自分が創りだしている」ということに気づくことです。ですから、「ホントにホンキで、マジメに変わりたいと思っている人は変われる」ということです。しかし、ここで作用するのが、その人の信念です。いくら変わりたいと口では言っても、変わることに対してどんな思い込み、信念を持っているか注意深くならなければなりません。
「変わりたい」といいつつも、「変化には努力がいる」とか「わたしは何をやってもうまくできない」とか「変化はこわい」とか「わたしは変化するには値しない(いいものを受けとるに値しない)」、あるいは「現状では被害者になれるので、責任をとらなくても良いからこのままがいい」などなど。心の底で信じていることが、新たに創り出そうとする現実を邪魔してしまいます。これらの信念はいくつかの消去の方法がありますが、まずどんな信念を自分がもっているのかを探ることが大切です。そして、ただその存在を見つけると、一体化していた信念から自分を引き離すことができます(それに気づくということは、外側からそれを見ているので、自分とそれはもう別々。それとは、離れているのです。)信念と一体化しているとそれに支配されてしまいますが、いったん分離してしまうと(信念を見つけてしまうと)、もうまったく影響を受けなくなる場合もあります。
実際、「変わる」ことは簡単なことです。それをちゃんと心にとめておくことがまず大切です。すべては簡単だ!と。「ぜ、ぜ、ぜったいに変わってやるぅ〜〜!汗」とリキむのではなくて、ただ「よし!変わろう」と軽やかに決めれば、それはやってきます。リキめばリキむほど、自分にはできない!大変だ!と暗示をかけてしまいます。ほんとうに決意しているときには、とってもかる〜いのですよ。そして、いちいち「あ〜だ!」「こ〜だ!」と言わないことです。ただ、「よっしゃ!軽く変わるぞ!それも楽しく」と思うだけでOKです。それほど、シンプル。決意は簡単なことなのです。自分の人生の現実を創り出しているのは自分、いつも舵取りをしているのは自分、それを理解し意識的になれば、恒常性を保とうとする心の壁も突破できます。
いつも自分の道を妨げるのは、唯一自分の意識だけです。それをなだめるためには、戦わず、リキまず、ただただかる〜く「そうなんだ!」と思うことです。軽さはとっても大切。
しかし、今、世の中では気づきのレベルがどんどん上がってきています。つまり、「百匹目の猿現象」がまさに起きつつあります。気づいた人の数が急激に増え、ある一定の数に達すると、残りの人たちは努力なしである日突然気づけるようになってきているのです。何よりも大切なことは、新しい考えを受け入れる「心の素直さ」、「ものごとは簡単だ!」とリラックスすること、そして自分を信じてあげることではないでしょうか?(ホントに軽く「そ〜なんだ!」と思ったら、それはそうなのです!)
そして、日々進化成長してゆく自分に対して、しっかり心と身体と魂によい栄養を与えてあげてくださいね。それは、あなた自身を楽しむこと、あたえられた生を味わうこと、日々をいつくしむこと、そして「今」にしっかりととどまること♪
友人から ”スージーへ” というメールが届きました。
わたしスージーちゃんじゃないんですけどぉ・・・とおもいつつそのメールを読んでみると、そこには小さなお話が添えられていました。
日本語に訳そうかとも思いましたが、そのままの文章で引用することにしました。下にミニ単語帳をつけておきますので、英語のお勉強がてらお楽しみください。
わたしの人生にもフォローの天才といえるスージーちゃんがいますよ〜。このメールをくれたのも、まさに one of my Susies。みなさんの人生にもきっといるスージーちゃん♪
それに、神様はいつだってわたしたちの助けの声は welcome なのですよね。でも、わたしたちが「助けて〜!」って心を開かないこと(自分一人で「あ〜だ、こ〜だ」しているうちにすでに手遅れになるパターン)、あるいは「助けはいつでもそこにある」ことを信頼しないのが問題なのでしょう。遠慮なく叫びましょう、”This is an emergency! I need help now!"
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WET PANTS
Come with me to a third grade classroom..... There is a nine-year-old boy sitting at his desk and all of a sudden, there is a puddle between his feet and the front of his pants are wet. He thinks his heart is going to stop because he cannot possibly imagine how this has happened. It's never happened before, and he knows that when the boys find out he will never hear the end of it. When the girls find out, they'll never speak to him again as long as he lives.
The boy believes his heart is going to stop; he puts his head down and prays this prayer, 'Dear God, this is an emergency! I need help now! Five minutes from now I'm dead meat.'
He looks up from his prayer and here comes the teacher. She will soon notice his situation and everyone will know!
As the teacher is walking toward him, a classmate named Susie is carrying a goldfish bowl that is filled with water. Susie trips in front of the teacher and inexplicably dumps the bowl of water in the boy's lap.
The boy pretends to be angry, but all the while is saying to himself, 'Thank you, God! Thank you, God!'
Now all of a sudden, instead of being the object of ridicule, the boy is the object of sympathy. The teacher rushes him downstairs and gives him gym shorts to put on while his pants dry out..... All the other children are on their hands and knees cleaning up around his desk. The sympathy is wonderful. But as life would have it, the ridicule that should have been his has been transferred to someone else - Susie.
She tries to help, but they tell her to get out. You've done enough, you klutz!'
Finally, at the end of the day, as they are waiting for the bus, the boy walks over to Susie and whispers, 'You did that on purpose, didn't you?' Susie whispers back, 'I wet my pants once too.'
Each and everyone one of us is going through tough times right now, but God is getting ready to bless you in a way that only He can. Keep the faith!
puddle・・・水たまり I'm dead meat・・・一巻の終わり
trip・・・つまづく inexplicably・・・どうしたことか
dump・・・投げ下ろす ridicule・・・あざけり
klutz・・・ばか、まぬけ keep the faith・・・信頼を貫く
PS 写真のバラ、これホンモノです♪
ルクエかな〜? タジンかな〜? いや、ルクエか?
このところずっと悩んでいたのですよ。これ、ルクエ社のスチームケースと、モロッコ生まれのタジン鍋のこと。どちらも、野菜やお肉を放り込むだけで、蒸気の流れを生かして素材本来のおいしいお料理が素早くできるすぐれものの調理器です。
タジンは、高々した三角帽子が収納にかさばりそう・・・。一方シリコン製のルクエはけっこうフニャフニャで耐熱タッパーとどこが違うのか?それに、どちらもけっこうなお値段。
お店で二度ほど吟味した後、仕事が忙しくなって忘れてしまいました。
したらば・・・来ましたよ〜!タジンくんが、勝手に。
バースデープレゼント予告編だそうな。しかし、ひとことも口に出していないのに、なぜ欲しいのがわかったのか?すると、背後霊のようにわたしの後ろにタジンが見えたとか・・・(笑)。ホンマか?!
なるほど〜。欲しいものにはしばし強烈に注意を注いだあと、それがどうやってやってくるかなんておかまいなしに、スコッと忘れてしまう。これぞ、執着がない証拠。執着は流れを妨げます。・・・・すると、かくのごとく簡単にブツは引き寄せられてくるのですね〜。微妙にタジンに軍配があがったのは、「タジンは直火もレンジもオーブンもよいのか〜」と感心していた証かもしれません。
他のことでも、こんなふうにスバッと濃厚な注意を向けて、スコッと忘れる・・・ができれば、もっといろいろなものをばんばん手にできそうです。これぞ、現実創造のキホンのキ!ネチネチ考え続けちゃうのは、それだけ疑いや不信のある証拠。疑いと不信を増殖しかねません。
さて、このタジン、さっそくセロリ、人参、マッシュルーム、サーモンを放り込み、塩コショウ、白ワイン、レモンで味付け、レンジでたったの4分。きゃ〜、超簡単でおいしい!!限りなく、横着になりそうでちょっとオソロシイしろものです。
バースデー予告編がタジンってことは、本番はルクエだったりして。ん〜、ワガママ言えば、他のものがいいんですけどぉ〜・・・。こんなふうに抵抗していると、もれなくルクエがやってきそうな気配(抵抗すれば、もれなく「それ」はやってきます♪それを確実に手にする唯一の方法、それはただ「抵抗すること」なのです)。

PS しゃちょ〜!!そこから出てくださいっ!そこは社長室ではありませんっ!(汗)さもないと、調理しますよ。
(おなじみ、うちのギズモしゃちょ〜でした。→)
「男性運がホトホトないんです・・・」とクライアントのA子さん。
「ようやく彼氏ができたかと思えば、妻子持ち。これではダメだと思い別れたものの、出会うのはあきらかにダメ男ばかり。とにかく、フツウの人がいない。わたしって、そういう星の下に生まれてしまったのでしょうか?」と。
わたしたちは意ににそぐわない現実が続くとき、「わたしって運がない」「そういう星の下なのね」・・・と星占いや運勢のせいにして自分を納得させようとします。が、このあきらめ方はちょっと残念。
もともと運がない!と言いきってしまうと、運がない人生が目白押し!さらにひどくなります。「不運だ」といいながら、「強運になる」ことはありえないでしょう。「強運スイッチ」はすでに切れています。
また、占いにしても「えっ?そうなの・・・」と簡単に内容を受けいれてしまうと、その占いに自分をあけわたしてしまい、結局支配されてしまうことになりか
ねません。心理学でいう「預言の自己成就」、つまり無意識のうちに占いを成就させるような行動を自ら起こして、「わっ!やっぱりこの占い当たった。スゴイ!」とびっくりします。
しかし!!・・・運というのはもともとカッチりと決まっているわけではないのです。じつは、ほとんどが自分で創るもの。自分の自己責任です。
もちろん、どの時代に生まれるか、男か女か、どんな容姿か、どんな人を両親に育つか、そして生まれながらの性格などなど・・・おおまかな土台、初期設定は存在します。けれど、これは単なるゲームのスタート地点にすぎません。そこからどれだけの変化を自分で創り出してゆけるのか・・・が、このゲームの醍醐味でしょう。ハンデがついたり、ハプニングが続出するスポーツやゲームは人をひきつけます。予想ができないからこそ楽しいのです。でも、ハンデやハプニングが結果をきめてしまうわけではありません。
いっけん「運」「不運」のように見えるもの、それはじつは自分の心が生み出したたんなる出来事にすぎません。いっつもネガティブな考え方をし、怖れや敵対心を抱きながら、ある日カラリと超ハッピーな人生になるなんてありえません。一つ一つの出来事に過剰に反応することなく、ポジティブな目線を持つとか、今を楽しむとか、人も自分も大切にする、明るい希望をもつ・・・そんなささいな積み重ねがじつは大きな違い、「運」につながってゆくように感じます。
つまり、わたしたちは自分の現実を一瞬一瞬選びとっていることに気づいていないのです。時間は連なってゆきます。「今」が「その次」につながり、次の今が創り出されるのです。だから、自らが選んで現実を創り出していることに気づき、意識的にならないかぎり、ほとんどが無意識のうちの過去の繰り返し、同じものが創り出され続けることになりかねません。「現在」に何らかの変化を与えないかぎり、過去と同じものが繰りかえされるだけなのです。
自分にとって何かパターン化した「うまくいかない問題」がある場合、おもしろいことにそれがどんなにひどい現実であっても、あなたの潜在意識はあなたにとって「よかれ」と思って自動的に選び続けていることがあります。それがどんなにひどくて、どんなに悲惨で、どんなにつらくても、けっしてやめない。つまり、心の底では「それが好き♪ 」「ベスト♪ 」「 やめたくな〜い♪」と思っているのです。もし、他のものが本当に好きだったら、とっくにそちらを選んでいることでしょう。ということは、苦しいけどこれをやり続けたほうがよい、という隠れたメリットがあるようです。
自分を痛め続ける悲惨な状況を繰りかえすメリットって・・・いったい何なんでしょう?
(その2へ続く)
この心の底で思っている「好き♪」「やめたくな〜い♪」が、くせものなのです。
たとえば幼少期、忙しすぎて相手にしてくれない大好きなママ。そのママからた〜くさんの愛情をえる秘策として、「病弱」な自分を創り出したとします。弱ければ弱いほど、心配をかければかけるほど、愛情や好きな食べ物、オモチャ、ほしいものは思いのまま。ある意味、悲惨であればあるほど効果的と心に決めたことでしょう。
この病弱をやめちゃったら愛情は手に入らないと信じているので、健康になんかなってたまるか!、つまり病弱が好き♪やめたくな〜い♪というわけです。そして、大人になっても病弱・ひ弱さんをやり続けます。でも、本人はこの愛情をえるための苦肉の策のことなど、すっかり忘れています。もともと、無意識に行われているので気づくことができません。
そして、大人の世界ではその秘策が自分の首を締めはじめます。なんで自分はこんなに弱くて仕事を休んでばっかり・・・。完全にまわりから遅れをとっているし、クビになっちゃうよ〜と困り果てます。そして、何かがひとつうまくいかないと、すべてがどんどん悪くなる・・・。これは、ことがうまく運ばないと、自分を悲惨にすることによって優しくしてもらおうとするパターン化した行動です。これは、ひどい悪循環。
た〜くさんの愛情をえるために・・・こどものときはこれでうまくいったかもしれません。が、今や、やり続ける必要はないということに気づきません。愛情をえるには、他にも方法があるのです。しかし、そこに気づけない。その昔うまくいってしまったことは握りしめてやめられないというわけです。明らかに苦しくなってゆくというのに、やめようとしないのです。
このこどものときに役立っていたプログラミングは今なお働き続け、しかしそのカラクリはとっくに忘れさられています。いったん役に立つと思い込んだでしまったら最期、ちゃんとそれに気づいてリセットするまではそのプログラミングは生き続けて効果を発揮しているのです。これが、意にそぐわないこと、自分が困ることが人生に起き続ける原因となります。
過去、自分をハッピーにするために心に決めたことによって、現在の自分の首をしめてしまうわたしたち。状況がどんどん苦しくなってゆくようなときは要注意。間違った道を驀進していることに気がつかなければなりません。「どんどん悪くなってゆく・・・。これってパターン化してない?」と気づくことこそ、方向転換のためのシグナルです。
そんな役に立たないパターンをさがすために、A子さんにこんな質問をしてみます。
「そんなことはないと思いますけど。もしも、もしも・・・ですよ、意識的にダメな相手を選んじゃっているとしたら、なぜなんでしょうね〜?」とわたし。
「えっ?意識的にえらぶ・・・?・・・? そんなはずありません」とA子さん。
「でも・・・もし、仮にそうだとしたら?」
「(長い沈黙)・・・ああっ!!・・・」と、何かに気がついた様子のA子さん。
(その3に続く)
ハタと気づいたA子さんいわく・・・、
「自分が”ぞっこんになってしまう”のがコワイ・・・のかもしれません」と。
「ぞっこんになると、どうなっちゃうの?」とわたし。
「相手にふりまわされちゃう・・・自由がなくなっちゃう・・・・自分自身や自分の人生がなくなっちゃうみたいな」とA子さん。
さらに尋ねてゆきます。
「それに、わたし、コントロールされたくないし・・・・パワーを奪われるのもいやだし・・・」、ああだし、こうだし、そうだし・・・・と会話は続き。
たくさんの信念を掘り出したあと、突如何かひらめいた様子のA子さん。
いきなり、わっと涙しながらひとこと。
「(涙)・・・わたし・・・わたし・・・一人ぼっちになりたくないんです。一人ぽっちにならないために、そのために、ぜったい一人でいなくちゃいけないんです!」
え?一人にならないために、ぜったい一人でいる・・・?ってどういうことでしょう?意味的には矛盾しています。
「誰かとうまくいっちゃいけないんです」とA子さん。
つまり一人ぼっちがコワくて仕方がない。だから、誰かを好きになって、その人がいなくなってしまうショックにはとうてい耐えられない。だったら、いっそのこと最初から一人ぽっちでいれば、安心だし安全だ。傷つかない。自分を守ってあげることができる。好きな人に出会ってしまうと、最終的にはひとりになってしまうリスクがある。だから、自分が好きになってしまう人とは出会わないようにしなければ・・・と、A子さんの潜在意識はかたくなに信じていたのです。そして、それにそった現実を創り出していたのですね。
これには本人さえもびっくりでした。だって、だれが聞いたって、本末転倒。「ひとりにならないために、ひとりでいる」なんて。結局は一人じゃないの??と。
これは、エゴの苦肉の策。はたからみるとこの策略、まったく筋が通っていません。目的にそぐわないトンチンカンな努力なわけです。でも、心ではこれが正しい方法だ!と信じてやっているわけです。ときおり、わたしたちの心(エゴ)は、こんなわけのわからないことを力いっぱいやって、それにエネルギーのすべてを費やしています。だから、本当にやらなくちゃならないこと、やりたいことまで手がまわらないのです。でも、これもすべて自分を幸せにできると信じでやっているのですよね。(けなげ・・・といえば、けなげです。)
ほんとうの信念が見つかったときには、その信念を創った痛みともヒットするので涙がボロボロ出てきたりします。同時に、あきれた信念を見つけた喜びで、泣きながら大声をあげて笑うA子さん。
無意識は意識にのぼらせることによって、消し去ることができます。また、信念というエネルギーとして解放してあげることができます。この「一人ぽっち信念」は消去して、「わたしは、つながる喜びを感じている」というものに置き換えました。
わたしたちは気をつけなければなりません。人間には馴化という、どんな状況にも慣れてしまうスゴイ力があります。幸せでないはずなのに、知らず知らずのうちにそれに慣れてしまうのです。でも、わたしたちは、もともとよい方向に進化して行くようにできているのです。日本人は「耐える」ことが美徳だったりしますが、自分の中のツライ、カナシイ、ミジメ、なんかおかしい感覚には敏感になって、ちゃんと自分を保護してあげましょう。
さてさて、A子さんの恋愛運はこれからどうなることやら?楽しみですね〜!!頭で理解する程度のことでは人生に変化を創り出すのはむずかしかったりしますが、潜在意識が握りしめていたパターンをはずしてあげるとそれが現実に投影されて、環境や体験、または自分の考え方の変化として現れてきます。A子さんいわく、「なんだか、もう大丈夫な気がします!」と心強い返答。心のいらないゴミを捨てると、今まで信じられなかったことに対して簡単に確信が持てるようになります。
それにしても、わたしたちのココロのしくみっておもしろい。つじつまさえあっていないけれど、それでも必死に自分を守ろうとしているけなげさには感心します。でも、そのけなげさこそもっと正しい方向に向け直したら、さぞパワフルな現実を創れることでしょうね♪ Good Luck、A子さん♪その後のご報告、まっていま〜す。
セッションを終了したB子さんからのご質問。「今はとってもいい気分。手っ取り早く、しあわせをキープし続ける方法って何でしょうか?」と。
「手っ取り早くしあわせでいる方法ね〜」・・・。とっさに答えたのがこんな方法。(「とっさ」は思考が働くひまがないので、けっこう深かったりします。)
まず、「しあわせ」っていう言葉じたいが、青い鳥のようなもの。「王子さまとお姫さまは生涯しあわせに暮らしましたとさ・・・」という物語で教育されると、「しあわせ」は一回手にしたら永続的なものだと勘違いしてしまいます。でも、たいていの「しあわせ」感って、一瞬キラリとやってきては去ってゆくもの。(もちろん、その下に脈々と流れる静かなしあわせ感はありますが)。
ずっと、ちゃんと、完璧にしあわせでいなければと思ってしまうと、「しあわせ」感は感じにくくなります。「しあわせ」の中身って・・・たとえば、心楽しい
感じ、嬉しい感じ、愛しい感じ、ありがたい感じ、誇らしい感じ、希望が持てる感じ・・・といろいろな感情があり、それらはすべてあるときやってきては去ってゆくもの。(去って行ってもじつは、ちゃんと心に蓄積されているのですが。)ですので、まず、「しあわせ」という単語よりもこれらの小さな感情をたくさん体験できるようにしてあげることが大切ですね。
その1 比較をやめる。ぜんぶ、「これでい〜のだ!」
苦しみのほとんどは、他と比較することから生まれます。比較から優劣がうまれ、優があるからこそ劣がやってくる、という果てしないUP DOWN ゲームに巻き込まれます。自分の体験、自分の持ち物、自分の容姿・・・そうなんだから、それでいいじゃないですか。
あと、現状に対して、「ま、いっか!」を口グセにするのもおススメです。そのぐらいユルく構えましょう。
その2 「今」を好きになる
今がイヤだから、いつか幸せになる・・・。といっても、いつまでたっても、どこまでいっても、自分が直面しているのは不思議に「今」ばかり。人生は「今」の連続。「いつか」は幻想なのです。
自分がいる場所がいつだって「今」なのだったら、「今」、たった「今」、ちょっと口角を上げて微笑んで、とりあえず生きてるし、とりあえず笑えるし、悪くないんじゃない?幸せだわ♪と言ってしまいましょう。
その3 一日にいち感動以上
「感動するようなことなんてありませ〜ん」と言わないでくださいね。たとえば、昨日のわたし。「お散歩中、おもわぬところからクチナシのいい香り!ああ、シアワセ」「雨の日割引で、クスリ屋さんで1000円ゲット、ありがたいな〜!」などなど。いろいろびっくりできるし、喜べる、感謝できる、エキサイトできる、愛しく感じる・・・これ、心をフレッシュに保つ秘訣です。やって来ては去って行く、こんな日々のプラス感情をいつくしみましょう。
また、たまには、感動ものDVDで爆泣きもおススメ。
その4 自分に正直に
自分の最期がやってきたとき、いったい人は何を後悔するのでしょうか?・・・それは、自分に正直でなかったこと。自分が本当にしたいことを自分にさせなかった、自分が本当に言いたかったことを伝えなかった・・・など自分に対して不正直であったこと。
だから、日頃から小さなことで自分に正直になる習慣をつけましょう。スーパーでヨーグルトを買う、カフェでスウィーツをオーダーする・・・こんなささいなことでも、体脂肪やら、ダイエットを考えてばかりいるのではなくて、自分の気持ちを聞いてあげる練習をしましょう。小さなことができるようになると、イザというときに自分の気持ちに正直である習慣がつくでしょう。
その5 人と自分が喜ぶことをする
自分のことばかり年がら年中考えていると、どんどん自分がちっちゃくなってカチカチに萎縮してしまいます。一方、人を気遣うと、エネルギーがまわりに放射されて、その思いやりの波動に引寄せられて楽しいこと、嬉しいこと、ラッキーなことがやってくるのです。エネルギーは外へ外へ。そして、まわりに自分を与えるとき、その贈りものと引きかえに、きっとあなたの欲しいものがやってきます。キリスト教では、そっといいことをすることを「天に宝を積む」といいます。この宝の量が、「運」でもあるのですね。
そして、自分を意図的に忘れ、まわりや他人に注意を注ぐこと、これは心地よく健康な毎日を送る秘訣でもあるのです。
あなたの近しい人が超不機嫌なとき、あなたはどうしますか?そりゃ、たま〜にだったら相手をしてあげるけど、コンスタントに不満やグチ、文句たらたらな人はいただけません。
そんなとき、
・黙って聞く(そうしなければならないと思っている、あるいはヨイ人でありたいと思っている)
・さっさと逃げ出す、あるいは聞くふりをして聞いちゃいない
・相手にどうして欲しいのか聞く
たいてい、ちゃんと聞いてあげるのがよきパートナーや友の証だと思っていたりします。わたしも以前はそうでした。無防備に全部聞いていたのです。すると、だんだんそれがエスカレートして次から次へと吐き出される。まるでわたしは、具合の悪い人に洗面器をさし出している人のよう。きゃ〜ん!キミはさぞすっきりしただろうが、その後わたしはこれをどうすりゃいのだ!?・・・ってことに。誰かの感情の洗面器になってしまうことはよくあることではないでしょうか?
注意したいのは、感情はSARSやノロウィルスなみの感染力あり。不機嫌さやイライラが発せられるやいなや、それはあっというまにまわりの人の気分を汚染して、その広がりは津波のよう。(キケン警報を発令しなくっちゃ)
もし、自分がハッピーでいたいと思うなら、わたしたちは病原菌から身を守るようにこの無防備にまき散らさせるイライラやら不機嫌菌からも身を守らなければなりません。無防備でいてはいけないのです。とくに、近しい人に対しては。なにしろ、汚染はすこしづつ忍びより、気がついたらすっかりアンハッピーなわたしになっているかもしれません。
そもそも、感情は相手が好きで感じているものであって、その責任を誰かがとってあげる必要はないし、ましてや同じように感じてあげる義務もないわけです。同じように感じてあげても、「最悪な人」がもう一人増えて感染力がアップするだけです。それに、感情をまき散らす人は環境汚染そのもの。このエコな世の中、自分の感情の処理だってちゃんとできなければならないのです。
さて、イライラ、ブツブツ、プリプリ、タラタラなネガティブ人間にはどう対処しましょう?
わたしの場合は、相手がめちゃくちゃ機嫌が悪くて感情を垂れ流しているな、と感じたら、すかさず尋ねます。
・ただ、黙って聞き役になってほしいのか?
・やさしくなぐさめてほしいのか?
・解決策を一緒に考えてほしいのか?
・ただ、あたりちらしたいのか?
黙って聞く場合には、「じゃあ、三分でめいっぱい怒りや不快感を出し切って!全力でね。三分たったらおしまい!」と手短かに盛り上げちゃいます。長々やるよりも、一気に解消するのが効果的。もし、あたりちらしたいのであれば、人間相手はご遠慮いただいて、サンドバッグとか、枕とか、モノにあたっていただきましょう。
この選択肢は結構効果的です。なかには、感情は人にぶつけてあたりまえと思っている方もいらっしゃるので、その場合は教育も必要になってきます。「感情は、そもそも本人が感じているのだから、その本人の責任であること。だから、たれ流しは公害なのです」「そして、機嫌が悪いとき、上に書いた選択肢の中から人に助けを求めることができる」ということ。つまり、しばし聞いてくださいとか、傷ついています、なぐさめてください、とか。「まき散らしてあたりまえ」と思っているとしたら、それは大きな間違いです。
そこで、上手なグチり方も学ばなければなりません。上手なグチり方とは・・・?
(その2へ続く)

PS 本日は柿の木坂「Quatre(キャトル)」
で書いていま〜す。静かなのでMy書斎です。ここのスウィーツはおいしいけど、応対してくれるおねえさん、そしてアイスティーのグラスが華奢すぎることがイマイチなのです。が・・・きょうは、なんと極上の笑顔のおねえさん &アイスティーも大ぶりなしっかりしたグラスにたっぷりでした。(^_-)-☆ ノドの痛いのをいたわって、きょうはクレームキャラメル♪
先日、セミナーにご参加になったCさんから、ご質問をいただきました。
「夏にピッタリ怪談話よりも怖いかも??しれない質問が有ります。それは・・前回セミナーで、その対象にこだわっていると「喰われる」という表現をされていました。その際に、喰われるというのは、まだ相手の方の魂が悪戦苦闘されている、もしくはいつも愚痴を言ったり、と超ネガネガなその相手の存在から自分のエネルギーを喰われるという理解でよろしいでしょうか?」
はい、確かに。わたしは、セミナーやセッションの中で、「喰われる」という表現を使うときが多々あります。「物事に執着したり、抵抗すると、喰われるので気をつけてくださいね」というように。それは、べつにホラーな意味合いではないのですが(笑・夏だからホラーのほうがいい?)。
もちろん、Cさんの解釈も正しいものがあるのですが、この場合はこんな感じです。
日々、わたしたちの目のまえにはさまざまなことが繰り広げられます。楽しい出来事もあれば、金輪際体験したくないようなつらい出来事もあります。しかしそのいずれもが、そこにとどまり続けることはできません。「すべては流れてゆく」 ・・・それがこの世のならわし。そしてまた、流れさせてあげなければなりません。流れれば次の体験、学び、成長がやってくるのです。
しかし、ときにわたしたちは、その流れをせき止めてしまうことがあります。
それは、わたしたちがある特定の出来事に過度に反応してしまう場合に起ります。たとえば、恋人に突如別れを告げられた女性がいたとします。もちろん、誰でも落ち込みます。そして、別れの原因は、たいてい双方に同じだけあるものです。でも、いつまでたってもクヨクヨジメジメ執着から抜け出せない場合。「なんで彼は別れるなんて言ったのかしら?ひどすぎる。わたしの何がいけないっていうの?そもそも、わたしってまったく価値がないのかも。そういえば、昔の彼にもひどいことを言われたことがあった。やっぱりわたしなんて、誰も愛してくれない。親がちゃんと育ててくれなかったから。どうせ、一生誰にも相手にされないわ。・・・」
というように、「二人の関係はうまくゆかなかった」という事実を受け止めることをせず、結果に激しく抵抗します。過度に反応するあまり、ネガティブさがどんどん肥大化していくのです。それは、今起っていることにとどまらずに、過去の同じような痛みをひっぱりだし、はたまた幼少期の体験にまで及び、思考はどんどんネガティブ化し、悲惨な感情は雪だるま式に大きくなってゆきます。
これが、ものごとに「喰われてしまった」状態です。流れてゆくはずのものが、べったりと膠着状態。まるでアロンアルファでくっついたようです。それもそのはず、注意を注げば注ぐほど、体験に抵抗すればするほど、それは大きくなってそこに居すわり続けます。そして、事実とはかけ離れて大げさになったドラマの中に、ついに取り込まれ、どっぷりその気持ちにつかり身動きができなくなります。受け止めるべき事実は、「ただ二人はうまくいかなかった」・・・それだけなのに、自分がふくらました妄想の中に取り込まれてしまっているのです。
例えば、ドラゴンを退治するにしても、喰われてしまったらもともこもないわけです。退治するためには、ドラゴンの外側にいなくちゃいけない。食べられちゃったら、ドラゴンに吸収されて、しまいには一体化するしかないのですね。
思い出してください、すべての出来事は、”ほっておけば”通り過ぎてゆくのです。それは、目の前を行き過ぎる雲のかけらのように、ただ右から左に流してあげれば過ぎ去るもの。しかし、それに抵抗するやいなや、わたしたちは雲の中に突入して、視界を奪われどこにいるのかもわからなくなってしまいます。気がついたら、にっちもさっちもいかない問題のさなかにいることでしょう。そして、ただちょっと通過するはずだったアンハッピーといつのまにか一体かしているのです。つまり、「アンハッピーそのものなわたし」になっているのです。
行き過ぎる雲をスルスル通過させるためには、「価値判断」をしないこと。特に、ネガティブな反応をしないことです。もともと、ものごとはそうあるだけでなので、そのまま流してあげましょう。「ぎゃ〜、いやだわ!こんなことが起るなんて許せない。あいつのせいにきまってる。こんなことがあっていいはずがない」・・・な〜んて、バリバリに抵抗すると、不穏な雲の中にあっという間に吸い込まれてしまいます。そうしたら、あたり一面、真っ暗で「信じられない」ことだらけ。
そうはならないように、何がやってきても、「あら〜、こんな雲がやってきたわ。おもしろいね。・・・でも、ま、いっか。さっさと、行っちゃってね〜。バイバ〜イ!」と流れさせてあげてください。すると、遅かれ早かれ、注意をひけなかった雲はただ流れていなくなるしかないのです。
雲を流すのが上手になると、青空が澄みわたってきます。つまり、気分が明るく、こだわりなく、クリアになる、ということ。そうすると、地上にも影のない世界が見えてくるようですよ〜。楽しみですね。
きょうも暑〜いけど、空が青いです。
街路樹がぴゅ〜ぴゅ〜風になびいて、そのむこうで雲がつぎつぎに流されてゆきます。
そう、この白い雲のようにすべてのものごとはやってきてはどんどん通り過ぎてゆくもの。そして、わたしたちの頭の中に浮かぶあれこれも、浮かんでは消えて行くもの。
わたしたちは、ただ青い空のごとく、そこにいて静かにそれを見守ってあげるだけでいいのですよね。文句を言うことなく、ジタバタすることなく、またしがみつくこともなく・・・。
空はもともと澄み渡っているのだから。すべてを流れさせてあげましょう。
日々の暮らしで、ふ・・・と人の優しさにふれて、それがず〜と心の片すみに灯をともし続けるような体験になることがあります。ほんのささいな心のなごむ親切から、ほんとうに救われた!と手をあわせたくなるような出来事まで。そんなとき、日常の中に姿をあらわした天使の存在を感じるのです。
私の場合は、海外であたふたしているときほど天使との出会いが多いよう。それはささいなことから、とても大きな救助といえることまで。そんな天使たちを数名ご紹介しましょう。
まず、ちっちゃな灯りをともしてくれた天使さん。
フロリダでお土産ショッピングをしてたときのこと。
支払いの段になってドルが足りないのです。それも数ドル。お財布やらカバンのあちこちをひっくりかえして、どこかに余分なドルが隠れていないかあたふたしていると・・・・ふっと後ろから静かにさし出された数ドル札。
見るとそこにはオジサンが立っていて、「数ドル?あるある、大丈夫!」という表情で無言のままごく自然に払ってくれたのでした。もうその場限りで会うこともないのに、オジサンは「よかったね。買い物ができて」というように微笑んでいました。
相手にまったく罪悪感や申し訳なさを感じさせないで受けとらせてしまうオジサンのテクニック(というか、雰囲気)、すごいな〜と感じましたよ。フロリダのオジサン天使さん、ありがとう!わたしもこんな場面があったら、ごく自然に楽しく与えられる人になりたいな〜と感じさせてくれた体験でした。
そして、もうひとつアメリカから。それは、サンフランシスコに朝早く到着したときのこと。
じつは、成田の出国ゲートを出たときから、自分が現金を持ってこなかったことに気づいていたのです。(代官山では、よくお財布を持たないで買い物に出かけますが・・・あは)。一人旅、頼る友もなし。で、「スミマセ〜ン!ATMに行きたいので、ロビーに出させて」と係官にお願いしたら、何をバカなことを・・・、もうキミは出国してるんだ!という目で見られましたよ。
しょうがなしなし、文無しでサンフランシスコ行きの便に搭乗。でも落ち着かないったら。ちょっとそこまでのお散歩じゃあるまいし・・・。そして、早朝のサンフランシスコに到着。やっぱり誰もいないし、ATMもクローズ。ここからすみやかに長距離バスに乗らなければならないし、降りたらタクシーも必要。
でもね、いったいどうやって文無しでバスに乗せてもらったのか、今や記憶が定かではありません。そのうえ、バスの運転手さんがちゃんとホテルに連絡をとってくれて、わたしが降りたターミナルにバンをまわしてくれたのです。
それが、ケッサク!ホテルのバンでお迎えに現れた女性は、まさに天使だったのです。真っ白の丈の長いつやつやのローブ、背中には大きな羽、頭の上には輪っかがふわふわ。つまり、天使コスチューム。わお!ホントに天使が助けに来ちゃった。これは困りはてたすえの幻覚ではありません。じつは、その日はハロウィーンだったのです。でもね、文無しのわたしが東京からオレンジカウンティまで無事に届けられたということは、やっぱり天使さんのしわざとしか言いようがありません。しっかりと守られていたのを今さらながら感じます。
PS その後、スーパーに買い物に行ったのですが、レジを待つ列の前も後ろもキャットウーマンだったりドラキュラだったり・・・。そんなアブナイ衣装の彼らに「なぜ、あなたは何もしていないのか?」と聞かれ、逆に恥ずかしさを感じたのを思い出します。
次回Part2では、かなり危機的な場面での天使さんの出現をご紹介いたしましょう。
海外を旅していると、たまに危機的な状況に出くわすことがあります。もちろん自力で脱出したこともありますが、そのときこそ見えない天使さんが守っくれていたのでしょう。
さて、こちらは危機的状況+地元の女の子天使さんのお話しです。
旅をするときは、お気に入りと未踏の地を組み合わせてお出かけします。そのときの未踏の地はブルガリア。でも、どこか気分がのらなかったのですよね・・・・すると、こんなことが。
はじめての土地は勝手がわかりません。到着早々、市街地行きのバスの切符を購入したら、いきなりお金をごまかされ慌てて取り返すという、ハナから緊張をしいられる展開。そして、発車しようとするバスに大きなスーツケースとともに飛び乗って・・・やれやれ・・・と一服していると・・・。
大柄の強面オトコがやってきて言うのです。「お前は違反している。罰金として一万円払え!」と。「なんじゃ?このオッサンは?」と思ったら、どうやらバスの車掌なのです。乗車したときにチケットを取り忘れている・・・と。あらら?わたしの前のアメリカ人のお兄さんたちだって取ってないと思うよ〜。世界の果てからやってきた女の子だと思ってバカにしてるんじゃないの〜?こんな不条理な要求、断固として応じません。だって、あとにやってくる日本人がまた標的にされてしまいますもの。(そのむかし、不条理なレストランから全力疾走で逃げて、つかまえられてしまったこともありましたっけ・・・汗。まだ、ちゃんと生きています。)
「一万円払え!」「ヤダ!」ともめているうちに、ついにバスを途中で降ろされてしまうことに。こうなったらオジサンを警察にひっぱって行くしかない・・・と思っていたら、なんとオジサンいわく「おまえを警察につきだす」と。「なんですってぇ〜?!」それはワタシのせりふでしょ?!
なおも、「払え!」「払わない!」が続いているときに、後ろからブルガリア人の女の子、二十代後半ぐらいでしょうか、がわって入ってきました。あ・・・この女の子、さっきまでバスに乗っていた子。そして、いきなりブルガリア語でオジサンと口論をはじめたのです。
つまり、からまれているのを見て、一緒にバスを降りてきたのです。そして、この華奢なうら若き女の子はオジサンを口でねじふせ、あのしつこいオジサンはしぶしぶ去ってゆきました。
わたしはあっけにとられるばかり・・・。彼女いわく、車掌も警官もみんなグルだから、と。この国ではまだこういうことが行われいるのだと。そして、彼女はすぐさまタクシーを止めてホテルまで送りとどけてくれたのです。
若いのに、なんというたくましさ、なんという気配り。タクシーの中での短い会話で、彼女は政府の教育庁のようなところで働いているのがわかりました。この国では教育のあるエリート層。フェアじゃないことには、フェアじゃないと言えるセンスの持ち主だったのです。あっというまにホテルに着いてお別れになってしまったのですが、連絡先と名前を聞かなかっことが悔やまれます(それだけ、こっちもテンパっていたのでしょう)。
彼女が登場しなかったら、警察もあてにならず、あの先しつこいオジサンに何をされていたか。彼女も道を急いでいただろうに、もめごとを見るや、一緒にその場に降りてしまう勇気には脱帽しました。彼女は自分の国を愛していて、そこを旅する人にいやな思いをしてほしくなかったのでしょう。
こんないろいろな体験で、わたしも人のトラブルに敏感になりました。けれど、総じて今の日本人は知らない人に無関心すぎる感じがします。彼女の存在はわたしにとっても大きな贈り物であり、その後のわたしの人生に役立つレッスンとなりました。ブルガリアン天使さん、ありがとう。
こんな危機的な場面でなくても、ちょっとした親切がずっと心に残っていることもあります。たとえば、スイスのチューリッヒでのトラム。
このトラムは停車しているときに外側から乗車する人がボタンを押して、自分でドアを開いて乗るようになっています。
道の向こうに停車しているトラムに乗りたいのに、信号で足止めをくってしまいました。今にも発車しそうなトラムめがけて疾走していたら、それに気がついた地元の男性がトラムの横を通りかかるついでに何気なくドアボタンを押しておいてくれたのです。おかげで扉が再び開いたため停車時間が長くなり、無事そのトラムに乗ることができました。男性はそのまま何ごともなかったように去ってゆきました。
ちっちゃな親切だけれど、こんな気遣い、ヨーロッパではよく出会いました。
助け船を出してくれた天使さんたちは、助けたとさえ思っていないのですよね、きっと。でも、助けられた人は一生忘れません。ときには、助けられた人の人生そのものが変わってしまうこともあります。
もしかすると、あなたがして、もう忘れちゃってるちっちゃな親切も誰かの心にずっと灯をともしているかもしれません。
TVコマーシャルにこんなのがありました。
スウィーツを食べようとしている女の子に友人たちが、
「たしか、ダイエット中だよね?」と声をかけます。
「じゃ、甘いものはよくないね。食べてあげる!」といって取り上げるのです。
そのときのひとことが・・・「あなたのためだから」。
「あなたのためだから・・・」って言われると、なんだか「気遣ってもらっている」ような、「大切にされている」ような、そんな錯覚に陥ります。が、そこはかとなく相手のエゴが感じられる言葉でもあります。
これと似ているのが、「あなたのことが心配なのよ」。心配だから・・・「それはやめてくれ」「わたしの言うことを聞いてくれ」と。「心配だ」という言葉に人は弱いものです。小さい頃から「人に心配をかけるのはよくないことだ」と教えこまれ、この言葉を聞くなりスンナリ相手の要求を受け入れてしまったりします。そして、「ああ、気にかけてもらっているんだ。大切な存在なんだ」とちょっと嬉しくなったり、おもいやってくれる相手に感謝する場合もあるでしょう。
しかし、ほんとうに「あなた」、つまり相手のことが心配なのでしょうか?
否!これはつきつめれば、こういうことです。「あなたが好きなようにふるまうと、わたしの心が乱されたり、パワーを奪われるの。そんなことは耐えられないから、勝手なことをするのはやめてちょうだい」という、相手への気遣いどころか、自分自身を気遣った言葉なのです。わたしが不快に感じることを人はすべきではない、ということを遠回しに表現したわけです。
「心配」という言葉をくっつけると、相手をコントロールしやすくなります。戦ったり、支配的な顔を見せることなく、「良い人」「やさしい人」として、まんまと思いどおりにコトをすすめてゆくことができるのです。もっとも、「心配」という言葉を使っている本人も、それが「心配」などではなく「コントロール」だと気づいていない場合も多々あります。自分を守るために無意識のうちに使っているのですね。
子供のときには、このひとことにのせられて、自分の自主性を捨て去り、親の鋳型にまんまと納まってしまう子供も多々みかけます。子供は、相手のコントロールをすでに見破っている場合もあります(子供は鋭いです)。それでも好きなお母さんを嫌な気分にさせたくない、嫌われたくない、という一心で我慢しちゃったりします。すでに顔色をみる習慣がついているわけです。不条理だけど、愛されるためにこの言葉を受け入れるのです。
これは、夫婦間で相手を意のままにしたいときにも使われます。直球で何かお願いして無下に断られよりも、心配の仮面をつけて、うまくコントロールしちゃうという方法。つまり、先ほども書いたように「なにごとも自分の思い通りになってあたりまえ」という考えがその人の根底にあり、自分の満足のためには相手を都合のいいように扱ってもよいのだ、と感じているのです。
「ふ〜ん・・・そういう人もいるのか・・・」とひとごとのように読んでいるあなた。もしかするとご自分でも気づかずにちゃっかり相手をコントロールする癖がついているかもしれません。
ご自分のコントロールの度合いを調べるには、日常の中で「すべてのことにサレンダーする」というチャレンジをしてみてください。サレンダー、つまり「身を任せる」こと。やってくるもの(人や物事、出来事)に対して、すべてにOKを出す、受け入れる、身を委ねる。そのときに、意見したくなったり、抵抗したくなったり、逃げ出したくなったり、戦いたくなる自分を観察します。本来だったら、この場面こそコントロールが顔を出しているときです。いったいどんな場面にあなたのコントロールは顔を出すのでしょう?
これはとっても受け身的な生き方に見えますが、やってみると案外ご利益が多いことに気がつきます。簡単に欲しいものが手に入ったり、起ってほしいことがスムーズに起ったり、相手が思うとおりに動いたりします。ということは、わたしたちはどれだけ「しなくてよい抵抗を日常的に繰りかえしているのか」「ムダな努力をして戦っているのか」ということです。すごいエネルギーのムダづかい。自分の人生がうまくゆかない・・・あらら、気がついたら邪魔をしていたのは自分だったの〜!?ということになります。
ほんとうは力を抜いてゆるゆる生きていると、天がちゃんと必要なところに導いて行ってくれるようです。ヘタに手をだすよりも、大きな流れに身をまかせる。信頼する。つまり「エゴ」「我」を捨てなさいということですね。川の中をスルスル流れて行く感じ。
「あなたのため」とか「あなたのことが心配だから」を使いたくなったとき、自分はいったい何を避けたいと思っているのか、何を守りたいと思っているのか、何を怖がっているのか・・・自分の心をのぞいてみると、大きな力(流れ)と自分との関係を改善することができます。そうすると、まわりの大切な人をコントロールすることなく、尊重しながらお互いに心地よい関係を築いてゆくことができるようになることでしょう。そして、なによりも自分の行く手を阻むこともなくなるのですね。その後にご自分の人生に何がやってくるのかを見てみませんか?
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きょうのセッションは、午前は13歳の娘さん、午後はそのお母さま。
そういえば、今までの最年少さん心理セラピーはいくつだったかな〜?と思い出してみました。その昔に小学生さんがいらっしゃいましたっけ。言葉を使うセラピーの場合、自分の気持ちや希望が自分の言葉で語れることが必要です。すると、やっぱりこのぐらいのおトシだとやりやすくなります。
娘さんにはなるべくわかりやすく、言葉を噛み砕いて、時間をかけて、新しいものの見方を伝授し、思いグセの修正をします。しかし、どこまで伝わったかな〜・・・。いえいえ、心配には及びません。お子さんの方がよっぽど大人よりも吸収がよいのです。わたしの話しを言葉ではなくエネルギーで解釈しているようで、すんなり心の深い部分におちて結果をつくりだしてしまいます。頭の理解を飛び越えて、エネルギーで悟る・・・これって次世代の学び方ですね。
きょうのセッションでおもしろいな〜と思ったことは、娘さんとお母さまと別々の時間枠でセッションをしているにもかかわらず、深い意識(潜在意識)のなかにある「人生を邪魔している信念」がお二人ともまったく同じだったということ。
娘さんとやりとりして見つけた信念は、「困っている人を助けたいけれど、助けられない非力な自分」と「世の中はコワイところ」というもの。お母さまは娘さんが日頃「怖がり」さんであることを心配してセッションをすすめたのですが、この「怖がり」さん、なんと、じつはお母さま本人だったわけです。娘さんはお母さまの信念と同化していたのです。愛しているがゆえに無意識のうちにお母さまと同調したのです。(わたしたちは愛するがゆえに、愛するものと同じになってもっと愛を得ようとします。また、相手に対して嫌悪や憎しみがある場合も、同じものになってどんな感じかするかを理解しようとするのです,親父の浮気を責めていた息子は同様に浮気をし無意識のうちに父親を理解し許そうとするのです。もちろん、よい場合も悪いばあいも無意識で行われます。)
このご家族では、おばあちゃんもきっと同じ信念をもった「怖がり」さんだったに違いありません。そして、そのまたおばあちゃんも・・・(どこまでさかのぼれるの?)。このように、物の見方、人生のとらえ方など、その人と一体化しているスタンダードな考え方って、世襲制なのですよね。ずっと、その家系に引き継がれてゆくのです。
でも、おもしろいもので、一人でもその考え方を手放して癒されると、一族郎党(もう亡くなっている方も含めて)全員が癒されてしまいます。これは、毎回のセッションで驚かされる部分です。セラピーで奥さまが役に立たない信念を捨て去ると、そのだんなさまの態度がより柔和に変わり、子どもも自信を持ち、また気まずくなっていた実家からとてもやさしくされたり、職場でも突然優遇され、現在つながりのある人たちとの間でいろいろな変化が起るのを目の当たりにしてきました。
それもそうですよね。わたしたちはみんな潜在意識でも、そしてエネルギー的にもつながっているのです。もともとひとつのエネルギー体なのですものね。
さてさて、お二人ともこのような「怖がり」さん信念を持っていたら、もれなく世の中とてもアブナイところになるし、コワイ体験に悩まされ続けてしまいます。でもお二人まとめてそれを処理したってことは、先祖にさかのぼってまわりへの恩恵も大きいことでしょうね〜。それに、お二人も肩の荷(いえ、潜在意識の荷)がおりてすっきりしていることでしょう。
そして、これはセラピストへの恩恵でもあるのです。クライアントさんが癒されるとセラピストもどこかの部分でちゃっかり癒されちゃっているようです・・・ふっふっふ。いわば、おいしいお仕事です。ごちそうさま・・・♥
お友だちのLちゃんのブログに、最近の「中国漁船衝突事件」についてのコメントがありました。
「日本国政府の対応に、憤りと怒りと脱力感と悲しみと…ありとあらゆる負の感情と思考が脳内に渦巻いたら、脳みそメルトダウン状態になっちゃいました。何だか何も書く気が湧かず、ブログ数日さぼってます…(-_-; 」とLちゃん。ありゃ、どうしちゃったの・・・?
今回のことで嫌悪を感じた方は少なからずいらっしゃると思いますが・・・このコメント、Lちゃんが漁船に体当たりされたか、あるいは石垣島の住民か・・・というリアルな反応ではありませんか。
ふと気づいたわたしは、こんなメールをLちゃんに送りました。
「もしや・・・理不尽で、強行で、勝手で、相手の立場を思いやらない・・・そんな中国の姿勢は、だれかさんに似ていたのですね。今、Lちゃんが味わっている感情は「対中国」ではないようです。で、Lちゃんも無力な女の子になってるのかも」と。
どういうことかというと、彼女いわく、小さい頃から成人するまで父親の身勝手で思いやりのない暴君ぶりに数えきれない涙を流してきたそうな。その当時の傷ついた感情や、憎しみ、嫌悪感が行き場を失い(もちろん相手にぶつけることなどできません)、潜在意識にストックされたまま見すごされてきたわけです。
でも、似たようなエネルギーの出来事にふれると、その潜在意識の中の片鱗が活性化し「自分でもわけのわからない感情」として心や身体を苦しめます。また、自分自身も当時の無力な子供を再体験してしまつことも。これは本人にはあまり自覚されず、目の前のことにまっとうな反応を示しているだけと感じられます。しかし、ハタから見ると、それって過剰反応じゃない?と不思議に感じるものです。
もともと、わたしたちは物ごとを決して「そのまま」でなど見ていないのです(たとえば、ひとつだけ、その人に好みの部分を見つけると、勝手に「理想の人」というレッテルをはって、あとでガッカリするとかね・・・笑)。とくに大きな嫌悪感を感るものごとについては、過去の受け入れられない体験の感情と結びついています。みなさんも日常の中で、ほんのささいなことなのに大騒ぎしたり、怒りまくったり、過剰に反応している人を不思議に思ったことがありませんか?これは、その目の前の出来事ではなく、それと似たようなエネルギーを持った過去のツライ出来事、嫌悪を感じる出来事にリンクして、そちらに反応しているということです。
わたしたちは何かを見ているとき、それを「素」のままで感じることはめったになく、たいていは過去の同じような体験と結びつけて、すみやかにそれを解釈しようとします。たとえば、友人が「すご〜くおいしいチーズケーキだよ!」と持ってきてくれも、「ああ、チーズケーキね。(はい、はい、知ってますよ。何度も食べています。味だってわかってます)」と、頭で味をきめつけて、その日だけの、そのお店だけの、そのチーズケーキ独自がの違いをじっくりと「初体験」することができないのです。
つまり、今回の事件で中国が象徴する横暴で一方的なエネルギーは、Lちゃんを過去のそれを同じようなエネルギーに結びつけて、その当時の感情を丸ごと拒絶反応や身体の反応としてつくりだしたわけです。
Lちゃんいわく、わたしのメールを読んで、ハッとしてから大笑い・・・だったそうです。大笑いしちゃうときは、その指摘がビンゴだったときです。カウンセリングでも、核心にせまった信念が出るといやでもゲラゲラ笑っちゃいます。はたまた、怒り出しちゃうときも、それもまたビンゴ!本当だけど、認めたくないときなのですね。
こういうイヤな感情が出て来たときは、ある意味では、それを癒すよい機会です。なぜなら、ふだんはどこに自分の痛みがあるのか意識できないでいるからです。意識できないものは、手放すことができません。無意識から、いったん意識にのぼらせて「ああ〜、わたしはまだこんな痛みをもっていたのか」「こんな感情があったのか」と確認してあげることでそれを終了することができます。何かにイヤだと反応をはじめたら、いったい自分が何に抵抗しているのかを冷静に見つめてみてください。きっと、何か過去に原因を見つけ出せることでしょう。
先日、わたしもマークシートについてのブログを書きましたが、ほんと知らないうちに過去の抑圧した感情にコントロールされているわたしたち。もともと、ものごとは、わたしたちが意味をくっつけるまでは意味を持ちはしないのです。なるべこものごとに「意味」をつけないで、そのまま、そのまま、「素」で感じて、すべてをはじめての体験として味わいたいものです。すると、もっとかけがえのない「今」「ここ」を新鮮に楽しめることでしょう。

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PS picは、昨日観に行った「ブランダースの光」展(Bunkamura)より。
19末〜20世紀のベルギー絵画です。フランドル絵画は苦手めのわたしですが(だって、どれも見てもみんな同じ・・・汗)、この時代のものはそれぞれ個性がきわだっていて楽しめました。季節や時間が織りなす光が印象的で絵の中に入りこんでしまいます。秋にぴったりですよ。
ブログに不具合がでてアップできなくなったり、光回線が乱れてパソコンと電話が不通になったり、ついにはわたしの声まで干あがって・・・。
これはあきらかにコミュニケーションに何かが起きている証拠。もちろん、その持ち主であるわたしに。
「何か言いたいのに言葉にしていないことはあるかな〜?」と心に尋ねてみたけれど、とくに思い当たらず。でも、どれも復旧する兆しはなし。
そういえば・・・と思いついたのは・・・、心に思い浮かんだことをそのまま放置していること。行動に移してこそ意味があるのに、思いついただけで満足しちゃったり、すでに行動したような気になって、結局そのまま通りすぎちゃうことって結構多い。
たとえば、お礼の言葉を伝えたいと思っているのにそのまなになっていたり、思いやりを示したいと思っているのにタイミングをのがしたり。
そこで便せんとペンを取り出して、お世話になった方にいくつかのお礼状を書き、最近家族を亡くされた友人にお悔やみの手紙もしたためた。「こうしたらいいな」ということがひらめいても、そのまま通りすぎてしまうことがいかに多いことか。思いやりって、表現しなければなかったも同然。アウトプットしてこそ意味を持つようになるのです。
声の調子が悪くセッションをキャンセルしていたので、「これをしたらいいよね」というひらめきに形を与えることにしました。いろいろとアウトプット。でも、不思議・・・疲れることもなく、かなりの充実感、満足感、安心感、嬉しさ・・・。新たなエネルギーがわたしのなかにインプットされたよう。より満たされちゃった感じです。心と身体のフットワーク軽くすること、大切です。
ブログ問題も解消、光回線も復旧、喉は快方に向かい始めました(風邪と喉の調子にはかな〜り気をつけているのですが、これですからね〜)。
「与えることは受けとること」・・・あたりまえのように知っているはずの言葉が、あらためて実感をともなってお腹におちた感じがします。
与える喜びをありがとう。(^^)
PS スタバにジンジャーフレッドラテが登場しましたね。スパイシーでクリーミーなX'masテイストのドリンクに、ああ冬がやってきた〜と感じます。これ大好きで、X'masが過ぎてメニューが変わっても、シロップが残っていればおねだりして作ってもらっちゃいます。当分はコレ♪
「今だにこのトシになっても母にガミガミ言われて、どんどん萎縮してしまうんです」(40代女性)
「夫に家事ができない、できないと言われ続け、ダメ人間な自分を責め続けています)(30代女性)
近しい人からの攻撃的な言動は傷つくものです。本人を萎縮させるどころかどんどん追いつめます。どちらの女性も口をそろえて、「いたらない自分がいけないんです」「いくら努力しても満足な自分になれなくって・・・」とうなだれます。
あらら〜・・・。(~.~;
まず問題なのは、わたしたちの身の振り方です。わたしたちはまわりの反応をみながら自分の立ち居振る舞い、あるいはどういう人でいるか、ということを決めてきた、ということです。これは幼少の頃から無意識でやっているのですが、父、母、兄弟などの反応に敏感になりながら自分の立ち位置を決めてゆきます。なので、現在のご自分はこの訓練のたまものであり、家族の中で働いている力学の一部でもあるのです。決して「素」の本来の自分ではなく、そのように感化された自分なのです。
「自分の気持ちを通そうとするとお母さんは嫌な顔をする。不機嫌なお母さんを見るよりは、最初からお母さんの言うことに従ってしまおう」とか、「人より何かがうまくできると嫉妬されて仲間はずれにされる。だったらいっそダメ人間、とろいわたしをやったほうが人は可愛がってくれる」・・・ってな具合に、まわりに安全に適応して愛される自分を無意識に演出してゆきます。
だから「とっても控えめ」な自分だと信じていたけれど、潜在意識の中には「とっても控えめ」にさせられてきた怒りとともに、本来の自分の率直さがためこんだエネルギーによって「暴君」のような危険なエネルギーと化して潜伏していたりします。よく殺人事件があると「あんなにおとなしい人が信じられない」とコメントされたりしますが、そうなんです、本来の自己が、抑圧されてきたがゆえの怒りとともに爆発してしまったわけです。
誰でも無意識のうちに周りの反応をみながら自分を演出することを覚えるわけです。でも、これはまわりに力を明け渡しているので自分は無力に感じるし、またまわりの出方しだいでふりまわされ続けます。
あるところから、注意の転換が必要になるわけです。
自分の注意をまわりをうかがうことに使うのではなく、自分がどう感じているのかに向けてあげること。自分がどのように感じて、どのようにふるまいたいのかを、まわりの反応とは関係なく自分の気持ちを軸に決めてゆくこと。これを身につけないと100人の人から自分に対して違ったコメントを受けとると、ついにはどのように反応してよいのかわからなくなります。そして、自分の気持ちを感じてあげることは、自分を大切にする、自分の感じ方を信頼し、尊重するという自己信頼を育てることでもあるのです。まずは、自分の気持ちを尊重し、自分を中心にそえてあげることが大切なのです。
そしてもうひとつ大切なことは、「人の言動は、その人の勝手だ」ということを知ることも大切です。
誰が何を言おうと(たとえ、それが親であろうと)その人の言葉は、結局その人の「生い立ち(生育環境)」「トラウマ」「劣等感」「独自の価値判断」「その日のご機嫌」などにかかわっているということ。その人の言葉は、その人にしか理解できない(いや、本人も理解していないですね)いろいろな複雑な要素がからみあって発っせられているのです。そしてそれは、なんら「真のわたし」とは関係がないのです。言わば、モロに相手の勝手です。
たとえば、冒頭の「娘にガミガミ言うお母さん」。人はどんな時にガミガミ吠えたいのでしょうか?
(その2に続く)
誰かに文句を言いたいとき、攻撃したいとき、そんなときはもれなくその本人が幸せでないときです。文句や攻撃の相手はただの標的にすぎません。
このガミガミ言うお母さんは、娘のことに限らず、自分の人生のあらゆることが自分の思い通りにならない無力感にさいなまれています。ものごとが自分の思い通りにならないときや葛藤があるとき、ひとはそれを持て余します。どっかでガスを抜きたい、さっぱりしたいのです。自分の葛藤を自分の中で昇華する力もなく、また周りに力をかしてもらうというコミュニケーションもとれないので、結局その葛藤はどこかにぶつけられることになります。当たり散らすのに最適な場所・・・、それは都合よく「無力」の呪文をかけた娘なわけです。そして、娘をコントロールすることによって、自分の不安定な人生のコントロール感を取り戻すわけです。
また娘さんの立場からすると、なぜ母はわたしにガミガミ言うのだろう?母はわたしを愛してくれるはずなのに。その母がつらく当たるってことは、自分が愛されるに値しないからに違いない。と、確信し自信喪失します。「ダメなわたし」に対する自己攻撃に入ってしまうのです。
娘さん、違うんですよ〜!これは娘さんが、「母は無条件にわたしを愛してくれる人」という幻想に固執してしまったことが苦しみの原因となります。あるいは、他のおうちのお母さんと比較してしまったこと・・・。わたしたちは「母」=「無条件の愛」「やさしさ」「いたわり」という名札をつけようとします。しかし、「母」もひとりの人間。みんなと同じように心に傷のある人間です。もしかすると、この娘さん以上にガミガミ言われて育てられたので、同じように無意識でガミガミ言うのがあたりまえになっているのかもしれません。そうなると、「母」というラベルよりも、ひとりの「人間」としてどのような人なのかを冷静に観察しなければならないのです。
ああ、この人は自分に自信がないから、すぐにキレちゃうのね。すべてを自分の思い通りにしないとこわくてしかたがないのね。そして、攻撃することによって自分よりも弱いものをつくって、自分が優位に立ちたいのね。・・・と静かに分析してください。そうです。ただ「そういう人」なのです。それを淡々と理解しなければなりません。ゆめゆめ、理想に仕立て上げないようにいたしましょう。
すると、おのずと対処法が見えてきます。「お母さん、その言い方こわく感じるからもう少し静かに話してくれる?」とか、「わたしは自分がよかれと思ってやったけれど、うまくできないことは仕方がないわ」とか、母の理想と実際の娘の現実を冷静に教えてあげます。そして、思い切って距離をおくことも大切です。たとえ母であろうと。自分が傷つくときには、自分で自分を守る姿勢も大切なのです。
わたしたちはパターン化してしまった害のあるコミュニケーションや力関係に、鈍感になったり、いたずらに無力感を感じたりすることがあります。でも、もし自分がいやな思いをしているとしたら、もういちど他人のように離れた目線で冷静に関係のあり方をながめてみることです。もし、友人から相談されたとしたら、「あれ?それってすごくヘンじゃないの?」と気がついてしまうことがよくありますよね。そんなふうに、人から相談されたと思って客観的な目線でふだんの親しい人とのパターン化したコミュニケーションのあり方を見つめなおしてみましょう。
わたしたちは、自分を大切にすることに躊躇しがちですが、まずは自分の心によくよく聞き耳をたててあげること。そして、人は自分とは考えも感じ方も違って当然ということを前提に、自分の心の声をもとにお互いが歩み寄れるところを探ってゆくことも大切です。すると、双方に敗北感や支配された感覚が残らずよいコミュニケーションがとれるようになりますよ。Good Luck!(^-^)ノ
昨年、キャミ・ウォーカー著 「ギフトを贈ると奇跡が起きる」という本を読みました。進行中の多発性硬化症を患うキャミは、身体がどんどん不自由になり仕事をあきらめ、歩くことすらままならず家にこもりっきり。パートナーとの関係も悪化の一途をたどり、お先真っ暗。
彼女は、あるサイキックからすすめられた「29日間ギフトを贈る」というエクササイスにチャレンジしはじめます。心から与える気持ちで行うこと、与えながら毎日日記をつけるとこ、そして一日でもできなかったらふり出しに戻ること、というルールがあります。この本はその29日間に、与えることによって起る彼女の変化の日記なのです。ギフトは友人へのランチだったり、見知らぬ人への親切、はてはホームレスへの食事であったり、言葉や思いやりのことも。彼女は軽い気持ちでこれを始めたものの、数日でみるみる元気に。外出もできるようになり、パートナーとの仲もラブラブ。仕事も再開します。病気に支配される無力な被害者から喜びを創り出すポジティブな創造主へ。
わたしも「与えることと受けとること」というテーマでセミナーをしたこともあり、「与えること」のパワーは重々承知していました。で、ものは試しにこの「29日間のエクササイス」を試みることに。(それを聞いて、「29個、毎日プレゼントがもらえる〜♪」と喜んでいるやからあり!・・・失笑、勘違いしてない?)
これがね〜、29日結構長いです!!中盤、キャミのように夜になっても何も与えていないことに気づき、あわてることも。
こんなシンプルなエクササイスでも、気づくことはたくさんあってびっくりです。自分のパターンがあらわになります。
まず、「与える」というよりはこっそり「むしりとっている」自分に気づきガクゼン・・・・!!(知らなかった・・・。みんなゴメンね〜。)あるいは、与えたように見えても、まだ握りしめていることも。つまり、「それどう?気に入った?使ってくれてる?」と完全に相手に手放していないのです。また、純粋に与えているつもりでも、あんがい隠された意図、つまり何かそれによる見返りを期待していたり、ギム感で与えていたりる場合も(ああ・・・)。
そのうえ、人に何かしてあげたい、プレゼントしたい、と思いつつもついつい先延ばしにしたり実行しなかったりすることも多々発見。(これをすぐに行動に移すことはとても気持ちのいいことです。)そして、あんがい「人が与えてくれるのを待っている」自分がいたり、その期待が叶えられないと勝手に被害者に突入するパターンとか・・・あまり見たくないものにあれこれ遭遇(汗)。
結局、(定説どおり)与えることによってたくさんの恩恵をいただきましたが、なによりも自分の持っている豊かさを形にして与えることで自分が嬉しくなり、その流れるエネルギーによって相手と自分の境目がなくなって「あなたとわたし」がひとつの輪になってゆく、つまり「すべてがひとつ」ということを体験的に知ることができましたよ。
「待ち」をやめて自分から動くことになったり、被害者意識(あんがい、みなさん持ってる意識です)がなくなったり、よいことの出し惜しみをしなくなったり・・・いろいろ変化あり。なによりも、ハッピーになったかな。
じつは、29日はとっくに終わっているのですが、まだゆるゆると続行中。クライアントさんにもオススメして、みなさんいろいろ気づきを得ています。29日コテコテにやるのも実りがありますが、自分に”できる限りで”というモードでも十分だと思います。きっと嬉しい、楽しい気づきと変化があることでしょう♪
PS こちらのキャミのサイト(英語ですが)から29日のチャレンジにサインアップできます。29日を続行中のみなさまのコメントも日々アップされています。
2012年に向けて、様々なことが加速しているのを感じる今日この頃です。
自己についての洞察もこれまでになく超加速気味で、ひゃ〜!見たくないものオンパレード。こんなアイデンティティと一体化して平気でいたなんて〜!(汗)と今さらながらの赤面もの。しかし、恥やら自己嫌悪に陥っている場合ではなく、気がついたら「さっさと片づけなさいよ」ということです。それに、気づいて片づけないと、ものごとはさらに悪化の一途をたどります。というわけで、新年からいろいろと脱皮をはかっておりますよ〜。脱皮すると決めたら、あれも、それも、これも!と次から次へと問題提起と気づきの連続(ひゃ〜ん!)。そんな状態でもありのままの自分を愛する、ありのままをよしとするという忍耐のレッスンです。(宇宙さん、どうぞお手柔らかに)みなさまの新年のスタートはいかがでしょうか?
さて本日のお題目は、最近私がこれらの気づきの中で取り組んでいる「ゆだねる」ということについて。
私たちは、自分のまわりのあらゆるモノ・ヒト・デキゴトを無意識のうちに徹底的にコントロールしようと試みています。なぜなら、「この世はコワイところ」だし、「やってくる出来事にちゃんと対応できないかもしれない」し、なによりも「人は何をするかわからない」という危機感から傷つけられてボロボロになっちゃうかも・・・と信じています(もちろん、これは意識下でのこと)。深い部分で「自分はやってくるものにうまく対処できない」と感じて、あらゆることに対して「怖れ」を抱いているのです。
「怖れ」というものを持っていれば、まず身を守ることが最優先。身を守るために、ものごとに対して、人に対して、すべてコントロールをしなければならないと思っています。やってくるままにさせておくと手に負えなくなるだろうと信じているので、ホンロウされてしまう前に、傷つく前に、損する前に、どうにかしようと”こっそりと” あるいは”あからさまに” 抵抗を試みるわけです。
たとえば、友人が共通の知り合いのことを褒めたら、「でもね、あの人さ〜、そうでもないのよ」とすかさず反論しておく(誰かがすばらしくなったら、ますます自分の価値が低くなるという怖れ)。パートナーが期待したように振る舞ってくれないときには、口では何も言わなくてもにらみつけて機嫌を悪くする(しっかりと手綱を取るべく、あなたはわたしの言いなりになるべきだと無言のプレッシャーをかけ力の上下関係を明白にしておく)。こどもが思うような結果を出せないとき、「なんで○○ちゃんはできるのにあなたはできないの?」と常に他と比較する(こどもの達成=自分の価値と勘違いしているので、理想を達成できなければプレッシャーをかけてコントロールする)、などなどまわりの状況に対して、あれやこれやの細工をして抵抗をしているわけです。
しかし、すべての「苦しみ」の原因というのは、じつは「こんなことはいやだ〜!わたしの好みではない!」と起っている現実を受け入れられずそれに抵抗しようとすることから生まれます。出来事、人、関係をそのまま受け入れられないのです。だから、それに挑みかかって戦ってなんとか違う体験に変えようとします。コントロールはその戦いのひとつのバージョンです。
しかし、ものごとはいつだって「そのまま・あるがまま」なのです。ただそのようにやってきて、そのように去ってゆく。それがものごと。ということは、「そのようにそのまま体験してね。それがあなたにとっていちばんためになるのですよ」ということでもあるのです。そのままで結局うまくゆくのかもしれないし、そのままで学ぶことがたくさんあり、新しい自分になれるのかもしれません。宇宙さんが「そのまま」でいいというのだから、きっとそのままでいいことがあるに違いありません。
すると、変えなければならないのは、じつは「あるがまま」に耐えられず怖れを感じている”自分”なわけです。たとえば、先ほどの共通の知り合いを友人がほめたとき、さりげなく悪口を言っておくというような場合、勝手に劣等感にとらわれているのは本人で、その人が誰かが誰かを褒めるのを許せないわけです。あいますよね。誰かが人のことを褒めはじめると、急に不機嫌になるか自己主張をはじめるお方。ただ、自分が自分に対して「わたしは人より劣っていて恥ずかしい存在だ」と勝手に信じているだけなのです。(こういう痛みを持った人が一人いると、その痛みがジワジワまわりに伝播しはじめ、そこにいる人たち全員が知らないうちにぎすぎすした雰囲気になっちゃったりします。感情は伝染するのですね。)
自分の劣等感からいちいち現実に反応し戦っていると、相当なエネルギーを消費します。おそらくそれに対処するだけで体力は精一杯、未来を創り出すパワーはもう残っていません。また自分の価値が自分で認められないと、外からも同じような体験を引寄せることになります。つまり、人からも評価されないし大切にされないという結果になるのです。自分が自分を扱ったようにしか、人は自分を扱ってくれないからです。
そこで、いちいちまわりに抵抗して戦おうとするよりも、いっそまわりに起ること、まわりの流れにそのまま身を「ゆだねて」しまいましょうよ、ということなのです。起ることすべてを、ただ勝手に起るままにさせておく。一切のコントロールや抵抗、戦いを手放すということです。
「え〜っ!そんなことしたら、まわりに好き勝手にされちゃうんじゃないの?」・・・そう思いますか?それこそが、自分自身と人生を戦わせる最大の信念なわけです。ほんとうに流れにゆだねて何もしなかったら、いいようにされちゃうのでしょうか?
(その2へ続く)
「ゆだねる」=「ホンロウ」されちゃう?のでしょうか。
その1でもちらりと書きましたがいろいろな体験がやってくるということは、宇宙はあなたにそれを体験してほしいからなのです。「怖い」だ「好き」だ「嫌い」だと言っているのではなく、そのまま体験することに意義あり、きっとよいことがありますよ〜と。
数日前、出張に出かけたときのこと。現地での午後のセッションが当日キャンセルとなりました。交通費、モロモロの経費があり、あらら・・・(汗)なのですが、わたしとセッション会場を提供してくれてる友人は「まあ、どうにかなるっしょ!」と顔を見合わせそのままにしておきました。すると、午前中のクライアントさんが「午後に他のセッションも受けたい」との申し出があり、そのセッションをしているうちに勝手にもう一名新しいクライアントさんが名乗りをあげておりました(で、結局もとよりも収入増!)。そう、経験に「抵抗しない」「そのままにしておく」ってこういう予想外の流れに乗れることなのです。予期しないことがやってきたときは、「こっちのほうが楽しいよ」「おトクだよ」と導かれているときです。これを見て、わたしたちは「ほら!やっぱりね!」と再度微笑みあったのでした。
また、「あるがままにしておく」「そのまま受け入れる」ということは、自分の中にある怖れをありありと浮かび上がらせてくれます。「そんなことしたら○○になっちゃうよ」と。そう、この思い込みこそが「○○になっちゃう」人生を創りだすモトなのです。
自分がどんな怖れを持っているのか自覚できないと、わたしたちはそれに突き動かされてとっている自分自身の不毛な行動に気づくことができません。怖れを避けようとすればするほど、そちらに歩み寄ってゆくことになります。
自分の怖れに自覚的になると、自信がなくなる?いえいえ、それよりも自分もそんな弱い面、ふがいない面を持っていることに気づき、人ってみんなそうなんだな〜と、自分も人も許すことができ優しくなります。自分がその点を認めて気づいていないと、同じ弱さを持っている人を認められず裁いてしまいます。しかし、みんながみんな、自分と同じそんな面を持っていると感じられるようになると、ある人が不器用なのを見て「まるでわたしみたい」と助けてあげることができます。それは自分を助けていることと同じこと。自分への変なこだわりやプライドがなくなり、罪悪感をもったり自己嫌悪で自分につらくあたることもなくなり、人への共感が育ち、そして世の中が平和に見えはじめます。
そして「抵抗しない」と、何よりも自分自身と世界との間に摩擦がおこらないので、ものごとはあるがままにとうとうと流れ、ちゃんとなるようになってゆく・・・という感覚があります。結局、怖れからさまざまなものに抵抗することで、なるようになるはずだった流れをせき止めていたのだな〜ということに気がつきます。わたしたちのアタマで「あ〜だ、こ〜だ」考えても、所詮、宇宙の智慧に比べたらわたしたちのはおサルちゃんの智恵程度(汗)。宇宙がわたしたちに乗せてくれようとしている流れに力を抜いてゆだねることこそ、わたしたちがこの地球でしなければならないことなのです。
きっと宇宙さんんは何度も叫んでいたことでしょうね。「もっと力を抜いて!自分でやろうとしないで!ちゃんとすべては用意されているのだからその流れに乗りなさい!」と。
「怖れ」や「抵抗」や「コントロールしたい」いつものパターンが顔をだそうとも、抵抗しない、戦わない、あるがまま、で今年は進んでゆこうと思っています。(まだ一ヶ月弱だけれど、気づきがたくさんあり、また人生の流れもラクになってきがしますよ♪)
もともとわたしたちがここに五感のある身体を持ってやってきたのは、それをフルに利用して体験するという人生を生きるためです。体験するために来たのに、逃げてちゃはじまらないわけです。「お〜、怒るってこんな感じか〜」「恥ずかしいってこんな感じか〜」「飛び上がっちゃうほど嬉しいってこんな感じか〜」と、あるがままにやってこさせて、それをサクサク受けとめて体験して、全部知っちゃったら同じ体験をする必要もなく、身体をもってここに存在する意味もなくなっちゃって・・・ついに人間卒業?(それも寂しい・・・まだスウィーツ食べたい・・・失笑)
あるがまま、来させて、体験して、楽しんで、流れにのって・・・大きくなりましょう。
PS セラピスト、癒し手という仕事をする前には、勉強をかねつつ自己の癒しもしなければなりません。なので、あらかたの問題はとっくに手放したと思っていました。が、気がついてみると、本当の自分のパターン化した重大な問題っていうのはじつは、自分がこれが問題だ!と信じていた裏の裏の裏の奥〜の方に気づかれないように静かに潜んでいるものなのです。嗚呼・・こんな信念に支配されていたとは・・・。そして、これを見つけるのに何年かかったことか・・・。でも、自分のとってきたあらゆる行動・思考に関して、深く納得するとともに、ナゾが解けたようで笑ってしまったのでした(なにやってたのだ!と)。自己探求はオモシロイ!そして、さらにふわふわゆるゆる自由になります。
「今ここのすばらしさを味わえないと、酸欠金魚になる」・・・
これは、昨日のセッションでつくづく感じたことです。
クライアントのMさんは、長年自分でキャリアを築きあげてきたデザイナーさん。おしゃれでお金のかかった外見からはすべてが順風満帆に見えます。
しかし、いつも苦虫をかみつぶしたような表情で、口を開けばネガティブトークがはじまります。「誰それの言動が気にくわない」「あれがいやだ、これがいやだ、状来が不安だ」・・・と。それに、明らかにエネルギーが枯渇しているようで、あまり健康そうには見えません。彼の話しを聞く限りでは、何もかもが不安、そして不満足である・・・と。その抱えている感情がピークに達するとセッションにやってきます。
はたから見たら、誰もがうらやむ華やかな仕事と私生活。誰もが彼を「成功者」とみなすでしょう。でも、彼の心はいつも不安と怖れのベールにすっぽりと包まれているようなのです。
というのも、やってくるなりパートナーの至らさにはじまり、自分がどれだけ仕事で重荷を負っているのか、常に経済的な不安にさらされているのか、それにくらべて彼のスタッフは仕事もろくにできずに不平不満が多い・・・と延々と語られます。
彼の話しをする様子は、頭がぐるぐる回転し、未来や過去を飛び回り、滔々としゃべり続け、心はまったくここに存在していないのが感じられます。すでにすぎさった過去を悔いたり腹をたてたり、まだ起っていない未来のあれこれに心を痛めたり。思考のドロ沼にずぶずぶ足をとられて、かろうじて口から上が沼から出ているような感じです。
そうなんですよね。わたしたちの心って、ほっておくと過去か未来へふらふらお出かけするのが大好きです。しかし、そこには怒りやら罪悪感やら自己嫌悪やら、不安、怖れなど、過ぎ去った否定的な感情や起るはずのない恐怖で満ち満ちているのです。過去や未来への徘徊ぐせがつくと心は不安にさいなまれるようになり、思考のドロ沼にはまりこみます。まさに、思考にぱっくりと食べられてしまっている状態です。
あら・・・この方、ココが完全にお留守だわ・・・と気づいたわたしは、
「はいっ!ちゃんと目を開けて、目の前にあるものをしっかり見て。お腹まで深い息を吸って、はい、吐いて。・・・・さあ、たった今、この瞬間、何があなたを苦しめているのでしょう?たった今、この瞬間、あなたには困ったことがありますか?」と彼を頭の中の幻想から、たった今のこの瞬間に連れ戻すことにしました。
「今、たった今、目の前にあなたを苦しませているその問題はありますか?」と尋ねると、
「ア・・・なんか、ちょっと我にかえった気がしました。そっか〜・・・ボクはどうやら、過去や未来への考えにはまっていたのかな」
そうなんです。わたしたちは身体をもって、今ここに存在しているのに、過去のドラマチック劇場や未来の恐怖劇場にすっぽり引き込まれて、今がお留守になってしまうんですね。
今とつながっていないと、感情の面でも健康の面でも酸欠になります。今につながっていないと、心は不安や怖れでいっぱいになるし、身体はそれを維持するだけのエネルギーを得られなくなります。今、ここにいることでしか、心も身体も魂もエネルギーをチャージできないのですね。物理的な身体を持っているということは、どうやら「今、ここ」をしっかりと体験しなさいということのようです。
「目のまえのものをしっかり見て。深く腹式呼吸してみましょう。そして、しっかりここに存在します。どうですか?」
「今、ここにいると、不思議と怖れがなくなってゆく感じがしますし、リラックスします。”今”は安全なんですね」とMさん。
まず、現実、今ここにしっかりと意識を戻して、自分の頭がつくり出している過去や未来というドラマから抜け出すだけでも、かなりのセラピー効果があるのです。そして、今の一瞬が安全なら、次の一瞬も安全。そして安全が続いてゆくのです。
考えは考え。ほんとうのわたしたちではありません。やってきては去ってゆくもの。それと一体化してしまうと、自分とのつながりが切れてしまい、幻想の世界に突入。身体も心も魂もバランスを崩してしまいます。つまり、心や身体のバランスが崩れるたときには、その方が今にいる割合が減ってしまっているということです。
酸欠金魚のようにアップアップしないように、しっかりと目を開いて、深〜く息を吸い込んで、じっくりと「今、ここ」に向きあってみましょう。
より現実につながっている方法としては、今目の前のこと、ひとつひとつに感謝すること。感謝は自分自身をエネルギーで満たしてくれます。酸欠金魚のようにならないように、今ここの美しさを味わいましょう。
本日のA子さんのご相談は、「最近、突然泣きたくなったり、感情がとても敏感です。それに、異動で憧れの仕事についたものの、二人の同僚にイラついてばかりで苦しい」とのこと。
なるほど、なるほど。一日のほとんどの時間を過ごす職場で精神状態が悪いのは、人生の大きなロスになりますよね。
まず、仕事でイラつく状況について調べてみることにしました。
新入りでまだわからないことだらけなのA子さん。「わからなかったら、なんでも聞いて!」という同僚二人(男女)に質問するのですが、その答えは「まどろっこしく」「くどい」そうで、そのうえ意地悪。彼女は聞いているとイライラしてしまい二人へ嫌悪感がつのってゆくそう。
それでは、コミュニケーションレベルで何か起きているのか実際の場面を調べてみました。いったい、どんなふうに話しかけているのでしょうか?わたしがA子さん本人になり、A子さんに会社の同僚になってもらいます。そして、わたしがいつもA子さんが使っている言葉で、同僚役のA子さんに話しかけてみました。
(おずおずと)「あの〜・・・、お忙しところ大変すみませんがちょっと教えていただけますでしょうか・・・」とわたし。この言葉は、彼女のキャラとは違いかなり下手でかなり丁寧な言葉遣いです。
その後、「そう話しかけられてどんな感じでした?」と同僚役のA子さんに感想を聞いてみました。
「ん〜・・・なんかイラっとくる・・・」とA子さん。
そうなんですよね。文字にすると丁寧で何の問題もないセリフに聞こえますが、実際の場面にあてはめてこの言葉を使ってみると丁寧さ、気の遣い方、下手に出る感じがイラっとくるのです(あくまでも、この場面での話しです。他の方が他の場面で使ったらなんの問題もありません)。
まるで腫れ物にでもさわるようなこわごわした話し方。「おもわず、何なんだよ〜!」と言い返したくなります。人は卑屈だったり、怖がられていたり、バカ丁寧だったりする態度にはムカっときて、そんなに下手に出ているなら・・・とその相手をいじめたくなるものなのです。(そうなんですよ〜。結局は被害者のようにみえる自分の態度が相手の反応の呼び水になっているのです。)
そこでA子さんに、「この丁寧さは相手の神経を逆撫でするので、ここはA子さんらしく”明るく、軽く、さわやかに”聞いてみましょうよ。”すみませ〜ん!わからないので教えてくださ〜い!” これでOKだと思いますよ」と提案してみました。
A子さんも、まったく自分らしくなくなっていた自分に気づきました。まったく別物になっていたのですね。よし、今後はなんの小細工もやめよう!素のままの自分でいよう!と自分にOKを出すことができました。
さて、次のステップです。「二人に対して嫌悪感がつのってゆく」・・・とのこと。
はい!この場合は、心理学の基本中の基本、「投影」の原理が働いています。外側に見えるいいモノもいやなモノも、すべて自分の一部。そこで、彼女にきいてみました。
相手が「まどろっこしく」「くどい」のが許せないというA子さんに、「小さい頃、何か言おうとすればまどろっこしくなってしまう自分を恥じていたときはある?もう、そんな自分でいるのはやめようって思ったことはある?」と。
「まわりに見えるものはすべて自己の反映」であると知っている彼女は、「この二人は自分の反映かもしれない」とも思ってみたそうです。でも、こんなイヤなやつが自分であるはずがない・・・とすぐにその考えを却下したとか。そうですよね、自分自身が自分が嫌悪している人であるはずがない・・・と誰もが思います。さて‥‥‥ほんとうにそう?でしょうか。
(その2に続く)
抵抗している自分の一部は、さっさと自分から切り離されて潜在意識にためこまれます。
この場合、「まどろっこしく」「くどい」というカッコよくない自分に耐えられなかったからこそ、その部分を切り離して心の闇に葬り、なかったことにしたのです。そして、それ以降はそんな自分がいたことすらすっかり忘れ、まったく反対のキャラクターであるテキパキ、打てば響く自分を演出し、それこそが本当の自分だと信じてきたのです。
そう話すと、A子さんは涙をポロポロこぼしながら、「十歳ほど年の離れた兄と姉に、いつも必死で話しをしていた。彼らはわたしが一生懸命話してもまったく理解してくれなかったし、そのうえバカにしはじめたり意地悪だった」と思い出しました。彼女は理解してほしいと話せば話すほど、まどろっこしくなる幼い自分をバカみたいに感じて恥じ、またそれによってどんどん機嫌が悪くなり意地悪になってゆく兄と姉を憎み、そういう不器用な自分さえも恥じていたのです。
同僚二人の中に見えたのは、葬り去ったものの、まだうずいている自分の中の古いキズそのものだったのです。
この場合、ふたりの同僚(男女)にすっぽりと兄と姉の役柄をかぶせていたわけです。A子さんは実際の二人の同僚の真の姿を体験することなく、兄と姉へのキズをすっぽりかぶせて彼らを見ていたのです。だから、この二人がとても意地悪に感じるし、二人といると自信はなくなり、気持ちが不安定になってくる。自分がどんどん無力に感じられて、その頃の小さな女の子に退行してしまっていたのです。「異動になってからイラつく、情緒不安定になる」というのはこれが原因だったわけですね。
何が起っていたのか理由を知るだけでも、もう解放が始まっています。そして、「ああ、まだこんな自分がいたんだね」と抵抗せずに認めて受け入れてあげることによって、抵抗して切り離されていた自分の一部が「反抗するのをやめて」自分の中に戻ってきます。いろんな感情を引き起こして暴れていた自分の一部が、気づいてもらって受け入れられておとなしくなるのです。
A子さんいわく、「この部署にきてから、まるで人が変わったみたいと言われていました。前みたいなパワーがなくなって、おとなしくて静かになっていたのですよね」と。この二人の同僚を兄と姉にみたててしまっていたので、二人と一緒にいると十歳上の兄と姉に抑圧されているように苦しくなってしまったのです。(実際、十歳違いだと、考え、腕力、口でもまったく歯がたちません。当時のA子さんは自分らしさを失っていたのだと思います。)
その兄と姉に抑圧されていたこども時代、A子さんは傷ついたすえにどのようなことを心に決めてしまったのでしょう?何が現実だと決心したのでしょう?(このこども時代に心の傷から決めたことは、パワフルな「信念」となり一生を通してその人の人生を支配します。まさに、三つ子(おさな子)の魂、百までですね。)
兄、姉との心の痛みによってA子さんの心の深いところで決めていたことは、「わたしなんていないほうがいい。誰もいないんだ。わたしはひとりぽっちだ」という心の叫び。それが、しっかりと潜在意識に刻み込まれていたのです。
このような無意識の中に隠された「信念」はとてもパワフルな威力をもちます。このままでは、まわりに愛があふれていても、いくら愛されようともまったく気づくことがなくひとりっぽちの人生になってしまいます。わたしたちの人生は、頭で考えていることよりもこうしたこどもの頃に刻み込まれた無意識の信念につき動かされているものなのです。
もちろん、この「ひとりぽっち」信念はすみやかに除去され、「愛し愛されている」信念におきかえましたよ〜。・・・サッパリした〜!と笑顔をとり戻したA子さん。
キズを手放す準備ができたとき、宇宙はちゃんとキズが浮上する場面を用意してくれます。それは、「もう自分を隠しながら生きる必要はない。そのキズの存在を認めて、自分の中に統合して終わりにしましょう。そして、ありのままの自分で生きなさい」ということなのです。丁寧な言葉遣いでもコミュニケーションがうまく成立しなかったのは、まさに彼女に本当の自分で生きなさいというメッセージだったのですね。A子さんの高い意識はさらなる魂の成長を求めて、「異動」と「男女ふたりの同僚」をセットアップし、それを利用して自分の足をひっぱるいらないプログラミングを消去する手伝いをしてくれたのでした。まさに、成功、うまくいきました。(^O^)/パチパチ!
セッションの翌日、A子さんからメールが届きました。
「あの男性同僚はお菓子をくれ、味方になり、女性のほうも優しくなりました!!!!!すごいね!!!o(^-^)o人間て、ほんとに面白いですね。マインドひとつで人生が変わるなんて!!周りまでも!!まさかあの二人が味方になる、仲間になるなんて。相思相愛っていいね〜(^^)ららら〜♪♪♪」
よかったね〜、A子さん。(^_^)v
もともと会話によく登場するトラウマという単語、「心の傷」を意味します。東日本大震災後、「あの揺れはトラウマになった」というように、ますます常用されつつあります。
直接の被災地でないここ東京でも、余震、原発の恐怖、モノ不足など、常に不安感にさらされ続けることにより、それがボディーブローのように大きなダメージを与えトラウマに姿を変えたり、また抑圧していた古いトラウマを誘発し、感じたことのない痛みがさらけ出される場合もあります。
大きなトラウマも小さなトラウマも、知らないうちに心を蝕み、無意識のうちに人生のさまざまな局面に影をおとしはじめます。つきまとう倦怠感や恐怖心、未来への希望が損なわれ、生きている価値がないという自己否定へと発展してゆきます。そして、すべての行動の動機が必死で「何か避ける」か「何かを求める」という自己防衛に向かってゆきます。
昔、沢田研二さんの歌に♪身体のキズなら治せるけれど、心の痛手は癒せはしない♪というのがありました。身体のキズは自然治癒力によりある程度ほっておいてもメキメキ治癒しますが、心の場合はそうはいきません。それは痛みを感じることをさけるため、すみやかにバリアーで覆われ、キズなどなかったように振る舞い始めます。しかし、痛みは知らず知らずのうちにその人の人生の主導権を握り「怖れ」や「防御」で行動するようにかりたててしまうのです。
トラウマに癒しをもたらすためには、まず「気づき」が大切なポイントです。長くわけのわからない不安が続く、体調がおかしい、自分らしくない・・・そんなときにこそまず立ち止まり自分をケアする時間をとりましょう。
やり方はむずかしいことはありません。「何かヘンだとまず気づく」→「何でこんなふうに感じているのだろう」と尋ねてみる→「今、このように感じる必要があるのか?」→「じゃあ、同じ感じが過去にあったとしたらどんな場面?何が起きてた?」と探求してみます。
抑圧していたものを表面意識に引っぱり出し、認めてあげるだけで解放が起ります。気づくことによって、過去ではなくより「今」にいることができるようになるのです。
トラウマはそれをお掃除することによって、怖れにコントロールされる人生ではなく、自分の愛や喜びや可能性のために人生を選択できるようになります。トラウマの後ろに隠れた本当のあなたは可能性の宝庫。あなたの心には素晴らしいパワーがあるのです。
(セラピーコモンズ・ネットモールさんのセラピストコラムに掲載)
セラピーを受けにいらっしゃる方の中には、彼氏やだんなさまに「おまえ、行ってこい!」と言われて予約される方も少なくありません。(ホントは、相手だけ変えようとしてもムダな抵抗ではあるのですが・・・汗)。
それはさておき、そんな「送りこまれちゃいました!(+_+)」な女性をみているとある共通点がうかがえます。それは、まず彼氏なりだんなさまに「ああして、こうして」と注文・要求が多く、思いどおりにならないとご機嫌ナナメになるということ。
その女性のなかには「理想の彼氏、だんなさまとはかくあるべし!」という確固とした刷り込みがあり、それにそっていないといちいちつっかかってきて、ついには口で言ってもダメだとわかると引きこもる、黙りこむ、むくれる、というエネルギーによる武力行使に出るわけです(注・引きこもる、黙りこむ、むくれるは決して弱さの表現ではありません。れっきとした攻撃のひとつで、使用する本人にとってはいちばんなじみがある定番の攻撃方法。また、有効に相手をコントロールできると知っていて使われるものです。男性にとっては言葉で論理的に議論できないというのは、わけがわからずお手上げなわけです。また引きこもられると、扱い方も男性にはわかりません)。
やってるご本人、女性にとってはいたってふつ〜、定番の反応なのです。そうです、わたしたちは何をしていようと、いつだって本人にとってはごくあたりまえのこと。だから、「このように反応して何が悪い」と開き直り、話しあいにもなりません。
もともと女の子というものは理想の王子さまを思い描きながら育つものですし、自分がお姫さまになりたい願望も強いもの。で、いったん彼氏ができると、「よしきた!」とばかりに相手の現実はさておいて、「理想の彼氏とはこういうものである」、「そうあらねばならない」をかかげて迫ってくるわけです。
すると、レストランに入るときドアをあけてくれない、自分だけずんずん行っちゃう彼氏に・・・・ちがうだろ〜!とムラムラ腹が立つ。もちろん、つきあいはじめの初々しいころは何も言いませんが、あるところから理想にそぐわない現実に対して怒りが炸裂しはじめるわけです。
その遠慮が薄らいできたあたりから、女性は自分のなかでずっと不足してきた愛情の埋め合わせをするために、必死で相手に「与える」ように要求してきます。それは、モノにしろ愛情にしろ、まるで底なし沼。この場合、いくら与えても、いくらやさしくしても、決して満足することはありません。
このいっくら与えても満腹にならない「欠乏感」は、じつは今にはじまったことではなかったのです。それは、幼少の頃から耐えていた痛みであり、おりあらば、あわよくば、埋めるチャンスを今か今かと伺っていた心の中のブッラクホール。両親とのあいだで決して満たされることのなかった「要求」であり「期待」であり「無条件の愛」なのです。
この「欠乏感」という心の穴は誰でも持っているものですが、とくにこどもの頃、親に十分な、そして健全な注意を向けてもらえなかったこどもは、深くて暗い底なし沼なブラックホールを抱え、それが心の真ん中に君臨しているわけです。
誰だってちいさな頃の自分はひとりになれば不安だし、わからないこと、対処できないことがいっぱい。そんなときに、ともに寄り添い、ただ見守ってくれる眼差しがあったか、なかったかは、その後の人生への安心感、自分に対する自信、そして未来への希望などに大きな影響を与えます。そこで与えられなかった無条件の愛はブラックホールとなり、つねにそれを埋めるためのチャンスを虎視眈々とねらうことになります。つまりその後の人生のなかで、足りなかったものを手に入れるためにあらゆるエネルギーを使うことになってしまうのです。
しかし、当の本人はそのような愛情の欠乏を相手に投影しているとはさらさら気づいていません。いつもあたりまえの行動・反応をとっているとしか思っていないのです。本人にとってはあくまでも、それが当たりまえですから。
なので、ついには彼氏やだんなさまに「重すぎる!」「要求が多すぎる」と嫌われてしまうハメに。彼らはブラックホールに吸い込まれ、ついには自分がなくなっちゃう恐怖を感じているわけです。
シッポを巻いて逃げられちゃうまえに、女性は自分が手に入れられなかったものを相手から力いっぱいむしりとろうとしている事実にしっかりと気がつかなければなりません。(むしりとろうとしても、往々にして、相手も足りないと思っているので、お互いむしりとる戦いになったりします。ふたりとも丸裸・・・汗。)
さて、このような悲惨な自己パターンにみずから気づくためにはどうしたらよいのでしょうか?
(その2につづく)
(その1より)
ここまで、それはまるで女性だけの問題のように書いてきましたが、この「満たされなかった」と信じているものを「相手からむしりとる」という行為は男性も同じ。つまりみんなが持っているパターンです。
さて、こんな自己パターンに気づくためにはどうするのか?
まず自分が幼少時代「何を与えて欲しくて」「与えられなかったのか」を意識にのぼらせることにより、自分がどんな要求を強くもっているのかに気づくことが大切です。そのためにはよくワークショップで行うちょっとしたエクササイスが有効です。
【喪失体験をケアするワーク】
1, 親(あるいは、愛してほしかったのに愛がえられなかった相手)に対して手紙を書きます。
相手がすでに亡くなってしまっていてもかまいません。
2、まず相手への感謝の気持ちからはじめ、してほしかったけれどしてもらえなかったこと、あるいはえられなかったものなどについて書きます。
「お母さん、わたしをここまで育ててくれてありがとう。あなたとはたくさんの楽しい思い出があります。しかし、あなたはわたしをめったに褒めてくれませんでした。褒めるよりも、いつも指示されたり正されたりしていた気がします。だからわたしは自分がどこか欠陥があるのかと信じてきました。わたしはただそのままの自分を無条件に愛してほしかったのです。・・・云々」というように、語りかけるように書いてゆきます。
3, 書き上がったら、声に出して読みあげます。
これは自分の癒しのために書いているので、相手に渡すことはしません。もし信頼できる人がいたら自分の前に坐ってもらい、親のかわりに手紙を読むのを聞いてもらいます。一人で読んでもかまいません。声に出してください。
4, 読み終わったら、しばらく静かに自分の感情を感じます。
その頃の感情が再び甦ってきて涙が流れるかもしれません。感情、涙とともにいる時間を十分とってください。
5, 落ち着いたらふたたび手紙にもどり、そのなかに書かれている自分の要求(無条件に認めてほしかった、信頼してほしかったなど)に丸をつけます。
この手紙だと、「ああ、褒めてほしかったんだな〜」とか、「指示されたり正されるのではなくて、そのままの自分でいいと言ってほしかったんだな〜」と手にできなかったものに気づいてゆきます。
6, 自分の満たされなかった要求を、どのようにしたら自分で満たせるか考えます。
たとえば、親に「無条件に認めてほしかった」場合は、自分が自分に対してどれだけつらくあたっているか、否定しつづけているのかに気づきます。そしてきょうから失敗しても、理想の自分でなくても、明るく自分を認めることを自分に約束し、実行してゆきます。
おわかりのように、わたしたちは足りないものを外に調達しにゆこうと必死でしたが、結局外には見つけることができなかったのです。なぜなら、みんながみんな「足りない」と思っていて、人に真に与える余裕などないからです。すると親でさえも、自分のブラックホールを埋めるためにこどもを利用してしまいます(これ、意外によくあるパターンです。たとえば親から十分愛してもらえなかった穴埋めに、こどもを自立させず自分につなぎとめて依存させることで愛されてると感じようとするパターンなど・・・)。だから、自分のブラックホールは自分でリペアするしか方法がない、ということなのです。
どこがうまくいっていないかわからなければ、それをうまくいかせる方法は皆目検討がつきません。しかし、自分にはどんな穴があるのかがわかれば、まずそれだけでも他人にこっそりとその穴を埋めさせようとしてかなりのエネルギーを費やしている自分に気づくことができます。
実は心の世界でも、モノの世界でも、足りないものは外から調達することは出来ないのです。なぜなら、すべては自分の心のなかからはじまり、それが外へと広がってゆくからです。自分が見ている世界は、すべて自分の心の中の世界なのですね。だから、「愛」にしても「豊かさ」にしても「幸せ」にしても、外からやってくるのを手ぐすねひいて待つのではなく、「自給自足」の心意気を持たなければなりません。自分でちゃんと面倒をみてあげなければならないのです。
それには、まず自分の心の欠乏、要求に、自分がちゃんと寄りそうことからはじめてみることをおススメいたします。(^_^)v
おもしろいもので、セラピーのテーマというのは週を通して一貫していることがよくあります。ある週は虐待セッションオンパレード (;_;)、ある週は男女間のもめごとあれこれ (+_+) とか・・・。
さて今週は・・・というと、自分の「感情がわからない」シリーズ。あのクライアントさんも、このクライアントさんも、「感情がわからないんですぅ」。そうなると、なんだかこの地球上こぞって「感情わかりません」状態になっているような。(余談ですが「世の中みんなそうだから」と発言するとき、「みんな」はたいてい三人で十分なんですよ。)
さて、「感情が感じられない」みなさまは、最初からその相談にいらっしゃるわけではなく、他の問題が入口でした。お話ししてゆくうちに「えっ?!わたしって、じつは自分の感じていることがわかってないの?!」ということが発覚。
「感情がわからない」というのは、中年以上の男性には多々みられるケース。たとえば、上司からクビを宣告された男性。その男性に「今、どんなお気持ちですか?」とたずねると、「仕事がないと生活できないし、女房の文句も絶えないし、困ります」。わたしは気持ちについて尋ねたのであって、彼の考えやまわりの状況について尋ねたのではないのですが。気持ちの描写はぬけているのですね。
感情がわからない人に「気持ち」を尋ねると、きまって一般論か、頭で分析した結果について述べるだけ。実際、自分がそれに対して何を感じているのか、「不安」なのか、「自信をなくしている」のか自分の内側が語られることはないのです。
この男性にとって、「どんな気持ちですか?」というのはまるで未知の質問のようでした。「それって何のこと?」「気持ちってなに?」とポカンとした状態になってしまいます。
こういう方はほんとうに感情がわからないのかというと、いえいえそんなことはありません。断言できるのは、人並み以上の「感じる」力があるからこうなった、ということ。
どういうことかというと、幼少の頃に「感情」というのは自分を傷つける刃物のように感じてしまったのです。で、「これ以降は、感情に関することは見えない、聞こえない、感じない、まったくかかわらないことにします!」と決めました。それは、親や兄弟の爆発的な感情の表現に圧倒され、それによって自分が抑圧されたりコントロールされた経験があるのかもしれません。あるいは、幼い自分が感情を自由に表現すると、親にたしなめられたり拒絶されたことがあるのかもしれません。また、対処できないほどの苦しみや悲しみにさらされ、その感情とどのように向かってよいのかわからなくなった場合も。いずれにしても感情というのは自分も人も傷つけるキケンなものだと信じてシャットしてしまったのです。
つまり、「感情を感じられない」どころか、じつは「感情に敏感」であった。それゆえ、圧倒的な感情の波にさらされて被害甚大だったわけです。で、身の安全を確保するため感情をスイッチオフしてしまうという手しかなかったのです。だから、いったん感情を感じはじめると、「ああ、わたしはこんなにも豊かにものごとを感じられる人だったのか」とみなさん驚きを感じるほど。モノクロだった人生がいきなりフルカラーになるような感じ。そして、誰よりも「感情のエキスパート」だったことに感動します。
そうですよね。学校でも家でも、正しい感情とのつきあい方は教えてくれませんものね。親が正しい感情の現し方を知っていたとしたら、わたしたちも「傷つけ合う」感情ではなくて、「理解しあえる」感情の表現を学べたかもしれません。でも親も知らないってことは、おじいちゃん、おばあちゃんも知らず、7代先もたぶん知らない、ということです。
「感情」であるハートが道を閉ざされると、わたしたちは頭のおしゃべりである「思考」が優勢になります。そうすると、価値判断したり、批判したり、怖れを感じたり、あーだ、こーだと忙しく考えはじめ、「人生って、ああ疲れる」あるいは「恐れでいっぱい」ってなことになってしまいます。
そう、わたしたちの中には二つの声があるのです。「感情」からの声と「頭(思考)」からの声。この二つはまったく別のもの。さて、どっちがほんとうの自分なのでしょうか?しあわせになるには、どちらの声を聞くべきなのでしょう?
(その2に続く)
その1では、「頭(思考)」の声が優勢になり、「感情」の声が無視されてしまう、そんな方が多いというお話でした。
では、わたしたちの中にある「頭(思考)」と「感情」の違いって何でしょう?
「頭(思考)」は、まわりの状況を見ながらつねに合理的に変化します。一方、「感情(ハート)」はわきあがってくるこころのつぶやきで一貫しています。つまり、思考は外中心でつくられ、感情は内側からやってきます。思考は自分の思考でありながら狡猾にわたしたちを騙そうとする策略家。感情は朴トツでウソをつくことができない不器用者。思考は使えば使うほど心も身体も萎縮してゆきますが、感情は耳を傾ければ傾けるほど心も身体もホッとします。思考は感情を手なづけようとしますが、感情は従いません。何でも思いどおりにしたい思考はそんな手なずけられない感情をうとましく思い、ついには無視しようとします。
きっと、あなたにも経験がありますよね。「頭」ではそうしようと思っているのに、どうも「感情」がいやがるっていうこと。わたしたちはたいてい「頭」で考えてメリットがあると判断するや、感情がいくらいやがっても首に縄をつけてでも従わせようとします。そして「感情」は尊重されなかったことに傷つき、どんどんいやな気分を増長させてゆきます。すると、「頭」はついに「感情」を扱いかねて、「感情」をバッサリと切り捨てて無視することに。感情はそれにともない、引きこもりになってしまうこともあります。こんなふうに、わたしたちの「頭」と「感情」はずっと対立しながら存在しているのです。
わたしたちはハートが傷ついたことにより「感情」と縁をきり、「頭」を優勢にして生きてきました。その結果、ついには自分が何を感じているのかわからなくなってしまったのです。自分さえも、自分の思考に騙されてしまっているのです。さて、この感情がわからない症候群、人生において何か影響があるのでしょうか?
感情がわからない人の場合、会話において感情が除外されがちです。すると、「インフォメーション」的な会話になりがち。
たとえば、映画鑑賞後の会話。「あの場面、どきどきしたよね〜」「う〜ん、こわかったよね」「あんな体験したくないね〜」と、お互いの感想をシェアしますね。しかし、感情がわからない人の場合はこんなふう。「この映画、○○億も制作費かけてるって」「主演女優は代役たてずに全部自分が踊ったっていってるけど、ウソらしい。代役がクレームを起こしてさあ・・・」とインフォメーションが主体。友人との会話というより、映画評論家の解説を聞いているような気分に。感情を含まない会話には一体感が生まれないので共感しにくく、「なんかヘン?」というズレ感が生まれます。
また、感情を感じられない弊害の最たるものは、人生がモノクロになってゆくことです。感情豊かな人は泣いたり笑ったりいろいろと感じていますが、感情を感じない人にとっては何もかもフラットなのです。
すごく喜ばないけれど、さして悲しくもなく。人が「楽しいね!」と言えば一応口裏をあわせますが、目は笑っていません。冷めています。頭で「これは楽しいんだ!」といい聞かせても、どこかシラケています。もしかすると、人からは「動じない人」あるいは「穏やかな人」と言われるかもしれません。でも、ご本人は味気ない。ヴィヴィッドにフルカラーで感じてこそ、「人生って、まぁいろいろあるけど、でも生きてるっていいね〜!」と心からいえるのです。
感情がまったくわからなかった方も、はじめからわからないわけではないので、幼少の頃体験している「わからなくなっちゃった」理由を取り除いてあげることによってちゃんと豊かな感情がもどってきます。
また、何が好きで何が好きでないか、小さなことをないがしろにしないでいちいちハートにお伺いをたててあげる習慣をつけてあげることも大切。いつも、自分がどのように感じているのかをちゃんと気にしてあげる必要があるのです。「自分が広がる感じ」「ほわっとする感じ」・・・そうなら、ハートは喜んでいるでしょう。もし、「胃が縮こまる感じ」「肩がこる感じ」がしたら、ハートは NO! と言っているのかもしれません。
そうして常に自分の内側の声に敏感になってあげると、自分が何が好きか、どうしたいのか、どんな人生を生きたいのか・・・ほんとうの気持ちがわかるようになってきます。自分の体験にも満足感が持てるようになります。
さらにいいことは、感情をしっかり感じることができるようになると、自分の人生の舵取りがしやすくなるということ。なぜなら、絶えまなくやってきている「自分専用のスペシャルメッセージ from 宇宙」は、感情(ハート)を通してのみキャッチできるのです。すると、すべての答えを知っている「ほんとうの自分」とつながれるようになるのです。「今回の人生、どのように生きたらいいのか」ということにはじまって、「この仕事でいいのか」など。人生がすんなり流れる方向を知っているのです。それは頭ではできません。
ほんとうにこれがやりたい!とハートがワクワクする感じと、それにそって頭でつくりだす将来の鮮明なイメージをプラスしてあげると、これはもうモーゼの杖!なのです。ぱっくりと、あなたの目の前にあなたの行く道が開けてくるのです。
ワクワク楽しい自分の感情の声を理解し、さらにそこに思考のしっかりとした将来のイメージをプラスしてあげるとパワフルに未来をつくりだす力に早変わり。進むのが早くなります。これは感情だけでも、思考だけでもダメ。感情が大切にされて、それに思考が従ったときにこそ発揮されるパワーなのです。正しい行き先を知っている感情と、パワフルにイメージし行動を計画できる思考が合体したとき、それは力強く未来を切り開いてくれる最強ツールとなるのです。
自分の感情(ハート)の声を優先することで、自分本来の生きるべき道に導かれます。またその道を自ら力強く歩んでゆく力も与えてくれるのです。・・・だから、ハートの声、大切にしましょ!
生きていていちばんつらいのは、どんなときでしょう?
何か大失敗をしでかしたとき?自分を認めてもらえないたとき?あるいは今回の震災のように、愛する人も何もかもを失ってしまったときでしょうか?もちろん、このようなとき私たちは生きる力を失います。
しかし、私たちをコテンパンに、これ以上立ち上がることができないほどに打ちのめしてしまうのは、じつは「希望」をまったく見失ってしまったときなのです。
どんなに苦しくてもまだ希望が見えるとき、私たちは立ちあがってここから抜け出そうと前に進みます。しかし、「心に何の希望もまったく感じられない」状態になると、暗闇に置き去りにされたように立ち尽くす、いえ座り込んで頭を抱えるしかないように感じます。希望は私たちの魂にとって必須の栄養素。これが切れてしまうといくら身体に栄養を与えても、励ましをもらっても、ついには命さえも落としてしまうことさえあるのです。
希望は外からやってくるもの、出会うものだと思われるかもしれません。しかし、同じものを目にしても、希望にあふれたものとして認識する人と、まったく希望のかけらも感じられないと判断する人がいます。
結局、希望とうものは、外にあるものではなく心がつくりだすものなのです。
どうしたら心に希望をつくりだすことができるでしょうか?
わたしたちの現実の中では、それぞれに必要なものは完璧に用意されています。しかし、それは見つけ出す気持ちがなければ目にふれることはありません。まずは、どんなときにでも、誰にでも希望はあるんだ!という信頼がなければ、見えるものも見えなくなってしまいます。
そして、行き詰まっているときと同じものの見方をし続けていては、同じものしか見えません。まったく違う視点をもってみる。また、様々な視点をもってみる。視点を広げてみる。すると、状況は変わらなくとも「な〜んだ!たいしたことじゃなかった」と気分が楽になったりします。
セミナーやワークショップ、カウンセリングなどの言葉を使ったセラピーやワークでは、まったく新しいものの見方を習ったり、視点を拡大、転換し、多様なものの見方をつくりだすのに役立ちます。それによって、真っ暗だと思っていた心の闇に、希望という灯りがしっかりともります。崖っぷちから真っ逆さまだと思っていたピンチさえも、知らぬまに風にのって高く飛翔している・・・そんな場面の急転換も可能になるのです。
(セラピーコモンズ・ネットモールさんのセラピストコラムに掲載)
わたしのまわりには元気のいい方、楽しそうな方、幸せそうな方がたくさんいます(そんな方もたまには、ド〜〜ンと落ち込むこともあるようですが、がぜん持続力はないようです)。
日頃こちらにセラピーにいらっしゃる方は、「もっと幸せになりたい」という自己実現派の方と、にっちもさっちもいかない悩みどっぷり型の方と、二つのタイプがいらっしゃいます。
まわりの友人をながめながら、またクライアントさんとお目にかかりながら、何が幸せのコツだろう、と考えました。
でも、「幸せ」というのは、何かがやってくればもれなく「幸せ」になれるという紋切り型のものではありません。なぜなら、「こーなったら、そりゃ、もれなく幸せでしょ〜」というシチュエーションにおいてもえらく悩んでいる場合があるからです。
たとえば、パートナーが突然高価なプレゼントをくれたり、行ったこともないような高級レストランに連れて行ってくれた場合、素直に喜ぶどころか「なんかあ
やしい!絶対ウラがある」と疑心暗鬼になってしまったり、また思わぬ昇進をはたしてお給料がめちゃくちゃ上がったりすると、「ものごとそんなにうまくいく
はずがない」「引っぱり降ろされるのは時間の問題だ」「責任に耐えられない」とすぐに心配をはじめたり、それで病気になっちゃう人もいます。
最もエネルギッシュで楽しそうなのがわたしの70代のお友だち。見ていると、とっても喜び上手だし、感謝上手なのです。そして、人を助けて導くことに生きがいを感じていらっしゃいますし、また与え上手でもあります。
「物ごとがわたしたちを幸せにするわけではない」と先ほども書きましたが、では何が私たちの幸せを決めるのでしょう?
じつは、起った物ごと、体験した物ごとに対する「意味づけ」「解釈」なのです。その物ごとがどういう意味があったのか、を決められるのは、それを体験して
いる本人だけなのです。そしてそれは、同じ物ごとを体験したとしても、一人一人完全に違うものなのです。たとえ万人が「それはヒドイ!」というようなこと
でも、それを体験しているご本人が「どってことないわ〜」と言ってしまえば、それはその人にとって「どってことない」レベルの体験として過ぎてゆきます。
また、「そんなことたいしたことじゃないじゃない」と思うことでも、トラウマレベルとなりその人の一生に影を落としてしまう場合もあるのです。その人が
重大なこと、とんでもないこと、と認識すれば、誰が何といおうとそれはその人にとっては致命的となるのです。(そんな理由で、生育環境で起った出来事の大
小でトラウマの深さは決められません。ほんのささいなことでも、その人の一生を左右してしまうこともあるのです。また、「あんな過酷の体験をして ・・・
」と人が同情するような体験でも、ご本人はなんらダメージがなくひょうひょうとしている場合もあります。)
今いちどわたしの70代のお友だちを考えてみると、喜び上手、感謝上手、人助け上手は、何か特別なことが日常に起らなくても、日常がスペシャルになってしまうのです。つまり、よい気分になるために、外からやってくるとこを期待する必要がないのです。
たしかにそうでした、そのお友だちと先日鎌倉へ遠足をしたのですが、紫陽花を見る混雑があったり、立ち寄ったお寺にあまり紫陽花がなかったり、原宿のよう
な雑踏にであったり・・・と必ずしも完璧な行程ではありませんでした。けれど、戻るなりお電話、お手紙、メールで「すごく楽しかったわね〜」とまずちゃん
と「楽しかった」という確認をされているのです(ものごとって勝手に楽しくなると期待しますが、じつは能動的・積極的に楽しむ心構えが大切なのです)。そ
して、お送りした写真についても、「家族で楽しみました」とか「職場で見せます」と、ここでもちゃんと「楽しさ」の確認が行われています。
そうなんですよね。ものごとはほっておいて楽しくなるというよりも、「これは楽しいね〜」と先に意味づけしてしまうことによって、楽しい体験になってしま
うのです。何かで成功している方もいっておりました。困難がやってくると、「おお、これはどんどんおもしろくなってきたぞ〜!」とつぶやくと。すると、ど
んどんおもしろくなってしまうそうです。つまり、自分をどれだけうまく騙す、いえ、なだめるかなのです。
逆に、どんなに楽しいことでも「あら探し」の達人になってしまうとせっかくの体験が台無しになってしまいます。まずは物ごとに対する自分の意味づけが、そ
の後の認識、体験をつくることを肝に銘じて、「いいとこ探し」の名人になりましょう。「これって楽しいね〜」「ほんとありがたいわね〜」「なんてラッ
キー」・・・これを口グセにするだけでも、幸せ度は格段にアップします。
そして、わたしたちは自分のとる行動によって、自分を好きになったり、嫌いになったりもします。
たとえば「あら探し」の名人。パートナーやら、日常の出来事にいつもネガティブに反応して文句ばかりいっている場合。まあ、「ブツブツいいたいのはこの人のサガだ」とほっておけば、まわりはあまり迷惑をこうむることもないかもしれません。
しかし、いちばん被害を被っているのは、意外にも意外・・・・(え?誰?)。
(その2に続く)
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たかちゃんセミナーのご案内
いきかた気づき塾「わたしの未来のつくり方」
日時: 2011年7月3日(日)14:00~17:00
講師: 古川貴子、高橋和子、池間清志
詳細はこちらから
まわりの人を非難したり、物ごとをこきおろしたり、あたりちらしたり・・・それでいちばん被害を受けるのは誰でしょう?非難された人?あたりちらされた人?・・・ Noです!
最も被害甚大なのは、じつは文句をいっているご本人そのもの。「ブツブツいう」のを年がら年中やっていると、それをつぶさに眺めているのはたった一人、自分自身なのです。たとえ「ブツブツいっている」のが自分であっても、ブツブツいう人ほどブツブツいう人が大嫌いです。ということは、ブツブツいえばいうほど、自分の自分に対するイメージや評価が急降下してゆきます。みるみる自分に対する信頼を失い、自尊心が乏しくなってしまいます。
ブツブツいいたいのは、自分にとって不都合なできごとに抵抗しようとする自分の頭(理性)であって、自分の心(潜在意識)はブツブツいうことを決して認めてはいません(潜在意識には不都合の感覚がありません)。そしてブツブツいっている張本人の頭(理性)でさえも、「ツブツブいうやつは弱いやつ」「わがまななやつ」「信頼できないやつ」だと認識しています。なぜなら、頭(理性)は自分が弱いと思っているからこそ、隠そう、カバーしようとして、まわりを貶める作戦に出ていることを知っているからです。自分が優位に立つ戦略を立てなければならないほどよわよわであることを、頭(理性)はちゃんと知っているのです。
なので、ブツブツ戦略に出なきゃ行けない自分を「ふがいないやつ」、そんなやつは大嫌いだ、関係をもちたくない、と嫌悪します。自分嫌い度がまして、人も嫌いだけど、もっと自分も嫌い、という事態を招いてしまいます。そして、自分が嫌いになれば、それを外側に投影してまた人も嫌いになり...悪循環。
というわけで、プチ幸せになる即効力のある方法としては、目に入るものの「あら探し」をする習慣はひとまずやめにして、ひとつの物や人に関して最低3つぐらいは「いいとこ探し」をしてみるようにすることです。そして、何かを見たらり体験したら、ソク「いいとこ」が浮かんでしまうように習慣づけをしてしまいます。
そして、ブツブツのかわりにそれを積極的に口に出してほめてコチョコチョしてみてください(コチョコチョ??・・・ブツブツの反対が思いうかびませんでした・・・汗)。
あるいは、こんな習慣も幸せの感度を高めるのに役に立ちます。毎晩眠る前に、きょう楽しかったこと、感謝すること、おもしろかったこと、を5つ書き出す、あるいは家族と分かち合うということ。ただしやるときには機械的に羅列するのではなく、ひとつひとつのことを心をこめてどんな感じだったのかをありありと感じながら話したり書いたりすることが大切です。この習慣も特にイベントがなくてもプチ幸せを感じるセンサーを磨いてくれます。
じつは幸せって、今まで願っていた一大事が成就することではなくって、たとえば「一日の終わりのお風呂、気持ちいい〜」とか「風呂上がりのビールって最高!」とか、「きょうの風はなつかしいようないい匂いがするな〜」とか、そんなささいな小さなことの積み重ねなのですね。
「たのし〜♪たのし〜♪」と意図的に楽しんでいるうちにまぎれもなく本気で楽しくなってきますし、またいつも口角を思いっきり引き上げてニコちゃんマーク顔にしておくことによっても、筋肉から脳へハッピーの指令を出すことができます。思いっきりスマイルして文句をいったり怒るのはムリ・・・だから自分が相手に文句をいいはじめちゃったなと思ったら、思いっきり口角を目尻の方まで引き上げてみてくださいね。なんか自分でも怒るよりも笑いなくなってきちゃいます。
また、日本人にとっては「幸せ」という言葉は、どこか絵に描いたモチのよう。なかなか手が届かないというか、庶民にはムリというか。「幸せ」という言葉は、そうとう何か特別なことがないかぎり使うべきではないと思っているようです。なので、ふだんから「幸せ」を目指すよりも、「ちょいハッピー」をめざすほうがいいのです。
だから、ほんとうの幸せとは「ちょいハピ」のつみかさね。ちょこっとイイ感じ、ちょこっと笑える、ちょこっとほっこりする・・・。そして、外からやってくることに依存するのではなく、自分がふだんしている物ごとに対する「意味づけ」の習慣を意識的にちょっと変えて「ちょいハピ」の方向にしてみる、そしてそのちょいハピを積極的に大げさに喜んでしまう。すると、「幸せ感」はだいぶ促進することができるのですね。
さてさて、みなさまの本日の「ちょいハピ」ベスト5は何でしょうね?思いっきり口角を引き上げて、目尻を下げて、「ちょいハピ」を思い出してみてください。
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たかちゃんセミナーのご案内
いきかた気づき塾「わたしの未来のつくり方」
日時: 2011年7月3日(日)14:00~17:00
講師: 古川貴子、高橋和子、池間清志
詳細はこちらから
「オレが我慢すればいいんだよ...」
と、友人は言った。
「なんじゃそれ?」と思っていたら、その後、クライアントさんにしろ、知人にしろ、やたら周りで「わたしが我慢すれば・・・」というセリフに出会ってしまった。(はい、強く注意を向けるといっぱい引き寄せます・・・汗。しかし、多いのですね、我慢している人。)
「オレが我慢すれば・・・」っていっけん英雄的でたのもしく響きますが・・・どうなんでしょ?
この友人、職場で、家庭で、そして私や友人にさえも「もしや、我慢しちゃってる?」という様子が伝わってくるときがあるのです。ここでは文句を言ったり、
自分の気持ちを表現するのが当然でしょ?という場面でもグッと口をつぐみ、言葉を飲みこみ・・・。しかしわたしたちのコミュニケーションのほとんどは、言
葉で表現しなくてもオーラでしっかり伝わるもの。つまり、我慢はすっきりしないネガティブ・オーラをまき散らしてしまうのです。
言わないから丸くおわまるどころか言わないことによって、「もしや、わたしのことコワがってる?」「結局、信用されてないってことね」というように、周囲と否定的な循環がはじまってしまいます。
それに我慢は抑圧を意味するので、お腹の奥深くにためこまれ決してその感情がなくなったわけではありません。少〜しづつ少〜しづつ溜めこんで、堆積して、
ついにあるとき・・・「あの温厚な人が、まるで人が変わったように怒鳴り散らした」「暴力をふるった」、あるいは人に向けずに自分にそのエネルギーを向け
ることによって自分を痛めつける「病気」や「事故」、あるいは「突然死」さえもありうるのです。
友人のもうひとつの口グセは「自信がない」。
はいはい、そうでしょうとも!合点がいきます。
「自信がなくなる」いちばんの原因は、文字どおり「自分が信じられない」からですが。じつはこの「オレが我慢すれば・・・」というのは、「自信」をそぎとる最たるもの!自分に対してはとんでもないことをしているのです。
そもそも「我慢する」という感情は、「オレはそれはしたくないのだ!そんなことはごめんなのだ!」という本音を「我慢」して押さえこむ、ということ。
しかし、この自己犠牲的な言葉「我慢する」こととともに、自分の葛藤していたはずの感情はすっかり無視され、きれいに葬り去られます。
これは自分に対する最大の裏切り行為。「自分はこうしたいのだ!」とほんとうの気持ちを訴えているのにもかかわらず、聞いていながら聞かないフリ。自分のほんとうの気持ちを完全に無視したわけです。
人にとっては「無視」は「いじめ」よりもこたえます。
自分にとって、いちばん長い時間一緒にいる「自分」。親身になって、いたわり、受け止め、慈しみ、いちばんの理解者になければならないはずの自分が、自分をないがしろにして無視しているのです。これはヒドイ仕打ちです。
そんなことをしたら、それからは自分の「気持ち」と「考え」が対立するようになってしまいます。自分の「考え」は自分の「気持ち」をやすやすと無視してい
い、しいたけげてもいい、尊重する必要などない、と主張し、そういう習慣がついてしまうのですね。自分に対する信頼感、尊厳がなくなり、これは外側にも伝
わってしまうのです。すると、自分が努力するわりには外側からの尊敬が得られない、という事態にもなりかねません。
そうしているうちに、自分にとって「信じられない人物 No.1」、それは裏切り者の自分であるということになってしまいます。自分が信じられない、つまり自信なんて持てないということです。
それは一大事!!
では、いったい自分に対してどのように接すればよいのでしょう?
(その2につづく)
自分の気持ちを裏切り続けたすえ、ついには自分自身のことが信じられず「自信が持てない」ということになります。この症状が出現してしまったらどうすればよいのでしょう?
ほんとうは日常の生活でなによりも大切にしたいことは、常に自分の気持ちに耳を傾けて、自分の気持ちをやさしく汲みとって尊重してあげる、ということ。落ちこんでいたら、「そっか〜。落ちこんでいるんだね。うんうん、そんな気持ちになることもあるよ。いいんだよ。落ちこんでも、それは普通の人間の反応だよ」と、なんら責めたり恥ずかしく思うことなく認めてあげます。
自分の気持ちを汲みとるということは、気持ちに寄り添って、「今はそう感じているんだね。そう感じてもいいんだよ」とOKを出してあげること。
これができるようになると、自分自身がラクになると同時に、人を責めたり裁いたりする気持ちがなくなってきます。人の現状や気持ちをあるがままに認めてあげることができるようになるのです。結局、自分の気持ちを無視して認めてあげていないと、人の気持ちも認めたくないものなのです。「なんだよ、その態度は!俺だってガマンしてるんだ。おまえもガマンしろ」というように、相手の自由な感情が認められません。自分と同じだけの不自由さを相手に強要するようになります。
そんなことにならないように、まずは自分のあるがままの感情を許すこと。そして、その気持ちを無視したり抑圧することなく周囲との折り合いをつけながら表現するために、周囲にも自分にもやさしいコミュニケーションの仕方を身につけなければなりません。
それには「I message (アイ・メッセージ)」を使って、さわやかに自分の正直な気持ちを伝えてゆくようにすることです。
アイ・メッセージとは、人を責めたり、コントロールすることなく、自分を主語にして自分が今何を感じているのかをさわやかに語ってゆく表現方法です。「あなたがそんなだから、わたしは幸せになれない」・・・これは完全に被害者になって相手を攻めています。かりに相手が本当に悪くても相手はこの言葉を受けとれません。攻撃は相手をさらに頑なにしてしまうだけです。
そうではなくて、「あなたがそんなふうに振る舞うと、わたしはなんだか悲しい気分になるの。なぜなら・・・」と、自分を主語にして自分の気持ちや経験していることを平和的にたんたんと語ってゆきます。
この方法だと責められているとは感じないために、相手の置かれtいる状況を客観的に知ることができます。すると、「そっか〜。そんなふうに感じていたのか。じゃあ、次回からやめるよ」などと、歩みよりやすくなるのですね。
つまり、相手を責めることでは何もいい結果を手にすることはできません。自分を主語にしたメッセージで自分の今の正直な気持ちを語ることによって、相手の理解を得やすくなるのです。(たいてい、不平不満を言いたいという怒りの感情の下には、深い悲しみがあります。そのヨワヨワの自分からコミュニケーションすることによって、相手も素直に心を開いてくれるのです。)
と言うように、一にも二にも自分の気持ちを尊重して、それを表現するという、自分の気持ちとのつきあい方を大切にすることにより、ほんとうの自分と和解することができるようになります。すると、おのずと自分と信頼関係ができて「自信」も持てるようになるでしょうし、人にも寛容になり、なによりもネガティブな感情を溜めこまないことにより、自分で自分の人生の邪魔をすることがなくなります。
ゆめゆめ「我慢」することなく、自分を大切にして自分との対話を通して、是非自分と仲良くなりましょう。
二日連続で熱海に出張。台風の影響で熱海の小学校は休校だというのに、堂々とそっち方面にお出かけしていいのやら?しかし、急を要するセッションもあるのです。
ズブぬれ覚悟で出かけたら、なんとカサさえも開く機会なし。セッション中は豪雨で、クライアントさんのお帰りとわたしの移動時刻はまんまと静まり返っていたのでした。ありがた〜い!(^-^)ノ
たまにラッシュ時に電車に乗るとびっくりします。この暑さのせいもあるのでしょうが、小競りあいがあっちでもこっちでも。満員電車を降りるときにちょっと足を踏まれたかなにかで「イッテ〜な、このやろう!まちやがれ!」なんて、大声を張り上げてケンカになっていたり。
そういえば友人いわく、「女子サッカーはいいね。男子は観ない。だって、男子サッカーのほとんどはスネをかかえてイタイ!イタイ!って転がりまわっているだけだからね」と。
この朝のラッシュ時から「イテ〜!イテ〜!」と叫ぶ男子たちを見て、ついこのサッカーコメントを思い出しちゃいました。
もともと人の意識のふか〜いところには誰でも、「何がなんでも被害者になってやる〜!」的な決意ともいえる信念がひそんでいるものです。そう、誰にでも。
被害者になると「相手を悪いやつだと責めることができる」、すると「自分はいつだって正しいんだ」という満足感、そして「結局は自分が優位に立つことができ」、「同情だってもらえる」・・・というように、なんでも外から調達しなければ手に入らないという根深い思い込みがあるのです。
でももともと世の中は、「自分にある」と思ったものしか手に入らないという仕組みになっています。外を探せば探すほど、さらに探さなくちゃならない人生に突入です。被害者もやればやるほど、被害者チックな人生になってしまうし。
だから、すべては「自給自足」から!まず、「自分でどうにかする」。そうすると、不思議なことに外からそれらがどんどんやってくるようになるのですよね。たとえば、自分を大切にすれば、人からも大切にされる・・・というようにね。
「被害者」を一生懸命やる時間やエネルギーを節約するだけでも、人生そうとう軽やかになりそうですよね。この時代の究極のエコかもしれません。
わたしたちは「自分の考え」というものに、簡単に騙されてしまうことが多々あります。そして、お悩みの原因も外からやってくる、と思っていますが、じつは「自分の考え方」に勝手にハマってしまっているだけなのです。
たとえばこんなふうに・・・。
クライアントさん:「主人がいっつも勝手で困ります。ほんとに自分のことしか考えないのです。結婚してからずっとです」
わたし:「“いっつも”って、それは毎日、四六時中っていうことですか?結婚して以来、年がら年中そうなのですか?」
ク:「(ちょっと考えて)いえ、・・・毎日ではないのです。ときどきです」
わ:「“ときどき”って?一週間に一度とか?」
ク:「(また考えて・・・)今回のお金の問題は、そういえば一年ぶりに衝突しました」
わ:「一年に一回しか会わない友人に対して“いっつも”会ってる、とは言いませんよね。ということは、ご主人はおおよそ一年に一回勝手な感じがする、ということですね」
上のやりとりを見てもわかるように、「“いっつも”そうなんだよ」と安易に言ってしまうと、言った本人でさえもそれが絶え間なく行われているような錯覚をおこします。でも、そもそも“みんな”とか“いっつも”という言葉は、じつは三人とか三回ぐらいでで簡単に使われてしまうのです。三回何かが起って、「もう、いっつもだよ〜」と言ってしまうと、三回が十倍ぐらいにふくれて感じられます。とくにネガティブなことにこの“いっつも”を使ってしまうと、自分がとてつもなく被害者になったように感じられるのです。実際はたった三回だったのに、「いっつもあの人は約束を守らない。ひどいわ」と言ったがために、本人は永遠に裏切られているように感じてしまう、というように。
クライアントさんのお話しをうかがうときには、いつもちょっと引いた目線で全体を眺めるようにしています。すると、問題の根本がわかりやすくなるのですね。
たとえばこのクライアントさんの言いぶんでは、だんなさまは「勝手、自分のことしか考えない、結婚以来そうだ」とのこと。
人の性格というものはそうそう変わるものでもないので、客観的にみるとこのおくさまはだんなさまに対して、結婚前は「勝手」なところに「頼もしい、頼れる」という名札を勝手に貼って満足していたのかもしれません。しかし長く生活してくるうちに自分もだんだん逞しくなり、か弱く頼りたいところもなくなってきたので、逆にその「頼もしい」ところが自分と対立し鼻につくようになり「勝手」という名札に変わっちゃったのかもしれません。
この場合、だんなさまはただいつもの自分として存在しているので、ほとんど相手からの不平を理解できません。「なんと、こいつはうるさくなったのだ」と思っているだけでしょう。ただ、おくさま側の相手に求めるものが変わっちゃっただけなのです。
すると、「自分のことしか考えない」という言い分も、もしかするとそれってご自分(おくさま)のことかもしれません。相手は変わっていないのに自分が勝手に変わって、「あなた、わたしのニーズにあっていないわよ!変わりなさいよ!」と言われても・・・(汗)。(そうなんですよ、わたしたちの求めるものは刻々と変化しています。だから、欲しいものを相手から得ようとすると、そのときは得られるかもしれないけれど、得てしまったらもうお腹いっぱい、用はなし!になっちゃうのです。皮肉なものです。)
このだんなさんに対する文句も、じつはこんな自白になってしまうのです。「わたしって、いっつも勝手なんで困ります。ほんとうに自分のことしか考えてないのですよ。それは結婚してからずっとです。だから、主人は昔からあるがままなのですが、わたしの高まるニーズに合わせて変わってくれないとむしゃくしゃしちゃう自分なんです」・・・と。
心理学でもこの自分の目に映る世界は自分の無意識の心の反映であるといいます。そしてまた、わたしたちはすべてのものを自分の思考を通して解釈しています。つまり、自分色に染めてから意味を与えているのです。すると、ついつい真実を見極めることができなくなり、自分の思考にコロリと騙されてしまいます。その思考が自分にとってプラスの見方を提示してくれるならいいのですが、わたしたちの中にはよわよわな自分がいて、どうにか「被害者」になりすましてたくさん周りからガメてしまおうという魂胆があり、虎視眈々とそのチャンスを狙っているのです。
だいたい外側に見える頭にくることは、自分がもれなくやっているか、隠していることです(いやですね〜、我ながら・・・汗)。「相手はずるい、勝手」だと思う時、じつは自分のほうがそれを上回って「ずるい、勝手」な考え方で相手をコントロールしようとしているものなのですね(なんせ、わたしたちの基本的な考えは“より多く奪い取る”ですから・・・トホホ)。
ほんとうは「被害者意識」や「欠乏感」を無くして、相手に期待しない、相手から与えてもらおうとしないことが、自分自身幸せに、そして相手とも末永く仲良く過ごせる秘訣ですよね。
なので、まずは文句を言うよりも自分と向き合うこと・・・そうすれば、自分の内側からいやなものが飛び出して外の世界に現れ、自分がそれと取っ組み合いをすることが少なくないります。
「charity at home」という言葉がありますが、これは外に行って慈善活動をするよりもまず自分の家庭の平和から・・・ということ。そして、家庭の平和も自分の心の平和から・・・なのですね。
最近多いご相談に、「怒り爆発!怒りをコントロールできな〜い」というのがあります。男性も、女性も。
「気にくわない!」「ガマンできない!」と思わず爆発してしまい、爆発したあとから後悔がおそってくる、というのが怒り。怒りを使うことによって、よりよい解決策は決して望めはしません。さらなる相手からの怒りを生むか、反感をかうか、あるいは関係が決裂する・・・そして自分をコントロールできなかった自分自身に対する自信も失って・・・けれど、また懲りずに怒ってしまう、という繰り返し。
まず怒りはどんなメカニズムでやってくるのでしょうか?
彼氏との会話にバクハツしたA子さんの場合でみてみると・・・
1、 何か出来事が起ります
たとえば、彼氏が昔(自分とつきあう前に)、二股をかけて二人の女性とつきあっていたということを告白した
↓
2、 自分の信じていることに基づいてその事実を価値判断する
「ってことは、一人に決められないという浮気願望があるんだ。いや、すでに浮気しているに違いない。そうだ!会ってないときは浮気してるんだ」と判断
↓
3、 その価値判断が自分のいちばんのウィークポイント(痛み)にヒット
「裏切られたんだ、捨てられたんだ!」という痛みがのボタンが押される
↓
4、 怒りの爆発!!!
「だったら、たった今、別れてやる!」相手を罵り、別れ話をはじめる
(ちょっと、ちょっとぉ、実際のところ、今現在、目の前ではなんにも起きていないのよ。彼は過去のことを語ったかもしれないけれど・・・。今まで二人で仲良くお喋りしていたんじゃないの?何で突然別れ話に飛躍?)
ふ〜〜〜・・・・(汗)。あっというまに別れまで驀進してしまいます。
誰にでも「人とは、世の中とは、世間のルールとは、こういうものだ」という自分独自の持論があります。持論というのはそもそも人の数だけあって、それは同じではないのです。しかし困ったことに、人は自分の持論がまるで世の中の普遍のルールのように絶対であると勘違いしているところがあります。だから自分のルールにあっていない人を発見すると、たとえあからさまな怒りにならなくとも、「何やってんだ、コイツ!?」とか「信じられないことするな〜、どういうつもりなんだ?」と、心の中では自分のルールにあってない他人を非難しこきおろします。
小さいときに甘やかされて育っていたり、なんでも自由にできてガマンをすることを知らないと、人との意見の違いを受け入れるキャパがなく、また自分の感情をコントロールすることにも慣れていません。そうすると、すぐカチンときて、プンプン=3 となりやすいようです。
また、その家の感情のカラーというか、テンションというのもあります。たとえば、父なり母なりが怒りっぽいと、その感情表現の仕方がまっとうなものと認識して、こどもたちも真似をするようになります。たとえば父親が星飛雄馬のお父さん一徹さんみたいだったら、日常にしょっちゅうちゃぶ台がひっくり返っているわけです。そうすると、そのこどもも「気に入らないことがあったら、モノを蹴散らしてもいいんだ」「家庭の日常風景というものは、ちゃぶ台がひっくり返ることだ。誰もひっくり返さないなら、自分がひっくり返そう」と刷り込まれます(飛雄馬くんは成長してお父さんになったあかつきには、きっとダイニングテーブルをひっくり返しまくっていることでしょう)。
先ほどのA子さんの問題点は、「彼が昔の二股の話しをした」ことと「彼が、現在浮気をしていること」をソク結びつけてしまったこと。「昔の二股」と「今現在の浮気」はイコールではないのです。しかしA子さんは自分の過去の痛みの経験から、反射的に結びつけてしまいました。彼女の痛みとは、幼い時に愛するお父さんが「浮気」をしたことによって負った心の傷。父の「浮気」=愛されなくなる自分、捨てられる自分。つまり、父の浮気は幼い彼女の生存をおびやかしていたのかもしれません。そして、今もなお「浮気」という言葉を聞くと、「捨てられる」という怖れが自動的に浮上し、その苦痛から逃れるために「怒り」というさらに強い感情を使ってこみあげてきている怖れをおおい隠していたわけです。
わたしたちはこみあげてくる怒りに対して、どう対処したらよいのでしょう?
(その2に続く)
「怒り」のメカニズムをもういちど復習してみると、わたしたちの中にはものごとに対する独自の価値判断があって、価値判断するやいなやその価値判断にまつわる「過去」の痛みにドッキングし『怒り』が発生する、という仕組み。つまり、「昔、二股かけてたことがある」という彼氏の告白(出来事)→「ということは、浮気常習犯=今もそうに違いない」と判断(独自の価値判断)→わたしを捨てるなんて裏切りもの!(過去、父親が浮気をして裏切られた痛みにヒット)→その痛みに耐えられなくなり、怒り爆発!
わたしたちが怒るなり傷つくなりしているとき、たった今起っているものごとに反応しているように見えますが、じつはそうではなくて自分の中にある解決していない感情に反応しまくっているのです。そしてそのつらい感情が浮上してくるのが耐えられないので、怒りという強いエネルギーに置き換えて自分でも何が何だかわからなくしてしまおうとするわけです。
誰にでも「ふれられたら爆発してしまう」かもしれない抑圧された痛みがあるものなのですね。男性だったら、「バカにされた、見下された」というのがダントツに多いウィークポイント。たとえば、街でぶつかられた(出来事)→これって、わざとだろ〜(独自の価値判断)→バカにしやがって、見下しやがって(過去に兄弟、友人にいじめられたキズにヒット)→怒り爆発!殴りかかってしまう。
他にも、「無視された」「裏切られた」「軽蔑された」「認められない」「貧しい」のような抑圧された痛みの感情があり、容易に怒りにつながってしまうことがあります。
みなさんもご自分がムカっときたり、怒りがバクハツするパターンを調べてみると、自分がどのような痛にみヒットしているのかわかると思います。(これは出来事そのものが痛みにふれているのではなく、あくまでも自分の物事への解釈、価値判断が痛みにヒットしてしまっているのです。)
怒りにくくするためには、実際に起きている出来事に対してそれを解釈する自分のパターンを冷静にチェックする必要があります。自分をみじめにしたり、苦しくなる考えをしていないかどうか。また、自分の癒されていない痛みであるウィークポイントが何なのかを知っておくことも役に立ちます。
わたしたちは出来事によって自分の感情が左右されると思っています。しかし、実際のところ、ものごとには「ただ起きているだけ」。それに対して、どのような意味付け、価値判断をするのかによって、わたしたちの感情が生まれてくるというわけです。なので、自分を苦しめるような意味付け、考えをしていないか気がつくようにすることは大切なのです。
何かにひどく怒ってしまったら、何かに落ち込んでしまったら、ちょっと立ち止まって、自分がその出来事をどのように意味付けしているのかを確かめてみてください。あるいは、いつもポジティブに見える友人に、同じ出来事に対してどのような意味付けをするのか聞いてみるのもいいと思います。
しかし、クライアントさんと怒りについてのセッションをしていて気がついたのは、なかには「怒るために怒っている」という怒りもあるということでした。
これはどういうことかというと、怒りたくて怒っているのです。つまり、怒ることが目的。怒るとアドレナリンが出る→すると、心臓がバクバクして血液が全身を駆けめぐる→その結果、ルーテインで退屈だった日常の中で、刺激が生まれる。→生き生きしているように感じて、「ああ、生きてる!これが生きることだ」と実感する→なので、生きてる感じが足りないなと思うと、怒りたくなる。そして、「生」を実感しようとする、というクライアントさんもいらっしゃいましたよ。
あるいは、「世の中の誰にも相手にされていない」という孤独感を感じるとき、相手に対して勝手に怒りをだくことによって、相手と関係が構築された気になる、つまり一方的な感情で擬似人間関係をつくっている・・・というパターンも。
また、怒っているときにあまりにも大きなエネルギーを感じるので、まるで宇宙を突き抜けて神とつながっているような神々しい気分になる・・・というケースも。このクライアントさんの場合は、セッションで調べたところ「巫女さん」だったような過去世の記憶があり、昔のパターンを今だになぞって生きていたようです。
何にしても、日常で自分が無意識のうちにしてしまうことは、必ず何らかのメリット、手に入るものがあるのですよね。怒りも、あとのダメージは大きいものですが、それにも代え難い「快感」「優越感」「満足感」があるようです。自分がどんな痛みを隠そうとして怒りを使っているのか、また何を手に入れようとしているのか見てみると新しい自己発見があるかもしれませんね。
もともと世の中というところは「全員違ってあたりまえ」。容姿も生活環境も好みも、考え方も物事に対する意味付けも。同じであるはず・・・という考えがじだいが、偏見、差別、攻撃、そして怒りをも生むのですね。最初から考えが違ってよい、違ってこそ大正解、ぐらいにゆるく考えていると、怒りのスイッチも入りずらくなるかもしれません。
追記・・・まったく「怒らない」のが健全というわけではありません。怒っていいのです。「怒る」のは「怖い」「嬉しい」とかと同じで、たくさんある感情のひとつにすぎません。抑圧してしまうと、他のすべての感情が平板になって何も感じないつまらない人になってしまいます。個人的に怒るのはぜんぜんかまいません。問題なのは、大気汚染のような「怒り」。自分の怒りをまわりにまき散らすこと、あたりちらすことです。
しかし、どちらにしても自分の人間関係や人生を一瞬で台無しにする破壊的な「怒り」はその場に応じてちゃんとコントロールできるようになること。すると人生もよりスムーズになりますよ。
不登校やひきこもりを専門に扱われ、数々の講演会をされているカウンセラーの安川雅史さんのお話しを聴きに行ってきました。
「オフィス・るん」のセッションでも、ひきこもりの問題をご相談される方は年々増加しています。年齢層も子どもさん、学生さんから、もう数十年にもわたるひきこもりの方まで。
ご本人自ら問題を持ち込まれることはめったになく、たいていはご両親から「うちの子をどうにかしてください」というご相談です。
「うちの子をどうにかしたい」という親御さんに「ではまず、ご自身(両親)のカウンセリングからはじめましょう!」と申し上げると、ひっくり返るるほどびっくりされます。「問題はわたしじゃなくって、ウチの子ですよ!あなた、いったい何を考えているの?」と言わんばかりです。
でも、今まで当のひきこもりさんに会ったことはほとんどなく、ご両親、とくにお母さまのセッションをすることによってほとんどのケースを解決してきました。不思議なことにお母さまが癒されると、お子さんはお部屋から外に出てこられるようになるのです!これはひきこもりに限らず、お子さんの病気などの場合もお母さまのセラピーで癒されてしまうケースが多いのです。
お母さまにしてみたら、ちょっとこの事実は耳が痛いかもしれません。でもわたしたち、とくに親子はしっかりと潜在意識で結ばれているので、お母さまのココロをちょっと変えるとお子さんの精神状態も変化するものなのです。
それに、こんな実験結果もあります。お母さんと生まれたばかりの子どもの粘膜細胞を採取して、それぞれ別の部屋へ持ってゆきます。そしてお母さんの細胞に刺激を与えると、即座に離れたところある採取した子どもの細胞が反応するというもの。親子はこのようにつねに密につながり合っているし、たとえ親子でなくてもわたしたちは「みんな」しっかりとつながりあっているものなのですね。
家族のパターン(コミュニケーションスタイルや感情の持ち方など)は、親から子へと代々受け継がれてゆきます。それが良いパターンであれ、役に立たないパターンであれ、無意識のうちに学習されてゆくものです。それがダメージを与えるものであっても、それしか知らないとそのやり方が正しいことだと思ってしまいます。
問題の原因のほとんどは、親のココロのにあるぽっかりとあいた空虚な穴が「埋めてくれ」と子どもにその矛先を向けてしまうことです。親自身が自分の親に真に向き合ってもらった経験がないため、自分の子どもにもちゃんと向き合うことができず、それが子どもの心のひずみの原因となります。また、親自身のパートナーシップがうまくいっていないため、足りない分の愛情(本来はだんなさんからの愛情)やサポートや同意を子どもからもらおうと、子どもを自分の道具にしてしまう場合もあります。あるいは、親自身が現在の生活に不安や欲求不満を感じているため、その不安定さを子どもがすべて感じとり吸収してしまうよな場合もあります。
お母さまのココロのひずみが子どもに伝染してしまうのです。
お母さまが子どもの状態がどうであろうと、どっしりと構えて、「何があっても、あなたがどんな状態でも、お母さんはあなたの味方!あなたのことを愛しているのよ」ということを面と向かってしっかりと何度も地道に伝えてゆくことがどれだけ大切なことか。
「しっかりと向き合うこと」「愛情をていねいに伝えること(わかってるでしょ!はダメ)」・・・これをお母さん自身が体験していないため、身についていないことが問題なのです。
安川さんも、まず親のカウンセリング、そして逃げずにしっかりと愛情を伝えることだとおっしゃっていました(本当にそうですよね!やっぱり「愛」です!)
わたしたちはどんな問題に直面しようとも、まず自分と向き合い、自分をどうにかすることでしか問題を解決することができないのです。結局、子どもといえども他の人をコントロールすることはできないし、変えることもできないし、自分の思いどおりにしたいと思ってしまうこと自体が間違いなのです。
そうなると、問題を解決しようなどと思わずに、まずはすべてを「よし」として受けとめ、そこから真のコミュニケーションをスタートしてゆく必要があります。
そして、もし目の前に問題があるのであれば、それは「自分自身を変えなさい」「自分が成長できるチャンスですよ」「もっと幸せになることができますよ」と教えてくれているのです。まずは、自分をしっかりと見つめて、思いやりを持って自分を癒すこと!自分が穏やかになり静かな愛情で満たされたとき、きっと自分の目にも同じものが見つかるのでしょう。
二十年来のおつきあいのある友人のお誕生日と新しいお仕事のお祝いです。アイスクリームにささった花火、そしてお店のオニイサンたちがみんなでBDソングを歌ってくれましたよ♪
彼とは古くからの学びの同志。国内のみならず国外にまでせっせと修行に出かけた仲です。
しかし昨年秋、仕事を辞めてからなんか様子がおかしい。自分で仕事をはじめる新たなチャンスにわくわくしてると思いきや、どよよ〜んとして、とにかく暗い!重い!この世の終わりみたいな顔つき。聞けば、何も仕事がない状況がこわくてこわくて仕方ないと。「とにかく俺に仕事をくれ〜」と叫びたい状態らしい。
その怖さに耐えきれず、あせって葬儀屋に就職しようとしたり(おくりびと?)、あるときは深夜に魚のエサを運搬するバイトで心を慰めたり・・・。そして、ついに頭を丸めることまで考えたそうな(きゃ〜・・・、生ぐさ坊主・・・)。
クライアントさん以外の人生には頼まれなければコメントしない主義なのですが、いささか言いたくなりましたよ〜。「ちょっとぉ?あなた何やってるの?」って。以前から自分で仕事をする夢を語っていたので、さすがに「違うでしょ〜」って「喝」を入れたくなりました。
そして年も明けて、その後どうしているかな〜と連絡してみたら、どうやら万策尽きはてたあかつきに、なんとチャンスはあらぬ方から降ってきた様子です。最終的には、もともと自分がやりたいと思っていた個人事業をはじめる機会が予期せぬところから現れたそうな。
ほんとうにおもしろいもので、わたしたちは自分のオールで力の限り漕ぎまくって、しかしそのときにはぜんぜん思う方向に進まず、なぜか同じところをグルグルしているか、まったくあらぬ方向へとたどり着いてしまう始末。頑張れば頑張るほど、結果がでない、という悲惨な状況。
しかし、これってどうやら、漕ぎまくった末に力尽き果てて「もう、どうにでもなれ!」とぐったり静かになる瞬間を神様はねらっているような・・・(たちワル!笑)。なぜかって、この人に力尽きてもらわないと、あれこれ抵抗して神様が計画したせっかくのベストなプランを行使することができないから。(まあ、殴って気絶させて、いちばんいいコースへひきずって行くよりはお手柔らかですが・・・。あ、でもそういうケースも目にしたことはあります。神様も見るに見かねたのでしょうね。)
神様はせっかく彼のために計画したとっておきのプランを邪魔されたくないから、オールを放棄する気がないなら、ちょっとエネルギーを使いそうなあれこれを用意しておいて、ようやく力尽き果ててもうどうにでもなれ!と静かになる瞬間までじっと待っていたのでした。
ほんと、こういうことってよくあります。わたしも、あ〜でもない、こ〜でもない、とやりすぎて、「ああ、もう疲れた!どうにでもなれ!」と思って放棄したときに、たいていいちばんよい道がおのずとやってきたことが何度となくありましたっけ。
つまり、オールは自分で握らんでいい、流されてちゃってください、行き先は秘密だけどかなり楽しいよ〜♪と。邪魔になるから、ジタバタしないでおとなしくしていなさい。まかせなさい、信頼しなさいってこと。
なぜって、漕ぎまくっているときには何か「抵抗している体験」があって、そこにたどり着きたくないからこそ漕ぎまくる。けれど、『あなたの人生に何かを実現させたかったら、それに抵抗しまくりなさい』っていうぐらい、じつは「抵抗」は確実に抵抗していることにたどり着いてしまうベストな方法なのです。(何かを手に入れたかったら、それに抵抗しましょう!)
セラピーでのクライアントさんを見ていても、また周りの友人を見ていても思いますが、結局は力を抜いて「来るもの拒まず」の態勢が、じつはベストな道への最短距離のよう。宇宙はわたしたちの頭では予測できない抜け道、欲しい結果へワープできる入口を用意してくれているのだけれど、それは一見洗練されていない道のように感じたり、効率悪く感じたり、間違っているように感じたり、なかなかわたしたちのお好みにはあっていないようなのです。
でもそこはつべこべいわず、とにかく目の前やってくるものに素直に「YES! 」と言うこと、そして信頼してそれを地道に体験してゆくこと。「ぜんぜんわたしの希望とちがうじゃな〜い」とふてくされず、怒らず、たんたんと目の前にある「今」を「ありがたく」受け入れてゆくことが大切です。(「ありがたく」受け入れる、はキーポイント。わたしたちの人生は褒めたたたえないと、先に進まないのです。褒めたたえてない時は不満があって抵抗しているとき、するとそこにエネルギーが集中して重くなり進まなくなります。)
そうです、ついついシリアスになるとエネルギーがどよよ〜んと重くなって、とたんに流れが悪くなり、ひっつき、いつまでたっても同じ場所に停滞してしまってメビウスの環をグルグル!とうことに。なので、とにかく人に何を言われようとノーテンキ!軽く、楽しく、朗らかに、そして目の前のことに感謝する。
人生、サクサク進んでゆくには、なにごともギャグにしてわらっちゃうこと(その点に関して、“るんスタッフ”は天才的なのでずいふん助けられています。一緒にぎゃはぎゃは何でも笑いに変えてしまうと、あっというまに嵐はすぎさっちゃうことしばしば。)
今回、旧友K氏を見ていて、オールをさんざん振り回したあげく、ついには地面につっぷし、その途端に地割れがするように新しい「彼の欲しかった」現実が現れるのを目の当たりにしましたよ〜。(彼が書いていいというので、書かせていただきました。)
気づきをありがとう。そして、Happy Birthday and Congrats for your new job! (もう、オールはへし折ったかな?)
PS 豆乳しゃぶしゃぶ、おいしかったです♡

セラピーセッションの中で、「あなた」と「わたし」の境界線があいまいになっていることによって問題や悩みが起きていることが多々あります。
ということは、それだけわたしたちの中では人と自分との境界線が自覚できていないということです。
身体の境界線なら一目瞭然ですが、目に見えない相手との境界線ってなんでしょう・・・?
境界線の問題は、恋人や家族という近しい間柄に顕著です。
つまり、「わたしの夫」「わたしの妻」「わたしの恋人」「わたしのこども」という名のもとに、相手の思考やら人生にズカズカと勝手に介入してしまうということです。
「あなた、そんなことするべきじゃないわよ」という文句、「あなた、こう生きるべきでしょ」というコントロール、「あなた、ちゃんとできないならもう知らないわよ」という脅し・・・。これ全部、自分のことではなくって、相手の人生に関することです。
ほっといてくれ〜、と言いたいけれど、けっこう日常で無意識のうちにこの文句やコントロールや脅しは使われています。
近しい関係では、相手を思うあまり相手に自分のパワーを明け渡してしまい、相手と自分を同一視した結果、相手を自分の一部のように錯覚してしまいます。ひどくなると、自分自身は完全にお留守で相手の人生を生きようとします。(これは恋愛初期に見られる症状。自分はもぬけのカラで相手のことばかり考えています。あるいは、自分はそっちのけで尽くしすぎたりします。一見、熱愛のように見えますが、たんに相手に憑衣しているだけです。)
そもそも「自分」と「相手」は別の存在。さきほど書いたように、身体を見れば一目瞭然、別個の存在です。そして、個人としてわたしたちは「自分」の人生を好きなように「自由に生きて体験する」、という目的のためにここにやってきているのです。あくまでも主役は自分、自分の人生とまっこうから向き合って体験し充実させなければなりません。ほんとうは、人の人生にお出かけしているヒマはないのです。
でも、自分への自己評価が低いと、自分の人生なんてとるにたらない、よし!この人(夫、妻、恋人、こども)の人生でわくわくしよう!ということになり、ズカズカ境界線を越えてもの申したり、ちょっかいを出したり、コントロールしたりすることになるのです。
そしていったん自分の手綱を相手に渡したなら、相手(夫、妻、恋人、こども)は、勝手をするなんて許されない、自分の期待に答えるべき、と信じます。自分のことをわくわく喜ばせるような生き方をするべきだし、自分の自己評価の低いところの埋め合わせもすべきなのです。(だから、おちこぼれもカッコわるい人生ももってのほか!)
でも、わたしたちは自分個人が、いわば好き勝手なやりたい人生を思う存分謳歌するためにここにいるのですね。そもそも、それぞれが相手の期待に答えるための存在ではない、ということです。
もし、夫、妻、恋人、こどもがそれぞれの人生を生きていることに関して不満を言いたいのであれは、もしかすると、自分が自分の面倒をちゃんと見てあげていないのかもしれません。自分をからっぽにしておいて寂しいから人の人生にお出かけするのではなくって、ちゃんと自分のところに戻って、自分の気持ちを聞きながら喜ぶような人生にしてあげなければならないのです。
相手にムカっとくるポイントがあるときには、かならず「抑圧した痛み」という自分のお宝が隠れています。相手が好き勝手して頭にくるなら、おそらく「わたしはガマンしているのに、あなただけ好き勝手するな!」という自分につけている足かせが明らかになるだろうし、相手の能力不足やだらしなさを責めたいなら、「あなたのその能力のないところをみていると、わたしの中にある劣等感がちくちくするからそれを見せないで!」ということかもしれません。
わたしたちはこんな痛みがあると、すぐさま「あなたがその痛みの元凶だ!」と相手を責めたくなります。だから、そこを正してあげるために相手に介入しなくちゃ!と。
でも、いつだって目の前にぶら下がっているのは、自分の中の何か。そしていつだって相手に挑みかかるより、自分と向き合うことによって解決しなければならないことなのです。
相手をコントロールしたいと感じたとき、文句を言いたいと感じたとき、間違っていると感じているとき、ちょっと思い出してみましょう。相手はどんな人生であっても、そのままの人生を生きる権利があること。そして、その人生は自分が思うようなステキな結果は出ていないかもしれないけれどそれは自分の判断であって、その人にとってはこの時点ではベストな選択、結果であること。もし、問題があれば本人が気づいて何かを学ぶことによって、修正する必要なあるときに修正されるということ。そして相手がサポートを必要としている時にだけ、相手を尊重しながらその手伝いをすること。
「相手をどうにかしたい」を手放せば手放すほど、相手に明け渡していたはずの自分のエネルギーが戻ってきます。すると、不思議!あんがい自分の人生が軽やかに流れ出すのを体験するかもしれません。