たかちゃん気づきの日記

日々のあれこれに役立つたかちゃん「気づき」の数々。

06-07-18 そっと教えます・・・夢を叶える小さな秘訣

掲示板に「夢を叶えること」についてのご質問(7-16)がありましたので、小さなアドバイスを!

夢を叶えるときに、ちょっとしたポイントがあります。それは、夢にまつわる「感情」がキーになるということです。

たとえば、「お金持ちと結婚したい!」という夢をもった女性がいたとします。しかし、なぜか「お金持ちと結婚する!」と宣言しているその女性よりも、「そんなことどうでもいい!安らぎがいちばん!」と思っている女性のほうがさっさとお金持ちと結婚してしまうのです。

これはどうしてか?というと、私たちが本当に手に入れたいと願っているのは「夢」の下に隠されている感情なのです。「お金持ちと結婚する」ということは、本当に欲しているもののラッピングにすぎないと考えてください。中には、「限りない安泰」とか「すべてが満たされる感じ」とか「自分に自信がもてる」とか・・・そんな感情がつまっています。ですから、ほんとうの願望はこの「中味」だったわけです。

パッケージを求めても、自分の潜在意識はピンときませんのでそれを引きつけることはできません。底にあるほんとうの願望を丁寧に気づいてあげて、そして自分の「今」の生活の中にできる範囲でその手に入れたいと思っている「感情」を体験させてあげてください。

ささやかなことでかまいません。たとえば、「満たされてる感じ」というのであれば、大好きな友人とおいしいものをたべながら気兼ねなくおしゃべりに興じることを自分に許してあげるとか。自分にエステをプレゼントするとか。とにかく、生活の中にプチ「満たされ感」をつくってあげます。

自分の中でその感情がなじみになってくると、どんどんそれと同質のものが雪だるま式に引き寄せられてきてきます。そして、ついにはラッピングである「お金持ちと結婚」という夢も自然と叶うようになるのです。

06-11-10 時間にいのちを与えましょう

日野原先生の目下の楽しみは、小学校に行くことと、小学生と遊園地で遊ぶことだとか。遊園地では、はじめての乗り物にチャレンジすることで達成感を味うそうです。今月は、ディズニーランドなのだと嬉しそうな先生(でも・・・スペースマウンテンはやめられたほうがぁ・・・)。

さて、日野原先生は小学生に質問します。朝起きてから一日の行動をひとつづつ言ってごらん、と。「顔を洗った!」「ごはんを食べた!」「学校行った!」「あそんだ!」・・・。先生いわく、「一日を見るとキミのために使っている時間しかないじゃないか」。そして、キミの時間を使うということは、キミの「いのち」を使うということなんだよ・・・と。

う、う・・・、耳がイタイ。はい・・・私も、きょう自分のためにジムに行きました。自分のためにスタバでホットチョコを飲みました。自分のために、うんぬん、うんぬん・・・。

日野原先生のすばらしいお言葉をシェアしたいと思います。

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いのちとは

いのちとは、あなたが持っている時間
あなたがもっている時間が、あたなのいのち
いのちを使うということは、時間を使うということ
二十四時間、あなたはいのちを使っています

あなたは今までたくせんの時間を使ってきましたが
これからあるたくさんの時間を
誰のために使いますか?

07-02-13 今度はもっとラクに学ぼうっと!

人がお悩みにはまっているとき、当人はもちろんのこと、ハタで見ている者もツライものです。

私も、去年の秋ごろ慢性的な問題にどっぷりつかり、にっちもさっちも身動きができないような時期がありましたっけ。そういうときは、考えだすと過去の癒されていない心の傷がつぎつぎ噴出し、増幅し、はては健康を害するところまでいってしまいます(ああ、究極の体験でありました・・・。今だから笑えますが)。

そのとき、全身で悟りましたね。自分の感情に責任を持つのは自分であると。感情は勝手にやってくるままにするのではなく、自分で選ぶものであると。自分が何を感じたいのかを責任をもって選んで創り出していかなければならないのです。さもないと、自分の感情パターンのくり返しで、過去の心の傷のえじきになってしまいます。ネガティブなエネルギーは雪だるま式に増幅し、そのうち怒りに火がついて、まわりまで汚染しはじめるのです。こうなると何が問題だったかさえわからなくなります(とほほ・・・・経験者は語る)。

幸せと健康の秘訣は、考えても答えが出ないものに関しては、考えることをきっぱりやめること。注意をはずすこと。もともと、「悩む」っていうことじたい答えが出ないから悩むわけで、これはもう自ら積極的に「悩む」ことを放棄するしかありません。そうしないと、途方もないエネルギーと時間と健康を浪費することになります。

問題は解決する時期がくると、おのずと動きはじめるものです。

人生は基本的には楽しむためのものだと思います。「お悩みごとはあってあたりまえ」ぐらいの気持ちで、小さなことでもおもしろおかしく楽しむことですよね。そう、笑って、いろんな体験をして、楽しんでこそ人生!痛〜い体験から骨身にしみて学んだのでありました。

07-02-20 ええっ?あなたも牛さんっ?

重要な仕事をひかえている友人がしきりに風邪の心配をしています。聞けば、数日前、飛行機でとなりに坐った女性が「咳だ、鼻水だ、クシャミだ」とかなりひどい風邪だったとか。「うつっていませんように、祈って!」

しか〜し、そんなお祈りをしようものなら、もれなく「風邪」を引きよせます。なぜなら、「風邪」そのものに注意が注がれて、それはすみやかに現実になってしまうから。

「で、その女性は今もとなりにいるの?」と私。「ううん、あれは二日前だよ」・・・とっくに、過去になった出来事を、わざわざ頭の中に呼び出して注意を払えば、それは現実として創造されてしまうのです。

このての方を「牛さん」タイプと呼びます。「とっくの昔に終わったネガティブな体験や痛みを、ときどき引っぱりだしてきては味わって、またもやいや〜な気分にどっぷりとひたる」という繰り返し。何度でも楽しめちゃうタイプです。まるで、牛さんが一回食べたものを、何度も何度も反芻していつまでもくちゃくちゃしているように・・・。

そのつら〜い、いやな経験は、今、この瞬間、どこをさがしてもじつは存在していないのです。牛さんタイプの頭の中以外には・・・。そして、自分さえそれを呼び出して、そして何度も「くちゃくちゃ」しない限りは、もう自分には何の影響も及ぼすことはないのですよね。

くちゃくちゃするのは、ガムだけにいたしましょうね(笑)。

07-06-06 「おなじみさんしか手にできない・・・」

最近、カウンセリングをしていて感じるのは、「ほとほと、人は自分の身体になじみきった感覚しか受けつけないな〜」ということです。

どういうことかというと・・・、幼少の頃の生活環境や扱われ方、自分の役割、自分への価値など・・・たとえ、それが気に入っていようがいまいが、幼少の頃のすべてがわたしたちのスタンダードになっていて、知らぬ間にそれと同じ感覚を選ぼうとするのです。

なので、幼少の頃あまり豊かでなかった場合、大人になって物事がスムーズにいったり、豊かさがどんどん入ってくると、とたんに居心地が悪く不安になります。「こんな状況はおかしい」「いいことばかりが起ったら、あとが大変かも・・・」「きっと長くはつづかない・・・」、案の定、そのとおりになります。だって、そう決めているのですから(世界はあなたの意識の反映です)。

あるいは、両親が忙しくていつも孤独を感じながら育つと、つねに自分とともにいてくれる相手を探し求めます。でもいざ、理想の相手が現れると急に逃げ腰になるのです。「こんな素敵な人が自分を愛してくれるはずがない・・・」「こんなにうまくいくはずがない・・・」。はい、やっぱりこれも遅かれ早かれ行き詰まり、破綻します。

ほんとうに、人は自分がずっと夢見ていたものがようやくやってきたとき、無意識でぶちこわしにかかるのです。だって、潜在意識は言うのです。「それはあなたが知らない感覚だよ。だめだ!あぶない!離れなさい。知ってるところにもどりなさい!」そして、なじみきった古巣へと戻って、文句をいいつつもどこかどっぷりと安心感を感じています。

もちろんご本人は壊しているなんて思ってもみないのですが、無意識に自分のとる行動、言動がすべて裏目にでて、結果すべての欲しかったものを自分から追いやるこことなってしまうのですね。そして、「ああ、やっぱり手に入らない・・・」と落胆するのです。

じゃあ、どうしましょう??ステップアップするにはどうしたらいいのでしょう?
(次回につづく・・・(^^)v )

07-06-10 「おなじみさんしか手にできない・・・」その2

ほしいものを後ろ足ですべて蹴り飛ばしてしまうあなた・・・では、どういたしましょ・・・?

すべてをけちらすというこの行為は、「知っているもの」だけを受け入れて安全を確保するという「自己防衛」からきているわけです。しかし、もともとのプログラミングがまちがっているので、完全に誤動作しているんですよね。「自己防衛」どころか、「自己攻撃」!

この「安全装置」を解除するには、自分の「知らなかった感覚」を「なじみの感覚」に変えていかなければなりません。

「知らないこと」をどうやってなじみにするのか?・・・これは、自分で自分に教育を施してあげなければなりません。人からそれを与えてもらおうとする前に、自分で自分にプレゼントしてあげるのです。

たとえば豊かさになじみがない場合、急に億万長者になったとしても「安全装置」が許すはずがありません。「億万長者」のスリル感、わくわく感、可能性に免疫がありませんから。でも、いつも自分に対して心から満足できて楽しい感覚を与えてあげる習慣をつけてあげて「わくわく」感が免疫化していると、それがどのような形であらわれようとすんなりと受け入れられるようになるのです。

たとえばこんなふうにやります。毎日、たったひとつでいいので、自分自身に対して心から満足できて幸せを感じる豊かな瞬間をプレゼントしてあげます。それは、仕事のあとにお気に入りのカフェで飲むカプチーノの一杯であるかもしれません。わずらわしいことは忘れて、心から楽しんでみてください。あるいは、夜、バスタブに入れる香りのいい入浴剤をいつもよりふんぱつして時間をかけて入浴することかもしれません。好きなDVDを借りてきたり、ダイエットを忘れてスウィーツを食べたり・・・・ほんのささいなことで心が満足する時間を毎日の自分の習慣にしてあげます。

すると、あら不思議、「知らない感覚」がどんどん「おなじみの感覚」へと変わっています。「ああ、いつもわくわくしていていいんだ!」って。あとは、やってくるものの大小にかかわらず、心地よく受け取ることができるようになるのです。

「教え込む」ことほど大切なことはありません。知らなかったら、教えてあげましょう。豊かさにしろ、愛情にしろ、自分が欲しいものがあるとき、外側にそれをもとめるよりも先に、自分でそれを自分に教えてあげてください。

理想のもの、まるごとでなくていいのです。そのエッセンスで十分。理想のパートナーだったら、そこで感じたい「安らぎ」というものをあの手この手で自分にたっぷり与えてあげましょう。

「なにがなんでも欲しい!」と言う感じがうすらいで力が抜けたときこそ、かんたんに手に入ってしまうようです。

07-06-27 学ばれていないレッスン

「それは、真に学ばれるまでくりかえす」

私たちがその問題の核心を学び終えるまで、同じレッスンがくりかえされる ということ。

その昔、くりかえし起こる同じような問題に、「いったい、宇宙は私に何を学べと言っているのぉ〜?! 」と、あまりのわからなさに叫びたくなったことがありました。

教科書だって、〈学びのポイント〉が最初にちゃんと示されているというのに。私たちは何のテキストも与えられず、いったい何を学んだらいいのか教えてもらうこともないなんて、ぜんぜんフェアじゃないわ〜。「それって、じつは学んでほしくないってこと? 落第してくださいってこと?」と逆切れしたい気持ちになったものです(問題は自分がこしらえているのにね〜・・・ 苦笑)。

で、問題をまえにして、その「学びのポイント」なるものをいろいろと憶測して、試してみるわけです。

「これですかい?」「え? これじゃダメ?」「じゃあ、これはどうだ?」「う〜ん、びくともしないな〜」 ・・・ というぐあいに。

学ぶべきレッスンについていろいろと予想して、「さては、もっとポジティブに生きなさいってことかしら〜?」とか。

ムリにポジティブは役に立ちません。ネガティブを抑圧するので、あとで必ずシワよせがきます。それよりも、ネガティブに考えてしまう理由を探求したほうがいいのです。

「あ、きっと自分のことばかりで愛が足りないから、もっと愛をもちなさいってこと?」とか。

ムリに愛の人になろうとすると、イイ人として犠牲をすることになるので、あとでもれなく不平不満と怒りが爆発します。私たちはもともと愛なので、あらためて愛になることはできません。それよりも今、愛でいられない自分の意見をきいてあげる方がよっぽどいいのです。

で、結局わかったのは、「あるがままをそのままにしておける」までレッスンがくりかえされる ・・・ということ。

宇宙(神・源)に対してイチャモンをつけて、チャレンジし続けるのではなく、ありがたく今を頂戴し、味わい愛でるということ。

これができないと、私たちは年がら年中、不平不満を言っていることになります。でも、これはまったく流れを信頼しない、大いなる力を信頼せず、それよりも私が考えたプランのほうが素晴らしいに決まっているから「私にやらせなさい!」と、力づくで現実をどうにかしようとしているわけです。大いなる力にケンカをうってる?!

ほんとうに今あるものでよいのか ・・・ それは「これでよし」とありがたく今を頂戴してくつろぐまでなかなかわからないことなのです。不平不満を言っていると、敵をつくることになり、自分のこころが分裂します。分裂すると、ひとつである完璧さが失われて、完璧さが見えなくなるのです。

信頼ができるようになるまでは、わたしたちはそこでドタバタしていて、そのドタバタ感からは安らぎはやってきません。

実際、誰も「あるがままのこのままでいい」なんて教えてくれませんでしたもの。いつも何かを変えるためにチャレンジさせられてきました。

「教育」と称されて擦りこまれてきたことは、みんな自分の首をしめることだったとはね ・・・ 。苦しい、苦しいといいながら、じつは私たちは自分の「考え」で自分の首をしめています。「このままじゃダメよ」「もっとだわ・・・」と。

じっと止まって、正気にもどるまで、わたしたしは「今」という瞬間がいかに十分で、完璧であるかに気づくことができません。

たった今 ・・・ 私のパソコンは若干ふるくはなってはいるものの元気に働いてくれていて、ブログを書くには十分。このマックくんは、もっと高度な仕事ができるのだからさせてくれといいますが、ごめんね〜、ワープロどまりで・・・笑。

そして、かたわらにはおいしいコーヒー、最近お気に入りの成城石井のロイヤルブレンドのマグがあり、窓からはどこからともなくクチナシやジャスミンの香りが風にのってただよってきます。

さらに、ちゃんとお洋服も着てるし、椅子にも坐っているし。今、クツはなくても大丈夫だけど、さいわいクツだって持ってるし ・・・ 数歩あるけば、チョコレートの箱もあり。

今、必要なものは十分です。完璧にあります。 ・・・ 欠けてるもの? ありません!

こんなシンプルなゆたかさに、毎瞬、毎瞬気づくこと。

自分ではどうにもできない「未来」というものを楯にして、今、あれやこれやと不満をならべないこと。そうするといっぺんに、たった今ある十分さが消えうせます。

たった今、十分であればOKなのです。そして、いつもなぜか十分なのです。不思議なことに ・・・。

昔はあれやこれや「学ばれていないレッスン」について考えたり、試したりしていたけれど、ようやくレッスンのポイントという項目を見つけられたようです。

見つけただけで満足しててはいけませんね。毎瞬、毎瞬がレッスンが続きます☆ (∩˃o˂∩)

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング

 

07-06-30 「あなたの一日の時間割りはいかに?!」

あなたの一日の時間の使い方、何にどのぐらいの時間をさいているのでしょう?

「えっと・・・仕事が8時間でしょ。通勤が2時間、食事に入浴、雑用もあって、あと睡眠!」
いえいえ、わたしが聞いているのは「行動」ではなくって、「心」の時間割のこと。一日の生活の中での、あなたの「心」の行方についてなのです。

「心がどこに行ってるかなんて、気にしたことがない?」・・・じゃあ、ためしに5分タイマーをセットしてみてください。・・・・さてこの5分の間、あなたは何を考えていたのでしょう?どんな気持ちでしたか?

たった5分といえども、わたしたちの心はあっちにふらふら、こっちにふらふら。一日観察していたら、とどまることを知りません。心理学ではこんな心の状態を「酔っぱらいのサル」と呼んでいますが、まったくひとところにおちつく気配がありません。

でも、「心」はわたしたちにとって、「ものごとを創り出すエネルギー」そのもの。長い時間、何回も心にとめたものが、現実となって現れてくるのです。だから、心が「どこにいっているのか」という行き先が、わたしたちの次の瞬間、そして将来をかたち創ってゆくことになるわけです。とくに、Negative方面に転落するのか、Positive方面に上昇するのかは、心の状態によって左右されるのです。

では、日常、何を考え、どう感じる習慣をもっているのでしょう?毎朝、出勤するまでの時間、何を考えていますか?仕事中は?ランチタイムは?仕事が終わったあとは?そして就寝前はどうでしょう?

「そうね〜。きょう考えたことは・・・朝起きて、だるい〜、かったる〜い、会社では、上司うざい〜、終業後は疲れた〜、眠る前は明日も仕事〜?」

おやおや、これはキケンな状態です。

わたしたちの注意がたくさん向けば向くほど、同じことを考えれば考えるほど、そのモノゴトを即、現実化し強化しちゃいます。だから、一日グチっていると、さらに数倍グチらなくちゃならない状況を創りまくってしまうわけです。ってことは、さらなるだるくて、かったるくて、うざくて、疲れる、仕事ばかりの将来に身をさらす可能性が高いということです。毎日、日課のように考えれば、もれなく現実化されることでしょう。(次回につづく・・・(^^)v  )

07-07-02 「あなたの一日の時間割りはいかに?!」その2

身体の調子とかお金のこと、そして一日のスケジュールにはいろいろと心をくだくわたしたち。でも、ハッピーに豊かに暮らすには、じつは自分の「心の行方」についてもうちょっと注意深く管理しておく必要がありそうです。なんせ、心があなたの人生の舵をとっているわけですから。

細かなことはいりません。ただ、自分が今「いや〜な気分を感じているのか」それとも、「心楽しく感じているのか」にもっと敏感になることです。今の気分こそが、将来の自分の人生をうつしだしているのですから。

いつもイヤな感じを感じがちなあなたは、もしかすると自分の心の声をちゃんと聞いてあげていないのかもしれません。人が嫌がることには敏感に反応するのに、自分が嫌がることには構っちゃいません。・・・というか、「自分がこういうふうに感じるのは人のせいだから、自分ではどうしようもない」と決めて、自分の気持ちを無視する習慣がついているのかもしれません。しかし、あなたに「そういうふうに感じさせている」原因はあなたにあるのです。他人は、あなたがどういうふうに感じるかなんてコントロールすることはできません。あなたが決めたように、感じたいように、ただ感じているだけなのです。「あなたの心」は、あなたに管理責任があるのです。

他人の気持ちを思いやるように、いえ、それ以上に自分の心の声に耳を傾けて尊重してあげてみてください。あなたを不愉快にするもの、不幸にするものにはしっかり距離をおくようにしてあげること。

あなたにふさわしい未来をつくりだすためには、「今」、この瞬間のあなたにやさしく、心地よい環境をつくってあげることなのです。この瞬間の自分自身をなぐさめ、いたわり、愛し、自分が心地よく感じる時間をふやしてあげることなのです。

あなたが自分自身を誰よりも大切に扱って、その気持ちを尊重して、いつも気持ちよくしていられるように心を配ってあげること。そうやって自分をいちばん大切な人として扱うことによって、その気持ちにふさわしい未来を引きよせることができるようになります。自分を大切にすることは、この大切な自分には幸せな未来がふさわしいと自ら認めてあげることなのです。自分をとりわけ大切にすることによって手に入る心の平和と安らぎが、次ぎの瞬間への平和と安らぎにつながってゆくのです。

さて、私自身の心に聞いてみました・・・最近どう?・・・「毎日むし暑くって、お疲れ気味!」じゃあ、本日はすゞやかなパジャマでとびっきり早寝することにいたしましょう♪

07-08-09 人のふりみて我がふりなおせよ〜♪の巻

とけちゃいそうに暑いですね〜。こうなったらもっと暑くなってしまえ!とジムでさらに汗だくです。

更衣室にて、ひとりの嘆くオバサマ発見。「あきれちゃうわよね〜!まったく、近頃の人ってさぁ。どうなっちゃってるのよ、いったい・・・&※#%」・・・・かなりご立腹のご様子。

何かと思えば、部屋のすみのコンセントに携帯の充電器がつながっている。どなたかがコンセントを無断使用していることにたいして、怒り心頭のご様子です。

数日後、またジムに行くと、例のオバサマが嘆いていらっしゃる。「シャワールームからお掃除の男の人が出てきたのよ〜。まったく、信じられない。あきれちゃうわ!」

「あきれちゃう」・・・このセリフ前回もきいたな〜、と私。

世の中、たしかに「あきれちゃう」ことは多々ありますが、「この世の中はあきれちゃうことばっかりだ!」といつもうんざりしている人は、この世のありとあらゆる種類の「あきれちゃう」を総動員させて自分のもとに強烈に引寄せちゃうのですよね。で、さらにそれをみて「あきれちゃうわ〜」と思うと、いよいよ倍増。どんどんあきれちゃって、「あきれちゃう」人生まっしぐら!その人にとっては、まぎれもなく「世の中」=「あきれちゃう」になってしまうのです。・・・そうです。いつだって人生は自分の心の反映、心の中にあるものをつぶさに見せてくれる。

と・・・ここまで書いてハタと気づきました。「あきれちゃう!」と嘆く人を毎回目撃しちゃう私って・・・・。ああ、わたしこそ、「人生、あきれちゃう!」って思っている張本人だった?・・・かも(笑)。はい・・・消します。この信念。 (--;)

07-09-04 「出し惜しみ」から「三倍速」へ

わりとクルクルよく動き回るほうだと思っていたのですが、なんだか「やらなくっちゃ」とか「やってもいいのにやらない」ということが日々たまってストレスを感じているこの頃です。

たとえば、図書館に頼んでおいた本。すごく読みたくて頼んだのになかなかとりに行かない・・・とか(図書館なんて、ものの3分なのにね)、友人がプレゼントしてくれたアロマボディトリートメントのチケット。「わ〜い!楽しみ〜」と大騒ぎしたわりには、何ヶ月もそのままになっているとか・・・(いつも、「行ってきた〜?」ときかれるのですが・・・)、それから「あれ買わなくちゃ、これ買わなくちゃ」という日常の何気ない買い物ものばしのばし・・・・。もう、挙げだしたらきりがない。これって、たんにモノグサ?

う〜〜ん、以前はそうでもなかったのですが、ここのところとみに動かないデス。で、なんでこんなことになっているのか自分のなかの行動プログラミングである信念をさぐってみることにしました。わたしたちは、「すること」も「しないこと」も「どちらでもないこと」も、ある考えにそってそうしているのです。表面的には気がつかなくても。自分の中で何を信じているかによって行動を起こしているのですね。だから、クセや悪癖や、こんなモノグサにもちゃんと理由があるはずです。そして、それはたいてい「何かを避けるため」か「何かを経験するため」にそうしているのです。

な〜〜るほど!何を「避けたいのか?」はたまた「何を経験したい」のか。自分の信念をほりさげてみました。すると・・・「そんなに毎日いろんなこと片付けたら、あっというまにゲームオーバーになっちゃうよ」ですと。つまり、「すべてのことは有限だから、たくさん経験しちゃったらなくなって人生終わり、つまりこの世を去らなくっちゃいけなくなっちゃう。だから、なんでもゆ〜っくりとっておこうよ〜!きょうはとにかく何もしないほうがいい!安全!」

我ながらしみったれた信念だと笑えました。だって、読みたい本を一冊読んだり、アロマトリートメントに行くだけで、人生終わっちゃうの???(笑)

もちろん、この「すべては限られてる!」信念、消去いたしました。そして、「豊かさに限りがない」信念におきかえましたよ。どうやら、幼い頃お小遣いやおやつをもらうときに、「これだけよ!」というセリフが強固にすりこまれてしまったのかもしれませんね〜!

さて、九月は新しい信念を携えて三倍速で活動いたします。では、これから図書館!あしたはアロマボディトリートメントに行っちゃうぞ! きゃ〜〜♪たのし♪

07-10-04 「大恋愛した〜い」あなたへ、新恋愛考察

「私もPちゃんみたいな大恋愛がしたいよ〜!」と友人。
Pちゃんとは、現在熱愛ロマンスまっただなかで、寝ても覚めても愛する彼のことばかり。彼がどうしたの、こうしたの、彼なしじゃ生きて行けないの、典型的な熱病型恋愛。そのエキサイトぶりを見て友人は、「そこまで好きになれる人がいるなんて、うらやましい」と。

「うらやましい?ほんまですかい?」と私。冷めてます(笑)。
だって、口をひらけば彼しかない。「週末、会いたかったのに仕事だって〜(泣)」とか「わたしがこんなに好きなのに〜!彼ときたら・・・(泣)」とか、当の本人はけっこうキツそうですぜ。いつもボロボロ。

はて?「大恋愛」って、ほんとに幸せな愛の形なのでしょうか?
「大恋愛」を他の言葉に置きかえると「執着」と「コンプレックス」のかたまりともいえるものなのです(なんか、こういっちゃおしまいって感じですが・・・)。そして、客観的にみるとひどくバランスを崩した状態(これは、あくまでも「大」がつく重度の恋愛に関しての話ですが)。こんなこと書くと、ぜんぜんロマンチックじゃない!と怒られそうです。

そもそも、なぜそこまで我を忘れてのめりこむのか?
「のめりこみ」には、自分の中の欠乏感が関係しています。自分の中に「足りない」「穴があいた」部分、つまりコンプレックスがあって、長年これさえどうにかなればもっと幸せになれるのに・・・と胸をいためてきた部分。そんな痛いところをまんまとクリアして、そんなコンプレックスとは無縁に生きている人。足りない部分を気持ちよく満たしてくれるようにみえる人。これこそが理想のヒトの正体。

その人と近くなればなるほど、自分がいきなりOKになったように感じるから心地よいのです。その人といると、足りなかったところが全部癒されちゃったみたいで、パワー全開!!でも・・・、その人がいなくなると、また穴があいちゃう。相手の魅力でカバーされたように感じているだけで、じつは自分自身は何ら変わっていないのですよね。相手の中のものは、あくまでも相手のものであって決して自分のものではないのです。王子さまがいなくなったら、崩壊。たちまちカボチャの馬車に逆戻り。だから、逃すまいと、そりゃ〜必死。執着度はすごいことに。

でも、恋愛だって何だってすべては宇宙からのプレゼント。こんなボロボロになりそうな関係だって上手につきあえば自分を変革させて本当に穴やコンプレックスとさよならできるハズ。その秘訣は・・・   (次回に続く♪ )

07-10-11 「大恋愛した〜い」あなたへ、新恋愛考察 その2

10/4日の「気づきの日記」の続きです。(インターバルをおいたら、自分でも何を書いてたか忘れてしまいました!笑)

そうそう、「大恋愛」についての話でしたっけ。

相手のイヤな部分でも、スキな部分でもそうなのですが、ようは相手に見えるものは自分のものなのです。自分の中になかったら触覚にひっかからないので、「好き」でも「嫌い」でもなくどうでもよくなります。

でも、今までの話では「無いからこそ、持ってる相手を好きになるんじゃ???」 ・・・・それもそうなんです。

じつは、自分の中にその部分は持っているけど、でもどこか奥ふか〜くにうもれてしまって忘れさってしまった自分の一部。自分が見失ったり否定したそんな自分を相手の中に見つけて憧れる・・・ようは、自分で自分に恋してるようなものです。

でもここで、「A男さん、なんてステキ。あんな人が私なんかとつきあってくれるなんて!」という相手を礼讃しはじめるとコワイことになります。相手はすばらしいから、私はダメ。だから嫌われないように努力する。いつもつま先立った状態で背伸びして、もとに戻せなくなります。そして、相手は素敵だけど、わたしは違う・・・という思いから、どんどん自分の価値をなくしてゆくのです。だから、熱病型恋愛はひとつまちがうと地獄絵巻となります。自分の魅力を取り戻すどころか、相手にパワーを与えて自分はもぬけのカラ。自分は小さなものになり下がってゆきます。相手なしでは自分の価値さえ感じられなくなって、ついにはゴースト人間になってしまいます。

・・・・・ほんとは、相手に見えているのはまぎれもなくホントの自分であるのに。

だから、相手に魅力を見つけた段階で、「こんな素敵なものが見えちゃったってことは、わたしの中にも同じ魅力がうもれてるってわけ??」と気がつくことがポイント。ここは鏡の世界。相手に見えるものはすべて自分のもの。自分が忘れてた、気づかなかった魅力が今まさに復活しようとしている兆候なのです。

相手のいいところを愛でつつも、そんな相手を好きになった自分を大事に大事にしてあげること。あくまでも、その恋愛の中で、自分をVIP扱いにしてあげることです。彼のことは大好きだけど、その関係の中で自分はどう感じているのか。心地よいのか、ムリをしているのか、必死なのか。そして、いつも相手にあわせてムリをしているようだったら、勇気をもって自分が心地よくなる提案をしてゆくことが大切です。相手だって、あなたが自分を大切にしていたら、もっと魅力を感じるようになるのです。

この人生の中で、自分を最高に大切に扱ってあげなかったらいったい誰がそうしてくれるのでしょう。DV(家庭内暴力)にしても、校内暴力にしても、イジメにしても、もし自分が人から大切に扱われないと不満があるようでしたら、まず自分が自分の気持ちを無視していないか、自分をないがしろにしていないかをチェックしてみてください。

いい恋愛をしたかったら、まず自分で自分を最高に可愛がることです。そうすると宇宙は、「ふむ、この子は自分はこんなに素敵だといっている。よし、とっておきの男性でないとダメなようだじゃな」ということになります。

なんにしても「大好き」「大嫌い」・・・「大」のつくものはあんまり健全ではありません。それよりも、真ん中「中庸」がいいのです。(すでにバアチャンじみた発言ですね・笑)、

大恋愛が「執着」や「コンプレックス」だなんてガッカリでした?でも、自分の中の未知の魅力が引き出されて、相手への執着がうすれたあたりから、本当のパートナーシップが築けるかどうか、二人の関係がホンモノに値するかどうかが確かめられるときがやってくるのです。そこからですよ〜〜、ホントの恋愛は!

08-02-09 おひとよしの考察

以前、掲示板の書き込み(#701)で、天使の風さんから「おひとよし」についての考察を依頼されておりました。かなり遅ればせながらですが(汗)、分析させていただきま〜す。

「お人好し」と「親切」あるいは「めんどうみがいい」というのは似て非なるものです。「おひとよし」というと、自分を犠牲にしたり、いいように使われてしまうというようなちょっと負のイメージ。実際、ほんとうに「いいように」使われちゃっているのでしょうか?「おひとよし」の正体とは?

「おひとよし」には、二つのタイプがあると思います。

たとえば、悪口や陰口をいわれても心底反応しない、というか好意的にしかとらえられない人。「あの人がこんなこと言ってたよ」といっても、「そうなんだ〜♪そういうとこもあるかもね〜」とにこにこどこ吹く風。ほんとうに気にしていないし、どこかノーテンキなのです。

このタイプは、自分の外側に存在するものに対しての信頼があるので、争わず、戦わず、風になびく葦のように、ものごとを愛でています。そして、自分が苦しくなる余計な信念はかかえないのです。そして、何も失うものはない、とわかっているので怖れがありません。存在していることで、どこか自然に人を癒してしまう天然「おひとよし」さん。

さてもう一方は、「人からよく見られるために」「あるいはいイイ人だと思われたいため」に「おひとよし」を装います。これは、心底の「おひとよし」というよりは、「見返り」を期待してやっているもの。一見いいなりになることで、ちゃっかり欲しいものを手にしようという隠れた意図あり!いいなりになることで、優位な立場に立とうとするのですね。しかし、周囲の人々は潜在意識下でその策略に気づいています。「おひとよしね〜」というニュアンスの中には、「あざとい」とか「ぶりっこ」とか「ちゃっかり」という批判や皮肉がこもっている場合もあります。

このタイプは、誰の心の中にもある負の感情をよびさますします。まわりで見ている人は、自分の中の同じイヤな部分を白昼にさらされるようで不快感をおぼえることも。

なので、天然の「おひとよし」さんはおおいに結構!でも、もしなんらかの意図(自分を守るとか、手に入れるとか、他人をコントロールする)でやっているとしたら、結局それは自分を傷つけることになってしまいます。なぜなら、「自分はガマンをしないと欲しいものが手に入らない存在だ」と決めてしまうことになるから。それに、せっかく「おひとよし」をやっても思うような見返りがなかったら、いつか大きな怒りと恨みにかわり豹変・大爆発するおそれも・・・おおコワ。

自然体がいちばん!

08-03-10 気分って、選べるって知ってた?

クライアントさんとのやりとりの中で、あるいは自分の心の中のつぶやきに耳をかたむけて・・・つくづく思うのですが、どうして人は「自分を幸せにしない考え」に固執するのでしょう?

「あの人ったらヒドすぎる」「なんで私ばっかり」「どうせ私なんて」・・・自分をみじめにさせ、イライラさせ、未来もない絶望的な気分にさせる考え方・・・それをいつまでも手放そうとしません。たいてい、みなさんこうおっしゃいます。「だって、それは今私がそう感じているんだから、まぎれもなくホントのことでしょ!」と。

「感じている」からホントのことなのか・・・?
「感じ」ってそんなに普遍的な真実なのでしょうか?そのわりには、その日の天気や、寝起きや、他人の言葉でころころ変わるような・・・。

「感じてるからホントなの?あんがい違うかもよ〜」とわたし。
その場面で、そう感じなきゃいけないルールなんてないんですもの。同じシチュエーションで十人の人に気分を聞いたら、たぶんみんな違うはず。

「気にもとめない」人もいれば、「一生の大事!」とあたふたする人もいたり・・・。ということは、そのものごとよりも、その人の「経験」から生み出される「考え方」が人を苦しめたり楽しませたりしている正体ということです。

そして、たいていネガティブな感情の裏には「たくらみ」があります。腹をたてることによって、まんまと被害者になりすまし相手に罪悪感をおしつける。「ひっひっひっ。あなたってじつは、こ〜なにヒドイ人だったのよ〜。知ってた〜?」と相手を無言で脅迫。あるいは、落ちこんで無力な自分を装うことによって、優しい誰かさんをまんまとコントロール・・・。こんなたくらみの上によい人間関係がきずけるはずもありません。

「ある感情」を感じたとき、ちょっと考えてみてください。
「この感情は、私をハッピーにしてくれてる?」
もし、そうじゃないとしたら、じゃあ何でやっているんだろう?ほんとうは、どんな感情で自分の人生を満たしたいのだろう?と。

(次回に続く)。

08-03-12 気分って、選べるって知ってた?その2

どうしても、「あいつが悪い!」「私は被害者だ」といいたいときは・・・・、結局戦いのゲームが好きなだけ。誰かを悪者にして、じつはコッソリみずからの劣等感のうめあわせをしているのです。

ネガティブな感情を感じるとき、そう感じたいならどうぞぞんぶんに感じてみましょう!脇にどけて無きものにしたとしても、決してなくなりません。でも、感じるときは、いさぎよく5分だけね。しっかり向きあって感じていると、あんがい数分で跡かたもなく消えてしまったりします。そして、必ずしもそう感じる必要がないことを自分に教えてあげてください。

幸せって、こんなちいさな感情のコントロールから手に入るもののようです。

真綿で首をしめるようにあなたを苦しめる「真実の感情」のフリをした「エゴのささやき」にご用心。そんな真綿は拒絶して、堂々と幸せの王道となる考え、感じ方を自分で選ぶこと。いらない感情は無視してやりすごし、感じたい感情のために自分にとって健全な考えを選びましょ♪そう!「選べる」んです。でも、「今、カッカと感じている自分の感情から離れるのはむずかしい」と感じるかもしれません。

そんなときには、「幽体離脱モード」を使ってみましょう。

つまり、自分をいきなり「彼」とか「彼女」とか「それ」にしちゃって、ちょっと身体の外から感じてみます。「なるほど〜。彼女は今、怒っているんだな。大切にされていないと感じているんだな」というように。

ちょっと外に出て自分をながめてみると、自分の怒りや落ち込みの理由が見えてきたりします。怒っている裏側には、じつは自信のなさがある・・・とか、落ち込んでいる裏側には無力感があるなど。

そうすると、自分の外にあるものに腹を立てていたのが、実は「自分で自分が限りなくふがいない」と信じてあたりちらしていたことに気がつきます。そんな気持ちを見つけたら、自分自身が愛してあげてください。「ああ、そんなふうに感じてたんだね。そっか〜そっか〜。こわかったんだね」と。

べつに何かすごいアドバイスをしてあげる必要はありません。ただ、「うん、うん」と耳を傾けて、理解してあげれば十分。

なぜなら、外側にあたりちらして被害者になりたいときには、じつは自分で自分のことを好きになってあげてないときだからです。外に見える不快なものは、すべて自分の映し絵。自分の影帽子。自分で自分を足蹴にして、切り刻もうとしてるわけです。

こんな自分の弱さ、ふがいなさをちゃんと見て、気にとめて、受け入れてあげる。そんなプロセスの中で、小さいころの癒されていない感情の数々に気づくことになるかもしれません。ただ気づいて、受け入れることによって、外側の世界は少しづつ平和になってゆくのが感じられることでしょう。

08-04-03 「君を幸せにできるのは僕しかいない」症候群

「ぜったい幸せにするから僕と結婚してくれ」
・・・・よくあるプロポーズの言葉。

いっけん、ウルワシ〜ク響きます。女性にしてみれば言われてみたいセリフかもしれません。

が・・・「ええっ!!そんなこと言っちゃっていいの?」というのがわたしの正直な感想。こんなプロポーズするから離婚率が高くなるってものです。それに、ダンナさん、ご自分の首を限りなくしめることになりますぜ・・・。

だって、こう言われた奥さんは、ちょっとでも幸せ感が薄くなったとたんに、「ちょっと、ちょっと、アンタの努力がたりないせいでワタシちっとも幸せじゃないわよ。あの約束はどうしたの?」とダンナさんを責めはじめます。

すると、だんなさんはアセって、「じゃ、じゃあ、これならどうだ!」と甘やかし、「ぜんぜん、たんな〜〜〜い!」とダンナさんにさらに要求(人の欲望は限りなし)、「ほんじゃ、こ〜したらどうじゃ?」と頑張れば、「まったく的をえていない」と奥さんの怒りが爆発し・・・さらなる悪循環へ突入。で、奥さんのくちぐせときたら「あなたと結婚したばかりに・・・云々」。ダンナさんは自信も魅力も失い、たんなるダメおやじと化してゆきます。そして、奥さんはさらに見捨てる・・・。

こういう奥様は、誰と結婚しても結局は幸せじゃないのがわかってないのですよね。

人が幸せに感じるか感じないかは「誰かに何をされたか、されないか」とう問題ではない・・・ということになかなか気づけません。

ダンナさんが外側から幸せ感を押しつけてたとしても、一瞬は「あ〜幸せ♪」って感謝されるかもしれませんか、その努力はあっというまに底なし沼に吸い込まれ、あらたに拡大した要求となってダンナさんに襲いかかることになるでしょう。
(次回につづく)

08-04-11 「君を幸せにできるのは僕しかいない」症候群 その2

「君を幸せにできるのは僕しかいない」
このセリフ、「あなたの幸せの責任は僕がとります」と断言してるようなもの。いいんですか〜?そんなこと言っちゃって?

幸せか幸せじゃないかって、「個人」の心が選ぶもの。早く言ってしまえば、人が最悪って思う環境でも「幸せ〜♪」と満喫してしまう人もいるし、こんな申し分ない環境だったらさぞ幸せであろうという人でも、「わたしほど不幸モノはいない」とおもってる人もあり。「個人」の心のバランスなわけです。そのバランスは他人には変えることはできないのです。

だから、「ぜんぜん幸せになれない!」と、ダンナさんを何回とりかえてもモトノモクアミ。その奥さんが自分のものの見方と共存している限り何も変わらないのです。自分が問題のみなもとだから。

それを他人が満たしてあげることができると誤解すればするほど、乾きを増長させるというメカニズム。奥さんの心の中の「幸せを感じるセンサー」は故障しているので、ちょっとでも献身的に与えてくれる人を見つけると、この人さえもっとたくさん与えてくれれば問題は解決すると思ってしまい、いよいよ吸血鬼化してしまいます。

結局、どんな問題でも外側から何かを与えたり加えたりして癒すことはできないのですね。なぜなら、どんな問題も外側には存在せずに、そのひと個人のものだから。「幸せにしてくれ!」といっくら外側に向かって叫んでも何をどうすることもできません。

結局はすべては自分。視点をぐるりと180°転換させて自分に向けること。他人に期待するのはやめて、自分の心と正直に向き合って、心の声をきいて、何が自分にとって心地よいのか、そのために自分がどうすればいいのかをちゃんと聞いてあげなくてはならないのです。自分に与えられるのは自分しかいないのですね。

08-05-11 「うんざり」レベルが人生を変える!

セラピーでのひとこま。

クライアントさんがご自分の問題を話されます。

よ〜くお話をうかがったうえで、違った角度からのものの見方を提案させていただくことがあります。「こんなふうに考えることもできますよね〜?」と。

そんなとき、「そうそう、そうなんです。それはもう知っています」とか「それは聞いたことがありますから」と、どんな考えもアドバイスも立て板に水のごとく、ソク右から左へと却下されることがあります。

そんなとき、ちょっともったいないな〜と思います。

なぜなら、知識で知っているかどうかをお尋ねしているわけではないからです。「頭でその知識を知っていること」と、それを「人生に受け入れる」「それを生きてみる」ということはまったく別なことなのです。

たしかに、どこか本で読み知った知識かもしれません。でも、知識はあくまでも知識。「頭のレベル」です。

わたしたちをつき動かし、人生を操作しているのは、「心のレベル」「潜在意識のレベル」です。頭のレベルに山のように知識をつんでも、行動はなかなか変えられません。

頭でさんざん知っていることだからこそ、本当に変わろうとするときは、それをもう一度受け入れて、どういうことなのかじっくり感じて、味わって、そして潜在意識に落ちるまで気長につきあってあげなければならないのです。ほんとうに心を開いて、自分に迎えいれてあげることなのです。

たとえば、自己啓発本などで「よ〜〜し!元気をもらったぞ!」というとき。直後はまるで人生が変わったように生き生きするのですが、一週間もするとあの感動パワーはどこへやら。なにひとつ変わっていない・・・。読書という頭脳レベルの刷り込みは、日常生活の刺激によってすぐにかき消されてしまいます。

そうならないためには、「知っている」「わかった」というレベルから、「もう、聞くのもイヤ」という「うんざりレベル」までもっていかなければなりません。

たとえば、この本の考え方はすばらしい!と思ったら、今日から三ヶ月間は寝る前に同じ本を読み続けるとか。感動したセンテンスを書き出して、毎日目を通すとか。とにかく、(頭で)「わかったぞ!」のレベルを超越して「いいかげんにしてくれ〜!うんざりだ」というところまでいかなくてはなりません。「うんざり」すると、その考え方と自分がひとつになって、あらたな自分の考え方のスタンダードとして確立します。潜在意識に落とし込むことができるのです。

今はなんでもスピードの時代。「はい、わかった!次ぎ!」といいたいところです。が、是非自分があらたに持ちたい考え方、生き方があったら、「わかった」段階から「もう、うんざり」までしつこく取り組んでみてください。ここまでくると知らぬ間に、ものの見方が変わっています。

しつこ〜いコテコテ読書は魂を育ててくれますよ。

08-05-19 知ってるようで知らない本心

自分がある経験に直面することによって、はじめて自分の本心、望みが見えてくることがあります。

どういうことかというと・・・、
信じていることがわたしたちの現実を創りだすという考え方から、「その人が経験していることを見れば、その人が何を本当に信じているかがわかる」といいます。

つまり、私たちの経験は自分が「何を信じているか」にもとづいて創りあげられるわけなので、結果としての経験をつぶさにながめることによって、自分の深いところにある潜在意識下の本当の思いを知ることになるのです。

人との関係がダメになるとき、潜在意識下では「もうこの関係は十分だわ」「終わりにした方がいい」ということを「お互い」(これは片方ではないのですね)がわかっていて、それが表面化されついには別れにいたるものです。でも、表面の意識、つまり理性ではそのことが理解できずパニックに陥ったり、被害者になったり・・・・。でも、こうして見ると、両者同時にあきらめに達しているので、被害者は存在しません。

また、何か目ざすものがなかなか手に入らないような場合も、たんにたくさんのモノを持ちたがるエゴ(表面意識)がそれをほしがっているだけで、じつは深いところにある自分の目的にはそぐわないのです。つまり、深い部分では望んでいない。手に入らなくて当然なのですね。

だから、目の前の結果が好きでなくても、でもじつは重要な軌道修正だったり、真実の自分に気づかせてくれるチャンスだったりします。

でも、興味本位のエゴはいぜん「そっちに進みたい〜!」と抵抗を続けることもありますが・・・。 (^。^;)

「なるほど〜、これがわたしが欲しかったものかぁ」と完璧に自分が創りだした結果として味わうとき、また次ぎの選択、つまりあらたに何が欲しいか意識的に選びなおすことができ、次ぎなる展開もやってくるのでしょう。むむ・・・。

08-06-04 あなたは自分が決めたものになってゆく!

昔から、「くじ引き」「抽選」「じゃんけん」のたぐいは、妙に自信があります!得意です。

だいたい「歳末抽選会」のようなものは家族代表として引かされていたし、実際それなりの実績もあげておりました。

「くじ引き」だったら、すくなくとも二〜四等はあたりまえ、ときには一等も!
生涯二度だけ買った「宝くじ」は、六千円と三万円の当たり。かなりささやかですが、いちおう当たりだわ!(^-^; 

ハガキで行われる「抽選」ものは、当たりの常連。だから、ぬいぐるみやら、ブランドものの食器やら、雑誌の無料購読やら、戦利品は数えきれません。

「じゃんけん」も、イケます!その昔、「ランチただメシ」を賭けてよくじゃんけんをしましたっけ。もちろん圧勝。でも、わたししか勝たないからつまらな〜い・・・と文句jを言われましたよ〜。

でも、英会話のグループレッスンに通っていた頃は、じゃんけん圧勝がわざわいに。いつも「じゃんけん」でそのチャプターのサマライズ(要約)をする人を決めていたのですが、それもなんなく連勝。勝って「まぬがれた!」と喜んでいると、外人の先生に「勝ちとった君ができるんだ!おめでとう」と言われ、毎度四苦八苦でサマリーをしてました。

ある人は、「運には限りがあるから、そんなことで使い切ったらつまらない」などとおっしゃいます。なるほど〜。そう思っているその方には、使いきった運は支給されはしないでしょうね〜。

こういう「当たり」ものの場合、生計や生存がかかっていないので「当たらなかったらどうしよ〜」とか「お願いだから、当たってくれ〜!」という怖れや執着がないので、一回「当たるぞ!」とインプットしてしまうと、そのプログラミングはまったく邪魔されずに繰り返されるようです。

わたしの場合は「当たりグセがつけばつくほど、もっと当たる!」と信じているので、どんどんパワーアップ。信じれば信じるほど、加速してゆきます。

そして、「運」に限りがあるほど、神さまはケチではありません。むしろ、いっぱい受けとってほしいのです。プレゼントしたいのです。(^-^)v
だから、「いっぱい受けとるぞ!」と軽く決めてしまいましょう♪

すると、ほらお届けものがひとつ・・・。
「ウェスティンホテル東京」のお食事券一万円分!!けど・・・・、いったいこれいつ応募したかしらん・・・??(笑)

08-06-10 たまには「心の目」の視力測定もね!

コンタクトレンズをリニューアルいたしました。

メニコンメルスプランのメンバーになっているので、年に一回は新調の機会がやってきます。しかし、こまごま視力を測定したり、眼科にかかったりが面倒で一年たち二年になり・・・。ようやく重い腰をあげました。

足が遠のいているあいだに新しい製品ラインが開発され、さらに薄く、さらに小さく、さらにクリアに。そして、微妙に変化している視力にもあわせてもらい、視界がくっきりさわやか。心持ちも変わろうというものです。単純。 (^。^;)

でも、わたしたちはふだん「心の目」で世界を見ているので、実際の視力の矯正よりもじつは「心の目」の矯正のほうが大切。実際の目は外側で起ったことを映すだけですが、それをどのように解釈し、どのように自分の経験とし、どのように自分の成長の糧とするかは心の目が判断すること。

心の目が近視になっていると問題に固執してどんどん狭い視野にはまりこんでゆきます。だから、ドツボにはまったように困った状況から抜け出せなくなります。問題の解決は、問題よりも大きくならないとできないのですよね。
あるいは、心の目が乱視になっていたら、自分に向けられるたくさんの優しさや愛情があったとしても、それを歪曲してしか体験できないかもしれません。。

だから、心の目の視力も計れたらいいのにな〜と思います。
「今、ちょっと心の目の視力がおちていますね〜。お疲れのようですから、おいしいものを食べてたくさん寝ましょう」とか、「心の目が乱視ぎみですよ。ラクになる新しいものの見方、考え方を処方しておきましょう」なんてね。

心の目が健康で澄んでいると、同じ世界に住んでいても見える景色が違ってきます。
ふだん感じてる世界よりも、より平和で愛にあふれて、そして思いやりのある、そんな世界を体験できるでしょう。

「心の目」の視力こそ、幸せを感じるキーポイント。
「オフィス・るん」では心の視力測定でもはじめましょうかね〜。

08-06-14 ホントの世界はあなたの外にある!

いつもいろんなことに対して「あ〜でもない、こ〜でもない」と思い悩んでいる友人がいます。

見ているとなにやら大変そう・・・でも、話を聞いてみるとそんなにさし迫った状況にあるわけでもないのです。たぶん、これが彼女のふつ〜の状態。「あ〜だ、こ〜だ」しているのがノーマルで習慣になっているようです。そんなこと言ったら怒られそうです。「真剣に悩んでいるのよ!」と。(でも、こころの状態って習慣になっているのでご注意を。怒っている人はいつも怒っているし、心配している人はいつも心配している。それが自然らしいのです。)

私は彼女の目の前に座って、「きゃ〜!このブルーベリータルトおいしい〜!食べてごらん」とノーテンキ。

もちろん、わたしもときには落ち込み、友人にお助けコールをしたりすることもあります。でも、基本的にはお気楽人間です。

だって、わたしたちは五感で人生を感じて楽しむために、この身体をもってこの世にやってきているのです。それなのに、五感で人生を感じることもなく、頭の中にばかりとじこもっていたらもったいない!頭の外に出なくちゃ。感じなくちゃ!

それに、ブルーベリータルトのおいしさを満喫しているときは、同時に悩みにはまることはできないのです。「おいしい〜♪」とか「楽し〜♪」「幸せ〜♪」と言っていると、人生はじつにシンプルになります。なぜなら、それしか見えない。

今日の空の色は今日だけのもの。今そよいでいる風だって、たったこの瞬間だけのもの。そして「ブルーベリータルトの味なんてしってるよ!」というかもしれないけど、このブルーベリータルトだって、きょうしか味わえないブルーベリータルト。

生活の中には何ひとつとして同じではないサプライズが毎瞬用意されているというのに、思考にはまって、思考の中に住んで、イメージを巡らせることで疲れてしまってはもったいない。それは、現実逃避。

たった今の風を感じて、たった今のブルーベリータルトを味わって、たった今一緒にいる人をいつくしむ。ちゃ〜んと「今」ここに生きていると、ほら、自然とあなたの次ぎのステップさえも用意されているのがわかるのです。でも、それは頭の中に住んでいては見えてこない。

頭のおしゃベりのスイッチはきって、今ここにいて五感のすべてを使って今を生きる。すると、どうやら自分のための人生の流れに乗れるよう。

さあ!外に出て、五感をフル活用して、「今、生きてる!」って実感してみて!

08-07-23 カメのおしえ

梅雨明けとともに、なにやらとっても忙しくなってきました。どんなに暑くとも、やっぱり人間は太陽が顔をだすと活発に動きはじめる生き物なのでしょうか?

なので、一日が「あっ!」というま。時間に追われるというよりは、時間を追っている感じです。

そんななか、いちばんフラストレーションの原因になるのが、「心」がついてこないとき。自分のしていることがなかば自動的になって、しっかり「心」がこめられていないとき、楽しさも充実感も達成感も消え失せてしまうようです。

ふと、そんなわたしを心配そうに見つめる二つの目・・・。カメちゃんじゃありませんか!お友達が花をいける剣山として焼いて下さったカメちゃん。形も表情も愛らしくて、花瓶に入れるよりはいつのまにかペーパーウェイトとしてデスクからわたしを見上げています。

彼をみていたら、自分の「あたふた」度に気がつきましたよ〜。

心がお亡くなりになると書いて「忙しい」。思わずゆっくり大きく呼吸をするのを思い出しました。「ゆっくり、ゆっくり、ていねいに、心をこめて・・・」ね。

08-09-26 じつは・・・ホコリまみれだったわたし

ホコリというものは、知らぬうちに、うっすら、うっすら、つもっていって。
ついには、ホコリにすべてがおおわれていることにすら気づかなかったりします。

たとえば、自分の部屋のホコリ。
ふだんは、どこにどれだけたまっているのか気づきもしない。
はじめて、誰かが遊び来ることになったとき、
あらためて他人の眼で部屋の汚れをチェックしてびっくり。
こんなところに、こんなにホコリが・・・。

心も同じ。しらぬまに、うっすら、うっすら、ホコリがたまるのです。

セラピー中に使う心のクリーニングメソッドをあれこれ考案するとき、
いつもまず自分を実験台にしてみます。
やってみたらどんな感じがするのか・・・? を試すのです。
で、新しいメソッドを試みてみました。
・・・・おっ!なんか、なんだか、いい感じ。
たまりにたまっていたものがゴッソリとれたような気分。
世界がよりヴィヴィッドに見え、より安らいで平和に感じられます。

すると・・・、ここ数年、「こんなことしたいな〜」とおもい描いていたコト、
どうやってすすめたらいいのかな〜とずっと思案していたコトが、
あらら、向こうから勝手にやってきたではありませんか。それも、三つも。

目標を達成するのにしゃかりきになって疲れはててしまうことがありますが、
これこそホントの目標の達成の仕方。

「リラックスしながら、目標のためにやることはちゃんとやって」あとは、
「自分自身の真のパワーを覆い隠しているホコリを取り除く」すると、
「案外簡単に、なるようになってしまう!」
わたしたちの日常の「あ〜だ!こ〜だ!」の感情は、
一見どこかに消え去ったように感じても、
じつは心の奥深くにストックされて、本来のパワーを覆ってしまうようです。
自然の流れの中で手に入れられるものをも遠ざけてしまいます。

三つの目標のうちの一つは長年あたためてきたもの。
どうやってとっかかりを作るかを友人とも話し合ってきました。
しかし、なんのことはない、あっけなく向こうからやってきた。
それも、極上のもの、自分がイメージしたものよりもずっといいものです。

そとがわの物質にいどみかかって目標を達成しようと頑張るよりも、
心のすす払いをして、自分のほんとうのパワーを解放してあげることが大切なのですね。
目標達成としては、しごく省エネな感じですが、結果はけっこう大満足ものですよ。

思わず「欲」が出て、ヒマさえあればすす払いにいそしんでいます(笑)。

08-11-06 自分の穴は自分で埋めよう!

家族、友人、パートナーと親密な関係を持てることはすばらしいこと。まさに、人生の贈り物です。でも、最近は「愛情」で結びつくというよりは「執着」で結びついて、自ら苦しむケースがふえているように感じるのです。あまりに相手に多くを期待・要求しすぎたり、また犠牲しすぎることで、自分の自由がなくなりボロボロになってしまうというように。

幼少期の両親との関係のなかで「自分が欲しくても得られなかった!」という体験は誰にでもあるもの。誰の幼少期も完璧ではありません。でも、その欠落を現在の親密な関係の中で埋めようとすると、ひどく相手に期待したり執着することになります。そして、そんなコテコテの感情を愛情だと勘違いしてしまい、「こんなに愛してるのにあなたは何もしてくれない。あなたはひどい!」あるいは「愛を得るためには奴隷になる」という苦しさに突入します。どちらも自由がない状態です。

自分の愛する相手が、この「欠落」(たとえば、認めてもらうこと、甘えさせてもらうこと、無条件に愛されること・・・etc)を埋めてくれて当然だと考えると、「なぜ、あなたはわたしの思うようにしないの」とつねに文句たらたらになります。相手を責めます。そして、欲しいものが手に入るように密かにコントロールし、攻撃し、ついには思うようにいかない現実を相手のせいにして恨みつらみをつのらせる。

おそらく、いくら相手を変えようとして戦っても、それは負け戦となります。なぜなら、どんどん嫌われてしまうからです。。

もともと人間関係は「他の人間」との関係ではないのです。どういうことかというと、人間関係は自分自身との関係、つまり「自分」関係。自分がその状況をどうとらえるのか、どう対処するのか。だから、誰とつきあおうとすぐに自分のパターンが露呈してしまうことになります(この相手だとうまくいかない!と、次ぎの相手をさがしても、また同じ結果になったというのはよく聞く話ですね。ようは自分です)。

人間関係で怒りを感じると、相手に責任を負わせて悪者にしたくなりますが・・・ちょっと待って!さて、なんで自分はその「怒り」を感じているのでしょうか?自分の中で何が起きているのでしょうか?あなたは相手の何に刺激されたのでしょうか?たぶん、「怒り」の下には弱い自分がいます。泣いてる自分、打ちひしがれている自分。その声を聞いてあげてください。

「何を手に入れたかったのか?」そして「それは、過去の誰との間で手に入らなかったのか?」・・・・。そう考えると、本当に怒りを感じているのは自分の「目の前の人」ではないのがわかります。何かに触発されて、古い感情パターンを繰り返しているのです。

わたしたちは、その感情のほんとうの声に耳を傾けてあげる必要があるのです。「そうか〜、子供のとき、いつもお母さんに認めてもらいたいって思ってたんだ。その穴を、わたしはこの人で埋めようとしてたんだな〜。あのときは、自分をそのままちゃんと見てほしかったんだよね」と耳を傾けて、過去の感情の穴をちゃんと認めてあげます。

つらくて直面するのがこわいからずっと穴があいたままなのですが、ちゃんと穴ぼこの存在を認めると不思議と穴はうまろうとします。ただ、その悲しみをそのままうけとめたら、手放してあげるのです。傷ついた自分がほっとするのに気づくはずです。

そして、「怒り」の分析がすんだら、相手にはおだやかに「あなたの行動に怒りを感じたけど、じつはわたしの中にはこんな悲しみや癒されない痛みがあってね・・・」という話をすると、相手は受け取れるものです。「そうか〜、そんなふうに感じていたのか〜。その気持ちが癒されるように助けになるよ」となるわけです。

わたしたちはその人を愛するがゆえに、この穴を埋めてくれるのはこの人しかいないと勘違いし、期待し要求し、ついには「ほしいものが得られない怒り」を感じて大切な人との関係をこわしてしまいます。しかし、つねに自分の感情としっかり向き合う気持ちを持つと、相手を悪者にせずに「大切な人」としての関係が深まってゆくのです。そして、なによりも自分自身が相手から自由になれることがいちばんすばらしいところです。

大切な人だからこそ、長くおつきあいしたいものですよね。

08-12-06 はいっ、「つぎ!」

「リコネクション」のセミナーが終わった〜! \(^O^)/ といいつつも、その後「マネジメントセミナー」「公認プラクティショナー認定試験」のお手伝い、エリックの「ライト&インフォメーション」と続き・・・いよいよこれでほんとのほんとに終わったぞ〜!と雄叫びをあげたい気分です(笑)。

セミナーやもろもろの行事の間は、TA(ティーチングアシスタント)のお仲間と「同じ釜の飯」ならぬ「同じ冷たいお弁当」をつつきつつ、あれやこれやと同じ時間を過ごしてきました。でも、いざ終わってみるとそんな日々も妙になつかしい・・・。

エリックがセミナーのなかで「Next!」という言葉をよく使っていました。

文字どおり、「つぎ!」ということなのですが。つまり、クライアントさんにヒーリングを施したら決してふりかえるな!と。つまり、「あの人、どうなったかな〜」とか「ちゃんとできてる?」などなど・・・。

「必要なことがすでに起ったことを知り」「けっしてふりかえらず」そして、大きな声で元気よく「つぎっ!(Next!)」ということ。

これはプロセスを信頼すること以外のなにものでもありません。この信頼が、起るべきことのすべてを起こしてくれるのです。なんにしてもそうですが、わたしたちは往々にして過去に目線が向きがちです。「あのとき、ああすればよかった」「こうだったら、うんぬん」・・・。でもそれって、ほおっておけばなるべくようになるものの邪魔をしてしまうことなのですね。

ひとつ心をこめてなしとげたら、もうふりかえらない。「Next!(つぎっ!)」と号令をかけて、いさぎよく未来に目線を向ける。わたしたちは、過去でななくてまっさらな時間を生きるためにここにいるということ。「Next!」、これこそ新しい扉をどんどん開いてゆく秘訣だと思うのです。

Eric, Thank You!

09-01-28 喉に小骨が〜 (°◇°;)

昨年の暮れからきょうまで一ヶ月、まるで喉にひっかかった魚の小骨のように、消そうとしても消えない思いがず〜っとそこにあったのです。いいえ、小骨なんかじゃない!それはタイのあばら骨級!痛み、悲しさ、怒り、無力感・・・。

いつもそこにそれがあって、痛みとともに生きることを選択しつつも、自然に治癒することを祈りつつ、ときには自分で強引に引き抜いて投げ捨てたくなったり・・・。

そんなわたしの状況を知る友人は、毎日電話でわたしのつらさの「ゴミ箱」になってくれたり、また数人の友人は顔をあわせなくてもエネルギーで一生懸命応援してくれているのをひしひしと感じたものです。

ものの本には「どんな体験も贈りものです」とあり、たしかにわたしも経験からよくこの言葉を使います。でもね〜、当の本人はそんなこと考えたくもなかったりするのですよ。渦中にいるときは。(お〜、クライアントさんの気持ちがよ〜くわかる!)

そんなツライ思いをかかえているなか、わたしにやってきたメッセージは、「全部、失ったと思って振り出しにもどれ!」だったのです。「振り出しにもどる」・・・??「振り出しにもどる!」ってけっこう潔くって、イメージしただけでも晴れ晴れするものを感じました。自由になって身軽になる。逆に、どんな可能性でもあるような。晴れ晴れしたらふと浮かんだ次ぎなるメッセージは、「ああ、わたしが欲しいものではなくて、宇宙、神さまがわたしに与えたいと思っているものを受け取りたい!」という気持ちだったのです。わたしのエゴから望むものではなくて、ほんとうに私の存在を慈しむ方が与えたいと思っているものを。そこでお願いしました。「わたしに与えたいと思っていらっしゃるその最高のものをください」と。

すると、次ぎの瞬間、ひとつの電話がかかってきて見事にわたしの喉の「大骨」はポンっと抜け去ったのでした。あっけなく宇宙の彼方へ。・・・すごい。あまりにも簡単に片づきすぎ・・・。この一ヶ月のあの思いはなんだったの?!

でもね〜、今、はっきりと声を大にして言えます。一ヶ月、正直シンドかったけれど、でもこの体験がわたしの人生にあったことに心から感謝します!と。「宇宙の流れに対する信頼」「手放すこと」「人に助けをもとめること」「自分を信じること」・・・ひとつひとつ書き現せないぐらいたくさんのことを学びました。お腹の底から「知る」って、こういうことだって思った。

年始からハードなレッスン、いえ、素晴らしいギフトをいただきました。う〜〜ん♪まわりのモノが人が出来事が、以前にもましてステキに見えます。神さま、でももうちょっとお手柔らかに・・・。

09-04-30 お部屋も生きている!

しばしホテル住まいをして自宅にもどってきたら・・・ありゃ?使っていなかったわりには、なに?この綿ぼこりと荒れた雰囲気は・・・?

こんなことに気づいたことありませんか?ふだんお庭の手入れなどしていないお家。それでも、どうにかなっているのですが。いざ引っ越しをされて人の気配がなくなったとたん、びっしり雑草だらけ。ふだんから草むしりをしていたとも思えないのに、あっというまに背丈ほどの雑草で埋め尽くされています。雑草は人がいるとかいないとか、わかっているのかい?と思ってしまうほどです。

ほんと「人の注意」が欠落すると、ものごとは崩壊してゆくようです。モノゴトは注意で支えられているから。たとえば、しっかり向き合って大切にしていない人間関係、とくに男女関係。他の人によそ見をするや、あっというまに崩壊の一途。慈しみの眼差しをもって育てなければ、関係は枯れてしまいます。あるいは、ぞんざいに扱っている自分の身体。いたわりの気持ちが足りないと、あなたの注意が欲しくて病気になりますよ〜。そう、わたしのパソコンやカメラさえも、ねぎらってあげないとストを起こします。ほんとに。

一方、もしも自分の人生に「いらないもの」があったなら・・・・注意を向けない。ただ、ただ、静かに注意を外すだけ。あなたの身体の調子の悪いところから静かに注意をそらして、健康でよく働いてくれてるところに向けてあげる。また、いらない彼氏(彼女)ともバトル前に注意をはずしてしまいましょう。これで、すべてしょうめ〜つ!!(笑)のハズ。

わたしも最近忙しくてほっておいたモロモロ、いつくしんで過ごしましょう♪

09-05-07 「ホ・オポノポノ」セミナー日記

ヒューレン博士の「ホ・オポノポノ セミナー」どうでした〜?とみなさんに質問されます。

もともと、このヒューレン博士、「犯罪を犯した精神障害者の施設で、ただの一度も面会やカウンセリングを行うことなく、ことごとく全員を癒し退院させてしまった」という幻のセラピストとして存在が広まりました。セラピーを生業にするものにとっては、「それって、いったい何?」とたいそう興味をひかれたものです。

ヒューレン博士の考えでは、「自分の外側に見える問題は、すべて自分の潜在意識の中のまちがった情報が投影されて起っている」ということ(これはまさに、わたしの行うセラピーでも基本中の基本の考え方です)。そして、「ごめんなさい」「許してください」「ありがとう」「愛しています」という言葉を言うことによって、自分の潜在意識の中のまちがった情報をクリーニングしてゆくのです(潜在意識のクリーニングというのも、ヒプノセラピーのやり方と同じです)。このメソッドの大きな利点は、一人でいつでも何に対しても行うことができること。

セミナーでは、自分のほかに、場所、人、モノ、食べ物を浄化するためのクリーニングツールをたくさん習います。このモノ、人、場所の浄化に関しては、少々「・・・・??」なわたしでした。

なぜなら、もともと「自分の外側には何も存在しない」と信じているからです。外に何もないなら、外を浄化してもしょうがないというわけです。それに、「浄化しなきゃ」という怖れをもつことで、浄化しなきゃいけないことを体験するはめになります。


わたしたちは何かを「怖い」と思ったときに、はじめてその影響を受けてしまうのです。自分の「怖れ」から浄化しなくきゃならないものを創りださない限り、浄化が必要なものなど何一つないわけです。「あれも、これも浄化しなきゃ」という考えを持つと、わたしたちはどんどん小さな存在になり、じつはそれを創り出している自分の存在さえも忘れてしまいます。怖れるものは、ただひとつ。「自分の内側」、「自分の怖れ」だけ。外にその理由を作ってしまうと、わたしたちはどんどん無力になるいっぽう。だから「自分の内側の怖れ」だけを手放して、外のことはほっておきましょう。というわけで、このモノ、人、場所に関するクリーニングツールは、わたしにとってはおまじない的ちょっとしたお遊びだと思っています。

今回のセミナー出席の目的は、ヒューレン博士のオーラを感じること。たくさんの言葉よりも、ヒューレン博士の存在自体がわたしにとってはしみわたるものがありました。

「ホ・オポノポノ」での自分の潜在意識のクリーニングはとってもシンプル、お手軽で気に入っています♪すべてのことを「自分が創りだした」「責任はわたしにある」と全面的に受け入れる気持ちをもつだけでも、すぐに現状に変化がでてくるものです。

むずかしいけど、偉大なパワーをもつ「自分で責任をとる」とういう考え方。はい!精進いたします。

09-06-11 世の中って、不公平?!

カウンセリングでしばしば耳にするコメント、それは「世の中って不公平。知り合いの○○さんは親がお金持ちだから生まれたときから何でもやり放題。わたしときたら云々・・・」

たしかに、各家庭の経済状態はおのおの違います。

昔はわたしも「はじめからすべてを持っている人は人生ラクでいいな〜」と思ったものです。しかし、長年こういう仕事をしているとまた違った目線を持つようになるのですね。

その人にそのとき起っていることは、その人の人生のほんの小さな通過地点にすぎないということ。すべてのことは変化してゆくのです。そして、それぞれの人生の中には山あり谷あり、さまざまなことが起こります。たった一点、一時期を見てその人の人生を判断することはできないものです。おうおうにして、谷間の部分は人に語られることがないのです。カウンセリングルームの中で語られることはあっても。そして、人の心はたくさんの葛藤を抱えているのが常なのです。

だから、もし誰かの人生をうらやましく思うなら・・・「生まれてから死ぬまで、容姿も家庭環境も性格も感じ方も、苦しみも葛藤もなにもかも、その人と入れ替ってみましょうか?」とわたしはたずねます。それは、今の自分をみじんも残さず、その人になり替わるということ。

もれなく、みなさまのお答えはNo!です。「いやだ〜!○○ちゃんの経済状態はうらやましけど、まるごと彼女にはなりたくない」と(この問いでYes! と答えた人が一人もいないことから、結構わたしたちって自分が思っている以上に自分を愛してるのかも・・・)。

わたしたちはその人の光っている部分にばかり注目して欲しがるけれど、隠されているどんよりした部分もたくさん存在しているのです。それに人生は長い。今、光っているからといって、一生光り続けられるとも限らない。自分の人生も長い目で見てあげましょうよ。

いちばん幸せなのは、何かが「欲しい」という気もちがあって、そしてそれがなんとか「手に入って」、そのことに「感謝して」「喜べる」こと。

おうおうにして、はじめから持っている人には、それがあまりにもあたりまえすぎて、それを「持っている」」という自覚すらないし、「欲する」気持ちもないのです。「わくわく」も「どきどき」も「やった〜!」も「神様、ありがと〜」もないわけです。つまり、体験としては何も起こっていないわけです。けっこう、退屈?

それにくらべて、「欲しい」「持ちたい」「体験したい」と思っている人は、豊かな人生に恵まれます。なぜなら、わたしたちはその気持ちのすべてを体験できるから。

なぜ、わたしたちが身体をもってここにいるのか。結局、「体験」したいのですよね、せっかく創り出した身体を通して。そして、「持ってない」を知っているからこそ、「持ったぞ〜!」を素直に喜べる、感動できる。

なので、持っていないことを憂うなかれ!持ってないは「持っている」といことを劇的に感じるお恵み、最高のチャンスなのです。そして、わたしたちはそんな豊かに「感じる」人生を選んできたのですよね。バンザイ!!たくさん感じて、たくさん体験しましょう♪

09-08-27 52階からの気づき

こちらは、「宇宙から」とはいかないけれど、52階からの眺めです。

こまごま、おもちゃ箱みたい。

果てしなく続く雑居ビル群。その中にさらにたくさんの人が詰まっていて、それぞれがそれぞれの想いを抱えて一日を過ごしているのです。もしここにマンガのような「吹き出し」をつけたとしたら、スゴイことになるな〜。そのほとんどは、悩みや心配、お願い、祈り、そして怒りもまじっていて、耳を澄ませても「人生、サイコ〜!」って声はあまり耳にできそうにありません。

この都会に渦巻く想いのエネルギー。でも、神さまはそのひとつひとつにしっかりと耳を傾けて、全部のパズルがうま〜くかみ合うように、全員に深い学びと癒しがやってくるように、絶妙なタイミングで完璧な配置をしてくださっているのですよね〜。

そう考えると、あれこれ抵抗するよりは、力を抜いてリラッックスしているのが得策だな〜と感じます。

宇宙から地球をながめたものは「神を感じる」ことによって視点の大転換が起るといいますが、この弱冠の高さ(宇宙からくらべたら高いうちに入らないね)でも、ちょっと「神の手」を感じることができたのでした。

09-09-23 ”それ”は悩んでいる♪その1

フラれちゃったり、大失敗したり、リストラされたり・・・で、「ああ、もうつらい、悲しい」「不安で不安でしょうがない」「こんなわたしなんて・・・いっそ、死んじゃいたい」

そんな状態でセッションにいらしたクライアントさんに、小さなぬいぐるみをそっと渡すことがあります。

キョトンとするクライアントさんに、「では、その子を今のあなただと思って、感じている気持ちを表現させてあげましょう。できるだけ感情をこめて、ボディーランゲージもつけてわたしに話してくれますか」

はじめはためらいながら、徐々にぬいぐるみと一体化するクライアントさん。「・・・じつは〜、昨日、突然彼に別れるって言われちゃって・・・。まるで心臓をつかまれたように苦しいし、悲しいし、息ができなくて・・・。ただただ涙がでて・・・」とうなずかせたり、手足をバタバタさせたり、腹話術師のようにぬいぐるみにお喋りさせます。そして、「そうですか〜。その子はそんなにショックを受けているんですね」「その子はもうダメだと思っているんですね」とわたし。

しばし続けると・・・。

この段階で、すでに深刻さから抜け出して不思議と痛みがうすらいできたり、あるいはまるで他人の悩みのように客観的にながめていたり、はたまた突然おもしろおかしくなっちゃったり、ハタと気づきがやってきたりするクライアントさんもいます。

「ああ、この人、こんなに苦しんでいるんだ〜って、客観的に見ている”もうひとりのワタシ”に気がつきました。じつは、苦しんでいるのは自分じゃないような・・・。自分の考えってゆうか・・・アタマってゆうか・・・堂々めぐりするセリフってゆうか」とクライアントさん。そう、わたしたちの中には、いわば、このぬいぐるみのような存在が住んでいて、”それ”はつねに文句を言ったり、新しい現実におびえたり、抵抗しては大騒ぎをしているのです。

苦しんだり悩んでいるとき、それをしているのは、じつはワタシの「エゴであり思考」。悩んでいるのは「ワタシ」なんかじゃない。こうして客観的に「おお、こんなに苦しんでいるぞ・・・・」とながめているのがホントの自分自身です。

でも、あまりにもエゴや思考とひとつになってしまうと、悩んでいる状態こそが「本当の自分!」「わたしが悩んでいる」と勘違いしてしまいます。そして、だんだんとエスカレートしてゆき、自分が痛みに食べられたようにまったく無力になってしまうのです。完全に悩みに征服されちゃった状態。自分を悩みそのものだと思ってしまいます。

(その2へ続く・・・)

09-09-30 ”それ”は悩んでいる♪その2

悩んでいるのは・・・”それ”なんです。

そして、”それ”の怖れや不安や怒りの後ろで、しずかにながめている存在がいるのに気がつきます。とても冷静に客観的に「あ〜、こわがっているのね」って。これがじつは、ほんとうの自分。真のパワーを持った自分。そして、全然こわがってなんていない自分。

あなたを苦しめているのは「考え」であって、「あなた自身」ではない、のです。悩んでいるのは、あなたのエゴ、あなたの考え。”それ”が悩んでいるのです。

「考えている自分」と、その状態を「冷静にながめている自分」。この二つの存在があるからこそ、わたしたちは葛藤します。イジワルな自分を「なんか違うぞ」と感じるもう一人の自分・・・。一人しかいなかったら、この葛藤は生まれません。違う自分が存在しているからこそ、違和感を感じてしまうのです。

いったん、後ろにひかえている存在に気づいてしまうと、ネガティブな気持ちを持ったとき、そこから観察することができます。「おっ、はじまった。エゴは何て主張してるの?」と。

そして、聞き耳をたてると、エゴはおもしろいようにしゅるしゅると姿を消します。ネガティブな声がすぐに薄らぎます。エゴはいつだって、こっそりと正体を知られずにわたしたちを乗っとりたいと思っているのですから、気づかれたら一気に弱気になって、しっぽを巻いて逃げ出すのです。

もし、しゃしゃり出たエゴや思考をそのままにしておくと、どんどん図にのって、過去の同じような感情までもを巻き込んで、「わたしがあなたそのものだ!」と主張しはじめます。じつは、わたしたちはいつもまんまとこの手にのってしまい、エゴにぶるんぶるん振りまわされているわけです。「あなたがわたしだって言うんだから、そうなんでしょうね〜。汗」という具合に。

だから、否定的な思考に支配されはじめたな〜と気づいたら、興味をもってただ観察してみましょう。「おお、”それ”は主張しはじめたぞ!」「”それ”は、すごくこわがっている。なるほど、そういうふうに主張したいんだ〜」と。非難したり、やっつけようとすることなく、ただながめてみます。

ときには、ぬいぐるみを使って感情を表現してみると、自分の中にいるエゴがこっけいな動物などみ見えて、それを静かに眺めている自分がまさに本当の自分だ!と感じやすくなります。

自分のエゴのお喋りに気づいたり、それによって引き起こされる感情を冷静に見つけることができるようになれば、こっちのもの。すぐに穏やかさを取り戻せるようになります。心が静まります。平和です。

そして、わたしたちはエゴに吸いとられていたパワーを取りもどして、「今の現実」の手綱をとることができるようになるのです。エゴや思考は、当然のように乗っとろうとしますが、ほんとうの自分のパワーにくらべたらほんの小さな力しか持っていません。うわべだけの力です。ほんとうの自分でいることによって、ものごとへの抵抗がなくなるので、すべてのことにおいて流れがスムーズになります。ものごとがおさまるべき場所へと自然におさまるような感覚を感じるかもしれません。おそらく、今、怖れを感じていた問題も、おのずとよい方向へと変化するこおでしょう。

さあ、きょうから怖くなったとき、ネガティブになったとき、「おおっ、”それ”が反応しはじめたぞ♪どれどれ、何て主張しているかな?」と楽しんでながめてみてくださいね。

09-10-29 クヨクヨグルグル、やめらんな〜い!その1

「いつも同じことをクヨクヨ考え続けてしまうんです」「いやなことばかりが頭の中でグルグルしています」・・・こんなご相談をよく受けます。

ぐるぐる考え続けてしまう悩みには、いつぐかの原因があります。

ひとつは、悩むことに慣れ親しんでいる、悩んでいることが本人にとって日常になっている場合。それがいかに有害であっても、あまりに習慣化しすぎてしまって自動的にやりはじめます。わたしたちは意図的にならない限り、いつでも無意識のクセに支配されています。新しい習慣は意識して選びとらなければなりません。

たとえば、暴力のある家に育ったこどもは、たとえそれがどんなに怖くて不快であっても「家庭」の原風景になってしまいます。いざ生活の中に暴力がなくなると不安になるのです。同様に、うじうじ悩む思考回路が日常になりすぎていると、いざ何も問題がないと不安になってしまい、「こんなはずはない!」とわざわざ問題をつくる行動を起こしはじめます。つまり、やめてもいいのに、やめられない。

また、もうひとつの原因としては、人生の中にたくさんのルールがある場合。「人とはうまくやらなくちゃいけない」「すべてをちゃんとできるようにならなくてはいけない」「いつも幸せであるべきだ」「充実した人生を送るべきだ」・・・。たくさんの「べき」を教え込まれていて、それを貫き通そうとします。だから、目の前の現実と自分のルールとの折り合いをつけるのに大変な労力がいるのです。

「べきだ」「しなくちゃいけない」って感じてしまうことじたい、じつは本人は「そんなこと、さらさらしたくない」と思っているのです。でも、世の中の規格にあっていない自分にひけめや怖れを感じています。

ホントは、「むかつく」・・・OK! 「落ちこむ」・・・OK! 「うまくできない」・・・OK! なんだってOK。どう感じようが、どう生きようが個人の勝手なのです。感じるままに感じる権利があるのです。そしてなによりも、自分の弱さ、うまくいかなさを無視することなく、感じるままの自分にOKをだして認めてあげなければなりません。

つまり、堂々めぐりの悩みやクヨクヨ考え続けるのは、「こうあるべき」に気をとられて、その下にあるほんとうの自分の気持ちを無視して、切り離している状態です。ほんとうはこう感じているのに、そんなはずはない!とねじまげようとしています。すると、ほんとうの気持ちが反乱を起こして、ルールとぶつかりあい苦しみが生まれます。
(その2に続く・・・)

09-10-31 クヨクヨグルグル、やめらんな〜い!その2

たとえば、こんな問題。「今の彼は浮気をしたり約束を守らないので別れたい、でも別れたらまた一人になっちゃうし、そのあと誰かを見つける自信もない」「でも、関係を続けるのもしんどい」「だけど、自分のトシも考えいると・・・うんぬん」「でもやっぱり・・・」「だけど・・・」これは延々と続くし、意外と体力を消耗します。

まるで頭の中で空回りしているよう。じゃあ、この空回りの下にあるホントの気持ちって何でしょう?

「この男性といても、わたしはハッピーではない」「わたしは自分の人生をもっと大切にしたい」「自分をもっと尊重したい」・・・・なのです。まず、この正直な気持ちを非難することなく、慈しみをもって受け入れます。「そっか〜、わたしはそんなふうに感じていたんだね。いいんだよ、そう感じても。そう感じてあたりまえだよ」と肯定してあげます。

そして、その正直な気持ちに対して、今自分ができることを考えてみます。「じゃあ、わたしが何をいやだと思っているのか相手にちゃんと伝えて話しあおう」、あるいは「自分を大切にしたいという気持ちは、人に期待するよりもまず自分で自分を思いっきり大切にしてみよう」「相手に幸せというものを依存してきたから、自分ひとりでも幸せ感が持てるようにしてみよう」・・・などと、「変えてみよう」というところが出てくるはずです。そして、そのために小さな行動を起こしてゆきます。

たいてい思考にはまっているときは頭の中だけ試行錯誤して、体験がお留守になっています。「小さな変化」を行動レベルにできると、行動することが楽しくなって頭の中のぐるぐるは減ってきます。こうして少しづつ進んでゆけばよいのです。

まずは、ぐるぐるくよくよのパターンに気づく → その下にある弱気な本心を探る → それを暖かく認める → その気持ちを尊重し、そのためにできることを考える → 小さな行動に出てみる。考えるだけでなく行動がともなうと、自分の中に自己信頼や喜び生まれてきます。→満足する。安心する。もっとやってみようと思う。

思考は幻想、そしてそれはエスカレートするもの。自分で自分の首をしめます。思考を自分ができる小さな行動に変化させてゆきましょう。

是非、おためしを♪

PS  Happy Halloween!!

09-11-18 お告げランチ

わたしたちの周りは、わたしたちをヘルプしてくれる天からのメッセージに溢れているといいます。受けとる気さえあれば、そこここにメッセージが見つかり、それは人生をサクサクと導いてくれる大切なカギになったりします。道の真ん中に障害物があろうとも、ぽっかりと穴があいていようとも、ちゃんと迂回してへっちゃらに進んで行けちゃう、そんなお助けメッセージも多数含まれていることでしょう。でも、メッセージは繊細なエネルギーなので、きらん・・・と静かにやってきます。そして、たいていそのあとに「いやいや、思い過ごしだ〜」と打ち消しのエゴが登場するのがつねなのですね。

と、そんな話しをクライアントさんにはよくするものの、じっさい自分はどうよ??・・・と考えてみました。まあ、耳は傾けている方だとは思うのですが・・・じゃあ、もっとマジメになってみることにしました。

つまり、「毎日、天からのメッセージのどじょうすくい(?)」。

なので、きらり☆とひらめくものがあればソク足を運び、ちらり♪とお顔がちらつけばランチに誘い・・・。

先日も、ある心理学のスクーリングのあと、どうしても「スタバ」に立ち寄りたくなりました。それも、遠い方の「スタバ」。「なんで遠い方に行かなくちゃいけないのよ〜。雨がふっているのに」とブツブツしつつ遠い方へ。ひとつ席があいていたのでさっそく荷物をおきつつ、お隣の男性と目があった。「ありや〜?Mさん!」そして、その男性の前にすわっていたのも友人のC子ちゃん。お二人まとめて会えてしまったわけです。はい、たしかにその朝、お顔がちらついておりました。

おもしろいもので、メッセージをすくう気まんまんになっていると、足を運んだり、連絡をとる前にむこうからやってくることがふえてきます。

「ここ2~3日、Lちゃんが気になるな〜」と思っていたら、案の定連絡あり。さっそく「お告げランチ」と称して、ミーティング。おもしろいもので、お告げにしたがっていると「こっちの話しが、あっちにつながり・・・」というように、なんだかどれもつながっているぞ・・・。そして、ひとつのアイデアが浮かんできたりします。

というわけで、しばし「お告げライフ」に身をゆだね、どんな方向に流れてゆくのか楽しんでみましょう。

PS  「お告げ」に従って選んだLちゃんとのランチのお店。これはちょいとカラぶり気味。あ、これは「お告げ」ではなくって、「新しいお店は要チェック!」のエゴが選んだのでした〜(笑)。

09-12-05 グッサリ心の傷、それはすべて誤解から その1

セッションやセミナーの中で、「あなたの短所は、じつはあなたらしさの宝庫!贈りものなんです」という話をよくします。

短所が自分のかけがえのない長所・・・だなんて、頭がこんがらかりそう?

だからこそ、カウンセリングルームでクライアントさんの問題をひとこと伺っただけで、だいたいの見当がついてしまいます。「なにを取り戻しに、この方はここに坐っているのか」と。

たとえば、ある男性クライアントさん。「人の気持ちがわからない、自分勝手だとまわりに言われます」と。そこでわたしは思うわけです。「ああ〜、この方はなんて純粋で誰にも負けないほど人の気持ちがわかる方なんだろう」、「わかりすぎるぐらい、わかってしまったんだな〜」と。

なぜなら、すべての問題は幼少期か、さらに遡って(もしあるなら)過去生に由来します。そこで傷つく体験をして、気持ちが閉じてしまい、「だったらもういいよ!たくさんだ!こんな気持ちを味わうなら、違う自分になってやる」と本当の自分とは逆さまの生き方をはじめるのです。

と、いうことは、この男性を例にすると、「人の気持ちがわからない」どころか、「人一倍、人の気持ちに敏感だった」・・・けれど、あるとき最も愛する誰かからそれを拒絶されているのです(もちろん、その誰かにも心の痛みがあってこそ、なのですが・・・)。傷ついたその男性は、「こんなにつらいなら、この感情というやっかいなものにはフタをしてしまおう」と感受性豊かな自分をプッツリ切り離し、今にいたる、というわけです。

案の定、幼児期のセッションを行ったところ、男性が4~5才だったころ、おうちの中でお母さまが泣いている場面が登場します。少年はもちろん母を愛していますから、びっくりしているし、可哀想だし、助けたい。そこで、その気持ちに従って母に近寄って声をかけます。

ところが、思いもよらぬ母からの反応が少年をうちのめします。『子どものくせに!』、という拒絶のひとこと。

その少年は、愛する母を助けようとしたとき、子どもというよりは「一人のたのもしい男性」になっていたのだと思います。でも、母からの反応は予想を裏切る冷たく突き放すもの。少年は愛する人からのその反応に深く傷つき、「もう人の気持ちにかかわるのは金輪際やめにしよう」と心に決めたのです。
(その2に続く)

09-12-06 グッサリ心の傷、それはすべて誤解から その2

こうしてわたしたちは、自分自身の贈りものである純粋なやさしさや無条件の愛というものを閉ざしながら成長します。

そして、「傷つくなら違う自分になる!」と誓ったこともいつしか忘れて、「人の気持ちがわからない」(正しくは、「わかりたくない」のですが)と言われる大人になったわけです。

ほんとうは、わからないどころではなく、「わかりすぎ」てしまっていた。「わかりすぎる」自分を守る手だてとして、自分のやさしさを切り離して「わからなく」するしかなかったのです。

この男性のお母さまは小さい頃いじめられていたようで、どうやら泣いていたその日も知人にいじめられたかいやがらせをされていたようなのです。泣いているところを見られた無防備な母は、とっさに少女のような気持ちになり、恥ずかしさから防御したのがあの冷たいひとこと。それに、やさしくされることに慣れていないので必死で助けの手を振り払おうとしたのです。

お母さまもまた幼少の頃の心の傷があって、愛されるのがコワイのです。誰かが自分の見方になってくれるなんて思いもよらないし、まさか幼い息子にその姿を見られて声までかけられて動揺したのでしょう。

その男性は、「ああ、母の中の小さな女の子が傷ついていたのか。自分が間違ったことをしたから怒られたわけではなかった。あれは母の幼少期からの問題なのだ。自分がとった行動はあれでよかったのだ」とあらためて気がつくことができました。そして、現在の大人の自分がその頃の少年だった自分にやさしく事情を説明していたわってあげることによってその痛みを解放することができたのです。

こうして、自分にとって悲しい出来事がなぜ起きたのかを広い目線で理解することにより、自分の中で起きていた機能不全を解消することができます。母親の背景にある出来事を理解することで、プッツリ回線が切れていた自分の良さ、自分のやさしさ、自分の豊かさとようやくつながりなおすことができたのです。

あとは、しめたもの。いったん「そっか〜!そういうことだったのか」と気づいてしまうと、もうもとの自分には戻れません。せき止めていたブロックは取り去られます。心のカラクリはとはそんなもの。気づかないからやり続けられるのですが、気づいてしまったら、それは The End。

もう誰にも「人の気持ちがわからない人」「勝手な人」なんて言わせないし、すべてのことを感じるままに感じることができる誰よりも心豊かな男性がそこにいることでしょう。

その男性にいちばん初めのカウンセリングでお目にかかったとき、「ああ、なんて純粋で優しい心をもった方なのだろう」とすぐに感じとることができました。そして、その男性の本当の自分という素晴らしさの上に降りつもっていたホコリをはらいのけたことで、今、もっともっとその優しさが光を放ちはじめました。少年のままの純粋なやさしさと、お年を重ねた厚みのあるやさしさと。まずは、きっとご自身自らがその光(ご自分らしさ)に癒されることでしょうね。

PS 人に対して、えてしてひどい態度をとってしまうとき、深い部分で傷ついているかハッピーではないときです。やさしくしてくれる人に対しても怒りや悲しみをぶちまけて、そしてその相手さえも汚染してしまうことがあります。あつあつのピザが手のひらにのっていて、その熱さに耐えきれずに誰かに投げつけたい・・・そんな感じです(やってから反省してます。許してね・笑)。これはじつは、環境汚染よりも悪質です(ハイ、反省してますってば・・・m(__)m)。

09-12-27 ♂と♀、ミゾいと深し? その1

今年最後の「気づきの日記」は、よくある男性、女性のすれ違いについて。

先日、アサーションの勉強会に参加したとき、おもしろいモデルケースがありました(「アサーション」とは、自己表現。自分と相手の権利を尊重しながら意見や感情を適切に表現するテクニック。ここで実際に演じながら気づきを得ます。)

たとえば、こんなケース。

出勤前、食卓で新聞を読む旦那さんに奥さんが・・・
妻「あなた、最近、○ちゃん(娘)を公園に連れて行くと帰りたがらなくて大変なのよ〜。昨日も、お昼を食べる暇もなくなっちゃって・・・、結局なにもできずに終わってしまって。ほんとに疲れるし・・・」
夫「時間は時間だから、ちゃんと連れて帰れよ」
妻「そうは言っても、この子の気持ちもあるし・・・」
夫「はじめからしっかり時間を決めてないからだよ。何時になったら帰らせるとか・・・だからこんなに洗濯ものもたまってるし・・・」
妻「・・・(涙)」
夫「(出勤前にうざったいな〜・怒)」

朝から、いっきにいやな気分に転落・・・。

この場合のいちばんの問題は、「奥さんはべつに旦那さんに解決方法を尋ねたわけではない」ということなのです。なぜなら、奥さんのほうが子どもの気持ちや家事のことはよ〜くわかってる。家庭のエキスパート。でも、子どもの気持ちを尊重しながら子育て、そして家事をする難しさを語りたいわけです。

旦那さんはといえば、「問題提起」があったと認識するとソク解決プロセスに入ります。これぞデキるオトコというわけです。「だったら、これはこうして、あれはあのように・・・はいっ、一丁あがり!」てな具合に。これは男性の習性なのか、はたまた会社人間としてのサガなのか?問題解決のエキスパートというわけです。

たいてい、女性はこれをされると憤りを感じます。なぜなら、家事や子育てに関してはあなたよりもずっとわかっている!と言いたいし、解決方法が知りたいわけじゃない。時間の配分の悪さなんて、わかってのことです。それに、経験が伴わない上から目線の単なる理論にうんざり。ここで起きていることは、決して4÷2=2的なことではないからです。家事や子育ては、こうすればああなるというロジカルなものではなく、もっと曖昧模糊とした感覚的なこと。すべてが決めたように運ぶなんてことはないのです。

奥さんは、その曖昧模糊さの中で手探りする「フラストレーション」を受けとめてほしかったのです。つまり、「時間が思うようにならない」「子育てって重労働」ということを「たんにグチりたい」。そして、共感してねぎらってほしい。しかし悲しいことに男性にとっては、「グチ?そんな、非生産的な!さっさと解決しよう」「それは、時間管理がわかってないから」ということになります。

男性は論理的に筋道をたてて物事を解決することには慣れているけれど、こと「感情」がらみの話しや、生身の人間としての悩みなどは不得意中の不得意(もちろん得意な男性もいらっしゃいますが)。誰かが感情的になれば、恐れを感じてさっさとしっぽを巻いて逃げ出します。ふだん、感情を感じない習慣がついてしまったので、単に「わからない」ということもるのでしょうが・・・(感情にたいして麻痺してしまったので未知なる世界になっちゃったのです)。

でもね、「感情」の理解こそが、わたしたちがココ、地球にいるいちばんの意味でもあるのです。すべてのことは、感情を通して学びます。後悔、罪悪感、自己嫌悪、悲しみ、喜び、満足、慈しみ・・・ここからあらゆることを学び、行動を起こすわけです。

話しは戻りますが、ではこの夫婦のコニュミケーション、いったいどうすれば・・・?
(その2に続く)

09-12-29 ♂と♀、ミゾいと深し? その2

このコミュニケーションで奥さんが期待していたのは、「そっか〜、そんなに大変なんだね」と、(まず、心をより沿わせてほしい)。そして、「どんな感じなの?」と、(起きていることをただ判断せずに聞いてくれて)、「公園に連れて行くのがそんなに大変だなんて知らなかったよ」と、(自分の知らない世界を素直に認めて理解してほしい)。「でも、昼ぐらいはちゃんと食えよ」と、さらに(やさしく気遣ってほしい)」ということなのです。

しかし、そもそも共感能力を今まで使っていなかった人にこのようなレスポンスを求めることじたい、大きな落胆の原因になります。それだったら、「グチって共感できて気遣ってもらえる」同じ境遇のママ友のほうがまし。

男性からの模範的なレスポンスを引き出すためには、女性側にもテクニックが必要なようです。つまり相手を教育すること。

”相手に解決策や答えを求める態度をいっさい見せず”に、「このぐらいの年頃になると、公園から連れてかえるだけでもとっても大変なのよ」と”言い切る”ことにより、アドバイスや提案がいらないことを示します。そして「あなたは一日面倒みていないからわからないかもしれないけど、とっても○○なのよ、子育てって!」と、”あなたの知らない世界がある”ということをちゃんと認識してもらいます(つまり徐々に知らない世界を教育してゆきます)。

でも、いちばんいいのは、「疲れちゃった、ちょっと話しを聞いてくれる?ただ聞いてくれるだけでアドバイスはいらないから」ときっぱり会話の目的を伝えて自己満足的にぐちったほうがいいかもしれません。相手の理解の範疇を越えることに、自分が欲しい反応を求めるのはムリなのです。

もちろん、女性ももう少々ロジカルにシンプルに考える練習をするべきだし、男性は解決を求めない会話や感情にまつわる曖昧模糊とした話しに参加できるように訓練する必要があるのでしょうね。

このロールプレイでは、これを体験した奥さんが自分の旦那さんの役をしてみたりと、相手の立場に身をおいて同じ発言をしてみます。おもしろいことに、その人になってみるとその人の中で何が起きてそのような発言になっているのかよ〜くわかります。この奥さんは旦那さんになってみて、「ああ、この人はほんとうにこれしか応対の仕方を知らないんだ。問題をもちかけられたら、解決策を出すのが親切だとおもっている」ということに気がついたそうです。

そうです・・・この人って、なんでこんな態度するの?こんな対応するの?というときには、たいてい、たんにどうしていいのかわからない、「やり方を知らない」だけなのですね。

しかし、コミュニケーションはもともと「相手はわかっていない」「相手とわたしは違う」という前提で行うほうがよさそうです。そうすれば、ズレが生じてもあたりまえ、腹が立たずにせっせと相手にわかってもらう努力ができるから。最初からわかっていて当然、と思うと、わかっていないことに無性に腹が立っちゃうものです。

それに、同じ価値観、同じものの見方ではないからこそ、それについてああだこうだとたくさんのコミュニケーションをとることができて、相手の価値観を新しいものの見方として楽しむことができます。「同じ」であることを期待するコミュニケーションから、「違い」を楽しむコミュニケーションにすると、きっといらいらが驚きへと変わってゆくことでしょう。

気づきの多いお勉強会でした。 

10-01-07 ヨイショ・・・自分の壁をのり越えるとき

医大受験をひかえたGくんが、リラクゼーションとリフレッシュにいらっしゃいました。

そこで、現在、何らかのチャレンジをひかえている方、新しいことに挑戦しようとしている方に、Gくん御用達の「自分のカベ乗り越えメソッド」のひとつをご紹介したいと思います。

何かを制したいと思う時、大切なのはその何かよりも小さくなってはいけない、つまり大きくならなければならない、ということです。しかし、その問題がすでに大きいので手に負えない、だからこそ心配するわけです。心配したり、頭で考えすぎると、わたしたちはどんどん萎縮して小さくなり、しまいには問題よりも小さく小さく固くなって、問題の中に閉じ込められてしまいます。こうなると、にっちもさっちもいかない気分満載。まさに、問題に食われちゃった状態。自分の方が強くならないと、問題やカベを制することはできません。その問題を食ってしまわなければならないのです。

では、その問題の食らい方。それは、簡単、ただ、ただ、自分を大きくふくらませます。拡大します。静かに椅子にすわり、目を閉じて深く呼吸をくり返してみましょう。そして、息をゆっくり吐くときに、まずは自分がその部屋いっぱいに広がっているイメージをします。自分自身でその部屋をぱんぱんにしてみましょう(自分が風船になったのをイメージするとやりやすいかもしれません)。次ぎは、その建物いっぱいになり・・・。そして、その街・・・、地域・・・、空も含んで、果ては宇宙まで・・・すべてとひとつになって、惑星も銀河も地球そのものも自分の中に存在しています。

さらに、その宇宙をつき抜けて、宇宙の向こう側の静かで平和で光に満ちている空間にまで達します。ここは神さまの領域、そしてすべてが存在する空間。その穏やかな空間の中で、すでに「すべてが叶っている」「すべてがうまくいっている」「すべての答えがそこにある」という満足感を感じてみます。「ああ〜、ここにすべてがあったんだ〜!」「すべてが、もうすでにうまくいっている!」と、微笑みたい感じ。とてもいい気持ちになってきたら、片手をぎゅっと握るか、片肘をぎゅっと掴んで、その感覚をアンカリングします(身体に覚え込ませます)。そして、十分感じたら、その気持ちをもったまま平常の意識にもどってきます。

このように拡大することを習慣にしていると、問題が問題であると感じなくなるかもしれません。また、わたしたちは、いつも平和な気持ち、すべてがうまくいっている気持ち、満足な気持ちを感じていれば、同じ質のものが自分の日常に写しだされます。アンカリングした場所をさわれば、すぐに深い穏やかさを感じることができるので、日常でリラックスしたいとき、落ち着きたいとき、あるいはイメージングや瞑想をするときにこのアンカリングを役立ててみましょう。

もともと宇宙よりも大きかったわたしたちが、あえてこんなちっちゃな身体に入っているのですから、考えすぎてもっとちっちゃくならないようにしましょうね。

10-01-20 自分のホンネ、わからな〜い (^^; その1

「ココロには時間の概念がない」といいます。なので、わたしたちは数十年前のココロのままで生きていたりするのです。つまり、こどものまま。

「ふ〜ん、そんな人いるのか〜」と思っているあなた、例外ではありませんよ〜。

たとえば、こどもの頃、親に言われたひとことがいつまでたっても自己イメージになっている場合があります。その昔、顔が丸かったわたしは、お月さまのようだと母に言われましたっけ。そして、大人になって美容院で髪型を決めていたときのこと。「わたし、お月さまのように顔が丸いから・・・」とつぶやくと、美容師さんが真顔で「お客さまは全然丸顔じゃないです、タマゴ型!」と断言。そのときは、「この美容師さん、わたしをなぐさめてる?」とさえ思ったものです。しかし、その後、何人かに「たかちゃんは、タマゴ型」と言われたこともあり、ようやく認識のゆがみを正すことができました。「丸顔だと信じてきたけど、どうやら違うらしい」と。嗚呼・・・三つ子の魂、百まで・・・。現状をまったく把握していませんでした。

権威の象徴である親や親しい人に言われたことは、普遍的な真実として受けいれられ、自分の固定したイメージとなって後生大事にキープされてゆくのです。

こどもの頃、いじめられて育った人も同様。あれはとうの昔のことなのに、今でも「わたしはいじめられる存在だ」と信じ、怖れを感じているのです。もう、そのいじめっ子もいないし、自分だってそんなに弱くはないのに。いくら成長して過去の自分とは似つかない自分になっても、ココロの刷り込みは依然むかしのまま。昔のイメージを確固として持ち続け、過去の自分に生きているのです。

さて、先日いらしたM子さん。突然上司に「この仕事は君にはあっていないから違う仕事をしなさい」と5年も積み上げてきた仕事をあっけなく変えられてしまったそうです。

いつも勉強熱心でチャレンジ精神旺盛なM子さんは、「ステイタスと将来性のあるポジションを奪われてショックです・・」と、落ち込んでいます。しかし、いっぽうで「本当のところ、この仕事好きじゃなかったんです。ストレスが多すぎるし」・・・と本音もチラリ。

まあ、潜在意識の中にある本音はやがて現実化するので、「結局、本音が実現した」ということですが、それでもどこか納得がいかない様子。

彼女にとっては、「がんがん勉強して」「がんがん実力をつけて」「がんがん仕事をして」「がんがん昇進して」「がんがんお金をかせぎたい」、そして「がんがん成功する」、それが憧れ。そのためには、常に自己啓発にいそしみ、読書をかかさず、ステップアップの資格のためには努力をいとわず。でも、かなり強迫的な前進の仕方で、端から見て大変そうだし当のご本人もまったく楽しんでいないようです。

そこで、聞いてみました。「もし、神様が”成功”か”楽しみ”かどちらかをくれるとしたら、どっちがいい?」  間髪入れずにかえってきた答えは「楽しみ!!」

あらあら、こんなに努力して、こんなにステップアップを重ねてきても、結局とところ「成功」はどうでもいいんだ〜・・・ふ〜ん・・・とわたし。

ただ”楽しみ”をとりたいってことは、ほんとうは”成功”なんてどうでもいい!!そもそも、成功への道のりはハッピーじゃないし・・・。けれど、どうでもよくない理由がありそうです。彼女を成功にむけて突っ走らせる、彼女もわかっていない思い込みが。わたしたちは、アタマでは「ああだ」「こうだ」と理由づけをしますが、ホントのホントの理由ってあんがい本人も分かっていないものです。

では、何がいったい彼女をつき動かしているのでしょう?彼女はどんな「こどものココロ」を生きているのでしょう?

10-01-23 自分のホンネ、わからな〜い (^^; その2

ここからM子さんの潜在意識の探求がはじまりました。彼女のココロをどんどん掘り下げてゆきます。

「何がなんでも成功したい」=「なぜなら・・・人生は競争だから」「なぜなら・・・お金があれば何でもできるから」「なぜなら・・・ステイタスがつくから」・・・etc。どんどん聞き出してゆくと、あるとき「お父さんとお母さんが・・・」とつぶやくなり大粒の涙を流すM子さん(これは、核心近し!)。

「がむしゃらに頑張って成功しなければならない」をどんどん掘ってみた結果、出てきたのは幼い頃に決めたひとつの小さな決心。愛する両親が何やら大変そうにしているのを目にしたM子ちゃん。彼女は幼いながら胸を痛め、心に決めた一つの決心があったのです。それは、お金で苦しむ両親(当時、二人には借金があった様子)を助けるということ。「お父さんとお母さんの借金をどうにかしてあげたい。けれど、わたしは非力で助けられない」 「今は何もできないけれど、大きくなったら必ず愛する両親を救おう。わたしが借金のために一生懸命働くんだ」という強固な信念を作ったのです。

もちろん、これは大人のM子さんの表面意識には残っておらず、潜在意識の中にひっそりと忘れさられていた信念。時は流れて両親は苦境を乗り越え、彼女も大人になり、そんな記憶はどこへやら・・・。しかし、潜在意識の中にインプットされた決心は決してチャラにはならないのです。デリートボタンを押さない限り。だから、彼女は両親への愛を感じるたび、無意識に「わたしが両親を助ける=わたしが借金のため働く=苦しくてもより多く稼ぐ=がむしゃらに=いやなことでも何でもする」をやり続けていたわけです。今となっては、その真の目的は忘れさられ、「がむしゃらに成功する」の理由は「わたしの幸せ」にすり替えられてしまいました。

しかし、カウンセリング中に明らかになったように、M子さんの幸せな状態は「がんがんやって成功」よりも、「人生を楽しむ」ことだったのです。あくなき成功のための脅迫的な自己啓発グセが、まさかこんな「幼い女の子のけなげな動機」に根ざしていたと気づいてご本人もびっくり。

おもしろいもので、この役にたたない信念を処理してしまうと、むしょうに楽しい人生がやりたくなってきます。今までのキャリア、試験、ステップアップ?! あら〜、わたしには関係ないわ! ってな具合に。別人化して自分らしい人生を、まさに彼女がしたかったように「楽しめる」ようになるのですね。あるいは、依然「成功」を目指したとしても、そこに悲壮感はまったくなくなり、あらたな動機が見つかるでしょう。おもしろいものです。

これは彼女に限ったことではなく、誰でもこのような幼い頃の痛みから誓った古〜い信念をかかえて、それがどんなものであったのかも忘れて、無意識につき動かされていたりするものです。

「幸せになるためにはこうするべきだ!でも、ぜんぜん楽しくない」というようなときは要注意!自分のとっている行動と感じている感情の辻褄があわないときは、潜在意識の中の忘れ物をお掃除するチャンス。すると、不可解なナゾがとけて、自分でも「ああ!びっくり!」になるかもしれません。

わたしたちの自然な状態は、ただ「幸せ」であること。でも、あまりにもずれることに慣れきってしまっているこの世の中。自然に「幸せ」である感覚を多くの人が忘れがちです。ほんとうは、わくわく楽しいと感じる方向にだけ触覚をのばして進んでゆくということを覚えておけば、自分らしい流れに導かれることでしょう。

PS 今回はカウンセリングのセッションで探求しましたが、同様にヒプノセラピーのセッションでも幼少期の感情や場面を思い出すことにより「役立たずの信念」を見つけることができます。
Good Luck, M子さん!楽しんでね〜! (^-^)ノ

10-01-27 自分のホンネ、わからな〜い (^^; 後日談編

1/2023日のブログ、「自分のホンネ、わからな〜い (^^;」で登場していただいたM子さんから、後日談の報告メールが届きました。ご本人の了解をいただきましたので、そのまま掲載させていただきますね。

あくなき成功へのチャレンジを続けながら、難関の資格試験のための準備を長年にわたり重ねていたM子さん。しかし、長く苦しい「成功への道のり」に執着するホントの理由を知ってしまった今、いったいどのような変化を体験されたのでしょうか?

以下、M子さんメールです。

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たかこさま、

おはようございます!新しい朝を迎える毎日です!

先週の木曜、資格試験受験のためのレファレンスレターを書いてもらうために、ボスとランチの約束をしていましたが、そのランチで、「受験やめます」宣言をしました。超すっきり!です。もうその職業は目指さないし、好きなことをやって行きます!と。(仕事はやめませんが^^)

翌日の金曜の夜から、いきなり部屋の掃除がしたくなり、資格試験の参考書をドカドカ捨て(1回で35冊売り、まだまだあります。)勉強と仕事でほったらかしになっていたホコリまみれの床の掃除開始したら、とにかく熱中して気がついたら朝の5時過ぎ!

こんなに自分の生活をほったらかしにして、好きなダンスも減らし、コンサートにもまったく行かず。全然楽しんでない人生を送り続けようとしてたなんて、いまでは信じられないけど、渦中はそのことに「まったく気がついていなかった」なんてびっくりです。

たかこさんのところに通いだしてから、もう数年?経っていますが、今回のことが一番「クリア」にしたかったことなんだろうなと思います。まったくつながっていない問題にみえる、なかなか理想の誠実な男性に出会えなかったことも、いま思うとその理由は、「まだ成功していないのに、結婚しちゃったら稼げなくなる!!」と思っていたのだろう^^とよくわかります。

今日も、というかもう昨日の夜ですが、ダンスを踊りに行ったら、過去最高に楽しかったです。「ああ、あたしもう『自由』なんだっ!」って、音楽に対する身体の反応が、すごく良かったんですよ。

たかこサマ!本当にありがとうございました。やっと、自分の本当にかなえたかった人生が始められます。本当にありがとうございました。

...   ♡   ...   ♡   ...   ♡   ...   ♡   ...  

なるほど〜・・・、いらない信念を処理しちゃうと、やっぱりご自分の本当の気持ちに正直になれるようです。
わたしたちは気づいたら最期、もう同じところには戻れないのです。

M子さん、Conguratulations!!
ご自分の触覚をのばして、いつもわくわくすること、楽しいこと、時間を忘れるようなことに向かって進んで行くようにしましょうね。その先には、いつもわたしたちが人生で受けとるべきたくさんの贈りものがあるはずだから。(^O^)/

10-02-08 ガマンのはて・・・は伝わらな〜い (^。^;) その1

人との関係の中で、あなたはガマンしてしまうほうですか?たとえば、ネガティブな感情を隠したり、いつも人に譲ってしまったり・・・。

ガマンの理由はいろいろあると思います。たとえば相手のことが好きだから、相手の気持ちを優先することに甘んじてしまう場合。あるいは相手との力関係で譲るのがあたりまえになってしまっている場合。または相手にあわせることが無意識の習慣になっている場合などもあります。

「人との関係を平和に保ちたい」「嫌われたくない」と思えば思うほど、このガマンは習慣になりがちです。また、「人間関係は常に良好でなければならない」
「波風がたつのはいけないことだ」という思い込みも正直なコニュニケーションをさまたげます。「人間関係、一回こじれたらおしまいだ」という危機感から相
手にあわせてしまう人もいます。

腑に落ちない、納得していない、いやだと思いながらも、じっとガマン。でも、ガマンは百害あって一利なし。ガマンするのとナットクしているのとは決定的に
違うので、ガマンしても腹の虫がおさまることはありません。納得のいかなさをを隠しもったまま、相手への恨みつらみが徐々に肥大化してゆきます。

同じ相手とは、たいてい同じシチュエーションが繰り返されるものです。そうすると、小さなイライラが重なって、やがておさえがたい怒りとなり、遅かれ早か
れバクハツします。つまりキレる、ということですね。ここまでガマンを重ねてきた痛みが噴出。一気に感情が攻撃的な言葉となって、態度となって、相手にな
げつけられます。

そこで、「ああ、そんなにマンしていたんだね。気づかずにコメン」といたわって欲しいわけです。

しか〜し、しかし、ガマンにガマンを重ねた怒りは、まったくもって「伝わらない」のです。ぜんぜん伝わらない。怒りをぶつけられた相手は目がテン。急転直下の怒りに「何に腹を立てているのかさっぱりわからん?」とチンプンカンプン。

こう言われると、怒っているほうはもっと腹がたちます。「わたしが今日の今日までガマンしてきたのに、その言い方はなによ!わからない?ふざけるな!わたしはずっとガマンしてきたのよ」と。

でもね〜、これ、ホントにわからないのですよ〜。

どうすればいいの??
(その2へ続く)

PS もうすぐバレンタイン!素直なコニュンミケーションでよい関係を育てましょうね。
(♡が可愛い一番のりのバレンタインチョコ、おいしそう!ありがとうございます♪)

10-02-12 ガマンのはて・・・は伝わらな〜い (^。^;) その2

なぜ、ためた怒りは伝わらないのか?

だって、当の本人は怒りを熟成させながら「今日の今日までゆずってきた」と思っているかもしれませんが、相手にしたら途中の経過がスッポリ抜けているのです。ずっと平和だったのに、何を急に烈火のごとく爆発してるのか・・・さっぱり??怒ってるって?そりゃ、青天の霹靂!ってなわけになるのです。「ガマンのはて」は、まったく伝わらないコニュニケーションの代表選手なわけです、

相手の立場だと、ガマンしてニコニコしながら怒りをためこまれるよりは、いやなときには素直にいやだとその場で言ってほしかった、ということです。まあ、言えない人には、「感情を伝えたときにうまくゆかなかった苦い過去」があるのですが。ためこんだすえの爆発は、そこにたくさんの恨みつらみがくっついているので攻撃的で凶器のような言葉になります。

そのときどき感情は小出しにするのがよいようです。感情を伝えるやり方は、むずかしくありません。ただポツリと静かに感想をつぶやけばいいだけです。そう、何か違和感を感じたときには、かる〜く、さわやかに、悪びれることなく、「それって好きじゃないな」「え?それはいやかも」と軽くコメント。心の痛みに変わるまえにね。

それができないのは、どうやら本人に問題あり。このガマンするクセ、じつは相手をおもいやっているようでいて、自分自身を卑下している態度なのです。自分が感じていることを自分で無視しているという、自分を尊重していない失礼な態度。自分よりも人を高いところにおいてしまうことにより、その結果、自ら自分が軽んじられるようにしむけてしまうのです。人は、その人が自分を扱っているやり方にならってその人を扱うようになります。自分で自分を大切にしないと、誰も大切にはしてくれません。

ちいさいときに誰も自分自身の扱い方、そして感情の扱い方を教えてくれませんでした。だからとても不器用になってしまうのです。「素直な感情の表現」はいっけん危険に思えますが、感情はためこみさえしなければ凶器にはならないのですね。自分のためにも、人のためにも、くれぐれもためこまずに小出しにいたしましょう。

悪びれずに、かる〜く、さわやかに、正直に・・・感じたときに感じたままを!自分の気持ちに耳を傾け、自分を尊重し、自分を大切にするコニュニケーションを心がけてみてくださいね。きっと、まわりもあなたにやさしくなるのが感じられることでしょう。(^_^)

10-03-02 カップル泥仕合に終止符を! その1

最近ふえている恋愛&パートナーシップのカウンセリング。お一人の場合とカップルの場合があります。

お二人だと、ともすれば、ここぞとばかりに日頃のうらみつらみの応酬になりかねません(ここはリングじゃないよ〜ん!)。お互いの言い分に耳を傾けると、
日頃どのようなパターンで、何が繰り広げられているのかがたちまち浮き彫りになります。日々のバトルとジレンマの様子が、第三者からは手に取るようにわか
るのです。

どんなカップルにおいてもそうですが、「自分のペースを侵害されたくない」、だから「自分はこのままでよい」、じゃあ「ふつ〜じゃない相手が変わるべき
だ」という考え。誰だって、自分は正しくて、自分の感じていることがホントだと思っています。しかし結局のところ、自分も正しいけど相手も正しい・・・こ
れが真実です。誰にとっても自分の真実があり、それは自分にとってまさにホントなのですから。

そもそも、まったく違う環境、教育、体験を通して育った二人が、同じように感じるはずもなし。パートナーシップシップは、「お互いまったく違う」「その違いを探求しよう」ぐらいの気持ちがないと、いったいどちらが支配するのかという権力争いにおちいります。

「縁を感じた」というだけで、相手は自分の理想の人だという幻想をもち、すべてが自分の思いどおりにいってあたりまえと信じ込みます。勝手に相手を完璧に
したてあげ、少しでもそこからはみだそうものなら「こんなはずではない!」と目くじらをたて、さっそく相手を矯正しようとします。でも、さっきも書いたよ
うに、相手と自分はまるで違うのです。それに「好みの人」はいても「理想の人」なんて幻想に等しいでしょう。それを押しつけられても、押しつけられた当人
は困ってしまいます。うまくやるには、関係性の中で必ず努力や思いやり、また妥協も必要なのです。人間関係、とくにパートナーシップは最初からあるもので
はなく、しっかり手を入れて大切に育ててあげるもののようです。

また、関係性の中で相手と争うことを怖れるあまり相手の言いなりになり続けると、今度は相手に対するうらみ&つらみが鬱積しはじめます。やがて「自分の気
持ちにウソをついている」ツケがまわってきます。パートナーシップどころか相手に対する怒りとなり、それはあきらめに変わり、また自分に対するあきらめと
なり、人生に対するもあきらめとなり・・・無気力、無感動、無感覚へ。生きていることじたい何の楽しみもなくなってしまいます。

うまくいっているカップルというのは、すべてがはじめから同じに感じているわけではありません。ふたりの根底には「一緒に楽しみたい」という気持ちがあっ
て、戦うぐらいだったらここはゆずろうとか、自分の存在がおびやかされること意外は妥協するという姿勢がみられます。かなり重要なこと意外は、のらくらゆ
るゆるしているのです。そして、自分の正しさを貫くための「戦い」よりは、ちょっとは妥協しても二人でいる「平和」をめざしているのです。

そうなんですよね。人は全員違うのですから、違ってあたりまえ。ときには、相手の「ぎょえ〜っ!」と思う行動、考え方に遭遇するかもしれません。だからと
いって、自分の考え、行動が普遍の真理でもないわけです。そういう場合は、お互いどうしたいのかをよくよく確認し合わなければなりません。どちらかが我慢
するのではなく、できうる限り二人の希望の中間地点を探り、両方から歩み寄って妥協ポイントを二人でゆずりあう必要があります。怒りをためない上手なパー
トナーシップは、我をおしとおすわけでもなく、かといって我慢して犠牲者になるでもなく、柔軟になってお互いのここちよい落としどころを探ってゆく地道な
作業です。二人ともさっさと理想は手放して、素直に両方から歩み寄ってゆくことなのですね。

そうそう!この妥協点を見つけることと、もうひとつとても重要なポイントがありました!
(その2へ続く)

10-03-11 カップル泥仕合に終止符を! その2

結局のところ、どんな人間関係においても「相手を変える」ことはできません。対象(相手)にイライラしているのも、ムカムカしているのも「自分の心」が勝手にしていることであって、相手にしてみたらどんな場面でこの人がイラつくのかムカつくのかなんて知ったことではありません。それをいちいち「あなたのせい」と言ってしまうと、自分が気持ちよく感じるためには世界中の人を正して歩かなければならなくなります。

幸せを感じるか否かは、自分の心の「反応の仕方」がすべてです。外側のものごとにどのような意味づけをしているのか?それによって、「ど〜でもいいや」という反応になったり、「絶対に許せない!」という反応にもなります。また、「相手は自分をハッピーにするべきである」「ロマンス小説や映画のように、パートナーはいつもやさしく愛を表現してくれなくてはならない」「男性とは(女性とは)こうあるべき」・・・と、どっかから持ってきた都合のいい信念を押しつけると現実とのギャップにバリバリ期待が裏切られることでしょう。

少々ムカついても死活問題にかかわることでない限りサラリと水に流し、なかったことに。一方、幸せを感じられそうなポイントではめいっぱいリアクションし、楽しさや喜びを増幅する。いわば、自分の反応の静と動の使い分けをする。これ、幸せを増幅する秘訣です。ものごと何にでもことごとく反応しないことなのです。ときには、無反応(右から左へと受けながし、即なかったことにする)ことを決め込むことも自分を守るうえで大切なのです。自分の感情の照準を、心地よいこと楽しいことに積極的にあわせることです。結局、ネガティブな感情をしょいこむことになるのは自分自身。自分の心の環境汚染は自分でしっかり守るしかないのですね。

わたしたちは物ごとを外側のせいにしはじめると、どんどん自分のパワーを失いはじめます。「あいつが悪い」「こいつのせいだ」・・・と自分には何の力も無いようにふるまい、いつも外側から何かが襲ってくる無力でかわいそうな自分をアピールします。しかし、みずから自分には力がなくて周りが力を持っているのだと言ってしまえば、もともとある自分のパワーを失うことになるのです。自身が本来持っている未来を自在に創りだす力すら放棄することになってしまいます。そして、みるみる自分の人生がコントロール不能に陥ってゆくことでしょう。相手のせいにする、というのはそれだけコワイことなのです。

一見、犠牲者はラクチンそうです。誰かが悪いと言ってしまえば、可哀想な被害者になり同情や注意ももらえそうです。でも、これは自分の人生の操縦桿をみすみすドブに捨てたことと同じです。ですから、たとえ何が起きようとも、何がやってこようとも、「はい、すべてはわたしの責任です。わたしの内面の反映です。わたしの中のものが映し出されているのです」と自分が創りだしたと言い切って責任をとってしまうところから、わたしたちは自分の外側にあることすべてをコントロールする力を自分の手の中に取り戻すことができるのです。

何かがイヤだと感じたら、「ふむ。わたしはいったい何に反応してるのかな?これはどうあるべきだと信じているのだろう?そう思うわたしは、いったい何に抵抗していて、どんな体験を避けたいと思っているのかな?」と自分の内側を探求してみてください。ほったらかしにしていた思わぬ心の痛みを見つけるかもしれません。見つけたらこっちのもの!気づいてしまえば、それはもう終わりを迎えます。そして、外側の抵抗していた敵は姿を消すことでしょう。

相手を責めるのは簡単ですが、自分の成長を考えたら「ちょっとイヤ」でも自分が変わる決意をしてしまったほうがおトクですね。自分が変われば外側はおのずと変わってゆきます。案外、いちばん変えてやりたいと思っていた相手が真っ先に変化しているのに気がつくかもしれません。外側の敵は、じつは自分の心の中の住人だったとは・・・・びっくりですね。責任をとる態度を身につけると心が安らかになり、心の波立ちがなくなれば人生のよい流れにも乗りはじめることでしょう!

10-03-23 凹みますぅ・・・他人のひとこと その1

まわりの人の言葉が気になるというクライアントのA子さん。「あなたって八方美人ね」と近しい人から言われ、ずっとそれを気にしているのです。

あなたにもそんなことありませんか?まわりからのあまり嬉しくない自分に対するコメント。それが心のトゲとなり、ずっとちくちく痛むのです。それは短所と
して自己イメージに加えられ、自分に対して悪い印象を持ってしまいます。「わたしって八方美人なんだ・・・誰にでも調子のいいいやなヤツなんだ」と。

しかし、ものごとには表と裏というふたつの側面があることを思い出さなければなりません。すべては短所にもなれば、また長所にもなる。「八方美人」だって
他の人に言わせれば、「人あがりがよくて素敵な方」「誰とでもわけへだてなくつきあえる気持ちのいい方」と、長所にもなりほめられちゃうのです。

人からの意見は、あくまでも「その個人」の「そのとき」の「ひとつの意見」にすぎないのです。その人は、独自の信念、経験、生育環境、教育、心の状態、そ
の日のご機嫌でものを言います。地球上のたった一人の意見を自分の真実として受け入れてしまうのは危険です(その意見が自分を気持ちよくしてくれるもの
だったら大歓迎ですが)。

世界には今や68億もの人がいて、そのうちのたった一つの意見です。68億分の1!もし、まわりの意見を聞き入れてしまうなら、68億通りのあなたが必要になってしまうでしょう。これは七変化の帝王カメレオンも真っ青。

だから、意見の丸呑みは危険です。まわりの意見はあくまでも「意見」として客観的に聞く習慣をつけましょう。「この人はそう思っているのだな〜」と。じゃ
あ、なぜこの人はそう思うのでしょう。たいてい、あれこれ他の人を批判したり価値判断するときは、そのひとが幸せではないときです。誰かを自分よりも下に
見て優越感を感じたい、自分の自信のなさをうめたい、と思っているわけです。あるいは、「人とうまくやれないコンプレックス」をうまくやれるA子さんに投
影して、自分へのいらだちを相手を責めることで解消している場合もあります。

人からのコメントに対しては、ちょっとクールになりましょう。「なるほど、この人はそう思うのか。ひとつの意見として聞いておこう」と。しかし、それがあ
まりにもひどいコメントの場合は、そもそも「受けとりを拒否する」ことです。勝手にその意見を却下しちゃいます。「それはあなたのもの(考え)であって、
わたしのものではありません。あなたにまるごとお返しいたします。以上」と心の中でつぶやきお返しします。何から何まで受け取る必要はありません。自分に
ふさわしくないものはお返しする、という毅然とした態度は自分の尊厳を守ることでもあるのです。注・返却はあくまでもイメージ。ケンカは売らないでね
(^。^;。

しかし、人に言われたことであなたが猛烈に怒りを感じるときは要注意。なぜなら・・・。
(その2に続く)

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サクラ、見〜つけた♪
もうすく、ここの景色は一変します。

10-04-01 凹みますぅ・・・他人のひとこと その2

人に言われたことであなたが猛烈に怒りを感じる・・・こんなときは何が起っているのでしょう?

相手に言われて「超腹がたった」「許せないと感じた」ときは・・・相手の発言がBINGO!!だった、まさに図星だった!、隠しもっていた劣等感にみごとにストライク!という時です。ホントのことは、ツボにはまりすぎて笑えないのです。カッとなっちゃう。受けとれない。人は関係ないことにはまったく反応を示しません。キョトンとするか、まったく理解できないか、この人なにを言っているのだろ〜と疑問に思う程度。しかし、ホントのことを言われちゃったときがいちばんヤバイのです。

だから、必要以上に腹がたっちゃったときは認めましょう。じつは、そうだったんだ、と。つまり、「まったくそうなんですよ。いやだわ!なんでわかっちゃったのかしら。隠してたのに・・・」と、自ら認めて笑っちゃえばいいのです。そして、ここが自分の弱点か!と認識すると、気づくことによって克服されてくるものです(クセや欠点はばれちゃったらおしまいなのです。自分に対してさえ、こっそりやっているところに醍醐味があるのですね)。

先ほども書いたように、自分に正当な自信があり、自分を認め、自分の人生をちゃんと生きている人は、そもそも他人に対してコメントしているヒマなどありませんし、他人のいちいちに興味などないのです。それよりも自分の現実と向き合い、それを変化させてゆくことに夢中。他人のことをとやかく言うときは、それだけヒマ、やることがないという時です。ですから、そのような方のお相手をしてしまうと、まさにいいカモにされてしまいます。

また、自分も他人のことが気になって仕方がないときも、赤信号。自分の人生に満足していないときかもしれません。他の人の揚げ足をとることに刺激を求めてしまっているのです。自分の人生の中で楽しいことを見つけましょう。

さて、こんな場合はどうでしょう?他人のコメントがほんとうに正しい場合。あなたが気づかなければならないことを言ってくれている場合。そういうときは、ちゃんと自分でわかるものです。痛いことを言われたな〜と感じるし、自分のエゴや優越感や計算がみすかされてしまった・・・(汗)という、バレちゃった感、バツの悪さがあるからです。そこには、自分の策略や隠れた意図があるのですね。他人に何か言われて良心が痛むとき、とても居心地悪く感じる時には、ウラがばれちゃった時です。さっさと指摘を受け入れて改善に務め、あとは水に流しましょう。

わたしたちは言葉にしろエネルギーにしろ、外側からやってくるものにあまりにも無防備だったりします。無意識に外側に反応していると、反応することに忙しい人生になり、なにひとつ自分で人生の舵がとれなくなってしまうことでしょう。何を受けいれるかは、身体にとり入れる栄養素と同じぐらい大切なことです。自分を傷づける、価値をおとす、気分が悪くなる、役に立たない、そんなものは断じて受け入れを拒むべきものです。身体をはぐくむ栄養素と同じぐらい、外からのエネルギーは大切なのです。自分を元気に明るくしてくれる、価値を認めてくれる、・・・・そんな外側からのインプットは大歓迎。大いに心を開いてとり入れましょう。つまり、ちゃんと自分で選択することです。

そしていちばん大切なことは、人生は反応するものではなく、自分が決めるもの、創り出すもの。この意識を持たないと、まわりにぶるんぶるん振り回されて疲れ果て、気づいたときには人生がThe End なんていうことにもなりかねません。自分のあり方、自分のものの見方、そして自分の未来さえも、自分で意識して選んでゆく意識をもつこと。そうすると、創り出す方向にエネルギーが流れます。そして創り出しやすくなります。そのためには、自分の心、感じていることに正直になることです。被害者ではなくて、創り出す人へ。すると、あんがい外側の世界は自分にやさしく感じるかもしれません。

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目黒セーヌは桜が満開!!おやつを買いに行こうにも、人ごみをかきわけなければなりません。

友人がやってきて、お花見第1ラウンド終了。あと、3ラウンド楽しむ予定です♪

10-05-02 変われる人、なかなか変われない人 その1

セミナーを受けたはずなのに、時間が経つと“昔から引きずってきている自分”にかなり戻ってしまってる友人がいるけど」と相談されました。さて、変われる人と、なかなか変われない人との差ってなんでしょう?

まず、知っておかなければならないのは、人間には恒常性を保つ機能があるということ。平熱を保つ、体重を保つ(痩せてる人はそれなりに、太った人もそれなりに)、そして人格を保つ。きょう観た映画や読んだ小説によって、毎日コロコロ人格が変わってしまっては大変です。いったい、あやつは何者ぞ!ということになってしまいます(まあ、人格障害としてコロコロ変わる人もいますが・・・)。しかし基本的には、わたしたちは日々同じ自分を保とうと無意識の努力をしているのです。

たまに自己啓発セミナーなどでかなりショッキングな体験をして、まったくの別人28号になってしまう人もいます。しかし、必ずリバウンドがやってきます。ハイになっていた人はどん底へ。逆の方向に落ち込んでプラマイゼロにしようという心の働きが起ります。なので、そもそも人間は突然変えては副作用がある。そして、またもとに戻ってしまうということです。そのためには、地道に気づきを重ねるか、セラピーなどでやわやわと目覚めてゆくのがよい方法です。だましだましのようですが、変わるそのときには勝手にど〜んと気づきがやってくるものです。

そもそも、しつこい幼児体験、つまり両親に五百回位言われて培われたある習性を、たった一回話しを聞いたり本を読んだだけで変えようとするのはムリがあります。幼児体験だけでなく、何千年も前の過去生的な思い癖もあります。しかし、おもしろいもので、たった一回の、ホンノささいな一言で、すべてが変わってしまう人もいます。確かにいるのです。一回のカウンセリングにいらして、目からウロコが一万枚!そのような方は、ずっとずっと心の中で答えを探し求め、出口を手探りして、その一言がツボにヒットしてしまったということなのです。その人の心が求めた結果なのです。

ある一言が「知識」としてではなく、「気づき」としてお腹におちたとき、「おおっ!そうか!」と「腹の底からわかった」体験をします。一言で大きな気づき、変化がやってくる人は、まさに「お腹に落ちた」のです。一方、「ほうほう!そうですか」という右から聞いて左に流す聞き方ではこれは起りません。たとえば、クライアントにとってよい本は、うんざりするまで読み込むことをおすすめしています。「頭でわかった」レベルを越えないと、気づきはやってこないからです。もう、書いてあることは十分わかった!というレベルから読み込むと、文章の深い智恵が語りかけてきます。著者が理解していたのと同じレベルにたどりつきます。そのときに、「ああ、ほんと〜にわかったぞ!そういうことだったのか!」という深い気づきがやってくるのです。

たまに男性クライアントさんで、何かお話すると「ああ、それはもう知っていますよ。これこれこういうことですよね」「そのことについては聞いたことがありますよ」と知識として知っている段階から決して前に進もうとしない方がいます。知識のテストをしてるわけではなくて、それを「生きているかどうか?」を問うているのです。「知ってることと」と「それを生きていること」には雲泥の差があります。ある役に立つ知識を知ったら、それを自分の人生にどう取り入れるか?それを生きてみて、どんな自分を発見できるのか?自分で体験してみなければなりません。往々にして中年の男性(すべてではありませんが)は、「知っている」と言ったら、それ以上そこから考えたり深めたりすることがないことがあるのです。まるで、それ以上進むことを怖れているように拒絶に入ったりします(本心を観られるのを怖れているようにも見えます)。ですので、「変われる人」の特徴としては、「知ってる」「わかった」で片付けずに、自分の人生で実践、行動してみて、それがどうなるのか、どんなふうに感じるのか、どんな結果になるのかをちゃんと体験できる人。行動に移せる人です。そうすると、次ぎのレベルへの階段は自然と降りてきます。

そして、もう一つ大切なことは・・・。
(その2へ続く)

10-05-05 変われる人、なかなか変われない人 その2

そして、もうひとつ「変わる」ために大切なこと・・・それは、「自分の人生は自分が創りだしている」ということに気づくことです。ですから、「ホントにホンキで、マジメに変わりたいと思っている人は変われる」ということです。しかし、ここで作用するのが、その人の信念です。いくら変わりたいと口では言っても、変わることに対してどんな思い込み、信念を持っているか注意深くならなければなりません。

「変わりたい」といいつつも、「変化には努力がいる」とか「わたしは何をやってもうまくできない」とか「変化はこわい」とか「わたしは変化するには値しない(いいものを受けとるに値しない)」、あるいは「現状では被害者になれるので、責任をとらなくても良いからこのままがいい」などなど。心の底で信じていることが、新たに創り出そうとする現実を邪魔してしまいます。これらの信念はいくつかの消去の方法がありますが、まずどんな信念を自分がもっているのかを探ることが大切です。そして、ただその存在を見つけると、一体化していた信念から自分を引き離すことができます(それに気づくということは、外側からそれを見ているので、自分とそれはもう別々。それとは、離れているのです。)信念と一体化しているとそれに支配されてしまいますが、いったん分離してしまうと(信念を見つけてしまうと)、もうまったく影響を受けなくなる場合もあります。

実際、「変わる」ことは簡単なことです。それをちゃんと心にとめておくことがまず大切です。すべては簡単だ!と。「ぜ、ぜ、ぜったいに変わってやるぅ〜〜!汗」とリキむのではなくて、ただ「よし!変わろう」と軽やかに決めれば、それはやってきます。リキめばリキむほど、自分にはできない!大変だ!と暗示をかけてしまいます。ほんとうに決意しているときには、とってもかる〜いのですよ。そして、いちいち「あ〜だ!」「こ〜だ!」と言わないことです。ただ、「よっしゃ!軽く変わるぞ!それも楽しく」と思うだけでOKです。それほど、シンプル。決意は簡単なことなのです。自分の人生の現実を創り出しているのは自分、いつも舵取りをしているのは自分、それを理解し意識的になれば、恒常性を保とうとする心の壁も突破できます。

いつも自分の道を妨げるのは、唯一自分の意識だけです。それをなだめるためには、戦わず、リキまず、ただただかる〜く「そうなんだ!」と思うことです。軽さはとっても大切。

しかし、今、世の中では気づきのレベルがどんどん上がってきています。つまり、「百匹目の猿現象」がまさに起きつつあります。気づいた人の数が急激に増え、ある一定の数に達すると、残りの人たちは努力なしである日突然気づけるようになってきているのです。何よりも大切なことは、新しい考えを受け入れる「心の素直さ」、「ものごとは簡単だ!」とリラックスすること、そして自分を信じてあげることではないでしょうか?(ホントに軽く「そ〜なんだ!」と思ったら、それはそうなのです!)

そして、日々進化成長してゆく自分に対して、しっかり心と身体と魂によい栄養を与えてあげてくださいね。それは、あなた自身を楽しむこと、あたえられた生を味わうこと、日々をいつくしむこと、そして「今」にしっかりととどまること♪

10-05-19 Who is Susie in your life?

友人から ”スージーへ” というメールが届きました。

わたしスージーちゃんじゃないんですけどぉ・・・とおもいつつそのメールを読んでみると、そこには小さなお話が添えられていました。

日本語に訳そうかとも思いましたが、そのままの文章で引用することにしました。下にミニ単語帳をつけておきますので、英語のお勉強がてらお楽しみください。

わたしの人生にもフォローの天才といえるスージーちゃんがいますよ〜。このメールをくれたのも、まさに one of my Susies。みなさんの人生にもきっといるスージーちゃん♪

それに、神様はいつだってわたしたちの助けの声は welcome なのですよね。でも、わたしたちが「助けて〜!」って心を開かないこと(自分一人で「あ〜だ、こ〜だ」しているうちにすでに手遅れになるパターン)、あるいは「助けはいつでもそこにある」ことを信頼しないのが問題なのでしょう。遠慮なく叫びましょう、”This is an emergency!  I need help now!"

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WET PANTS

Come with me to a third grade classroom..... There is a nine-year-old boy sitting at his desk and all of a sudden, there is a puddle between his feet and the front of his pants are wet. He thinks his  heart is going to stop because he cannot possibly imagine how this has happened. It's never happened before, and he knows that when the boys find out he will never hear the end of it. When the girls find out, they'll never speak to him again as long as he lives.

The boy believes his heart is going to stop; he puts his head down and prays this prayer,  'Dear God, this is an emergency! I need help now! Five minutes from now I'm dead meat.'

He looks up from his prayer and here comes the teacher. She will soon notice his situation and everyone will know!

As the teacher is walking toward him, a classmate named Susie is carrying a goldfish bowl that is filled with water. Susie trips in front of the  teacher and inexplicably dumps the bowl of water in the boy's lap.

The boy pretends to be angry, but all the while is saying to himself, 'Thank you, God! Thank you, God!'

Now all of a sudden, instead of being the object of ridicule, the boy is the object of sympathy.  The teacher rushes him downstairs and gives him gym shorts to put on while his pants dry out.....   All the other children are on their hands and knees cleaning up around his desk. The sympathy is wonderful.  But as life would have it, the ridicule that should have been his has been transferred to someone else -  Susie.

She tries to help, but they tell her to get out. You've done enough, you klutz!'

Finally, at the end of the day, as they are waiting for the bus, the boy walks over to Susie and whispers, 'You did that on purpose, didn't you?' Susie  whispers back, 'I wet my pants once too.'

Each and everyone one of us is going through tough times right now, but God is getting ready to bless you in a way that only He can. Keep the faith!

puddle・・・水たまり   I'm dead meat・・・一巻の終わり
trip・・・つまづく      inexplicably・・・どうしたことか
dump・・・投げ下ろす        ridicule・・・あざけり
klutz・・・ばか、まぬけ      keep the faith・・・信頼を貫く

PS 写真のバラ、これホンモノです♪

10-05-24 ズバッと注意でスコッと忘れる

ルクエかな〜? タジンかな〜? いや、ルクエか?

このところずっと悩んでいたのですよ。これ、ルクエ社のスチームケースと、モロッコ生まれのタジン鍋のこと。どちらも、野菜やお肉を放り込むだけで、蒸気の流れを生かして素材本来のおいしいお料理が素早くできるすぐれものの調理器です。

タジンは、高々した三角帽子が収納にかさばりそう・・・。一方シリコン製のルクエはけっこうフニャフニャで耐熱タッパーとどこが違うのか?それに、どちらもけっこうなお値段。

お店で二度ほど吟味した後、仕事が忙しくなって忘れてしまいました。

したらば・・・来ましたよ〜!タジンくんが、勝手に。

バースデープレゼント予告編だそうな。しかし、ひとことも口に出していないのに、なぜ欲しいのがわかったのか?すると、背後霊のようにわたしの後ろにタジンが見えたとか・・・(笑)。ホンマか?!

なるほど〜。欲しいものにはしばし強烈に注意を注いだあと、それがどうやってやってくるかなんておかまいなしに、スコッと忘れてしまう。これぞ、執着がない証拠。執着は流れを妨げます。・・・・すると、かくのごとく簡単にブツは引き寄せられてくるのですね〜。微妙にタジンに軍配があがったのは、「タジンは直火もレンジもオーブンもよいのか〜」と感心していた証かもしれません。

他のことでも、こんなふうにスバッと濃厚な注意を向けて、スコッと忘れる・・・ができれば、もっといろいろなものをばんばん手にできそうです。これぞ、現実創造のキホンのキ!ネチネチ考え続けちゃうのは、それだけ疑いや不信のある証拠。疑いと不信を増殖しかねません。

さて、このタジン、さっそくセロリ、人参、マッシュルーム、サーモンを放り込み、塩コショウ、白ワイン、レモンで味付け、レンジでたったの4分。きゃ〜、超簡単でおいしい!!限りなく、横着になりそうでちょっとオソロシイしろものです。

バースデー予告編がタジンってことは、本番はルクエだったりして。ん〜、ワガママ言えば、他のものがいいんですけどぉ〜・・・。こんなふうに抵抗していると、もれなくルクエがやってきそうな気配(抵抗すれば、もれなく「それ」はやってきます♪それを確実に手にする唯一の方法、それはただ「抵抗すること」なのです)。

PS しゃちょ〜!!そこから出てくださいっ!そこは社長室ではありませんっ!(汗)さもないと、調理しますよ。
(おなじみ、うちのギズモしゃちょ〜でした。→)

 

10-05-31 つじつまのあわないココロの策略 (@_@) その1

「男性運がホトホトないんです・・・」とクライアントのA子さん。

「ようやく彼氏ができたかと思えば、妻子持ち。これではダメだと思い別れたものの、出会うのはあきらかにダメ男ばかり。とにかく、フツウの人がいない。わたしって、そういう星の下に生まれてしまったのでしょうか?」と。

わたしたちは意ににそぐわない現実が続くとき、「わたしって運がない」「そういう星の下なのね」・・・と星占いや運勢のせいにして自分を納得させようとします。が、このあきらめ方はちょっと残念。

もともと運がない!と言いきってしまうと、運がない人生が目白押し!さらにひどくなります。「不運だ」といいながら、「強運になる」ことはありえないでしょう。「強運スイッチ」はすでに切れています。

また、占いにしても「えっ?そうなの・・・」と簡単に内容を受けいれてしまうと、その占いに自分をあけわたしてしまい、結局支配されてしまうことになりか
ねません。心理学でいう「預言の自己成就」、つまり無意識のうちに占いを成就させるような行動を自ら起こして、「わっ!やっぱりこの占い当たった。スゴイ!」とびっくりします。

しかし!!・・・運というのはもともとカッチりと決まっているわけではないのです。じつは、ほとんどが自分で創るもの。自分の自己責任です。

もちろん、どの時代に生まれるか、男か女か、どんな容姿か、どんな人を両親に育つか、そして生まれながらの性格などなど・・・おおまかな土台、初期設定は存在します。けれど、これは単なるゲームのスタート地点にすぎません。そこからどれだけの変化を自分で創り出してゆけるのか・・・が、このゲームの醍醐味でしょう。ハンデがついたり、ハプニングが続出するスポーツやゲームは人をひきつけます。予想ができないからこそ楽しいのです。でも、ハンデやハプニングが結果をきめてしまうわけではありません。

いっけん「運」「不運」のように見えるもの、それはじつは自分の心が生み出したたんなる出来事にすぎません。いっつもネガティブな考え方をし、怖れや敵対心を抱きながら、ある日カラリと超ハッピーな人生になるなんてありえません。一つ一つの出来事に過剰に反応することなく、ポジティブな目線を持つとか、今を楽しむとか、人も自分も大切にする、明るい希望をもつ・・・そんなささいな積み重ねがじつは大きな違い、「運」につながってゆくように感じます。

つまり、わたしたちは自分の現実を一瞬一瞬選びとっていることに気づいていないのです。時間は連なってゆきます。「今」が「その次」につながり、次の今が創り出されるのです。だから、自らが選んで現実を創り出していることに気づき、意識的にならないかぎり、ほとんどが無意識のうちの過去の繰り返し、同じものが創り出され続けることになりかねません。「現在」に何らかの変化を与えないかぎり、過去と同じものが繰りかえされるだけなのです。

自分にとって何かパターン化した「うまくいかない問題」がある場合、おもしろいことにそれがどんなにひどい現実であっても、あなたの潜在意識はあなたにとって「よかれ」と思って自動的に選び続けていることがあります。それがどんなにひどくて、どんなに悲惨で、どんなにつらくても、けっしてやめない。つまり、心の底では「それが好き♪ 」「ベスト♪ 」「 やめたくな〜い♪」と思っているのです。もし、他のものが本当に好きだったら、とっくにそちらを選んでいることでしょう。ということは、苦しいけどこれをやり続けたほうがよい、という隠れたメリットがあるようです。

自分を痛め続ける悲惨な状況を繰りかえすメリットって・・・いったい何なんでしょう?
(その2へ続く)

10-06-03 つじつまのあわないココロの策略 (@_@) その2

この心の底で思っている「好き♪」「やめたくな〜い♪」が、くせものなのです。

たとえば幼少期、忙しすぎて相手にしてくれない大好きなママ。そのママからた〜くさんの愛情をえる秘策として、「病弱」な自分を創り出したとします。弱ければ弱いほど、心配をかければかけるほど、愛情や好きな食べ物、オモチャ、ほしいものは思いのまま。ある意味、悲惨であればあるほど効果的と心に決めたことでしょう。

この病弱をやめちゃったら愛情は手に入らないと信じているので、健康になんかなってたまるか!、つまり病弱が好き♪やめたくな〜い♪というわけです。そして、大人になっても病弱・ひ弱さんをやり続けます。でも、本人はこの愛情をえるための苦肉の策のことなど、すっかり忘れています。もともと、無意識に行われているので気づくことができません。

そして、大人の世界ではその秘策が自分の首を締めはじめます。なんで自分はこんなに弱くて仕事を休んでばっかり・・・。完全にまわりから遅れをとっているし、クビになっちゃうよ〜と困り果てます。そして、何かがひとつうまくいかないと、すべてがどんどん悪くなる・・・。これは、ことがうまく運ばないと、自分を悲惨にすることによって優しくしてもらおうとするパターン化した行動です。これは、ひどい悪循環。

た〜くさんの愛情をえるために・・・こどものときはこれでうまくいったかもしれません。が、今や、やり続ける必要はないということに気づきません。愛情をえるには、他にも方法があるのです。しかし、そこに気づけない。その昔うまくいってしまったことは握りしめてやめられないというわけです。明らかに苦しくなってゆくというのに、やめようとしないのです。

このこどものときに役立っていたプログラミングは今なお働き続け、しかしそのカラクリはとっくに忘れさられています。いったん役に立つと思い込んだでしまったら最期、ちゃんとそれに気づいてリセットするまではそのプログラミングは生き続けて効果を発揮しているのです。これが、意にそぐわないこと、自分が困ることが人生に起き続ける原因となります。

過去、自分をハッピーにするために心に決めたことによって、現在の自分の首をしめてしまうわたしたち。状況がどんどん苦しくなってゆくようなときは要注意。間違った道を驀進していることに気がつかなければなりません。「どんどん悪くなってゆく・・・。これってパターン化してない?」と気づくことこそ、方向転換のためのシグナルです。

そんな役に立たないパターンをさがすために、A子さんにこんな質問をしてみます。
「そんなことはないと思いますけど。もしも、もしも・・・ですよ、意識的にダメな相手を選んじゃっているとしたら、なぜなんでしょうね〜?」とわたし。
「えっ?意識的にえらぶ・・・?・・・? そんなはずありません」とA子さん。
「でも・・・もし、仮にそうだとしたら?」
「(長い沈黙)・・・ああっ!!・・・」と、何かに気がついた様子のA子さん。

(その3に続く)

10-06-08 つじつまのあわないココロの策略 (@_@) その3

ハタと気づいたA子さんいわく・・・、
「自分が”ぞっこんになってしまう”のがコワイ・・・のかもしれません」と。

「ぞっこんになると、どうなっちゃうの?」とわたし。
「相手にふりまわされちゃう・・・自由がなくなっちゃう・・・・自分自身や自分の人生がなくなっちゃうみたいな」とA子さん。

さらに尋ねてゆきます。

「それに、わたし、コントロールされたくないし・・・・パワーを奪われるのもいやだし・・・」、ああだし、こうだし、そうだし・・・・と会話は続き。

たくさんの信念を掘り出したあと、突如何かひらめいた様子のA子さん。

いきなり、わっと涙しながらひとこと。
「(涙)・・・わたし・・・わたし・・・一人ぼっちになりたくないんです。一人ぽっちにならないために、そのために、ぜったい一人でいなくちゃいけないんです!」

え?一人にならないために、ぜったい一人でいる・・・?ってどういうことでしょう?意味的には矛盾しています。

「誰かとうまくいっちゃいけないんです」とA子さん。

つまり一人ぼっちがコワくて仕方がない。だから、誰かを好きになって、その人がいなくなってしまうショックにはとうてい耐えられない。だったら、いっそのこと最初から一人ぽっちでいれば、安心だし安全だ。傷つかない。自分を守ってあげることができる。好きな人に出会ってしまうと、最終的にはひとりになってしまうリスクがある。だから、自分が好きになってしまう人とは出会わないようにしなければ・・・と、A子さんの潜在意識はかたくなに信じていたのです。そして、それにそった現実を創り出していたのですね。

これには本人さえもびっくりでした。だって、だれが聞いたって、本末転倒。「ひとりにならないために、ひとりでいる」なんて。結局は一人じゃないの??と。

これは、エゴの苦肉の策。はたからみるとこの策略、まったく筋が通っていません。目的にそぐわないトンチンカンな努力なわけです。でも、心ではこれが正しい方法だ!と信じてやっているわけです。ときおり、わたしたちの心(エゴ)は、こんなわけのわからないことを力いっぱいやって、それにエネルギーのすべてを費やしています。だから、本当にやらなくちゃならないこと、やりたいことまで手がまわらないのです。でも、これもすべて自分を幸せにできると信じでやっているのですよね。(けなげ・・・といえば、けなげです。)

ほんとうの信念が見つかったときには、その信念を創った痛みともヒットするので涙がボロボロ出てきたりします。同時に、あきれた信念を見つけた喜びで、泣きながら大声をあげて笑うA子さん。

無意識は意識にのぼらせることによって、消し去ることができます。また、信念というエネルギーとして解放してあげることができます。この「一人ぽっち信念」は消去して、「わたしは、つながる喜びを感じている」というものに置き換えました。

わたしたちは気をつけなければなりません。人間には馴化という、どんな状況にも慣れてしまうスゴイ力があります。幸せでないはずなのに、知らず知らずのうちにそれに慣れてしまうのです。でも、わたしたちは、もともとよい方向に進化して行くようにできているのです。日本人は「耐える」ことが美徳だったりしますが、自分の中のツライ、カナシイ、ミジメ、なんかおかしい感覚には敏感になって、ちゃんと自分を保護してあげましょう。

さてさて、A子さんの恋愛運はこれからどうなることやら?楽しみですね〜!!頭で理解する程度のことでは人生に変化を創り出すのはむずかしかったりしますが、潜在意識が握りしめていたパターンをはずしてあげるとそれが現実に投影されて、環境や体験、または自分の考え方の変化として現れてきます。A子さんいわく、「なんだか、もう大丈夫な気がします!」と心強い返答。心のいらないゴミを捨てると、今まで信じられなかったことに対して簡単に確信が持てるようになります。

それにしても、わたしたちのココロのしくみっておもしろい。つじつまさえあっていないけれど、それでも必死に自分を守ろうとしているけなげさには感心します。でも、そのけなげさこそもっと正しい方向に向け直したら、さぞパワフルな現実を創れることでしょうね♪ Good Luck、A子さん♪その後のご報告、まっていま〜す。

10-07-04 ”しあわせ”でいる方法って?

セッションを終了したB子さんからのご質問。「今はとってもいい気分。手っ取り早く、しあわせをキープし続ける方法って何でしょうか?」と。

「手っ取り早くしあわせでいる方法ね〜」・・・。とっさに答えたのがこんな方法。(「とっさ」は思考が働くひまがないので、けっこう深かったりします。)

まず、「しあわせ」っていう言葉じたいが、青い鳥のようなもの。「王子さまとお姫さまは生涯しあわせに暮らしましたとさ・・・」という物語で教育されると、「しあわせ」は一回手にしたら永続的なものだと勘違いしてしまいます。でも、たいていの「しあわせ」感って、一瞬キラリとやってきては去ってゆくもの。(もちろん、その下に脈々と流れる静かなしあわせ感はありますが)。

ずっと、ちゃんと、完璧にしあわせでいなければと思ってしまうと、「しあわせ」感は感じにくくなります。「しあわせ」の中身って・・・たとえば、心楽しい
感じ、嬉しい感じ、愛しい感じ、ありがたい感じ、誇らしい感じ、希望が持てる感じ・・・といろいろな感情があり、それらはすべてあるときやってきては去ってゆくもの。(去って行ってもじつは、ちゃんと心に蓄積されているのですが。)ですので、まず、「しあわせ」という単語よりもこれらの小さな感情をたくさん体験できるようにしてあげることが大切ですね。

Winkその1 比較をやめる。ぜんぶ、「これでい〜のだ!」
苦しみのほとんどは、他と比較することから生まれます。比較から優劣がうまれ、優があるからこそ劣がやってくる、という果てしないUP DOWN ゲームに巻き込まれます。自分の体験、自分の持ち物、自分の容姿・・・そうなんだから、それでいいじゃないですか。
あと、現状に対して、「ま、いっか!」を口グセにするのもおススメです。そのぐらいユルく構えましょう。

Laughingその2 「今」を好きになる
今がイヤだから、いつか幸せになる・・・。といっても、いつまでたっても、どこまでいっても、自分が直面しているのは不思議に「今」ばかり。人生は「今」の連続。「いつか」は幻想なのです。
自分がいる場所がいつだって「今」なのだったら、「今」、たった「今」、ちょっと口角を上げて微笑んで、とりあえず生きてるし、とりあえず笑えるし、悪くないんじゃない?幸せだわ♪と言ってしまいましょう。

Surprisedその3 一日にいち感動以上
「感動するようなことなんてありませ〜ん」と言わないでくださいね。たとえば、昨日のわたし。「お散歩中、おもわぬところからクチナシのいい香り!ああ、シアワセ」「雨の日割引で、クスリ屋さんで1000円ゲット、ありがたいな〜!」などなど。いろいろびっくりできるし、喜べる、感謝できる、エキサイトできる、愛しく感じる・・・これ、心をフレッシュに保つ秘訣です。やって来ては去って行く、こんな日々のプラス感情をいつくしみましょう。
また、たまには、感動ものDVDで爆泣きもおススメ。

Tongue outその4 自分に正直に
自分の最期がやってきたとき、いったい人は何を後悔するのでしょうか?・・・それは、自分に正直でなかったこと。自分が本当にしたいことを自分にさせなかった、自分が本当に言いたかったことを伝えなかった・・・など自分に対して不正直であったこと。
だから、日頃から小さなことで自分に正直になる習慣をつけましょう。スーパーでヨーグルトを買う、カフェでスウィーツをオーダーする・・・こんなささいなことでも、体脂肪やら、ダイエットを考えてばかりいるのではなくて、自分の気持ちを聞いてあげる練習をしましょう。小さなことができるようになると、イザというときに自分の気持ちに正直である習慣がつくでしょう。

Laughingその5 人と自分が喜ぶことをする
自分のことばかり年がら年中考えていると、どんどん自分がちっちゃくなってカチカチに萎縮してしまいます。一方、人を気遣うと、エネルギーがまわりに放射されて、その思いやりの波動に引寄せられて楽しいこと、嬉しいこと、ラッキーなことがやってくるのです。エネルギーは外へ外へ。そして、まわりに自分を与えるとき、その贈りものと引きかえに、きっとあなたの欲しいものがやってきます。キリスト教では、そっといいことをすることを「天に宝を積む」といいます。この宝の量が、「運」でもあるのですね。
そして、自分を意図的に忘れ、まわりや他人に注意を注ぐこと、これは心地よく健康な毎日を送る秘訣でもあるのです。

10-07-13 感情の洗面器になっていませんか? その1

あなたの近しい人が超不機嫌なとき、あなたはどうしますか?そりゃ、たま〜にだったら相手をしてあげるけど、コンスタントに不満やグチ、文句たらたらな人はいただけません。

そんなとき、
・黙って聞く(そうしなければならないと思っている、あるいはヨイ人でありたいと思っている)
・さっさと逃げ出す、あるいは聞くふりをして聞いちゃいない
・相手にどうして欲しいのか聞く

たいてい、ちゃんと聞いてあげるのがよきパートナーや友の証だと思っていたりします。わたしも以前はそうでした。無防備に全部聞いていたのです。すると、だんだんそれがエスカレートして次から次へと吐き出される。まるでわたしは、具合の悪い人に洗面器をさし出している人のよう。きゃ〜ん!キミはさぞすっきりしただろうが、その後わたしはこれをどうすりゃいのだ!?・・・ってことに。誰かの感情の洗面器になってしまうことはよくあることではないでしょうか?

注意したいのは、感情はSARSやノロウィルスなみの感染力あり。不機嫌さやイライラが発せられるやいなや、それはあっというまにまわりの人の気分を汚染して、その広がりは津波のよう。(キケン警報を発令しなくっちゃ)

もし、自分がハッピーでいたいと思うなら、わたしたちは病原菌から身を守るようにこの無防備にまき散らさせるイライラやら不機嫌菌からも身を守らなければなりません。無防備でいてはいけないのです。とくに、近しい人に対しては。なにしろ、汚染はすこしづつ忍びより、気がついたらすっかりアンハッピーなわたしになっているかもしれません。

そもそも、感情は相手が好きで感じているものであって、その責任を誰かがとってあげる必要はないし、ましてや同じように感じてあげる義務もないわけです。同じように感じてあげても、「最悪な人」がもう一人増えて感染力がアップするだけです。それに、感情をまき散らす人は環境汚染そのもの。このエコな世の中、自分の感情の処理だってちゃんとできなければならないのです。

さて、イライラ、ブツブツ、プリプリ、タラタラなネガティブ人間にはどう対処しましょう?

わたしの場合は、相手がめちゃくちゃ機嫌が悪くて感情を垂れ流しているな、と感じたら、すかさず尋ねます。
・ただ、黙って聞き役になってほしいのか?
・やさしくなぐさめてほしいのか?
・解決策を一緒に考えてほしいのか?
・ただ、あたりちらしたいのか?

黙って聞く場合には、「じゃあ、三分でめいっぱい怒りや不快感を出し切って!全力でね。三分たったらおしまい!」と手短かに盛り上げちゃいます。長々やるよりも、一気に解消するのが効果的。もし、あたりちらしたいのであれば、人間相手はご遠慮いただいて、サンドバッグとか、枕とか、モノにあたっていただきましょう。

この選択肢は結構効果的です。なかには、感情は人にぶつけてあたりまえと思っている方もいらっしゃるので、その場合は教育も必要になってきます。「感情は、そもそも本人が感じているのだから、その本人の責任であること。だから、たれ流しは公害なのです」「そして、機嫌が悪いとき、上に書いた選択肢の中から人に助けを求めることができる」ということ。つまり、しばし聞いてくださいとか、傷ついています、なぐさめてください、とか。「まき散らしてあたりまえ」と思っているとしたら、それは大きな間違いです。

そこで、上手なグチり方も学ばなければなりません。上手なグチり方とは・・・?
(その2へ続く)

PS 本日は柿の木坂「Quatre(キャトル)
で書いていま〜す。静かなのでMy書斎です。ここのスウィーツはおいしいけど、応対してくれるおねえさん、そしてアイスティーのグラスが華奢すぎることがイマイチなのです。が・・・きょうは、なんと極上の笑顔のおねえさん &アイスティーも大ぶりなしっかりしたグラスにたっぷりでした。(^_-)-☆ ノドの痛いのをいたわって、きょうはクレームキャラメル♪

10-08-01 ”喰われた”ら最期!ご注意を?!

先日、セミナーにご参加になったCさんから、ご質問をいただきました。
「夏にピッタリ怪談話よりも怖いかも??しれない質問が有ります。それは・・前回セミナーで、その対象にこだわっていると「喰われる」という表現をされていました。その際に、喰われるというのは、まだ相手の方の魂が悪戦苦闘されている、もしくはいつも愚痴を言ったり、と超ネガネガなその相手の存在から自分のエネルギーを喰われるという理解でよろしいでしょうか?」

はい、確かに。わたしは、セミナーやセッションの中で、「喰われる」という表現を使うときが多々あります。「物事に執着したり、抵抗すると、喰われるので気をつけてくださいね」というように。それは、べつにホラーな意味合いではないのですが(笑・夏だからホラーのほうがいい?)。

もちろん、Cさんの解釈も正しいものがあるのですが、この場合はこんな感じです。

日々、わたしたちの目のまえにはさまざまなことが繰り広げられます。楽しい出来事もあれば、金輪際体験したくないようなつらい出来事もあります。しかしそのいずれもが、そこにとどまり続けることはできません。「すべては流れてゆく」 ・・・それがこの世のならわし。そしてまた、流れさせてあげなければなりません。流れれば次の体験、学び、成長がやってくるのです。

しかし、ときにわたしたちは、その流れをせき止めてしまうことがあります。

それは、わたしたちがある特定の出来事に過度に反応してしまう場合に起ります。たとえば、恋人に突如別れを告げられた女性がいたとします。もちろん、誰でも落ち込みます。そして、別れの原因は、たいてい双方に同じだけあるものです。でも、いつまでたってもクヨクヨジメジメ執着から抜け出せない場合。「なんで彼は別れるなんて言ったのかしら?ひどすぎる。わたしの何がいけないっていうの?そもそも、わたしってまったく価値がないのかも。そういえば、昔の彼にもひどいことを言われたことがあった。やっぱりわたしなんて、誰も愛してくれない。親がちゃんと育ててくれなかったから。どうせ、一生誰にも相手にされないわ。・・・」

というように、「二人の関係はうまくゆかなかった」という事実を受け止めることをせず、結果に激しく抵抗します。過度に反応するあまり、ネガティブさがどんどん肥大化していくのです。それは、今起っていることにとどまらずに、過去の同じような痛みをひっぱりだし、はたまた幼少期の体験にまで及び、思考はどんどんネガティブ化し、悲惨な感情は雪だるま式に大きくなってゆきます。

これが、ものごとに「喰われてしまった」状態です。流れてゆくはずのものが、べったりと膠着状態。まるでアロンアルファでくっついたようです。それもそのはず、注意を注げば注ぐほど、体験に抵抗すればするほど、それは大きくなってそこに居すわり続けます。そして、事実とはかけ離れて大げさになったドラマの中に、ついに取り込まれ、どっぷりその気持ちにつかり身動きができなくなります。受け止めるべき事実は、「ただ二人はうまくいかなかった」・・・それだけなのに、自分がふくらました妄想の中に取り込まれてしまっているのです。

例えば、ドラゴンを退治するにしても、喰われてしまったらもともこもないわけです。退治するためには、ドラゴンの外側にいなくちゃいけない。食べられちゃったら、ドラゴンに吸収されて、しまいには一体化するしかないのですね。

思い出してください、すべての出来事は、”ほっておけば”通り過ぎてゆくのです。それは、目の前を行き過ぎる雲のかけらのように、ただ右から左に流してあげれば過ぎ去るもの。しかし、それに抵抗するやいなや、わたしたちは雲の中に突入して、視界を奪われどこにいるのかもわからなくなってしまいます。気がついたら、にっちもさっちもいかない問題のさなかにいることでしょう。そして、ただちょっと通過するはずだったアンハッピーといつのまにか一体かしているのです。つまり、「アンハッピーそのものなわたし」になっているのです。

行き過ぎる雲をスルスル通過させるためには、「価値判断」をしないこと。特に、ネガティブな反応をしないことです。もともと、ものごとはそうあるだけでなので、そのまま流してあげましょう。「ぎゃ〜、いやだわ!こんなことが起るなんて許せない。あいつのせいにきまってる。こんなことがあっていいはずがない」・・・な〜んて、バリバリに抵抗すると、不穏な雲の中にあっという間に吸い込まれてしまいます。そうしたら、あたり一面、真っ暗で「信じられない」ことだらけ。

そうはならないように、何がやってきても、「あら〜、こんな雲がやってきたわ。おもしろいね。・・・でも、ま、いっか。さっさと、行っちゃってね〜。バイバ〜イ!」と流れさせてあげてください。すると、遅かれ早かれ、注意をひけなかった雲はただ流れていなくなるしかないのです。

雲を流すのが上手になると、青空が澄みわたってきます。つまり、気分が明るく、こだわりなく、クリアになる、ということ。そうすると、地上にも影のない世界が見えてくるようですよ〜。楽しみですね。

10-08-05 Just let them go!

きょうも暑〜いけど、空が青いです。

街路樹がぴゅ〜ぴゅ〜風になびいて、そのむこうで雲がつぎつぎに流されてゆきます。

そう、この白い雲のようにすべてのものごとはやってきてはどんどん通り過ぎてゆくもの。そして、わたしたちの頭の中に浮かぶあれこれも、浮かんでは消えて行くもの。

わたしたちは、ただ青い空のごとく、そこにいて静かにそれを見守ってあげるだけでいいのですよね。文句を言うことなく、ジタバタすることなく、またしがみつくこともなく・・・。

空はもともと澄み渡っているのだから。すべてを流れさせてあげましょう。

10-08-13 街角の天使さんたち

日々の暮らしで、ふ・・・と人の優しさにふれて、それがず〜と心の片すみに灯をともし続けるような体験になることがあります。ほんのささいな心のなごむ親切から、ほんとうに救われた!と手をあわせたくなるような出来事まで。そんなとき、日常の中に姿をあらわした天使の存在を感じるのです。

私の場合は、海外であたふたしているときほど天使との出会いが多いよう。それはささいなことから、とても大きな救助といえることまで。そんな天使たちを数名ご紹介しましょう。

まず、ちっちゃな灯りをともしてくれた天使さん。

フロリダでお土産ショッピングをしてたときのこと。

支払いの段になってドルが足りないのです。それも数ドル。お財布やらカバンのあちこちをひっくりかえして、どこかに余分なドルが隠れていないかあたふたしていると・・・・ふっと後ろから静かにさし出された数ドル札。

見るとそこにはオジサンが立っていて、「数ドル?あるある、大丈夫!」という表情で無言のままごく自然に払ってくれたのでした。もうその場限りで会うこともないのに、オジサンは「よかったね。買い物ができて」というように微笑んでいました。

相手にまったく罪悪感や申し訳なさを感じさせないで受けとらせてしまうオジサンのテクニック(というか、雰囲気)、すごいな〜と感じましたよ。フロリダのオジサン天使さん、ありがとう!わたしもこんな場面があったら、ごく自然に楽しく与えられる人になりたいな〜と感じさせてくれた体験でした。

そして、もうひとつアメリカから。それは、サンフランシスコに朝早く到着したときのこと。

じつは、成田の出国ゲートを出たときから、自分が現金を持ってこなかったことに気づいていたのです。(代官山では、よくお財布を持たないで買い物に出かけますが・・・あは)。一人旅、頼る友もなし。で、「スミマセ〜ン!ATMに行きたいので、ロビーに出させて」と係官にお願いしたら、何をバカなことを・・・、もうキミは出国してるんだ!という目で見られましたよ。

しょうがなしなし、文無しでサンフランシスコ行きの便に搭乗。でも落ち着かないったら。ちょっとそこまでのお散歩じゃあるまいし・・・。そして、早朝のサンフランシスコに到着。やっぱり誰もいないし、ATMもクローズ。ここからすみやかに長距離バスに乗らなければならないし、降りたらタクシーも必要。

でもね、いったいどうやって文無しでバスに乗せてもらったのか、今や記憶が定かではありません。そのうえ、バスの運転手さんがちゃんとホテルに連絡をとってくれて、わたしが降りたターミナルにバンをまわしてくれたのです。

それが、ケッサク!ホテルのバンでお迎えに現れた女性は、まさに天使だったのです。真っ白の丈の長いつやつやのローブ、背中には大きな羽、頭の上には輪っかがふわふわ。つまり、天使コスチューム。わお!ホントに天使が助けに来ちゃった。これは困りはてたすえの幻覚ではありません。じつは、その日はハロウィーンだったのです。でもね、文無しのわたしが東京からオレンジカウンティまで無事に届けられたということは、やっぱり天使さんのしわざとしか言いようがありません。しっかりと守られていたのを今さらながら感じます。

PS その後、スーパーに買い物に行ったのですが、レジを待つ列の前も後ろもキャットウーマンだったりドラキュラだったり・・・。そんなアブナイ衣装の彼らに「なぜ、あなたは何もしていないのか?」と聞かれ、逆に恥ずかしさを感じたのを思い出します。

次回Part2では、かなり危機的な場面での天使さんの出現をご紹介いたしましょう。

10-08-15 街角の天使さんたち その2

海外を旅していると、たまに危機的な状況に出くわすことがあります。もちろん自力で脱出したこともありますが、そのときこそ見えない天使さんが守っくれていたのでしょう。

さて、こちらは危機的状況+地元の女の子天使さんのお話しです。

旅をするときは、お気に入りと未踏の地を組み合わせてお出かけします。そのときの未踏の地はブルガリア。でも、どこか気分がのらなかったのですよね・・・・すると、こんなことが。

はじめての土地は勝手がわかりません。到着早々、市街地行きのバスの切符を購入したら、いきなりお金をごまかされ慌てて取り返すという、ハナから緊張をしいられる展開。そして、発車しようとするバスに大きなスーツケースとともに飛び乗って・・・やれやれ・・・と一服していると・・・。

大柄の強面オトコがやってきて言うのです。「お前は違反している。罰金として一万円払え!」と。「なんじゃ?このオッサンは?」と思ったら、どうやらバスの車掌なのです。乗車したときにチケットを取り忘れている・・・と。あらら?わたしの前のアメリカ人のお兄さんたちだって取ってないと思うよ〜。世界の果てからやってきた女の子だと思ってバカにしてるんじゃないの〜?こんな不条理な要求、断固として応じません。だって、あとにやってくる日本人がまた標的にされてしまいますもの。(そのむかし、不条理なレストランから全力疾走で逃げて、つかまえられてしまったこともありましたっけ・・・汗。まだ、ちゃんと生きています。)

「一万円払え!」「ヤダ!」ともめているうちに、ついにバスを途中で降ろされてしまうことに。こうなったらオジサンを警察にひっぱって行くしかない・・・と思っていたら、なんとオジサンいわく「おまえを警察につきだす」と。「なんですってぇ〜?!」それはワタシのせりふでしょ?!

なおも、「払え!」「払わない!」が続いているときに、後ろからブルガリア人の女の子、二十代後半ぐらいでしょうか、がわって入ってきました。あ・・・この女の子、さっきまでバスに乗っていた子。そして、いきなりブルガリア語でオジサンと口論をはじめたのです。

つまり、からまれているのを見て、一緒にバスを降りてきたのです。そして、この華奢なうら若き女の子はオジサンを口でねじふせ、あのしつこいオジサンはしぶしぶ去ってゆきました。

わたしはあっけにとられるばかり・・・。彼女いわく、車掌も警官もみんなグルだから、と。この国ではまだこういうことが行われいるのだと。そして、彼女はすぐさまタクシーを止めてホテルまで送りとどけてくれたのです。

若いのに、なんというたくましさ、なんという気配り。タクシーの中での短い会話で、彼女は政府の教育庁のようなところで働いているのがわかりました。この国では教育のあるエリート層。フェアじゃないことには、フェアじゃないと言えるセンスの持ち主だったのです。あっというまにホテルに着いてお別れになってしまったのですが、連絡先と名前を聞かなかっことが悔やまれます(それだけ、こっちもテンパっていたのでしょう)。

彼女が登場しなかったら、警察もあてにならず、あの先しつこいオジサンに何をされていたか。彼女も道を急いでいただろうに、もめごとを見るや、一緒にその場に降りてしまう勇気には脱帽しました。彼女は自分の国を愛していて、そこを旅する人にいやな思いをしてほしくなかったのでしょう。

こんないろいろな体験で、わたしも人のトラブルに敏感になりました。けれど、総じて今の日本人は知らない人に無関心すぎる感じがします。彼女の存在はわたしにとっても大きな贈り物であり、その後のわたしの人生に役立つレッスンとなりました。ブルガリアン天使さん、ありがとう。

こんな危機的な場面でなくても、ちょっとした親切がずっと心に残っていることもあります。たとえば、スイスのチューリッヒでのトラム。

このトラムは停車しているときに外側から乗車する人がボタンを押して、自分でドアを開いて乗るようになっています。

道の向こうに停車しているトラムに乗りたいのに、信号で足止めをくってしまいました。今にも発車しそうなトラムめがけて疾走していたら、それに気がついた地元の男性がトラムの横を通りかかるついでに何気なくドアボタンを押しておいてくれたのです。おかげで扉が再び開いたため停車時間が長くなり、無事そのトラムに乗ることができました。男性はそのまま何ごともなかったように去ってゆきました。

ちっちゃな親切だけれど、こんな気遣い、ヨーロッパではよく出会いました。

助け船を出してくれた天使さんたちは、助けたとさえ思っていないのですよね、きっと。でも、助けられた人は一生忘れません。ときには、助けられた人の人生そのものが変わってしまうこともあります。

もしかすると、あなたがして、もう忘れちゃってるちっちゃな親切も誰かの心にずっと灯をともしているかもしれません。

10-08-20 ”あなたのためだから”・・・の甘いワナ

TVコマーシャルにこんなのがありました。

スウィーツを食べようとしている女の子に友人たちが、
「たしか、ダイエット中だよね?」と声をかけます。
「じゃ、甘いものはよくないね。食べてあげる!」といって取り上げるのです。

そのときのひとことが・・・「あなたのためだから」。

「あなたのためだから・・・」って言われると、なんだか「気遣ってもらっている」ような、「大切にされている」ような、そんな錯覚に陥ります。が、そこはかとなく相手のエゴが感じられる言葉でもあります。

これと似ているのが、「あなたのことが心配なのよ」。心配だから・・・「それはやめてくれ」「わたしの言うことを聞いてくれ」と。「心配だ」という言葉に人は弱いものです。小さい頃から「人に心配をかけるのはよくないことだ」と教えこまれ、この言葉を聞くなりスンナリ相手の要求を受け入れてしまったりします。そして、「ああ、気にかけてもらっているんだ。大切な存在なんだ」とちょっと嬉しくなったり、おもいやってくれる相手に感謝する場合もあるでしょう。

しかし、ほんとうに「あなた」、つまり相手のことが心配なのでしょうか?

否!これはつきつめれば、こういうことです。「あなたが好きなようにふるまうと、わたしの心が乱されたり、パワーを奪われるの。そんなことは耐えられないから、勝手なことをするのはやめてちょうだい」という、相手への気遣いどころか、自分自身を気遣った言葉なのです。わたしが不快に感じることを人はすべきではない、ということを遠回しに表現したわけです。

「心配」という言葉をくっつけると、相手をコントロールしやすくなります。戦ったり、支配的な顔を見せることなく、「良い人」「やさしい人」として、まんまと思いどおりにコトをすすめてゆくことができるのです。もっとも、「心配」という言葉を使っている本人も、それが「心配」などではなく「コントロール」だと気づいていない場合も多々あります。自分を守るために無意識のうちに使っているのですね。

子供のときには、このひとことにのせられて、自分の自主性を捨て去り、親の鋳型にまんまと納まってしまう子供も多々みかけます。子供は、相手のコントロールをすでに見破っている場合もあります(子供は鋭いです)。それでも好きなお母さんを嫌な気分にさせたくない、嫌われたくない、という一心で我慢しちゃったりします。すでに顔色をみる習慣がついているわけです。不条理だけど、愛されるためにこの言葉を受け入れるのです。

これは、夫婦間で相手を意のままにしたいときにも使われます。直球で何かお願いして無下に断られよりも、心配の仮面をつけて、うまくコントロールしちゃうという方法。つまり、先ほども書いたように「なにごとも自分の思い通りになってあたりまえ」という考えがその人の根底にあり、自分の満足のためには相手を都合のいいように扱ってもよいのだ、と感じているのです。

「ふ〜ん・・・そういう人もいるのか・・・」とひとごとのように読んでいるあなた。もしかするとご自分でも気づかずにちゃっかり相手をコントロールする癖がついているかもしれません。

ご自分のコントロールの度合いを調べるには、日常の中で「すべてのことにサレンダーする」というチャレンジをしてみてください。サレンダー、つまり「身を任せる」こと。やってくるもの(人や物事、出来事)に対して、すべてにOKを出す、受け入れる、身を委ねる。そのときに、意見したくなったり、抵抗したくなったり、逃げ出したくなったり、戦いたくなる自分を観察します。本来だったら、この場面こそコントロールが顔を出しているときです。いったいどんな場面にあなたのコントロールは顔を出すのでしょう?

これはとっても受け身的な生き方に見えますが、やってみると案外ご利益が多いことに気がつきます。簡単に欲しいものが手に入ったり、起ってほしいことがスムーズに起ったり、相手が思うとおりに動いたりします。ということは、わたしたちはどれだけ「しなくてよい抵抗を日常的に繰りかえしているのか」「ムダな努力をして戦っているのか」ということです。すごいエネルギーのムダづかい。自分の人生がうまくゆかない・・・あらら、気がついたら邪魔をしていたのは自分だったの〜!?ということになります。

ほんとうは力を抜いてゆるゆる生きていると、天がちゃんと必要なところに導いて行ってくれるようです。ヘタに手をだすよりも、大きな流れに身をまかせる。信頼する。つまり「エゴ」「我」を捨てなさいということですね。川の中をスルスル流れて行く感じ。

「あなたのため」とか「あなたのことが心配だから」を使いたくなったとき、自分はいったい何を避けたいと思っているのか、何を守りたいと思っているのか、何を怖がっているのか・・・自分の心をのぞいてみると、大きな力(流れ)と自分との関係を改善することができます。そうすると、まわりの大切な人をコントロールすることなく、尊重しながらお互いに心地よい関係を築いてゆくことができるようになることでしょう。そして、なによりも自分の行く手を阻むこともなくなるのですね。その後にご自分の人生に何がやってくるのかを見てみませんか?

10-09-19 愛するがゆえ、ココロは世襲制

  

 

きょうのセッションは、午前は13歳の娘さん、午後はそのお母さま。

そういえば、今までの最年少さん心理セラピーはいくつだったかな〜?と思い出してみました。その昔に小学生さんがいらっしゃいましたっけ。言葉を使うセラピーの場合、自分の気持ちや希望が自分の言葉で語れることが必要です。すると、やっぱりこのぐらいのおトシだとやりやすくなります。

娘さんにはなるべくわかりやすく、言葉を噛み砕いて、時間をかけて、新しいものの見方を伝授し、思いグセの修正をします。しかし、どこまで伝わったかな〜・・・。いえいえ、心配には及びません。お子さんの方がよっぽど大人よりも吸収がよいのです。わたしの話しを言葉ではなくエネルギーで解釈しているようで、すんなり心の深い部分におちて結果をつくりだしてしまいます。頭の理解を飛び越えて、エネルギーで悟る・・・これって次世代の学び方ですね。

きょうのセッションでおもしろいな〜と思ったことは、娘さんとお母さまと別々の時間枠でセッションをしているにもかかわらず、深い意識(潜在意識)のなかにある「人生を邪魔している信念」がお二人ともまったく同じだったということ。

娘さんとやりとりして見つけた信念は、「困っている人を助けたいけれど、助けられない非力な自分」と「世の中はコワイところ」というもの。お母さまは娘さんが日頃「怖がり」さんであることを心配してセッションをすすめたのですが、この「怖がり」さん、なんと、じつはお母さま本人だったわけです。娘さんはお母さまの信念と同化していたのです。愛しているがゆえに無意識のうちにお母さまと同調したのです。(わたしたちは愛するがゆえに、愛するものと同じになってもっと愛を得ようとします。また、相手に対して嫌悪や憎しみがある場合も、同じものになってどんな感じかするかを理解しようとするのです,親父の浮気を責めていた息子は同様に浮気をし無意識のうちに父親を理解し許そうとするのです。もちろん、よい場合も悪いばあいも無意識で行われます。)

このご家族では、おばあちゃんもきっと同じ信念をもった「怖がり」さんだったに違いありません。そして、そのまたおばあちゃんも・・・(どこまでさかのぼれるの?)。このように、物の見方、人生のとらえ方など、その人と一体化しているスタンダードな考え方って、世襲制なのですよね。ずっと、その家系に引き継がれてゆくのです。

でも、おもしろいもので、一人でもその考え方を手放して癒されると、一族郎党(もう亡くなっている方も含めて)全員が癒されてしまいます。これは、毎回のセッションで驚かされる部分です。セラピーで奥さまが役に立たない信念を捨て去ると、そのだんなさまの態度がより柔和に変わり、子どもも自信を持ち、また気まずくなっていた実家からとてもやさしくされたり、職場でも突然優遇され、現在つながりのある人たちとの間でいろいろな変化が起るのを目の当たりにしてきました。

それもそうですよね。わたしたちはみんな潜在意識でも、そしてエネルギー的にもつながっているのです。もともとひとつのエネルギー体なのですものね。

さてさて、お二人ともこのような「怖がり」さん信念を持っていたら、もれなく世の中とてもアブナイところになるし、コワイ体験に悩まされ続けてしまいます。でもお二人まとめてそれを処理したってことは、先祖にさかのぼってまわりへの恩恵も大きいことでしょうね〜。それに、お二人も肩の荷(いえ、潜在意識の荷)がおりてすっきりしていることでしょう。

そして、これはセラピストへの恩恵でもあるのです。クライアントさんが癒されるとセラピストもどこかの部分でちゃっかり癒されちゃっているようです・・・ふっふっふ。いわば、おいしいお仕事です。ごちそうさま・・・♥

10-09-28 過去の感情を生きるわたしたち

お友だちのLちゃんのブログに、最近の「中国漁船衝突事件」についてのコメントがありました。

「日本国政府の対応に、憤りと怒りと脱力感と悲しみと…ありとあらゆる負の感情と思考が脳内に渦巻いたら、脳みそメルトダウン状態になっちゃいました。何だか何も書く気が湧かず、ブログ数日さぼってます…(-_-;  」とLちゃん。ありゃ、どうしちゃったの・・・?

今回のことで嫌悪を感じた方は少なからずいらっしゃると思いますが・・・このコメント、Lちゃんが漁船に体当たりされたか、あるいは石垣島の住民か・・・というリアルな反応ではありませんか。
ふと気づいたわたしは、こんなメールをLちゃんに送りました。

「もしや・・・理不尽で、強行で、勝手で、相手の立場を思いやらない・・・そんな中国の姿勢は、だれかさんに似ていたのですね。今、Lちゃんが味わっている感情は「対中国」ではないようです。で、Lちゃんも無力な女の子になってるのかも」と。

どういうことかというと、彼女いわく、小さい頃から成人するまで父親の身勝手で思いやりのない暴君ぶりに数えきれない涙を流してきたそうな。その当時の傷ついた感情や、憎しみ、嫌悪感が行き場を失い(もちろん相手にぶつけることなどできません)、潜在意識にストックされたまま見すごされてきたわけです。

でも、似たようなエネルギーの出来事にふれると、その潜在意識の中の片鱗が活性化し「自分でもわけのわからない感情」として心や身体を苦しめます。また、自分自身も当時の無力な子供を再体験してしまつことも。これは本人にはあまり自覚されず、目の前のことにまっとうな反応を示しているだけと感じられます。しかし、ハタから見ると、それって過剰反応じゃない?と不思議に感じるものです。

もともと、わたしたちは物ごとを決して「そのまま」でなど見ていないのです(たとえば、ひとつだけ、その人に好みの部分を見つけると、勝手に「理想の人」というレッテルをはって、あとでガッカリするとかね・・・笑)。とくに大きな嫌悪感を感るものごとについては、過去の受け入れられない体験の感情と結びついています。みなさんも日常の中で、ほんのささいなことなのに大騒ぎしたり、怒りまくったり、過剰に反応している人を不思議に思ったことがありませんか?これは、その目の前の出来事ではなく、それと似たようなエネルギーを持った過去のツライ出来事、嫌悪を感じる出来事にリンクして、そちらに反応しているということです。

わたしたちは何かを見ているとき、それを「素」のままで感じることはめったになく、たいていは過去の同じような体験と結びつけて、すみやかにそれを解釈しようとします。たとえば、友人が「すご〜くおいしいチーズケーキだよ!」と持ってきてくれも、「ああ、チーズケーキね。(はい、はい、知ってますよ。何度も食べています。味だってわかってます)」と、頭で味をきめつけて、その日だけの、そのお店だけの、そのチーズケーキ独自がの違いをじっくりと「初体験」することができないのです。

つまり、今回の事件で中国が象徴する横暴で一方的なエネルギーは、Lちゃんを過去のそれを同じようなエネルギーに結びつけて、その当時の感情を丸ごと拒絶反応や身体の反応としてつくりだしたわけです。

Lちゃんいわく、わたしのメールを読んで、ハッとしてから大笑い・・・だったそうです。大笑いしちゃうときは、その指摘がビンゴだったときです。カウンセリングでも、核心にせまった信念が出るといやでもゲラゲラ笑っちゃいます。はたまた、怒り出しちゃうときも、それもまたビンゴ!本当だけど、認めたくないときなのですね。

こういうイヤな感情が出て来たときは、ある意味では、それを癒すよい機会です。なぜなら、ふだんはどこに自分の痛みがあるのか意識できないでいるからです。意識できないものは、手放すことができません。無意識から、いったん意識にのぼらせて「ああ〜、わたしはまだこんな痛みをもっていたのか」「こんな感情があったのか」と確認してあげることでそれを終了することができます。何かにイヤだと反応をはじめたら、いったい自分が何に抵抗しているのかを冷静に見つめてみてください。きっと、何か過去に原因を見つけ出せることでしょう。

先日、わたしもマークシートについてのブログを書きましたが、ほんと知らないうちに過去の抑圧した感情にコントロールされているわたしたち。もともと、ものごとは、わたしたちが意味をくっつけるまでは意味を持ちはしないのです。なるべこものごとに「意味」をつけないで、そのまま、そのまま、「素」で感じて、すべてをはじめての体験として味わいたいものです。すると、もっとかけがえのない「今」「ここ」を新鮮に楽しめることでしょう。

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PS picは、昨日観に行った「ブランダースの光」展(Bunkamura)より。

19末〜20世紀のベルギー絵画です。フランドル絵画は苦手めのわたしですが(だって、どれも見てもみんな同じ・・・汗)、この時代のものはそれぞれ個性がきわだっていて楽しめました。季節や時間が織りなす光が印象的で絵の中に入りこんでしまいます。秋にぴったりですよ。

10-11-07 コミュニケーション不全のときは・・・

ブログに不具合がでてアップできなくなったり、光回線が乱れてパソコンと電話が不通になったり、ついにはわたしの声まで干あがって・・・。

これはあきらかにコミュニケーションに何かが起きている証拠。もちろん、その持ち主であるわたしに。

「何か言いたいのに言葉にしていないことはあるかな〜?」と心に尋ねてみたけれど、とくに思い当たらず。でも、どれも復旧する兆しはなし。

そういえば・・・と思いついたのは・・・、心に思い浮かんだことをそのまま放置していること。行動に移してこそ意味があるのに、思いついただけで満足しちゃったり、すでに行動したような気になって、結局そのまま通りすぎちゃうことって結構多い。

たとえば、お礼の言葉を伝えたいと思っているのにそのまなになっていたり、思いやりを示したいと思っているのにタイミングをのがしたり。

そこで便せんとペンを取り出して、お世話になった方にいくつかのお礼状を書き、最近家族を亡くされた友人にお悔やみの手紙もしたためた。「こうしたらいいな」ということがひらめいても、そのまま通りすぎてしまうことがいかに多いことか。思いやりって、表現しなければなかったも同然。アウトプットしてこそ意味を持つようになるのです。

声の調子が悪くセッションをキャンセルしていたので、「これをしたらいいよね」というひらめきに形を与えることにしました。いろいろとアウトプット。でも、不思議・・・疲れることもなく、かなりの充実感、満足感、安心感、嬉しさ・・・。新たなエネルギーがわたしのなかにインプットされたよう。より満たされちゃった感じです。心と身体のフットワーク軽くすること、大切です。

ブログ問題も解消、光回線も復旧、喉は快方に向かい始めました(風邪と喉の調子にはかな〜り気をつけているのですが、これですからね〜)。

「与えることは受けとること」・・・あたりまえのように知っているはずの言葉が、あらためて実感をともなってお腹におちた感じがします。

与える喜びをありがとう。(^^)


PS スタバにジンジャーフレッドラテが登場しましたね。スパイシーでクリーミーなX'masテイストのドリンクに、ああ冬がやってきた〜と感じます。これ大好きで、X'masが過ぎてメニューが変わっても、シロップが残っていればおねだりして作ってもらっちゃいます。当分はコレ♪

 

10-11-26 たすけて〜!ダメなわたし その1

「今だにこのトシになっても母にガミガミ言われて、どんどん萎縮してしまうんです」(40代女性)
「夫に家事ができない、できないと言われ続け、ダメ人間な自分を責め続けています)(30代女性)

近しい人からの攻撃的な言動は傷つくものです。本人を萎縮させるどころかどんどん追いつめます。どちらの女性も口をそろえて、「いたらない自分がいけないんです」「いくら努力しても満足な自分になれなくって・・・」とうなだれます。

あらら〜・・・。(~.~;

まず問題なのは、わたしたちの身の振り方です。わたしたちはまわりの反応をみながら自分の立ち居振る舞い、あるいはどういう人でいるか、ということを決めてきた、ということです。これは幼少の頃から無意識でやっているのですが、父、母、兄弟などの反応に敏感になりながら自分の立ち位置を決めてゆきます。なので、現在のご自分はこの訓練のたまものであり、家族の中で働いている力学の一部でもあるのです。決して「素」の本来の自分ではなく、そのように感化された自分なのです。

「自分の気持ちを通そうとするとお母さんは嫌な顔をする。不機嫌なお母さんを見るよりは、最初からお母さんの言うことに従ってしまおう」とか、「人より何かがうまくできると嫉妬されて仲間はずれにされる。だったらいっそダメ人間、とろいわたしをやったほうが人は可愛がってくれる」・・・ってな具合に、まわりに安全に適応して愛される自分を無意識に演出してゆきます。

だから「とっても控えめ」な自分だと信じていたけれど、潜在意識の中には「とっても控えめ」にさせられてきた怒りとともに、本来の自分の率直さがためこんだエネルギーによって「暴君」のような危険なエネルギーと化して潜伏していたりします。よく殺人事件があると「あんなにおとなしい人が信じられない」とコメントされたりしますが、そうなんです、本来の自己が、抑圧されてきたがゆえの怒りとともに爆発してしまったわけです。

誰でも無意識のうちに周りの反応をみながら自分を演出することを覚えるわけです。でも、これはまわりに力を明け渡しているので自分は無力に感じるし、またまわりの出方しだいでふりまわされ続けます。

あるところから、注意の転換が必要になるわけです。

自分の注意をまわりをうかがうことに使うのではなく、自分がどう感じているのかに向けてあげること。自分がどのように感じて、どのようにふるまいたいのかを、まわりの反応とは関係なく自分の気持ちを軸に決めてゆくこと。これを身につけないと100人の人から自分に対して違ったコメントを受けとると、ついにはどのように反応してよいのかわからなくなります。そして、自分の気持ちを感じてあげることは、自分を大切にする、自分の感じ方を信頼し、尊重するという自己信頼を育てることでもあるのです。まずは、自分の気持ちを尊重し、自分を中心にそえてあげることが大切なのです。

そしてもうひとつ大切なことは、「人の言動は、その人の勝手だ」ということを知ることも大切です。

誰が何を言おうと(たとえ、それが親であろうと)その人の言葉は、結局その人の「生い立ち(生育環境)」「トラウマ」「劣等感」「独自の価値判断」「その日のご機嫌」などにかかわっているということ。その人の言葉は、その人にしか理解できない(いや、本人も理解していないですね)いろいろな複雑な要素がからみあって発っせられているのです。そしてそれは、なんら「真のわたし」とは関係がないのです。言わば、モロに相手の勝手です。

たとえば、冒頭の「娘にガミガミ言うお母さん」。人はどんな時にガミガミ吠えたいのでしょうか?
(その2に続く)

10-12-02 たすけて〜!ダメなわたし その2

(その1より)

誰かに文句を言いたいとき、攻撃したいとき、そんなときはもれなくその本人が幸せでないときです。文句や攻撃の相手はただの標的にすぎません。

このガミガミ言うお母さんは、娘のことに限らず、自分の人生のあらゆることが自分の思い通りにならない無力感にさいなまれています。ものごとが自分の思い通りにならないときや葛藤があるとき、ひとはそれを持て余します。どっかでガスを抜きたい、さっぱりしたいのです。自分の葛藤を自分の中で昇華する力もなく、また周りに力をかしてもらうというコミュニケーションもとれないので、結局その葛藤はどこかにぶつけられることになります。当たり散らすのに最適な場所・・・、それは都合よく「無力」の呪文をかけた娘なわけです。そして、娘をコントロールすることによって、自分の不安定な人生のコントロール感を取り戻すわけです。

また娘さんの立場からすると、なぜ母はわたしにガミガミ言うのだろう?母はわたしを愛してくれるはずなのに。その母がつらく当たるってことは、自分が愛されるに値しないからに違いない。と、確信し自信喪失します。「ダメなわたし」に対する自己攻撃に入ってしまうのです。

娘さん、違うんですよ〜!これは娘さんが、「母は無条件にわたしを愛してくれる人」という幻想に固執してしまったことが苦しみの原因となります。あるいは、他のおうちのお母さんと比較してしまったこと・・・。わたしたちは「母」=「無条件の愛」「やさしさ」「いたわり」という名札をつけようとします。しかし、「母」もひとりの人間。みんなと同じように心に傷のある人間です。もしかすると、この娘さん以上にガミガミ言われて育てられたので、同じように無意識でガミガミ言うのがあたりまえになっているのかもしれません。そうなると、「母」というラベルよりも、ひとりの「人間」としてどのような人なのかを冷静に観察しなければならないのです。

ああ、この人は自分に自信がないから、すぐにキレちゃうのね。すべてを自分の思い通りにしないとこわくてしかたがないのね。そして、攻撃することによって自分よりも弱いものをつくって、自分が優位に立ちたいのね。・・・と静かに分析してください。そうです。ただ「そういう人」なのです。それを淡々と理解しなければなりません。ゆめゆめ、理想に仕立て上げないようにいたしましょう。

すると、おのずと対処法が見えてきます。「お母さん、その言い方こわく感じるからもう少し静かに話してくれる?」とか、「わたしは自分がよかれと思ってやったけれど、うまくできないことは仕方がないわ」とか、母の理想と実際の娘の現実を冷静に教えてあげます。そして、思い切って距離をおくことも大切です。たとえ母であろうと。自分が傷つくときには、自分で自分を守る姿勢も大切なのです。

わたしたちはパターン化してしまった害のあるコミュニケーションや力関係に、鈍感になったり、いたずらに無力感を感じたりすることがあります。でも、もし自分がいやな思いをしているとしたら、もういちど他人のように離れた目線で冷静に関係のあり方をながめてみることです。もし、友人から相談されたとしたら、「あれ?それってすごくヘンじゃないの?」と気がついてしまうことがよくありますよね。そんなふうに、人から相談されたと思って客観的な目線でふだんの親しい人とのパターン化したコミュニケーションのあり方を見つめなおしてみましょう。

わたしたちは、自分を大切にすることに躊躇しがちですが、まずは自分の心によくよく聞き耳をたててあげること。そして、人は自分とは考えも感じ方も違って当然ということを前提に、自分の心の声をもとにお互いが歩み寄れるところを探ってゆくことも大切です。すると、双方に敗北感や支配された感覚が残らずよいコミュニケーションがとれるようになりますよ。Good Luck!(^-^)ノ

11-01-11 ”29-Dy Giving Challnenge”の気づき

昨年、キャミ・ウォーカー著 「ギフトを贈ると奇跡が起きる」という本を読みました。進行中の多発性硬化症を患うキャミは、身体がどんどん不自由になり仕事をあきらめ、歩くことすらままならず家にこもりっきり。パートナーとの関係も悪化の一途をたどり、お先真っ暗。

彼女は、あるサイキックからすすめられた「29日間ギフトを贈る」というエクササイスにチャレンジしはじめます。心から与える気持ちで行うこと、与えながら毎日日記をつけるとこ、そして一日でもできなかったらふり出しに戻ること、というルールがあります。この本はその29日間に、与えることによって起る彼女の変化の日記なのです。ギフトは友人へのランチだったり、見知らぬ人への親切、はてはホームレスへの食事であったり、言葉や思いやりのことも。彼女は軽い気持ちでこれを始めたものの、数日でみるみる元気に。外出もできるようになり、パートナーとの仲もラブラブ。仕事も再開します。病気に支配される無力な被害者から喜びを創り出すポジティブな創造主へ。

わたしも「与えることと受けとること」というテーマでセミナーをしたこともあり、「与えること」のパワーは重々承知していました。で、ものは試しにこの「29日間のエクササイス」を試みることに。(それを聞いて、「29個、毎日プレゼントがもらえる〜♪」と喜んでいるやからあり!・・・失笑、勘違いしてない?)

これがね〜、29日結構長いです!!中盤、キャミのように夜になっても何も与えていないことに気づき、あわてることも。

こんなシンプルなエクササイスでも、気づくことはたくさんあってびっくりです。自分のパターンがあらわになります。

まず、「与える」というよりはこっそり「むしりとっている」自分に気づきガクゼン・・・・!!(知らなかった・・・。みんなゴメンね〜。)あるいは、与えたように見えても、まだ握りしめていることも。つまり、「それどう?気に入った?使ってくれてる?」と完全に相手に手放していないのです。また、純粋に与えているつもりでも、あんがい隠された意図、つまり何かそれによる見返りを期待していたり、ギム感で与えていたりる場合も(ああ・・・)。

そのうえ、人に何かしてあげたい、プレゼントしたい、と思いつつもついつい先延ばしにしたり実行しなかったりすることも多々発見。(これをすぐに行動に移すことはとても気持ちのいいことです。)そして、あんがい「人が与えてくれるのを待っている」自分がいたり、その期待が叶えられないと勝手に被害者に突入するパターンとか・・・あまり見たくないものにあれこれ遭遇(汗)。

結局、(定説どおり)与えることによってたくさんの恩恵をいただきましたが、なによりも自分の持っている豊かさを形にして与えることで自分が嬉しくなり、その流れるエネルギーによって相手と自分の境目がなくなって「あなたとわたし」がひとつの輪になってゆく、つまり「すべてがひとつ」ということを体験的に知ることができましたよ。

「待ち」をやめて自分から動くことになったり、被害者意識(あんがい、みなさん持ってる意識です)がなくなったり、よいことの出し惜しみをしなくなったり・・・いろいろ変化あり。なによりも、ハッピーになったかな。

じつは、29日はとっくに終わっているのですが、まだゆるゆると続行中。クライアントさんにもオススメして、みなさんいろいろ気づきを得ています。29日コテコテにやるのも実りがありますが、自分に”できる限りで”というモードでも十分だと思います。きっと嬉しい、楽しい気づきと変化があることでしょう♪

PS こちらのキャミのサイト(英語ですが)から29日のチャレンジにサインアップできます。29日を続行中のみなさまのコメントも日々アップされています。

11-01-26 ゆだねる、ということ その1

2012年に向けて、様々なことが加速しているのを感じる今日この頃です。

自己についての洞察もこれまでになく超加速気味で、ひゃ〜!見たくないものオンパレード。こんなアイデンティティと一体化して平気でいたなんて〜!(汗)と今さらながらの赤面もの。しかし、恥やら自己嫌悪に陥っている場合ではなく、気がついたら「さっさと片づけなさいよ」ということです。それに、気づいて片づけないと、ものごとはさらに悪化の一途をたどります。というわけで、新年からいろいろと脱皮をはかっておりますよ〜。脱皮すると決めたら、あれも、それも、これも!と次から次へと問題提起と気づきの連続(ひゃ〜ん!)。そんな状態でもありのままの自分を愛する、ありのままをよしとするという忍耐のレッスンです。(宇宙さん、どうぞお手柔らかに)みなさまの新年のスタートはいかがでしょうか?

さて本日のお題目は、最近私がこれらの気づきの中で取り組んでいる「ゆだねる」ということについて。

私たちは、自分のまわりのあらゆるモノ・ヒト・デキゴトを無意識のうちに徹底的にコントロールしようと試みています。なぜなら、「この世はコワイところ」だし、「やってくる出来事にちゃんと対応できないかもしれない」し、なによりも「人は何をするかわからない」という危機感から傷つけられてボロボロになっちゃうかも・・・と信じています(もちろん、これは意識下でのこと)。深い部分で「自分はやってくるものにうまく対処できない」と感じて、あらゆることに対して「怖れ」を抱いているのです。

「怖れ」というものを持っていれば、まず身を守ることが最優先。身を守るために、ものごとに対して、人に対して、すべてコントロールをしなければならないと思っています。やってくるままにさせておくと手に負えなくなるだろうと信じているので、ホンロウされてしまう前に、傷つく前に、損する前に、どうにかしようと”こっそりと” あるいは”あからさまに”  抵抗を試みるわけです。

たとえば、友人が共通の知り合いのことを褒めたら、「でもね、あの人さ〜、そうでもないのよ」とすかさず反論しておく(誰かがすばらしくなったら、ますます自分の価値が低くなるという怖れ)。パートナーが期待したように振る舞ってくれないときには、口では何も言わなくてもにらみつけて機嫌を悪くする(しっかりと手綱を取るべく、あなたはわたしの言いなりになるべきだと無言のプレッシャーをかけ力の上下関係を明白にしておく)。こどもが思うような結果を出せないとき、「なんで○○ちゃんはできるのにあなたはできないの?」と常に他と比較する(こどもの達成=自分の価値と勘違いしているので、理想を達成できなければプレッシャーをかけてコントロールする)、などなどまわりの状況に対して、あれやこれやの細工をして抵抗をしているわけです。

しかし、すべての「苦しみ」の原因というのは、じつは「こんなことはいやだ〜!わたしの好みではない!」と起っている現実を受け入れられずそれに抵抗しようとすることから生まれます。出来事、人、関係をそのまま受け入れられないのです。だから、それに挑みかかって戦ってなんとか違う体験に変えようとします。コントロールはその戦いのひとつのバージョンです。

しかし、ものごとはいつだって「そのまま・あるがまま」なのです。ただそのようにやってきて、そのように去ってゆく。それがものごと。ということは、「そのようにそのまま体験してね。それがあなたにとっていちばんためになるのですよ」ということでもあるのです。そのままで結局うまくゆくのかもしれないし、そのままで学ぶことがたくさんあり、新しい自分になれるのかもしれません。宇宙さんが「そのまま」でいいというのだから、きっとそのままでいいことがあるに違いありません。

すると、変えなければならないのは、じつは「あるがまま」に耐えられず怖れを感じている”自分”なわけです。たとえば、先ほどの共通の知り合いを友人がほめたとき、さりげなく悪口を言っておくというような場合、勝手に劣等感にとらわれているのは本人で、その人が誰かが誰かを褒めるのを許せないわけです。あいますよね。誰かが人のことを褒めはじめると、急に不機嫌になるか自己主張をはじめるお方。ただ、自分が自分に対して「わたしは人より劣っていて恥ずかしい存在だ」と勝手に信じているだけなのです。(こういう痛みを持った人が一人いると、その痛みがジワジワまわりに伝播しはじめ、そこにいる人たち全員が知らないうちにぎすぎすした雰囲気になっちゃったりします。感情は伝染するのですね。)

自分の劣等感からいちいち現実に反応し戦っていると、相当なエネルギーを消費します。おそらくそれに対処するだけで体力は精一杯、未来を創り出すパワーはもう残っていません。また自分の価値が自分で認められないと、外からも同じような体験を引寄せることになります。つまり、人からも評価されないし大切にされないという結果になるのです。自分が自分を扱ったようにしか、人は自分を扱ってくれないからです。

そこで、いちいちまわりに抵抗して戦おうとするよりも、いっそまわりに起ること、まわりの流れにそのまま身を「ゆだねて」しまいましょうよ、ということなのです。起ることすべてを、ただ勝手に起るままにさせておく。一切のコントロールや抵抗、戦いを手放すということです。

「え〜っ!そんなことしたら、まわりに好き勝手にされちゃうんじゃないの?」・・・そう思いますか?それこそが、自分自身と人生を戦わせる最大の信念なわけです。ほんとうに流れにゆだねて何もしなかったら、いいようにされちゃうのでしょうか?
(その2へ続く)

11-01-29 ゆだねる、ということ その2

「ゆだねる」=「ホンロウ」されちゃう?のでしょうか。

その1でもちらりと書きましたがいろいろな体験がやってくるということは、宇宙はあなたにそれを体験してほしいからなのです。「怖い」だ「好き」だ「嫌い」だと言っているのではなく、そのまま体験することに意義あり、きっとよいことがありますよ〜と。

数日前、出張に出かけたときのこと。現地での午後のセッションが当日キャンセルとなりました。交通費、モロモロの経費があり、あらら・・・(汗)なのですが、わたしとセッション会場を提供してくれてる友人は「まあ、どうにかなるっしょ!」と顔を見合わせそのままにしておきました。すると、午前中のクライアントさんが「午後に他のセッションも受けたい」との申し出があり、そのセッションをしているうちに勝手にもう一名新しいクライアントさんが名乗りをあげておりました(で、結局もとよりも収入増!)。そう、経験に「抵抗しない」「そのままにしておく」ってこういう予想外の流れに乗れることなのです。予期しないことがやってきたときは、「こっちのほうが楽しいよ」「おトクだよ」と導かれているときです。これを見て、わたしたちは「ほら!やっぱりね!」と再度微笑みあったのでした。

また、「あるがままにしておく」「そのまま受け入れる」ということは、自分の中にある怖れをありありと浮かび上がらせてくれます。「そんなことしたら○○になっちゃうよ」と。そう、この思い込みこそが「○○になっちゃう」人生を創りだすモトなのです。

自分がどんな怖れを持っているのか自覚できないと、わたしたちはそれに突き動かされてとっている自分自身の不毛な行動に気づくことができません。怖れを避けようとすればするほど、そちらに歩み寄ってゆくことになります。

自分の怖れに自覚的になると、自信がなくなる?いえいえ、それよりも自分もそんな弱い面、ふがいない面を持っていることに気づき、人ってみんなそうなんだな〜と、自分も人も許すことができ優しくなります。自分がその点を認めて気づいていないと、同じ弱さを持っている人を認められず裁いてしまいます。しかし、みんながみんな、自分と同じそんな面を持っていると感じられるようになると、ある人が不器用なのを見て「まるでわたしみたい」と助けてあげることができます。それは自分を助けていることと同じこと。自分への変なこだわりやプライドがなくなり、罪悪感をもったり自己嫌悪で自分につらくあたることもなくなり、人への共感が育ち、そして世の中が平和に見えはじめます。

そして「抵抗しない」と、何よりも自分自身と世界との間に摩擦がおこらないので、ものごとはあるがままにとうとうと流れ、ちゃんとなるようになってゆく・・・という感覚があります。結局、怖れからさまざまなものに抵抗することで、なるようになるはずだった流れをせき止めていたのだな〜ということに気がつきます。わたしたちのアタマで「あ〜だ、こ〜だ」考えても、所詮、宇宙の智慧に比べたらわたしたちのはおサルちゃんの智恵程度(汗)。宇宙がわたしたちに乗せてくれようとしている流れに力を抜いてゆだねることこそ、わたしたちがこの地球でしなければならないことなのです。

きっと宇宙さんんは何度も叫んでいたことでしょうね。「もっと力を抜いて!自分でやろうとしないで!ちゃんとすべては用意されているのだからその流れに乗りなさい!」と。

「怖れ」や「抵抗」や「コントロールしたい」いつものパターンが顔をだそうとも、抵抗しない、戦わない、あるがまま、で今年は進んでゆこうと思っています。(まだ一ヶ月弱だけれど、気づきがたくさんあり、また人生の流れもラクになってきがしますよ♪)

もともとわたしたちがここに五感のある身体を持ってやってきたのは、それをフルに利用して体験するという人生を生きるためです。体験するために来たのに、逃げてちゃはじまらないわけです。「お〜、怒るってこんな感じか〜」「恥ずかしいってこんな感じか〜」「飛び上がっちゃうほど嬉しいってこんな感じか〜」と、あるがままにやってこさせて、それをサクサク受けとめて体験して、全部知っちゃったら同じ体験をする必要もなく、身体をもってここに存在する意味もなくなっちゃって・・・ついに人間卒業?(それも寂しい・・・まだスウィーツ食べたい・・・失笑)

あるがまま、来させて、体験して、楽しんで、流れにのって・・・大きくなりましょう。

PS セラピスト、癒し手という仕事をする前には、勉強をかねつつ自己の癒しもしなければなりません。なので、あらかたの問題はとっくに手放したと思っていました。が、気がついてみると、本当の自分のパターン化した重大な問題っていうのはじつは、自分がこれが問題だ!と信じていた裏の裏の裏の奥〜の方に気づかれないように静かに潜んでいるものなのです。嗚呼・・こんな信念に支配されていたとは・・・。そして、これを見つけるのに何年かかったことか・・・。でも、自分のとってきたあらゆる行動・思考に関して、深く納得するとともに、ナゾが解けたようで笑ってしまったのでした(なにやってたのだ!と)。自己探求はオモシロイ!そして、さらにふわふわゆるゆる自由になります。

11-02-09 酸欠金魚にならないために・・・今、ここ!

「今ここのすばらしさを味わえないと、酸欠金魚になる」・・・

これは、昨日のセッションでつくづく感じたことです。

クライアントのMさんは、長年自分でキャリアを築きあげてきたデザイナーさん。おしゃれでお金のかかった外見からはすべてが順風満帆に見えます。

しかし、いつも苦虫をかみつぶしたような表情で、口を開けばネガティブトークがはじまります。「誰それの言動が気にくわない」「あれがいやだ、これがいやだ、状来が不安だ」・・・と。それに、明らかにエネルギーが枯渇しているようで、あまり健康そうには見えません。彼の話しを聞く限りでは、何もかもが不安、そして不満足である・・・と。その抱えている感情がピークに達するとセッションにやってきます。

はたから見たら、誰もがうらやむ華やかな仕事と私生活。誰もが彼を「成功者」とみなすでしょう。でも、彼の心はいつも不安と怖れのベールにすっぽりと包まれているようなのです。

というのも、やってくるなりパートナーの至らさにはじまり、自分がどれだけ仕事で重荷を負っているのか、常に経済的な不安にさらされているのか、それにくらべて彼のスタッフは仕事もろくにできずに不平不満が多い・・・と延々と語られます。

彼の話しをする様子は、頭がぐるぐる回転し、未来や過去を飛び回り、滔々としゃべり続け、心はまったくここに存在していないのが感じられます。すでにすぎさった過去を悔いたり腹をたてたり、まだ起っていない未来のあれこれに心を痛めたり。思考のドロ沼にずぶずぶ足をとられて、かろうじて口から上が沼から出ているような感じです。

そうなんですよね。わたしたちの心って、ほっておくと過去か未来へふらふらお出かけするのが大好きです。しかし、そこには怒りやら罪悪感やら自己嫌悪やら、不安、怖れなど、過ぎ去った否定的な感情や起るはずのない恐怖で満ち満ちているのです。過去や未来への徘徊ぐせがつくと心は不安にさいなまれるようになり、思考のドロ沼にはまりこみます。まさに、思考にぱっくりと食べられてしまっている状態です。

あら・・・この方、ココが完全にお留守だわ・・・と気づいたわたしは、

「はいっ!ちゃんと目を開けて、目の前にあるものをしっかり見て。お腹まで深い息を吸って、はい、吐いて。・・・・さあ、たった今、この瞬間、何があなたを苦しめているのでしょう?たった今、この瞬間、あなたには困ったことがありますか?」と彼を頭の中の幻想から、たった今のこの瞬間に連れ戻すことにしました。

「今、たった今、目の前にあなたを苦しませているその問題はありますか?」と尋ねると、

「ア・・・なんか、ちょっと我にかえった気がしました。そっか〜・・・ボクはどうやら、過去や未来への考えにはまっていたのかな」

そうなんです。わたしたちは身体をもって、今ここに存在しているのに、過去のドラマチック劇場や未来の恐怖劇場にすっぽり引き込まれて、今がお留守になってしまうんですね。

今とつながっていないと、感情の面でも健康の面でも酸欠になります。今につながっていないと、心は不安や怖れでいっぱいになるし、身体はそれを維持するだけのエネルギーを得られなくなります。今、ここにいることでしか、心も身体も魂もエネルギーをチャージできないのですね。物理的な身体を持っているということは、どうやら「今、ここ」をしっかりと体験しなさいということのようです。

「目のまえのものをしっかり見て。深く腹式呼吸してみましょう。そして、しっかりここに存在します。どうですか?」

「今、ここにいると、不思議と怖れがなくなってゆく感じがしますし、リラックスします。”今”は安全なんですね」とMさん。

まず、現実、今ここにしっかりと意識を戻して、自分の頭がつくり出している過去や未来というドラマから抜け出すだけでも、かなりのセラピー効果があるのです。そして、今の一瞬が安全なら、次の一瞬も安全。そして安全が続いてゆくのです。

考えは考え。ほんとうのわたしたちではありません。やってきては去ってゆくもの。それと一体化してしまうと、自分とのつながりが切れてしまい、幻想の世界に突入。身体も心も魂もバランスを崩してしまいます。つまり、心や身体のバランスが崩れるたときには、その方が今にいる割合が減ってしまっているということです。

酸欠金魚のようにアップアップしないように、しっかりと目を開いて、深〜く息を吸い込んで、じっくりと「今、ここ」に向きあってみましょう。

より現実につながっている方法としては、今目の前のこと、ひとつひとつに感謝すること。感謝は自分自身をエネルギーで満たしてくれます。酸欠金魚のようにならないように、今ここの美しさを味わいましょう。

11-02-18 すべて「わたし」・・・だったのね!ヽ(;▽;)ノ その1

本日のA子さんのご相談は、「最近、突然泣きたくなったり、感情がとても敏感です。それに、異動で憧れの仕事についたものの、二人の同僚にイラついてばかりで苦しい」とのこと。

なるほど、なるほど。一日のほとんどの時間を過ごす職場で精神状態が悪いのは、人生の大きなロスになりますよね。

まず、仕事でイラつく状況について調べてみることにしました。

新入りでまだわからないことだらけなのA子さん。「わからなかったら、なんでも聞いて!」という同僚二人(男女)に質問するのですが、その答えは「まどろっこしく」「くどい」そうで、そのうえ意地悪。彼女は聞いているとイライラしてしまい二人へ嫌悪感がつのってゆくそう。

それでは、コミュニケーションレベルで何か起きているのか実際の場面を調べてみました。いったい、どんなふうに話しかけているのでしょうか?わたしがA子さん本人になり、A子さんに会社の同僚になってもらいます。そして、わたしがいつもA子さんが使っている言葉で、同僚役のA子さんに話しかけてみました。

(おずおずと)「あの〜・・・、お忙しところ大変すみませんがちょっと教えていただけますでしょうか・・・」とわたし。この言葉は、彼女のキャラとは違いかなり下手でかなり丁寧な言葉遣いです。

その後、「そう話しかけられてどんな感じでした?」と同僚役のA子さんに感想を聞いてみました。

「ん〜・・・なんかイラっとくる・・・」とA子さん。

そうなんですよね。文字にすると丁寧で何の問題もないセリフに聞こえますが、実際の場面にあてはめてこの言葉を使ってみると丁寧さ、気の遣い方、下手に出る感じがイラっとくるのです(あくまでも、この場面での話しです。他の方が他の場面で使ったらなんの問題もありません)。

まるで腫れ物にでもさわるようなこわごわした話し方。「おもわず、何なんだよ〜!」と言い返したくなります。人は卑屈だったり、怖がられていたり、バカ丁寧だったりする態度にはムカっときて、そんなに下手に出ているなら・・・とその相手をいじめたくなるものなのです。(そうなんですよ〜。結局は被害者のようにみえる自分の態度が相手の反応の呼び水になっているのです。)

そこでA子さんに、「この丁寧さは相手の神経を逆撫でするので、ここはA子さんらしく”明るく、軽く、さわやかに”聞いてみましょうよ。”すみませ〜ん!わからないので教えてくださ〜い!” これでOKだと思いますよ」と提案してみました。

A子さんも、まったく自分らしくなくなっていた自分に気づきました。まったく別物になっていたのですね。よし、今後はなんの小細工もやめよう!素のままの自分でいよう!と自分にOKを出すことができました。

さて、次のステップです。「二人に対して嫌悪感がつのってゆく」・・・とのこと。

はい!この場合は、心理学の基本中の基本、「投影」の原理が働いています。外側に見えるいいモノもいやなモノも、すべて自分の一部。そこで、彼女にきいてみました。

相手が「まどろっこしく」「くどい」のが許せないというA子さんに、「小さい頃、何か言おうとすればまどろっこしくなってしまう自分を恥じていたときはある?もう、そんな自分でいるのはやめようって思ったことはある?」と。

「まわりに見えるものはすべて自己の反映」であると知っている彼女は、「この二人は自分の反映かもしれない」とも思ってみたそうです。でも、こんなイヤなやつが自分であるはずがない・・・とすぐにその考えを却下したとか。そうですよね、自分自身が自分が嫌悪している人であるはずがない・・・と誰もが思います。さて‥‥‥ほんとうにそう?でしょうか。
(その2に続く)

11-02-20 すべて「わたし」・・・だったのね!ヽ(;▽;)ノ その2

抵抗している自分の一部は、さっさと自分から切り離されて潜在意識にためこまれます。

この場合、「まどろっこしく」「くどい」というカッコよくない自分に耐えられなかったからこそ、その部分を切り離して心の闇に葬り、なかったことにしたのです。そして、それ以降はそんな自分がいたことすらすっかり忘れ、まったく反対のキャラクターであるテキパキ、打てば響く自分を演出し、それこそが本当の自分だと信じてきたのです。

そう話すと、A子さんは涙をポロポロこぼしながら、「十歳ほど年の離れた兄と姉に、いつも必死で話しをしていた。彼らはわたしが一生懸命話してもまったく理解してくれなかったし、そのうえバカにしはじめたり意地悪だった」と思い出しました。彼女は理解してほしいと話せば話すほど、まどろっこしくなる幼い自分をバカみたいに感じて恥じ、またそれによってどんどん機嫌が悪くなり意地悪になってゆく兄と姉を憎み、そういう不器用な自分さえも恥じていたのです。

同僚二人の中に見えたのは、葬り去ったものの、まだうずいている自分の中の古いキズそのものだったのです。

この場合、ふたりの同僚(男女)にすっぽりと兄と姉の役柄をかぶせていたわけです。A子さんは実際の二人の同僚の真の姿を体験することなく、兄と姉へのキズをすっぽりかぶせて彼らを見ていたのです。だから、この二人がとても意地悪に感じるし、二人といると自信はなくなり、気持ちが不安定になってくる。自分がどんどん無力に感じられて、その頃の小さな女の子に退行してしまっていたのです。「異動になってからイラつく、情緒不安定になる」というのはこれが原因だったわけですね。

何が起っていたのか理由を知るだけでも、もう解放が始まっています。そして、「ああ、まだこんな自分がいたんだね」と抵抗せずに認めて受け入れてあげることによって、抵抗して切り離されていた自分の一部が「反抗するのをやめて」自分の中に戻ってきます。いろんな感情を引き起こして暴れていた自分の一部が、気づいてもらって受け入れられておとなしくなるのです。

A子さんいわく、「この部署にきてから、まるで人が変わったみたいと言われていました。前みたいなパワーがなくなって、おとなしくて静かになっていたのですよね」と。この二人の同僚を兄と姉にみたててしまっていたので、二人と一緒にいると十歳上の兄と姉に抑圧されているように苦しくなってしまったのです。(実際、十歳違いだと、考え、腕力、口でもまったく歯がたちません。当時のA子さんは自分らしさを失っていたのだと思います。)

その兄と姉に抑圧されていたこども時代、A子さんは傷ついたすえにどのようなことを心に決めてしまったのでしょう?何が現実だと決心したのでしょう?(このこども時代に心の傷から決めたことは、パワフルな「信念」となり一生を通してその人の人生を支配します。まさに、三つ子(おさな子)の魂、百までですね。)

兄、姉との心の痛みによってA子さんの心の深いところで決めていたことは、「わたしなんていないほうがいい。誰もいないんだ。わたしはひとりぽっちだ」という心の叫び。それが、しっかりと潜在意識に刻み込まれていたのです。

このような無意識の中に隠された「信念」はとてもパワフルな威力をもちます。このままでは、まわりに愛があふれていても、いくら愛されようともまったく気づくことがなくひとりっぽちの人生になってしまいます。わたしたちの人生は、頭で考えていることよりもこうしたこどもの頃に刻み込まれた無意識の信念につき動かされているものなのです。

もちろん、この「ひとりぽっち」信念はすみやかに除去され、「愛し愛されている」信念におきかえましたよ〜。・・・サッパリした〜!と笑顔をとり戻したA子さん。

キズを手放す準備ができたとき、宇宙はちゃんとキズが浮上する場面を用意してくれます。それは、「もう自分を隠しながら生きる必要はない。そのキズの存在を認めて、自分の中に統合して終わりにしましょう。そして、ありのままの自分で生きなさい」ということなのです。丁寧な言葉遣いでもコミュニケーションがうまく成立しなかったのは、まさに彼女に本当の自分で生きなさいというメッセージだったのですね。A子さんの高い意識はさらなる魂の成長を求めて、「異動」と「男女ふたりの同僚」をセットアップし、それを利用して自分の足をひっぱるいらないプログラミングを消去する手伝いをしてくれたのでした。まさに、成功、うまくいきました。(^O^)/パチパチ!

セッションの翌日、A子さんからメールが届きました。
「あの男性同僚はお菓子をくれ、味方になり、女性のほうも優しくなりました!!!!!すごいね!!!o(^-^)o人間て、ほんとに面白いですね。マインドひとつで人生が変わるなんて!!周りまでも!!まさかあの二人が味方になる、仲間になるなんて。相思相愛っていいね〜(^^)ららら〜♪♪♪」

よかったね〜、A子さん。(^_^)v

11-04-07 今こそ、自分でできるトラウマセラピー

もともと会話によく登場するトラウマという単語、「心の傷」を意味します。東日本大震災後、「あの揺れはトラウマになった」というように、ますます常用されつつあります。

直接の被災地でないここ東京でも、余震、原発の恐怖、モノ不足など、常に不安感にさらされ続けることにより、それがボディーブローのように大きなダメージを与えトラウマに姿を変えたり、また抑圧していた古いトラウマを誘発し、感じたことのない痛みがさらけ出される場合もあります。

大きなトラウマも小さなトラウマも、知らないうちに心を蝕み、無意識のうちに人生のさまざまな局面に影をおとしはじめます。つきまとう倦怠感や恐怖心、未来への希望が損なわれ、生きている価値がないという自己否定へと発展してゆきます。そして、すべての行動の動機が必死で「何か避ける」か「何かを求める」という自己防衛に向かってゆきます。

昔、沢田研二さんの歌に♪身体のキズなら治せるけれど、心の痛手は癒せはしない♪というのがありました。身体のキズは自然治癒力によりある程度ほっておいてもメキメキ治癒しますが、心の場合はそうはいきません。それは痛みを感じることをさけるため、すみやかにバリアーで覆われ、キズなどなかったように振る舞い始めます。しかし、痛みは知らず知らずのうちにその人の人生の主導権を握り「怖れ」や「防御」で行動するようにかりたててしまうのです。

トラウマに癒しをもたらすためには、まず「気づき」が大切なポイントです。長くわけのわからない不安が続く、体調がおかしい、自分らしくない・・・そんなときにこそまず立ち止まり自分をケアする時間をとりましょう。

やり方はむずかしいことはありません。「何かヘンだとまず気づく」→「何でこんなふうに感じているのだろう」と尋ねてみる→「今、このように感じる必要があるのか?」→「じゃあ、同じ感じが過去にあったとしたらどんな場面?何が起きてた?」と探求してみます。

抑圧していたものを表面意識に引っぱり出し、認めてあげるだけで解放が起ります。気づくことによって、過去ではなくより「今」にいることができるようになるのです。

トラウマはそれをお掃除することによって、怖れにコントロールされる人生ではなく、自分の愛や喜びや可能性のために人生を選択できるようになります。トラウマの後ろに隠れた本当のあなたは可能性の宝庫。あなたの心には素晴らしいパワーがあるのです。
(セラピーコモンズ・ネットモールさんのセラピストコラムに掲載)

11-04-08 「ちょーだい、ちょーだい」の心のブラックホール その1

セラピーを受けにいらっしゃる方の中には、彼氏やだんなさまに「おまえ、行ってこい!」と言われて予約される方も少なくありません。(ホントは、相手だけ変えようとしてもムダな抵抗ではあるのですが・・・汗)。

それはさておき、そんな「送りこまれちゃいました!(+_+)」な女性をみているとある共通点がうかがえます。それは、まず彼氏なりだんなさまに「ああして、こうして」と注文・要求が多く、思いどおりにならないとご機嫌ナナメになるということ。

その女性のなかには「理想の彼氏、だんなさまとはかくあるべし!」という確固とした刷り込みがあり、それにそっていないといちいちつっかかってきて、ついには口で言ってもダメだとわかると引きこもる、黙りこむ、むくれる、というエネルギーによる武力行使に出るわけです(注・引きこもる、黙りこむ、むくれるは決して弱さの表現ではありません。れっきとした攻撃のひとつで、使用する本人にとってはいちばんなじみがある定番の攻撃方法。また、有効に相手をコントロールできると知っていて使われるものです。男性にとっては言葉で論理的に議論できないというのは、わけがわからずお手上げなわけです。また引きこもられると、扱い方も男性にはわかりません)。

やってるご本人、女性にとってはいたってふつ〜、定番の反応なのです。そうです、わたしたちは何をしていようと、いつだって本人にとってはごくあたりまえのこと。だから、「このように反応して何が悪い」と開き直り、話しあいにもなりません。

もともと女の子というものは理想の王子さまを思い描きながら育つものですし、自分がお姫さまになりたい願望も強いもの。で、いったん彼氏ができると、「よしきた!」とばかりに相手の現実はさておいて、「理想の彼氏とはこういうものである」、「そうあらねばならない」をかかげて迫ってくるわけです。

すると、レストランに入るときドアをあけてくれない、自分だけずんずん行っちゃう彼氏に・・・・ちがうだろ〜!とムラムラ腹が立つ。もちろん、つきあいはじめの初々しいころは何も言いませんが、あるところから理想にそぐわない現実に対して怒りが炸裂しはじめるわけです。

その遠慮が薄らいできたあたりから、女性は自分のなかでずっと不足してきた愛情の埋め合わせをするために、必死で相手に「与える」ように要求してきます。それは、モノにしろ愛情にしろ、まるで底なし沼。この場合、いくら与えても、いくらやさしくしても、決して満足することはありません。

このいっくら与えても満腹にならない「欠乏感」は、じつは今にはじまったことではなかったのです。それは、幼少の頃から耐えていた痛みであり、おりあらば、あわよくば、埋めるチャンスを今か今かと伺っていた心の中のブッラクホール。両親とのあいだで決して満たされることのなかった「要求」であり「期待」であり「無条件の愛」なのです。

この「欠乏感」という心の穴は誰でも持っているものですが、とくにこどもの頃、親に十分な、そして健全な注意を向けてもらえなかったこどもは、深くて暗い底なし沼なブラックホールを抱え、それが心の真ん中に君臨しているわけです。

誰だってちいさな頃の自分はひとりになれば不安だし、わからないこと、対処できないことがいっぱい。そんなときに、ともに寄り添い、ただ見守ってくれる眼差しがあったか、なかったかは、その後の人生への安心感、自分に対する自信、そして未来への希望などに大きな影響を与えます。そこで与えられなかった無条件の愛はブラックホールとなり、つねにそれを埋めるためのチャンスを虎視眈々とねらうことになります。つまりその後の人生のなかで、足りなかったものを手に入れるためにあらゆるエネルギーを使うことになってしまうのです。

しかし、当の本人はそのような愛情の欠乏を相手に投影しているとはさらさら気づいていません。いつもあたりまえの行動・反応をとっているとしか思っていないのです。本人にとってはあくまでも、それが当たりまえですから。

なので、ついには彼氏やだんなさまに「重すぎる!」「要求が多すぎる」と嫌われてしまうハメに。彼らはブラックホールに吸い込まれ、ついには自分がなくなっちゃう恐怖を感じているわけです。

シッポを巻いて逃げられちゃうまえに、女性は自分が手に入れられなかったものを相手から力いっぱいむしりとろうとしている事実にしっかりと気がつかなければなりません。(むしりとろうとしても、往々にして、相手も足りないと思っているので、お互いむしりとる戦いになったりします。ふたりとも丸裸・・・汗。)

さて、このような悲惨な自己パターンにみずから気づくためにはどうしたらよいのでしょうか?
(その2につづく)

11-04-10 「ちょーだい、ちょーだい」の心のブラックホール その2

(その1より)
ここまで、それはまるで女性だけの問題のように書いてきましたが、この「満たされなかった」と信じているものを「相手からむしりとる」という行為は男性も同じ。つまりみんなが持っているパターンです。

さて、こんな自己パターンに気づくためにはどうするのか?

まず自分が幼少時代「何を与えて欲しくて」「与えられなかったのか」を意識にのぼらせることにより、自分がどんな要求を強くもっているのかに気づくことが大切です。そのためにはよくワークショップで行うちょっとしたエクササイスが有効です。

【喪失体験をケアするワーク】

1, 親(あるいは、愛してほしかったのに愛がえられなかった相手)に対して手紙を書きます。
相手がすでに亡くなってしまっていてもかまいません。

2、まず相手への感謝の気持ちからはじめ、してほしかったけれどしてもらえなかったこと、あるいはえられなかったものなどについて書きます。
「お母さん、わたしをここまで育ててくれてありがとう。あなたとはたくさんの楽しい思い出があります。しかし、あなたはわたしをめったに褒めてくれませんでした。褒めるよりも、いつも指示されたり正されたりしていた気がします。だからわたしは自分がどこか欠陥があるのかと信じてきました。わたしはただそのままの自分を無条件に愛してほしかったのです。・・・云々」というように、語りかけるように書いてゆきます。

3, 書き上がったら、声に出して読みあげます。
これは自分の癒しのために書いているので、相手に渡すことはしません。もし信頼できる人がいたら自分の前に坐ってもらい、親のかわりに手紙を読むのを聞いてもらいます。一人で読んでもかまいません。声に出してください。

4,  読み終わったら、しばらく静かに自分の感情を感じます。
その頃の感情が再び甦ってきて涙が流れるかもしれません。感情、涙とともにいる時間を十分とってください。

5, 落ち着いたらふたたび手紙にもどり、そのなかに書かれている自分の要求(無条件に認めてほしかった、信頼してほしかったなど)に丸をつけます。
この手紙だと、「ああ、褒めてほしかったんだな〜」とか、「指示されたり正されるのではなくて、そのままの自分でいいと言ってほしかったんだな〜」と手にできなかったものに気づいてゆきます。

6, 自分の満たされなかった要求を、どのようにしたら自分で満たせるか考えます。
たとえば、親に「無条件に認めてほしかった」場合は、自分が自分に対してどれだけつらくあたっているか、否定しつづけているのかに気づきます。そしてきょうから失敗しても、理想の自分でなくても、明るく自分を認めることを自分に約束し、実行してゆきます。

おわかりのように、わたしたちは足りないものを外に調達しにゆこうと必死でしたが、結局外には見つけることができなかったのです。なぜなら、みんながみんな「足りない」と思っていて、人に真に与える余裕などないからです。すると親でさえも、自分のブラックホールを埋めるためにこどもを利用してしまいます(これ、意外によくあるパターンです。たとえば親から十分愛してもらえなかった穴埋めに、こどもを自立させず自分につなぎとめて依存させることで愛されてると感じようとするパターンなど・・・)。だから、自分のブラックホールは自分でリペアするしか方法がない、ということなのです。

どこがうまくいっていないかわからなければ、それをうまくいかせる方法は皆目検討がつきません。しかし、自分にはどんな穴があるのかがわかれば、まずそれだけでも他人にこっそりとその穴を埋めさせようとしてかなりのエネルギーを費やしている自分に気づくことができます。

実は心の世界でも、モノの世界でも、足りないものは外から調達することは出来ないのです。なぜなら、すべては自分の心のなかからはじまり、それが外へと広がってゆくからです。自分が見ている世界は、すべて自分の心の中の世界なのですね。だから、「愛」にしても「豊かさ」にしても「幸せ」にしても、外からやってくるのを手ぐすねひいて待つのではなく、「自給自足」の心意気を持たなければなりません。自分でちゃんと面倒をみてあげなければならないのです。

それには、まず自分の心の欠乏、要求に、自分がちゃんと寄りそうことからはじめてみることをおススメいたします。(^_^)v

11-05-20 何を感じているのか・・.さっぱり? その1

おもしろいもので、セラピーのテーマというのは週を通して一貫していることがよくあります。ある週は虐待セッションオンパレード (;_;)、ある週は男女間のもめごとあれこれ (+_+) とか・・・。

さて今週は・・・というと、自分の「感情がわからない」シリーズ。あのクライアントさんも、このクライアントさんも、「感情がわからないんですぅ」。そうなると、なんだかこの地球上こぞって「感情わかりません」状態になっているような。(余談ですが「世の中みんなそうだから」と発言するとき、「みんな」はたいてい三人で十分なんですよ。)

さて、「感情が感じられない」みなさまは、最初からその相談にいらっしゃるわけではなく、他の問題が入口でした。お話ししてゆくうちに「えっ?!わたしって、じつは自分の感じていることがわかってないの?!」ということが発覚。

「感情がわからない」というのは、中年以上の男性には多々みられるケース。たとえば、上司からクビを宣告された男性。その男性に「今、どんなお気持ちですか?」とたずねると、「仕事がないと生活できないし、女房の文句も絶えないし、困ります」。わたしは気持ちについて尋ねたのであって、彼の考えやまわりの状況について尋ねたのではないのですが。気持ちの描写はぬけているのですね。

感情がわからない人に「気持ち」を尋ねると、きまって一般論か、頭で分析した結果について述べるだけ。実際、自分がそれに対して何を感じているのか、「不安」なのか、「自信をなくしている」のか自分の内側が語られることはないのです。

この男性にとって、「どんな気持ちですか?」というのはまるで未知の質問のようでした。「それって何のこと?」「気持ちってなに?」とポカンとした状態になってしまいます。

こういう方はほんとうに感情がわからないのかというと、いえいえそんなことはありません。断言できるのは、人並み以上の「感じる」力があるからこうなった、ということ。

どういうことかというと、幼少の頃に「感情」というのは自分を傷つける刃物のように感じてしまったのです。で、「これ以降は、感情に関することは見えない、聞こえない、感じない、まったくかかわらないことにします!」と決めました。それは、親や兄弟の爆発的な感情の表現に圧倒され、それによって自分が抑圧されたりコントロールされた経験があるのかもしれません。あるいは、幼い自分が感情を自由に表現すると、親にたしなめられたり拒絶されたことがあるのかもしれません。また、対処できないほどの苦しみや悲しみにさらされ、その感情とどのように向かってよいのかわからなくなった場合も。いずれにしても感情というのは自分も人も傷つけるキケンなものだと信じてシャットしてしまったのです。

つまり、「感情を感じられない」どころか、じつは「感情に敏感」であった。それゆえ、圧倒的な感情の波にさらされて被害甚大だったわけです。で、身の安全を確保するため感情をスイッチオフしてしまうという手しかなかったのです。だから、いったん感情を感じはじめると、「ああ、わたしはこんなにも豊かにものごとを感じられる人だったのか」とみなさん驚きを感じるほど。モノクロだった人生がいきなりフルカラーになるような感じ。そして、誰よりも「感情のエキスパート」だったことに感動します。

そうですよね。学校でも家でも、正しい感情とのつきあい方は教えてくれませんものね。親が正しい感情の現し方を知っていたとしたら、わたしたちも「傷つけ合う」感情ではなくて、「理解しあえる」感情の表現を学べたかもしれません。でも親も知らないってことは、おじいちゃん、おばあちゃんも知らず、7代先もたぶん知らない、ということです。

「感情」であるハートが道を閉ざされると、わたしたちは頭のおしゃべりである「思考」が優勢になります。そうすると、価値判断したり、批判したり、怖れを感じたり、あーだ、こーだと忙しく考えはじめ、「人生って、ああ疲れる」あるいは「恐れでいっぱい」ってなことになってしまいます。

そう、わたしたちの中には二つの声があるのです。「感情」からの声と「頭(思考)」からの声。この二つはまったく別のもの。さて、どっちがほんとうの自分なのでしょうか?しあわせになるには、どちらの声を聞くべきなのでしょう?
その2に続く

 

11-05-21 何を感じているのか・・.さっぱり? その2

その1では、「頭(思考)」の声が優勢になり、「感情」の声が無視されてしまう、そんな方が多いというお話でした。

では、わたしたちの中にある「頭(思考)」と「感情」の違いって何でしょう?

「頭(思考)」は、まわりの状況を見ながらつねに合理的に変化します。一方、「感情(ハート)」はわきあがってくるこころのつぶやきで一貫しています。つまり、思考は外中心でつくられ、感情は内側からやってきます。思考は自分の思考でありながら狡猾にわたしたちを騙そうとする策略家。感情は朴トツでウソをつくことができない不器用者。思考は使えば使うほど心も身体も萎縮してゆきますが、感情は耳を傾ければ傾けるほど心も身体もホッとします。思考は感情を手なづけようとしますが、感情は従いません。何でも思いどおりにしたい思考はそんな手なずけられない感情をうとましく思い、ついには無視しようとします。

きっと、あなたにも経験がありますよね。「頭」ではそうしようと思っているのに、どうも「感情」がいやがるっていうこと。わたしたちはたいてい「頭」で考えてメリットがあると判断するや、感情がいくらいやがっても首に縄をつけてでも従わせようとします。そして「感情」は尊重されなかったことに傷つき、どんどんいやな気分を増長させてゆきます。すると、「頭」はついに「感情」を扱いかねて、「感情」をバッサリと切り捨てて無視することに。感情はそれにともない、引きこもりになってしまうこともあります。こんなふうに、わたしたちの「頭」と「感情」はずっと対立しながら存在しているのです。

わたしたちはハートが傷ついたことにより「感情」と縁をきり、「頭」を優勢にして生きてきました。その結果、ついには自分が何を感じているのかわからなくなってしまったのです。自分さえも、自分の思考に騙されてしまっているのです。さて、この感情がわからない症候群、人生において何か影響があるのでしょうか?

感情がわからない人の場合、会話において感情が除外されがちです。すると、「インフォメーション」的な会話になりがち。

たとえば、映画鑑賞後の会話。「あの場面、どきどきしたよね〜」「う〜ん、こわかったよね」「あんな体験したくないね〜」と、お互いの感想をシェアしますね。しかし、感情がわからない人の場合はこんなふう。「この映画、○○億も制作費かけてるって」「主演女優は代役たてずに全部自分が踊ったっていってるけど、ウソらしい。代役がクレームを起こしてさあ・・・」とインフォメーションが主体。友人との会話というより、映画評論家の解説を聞いているような気分に。感情を含まない会話には一体感が生まれないので共感しにくく、「なんかヘン?」というズレ感が生まれます。

また、感情を感じられない弊害の最たるものは、人生がモノクロになってゆくことです。感情豊かな人は泣いたり笑ったりいろいろと感じていますが、感情を感じない人にとっては何もかもフラットなのです。

すごく喜ばないけれど、さして悲しくもなく。人が「楽しいね!」と言えば一応口裏をあわせますが、目は笑っていません。冷めています。頭で「これは楽しいんだ!」といい聞かせても、どこかシラケています。もしかすると、人からは「動じない人」あるいは「穏やかな人」と言われるかもしれません。でも、ご本人は味気ない。ヴィヴィッドにフルカラーで感じてこそ、「人生って、まぁいろいろあるけど、でも生きてるっていいね〜!」と心からいえるのです。

感情がまったくわからなかった方も、はじめからわからないわけではないので、幼少の頃体験している「わからなくなっちゃった」理由を取り除いてあげることによってちゃんと豊かな感情がもどってきます。

また、何が好きで何が好きでないか、小さなことをないがしろにしないでいちいちハートにお伺いをたててあげる習慣をつけてあげることも大切。いつも、自分がどのように感じているのかをちゃんと気にしてあげる必要があるのです。「自分が広がる感じ」「ほわっとする感じ」・・・そうなら、ハートは喜んでいるでしょう。もし、「胃が縮こまる感じ」「肩がこる感じ」がしたら、ハートは NO! と言っているのかもしれません。

そうして常に自分の内側の声に敏感になってあげると、自分が何が好きか、どうしたいのか、どんな人生を生きたいのか・・・ほんとうの気持ちがわかるようになってきます。自分の体験にも満足感が持てるようになります。

さらにいいことは、感情をしっかり感じることができるようになると、自分の人生の舵取りがしやすくなるということ。なぜなら、絶えまなくやってきている「自分専用のスペシャルメッセージ from 宇宙」は、感情(ハート)を通してのみキャッチできるのです。すると、すべての答えを知っている「ほんとうの自分」とつながれるようになるのです。「今回の人生、どのように生きたらいいのか」ということにはじまって、「この仕事でいいのか」など。人生がすんなり流れる方向を知っているのです。それは頭ではできません。

ほんとうにこれがやりたい!とハートがワクワクする感じと、それにそって頭でつくりだす将来の鮮明なイメージをプラスしてあげると、これはもうモーゼの杖!なのです。ぱっくりと、あなたの目の前にあなたの行く道が開けてくるのです。

ワクワク楽しい自分の感情の声を理解し、さらにそこに思考のしっかりとした将来のイメージをプラスしてあげるとパワフルに未来をつくりだす力に早変わり。進むのが早くなります。これは感情だけでも、思考だけでもダメ。感情が大切にされて、それに思考が従ったときにこそ発揮されるパワーなのです。正しい行き先を知っている感情と、パワフルにイメージし行動を計画できる思考が合体したとき、それは力強く未来を切り開いてくれる最強ツールとなるのです。

自分の感情(ハート)の声を優先することで、自分本来の生きるべき道に導かれます。またその道を自ら力強く歩んでゆく力も与えてくれるのです。・・・だから、ハートの声、大切にしましょ!

11-06-03 「希望」は私たちの必須栄養素

生きていていちばんつらいのは、どんなときでしょう?

何か大失敗をしでかしたとき?自分を認めてもらえないたとき?あるいは今回の震災のように、愛する人も何もかもを失ってしまったときでしょうか?もちろん、このようなとき私たちは生きる力を失います。
 
しかし、私たちをコテンパンに、これ以上立ち上がることができないほどに打ちのめしてしまうのは、じつは「希望」をまったく見失ってしまったときなのです。
 
どんなに苦しくてもまだ希望が見えるとき、私たちは立ちあがってここから抜け出そうと前に進みます。しかし、「心に何の希望もまったく感じられない」状態になると、暗闇に置き去りにされたように立ち尽くす、いえ座り込んで頭を抱えるしかないように感じます。希望は私たちの魂にとって必須の栄養素。これが切れてしまうといくら身体に栄養を与えても、励ましをもらっても、ついには命さえも落としてしまうことさえあるのです。
 
希望は外からやってくるもの、出会うものだと思われるかもしれません。しかし、同じものを目にしても、希望にあふれたものとして認識する人と、まったく希望のかけらも感じられないと判断する人がいます。
 
結局、希望とうものは、外にあるものではなく心がつくりだすものなのです。
 
どうしたら心に希望をつくりだすことができるでしょうか?
 
わたしたちの現実の中では、それぞれに必要なものは完璧に用意されています。しかし、それは見つけ出す気持ちがなければ目にふれることはありません。まずは、どんなときにでも、誰にでも希望はあるんだ!という信頼がなければ、見えるものも見えなくなってしまいます。
 
そして、行き詰まっているときと同じものの見方をし続けていては、同じものしか見えません。まったく違う視点をもってみる。また、様々な視点をもってみる。視点を広げてみる。すると、状況は変わらなくとも「な〜んだ!たいしたことじゃなかった」と気分が楽になったりします。
 
セミナーやワークショップ、カウンセリングなどの言葉を使ったセラピーやワークでは、まったく新しいものの見方を習ったり、視点を拡大、転換し、多様なものの見方をつくりだすのに役立ちます。それによって、真っ暗だと思っていた心の闇に、希望という灯りがしっかりともります。崖っぷちから真っ逆さまだと思っていたピンチさえも、知らぬまに風にのって高く飛翔している・・・そんな場面の急転換も可能になるのです。

(セラピーコモンズ・ネットモールさんのセラピストコラムに掲載)

11-06-20 幸せな人・不満でいっぱいな人 その1

わたしのまわりには元気のいい方、楽しそうな方、幸せそうな方がたくさんいます(そんな方もたまには、ド〜〜ンと落ち込むこともあるようですが、がぜん持続力はないようです)。

日頃こちらにセラピーにいらっしゃる方は、「もっと幸せになりたい」という自己実現派の方と、にっちもさっちもいかない悩みどっぷり型の方と、二つのタイプがいらっしゃいます。

まわりの友人をながめながら、またクライアントさんとお目にかかりながら、何が幸せのコツだろう、と考えました。

でも、「幸せ」というのは、何かがやってくればもれなく「幸せ」になれるという紋切り型のものではありません。なぜなら、「こーなったら、そりゃ、もれなく幸せでしょ〜」というシチュエーションにおいてもえらく悩んでいる場合があるからです。

たとえば、パートナーが突然高価なプレゼントをくれたり、行ったこともないような高級レストランに連れて行ってくれた場合、素直に喜ぶどころか「なんかあ
やしい!絶対ウラがある」と疑心暗鬼になってしまったり、また思わぬ昇進をはたしてお給料がめちゃくちゃ上がったりすると、「ものごとそんなにうまくいく
はずがない」「引っぱり降ろされるのは時間の問題だ」「責任に耐えられない」とすぐに心配をはじめたり、それで病気になっちゃう人もいます。

最もエネルギッシュで楽しそうなのがわたしの70代のお友だち。見ていると、とっても喜び上手だし、感謝上手なのです。そして、人を助けて導くことに生きがいを感じていらっしゃいますし、また与え上手でもあります。

「物ごとがわたしたちを幸せにするわけではない」と先ほども書きましたが、では何が私たちの幸せを決めるのでしょう?

じつは、起った物ごと、体験した物ごとに対する「意味づけ」「解釈」なのです。その物ごとがどういう意味があったのか、を決められるのは、それを体験して
いる本人だけなのです。そしてそれは、同じ物ごとを体験したとしても、一人一人完全に違うものなのです。たとえ万人が「それはヒドイ!」というようなこと
でも、それを体験しているご本人が「どってことないわ〜」と言ってしまえば、それはその人にとって「どってことない」レベルの体験として過ぎてゆきます。

また、「そんなことたいしたことじゃないじゃない」と思うことでも、トラウマレベルとなりその人の一生に影を落としてしまう場合もあるのです。その人が
重大なこと、とんでもないこと、と認識すれば、誰が何といおうとそれはその人にとっては致命的となるのです。(そんな理由で、生育環境で起った出来事の大
小でトラウマの深さは決められません。ほんのささいなことでも、その人の一生を左右してしまうこともあるのです。また、「あんな過酷の体験をして ・・・
」と人が同情するような体験でも、ご本人はなんらダメージがなくひょうひょうとしている場合もあります。)

今いちどわたしの70代のお友だちを考えてみると、喜び上手、感謝上手、人助け上手は、何か特別なことが日常に起らなくても、日常がスペシャルになってしまうのです。つまり、よい気分になるために、外からやってくるとこを期待する必要がないのです。

たしかにそうでした、そのお友だちと先日鎌倉へ遠足をしたのですが、紫陽花を見る混雑があったり、立ち寄ったお寺にあまり紫陽花がなかったり、原宿のよう
な雑踏にであったり・・・と必ずしも完璧な行程ではありませんでした。けれど、戻るなりお電話、お手紙、メールで「すごく楽しかったわね〜」とまずちゃん
と「楽しかった」という確認をされているのです(ものごとって勝手に楽しくなると期待しますが、じつは能動的・積極的に楽しむ心構えが大切なのです)。そ
して、お送りした写真についても、「家族で楽しみました」とか「職場で見せます」と、ここでもちゃんと「楽しさ」の確認が行われています。

そうなんですよね。ものごとはほっておいて楽しくなるというよりも、「これは楽しいね〜」と先に意味づけしてしまうことによって、楽しい体験になってしま
うのです。何かで成功している方もいっておりました。困難がやってくると、「おお、これはどんどんおもしろくなってきたぞ〜!」とつぶやくと。すると、ど
んどんおもしろくなってしまうそうです。つまり、自分をどれだけうまく騙す、いえ、なだめるかなのです。

逆に、どんなに楽しいことでも「あら探し」の達人になってしまうとせっかくの体験が台無しになってしまいます。まずは物ごとに対する自分の意味づけが、そ
の後の認識、体験をつくることを肝に銘じて、「いいとこ探し」の名人になりましょう。「これって楽しいね〜」「ほんとありがたいわね〜」「なんてラッ
キー」・・・これを口グセにするだけでも、幸せ度は格段にアップします。

そして、わたしたちは自分のとる行動によって、自分を好きになったり、嫌いになったりもします。

たとえば「あら探し」の名人。パートナーやら、日常の出来事にいつもネガティブに反応して文句ばかりいっている場合。まあ、「ブツブツいいたいのはこの人のサガだ」とほっておけば、まわりはあまり迷惑をこうむることもないかもしれません。

しかし、いちばん被害を被っているのは、意外にも意外・・・・(え?誰?)。
(その2に続く)

 

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たかちゃんセミナーのご案内
いきかた気づき塾「わたしの未来のつくり方」
日時: 2011年7月3日(日)14:00~17:00
講師: 古川貴子、高橋和子、池間清志
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11-06-26 幸せな人・不満でいっぱいな人 その2

(その1より)

まわりの人を非難したり、物ごとをこきおろしたり、あたりちらしたり・・・それでいちばん被害を受けるのは誰でしょう?非難された人?あたりちらされた人?・・・ Noです!

最も被害甚大なのは、じつは文句をいっているご本人そのもの。「ブツブツいう」のを年がら年中やっていると、それをつぶさに眺めているのはたった一人、自分自身なのです。たとえ「ブツブツいっている」のが自分であっても、ブツブツいう人ほどブツブツいう人が大嫌いです。ということは、ブツブツいえばいうほど、自分の自分に対するイメージや評価が急降下してゆきます。みるみる自分に対する信頼を失い、自尊心が乏しくなってしまいます。

ブツブツいいたいのは、自分にとって不都合なできごとに抵抗しようとする自分の頭(理性)であって、自分の心(潜在意識)はブツブツいうことを決して認めてはいません(潜在意識には不都合の感覚がありません)。そしてブツブツいっている張本人の頭(理性)でさえも、「ツブツブいうやつは弱いやつ」「わがまななやつ」「信頼できないやつ」だと認識しています。なぜなら、頭(理性)は自分が弱いと思っているからこそ、隠そう、カバーしようとして、まわりを貶める作戦に出ていることを知っているからです。自分が優位に立つ戦略を立てなければならないほどよわよわであることを、頭(理性)はちゃんと知っているのです。

なので、ブツブツ戦略に出なきゃ行けない自分を「ふがいないやつ」、そんなやつは大嫌いだ、関係をもちたくない、と嫌悪します。自分嫌い度がまして、人も嫌いだけど、もっと自分も嫌い、という事態を招いてしまいます。そして、自分が嫌いになれば、それを外側に投影してまた人も嫌いになり...悪循環。

というわけで、プチ幸せになる即効力のある方法としては、目に入るものの「あら探し」をする習慣はひとまずやめにして、ひとつの物や人に関して最低3つぐらいは「いいとこ探し」をしてみるようにすることです。そして、何かを見たらり体験したら、ソク「いいとこ」が浮かんでしまうように習慣づけをしてしまいます。

そして、ブツブツのかわりにそれを積極的に口に出してほめてコチョコチョしてみてください(コチョコチョ??・・・ブツブツの反対が思いうかびませんでした・・・汗)。

あるいは、こんな習慣も幸せの感度を高めるのに役に立ちます。毎晩眠る前に、きょう楽しかったこと、感謝すること、おもしろかったこと、を5つ書き出す、あるいは家族と分かち合うということ。ただしやるときには機械的に羅列するのではなく、ひとつひとつのことを心をこめてどんな感じだったのかをありありと感じながら話したり書いたりすることが大切です。この習慣も特にイベントがなくてもプチ幸せを感じるセンサーを磨いてくれます。

じつは幸せって、今まで願っていた一大事が成就することではなくって、たとえば「一日の終わりのお風呂、気持ちいい〜」とか「風呂上がりのビールって最高!」とか、「きょうの風はなつかしいようないい匂いがするな〜」とか、そんなささいな小さなことの積み重ねなのですね。

「たのし〜♪たのし〜♪」と意図的に楽しんでいるうちにまぎれもなく本気で楽しくなってきますし、またいつも口角を思いっきり引き上げてニコちゃんマーク顔にしておくことによっても、筋肉から脳へハッピーの指令を出すことができます。思いっきりスマイルして文句をいったり怒るのはムリ・・・だから自分が相手に文句をいいはじめちゃったなと思ったら、思いっきり口角を目尻の方まで引き上げてみてくださいね。なんか自分でも怒るよりも笑いなくなってきちゃいます。

また、日本人にとっては「幸せ」という言葉は、どこか絵に描いたモチのよう。なかなか手が届かないというか、庶民にはムリというか。「幸せ」という言葉は、そうとう何か特別なことがないかぎり使うべきではないと思っているようです。なので、ふだんから「幸せ」を目指すよりも、「ちょいハッピー」をめざすほうがいいのです。

だから、ほんとうの幸せとは「ちょいハピ」のつみかさね。ちょこっとイイ感じ、ちょこっと笑える、ちょこっとほっこりする・・・。そして、外からやってくることに依存するのではなく、自分がふだんしている物ごとに対する「意味づけ」の習慣を意識的にちょっと変えて「ちょいハピ」の方向にしてみる、そしてそのちょいハピを積極的に大げさに喜んでしまう。すると、「幸せ感」はだいぶ促進することができるのですね。

さてさて、みなさまの本日の「ちょいハピ」ベスト5は何でしょうね?思いっきり口角を引き上げて、目尻を下げて、「ちょいハピ」を思い出してみてください。

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たかちゃんセミナーのご案内

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11-07-08 「オレさえ我慢すれば・・・」 その1

「オレが我慢すればいいんだよ...」

と、友人は言った。

「なんじゃそれ?」と思っていたら、その後、クライアントさんにしろ、知人にしろ、やたら周りで「わたしが我慢すれば・・・」というセリフに出会ってしまった。(はい、強く注意を向けるといっぱい引き寄せます・・・汗。しかし、多いのですね、我慢している人。)

「オレが我慢すれば・・・」っていっけん英雄的でたのもしく響きますが・・・どうなんでしょ?

この友人、職場で、家庭で、そして私や友人にさえも「もしや、我慢しちゃってる?」という様子が伝わってくるときがあるのです。ここでは文句を言ったり、
自分の気持ちを表現するのが当然でしょ?という場面でもグッと口をつぐみ、言葉を飲みこみ・・・。しかしわたしたちのコミュニケーションのほとんどは、言
葉で表現しなくてもオーラでしっかり伝わるもの。つまり、我慢はすっきりしないネガティブ・オーラをまき散らしてしまうのです。

言わないから丸くおわまるどころか言わないことによって、「もしや、わたしのことコワがってる?」「結局、信用されてないってことね」というように、周囲と否定的な循環がはじまってしまいます。

それに我慢は抑圧を意味するので、お腹の奥深くにためこまれ決してその感情がなくなったわけではありません。少〜しづつ少〜しづつ溜めこんで、堆積して、
ついにあるとき・・・「あの温厚な人が、まるで人が変わったように怒鳴り散らした」「暴力をふるった」、あるいは人に向けずに自分にそのエネルギーを向け
ることによって自分を痛めつける「病気」や「事故」、あるいは「突然死」さえもありうるのです。

友人のもうひとつの口グセは「自信がない」。

はいはい、そうでしょうとも!合点がいきます。

「自信がなくなる」いちばんの原因は、文字どおり「自分が信じられない」からですが。じつはこの「オレが我慢すれば・・・」というのは、「自信」をそぎとる最たるもの!自分に対してはとんでもないことをしているのです。

そもそも「我慢する」という感情は、「オレはそれはしたくないのだ!そんなことはごめんなのだ!」という本音を「我慢」して押さえこむ、ということ。

しかし、この自己犠牲的な言葉「我慢する」こととともに、自分の葛藤していたはずの感情はすっかり無視され、きれいに葬り去られます。

これは自分に対する最大の裏切り行為。「自分はこうしたいのだ!」とほんとうの気持ちを訴えているのにもかかわらず、聞いていながら聞かないフリ。自分のほんとうの気持ちを完全に無視したわけです。

人にとっては「無視」は「いじめ」よりもこたえます。

自分にとって、いちばん長い時間一緒にいる「自分」。親身になって、いたわり、受け止め、慈しみ、いちばんの理解者になければならないはずの自分が、自分をないがしろにして無視しているのです。これはヒドイ仕打ちです。

そんなことをしたら、それからは自分の「気持ち」と「考え」が対立するようになってしまいます。自分の「考え」は自分の「気持ち」をやすやすと無視してい
い、しいたけげてもいい、尊重する必要などない、と主張し、そういう習慣がついてしまうのですね。自分に対する信頼感、尊厳がなくなり、これは外側にも伝
わってしまうのです。すると、自分が努力するわりには外側からの尊敬が得られない、という事態にもなりかねません。

そうしているうちに、自分にとって「信じられない人物 No.1」、それは裏切り者の自分であるということになってしまいます。自分が信じられない、つまり自信なんて持てないということです。

それは一大事!!

では、いったい自分に対してどのように接すればよいのでしょう?
(その2につづく)

11-07-13 「オレさえ我慢すれば・・・」 その2

(その1より)

自分の気持ちを裏切り続けたすえ、ついには自分自身のことが信じられず「自信が持てない」ということになります。この症状が出現してしまったらどうすればよいのでしょう?

ほんとうは日常の生活でなによりも大切にしたいことは、常に自分の気持ちに耳を傾けて、自分の気持ちをやさしく汲みとって尊重してあげる、ということ。落ちこんでいたら、「そっか〜。落ちこんでいるんだね。うんうん、そんな気持ちになることもあるよ。いいんだよ。落ちこんでも、それは普通の人間の反応だよ」と、なんら責めたり恥ずかしく思うことなく認めてあげます。

自分の気持ちを汲みとるということは、気持ちに寄り添って、「今はそう感じているんだね。そう感じてもいいんだよ」とOKを出してあげること。

これができるようになると、自分自身がラクになると同時に、人を責めたり裁いたりする気持ちがなくなってきます。人の現状や気持ちをあるがままに認めてあげることができるようになるのです。結局、自分の気持ちを無視して認めてあげていないと、人の気持ちも認めたくないものなのです。「なんだよ、その態度は!俺だってガマンしてるんだ。おまえもガマンしろ」というように、相手の自由な感情が認められません。自分と同じだけの不自由さを相手に強要するようになります。

そんなことにならないように、まずは自分のあるがままの感情を許すこと。そして、その気持ちを無視したり抑圧することなく周囲との折り合いをつけながら表現するために、周囲にも自分にもやさしいコミュニケーションの仕方を身につけなければなりません。

それには「I message (アイ・メッセージ)」を使って、さわやかに自分の正直な気持ちを伝えてゆくようにすることです。

アイ・メッセージとは、人を責めたり、コントロールすることなく、自分を主語にして自分が今何を感じているのかをさわやかに語ってゆく表現方法です。「あなたがそんなだから、わたしは幸せになれない」・・・これは完全に被害者になって相手を攻めています。かりに相手が本当に悪くても相手はこの言葉を受けとれません。攻撃は相手をさらに頑なにしてしまうだけです。

そうではなくて、「あなたがそんなふうに振る舞うと、わたしはなんだか悲しい気分になるの。なぜなら・・・」と、自分を主語にして自分の気持ちや経験していることを平和的にたんたんと語ってゆきます。

この方法だと責められているとは感じないために、相手の置かれtいる状況を客観的に知ることができます。すると、「そっか〜。そんなふうに感じていたのか。じゃあ、次回からやめるよ」などと、歩みよりやすくなるのですね。

つまり、相手を責めることでは何もいい結果を手にすることはできません。自分を主語にしたメッセージで自分の今の正直な気持ちを語ることによって、相手の理解を得やすくなるのです。(たいてい、不平不満を言いたいという怒りの感情の下には、深い悲しみがあります。そのヨワヨワの自分からコミュニケーションすることによって、相手も素直に心を開いてくれるのです。)

と言うように、一にも二にも自分の気持ちを尊重して、それを表現するという、自分の気持ちとのつきあい方を大切にすることにより、ほんとうの自分と和解することができるようになります。すると、おのずと自分と信頼関係ができて「自信」も持てるようになるでしょうし、人にも寛容になり、なによりもネガティブな感情を溜めこまないことにより、自分で自分の人生の邪魔をすることがなくなります。

ゆめゆめ「我慢」することなく、自分を大切にして自分との対話を通して、是非自分と仲良くなりましょう。

11-07-21 痛がる男子

二日連続で熱海に出張。台風の影響で熱海の小学校は休校だというのに、堂々とそっち方面にお出かけしていいのやら?しかし、急を要するセッションもあるのです。

ズブぬれ覚悟で出かけたら、なんとカサさえも開く機会なし。セッション中は豪雨で、クライアントさんのお帰りとわたしの移動時刻はまんまと静まり返っていたのでした。ありがた〜い!(^-^)ノ

たまにラッシュ時に電車に乗るとびっくりします。この暑さのせいもあるのでしょうが、小競りあいがあっちでもこっちでも。満員電車を降りるときにちょっと足を踏まれたかなにかで「イッテ〜な、このやろう!まちやがれ!」なんて、大声を張り上げてケンカになっていたり。

そういえば友人いわく、「女子サッカーはいいね。男子は観ない。だって、男子サッカーのほとんどはスネをかかえてイタイ!イタイ!って転がりまわっているだけだからね」と。

この朝のラッシュ時から「イテ〜!イテ〜!」と叫ぶ男子たちを見て、ついこのサッカーコメントを思い出しちゃいました。

もともと人の意識のふか〜いところには誰でも、「何がなんでも被害者になってやる〜!」的な決意ともいえる信念がひそんでいるものです。そう、誰にでも。

被害者になると「相手を悪いやつだと責めることができる」、すると「自分はいつだって正しいんだ」という満足感、そして「結局は自分が優位に立つことができ」、「同情だってもらえる」・・・というように、なんでも外から調達しなければ手に入らないという根深い思い込みがあるのです。

でももともと世の中は、「自分にある」と思ったものしか手に入らないという仕組みになっています。外を探せば探すほど、さらに探さなくちゃならない人生に突入です。被害者もやればやるほど、被害者チックな人生になってしまうし。

だから、すべては「自給自足」から!まず、「自分でどうにかする」。そうすると、不思議なことに外からそれらがどんどんやってくるようになるのですよね。たとえば、自分を大切にすれば、人からも大切にされる・・・というようにね。

「被害者」を一生懸命やる時間やエネルギーを節約するだけでも、人生そうとう軽やかになりそうですよね。この時代の究極のエコかもしれません。

11-08-19 世の中、勝手な人ばかり・・・

わたしたちは「自分の考え」というものに、簡単に騙されてしまうことが多々あります。そして、お悩みの原因も外からやってくる、と思っていますが、じつは「自分の考え方」に勝手にハマってしまっているだけなのです。

たとえばこんなふうに・・・。

クライアントさん:「主人がいっつも勝手で困ります。ほんとに自分のことしか考えないのです。結婚してからずっとです」
わたし:「“いっつも”って、それは毎日、四六時中っていうことですか?結婚して以来、年がら年中そうなのですか?」
ク:「(ちょっと考えて)いえ、・・・毎日ではないのです。ときどきです」
わ:「“ときどき”って?一週間に一度とか?」
ク:「(また考えて・・・)今回のお金の問題は、そういえば一年ぶりに衝突しました」
わ:「一年に一回しか会わない友人に対して“いっつも”会ってる、とは言いませんよね。ということは、ご主人はおおよそ一年に一回勝手な感じがする、ということですね」

上のやりとりを見てもわかるように、「“いっつも”そうなんだよ」と安易に言ってしまうと、言った本人でさえもそれが絶え間なく行われているような錯覚をおこします。でも、そもそも“みんな”とか“いっつも”という言葉は、じつは三人とか三回ぐらいでで簡単に使われてしまうのです。三回何かが起って、「もう、いっつもだよ〜」と言ってしまうと、三回が十倍ぐらいにふくれて感じられます。とくにネガティブなことにこの“いっつも”を使ってしまうと、自分がとてつもなく被害者になったように感じられるのです。実際はたった三回だったのに、「いっつもあの人は約束を守らない。ひどいわ」と言ったがために、本人は永遠に裏切られているように感じてしまう、というように。

クライアントさんのお話しをうかがうときには、いつもちょっと引いた目線で全体を眺めるようにしています。すると、問題の根本がわかりやすくなるのですね。

たとえばこのクライアントさんの言いぶんでは、だんなさまは「勝手、自分のことしか考えない、結婚以来そうだ」とのこと。

人の性格というものはそうそう変わるものでもないので、客観的にみるとこのおくさまはだんなさまに対して、結婚前は「勝手」なところに「頼もしい、頼れる」という名札を勝手に貼って満足していたのかもしれません。しかし長く生活してくるうちに自分もだんだん逞しくなり、か弱く頼りたいところもなくなってきたので、逆にその「頼もしい」ところが自分と対立し鼻につくようになり「勝手」という名札に変わっちゃったのかもしれません。

この場合、だんなさまはただいつもの自分として存在しているので、ほとんど相手からの不平を理解できません。「なんと、こいつはうるさくなったのだ」と思っているだけでしょう。ただ、おくさま側の相手に求めるものが変わっちゃっただけなのです。

すると、「自分のことしか考えない」という言い分も、もしかするとそれってご自分(おくさま)のことかもしれません。相手は変わっていないのに自分が勝手に変わって、「あなた、わたしのニーズにあっていないわよ!変わりなさいよ!」と言われても・・・(汗)。(そうなんですよ、わたしたちの求めるものは刻々と変化しています。だから、欲しいものを相手から得ようとすると、そのときは得られるかもしれないけれど、得てしまったらもうお腹いっぱい、用はなし!になっちゃうのです。皮肉なものです。)

このだんなさんに対する文句も、じつはこんな自白になってしまうのです。「わたしって、いっつも勝手なんで困ります。ほんとうに自分のことしか考えてないのですよ。それは結婚してからずっとです。だから、主人は昔からあるがままなのですが、わたしの高まるニーズに合わせて変わってくれないとむしゃくしゃしちゃう自分なんです」・・・と。

心理学でもこの自分の目に映る世界は自分の無意識の心の反映であるといいます。そしてまた、わたしたちはすべてのものを自分の思考を通して解釈しています。つまり、自分色に染めてから意味を与えているのです。すると、ついつい真実を見極めることができなくなり、自分の思考にコロリと騙されてしまいます。その思考が自分にとってプラスの見方を提示してくれるならいいのですが、わたしたちの中にはよわよわな自分がいて、どうにか「被害者」になりすましてたくさん周りからガメてしまおうという魂胆があり、虎視眈々とそのチャンスを狙っているのです。

だいたい外側に見える頭にくることは、自分がもれなくやっているか、隠していることです(いやですね〜、我ながら・・・汗)。「相手はずるい、勝手」だと思う時、じつは自分のほうがそれを上回って「ずるい、勝手」な考え方で相手をコントロールしようとしているものなのですね(なんせ、わたしたちの基本的な考えは“より多く奪い取る”ですから・・・トホホ)。

ほんとうは「被害者意識」や「欠乏感」を無くして、相手に期待しない、相手から与えてもらおうとしないことが、自分自身幸せに、そして相手とも末永く仲良く過ごせる秘訣ですよね。

なので、まずは文句を言うよりも自分と向き合うこと・・・そうすれば、自分の内側からいやなものが飛び出して外の世界に現れ、自分がそれと取っ組み合いをすることが少なくないります。

「charity at home」という言葉がありますが、これは外に行って慈善活動をするよりもまず自分の家庭の平和から・・・ということ。そして、家庭の平和も自分の心の平和から・・・なのですね。

 

11-09-19 怒りたいんです...ワタシ その1

最近多いご相談に、「怒り爆発!怒りをコントロールできな〜い」というのがあります。男性も、女性も。

「気にくわない!」「ガマンできない!」と思わず爆発してしまい、爆発したあとから後悔がおそってくる、というのが怒り。怒りを使うことによって、よりよい解決策は決して望めはしません。さらなる相手からの怒りを生むか、反感をかうか、あるいは関係が決裂する・・・そして自分をコントロールできなかった自分自身に対する自信も失って・・・けれど、また懲りずに怒ってしまう、という繰り返し。

まず怒りはどんなメカニズムでやってくるのでしょうか?

彼氏との会話にバクハツしたA子さんの場合でみてみると・・・
1、 何か出来事が起ります
たとえば、彼氏が昔(自分とつきあう前に)、二股をかけて二人の女性とつきあっていたということを告白した

2、 自分の信じていることに基づいてその事実を価値判断する
「ってことは、一人に決められないという浮気願望があるんだ。いや、すでに浮気しているに違いない。そうだ!会ってないときは浮気してるんだ」と判断

3、 その価値判断が自分のいちばんのウィークポイント(痛み)にヒット
「裏切られたんだ、捨てられたんだ!」という痛みがのボタンが押される

4、 怒りの爆発!!!
「だったら、たった今、別れてやる!」相手を罵り、別れ話をはじめる

(ちょっと、ちょっとぉ、実際のところ、今現在、目の前ではなんにも起きていないのよ。彼は過去のことを語ったかもしれないけれど・・・。今まで二人で仲良くお喋りしていたんじゃないの?何で突然別れ話に飛躍?)

ふ〜〜〜・・・・(汗)。あっというまに別れまで驀進してしまいます。

誰にでも「人とは、世の中とは、世間のルールとは、こういうものだ」という自分独自の持論があります。持論というのはそもそも人の数だけあって、それは同じではないのです。しかし困ったことに、人は自分の持論がまるで世の中の普遍のルールのように絶対であると勘違いしているところがあります。だから自分のルールにあっていない人を発見すると、たとえあからさまな怒りにならなくとも、「何やってんだ、コイツ!?」とか「信じられないことするな〜、どういうつもりなんだ?」と、心の中では自分のルールにあってない他人を非難しこきおろします。

小さいときに甘やかされて育っていたり、なんでも自由にできてガマンをすることを知らないと、人との意見の違いを受け入れるキャパがなく、また自分の感情をコントロールすることにも慣れていません。そうすると、すぐカチンときて、プンプン=3 となりやすいようです。

また、その家の感情のカラーというか、テンションというのもあります。たとえば、父なり母なりが怒りっぽいと、その感情表現の仕方がまっとうなものと認識して、こどもたちも真似をするようになります。たとえば父親が星飛雄馬のお父さん一徹さんみたいだったら、日常にしょっちゅうちゃぶ台がひっくり返っているわけです。そうすると、そのこどもも「気に入らないことがあったら、モノを蹴散らしてもいいんだ」「家庭の日常風景というものは、ちゃぶ台がひっくり返ることだ。誰もひっくり返さないなら、自分がひっくり返そう」と刷り込まれます(飛雄馬くんは成長してお父さんになったあかつきには、きっとダイニングテーブルをひっくり返しまくっていることでしょう)。

先ほどのA子さんの問題点は、「彼が昔の二股の話しをした」ことと「彼が、現在浮気をしていること」をソク結びつけてしまったこと。「昔の二股」と「今現在の浮気」はイコールではないのです。しかしA子さんは自分の過去の痛みの経験から、反射的に結びつけてしまいました。彼女の痛みとは、幼い時に愛するお父さんが「浮気」をしたことによって負った心の傷。父の「浮気」=愛されなくなる自分、捨てられる自分。つまり、父の浮気は幼い彼女の生存をおびやかしていたのかもしれません。そして、今もなお「浮気」という言葉を聞くと、「捨てられる」という怖れが自動的に浮上し、その苦痛から逃れるために「怒り」というさらに強い感情を使ってこみあげてきている怖れをおおい隠していたわけです。

わたしたちはこみあげてくる怒りに対して、どう対処したらよいのでしょう?
(その2に続く)

 

11-09-19 怒りたいんです...ワタシ その2

(その1から)

「怒り」のメカニズムをもういちど復習してみると、わたしたちの中にはものごとに対する独自の価値判断があって、価値判断するやいなやその価値判断にまつわる「過去」の痛みにドッキングし『怒り』が発生する、という仕組み。つまり、「昔、二股かけてたことがある」という彼氏の告白(出来事)→「ということは、浮気常習犯=今もそうに違いない」と判断(独自の価値判断)→わたしを捨てるなんて裏切りもの!(過去、父親が浮気をして裏切られた痛みにヒット)→その痛みに耐えられなくなり、怒り爆発!

わたしたちが怒るなり傷つくなりしているとき、たった今起っているものごとに反応しているように見えますが、じつはそうではなくて自分の中にある解決していない感情に反応しまくっているのです。そしてそのつらい感情が浮上してくるのが耐えられないので、怒りという強いエネルギーに置き換えて自分でも何が何だかわからなくしてしまおうとするわけです。

誰にでも「ふれられたら爆発してしまう」かもしれない抑圧された痛みがあるものなのですね。男性だったら、「バカにされた、見下された」というのがダントツに多いウィークポイント。たとえば、街でぶつかられた(出来事)→これって、わざとだろ〜(独自の価値判断)→バカにしやがって、見下しやがって(過去に兄弟、友人にいじめられたキズにヒット)→怒り爆発!殴りかかってしまう。

他にも、「無視された」「裏切られた」「軽蔑された」「認められない」「貧しい」のような抑圧された痛みの感情があり、容易に怒りにつながってしまうことがあります。

みなさんもご自分がムカっときたり、怒りがバクハツするパターンを調べてみると、自分がどのような痛にみヒットしているのかわかると思います。(これは出来事そのものが痛みにふれているのではなく、あくまでも自分の物事への解釈、価値判断が痛みにヒットしてしまっているのです。)

怒りにくくするためには、実際に起きている出来事に対してそれを解釈する自分のパターンを冷静にチェックする必要があります。自分をみじめにしたり、苦しくなる考えをしていないかどうか。また、自分の癒されていない痛みであるウィークポイントが何なのかを知っておくことも役に立ちます。

わたしたちは出来事によって自分の感情が左右されると思っています。しかし、実際のところ、ものごとには「ただ起きているだけ」。それに対して、どのような意味付け、価値判断をするのかによって、わたしたちの感情が生まれてくるというわけです。なので、自分を苦しめるような意味付け、考えをしていないか気がつくようにすることは大切なのです。

何かにひどく怒ってしまったら、何かに落ち込んでしまったら、ちょっと立ち止まって、自分がその出来事をどのように意味付けしているのかを確かめてみてください。あるいは、いつもポジティブに見える友人に、同じ出来事に対してどのような意味付けをするのか聞いてみるのもいいと思います。

しかし、クライアントさんと怒りについてのセッションをしていて気がついたのは、なかには「怒るために怒っている」という怒りもあるということでした。

これはどういうことかというと、怒りたくて怒っているのです。つまり、怒ることが目的。怒るとアドレナリンが出る→すると、心臓がバクバクして血液が全身を駆けめぐる→その結果、ルーテインで退屈だった日常の中で、刺激が生まれる。→生き生きしているように感じて、「ああ、生きてる!これが生きることだ」と実感する→なので、生きてる感じが足りないなと思うと、怒りたくなる。そして、「生」を実感しようとする、というクライアントさんもいらっしゃいましたよ。

あるいは、「世の中の誰にも相手にされていない」という孤独感を感じるとき、相手に対して勝手に怒りをだくことによって、相手と関係が構築された気になる、つまり一方的な感情で擬似人間関係をつくっている・・・というパターンも。

また、怒っているときにあまりにも大きなエネルギーを感じるので、まるで宇宙を突き抜けて神とつながっているような神々しい気分になる・・・というケースも。このクライアントさんの場合は、セッションで調べたところ「巫女さん」だったような過去世の記憶があり、昔のパターンを今だになぞって生きていたようです。

何にしても、日常で自分が無意識のうちにしてしまうことは、必ず何らかのメリット、手に入るものがあるのですよね。怒りも、あとのダメージは大きいものですが、それにも代え難い「快感」「優越感」「満足感」があるようです。自分がどんな痛みを隠そうとして怒りを使っているのか、また何を手に入れようとしているのか見てみると新しい自己発見があるかもしれませんね。

もともと世の中というところは「全員違ってあたりまえ」。容姿も生活環境も好みも、考え方も物事に対する意味付けも。同じであるはず・・・という考えがじだいが、偏見、差別、攻撃、そして怒りをも生むのですね。最初から考えが違ってよい、違ってこそ大正解、ぐらいにゆるく考えていると、怒りのスイッチも入りずらくなるかもしれません。

追記・・・まったく「怒らない」のが健全というわけではありません。怒っていいのです。「怒る」のは「怖い」「嬉しい」とかと同じで、たくさんある感情のひとつにすぎません。抑圧してしまうと、他のすべての感情が平板になって何も感じないつまらない人になってしまいます。個人的に怒るのはぜんぜんかまいません。問題なのは、大気汚染のような「怒り」。自分の怒りをまわりにまき散らすこと、あたりちらすことです。

しかし、どちらにしても自分の人間関係や人生を一瞬で台無しにする破壊的な「怒り」はその場に応じてちゃんとコントロールできるようになること。すると人生もよりスムーズになりますよ。

11-11-28 お母さんの癒しはセラピーのキモ!

不登校やひきこもりを専門に扱われ、数々の講演会をされているカウンセラーの安川雅史さんのお話しを聴きに行ってきました。

「オフィス・るん」のセッションでも、ひきこもりの問題をご相談される方は年々増加しています。年齢層も子どもさん、学生さんから、もう数十年にもわたるひきこもりの方まで。

ご本人自ら問題を持ち込まれることはめったになく、たいていはご両親から「うちの子をどうにかしてください」というご相談です。

「うちの子をどうにかしたい」という親御さんに「ではまず、ご自身(両親)のカウンセリングからはじめましょう!」と申し上げると、ひっくり返るるほどびっくりされます。「問題はわたしじゃなくって、ウチの子ですよ!あなた、いったい何を考えているの?」と言わんばかりです。

でも、今まで当のひきこもりさんに会ったことはほとんどなく、ご両親、とくにお母さまのセッションをすることによってほとんどのケースを解決してきました。不思議なことにお母さまが癒されると、お子さんはお部屋から外に出てこられるようになるのです!これはひきこもりに限らず、お子さんの病気などの場合もお母さまのセラピーで癒されてしまうケースが多いのです。

お母さまにしてみたら、ちょっとこの事実は耳が痛いかもしれません。でもわたしたち、とくに親子はしっかりと潜在意識で結ばれているので、お母さまのココロをちょっと変えるとお子さんの精神状態も変化するものなのです。

それに、こんな実験結果もあります。お母さんと生まれたばかりの子どもの粘膜細胞を採取して、それぞれ別の部屋へ持ってゆきます。そしてお母さんの細胞に刺激を与えると、即座に離れたところある採取した子どもの細胞が反応するというもの。親子はこのようにつねに密につながり合っているし、たとえ親子でなくてもわたしたちは「みんな」しっかりとつながりあっているものなのですね。

家族のパターン(コミュニケーションスタイルや感情の持ち方など)は、親から子へと代々受け継がれてゆきます。それが良いパターンであれ、役に立たないパターンであれ、無意識のうちに学習されてゆくものです。それがダメージを与えるものであっても、それしか知らないとそのやり方が正しいことだと思ってしまいます。

問題の原因のほとんどは、親のココロのにあるぽっかりとあいた空虚な穴が「埋めてくれ」と子どもにその矛先を向けてしまうことです。親自身が自分の親に真に向き合ってもらった経験がないため、自分の子どもにもちゃんと向き合うことができず、それが子どもの心のひずみの原因となります。また、親自身のパートナーシップがうまくいっていないため、足りない分の愛情(本来はだんなさんからの愛情)やサポートや同意を子どもからもらおうと、子どもを自分の道具にしてしまう場合もあります。あるいは、親自身が現在の生活に不安や欲求不満を感じているため、その不安定さを子どもがすべて感じとり吸収してしまうよな場合もあります。

お母さまのココロのひずみが子どもに伝染してしまうのです。

お母さまが子どもの状態がどうであろうと、どっしりと構えて、「何があっても、あなたがどんな状態でも、お母さんはあなたの味方!あなたのことを愛しているのよ」ということを面と向かってしっかりと何度も地道に伝えてゆくことがどれだけ大切なことか。

「しっかりと向き合うこと」「愛情をていねいに伝えること(わかってるでしょ!はダメ)」・・・これをお母さん自身が体験していないため、身についていないことが問題なのです。

安川さんも、まず親のカウンセリング、そして逃げずにしっかりと愛情を伝えることだとおっしゃっていました(本当にそうですよね!やっぱり「愛」です!)

わたしたちはどんな問題に直面しようとも、まず自分と向き合い、自分をどうにかすることでしか問題を解決することができないのです。結局、子どもといえども他の人をコントロールすることはできないし、変えることもできないし、自分の思いどおりにしたいと思ってしまうこと自体が間違いなのです。

そうなると、問題を解決しようなどと思わずに、まずはすべてを「よし」として受けとめ、そこから真のコミュニケーションをスタートしてゆく必要があります。

そして、もし目の前に問題があるのであれば、それは「自分自身を変えなさい」「自分が成長できるチャンスですよ」「もっと幸せになることができますよ」と教えてくれているのです。まずは、自分をしっかりと見つめて、思いやりを持って自分を癒すこと!自分が穏やかになり静かな愛情で満たされたとき、きっと自分の目にも同じものが見つかるのでしょう。

12-01-23 オールを放せ!放しなさいってば!

二十年来のおつきあいのある友人のお誕生日と新しいお仕事のお祝いです。アイスクリームにささった花火、そしてお店のオニイサンたちがみんなでBDソングを歌ってくれましたよ♪

彼とは古くからの学びの同志。国内のみならず国外にまでせっせと修行に出かけた仲です。

しかし昨年秋、仕事を辞めてからなんか様子がおかしい。自分で仕事をはじめる新たなチャンスにわくわくしてると思いきや、どよよ〜んとして、とにかく暗い!重い!この世の終わりみたいな顔つき。聞けば、何も仕事がない状況がこわくてこわくて仕方ないと。「とにかく俺に仕事をくれ〜」と叫びたい状態らしい。

その怖さに耐えきれず、あせって葬儀屋に就職しようとしたり(おくりびと?)、あるときは深夜に魚のエサを運搬するバイトで心を慰めたり・・・。そして、ついに頭を丸めることまで考えたそうな(きゃ〜・・・、生ぐさ坊主・・・)。

クライアントさん以外の人生には頼まれなければコメントしない主義なのですが、いささか言いたくなりましたよ〜。「ちょっとぉ?あなた何やってるの?」って。以前から自分で仕事をする夢を語っていたので、さすがに「違うでしょ〜」って「喝」を入れたくなりました。

そして年も明けて、その後どうしているかな〜と連絡してみたら、どうやら万策尽きはてたあかつきに、なんとチャンスはあらぬ方から降ってきた様子です。最終的には、もともと自分がやりたいと思っていた個人事業をはじめる機会が予期せぬところから現れたそうな。

ほんとうにおもしろいもので、わたしたちは自分のオールで力の限り漕ぎまくって、しかしそのときにはぜんぜん思う方向に進まず、なぜか同じところをグルグルしているか、まったくあらぬ方向へとたどり着いてしまう始末。頑張れば頑張るほど、結果がでない、という悲惨な状況。

しかし、これってどうやら、漕ぎまくった末に力尽き果てて「もう、どうにでもなれ!」とぐったり静かになる瞬間を神様はねらっているような・・・(たちワル!笑)。なぜかって、この人に力尽きてもらわないと、あれこれ抵抗して神様が計画したせっかくのベストなプランを行使することができないから。(まあ、殴って気絶させて、いちばんいいコースへひきずって行くよりはお手柔らかですが・・・。あ、でもそういうケースも目にしたことはあります。神様も見るに見かねたのでしょうね。)

神様はせっかく彼のために計画したとっておきのプランを邪魔されたくないから、オールを放棄する気がないなら、ちょっとエネルギーを使いそうなあれこれを用意しておいて、ようやく力尽き果ててもうどうにでもなれ!と静かになる瞬間までじっと待っていたのでした。

ほんと、こういうことってよくあります。わたしも、あ〜でもない、こ〜でもない、とやりすぎて、「ああ、もう疲れた!どうにでもなれ!」と思って放棄したときに、たいていいちばんよい道がおのずとやってきたことが何度となくありましたっけ。

つまり、オールは自分で握らんでいい、流されてちゃってください、行き先は秘密だけどかなり楽しいよ〜♪と。邪魔になるから、ジタバタしないでおとなしくしていなさい。まかせなさい、信頼しなさいってこと。

なぜって、漕ぎまくっているときには何か「抵抗している体験」があって、そこにたどり着きたくないからこそ漕ぎまくる。けれど、『あなたの人生に何かを実現させたかったら、それに抵抗しまくりなさい』っていうぐらい、じつは「抵抗」は確実に抵抗していることにたどり着いてしまうベストな方法なのです。(何かを手に入れたかったら、それに抵抗しましょう!)

セラピーでのクライアントさんを見ていても、また周りの友人を見ていても思いますが、結局は力を抜いて「来るもの拒まず」の態勢が、じつはベストな道への最短距離のよう。宇宙はわたしたちの頭では予測できない抜け道、欲しい結果へワープできる入口を用意してくれているのだけれど、それは一見洗練されていない道のように感じたり、効率悪く感じたり、間違っているように感じたり、なかなかわたしたちのお好みにはあっていないようなのです。

でもそこはつべこべいわず、とにかく目の前やってくるものに素直に「YES! 」と言うこと、そして信頼してそれを地道に体験してゆくこと。「ぜんぜんわたしの希望とちがうじゃな〜い」とふてくされず、怒らず、たんたんと目の前にある「今」を「ありがたく」受け入れてゆくことが大切です。(「ありがたく」受け入れる、はキーポイント。わたしたちの人生は褒めたたたえないと、先に進まないのです。褒めたたえてない時は不満があって抵抗しているとき、するとそこにエネルギーが集中して重くなり進まなくなります。)

そうです、ついついシリアスになるとエネルギーがどよよ〜んと重くなって、とたんに流れが悪くなり、ひっつき、いつまでたっても同じ場所に停滞してしまってメビウスの環をグルグル!とうことに。なので、とにかく人に何を言われようとノーテンキ!軽く、楽しく、朗らかに、そして目の前のことに感謝する。

人生、サクサク進んでゆくには、なにごともギャグにしてわらっちゃうこと(その点に関して、“るんスタッフ”は天才的なのでずいふん助けられています。一緒にぎゃはぎゃは何でも笑いに変えてしまうと、あっというまに嵐はすぎさっちゃうことしばしば。)

今回、旧友K氏を見ていて、オールをさんざん振り回したあげく、ついには地面につっぷし、その途端に地割れがするように新しい「彼の欲しかった」現実が現れるのを目の当たりにしましたよ〜。(彼が書いていいというので、書かせていただきました。)

気づきをありがとう。そして、Happy Birthday and Congrats for your new job! (もう、オールはへし折ったかな?)

PS 豆乳しゃぶしゃぶ、おいしかったです♡

12-01-28 「あなた」と「わたし」の人生の境目

セラピーセッションの中で、「あなた」と「わたし」の境界線があいまいになっていることによって問題や悩みが起きていることが多々あります。

ということは、それだけわたしたちの中では人と自分との境界線が自覚できていないということです。

身体の境界線なら一目瞭然ですが、目に見えない相手との境界線ってなんでしょう・・・?

境界線の問題は、恋人や家族という近しい間柄に顕著です。

つまり、「わたしの夫」「わたしの妻」「わたしの恋人」「わたしのこども」という名のもとに、相手の思考やら人生にズカズカと勝手に介入してしまうということです。

「あなた、そんなことするべきじゃないわよ」という文句、「あなた、こう生きるべきでしょ」というコントロール、「あなた、ちゃんとできないならもう知らないわよ」という脅し・・・。これ全部、自分のことではなくって、相手の人生に関することです。

ほっといてくれ〜、と言いたいけれど、けっこう日常で無意識のうちにこの文句やコントロールや脅しは使われています。

近しい関係では、相手を思うあまり相手に自分のパワーを明け渡してしまい、相手と自分を同一視した結果、相手を自分の一部のように錯覚してしまいます。ひどくなると、自分自身は完全にお留守で相手の人生を生きようとします。(これは恋愛初期に見られる症状。自分はもぬけのカラで相手のことばかり考えています。あるいは、自分はそっちのけで尽くしすぎたりします。一見、熱愛のように見えますが、たんに相手に憑衣しているだけです。)

そもそも「自分」と「相手」は別の存在。さきほど書いたように、身体を見れば一目瞭然、別個の存在です。そして、個人としてわたしたちは「自分」の人生を好きなように「自由に生きて体験する」、という目的のためにここにやってきているのです。あくまでも主役は自分、自分の人生とまっこうから向き合って体験し充実させなければなりません。ほんとうは、人の人生にお出かけしているヒマはないのです。

でも、自分への自己評価が低いと、自分の人生なんてとるにたらない、よし!この人(夫、妻、恋人、こども)の人生でわくわくしよう!ということになり、ズカズカ境界線を越えてもの申したり、ちょっかいを出したり、コントロールしたりすることになるのです。

そしていったん自分の手綱を相手に渡したなら、相手(夫、妻、恋人、こども)は、勝手をするなんて許されない、自分の期待に答えるべき、と信じます。自分のことをわくわく喜ばせるような生き方をするべきだし、自分の自己評価の低いところの埋め合わせもすべきなのです。(だから、おちこぼれもカッコわるい人生ももってのほか!)

でも、わたしたちは自分個人が、いわば好き勝手なやりたい人生を思う存分謳歌するためにここにいるのですね。そもそも、それぞれが相手の期待に答えるための存在ではない、ということです。

もし、夫、妻、恋人、こどもがそれぞれの人生を生きていることに関して不満を言いたいのであれは、もしかすると、自分が自分の面倒をちゃんと見てあげていないのかもしれません。自分をからっぽにしておいて寂しいから人の人生にお出かけするのではなくって、ちゃんと自分のところに戻って、自分の気持ちを聞きながら喜ぶような人生にしてあげなければならないのです。

相手にムカっとくるポイントがあるときには、かならず「抑圧した痛み」という自分のお宝が隠れています。相手が好き勝手して頭にくるなら、おそらく「わたしはガマンしているのに、あなただけ好き勝手するな!」という自分につけている足かせが明らかになるだろうし、相手の能力不足やだらしなさを責めたいなら、「あなたのその能力のないところをみていると、わたしの中にある劣等感がちくちくするからそれを見せないで!」ということかもしれません。

わたしたちはこんな痛みがあると、すぐさま「あなたがその痛みの元凶だ!」と相手を責めたくなります。だから、そこを正してあげるために相手に介入しなくちゃ!と。

でも、いつだって目の前にぶら下がっているのは、自分の中の何か。そしていつだって相手に挑みかかるより、自分と向き合うことによって解決しなければならないことなのです。

相手をコントロールしたいと感じたとき、文句を言いたいと感じたとき、間違っていると感じているとき、ちょっと思い出してみましょう。相手はどんな人生であっても、そのままの人生を生きる権利があること。そして、その人生は自分が思うようなステキな結果は出ていないかもしれないけれどそれは自分の判断であって、その人にとってはこの時点ではベストな選択、結果であること。もし、問題があれば本人が気づいて何かを学ぶことによって、修正する必要なあるときに修正されるということ。そして相手がサポートを必要としている時にだけ、相手を尊重しながらその手伝いをすること。

「相手をどうにかしたい」を手放せば手放すほど、相手に明け渡していたはずの自分のエネルギーが戻ってきます。すると、不思議!あんがい自分の人生が軽やかに流れ出すのを体験するかもしれません。

12-02-12 ココロの日々ケア

わたしたちがココロにダメージを受けてバランスを崩してしまう原因は、成育過程で虐待にあったり、大きなトラウマ体験があるというようなことばかりではありません。

他の人は気づかないようなほんのささいなことが少しづつココロの棘として残ってしまい、あとで大きな問題になることもあります。

たとえば、言葉にすらされないノンバーバルコミュニケーションで、母親がしっかり目を見て話してくれないとか、態度でプレッシャーをかけるとか。いっけん、気がつかないようなこと。問題を抱えるお子さんをお持ちの親御さんと話しをすると、わたしはそんな虐待はおろか、ひどい育て方はしていないとおっしゃいます。はい、たしかに。ほとんどは言葉というよりはエネルギー、その子の心に沿っていないコントロールや強制的な態度、認めない態度が問題なのですね。そんなとってもささいに見えることが永年ボディーブローのように効いて、それを受けたこどもは大人になって「とにかく依存したい」とか「どうしても自己肯定感が持てない」「うつっぽい」など、知らず知らずのうちに弊害を被っていることが多々あります。

じゃあ、成長して大人になったからもう大丈夫かというと、そんなことは全然ありません。

そして日常生活でも、わたしたちはまさにボディーブロー的なストレスを日々受けとっております。

セラピーにいらした方に、「現在お持ちの心や身体の不調が起る前に、何かストレスを感じましたか」とお尋ねします。すると、「恋人と別れました」「仕事で失敗して怒られました」などの大きな心理的プレッシャーが存在する場合もあるし、まったく何もなかったとおっしゃる方もいらっしゃいます。

でもほんとうに何もなかったのかというと、じつはあまり意識されていないボディーブロー的なストレスの積み重なりというものが存在していて、それは心身のバランスを崩すには十分なのです。人は日々、心の中で感じた葛藤や、クエスチョンを正当に処理をしておかないと、そんな微々たるものの積み重ねで大きくバランスが崩れココロが誤作動を起こしてしまうこともあるのです。

先日いらしたクライアントさんのAさん。「うつぽくって、自分なんか消えてしまいたい」と。生育歴や過去の心理的傾向をうかがっても、さして問題は見当たりません。

セッションをすすめてゆくうちに浮かびあがってきた場面は、ある雨の日に傘をたたもうとしていたAさんに高校生の男の子たちのグループが乱暴に体当たりしてきて「もたもたすんなよ!ババア!」とののしられたこと。そして、そこから過去に何度か電車やお店で理不尽な扱いを受けたことがあったという記憶が甦りました。自分がとった電車の指定席におじさんが坐っていて、「そこはわたしの席です」と言っても何の反応も示さず坐っていたとか。

こういう言葉の暴力、態度の暴力は、ささいなものとして自分が意識しない分、じつは心の中では未解決になっていることがあるのです。そのような体験が重なったAさんは、その度にモヤモヤした気持ちを抑圧し、また「こんなことされるなんて、じつはわたしって価値がないのでは」「ほんとは、わたしが間違っている?」という余計な信念をつくってしまったのです。

いちばんいいのは、その事件が起った日に友人にでも電話して「きょう高校生のガキどもにババアなんていわれちゃってね〜。ひどいったら。あんなガキどもにいわれたくないわよね〜」と笑い飛ばしてしまえば、そこでエネルギーは解消されたことでしょう。

日々の生活の中では、自分のルールとはまったく違う行動をとり、それによって気持ち的に傷つけられることもあるものです。先日こんな話しも聞きました。コンビニでせっせとコピーをとっていたら、いきなり知らないおじさんが横入りしてきて、自分の原稿をちゃっかりコピーし、ありがとうでもお金を渡すでもなく、そのまま消え去ったとか・・・・。コピーをとっていた彼女はまさにフリーズしたそうです。そしてそのあと、案の定もやもやが続いたとか。こんなのに遭遇することも心のバランスを崩す原因になっていることもあります。

そんなときには、「わあ、びっくりした!」とおじさんに向かって叫ぶとか、あとでコンビニの店員さんに「今、すごい変な人がいたんですよ〜。割り込んできて」と相手がヘンであったことの決着をしっかりとつけるような行動をとっておくといいようです。そうでないと、モヤモヤが長引き、他の問題とドッキングするとさらに複雑になります。一個、一個、小さなビックリ、モヤモヤはそのつど、友人に報告する、心の中でしっかり“びっくり”リアクションするなどして「これはおかしなことだった」ということを自分に教えてあげるといいですね。

ココロというのは、自然治癒力がありたくましい反面、大きなストレス、たびかさなるストレスには繊細に反応します。毎日歯を磨くように、毎日ゴハンを食べるように、ココロの健康もその日のココロの状態に目を向けながら、友人をなぐさめ、はげますように日々ケアしてあげることが大切です。

12-02-27 不満をじょうずに口にするには? その1

いつも自分の感情を飲み込みがちだというクライアントのAさん。

奥さまとの関係でも、「いやだな」と感じることがあってもガマンしてしまうことたびたび。なぜなら、そんなささいなことで何か言おうものなら「小さっ!」と思われそうだし、自分さえ黙っていれば波風が立たたず、いちおう家庭の平和は保たれる・・・と。でも心はいつもモヤモヤ、曇り空。うつうつが晴れることはなく、ついに「なんとかすっきりしたい!」とご相談にいらっしゃることになりました。

男性にしろ、女性にしろ、「波風を立てたくない」という理由で人間関係のフラストレーションに目をつぶってしまう方は多いようです。

しかし前回のトピックでもとりあげましたが、小さなモヤモヤが少しづつたまることによる心の弊害って、予想外に大きなものがあります。ある日突然、理由がはっきりしないウツや精神のアンバランスを招きかねません。

健康的な精神状態や人間関係を保つには、何か自分の気持ちがスッキリしないというときにはそのままにしない、ということが大切です。今、何がひっかかっているのかを明らかにしてゆくこと。もしそこに他の人が関係しているのなら、怖れずにコミュニケーションして改善をはかる努力が必要です。

でも自分のスッキリしないことを表明するのは、相手との気まずさやケンカに発展するのでは?とみなさん心配されるのです。

Aさんにも「日頃から、もっと気になることについて話してみたらどうですか?」と提案すると、ケンカはいやなんです・・・と。「ちょっと待ってください。“話すこと” =  Aさんにとって“ケンカ”なんですか?」とわたし。

そうなんです。「自分が相手に対して気に入らないこと、イライラしていることを口にするのは、つまりケンカを売ることだ」と考えている方が多いのに驚かされます。

たとえば、「そのオモチャひとりじめしないで、こっちによこせよ!」「なんだと〜、オレが今、遊んでいるんだぞ〜」「よこせったら、よこせ!」「おまえなんかに渡すか!」「コノヤロ〜、よこせよ〜!(ボカッと殴る)」・・・・というように、不満を口にするっていうのは、幼い頃にはこんな感情的なケンカに発展しました。

ま、そのやり方しか知らなかったからしょうがないのですが。

でも、これってコミュニケーションでしょうか?これはたんに自分の主張をぶちまけ、相手は当然防衛的になりそれをつっぱね、戦いへと発展します。この図式でいつも自分の要求を通そうとすれば、当然、相手に不満を言うことはとても危険な状態を引き起こします。

これがうまくいかないのは、「本当に相手に伝えたいメッセージ」、つまり「ボクもそのオモチャで遊びたいの」という要求が正しく伝わっておらず、そのかわりにそのオモチャで遊ばせてもらえない怒りの感情が先行してしまい、単に感情をぶちまけることになってしまっているからです。

当然わたしたちは、攻撃されたら同じようにやり返します。あるいは、逃げ出します。でも、そこでは「やった、やられた」という戦いとなり、本当に伝えたかった「ボクもそのオモチャで遊びたい」というメッセージは残念ながらまったく伝わりません。相手をおびやかしてしまったら、相手は一気にコミュニケーション・チャンネルを閉じてしまいます。

この不満をのべること=ケンカという図式も、おそらくおうちの中で両親が「自分の主張」をするときに感情のぶつけあいになるのをつぶさに見てきたことにより、無意識のうちに学習した結果です。「不満をあらわすときには、感情をこめてああやってやるんだな」と。でもAさんの場合は、「あんなことはやりたくないから、波風はたたせず飲み込む」という選択にいたったわけです。

そこで対立をさけてガマンしたからといって、その不満のエネルギーはなくるわけではありません。それは潜在意識の中に少しづつ少しづつため込まれ、ある日突然、自分にも相手にもわけのわからない「大爆発」を引き起こしてしまうことがあります。はたから見ると、「こんなささいなことで、なんであんなに怒り狂っているのだろう?」と人はビックリします。

たとえ大爆発にならなくても、抑圧した感情によっていつのまにか相手に対して嫌悪感を感じるようになっていたりします。潜在意識では、もうガマンしたくなくって自然とその人から離れようとするのです。(相手にしてみたら、そこまで嫌いになる前に、なんで話してくれなかったの?と言いたくなりますよね。)あるいは、病気になってこの戦いから逃れようとする場合もあります。

そんなことにならないために、こまめに不満を口に出すことはやっぱりとても大切。

さて、「気に入らな二ことを口に出す」ことと「ケンカを売る」ことの違いは何でしょう?

このようなフラストレーションのある状況の中で、どうしたらわたしたちは自分の欲しいゴールを達成することができるのでしょう?

(その2に続く)

12-03-01 不満をじょうずに口にするには? その2

(その1より)

そもそも相手にイライラしているからこそ、モノ申したいわけです。すると、どうしても不満や怒りなどの「感情」が暴走してしまいがち。あるいは「文句を言う」ということこそ、文句なんだから腹を立てていてあたりまえと思っている方もいらっしゃいます。

しかし、たとえその内容が正しくとも、わたしたちは誰も「自分を非難されること」には慣れていません。そこに批判や文句があれば、人は素早く身構えてしまうし、ましてや攻撃的なエネルギーが感じられようものなら、すぐに戦闘態勢に入るか、すばやく門戸を閉じてしまうかのどちらかです。

相手とケンカしたい、あるいは相手をギャフンといわせたいという場合をのぞいて、これはうまくいきませんよね。問題解決からは遠のいてしまいます。

自分が本当に伝えたいメッセージがあるからモノ申すのに、すでに聞いちゃもらえない状況です。まずは何よりもちゃんと言いたいことが伝わえること、相手が心を開いてそれを受けとる態勢でなければなりません。そのためには攻撃的な態度やコントロール、非難の気持ちは御法度です。

コミュニケーションとは、あくまでも平和的に行われるもの。それに対して、感情のぶつけあいはただのバトル、ケンカです。そのためには、自分の言いたいことを的確に伝えて、相手の意見にも耳を傾け、ちゃんと意見交換をすること。

ここでは、つい先行しそうになる不快な気持ちや怒りなどはじっと我慢して、ひとまず脇に置かなければなりません。そして、自分が何を伝えたいのかを冷静に的確に言葉にしてゆく必要があります。それも相手が理解できるぐらいの量と内容にしてあげるという配慮も必要(一度にたくさんのことを言われても、相手はわたしたちが思うほど理解できていません)。込み入った問題の場合は、「じゃあ、また話そうね」と言って小出しにすること。あくまでも、軽く、楽しく、平和的な雰囲気で、相手が防御して戦いに発展したり、完全にシャットアウトしてしまうのを防ぎます。

そのためには相手が間違っていても、正してやろう!という上から目線は致命的。それがどんな生き方であろうとも、本人がそれでいいのだ!と言う限り、誰にもそれを正す権利はないのですね。ですから、あくまでも相手の立場や価値感、存在を尊重しつつ、同じ目線で相手の感性への思いやりをもって話すことが大切です。

ネガティブなことを伝えるポイントをまとめてみると、

1、イライラ、怒りなど、この状況に対する「感情的な気持ち」はひとまずワキに置いておく。(感情を出したら逆効果。何も達成できません。ここは、ポーガーフェイス!です。)
2、自分はいったい何を要求しようとしているのかをはっきりさせる。「ゴミを出しを手伝ってほしい」「そのオモチャで遊ばせてほしい」など。
3、相手がなぜ今、それができていないのかを相手になったつもりで推測してみる。「もしかして、ゴミ出しは近所の人に見られるのがイヤなのかも?」「新しいオモチャだから、まだ遊んでいたいんだな」
4、なるべく相手のしていることを邪魔しない時間に話しかける。「ちょっと、話したいことがあるんだけど今いいかしら?」と明るく、軽く。
5、立ったままよりも坐るなどして、目線の高さをあわせる。(上の方から話しかけると、それだけで相手は防衛的になります。)
6、本当に伝えたい用件を、感情をまじえずに、明るく、軽く、シンプルに、相手にわかりやすく手短かに伝える。「ねえ、ゴミ出しのことなんだけど、手伝ってもらいたいの」「そのオモチャ、ぼくも遊びたいんだ。いつあくかな?」
7、つっぱねられたり、拒絶的な態度にでられたら、やんわりといったん同意し受けとる。「あら〜。そうなの」
8、「わたし」の問題ではなく「ふたり」の問題であるように自覚させ、相手が何か提案できるように質問する。「そう、困っちゃたわね〜。ねえ、ゴミたまっているんだけど、どうしたらいいと思う?」
9、自分の要求と相手の言い分との落としどころをさぐる。(ある程度は妥協も!)
10、込み入った問題のときには、あらかた自分の意図は伝えてたらいったんその場は退却し、日をあらためる。「じゃあ、また話そうね〜」と一時保留。
11、相手を尊重しながら相手の意見にも耳を傾ける。(わからないときには、「それってどういうことなの?」と丁寧にわかるまで何度も尋ねる。尋ねることによって、自分が理解していなかった相手の本当の問題に気づけるようになる。)

つまり、自分の言いたいことを相手が警戒したり身構えたりしないようにソフトに提案しながら、それについての相手の意見を聞きき、歩みよりつつ落としどころを探ってゆくということ。しかし相手が閉じてしまうと、もうそこからはコミュニケーションができなくなるので、言葉を受けとる相手への思いやりが大切になります。

怒っているんだから、相手なんて思いやれるか!と言われそうですが、ソフトなアプローチの方が自分の目的を達成する確立はかなり高くなります。あるいは、相手からの思わぬ協力さえも得られるかもしれません。一方、相手の気持ちを害してしまったら、そこから自分の要求を聞いてもらうことは取っ組み合いをしたとしてもムリでしょう。

そして、一発ですべてを思い通りにしようと思っても、それもまた相手へのコントロールにつながり反発をまねきかねません。ソフトな雰囲気で話し合いが続くようにすること。そして自分もある程度妥協することも必要かもしれません。しかし、攻撃的な姿勢がなくなるだけで、相手は予想外に協力的になったりするものです。

「人と人との関係には、かならずや葛藤がつきもの」ということも覚えておく必要があります。なぜなら、相手はまったく育ちも考え方も信念も違う別の人。わかっていると思っても、そこにははじめから大きな違いがあって当然。「人対人の付き合いでは、意見の食い違いは当然だ」ぐらいに思っている方が、何かあってもわかってもらおうとする努力を続けることができるし、腹も立たなくなりよい関係を長く続けてゆくことができます。

はじめから「相手と自分は違う」と思っていれば、「違い」に対する葛藤も減らすことができます。

また日常の人間関係の中で自分を正しくわかってもらえるように自分の気持ちを話したり、積極的に自分を開いてゆくことも大切なこと。そうすると、相手も安心して「小さな不調和」でも素直に打ち明けてくれるようになります。

夫婦でケンカ、一回もありませんよ!なんて言っているカップルに限って、ある日突然あっさり離婚してしまったりします。食い違いは当然と思って、こまめに打ち明ける勇気をもつと、長く深くかけがえのない関係が築けるようになるのですね。

自分にとって大切な関係であるならばなおのこと。「波風を立てないように」といってガマンしたあげくトルネード級の破壊にならないように、日々のプチなフラストレーションを感じたら自分の伝えたいメッセージを的確にしつつ、軽く、明るく、伝え続ける練習をしてみてくださいね。植物が育つように、ちょっとこまめに手入れをすることによって気持ちのいい関係が育ちだし、きっと以前よりも相手を大切に感じられるようになると思います。

そして、自分の気持ちに対して正直にふるまえることで、自分を幸せに導いてくれる自尊心も育ってくることでしょう。

(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/心理療法家・ヒプノセラピスト)

12-04-16 やめられないんです♪被害者は! その1

この地球に住むわたしたちは、ホント「被害者」になるのがだ〜い好きな生き物のようです。

世界中どこでも、「被害者」であるかわいそうな自分を守るために争い、戦い、略奪し、なにか不都合があれば即座に誰かのせいだと思おうとします。国が悪い、環境が悪い、政治家が悪い、親が悪い、やつらが悪い・・・と。もはや「被害者」ということに対して中毒症状。やめたくってもやめられません。しかも、そうなっていることにすら気がつかないのです。

わたしもこんな経験がありました。ある海外のセミナーで「潜在意識を浄化する」ワークに日々を費やし、自分の中のかわいそうなわたしや被害者意識をクリアにすることに専念していました。その帰路の飛行機でうとうととまどろんでいると、突如「ぜったい、ぜったい、ぜ〜ったい、何が何でもぜったいに被害者でいてやる〜〜〜!!」という声が自分の心の中におどろおどろしく響き渡ったかと思うと、その直後から飛行機が尋常ではない恐ろしい揺れ方をしはじめたのです。もともと心には山をも動かすパワーがあります。この場合、悪くしたらわたしは自分のエゴ(被害者意識)にそれを抹殺しようとしたことによって殺されかねない状況だったのです(幸い、飛行機は落ちずにすみました)。これはエゴのパワーのすごさを感じた瞬間でもありました。(と、いうわけで、わたしのエゴはいまだご健在でありますが・・・。)

でもね、被害者でいることはエゴにとっては利益があってやめられない楽しい習慣かもしれません(病弱なわたしに母はやさしくしてくれる、失業したわたしに彼は同情してくれる・・・など、自分を弱く感じれば感じるほど、被害者意識が強くなります)。しかし、被害者意識は百害あって一利なし。自分の首をしめることになり、また自分の欲しいものを破壊してしまうことにもなりかねません。

さて、きょうはそんな誰もが大好きな被害者をどうしてもやっちゃうA子さんのお話。

A子さんは夫婦問題でセラピーにいらしています。

以前からだんなさまとの間に問題がなかったわけではないのですが、彼の携帯をのぞき見してしまったところから、A子さんの心のバランスが大きく崩れることとなりました。

「なんかあやしいぞ!」と思って携帯をのぞいてしまったら、案の定、思ったとおりの結果が・・・。

「昨日は、ごちそうさま。○○さんはお話し上手でホント楽しかったです。また連れて行ってくださいね〜」というデートをしたらしいメール。あるいは、「心ばかりですが、バレンタインのチョコレートで〜す」というプレゼントをもらったようなメールまで。

彼には携帯を見てしまったことは話していませんが、それ以降、彼の態度がそわそわしていると「彼女からのメールを待っているの?」、あるいは「メールをしたいの?」と憶測したり、彼の帰りが遅いと「ああ、きょうは彼女とデートしてきたのね」と落ち込んだり。また、だんなさまの機嫌がよければよいで、「ふうん・・・うまくいってるんだ・・・」と落胆し、機嫌が悪ければ「どうせ、わたしといたくないのでしょ」と悲観的になります。

そして不安ばかりがふくらみ、何も手につかず、ゴハンも喉をとおらず。そしてだんなさまに対しては、ついつい皮肉っぽかったり意地悪な言葉をなげかけるか、機嫌をとって媚びるような態度をとってしまうそうです。

そこで、A子さんに聞いてみました。「もし、ほんとうに浮気していたらどうしますか?別れますか?」彼女の答えは「その過程はどうでもいいんです。それよりも、また仲良く平和に信頼しあって暮らしたい」。

さてさて、彼女の生活にはほんとうに平和や信頼がないのでしょうか?彼女が言うように、平和や信頼を台無しにしたのはほんとうに彼なのでしょうか?

まず、メールを見ちゃったことは、一つめの NG です。

人にはそれぞれの境界線というものがあります。私の世界と彼の世界は同じではありません。結婚という形態をとっていようとも、自分が生きなければならないのは自分の現実、自分の境界線の中であって、人の境界線に踏み込んだり、その中のことをあれやこれやコントロールしようとすると、必ず無力感を感じるし、ストレスで苦しむことになります。

人の境界線をむやみにおかしているときは、実は自分の境界線も大切にしていません。自分と人が曖昧になっているごちゃまぜ状態です。彼がこう感じているから、わたしもこう感じなくては。彼がこう反応しているから、わたしも同じように反応しよう。どんどん自分がなくなって、依存的になってゆきます。自分が誰だかわからなくなります

相手の境界線に入っているときには、「あなたは、わたしが思うようにふるまうべきである」という「べき」ルールがあります。しかし、いくら心の中で「あなたはわたしの思うとおりにふるまうべきである」と叫んでも、結局は人はふるまいたいようにしかふるまいません。人は変えられないのです。「べきだ」は現実に起っていることとはあわないので、もれなく葛藤を感じるハメになってしまいます。

そもそも、メールを見ていなければ、A子さんの心には何も起っていません。平和です。境界線をおかしてしまったことで、A子さんは自ら自分の心の平和を台無しにしてしまったと言えます。

「え?でも彼が浮気してても許すの?」というご質問がきそうですね。

これは二人の間にメールということが介入して問題をおこしているように見えますが、そもそもこれはそれ以前の問題なのです。これはA子さんとだんなさまとの基本的な信頼関係の状態がたまたまメールという形で表面化してきました。A子さんが自分がほしい「信頼関係」を彼に対して持つ努力をしていたら、メールをのぞくことはなかったでしょう。メールはその信頼関係が十分でないところを露呈したのです。彼を信頼できないと思っているA子さんは、じつは自分が信頼できない人なのですね(はい、いつだって相手に見えるものは、自分のもの!)。なので、メール事件が起ろうが、起るまいが、じつは遅かれ早かれ同じような彼との「信頼関係」に関する問題が勃発したことは確かなのです。

そしてA子さんの二つめの NG は・・・

(その2に続く)

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12-04-22 やめられないんです♪被害者は! その2

しばし時間があいてしまい、何を書いているのか忘れちゃいました・・・汗。(^^; 
気を取りなおして・・・!

(その1より)

だんなさんの浮気が心配で彼の携帯を見てしまったA子さん。彼女の二つめの NG とは何でしょうか?

それは、起っていることを「あるがまま」に見ていない、ということです。

「ものごとをあるがままに知覚しない」というのは日頃誰もがやっている過ちで、じつは苦しみをつくる最大の原因となってしまいます。

この場合、A子さんに実際に起きている事実というのは・・・「彼が知らない女性とメールをしていた」「ゴハンを一緒に食べた」「チョコをもらった」。しかし、わたしたちには「過去の経験の蓄積」というものがあり、それをもとにして現在起こっているコトに自動的に意味づけをし、今何が起きているのかを判断しようとします。

ここで確実に起きていることとは、先ほども書いたように「女性とメールをしていた」「ゴハンを一緒に食べた」「チョコをもらった」以上です。そして、これらにはポジティブな意味もネガティブな意味もありません。自分以外の人とゴハンを食べることはあるだろうし、結婚をしていてもチョコをもらう男性はたくさんいます。異性のメル友がいる方も多い昨今です。

しかし、このことでA子さんの怖れが暴走してしまう理由は・・・

もともとわたしたちのココロは「ものごとをあるがまま」に知覚せずに自分で意味づけをするのが大好きだと書きましたが、何かを見れば、「おお、それってこういうことね!」、何かを言われれば「そうそう、それってこういう意味に違いない」とすかさず自分なりの解釈をくっつけて一件落着します。しかし、残念ながらそれは普遍的な解釈ではなくって、あくまでも「自分個人」の考えと見聞きした情報からくる意味づけです。(世の雑誌、TV番組では、さきほどあげた兆候があるのであれば、それは浮気です!と断定するかもしれません。しかし、それが普遍的な真実でもないのですよね。)

このよく働く自動意味づけシステムを稼働させているココロは、自分のココロの中に被害者願望があると、ちゃんとそれにのっとった意味づけをしてくれちゃいます。つまり、メールしてる?ゴハン食べた?チョコもらってる?+A子さん被害者意識、怖れ = ひどい、TVでも言っていたように浮気に違いない、もうダメだわ、別れようっていつきりだされるのかしら?わたしといるのにウンザリしてるんでしょ?・・・と。

これは被害者として怖れから意味づけしちゃったために、怖れの悪循環にはまり、その怖れの妄想はどこまでも延々と続くわけです。

わたしたちは、この怖れというものはこの事態が起きているからこそ感じている感情だ、と思っていますが・・・おもしろいことにそれは違うのですね。

じつは、この怖れの感情は「今現在」のものではありません!

ですから、この場合も「メール」etc は、本当の不安の原因ではありません。本当の不安の原因は、もっとココロの深いところからやってきます。それはわたしたちが潜在意識の奥底に永〜いあいだ蓄積し隠しもってきたネガティブな感情、誰の心の中にも潜んでいるココロの闇にある怖れからやってくるのです。もちろんココロの闇ですから、それを自覚していることはありません。

しかし、それをいよいよもって持て余しそうになると、それをガス抜きするために「他の口実」を自分でこしらえて不安を感じたり被害者になって、「ほれっ、これこれ!これが原因でわたしは怖いのよ!あなたのせいよ!どうしてくれるの?」と、行き場のなかった心の底の闇を「かわいそうなわたし」を演じつつようやっと発散させることができるというわけです。

だから、今現在起っていることは、じつはダミーの問題。心の底に潜む、怖れや劣等感のガス抜きの道具なのです。

抱えきれなくなった感情の廃棄物を処理するために、手っ取り早く不安を感じそうな出来事を自らのココロが創作して、廃棄物処理を企てていたわけです。そして、自分を被害者にしたてあげておけば、自分が創ったとは思わずにすみます。

そんなダミーの怖れや怒りにひっかかって、現実のパートナーシップがめちゃくちゃになってしまってはたまりません。だって、怖れを解放するためには、ほんとうは他のどんな出来事でもよかったわけですから。

そしてA子さんがしてしまっているように、彼を無言(しかし態度)で責めて彼に罪悪感を抱かせようとしたり、自分がこてこての被害者「かわいそうなわたし」になって彼に謝らせようとしたり、ついにはこのことによってA子さんらしさも失ってゆきます。そして、おそらく彼も失いかねません。

さあ、大変!どうやって切り抜けたらよいのでしょう?

(やたら長くなっちゃったので、その3へ続きます!

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12-04-25 やめられないんです♪被害者は! その3

その2より

どうやら、わたしたちには「被害者」をやめられないという哀しいサガがあるようです。(ハイ!かく言うわたくしも「被害者」楽しすぎて(?)当分やめる予定はありません。苦笑・・・トホホ。)

でも「被害者」になることとは、「可哀想なわたしでいることを自ら許す」ということなので、結局は自分が欲しかったものを遠ざけてしまうという悲しい結末に行きつきます。

前回も書いたように自分の人生に問題が勃発するのは、自分の深い意識(潜在意識)にためこんできたネガティブなエネルギーがパンパンの飽和状態になっいる時です。自分のことを怖れに満ちた価値のない愛されないやつだと信じていて、そんな気持ちを抱えているのには耐えきれず、とりあえず外へ廃棄するのが目的なのです。そのうえ、その目の前の問題は、たんに「汚物処理」のためのダミーの問題だときているし・・・。

そのときに、できるだけ他人にも自分にも“自分が汚物をまき散らした本人”だとバレないようにしなければなりません。だから被害者という煙幕をはって、「あなたのせいよ〜」と自分のモノを相手になすりつけちゃいます。それでも、深い部分では自分を嫌っているので、結局は自分を傷つけ罰する顛末へと行きつきます。

そして被害者になれば、ふがいないと思っている自分に対して自分の手を汚さずにおしおきができる・・・という、うまくいっているのかいってないのか、まったく摩訶不思議なシステムですね。

そして、こんなに複雑なことをしているので、自分さえもそのカラクリに騙されちゃう。

だから、被害者意識が出てきたときにはご用心。これにひっかかっちゃうと、自分のためこんでいた痛みのために現在の関係やら仕事やらを破壊しかねません。

しかし、こんな問題が起きているときだからこそ、わたしたちは自分の「心のパワー」に気がつかなければなりません。わたしたちのココロには、常に新しいものを「創り出す」という強力なパワーがあります。

しかし、それも諸刃の剣。自分が怖れにはまっていれば、恐ろしい未来を自分の眼前に繰り出してしまうということになりません。自分がそのとき選びとっているものしか創り出せないのですね。

だから、ここはハタ・・・と立ち止まって、ちょっと頭を切り替える必要があります。恐ろしいクリエイションをストップさせるために、モードの切り替えが必要なのです。

問題が起るとどうしても、過去の経験やら、今までの流れやら、すでに起ったことやら、「過去」のことをもとにして「未来」を予測しようとしてしまいがちです。しかし、アインシュタインの言葉によると「問題というのは、問題を作ったときと同じ考えのレベルでは解決はできない」のです。

ということは、今までの流れから出てくる結果は、今までの流れの延長にすぎません。「ああなって、こうなって」とだいたい予測がつくA子さんがもっとも怖れている流れです。

しかし、忘れてはならないのは、いつだって「未来は自分で選べる」し「ココロが未来を創る」という大切な事実。

まず、牛さんがくちゃくちゃと食べたものを反芻するように「つらかった出来事をグルグル反芻しつつ、こうなったら次の未来はこうだよね」と予測するのをやめなければなりません。このままだと、だいたい次に起ることは予想がつきます。被害者には被害者なりの人生が待っています。自分が怖れていることがもれなく起ってくるでしょう。

グルグル反芻すれば、それだけたくさんのエネルギーがそこに集中して、その怖れをどんどん現実のものにしてしまいます。

問題が起って「被害者」になりそうになったら、あるいはネガティブなことをグルグル反芻しそうになったら、

1、【立ち止まる】 まずは立ち止まって「あ、被害者やってた」「また、同じ怖れをグルグルしてたな」と気がつきます。

2、【キャンセルする】 そして新しい流れを選ぶためには、今までの流れがどうであれ、「ハイッ!ここでいったんキャンセル! 」と今までの流れを放棄します。つまり、怖れの自動意味づけシステムが勝手に起動し、作動しはじめるのを阻止します。

3、【何を体験したいのかを明確にする】 いったん止まったら、そこから自分がなにを未来に望むのかを明確にします。「ああ、嫉妬や怖れや怒りではなくって、愛と平和がほしい、信頼がほしい」というように未来の体験に目を向けます。

4、【新しい意味づけをする】 そうしたら、「今、ここから」その新しい目線でものごとを眺めるようにします。自動意味づけ装置のソフトを怖れから愛・平和の目線に変えてあげるのです。つまり、起ることに対して戦々恐々とした意味づけをしてたのを、寛大で余裕な「いつでも愛し愛されているわたし」「幸せであたりまえのわたし」からの意味づけに変更します。

すると、「彼の帰りが遅い=デートだ」という怖れの意味づけが、「彼の帰りが遅い=仕事大変だね、疲れて帰ってくるね、ねぎらおう」とやさしい目線になります。だんなさまが夜遅く帰ってきたときに、疑心暗鬼な怒りの目線で見られるのと、疲れが増すし、うんざりするでしょう。

でも、ほんとうにデートだったらどうなんですか?というご意見がありそうですね。

もちろんそうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、「今ここから」「自分で」未来を選びます。そして創り出します。わたしたちは自分が意味づけをしたとおりに未来を創りあげ、体験してゆくのです。

だから、今、何が起っていようとも、つねに『ここから』スタートすることが大切です。早く言ってしまえば、「過去はどうでもいい」んです。それよりも、いつも今、ここから何を体験したいかを選びとってゆけるのは、常に自分自身なのですね。

怖れを持っていたら、怖れの証拠ばかりが目のまえに目白押しになります。誰かに怒りをもつと、その日一日、怒りたいことばかりが押し寄せます。でも、イイコトがあってハッピーな日には、なぜだか誰もが優しくしてくれるように感じます。

だったら、だったら、ためしに「やさしい目線」を持ってみる、「思いやりのあるまなざし」で解釈してみる・・・・すると、きっと自分の未来の中にやさしくさや思いやりの証拠がいっぱい見つかることと思います。

ホントに世界は、自分のココロのあわせ鏡・・・。さし出したものしか見られない、もらえない・・・。

わたしたちのココロはほっておくと、必ずや「被害者ごっこ」をはじめてしまいます。そのときは可哀想なわたしに酔っていられるかもしれませんが、あとでかならず「孤独」や「自己嫌悪」「罪悪感」のツケがまわってきます。「ごっご」遊びで傷つくのははやめて、ちょっと違う新しいやり方、「今、ここから、未来を選びなおす」という習慣を作ってみてくださいね。

どんな過去のストーリーがあってもOK!それでも、いつだって「今、ここ」に選択のチャンスがあるのです。

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12-05-19 ココロがボッキリ折れたなら・・・ その1

いつも自分を信じて、たくましく生きている人がいた。向上心があり、勉強熱心。つねに新しいチャレンジをかかさない。そんなカッコいい友人のHちゃん。

よくぞここまでエネルギーがある、と腑甲斐ないわたしはいつも感心するばかり。

しかし、このところなんか様子がおかしい。本人もそれを自覚していて、もしやウツではないか、とわたしに相談をもちかけてきた。

彼女いわく、「ずっと自分を信じてやってきたけれど、自分が信じられなくなっちゃった。あせって今までと同じように努力をしてみるけれど、どんどん悪くなるばかり。もう疲れた・・・」と涙をこぼしながら今までになく弱気な発言。どうやら、彼女の中の歯車がどこか狂ってしまって、今や日常生活、仕事、パートナーシップ・・・とあらゆるところに支障をきたしているようなのです。

「そうですか〜。自分が信じられなくなっちゃった・・・それはオメデト〜!」と口には出さずとも不謹慎にもココロの中でつぶやくわたし。

自分のことが信じられなくなっちゃったのは、なぜオメデタイのでしょうか?

彼女のみならず、特にバリバリ系の男性にも多いのですが、自分の強さ、自分のパワー、自分の知識、自分の信念・・・とにかく「自分を信じて」「自分を頼りに」やってきた、そしてそこそこ成功してきた・・・という逞しい方々。彼らにとっては、頼りにするものは自分以外他にはなく、「自分が信じられる」ということこそ、折れない自信、最高の強みに感じられたのでしょう。

でも、四十代後半になったHちゃんはちょこっと更年期気味だし、パートナーとの永年鬱積した問題も浮上中、そして親の健康問題、仕事のマンネリなど、問題山積。いつだって自分が強くいられる状況ではなくなっていたのです。で、もう〜疲れちゃったよ〜!と。

こんなとき、「自分」一本を信頼してきた人はあんがい簡単にポッキリいってしまうことがあります。なにしろ、今まで完全なるよりどころ、ただひとつの頼みの綱であった「自分のパワー」が枯渇して信じるものがなくなってしまったのですから、その先にっちもさっちも行きません。

それに「あの人はすごくパワーがある」とか「いつも、ものすごい勢いで仕事をする」という場合、じつはこれはちょっと不自然なことなのですね。なぜそこまでしてガンバらなければならないか、というと、あんがい自分自身も気づいていない自分に対する無価値観や自信のなさの埋め合わせのため、そして自分の不安な気持ちに気づかないようにするために、がむしゃらに動きまわって何がなんだかわからなくなるまで忙しくしていなければならないのです。つまり、そのままの自分ではいられないという「不安」に突き動かされている場合が多いのです。

しかし、「怖れ」をベースとした行動は、結局は「怖れ」を増幅するような結果にしかつながらないので、こんなにもエネルギーを使ったわりには疲れはてて病気になったり、失敗してもうこれ以上できないようにするとか、結局は自分の潜在意識がブレーキを踏んでしまうことが起ります。

この場合の「自分」というのは、大洋に浮いているボートのようなもの。波もよく、風もよく、お天気もよければ、ずんずん目的地に向かって進んでゆけるのです。しかし、それは決してボートの力ではありません(が、ボートはそんなこと知るよしもありません。ゆえに、自信たっぷり!)。いったん天気が急変しようものなら、ひとたまりもなく波に呑まれてしまうこと必至。悪くすれば沈没の憂き目にもあいかねません。この自分ボートは天候が急変するまでは、天下の「俺サマ」気分でずんずん進んでゆくことができるわけです。

しかし、「自分」のみを信頼してきた場合、いきなり風向きが変わったり、波の状態が変わったりすると簡単に自然(まわりの条件)に翻弄され、今までの自信はどこへやら、こんどは極端に「自分がまったく信じられない」という逆方向に傾いてしまいます。いくら頑張っても、この高波、暴風を制することはできないからです。

「自分を信じて」きたぶん、いったん信じられなくなるやいなや、急転直下、「自信」はあとかたもなくこっぱみじんに打ち砕かれます。

じゃあ、「自分を信じる」って全然役に立たない、あるいは、百害あって一利なしなのでしょうか?

その2へ続く

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12-05-19 ココロがボッキリ折れたなら・・・ その2

その1より

自分を固く信じてやってきたHちゃん。しかし、自分を信じすぎたゆえに絶不調の憂き目にあうことに・・・ってことは、自分を信じる気持ちはあまり役に立たないのでしょうか?

いいえ、いいえ、わたしも同様の悩みを持つクライアントさんに「自分を信じる」ことの大切さはまずお話ししています。

でも、それは単独の「自分」、俺サマボートでずんずん行く自分を信じることではなくって、もうちょっと大きな自分のことなのです。

単独の「自分」を支えてくれている宇宙や天、神、あるいは高い自己(それぞれお好きな概念で)という「大きな力を含んだ自分」を信じる、ということなのです。

わたしたちが自分のアタマで考えられることは、自分の本当の能力のほんの数パーセントにも満たないものです。一方、食べたり、消化したり、眠ったり、体温を保ったり、安全を確保したり・・・とわたしたちが生存するために必要なことは、このアタマのたった数パーセントでななく、もっと「高い自己」によって自動的に制御されています。

つまり、「高い自己」は自分が思っているよりも、何千、何万倍ものパワーや智恵があり、わたしたちが安全に生きていけるようにあらゆる面で気遣ってくれているのです。気づいていなくても、そんな無限のバックアップに常に支えられてこそ無事に生きているわたしたちなのです。つまり、今までの「生存」は決して自分の力ではなく、高い存在にやさしく支えられて守られて育まれてきたということ。

しかし、わたしたちは人生のいざというとき、ほんとうに大切な決断をしようとするときに限って、お伺いをたてなければならない存在を完全に忘れて、たった数パーセントでしか考えられないちっちゃな脳ミソだけで解決を試みようとします。宇宙にあるわたしたちの無限のバックアップから見れば、それは鳥の脳ミソはおろか、ミドリムシの脳ミソよりも、もっともっとちっちゃい脳ミソですべてを取り仕切ろうとしているようなものです(ん?ミドリムシに脳ミソって??)

わたしたちはとってもちっちゃな「俺サマ自己」の決断が最高のものであると信じて、必死でそれに頼ろうとします。本当は宇宙のすべてにつながっている「無限の自己」というスーパーコンピューター以上のバックアップがありながら・・・すっかり忘れているのですね。

つまり、「自分を信じる」ということの本当の意味は、すぐに高波にホンロウされちゃったり、沈没さえもしかねないちっちゃな「俺サマ自己」に頼ることではなくって、宇宙のバックアップにつながっている「高い自己」、自分を今まで生かし続けてきた本当の自己に信をおくということなのです。

どうもわたしたちは小さいときから「自分のアタマでちゃんと考えなさい!」と教育をされてしまったがために、膨大な情報をもつ本当の自己とのつながりを断ってしまうようになりました。全部自分でやらなくちゃならない、人になんか頼っていはいけない、もっと逞しく強くならなくっちゃ・・・・これは、「自分ではどうにもできない」というか弱さを自覚しているがゆえに、「もっと自分ひとりでちゃんとしよう!」とまちがった自立へと突き進んでしまったのです。

お父さんもお母さんも、先生も、頼れる大人は、「自分でやらなくっていいんだよ。あなたには頼っていい存在が生まれる前からちゃんとついているんだから」なんて誰もほんとうのことは教えてくれなかったのですものね。

わたしたちには自由意志があるので、「自分でやっちゃう」人には「高い自己」はちょっかいを出しません。「ああ、自分でやりたいのですね。もっといいやり方、幸せになるやり方がありますが・・・。あなたがわたしに尋ねるまで、わたしは静かにしていましょう」と、どこかの過保護な親御さんのように決して強要することなく見守り続けます。

だから、「高い自己」に「尋ねる」ということを知らないと、わたしたちは一生、自分のちっちゃな脳ミソ、限界のある思考の中で限界のある現実を創りだして、それを維持するために必死で戦わなければならなくなります。

自分の人生をもっと安全でラクなものにするために、「高い自己」に甘える、仲良くするすべを学ばなければなりません。さて、それにはどうしたらいいのでしょうか?

その3へ続く

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12-05-19 ココロがボッキリ折れたなら・・・ その3

その2より

わたしたちは自分を保護し導いてくれる「高い存在としての自己」をお供にこの世を旅することになっているのですが、親や先生から「何でも自分でできるようになりなさい」「誰かに頼るような依存的な人になってはいけません」と教えられたがために、すっかり自分のガイドを見失い路頭に迷うような存在になってしまいました。

頼れるガイドを失ったという怖れから、がむしゃらに「自分で頑張る」という方向に進みます。とりあえず、「俺サマボート」という単独の自己を信じようとします。が、ほんとうは信じてなんかいないのです。信じられないから、その不信感を覆い隠そうとがむしゃらな行動に出てしまうのですね。

すると、自分の愛する人々の様子や変化に気がつくことができないほど自分を忙しくしてしまいます。それでいったい何をなしとげようとしているのでしょうか?何を証明しようとしているのでしょうか?そんなにまでして埋めなければならない、どんな穴を感じているのでしょうか?

今まで自分を生かしてくれた「すべての叡智とつながる高い自己」の存在を認められるようになると、おのずと風向きが変わります。その存在は自分よりも膨大な智恵と情報、自分のための先見の明があります。そんな存在が常に自分のためだけに心を砕き、働いてくれているとしたらどうでしょう?

そうなんです。わたしたちはその存在にこそ「頼っていいんです(頼らなくちゃいけないんです)」「自分でやらなくっていいんです(自分でやっちゃいけないんです)」「何も知らないことを認めて、教えてくださいと言っていいんです」。「助けてくれ〜。わたしには、どうにもできない」「どうしていいのかわからない」、そう言ったときはじめて、「はいはい、その言葉を待ってました!まかせてくださいね。ここにはあなたのために、どんな難問、要望にも答えられる用意がありますよ〜」とはじめて無限からあらゆる助けの手がやってくるのです。

しかし、自分をそこまで愛して導いてくれる存在はいったいいずこに?とまわりを見回してもなかなか気づくことはできません。

ポイントは、自分の今までのやり方を喜んで手放すこと。宇宙の無限なるバックアップにくらべたら、この自分には限界があるのです。そして、「自分では何もできません。このちっちゃい脳ミソではお手上げです」とさっさと白旗をかかげ、自分の小ささ、弱さを認めること。そして、「どうしたらいいでしょう?教えてください」と尋ね、「この件について助けてください」と助けを求めること。

ここがミドリムシの脳ミソを信じるのか、それとも宇宙の無限のバックアップとしての叡智を受け入れるのかの分かれ道なのです。たとえ宇宙の叡智を受け入れてたとしても、それはあなたの敗北にはなりません。ただ、自分でも気づいていなかったほんとうの自分の可能性の扉を開いただけなのです。

そう、とにかく自分のいつものパターンでやろうとする前に、「聞いてみる」ことなのです。お尋ねしたら、あとは答えを待ちます。尋ねなければ、答えを聞くことはありません。

答えは「必ず」来ます。でもそれは、天啓のようにやってくるわけではなく、たいていはすごくふつ〜です。「そんな気分になる」「家族、友人とのお喋りの中で答えのようなものが与えられる」「借りていた本の中にメッセージがある」というように、答えはいつもの生活の中にまぎれこんでいます。だから、いったんお尋ねしたり助けを求めたらいろいろなことに聞き耳をたてていなければなりません。

わたしにもこんなことがありました。あることで悩んでいて、その解決を自分の高い自己にお伺いをたてていたときのことです。「もう数日になるのに、全然返事がこないじゃない。なんか見捨てられてる気分だな〜」とそんなふうに感じながらスーパーで買い物をしていたときです。ふと、かかっていたBGMの一節が耳に入ってきました。特に聞こうとしたわけではなく、その一節だけが耳に残った感じだったのですが、それは

"From a distance, there is harmony....it's the hope of hopes.... God is watching us" * (遠くからみれば、そこにはハーモニーがある。それは希望そのもの。神さははいつだってわたしたちを見守っている。)という歌詞だったのです。

「!!」と思いましたよ。「ちゃんと見てるよ。そこにはハーモニーがあるのがわかる?」って。きっと、たくさんメッセージは来ていたのかもしれませんが、おそらく自分が閉じていたので気がつかなかったのでしょう。これを聞いて、スーパーの中でひとりほほえんでいるあやしい人になってしまいました。

俺サマボートの「自分を信じて」行動していると、まるでハムスターの回し車をこいでいるように、やたら怖れを原動力に走り続けることになります。自分をめちゃくちゃ信じられる瞬間もあるかもしれないし、まったく信じられない、と感じる瞬間もあるかもしれません。アップダウンが激しく、上に行ったり下に行ったりとその自信はとても不安定。だから、とにかく回し車を力いっぱいこぎ続け、止まるわけにはいかないのです。

そして、すべてを自分でやろうとすると、まわりと比べたり、戦ったり、うまくいくための策略が必要になります。常に自分の人生をコントロールしようとしているうちに、人をも自分の都合のいいようにコントロールできると勘違いしてしまい、気がついたら孤独な「お山の大将」になりかねません。

一方、「大きな力に支えられた自分」は、まず「大きな力」にお伺いをたてて、そこからインスピレーションがくるまでは動かないのです。やってくるインスピレーションは決して空回りさせるものではなく、少ないエネルギーで必要な達成が得られるものです。考え込んだり、むだな動きをしないし、不安も少ないので、エネルギーの消費量も少ない。そしてそこから動けば、さらにエネルギーを得られるというオマケつき。

「大きな力に支えられている自分」は、あくせくすることがなくなります。なぜなら、根底には「わたしの心臓は自分で動かしているわけじゃないけれど、勝手に動いてきょうまで無事に生かされてきた。ここまで生きてきたってことは、まあ、どうなろうとも、どちみちわたしは支えられているから大丈夫なのだ」というお気楽思考が生まれるからです。大きな力がいちばんよい方向に導いてくれるという信頼、結局は自分にとってベストになるという安心感があります。

そして、決定的な違いは、「自分を頼りにしている」場合は、どこかで不安や無気力、ひどくするとウツにつきあたりますが、これは大もとのほんとうの自分とのつながりが切れているがゆえの不安定感。家なき子な気分なのです。「大きな力を支えにしている」場合は、ハデでなないけれど静かな安定感、そしてそれに従えばもっとエネルギーがチャージされるような、とっても省エネな感覚です。これは宇宙に根をはって、つながっている安定感なのでしょう。

だから、大海原で波に翻弄されるボートのような自己を信じるのではなくって、「大きな力に支えられる自己」、これは大海原の上空を大きな力に導かれながゆうゆうと渡ってゆく渡り鳥のような感覚です。

自分のすべてを包み込み、いつも自分を思いやって幸せを願ってくれている力に支えられ、そこから自信をもらっていると感じるとき、自分のコンディションにかかわらず静かに自分を「信じ続ける」ことが可能になります。

そして、その大きな力に心を開いて自分をあけ渡せばあけ渡すほど、その力は自分の人生にどんどん関与してきてくれるのだと感じます。

問題が起きて、行き詰まっているときには、いつでも「もっといいやり方」へのご招待状、「もっと幸せな自分」へのお誘いがきているときです。そして、忘れかけていた「高い自己による本当の自信」を思い出さなければならないときかもしれません。そんなときには、「俺サマボート」をなげすてて、すぐに白旗をかかげてお尋ねしてしまいましょう。お気楽な「すべておまかせコース」信頼してのってしまいましょう♪

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* From a distance

12-06-04 うるさ〜い騒音!じつは私だったのね・汗

ここしばらく、騒音に悩まされておりました。

それは外からやってくるもので、まるでバイクの警報装置が作動しちゃったようなうるささ。それも、24時間!連日!どうやら、このあたらりのビルの空調に問題がありそうです。

で、さっそく音のアタリをつけてそのビルの管理の方と話したのですが週末のこともあり業者と連絡がとれず、しばし苦痛な音とともに共存することを強いられました。音は日ごとに騒々しさを増し、頭痛と肩こりの原因に。しかし後日わかったことは、アタリをつけたビルにはなんら問題がなかったこと(残念!)。

ここでハタと気がついたのは、今年の二月にも上階の物音に悩まされていた、ということ。なぜか、美空ひばりとフォークソングの大音響。あまり上階の音は聞こえないのですが、自室でかけているようなうるささ。これは管理人さんにクレームを出して無事解決したのですが、「音」に関するトラブルが続いているな〜、ということ。

すべてのことは外界に現象として現れる前に、「ココロ」の中で形づくられます。つまり、うるさいのはわたしの「ココロ」。自分の「ココロ」が騒音をたてている、ということなのです。あるいは、混乱しているとでもいいましょうか。

はい、思い当たります。今年に入って、今まで信じてきた価値観がまっさかさまになるような大きな気づきがあって、その考え方にまだなじんでいないのです。だから、ものごとが起るたびに新しい解釈に手間取り、ちょっと混乱をきたしていたのです。

「ココロ」から起きてきていることを行動レベルだけで解決しようとしても、これは解決をみずに必ず繰り返されます。そう、二月のときも、すみやかに管理人さんにクレームを出して、自分が被害者になることで「こんなこと起こしているのは、わたしなんかじゃありませ〜ん。この騒音は明らかにわたしの外からやってきているでしょ。ああ〜、うるさくされて、なんて可哀想なわたし」というお得意のパターンにはまって誰かを悪ものにして自分が可哀想ないい人のフリをして悦に入っていたわけです。

でも、学びがないところはちゃんと再度レッスンがやってくるのですよね。「はい、もう一回、被害者になるのをやめて処理してみよ〜。自分で創ったことの責任をとってみようね〜」というわけです。

「はいはい、わかりましたよ〜」と自分のココロが騒音をたてまくっている張本人であることを認め、外に聞こえてくる音はたんに自分の心の状態の投影なのだ、と理解し、ちゃんと叫んでいるココロをなだめてあげましたよ。

で、そのあとに必要な行動がくるのです。この順番を間違ってはいけません。「すべてのことは自分のココロが創り出している」という責任をちゃんととってから、起こすべき物理的な行動に出るわけです。

おもしろいもので裏道を歩いていたら、その「音」のほんとうの源を発見!(ちゃんとした順序をわきまえているときには、次のステップを見つけるのも早い!)

すぐにそのビルに入って、管理の方とお話しをしました。すると、以前から空調のベルトが切れていて修理をお願いしていたのですが、ご迷惑をおかけしてすみません・・・とちゃんと認識していらっしゃり、話しが簡単でした。

戻ってみたら、ちゃんと「音」はやんでいましたよ。

どんなことが外からやってこようと、たとえそれがどう考えても自分とは関係なさそうに見えても、「自分が知覚している」ということは自分が創り出した自分の宇宙の中で起きているのですね。だから、「自分で責任をとる」ことがまずはじめに求められます。

そして、物理的な共有されてる世界にあるものは、その後「事情を話し合う」「改善をお願いする」という現実のアクションも必要になってきます。

なんにしても「自分が体験すること」にはいつだって、自分に責任があるのですよね。すべては「自分のココロから」!!キモに命じて、忘れないようにしたいものです。

今おもうと、なぜ他の人たちが何も言わなかったのか?とも思うのですが、あくまでもこれは「わたしの」レッスンなのでした。(他の人は聞こえてなかったりして・・・汗。)

PS ああ〜、静かさがありがた〜い!

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12-06-16 学校に行けないこども・・・どうする? その1

最近いくつか寄せられたご相談は、「学校を休みがちなこどもと、そのことに関してギクシャクする夫と妻」という問題。

ハイ、最近よく耳にする状況ですね。

ここには二つの問題があります。

「学校に行かないこどもをどのように扱ったらいいのか」ということと、「夫婦でのこどもに対する考え方、接し方に違いがあり、混乱が生じる」ということ。

親は自分のこどもが学校に行けないと、なんとかしてテコでも「行かせる」ことに苦心します。なぜなら、「学校に行けないこども=問題児」という考えがあるからです。(しかし学校システムを冷静にながめてみると、かなり不思議なトコロですよ〜、学校って。一日中同じ方向を向いてちんまりとハコの中に坐らされ、みんなまったく同じことをするよう強制され、同じようにできると「いい子」と褒め讃えられ、しないと「わるい子」のレッテルを貼られる・・・かなり奇妙なトコロです。みんなよくぞ卒業したな〜とも思えてきます。)

しかし、「学校に行かない」ことをもうちょっと引きの目線でみてみると、実際「いいこと」でも「わるいこと」でもなくって、ただシンプルに「行かないのだ」という事実があるだけなのです。もしも、そこに特別な意味あいがあるように感じられるならば、おそらくそれは親の書いた「こどもの筋書き(脚本)」にどれだけあっているか、はずれているかによる査定にすぎません。「みんながやっていることをできない子」=「欠陥がある子」というレッテルをはってしまっているのかもしれません。

しかし、ちゃんと学校に行けたからといって、すごい人になるわけでもありません。有名な話しですが、エジソンもアインシュタインもめちゃくちゃ変わったこどもで、どちらかというと問題児だったそうな。

だからと言って「学校に行かない」こどもをほっておきなさい、ということとは違うのです。まず、それが「いいことだ」「わるいことだ」という裁きの目線をストップさせる必要があります。なぜなら、こどもは「裁かれている」「親の筋書きにどれだけあっているかで自分の価値を測られる」と感じるのがいちばんつらいからです。

「いい」とか「わるい」を手放したときに、こどもは本当に安心して自分のココロを見せることができるようになります。そうですよね。「さあ、あなたのココロをみせてごらんなさい。わたしがすぐに「いい」か「わるい」か言ってあげるから」・・・なんて態度だったら、何も正直に話すこともできません。

こどもは感じているのです。親が勝手に「自分に対する理想の筋書き」を作っていて、それに沿って歩むべきだとあたりまえに信じている、ということを。「何も期待していない」と言いつつも、その筋書きからはみ出そうものなら、「とり乱す」「見捨てるわよ!というそぶりを見せる」「悲しんでいるところを見せる」など、あらゆる手を使ってこどもに罪悪感を持たせ、そこからはずれることをちょっとも許さないのです。

学校の友人との軋轢に悩んでいたり、うまく結果が出せないあれこれについて悩んでいるこどもにとって、「あ〜だ」「こ〜だ」の大人目線のアドバイスは何の癒しにも解決にもなりません。

自分がこどもの頃、落ち込んでいたときのことを思い出してみてください。「ちゃんとする」「筋書きに沿って生きる」ことだけを気にしている親の対応に「全然、わかってない」と思ったことがあるはずです。おそらくその時に欲しかったのは、「そのまま」の自分を受けとめて、包み込んでくれる安心感。すぐに立ち直る自分を期待してアドバイスやら手を貸されるよりは、何が起っているのかがわからなくってもただ受けとめて欲しかったはずです。

ただ無条件に、何が起っていようとも、その人の存在にOKを出してくれる、受けとめてくれる、どんな状態であろうと味方でいてくれる、そんな存在が一人でもいてくれると、わたしたちは心の中から前向きなエネルギーがわき出してきて、「よし!また頑張るか!」と前を向く気持ちになれるのです。

そうお話しすると、「え?だったら、こどもにやってますよ」とおっしゃる親御さんが多いことも事実です。

本当に「その子のため」のサポートするとは、どういうことなのでしょうか?

(その2へつづく)

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12-06-16 学校に行けないこども・・・どうする? その2

その1より

「学校に行かないこどもを、なんとか行かせたい!」というのは、こどもを思ってというよりは、じつは自分の満足を優先させたい、安心を得たいという親本位の考えです。なぜなら、こどもは学校に行けない=行きたくない、のが事実なのです。

そのこどもに、親は「どうして?」「そんなんじゃダメでしょ?」と追求の手をゆるめません。こどもはその追求に反発します。

まずしなければならないのは、こどもを「理解して受けとめる」こと。

理解することの基本は「無条件の受容」です。こどもが投げてきた球に対して「白」「黒」つけずに、そのまま受けとって、同じ球を投げ返してあげること。つまり、「学校に行きたくない」というこどもに、いい、とか、わるい、という価値判断は手放して、「そっか〜、行きたくないんだね」と受けとめて、その子とひとつになってどんな気持ちなのかを理解しようとすること。

不思議なもので、この「無条件の受容」があるとホッとするせいか、特別道を示してもらわなくても自分の中のポジティブな面が顔を出してくるのですね。何も間違っていない、という安心感からココロの自然治癒力が生まれるのです。

実際はこの「受容」がすっぽり抜けて、「早く正気を取り戻して、わたしたちの望む筋書きを生きるいい子でいでちょうだいね」というコントロールと隠された意図からこどもを「どうにかしよう」とあせってしまいます。

すると、こどもは敏感にそれに反応します。(ことばよりも、エネルギーのほうが雄弁に本当の意図を語ります。)こどもは、「その勝手な決めつけがいやなんだよ!」「自分のことを真剣に考えていない」と反発するのです。ある意味、親を冷静に試しているところさえあります。「学校へ行けない、期待に応えない自分。それでも、愛してくれているのか」と。

だから、親はまず「学校には行くべき」とか「この子はこう生きるべき」という決めつけを手放して、その子の気持ちとひとつになって感じることからはじめなくてはなりません。価値判断のないまっさらなところからこどもと繋がって受け入れ、リード、サポートをします。様々なことが起る社会(学校)の中で、親こそが「何が起っても、そのままのあなたでいいのよ」とつねにOKを出しげあげる人生のセイフティーネットになってあげることが大切なのです。

学校や仕事に行けない、引きこもってしまうこどもが増え続けている昨今、こどものココロの根っこが今ひとつしかりとはっていないのを感じます。

幼児が親から離れて保育園や幼稚園という社会に出てゆくとき、それまでに十分甘えることを認められて育ってきたこどもは、安心して大胆な冒険をすることができるようになります。何が起っても、安心して戻る場所がある、助けてくれる人がいる、そのままの自分にOKを出してくれる人がいる、という安心感が自分に対する自信へとつながっているのです。だから安定して新しいチャレンジができるし、失敗しても大丈夫と感じることができます。

もし幼児期にそのように十分に甘えたり完全に受容される経験が欠落していると、自分の存在の根っこの部分がゆらゆらしたまま大きくなってしいます。すると、どこか不安で、安定した感覚をもって冒険したり、挑戦したり、失敗することもできなくなります。その不安感が頂点に達すると、自分の内側にこもるようになってしまい、引きこもりを生み出してしまいます。

あらら〜、わたしちょっと育て方、失敗しちゃったかも・・・・という方。もしそうなら、今からでも大丈夫。「どんなあなたでも、あなたへの愛情は変わらないよ」ということを態度と言葉でしっかりと伝えてあげてください。こどもの言葉を判断することなく、そのままを受けとめる練習をしてください。もしそれをするのがむずかしかったり、ためらったりしてしまうのなら、もしかすると自分の中にこどもに対する「秘密の脚本」があって、その脚本をまだ手放せずにいるのかもしれません。

何よりも大切なことは、「こう生きるべき」「こうするべき」という自分が当然に思っている「こどもに対する筋書き」を手放すことです。「こども自身が書こうとしている筋書き」を尊重してあげること。たとえそれが未熟に見えたり、価値がなく思えても、大切にして、さらによい案を提案しながら常によりそっていてあげることです。

どうしても、わたしたちは自分が生きてきたように(つまり、親が自分にしたように)こどもにしてしまいます。「いえ、わたしは親のやり方が許せなかったから、絶対こどもには同じことはしていません!」とおっしゃる方もいらっしゃいますが、わたしたちは「されたこと」や「今、していること」はあまりにも自分と一体化しすぎているため、自分が何をしているのか冷静に眺めることができないのが事実です。一体化しているものは、自分にとってあたりまえなのです。しかしハタから見ると、「あらら、根本的には同じかもよ〜」というように見えます。

そして、この親から受けた教育の違いで、「こどもに対する接し方」で夫婦が対立することになります。

夫と妻のそれぞれの教育方針。こどもは混乱しそうですね。こどもの問題を解決しなければならないのに、夫婦で対立したらさらに困ったことに・・・。さて、どうしましょう?次は夫婦の問題です。

(その3につづく)

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12-07-03 かんたん♪お絵描きセラピーはいかが?

最近、毎日シコシコ色えんぴつをナイフで削っています。

ミニ鉛筆削りだとすぐ芯が折れちゃう。そうでなくっても、力いっぱいぐりぐり色をぬるのでボキボキ折れるし。

ぐりぐりボキボキするのはわたしではなくって、お子さん、クライアントさんです。こども向けのセラピーに使っているのです。

大人はことばで表現してスッキリするところがあるけれど、こどもの場合、「どんな気持ち?」と聞いても、「え〜・・・わかんない」と言われるか、黙られてしまいます。

そこで「絵」で表現するアートセラピー登場。

とってもかんたん、そして効果ばつぐん!誰にでも使えます。やり方はこんなふう・・・。

もともと潜在意識の中は言語というよりもイメージ優勢の世界なので、ダイレクトに絵と色で表現してもらうことによりネガティブな感情や信念の解放を促すことができます。

そういえば、昨晩NHKの番組で企画案などを絵で表現しているという会社が紹介されていました。自分の考えを一枚の絵にしてみると、文字を並べるよりも広がりのある表現ができ、自分でも新しい気づきを得ることができるということでした。

お子さんはたいてい親に連れられてセラピーにきた、という意識が強く、「自分が修正されなければならない」ことに不満を抱いています(ほんとうは修正ではなくて、視点の転換なのですが...)。セラピストは親とグルになっている敵にされます。

そういう場合はノーテンキに、「○○ちゃ〜ん、一緒にお絵描きしよ〜♪」と誘ってみます。すると、「え〜、下手だから・・・」と言いつつもたいてい嬉しそうにのってくれます。

「ねぇねぇ、○○ちゃん、学校ちょっとお休みしてるんだって?行けない日って、身体にどんな感じがあるの?」と遊びにかこつけて、すかさず身体の感覚から尋ねてみます。

すると、「う〜ん、ここんとこ(胸と喉をさして)になにかある感じ」というお答え。「あそう、それってどんなものでできてるの?」とさらに身体の中の感覚の大きさ、重さ、硬さ、色、質感、密度などを尋ねます。

身体の中の「それ」をよ〜く感じてもらいながら特定したら、「じゃあさ〜、それ、そっくり紙の上に移してみてよ。紙の上にお引っ越しだよ。色鉛筆で描くとどうなる?」とうながすと、まったく躊躇なく描きすすめてくれます。

たまたま紫色が折れてたら、「どうしても紫じゃなくっちゃダメなの」と言われ、あせって削るわたし。削って渡すと、ぐりぐり力いっぱい塗っているうちにポキっ!また、あせってわたしが削っていると、「折れた芯で描くよ」と、ちっちゃい芯で必死に描いています。(ちゃんと自分の気持ちの色は決まっていて、それは絶対ゆずれないのです。それにこの力の入れようからも、紫のエネルギーのパワーが伝わります。)

描きあがったらちょっと絵の説明をしてもらいます。びっくりすることに、ひとつひとつにちゃんとした細かい意味があのです。自分の気持ちの細部までを表現しています。(この説明で何が起きているのかは、だいたいつかめます。)

つぎに、わたしが絵のメインの部分にマイクを向ける仕草をして、絵にインタビューして語ってもらうのです。

「ねえねえ、この人(絵のある部分)、何て言ってる?何困ってるの?」「どうして欲しいのかな?」と絵にマイクを向けると、○○ちゃんが絵になりきって答えてくれます。そうなのです、自分のことじゃないと、あんがいすらすら正直な気持ちを語ってくれます。(「絵」じゃなくって、ぬいぐるみを使うこともあります。つまり、こどもと同じ悩みを持っているぬいぐるみにインタビューするのです。)

そして本人である○○ちゃんに、この困っている人(絵のある部分)に対してアドバイスしてもらいます。「ねえねえ、○○ちゃん、この人、こうこうこうで学校行けないだって。どうしてあげたらいいと思う?」って。すると、本当は自分がして欲しいこと、あるいはして欲しくても気づかなかったことを語りはじめます。

自分のことだと気持ちも解決方法も思いつかないけれど、あんがい他人のことだとわかるものです。これは大人でも同じですね。ちゃんと解決策は自分の中にあるのです。

おおかた解決方法を語ってもらったら、「じゃあさ〜、その解決策使って、さっきの問題が解決したらさ〜、この絵はどんなふうに変わるんだろ?」

そして、もう一枚新たに描いてもらいます。さっきまで紫、黒、茶色のオンパレードだったのに、今度はピンクや水色、黄色などのラブリーで暖かい世界が描きだされます。

わお!自分で提案した解決策でここまで明るく自由になれるんだ!とびっくりします。

描き終わる頃には、本人も気持ちが軽くなっています。

もちろん、これはたんに描いて気分転換になるだけじゃなくって、無意識のうちに潜在意識の中の怖れを解放することに役立っているし、また心の方向転換を自然なかたちで行っているのです。

これは、別にお子ちゃま向けのセラピーでもなんでもなくって、大人にもとっても有効。わたしもお絵描き大好きなので、たまにやっています。

みなさまも、「な〜んかもやもやするなぁ」「なんだか、やる気でないよ」という原因がはっきりしない落ち込みや、「あの上司、あったまにきた!」なんていうように感情が高ぶっているときなどに、是非、気軽に紙を用意して、ぐりぐりと表現してみてくださいね。

 うまく描く必要はありません。ただ描きたいままに。楽しくって簡単だけど、すっきり感、かなりありますよ〜。

12-08-07 松本選手流“とりあえず生きてるし・・・”

セラピーでクライアントさんとお話していて感じるのは、「人生、順風満帆のはずだったのに、あるときから坂を転がり落ちるように人生が暗転してしまった」というご相談が多いこと。

いったん悪くなりはじめるとどうやってもその流れを止められず、気づいてみたらすべてが崩壊するほど悲惨になっていたというお悩み。何事もなくうまくいっていた人ほど、この足をすくわれるパターンにはまってしまうことがあります。

なんでこうなっちゃうんでしょうか。

今、まさにオリンピックたけなわですが、柔道金メダリストの松本薫選手。みなさんもお感じになったかもしれませんが、試合前からすでに「金メダルは彼女のものだな」という気迫を感じましたね。

だって彼女にはこれっぽっちも、「怖れ」とか「迷い」というものがないのですから。彼女の鋭いまなざしはちょっともずれることなく、「ピカピカのメダル」だけに照準が合わさっていたのです。他の思いが分け入るスキを与えない、100%の純粋さで。

じつは、不安とか怖れというものは、わたしたちの足をすくい、持てる「力」を確実に奪いとります。まったく別人と思えるほどにまで変えてしまうことも・・・。オリンピックでは、心のすきまに入りこむこの不安とか怖れが、勝負の行方をまったくわからないものにしていますよね。

わたしたちが確実にできることをできなくさせてしまい、また潜在的に持っているパワーさえもそぎ落としてしまうのが、まさに「怖れ」です。

それに、困ったことに「希望」や「前向きな気持ち」よりも、「怖れ」のパワーの方が格段にインパクトが強く、感じやすいようにできているのもわたしたち。

うまくいっているときには、その自信でさらに上向きな人生を創ってゆくことができるのですが、あるときに、ふと・・・・自分の人生にさしているちょとした暗い影を見つけてしまい、そこに注意を奪われ、「こんなんで大丈夫なんだろうか?」あるいは「怖い」「不安だ」という思いが頭をかすめるやいなや、あっというまに今までとは違った人生ルートにひきずりこまれてしまいます。そして、不安は不安を呼ぶので、いったんはまりこむとそこの環の中からなかなか抜け出せません。そちらへズルズル引きこまれてしまいます。

そう、わたしたちは自分の注意が向かったものを増殖させてしまうというココロの力があるのです。うまくいっているときにはどんどん上向きな人生を創りだせるのですが、いったん小さな不安や怖れにとりつかれると、あっというまにそこに注意が固定してそれを創りだすことになり、必ずや不安や怖れの証拠をもっと見つけるはめになってしまいます。

変化に対して不安や怖れを感じるのは、わたしたちが洞窟に住んでいた時代に自分よりも大きな動物に食べられずにサバイバルするための安全装置として身につけた本能であったわけですが、今でもその機能は「ちょっとした変化」を見つけてはスイッチが入り、不安な思いが暴走してしまい、その不安から目が離せないために自分の人生の流れを下向きに変えてしまいます。そしてその不安のほとんどは、正しい不安ではありません。かならず得体の知れない、大きな恐怖となって自分に襲いかかります。

今や、恐竜もクマもオオカミも襲ってこない環境にいるのですから、不安や怖れはあまり、というか全然役にたたない時代です。だから、自動的にその感情が出て来たら、気づいて意識化することによって、思いの方向を自分で向け変えてあげなくなくてはならないのですね。「この怖れは古代にサバイバルしていたときの名残だ。だから正しい怖れではないし、怖れる理由もないんだ。それに、これはそんなに怖れることでもない」と。

今朝のTVのインタビューで松本選手が語っていたのは、「闘争心をおさえるのが大変だ」ということと、(過去に、鼻が折れていても麻酔をしないで試合に望んだことに)「生きているんですから、(鼻が折れてても)別にいいんです!」と。

まさに松本選手が言っていたように「死んじゃうわけじゃないし、とりあえず生きている」というのは、かなり力になる開き直りであり、大きな励ましになりますよね。

自分の人生の流れの中でちょっと暗いかげがさして心配になるとき、そこにとらわれてドップリと引きずりこまれてしまうのではなく、冷静に「別に死んじゃうさけじゃないし」「とりあえず生きてるし」と松本選手流につぶやくというのも、不安や怖れをやりすごして、流れや方向をかえずに進んでゆくひとつのよい方法かもしれません。

松本選手のような鋭いまなざしで、自分の欲しいものをしっかりと捕らえたら、それをどんどん大きくして、それだけを見め続ける・・・「でも・・・」「だって・・・」「「だから・・・」という言葉が入りこむ余地がまったくないとき、わたしたちはしっかりと欲しいものをつかみ取ることができるのですね。

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12-08-21 「事実」にOKをだしましょう! その1

「どうしようもない夫をどうにかしてください」という50代の女性からのご相談。

「どのように、どうしようもないのですか?」とお尋ねすると、「いっつもグ〜タラしている」「ぜんぜん成長しようとする気がない」と。

なるほど〜・・・奥さまから見ると、どうしようもなく感じるのかもしれませんが、おそらくご本人にインタビューしたら「いたって、わたしらしく生きています」と、生きたいように生きているとおっしゃるかもしれません。つまり、だんなさまが奥さまの理想に沿っていないだけであって、決して何かが間違っているわけではありません。

このようにご相談のうちの何割りかは、「こどもをどうにかしたい」「妻を変えたい」「恋人のここがいや」とご相談にいらした本人の問題ではないことがあります。

基本的に、セラピーはご本人のものです。なぜなら、「変わりたい」と思わない人をどうにかすることは地球を逆回転させるぐらい大変なことなのです。(一方、「本人が心から変わりたい」と思っているときには、鬼に金棒!心の底から望むことは、どこまでも可能性を切り開いていくことができます。)

そうなんですね。モノゴトにしろヒトにしろ、自分の意向に沿っていないとき、わたしたちは「これはおかしい!」とばかりに、それを自分の望みにあうように変えようと挑みかかります。

しかし、たいてい「事実」というものには抗えなくなります。「事実」とはつまり、年がら年じゅう笹を食べてごろごろしているパンダに、サルのような機敏さをもとめても所詮ムリなのです。パンダはパンダ、いくら教育しようとしても努力させようとも、身軽なサルにはなるはずもなく・・・。

つまり、だんなさんはもとからパンダだったわけです。それをどこで勘違いしたのか、理想をかかげてしまったのか、他の動物だと思いこんでしまった。でも、パンダはパンダにしかなれない。いくら口厳しく言われても、教育されても。だから「事実」は「事実」と認めて、あきらめてくださいな、ということになります。

もともとそうであるものにいくら文句を言っても、逆ギレされるか無視されるのがオチなのですね。エネルギーを使ったわりには思い通りになることはなく、「パンダじゃない、サルのはずだ!」と叫べば叫ぶほど自分が苦しくなります。

それよりも、「そうよね。あなたはパンダなのよね。そう、そう、それでいいのよ」と、現状をあっさりと受け入れてあげたほうが「自己変革」への近道となります。そうなんです。誰からも「変われ!」とプレッシャーをかけられず、完璧に存在を肯定されたとき、わたしたちは「もっとよくなっちゃおうかな!」と上を目指す勇気とココロの余裕が生まれます。

現代のカウンセリングの基礎を築いたC・ロジャースも言っているように、人にはもともと自己実現しようとする(もっとよくなろうとする)心の働きが備わっていて、全面的に現在の自分を受け入れられたときにこそ、その力がもっとも活性化すると説いています。それは、何ひとつジャッジ(価値判断)されることなく、そのままでぜんぜんオッケーだよ〜と言ってもらうこと。「あなたであることが最高!」と、全部の注意を向けて見守ってもらうこと。

「パンダ」状態を絶賛されることが、そのだんなさまを変えるカギなのです。

さて、なぜにわたしたちはこうも人に干渉して、変えたいと思ってしまうのでしょうか?

(その2に続く)


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12-08-23 「事実」にOKをだしましょう! その2

(その1より)

おそらく、じゅうぶん昔からパンダだった夫の真実を見ようとせずに、なぜに他の動物を期待してしまうのでしょう?

そもそも、わたしたちは予想外なことが大嫌い。人が自分の予想したような行動、言動をとってくれないと、怖れを感じる生き物なのです。予想外なことに対処できなければ、生存をおびやかされるかもしれません。その怖れのせいで、相手が好き勝手しないようにコントロールしておかなくちゃ!と感じ、それが人間関係の軋轢になります。

わたしたちは自分の安全確保のために、「わたしが心地よくなるように、あなたはわたしが思ったような生き方をすべきだ」と迫ります。決して、相手の「そのまま」の姿をよしとはしません。自分のモノサシをふりまわし、「ああなるべきだ!こうなるべきだ!」と迫ってきます。パンダがパンダでいることを許さないのです。

そしてもう一つの理由としては、「自分の人生」がつまらなく感じていると、他の人の人生にちょっかいを出すことに生きがいを見い出してしまいます。ほんとうは自分の人生をどうにかしなくちゃいけないのですが、自分の人生の違和感を他の人のせいにして、他人を正すことにやっきになってしまいます。ホントは他人の人生に頭をつっこめばつっこむほど、さらに自分がむなしくなるという悪循環にはまってしまっていることに気がつかないのです。

何よりも、他人を自分の思いどおりにコントロールしようとすることほどエネルギーを消費することはありません。戦いを挑めば挑むほど、相手は強者になってゆきます。相手を正すことにすべてのエネルギーを使い果たし、自分の未来を創り出すエネルギーはちょっとも残っていない状態となります。そして、相手の人生に干渉すればするほど、自分の人生はすっかりお留守となってさらに寂しくなるばかり。

結局、「何が苦しみを生み出すのか」というと、(決定的に)「そうであるもの」を「そうでない」と信じようとするときです。「事実」をそうと認めず、別のものに変えようとする努力だからです。パンダはパンダ以外のものにはなれないし、ごろごろしているだんなさまはごろごろしている以外の何かにはなりえないのです。本人が変わりたい!と思ったときは別ですが。(本当のところ、問題はだんなさんではなくって、「事実を許せない」おくさま自身がセラピーの焦点になってしまうのですね。汗)

「事実」を受け入れる潔さは苦しみから解放してくれます。

それに、人はそもそも「自分が生きたいように生きる権利」があるのです。

わたしも思いあたります。自分に対してもやってしまうのです。たとえば、何度こころを決めてもぜんぜん早起きできない自分。「一時間半早く起きて、あれしてこれして」と思いつつも、結局はいつもの時間。なんで早起きできないの〜?なんで決めたことが守れないの〜?と何度もヘコみましたが、堪忍して「いつもどおり に目覚める自分」をよしとして認めることにしました。「自分がいつも起きる時間が、まさにわたしが起きる時間なんだ」と。

で、ちょっとでも早起きできた日は賞賛してあげたり、ご褒美をあげることにしたのです。すると責めたり、自己嫌悪におちいっていたときよりも、だんだん早起きの回数が増えてきました。「〜できない」と思うよりも、できたときに褒めてあげるほうが、よっぽど目標達成が簡単になりましたよ。事実を心地よく認めると、その出発点から気持ちよくスタートをきれる感じです。

ロジャーズが言うように、肯定されてこそ人間は変わることができるのですね〜。

そして他人の人生に批判的になっているときには、じつは同じ分だけ自分に対しても批判的になっているものです。いつだって人にやっていることは、自分にやってしまっていることの「目くらまし」なのですね。だから、まずは自分に対して、現状を認めてやさしい目線をもつこと。自分にやさしく。そうすると、夫やまわりに対しても自然とやさしい目線を持てるようになることでしょう。。

ゲシュタルト心理学にこんな言葉があります。

「ゲシュタルトの祈り」

私は私のために生きる
あなたはあなたのために生きる
私はあなたの期待に応えるために、この世にいるのではない
あなたは私の期待に応えるために、この世にいるのではない
あなたはあなた、私は私
もし偶然に出会うことがあれば、それは素晴らしいことだ
たとえ出会うことがなくても、それはそれで素晴らしいこと

自分のココロを心地よく尊重できるとき、わたしたちはまわりにある事実も心地よくありのままに尊重できるようになるのですね。(^_-)v

 

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12-09-11 「努力」よりも「たまたま」が大切、って?

わたしのお気に入りの心理学理論のひとつに、「計画された偶然性理論(Planned Happenstance Theory)」というのがあります。

これはどういう理論か、というと、人の「成功」とか「幸せ」に関して、「偶然の出来事」に着目しているのです。心理学と「偶然の出来事」って、ちょっと不思議な組み合わせのように感じますか?でもユングの時代から、心理学では物事の「意味のある偶然」「必然的な偶然」に着目してきました。

あるとき、達成したい目標に向かって努力していたわたしは、自分にしてはそれなりに日々頑張っていたのです。しかし、やっても、やっても、やったわりには形にならない、いい方向にいかない、ということが続き、そのうち「もう努力したって、何の結果もついてこないじゃない!」としびれを切らしそうになったときに、この理論に出会いました。

そこには、「成功というのは、じつは努力や才能に比例するのではなく、もっと別のことに左右されている。別のこととは、生活の中でおこる、“偶然の出来事”のこと。努力によって成し遂げられた成功はおおよそ全体の20%であり、残りの80%は偶然という出来事に導かれている」ということでした。

実際に社会的な成功をおさめている人たちに調査し統計をとったところ、彼らの人生のターニングポイントは努力でもたらされたものではなく、生活の中で巡りくる偶然の出来事だったそうな。つまり「たまたま○○さんに出会ったから」「たまたま△△に行ったから」「たまたま××しちゃって」など。

これを知って、「そ〜か、そういうこと?」と妙に納得したわたし。思いあたるフシがいろいろありました。

え〜、努力はいらないの?と思われるかもしれませんが、そういうわけでもありません。妥当な努力をして、そのうえ「偶然の出来事」に心を開いていることが大切なのです。犬もあるかなければ棒にあたりもしないので、目標を設定し行動しつつも、この偶然的な出来事が起るようにいろいろなことに心を開いていること。だからこそ、何もしないわけではない「計画された偶然」なのです。

この理論を提唱したクルンポルツ博士は、彼自身はもともと心理学の研究者になるつもりは毛頭なく、趣味でテニスをやりはじめたときに、そのテニスの先生が「たまたま」心理学者だったそうな。そこから、彼は心理学に開眼してゆきます。そして、世界的に有名な心理学者としての天職を手にしたのでした。

そういえば、数百ものヒット曲を生んだ作詞家の安井かずみさんも、こんなことを話していましたっけ。学生の頃にピアノの楽譜を買いに行って、係の人が在庫を調べに行っている間に応接室で待たされたそうな。そこで数人のおじさんたちが洋楽の訳詞をしながら苦しんでいて、フランス語と英語に堪能だった彼女が「そこは、こんな言葉がよろしいんじゃなくって?」と「たまたま」口をはさんでしまったことから、「君、これも訳せる?」ってなことになり、訳詞や作詞をスタート。画家をめざしていた彼女はいつのまにか売れっ子の作詞家になっていたのでした。

アーティストにしろ、ミュージシャンにしろ、そんな「たまたま・・・」という話しを、よく耳にします。

思いあたりませんか?ご自分の人生にも。自分はまったく意図していなかったけれど、「たまたま」ある人、ある出来事との出会いから、自分の人生が方向づけられ、導かれていくようになったこと。

この理論からすると、あまりにガチガチに自分の人生の設計図を描きすぎるのはよくないということになります。

なぜなら、人はいろいろなこととの出会いによって日々変化・成長を続けているので、じつは昨日の自分ときょうの自分はもう違っていて、昨日の目標もきょうには古くなっていることがあります。あまりにも長期の目標をたてると、じつはもう興味がなくなてしまった目標に引きずりまわされることになります。それに、ガチガチの目標は、少しでもそこに沿っていない自分を発見すると「自己イメージ」が低下してしまうことに。目標を達成できない自分に「挫折感」を感じるはめになるかもしれません。

だから、大まかな行き先である目標は決めつつも、日々自分の目の前にぶらさがってくる出来事や人に対してオープンな興味を持ち、それを取り入れつつ柔軟に変化してゆくことが大切です。そのようにしてわたしたちは、どうやら自分の「使命」ともいえるものにおのずと導かれてゆくようにも感じます。

クルンボルツ先生いわく、「たまたま」の出来事を「プランド・ハプンスタンス(計画された偶然)」に変え、自分の人生に流れを作っていくためには次のことが役に立つと言っています。

1、好奇心・・・いろいろなことに興味をもてるフレッシュな心
2、粘り強さ・・・自分が納得ができるまでめげない、決してあきらめない強さ
3、柔軟榮・・・こだわりを持ちすぎないで、こっちがダメならあっちな態度
4、楽観性・・・のーてんきさ
5、リスクをとれる・・・ターニングポイントはリスクの連続、ダメもとでやってみること

もともと、アタマで計画したり考えたりしていることって、わたしたちの能力や可能性のほんの3%にしか満たない力で行われています。だから、あまりアタマに頼りすぎるよりも、神さまが目の前に転がしてくれる物ごと(じつはチャンスであり、ターニングポイント)にしっかり心を開いて、それについてゆけることが、楽しく、自分らしい人生になる秘訣なのかもしれません。

このように偶然の出来事に導かれながら、わたしたちの人生って自分が生まれてくる前に決めてきた人生の青写真(使命)に向かって導かれてゆくのかもしれません。

柔軟であること、好奇心旺盛であること、わくわくできること、なんでも挑戦しちゃうこと・・・・プランド・ハプンスタンスを手にするためには、いつまでも「お子ちゃま」の心を失わないでいることが大切なようですね。

12-10-11 幸せのヒケツは自分がないこと

すっかり秋が深まってきました。

それと同時に、今週末に向かって忙しいったら!

やることが山のようにあるのに、あっというまに一週間!その反面、一週間前のことは遥かいにしえにさえ感じるのです。どうなちゃっているのか?

その昔、こんなことを考えたことがありました。いつもいろいろなことに熱中していると時間が飛ぶようにすぎてしまって、ふと気がついたときにはおばーちゃんでゲームオーバー、人生終わりになっているんじゃないかと。

そこで、よし、ちょっと時間の外側に出ていよう!と思ったわけです。

時間の外側に出るって、自分の体験と自分の意識がちょっとずれていて、客観的に外から自分をながめているような感じ。カメラが引きになったように自分を見ているというか。熱中しすぎているときには、自分と物事とがあまりに一体化しすぎて、自分も時間も何もかもなくなっちゃう感じがしたので、外から眺めながら自分がここにいる感じを感じてみようと・・・。あはは、ど〜ゆ〜理論?(^。^;

しかし、これをすると人生、ぜんぜんおもしろくありません。

何事にも動じないというメリットはありますが・・・。時間の流れが重たくなり(軽快でなくなり)、退屈。それに、当事者意識が薄らぐので、感情・感動もかなり low になります。

ゆえに、人生の楽しさ半減でやめました。

そう考えると、「熱中すること」が幸せを感じる大きな要因ですね。

心理学の研究の中にも、幸せになる行動のひとつとして「フロー状態」があげられています。フロー状態とは、早くいえば「我を忘れた状態」のこと。フローを研究していたチクセントミハイは「素晴らしい人生はフローによってもたらされる」といっていますものね。

わたしたちの身体はこの世の中で物理的に人やものから分離していますが、フロー体験を通すことによってもともと「ひとつであったこと」を体験し、思い出そうとしているのかもしれません。だからフロー状態に魂が喜ぶのです。フロー状態になると、さらなるエネルギーが沸き上がってきたり、新たな能力が開発されたり、行くべき未来が開けたりするのも、すべてとの一体なることがわたしたちの魂が求める本来の姿だからなのでしょうね。

では、わたしも今週末までの自分消滅フロー状態を幸せのあかしとして、ありがたく体験させていただくことにいたします。(^^;;
(ハマりすぎて、自分が身体まで消滅しちゃわないかしら・・・汗)

12-12-28 夢は・・・叶わない

街のあちこちに、清々しい門松が見うけられるようになりました。一気にお正月ムードですね。

いよいよ2012年も終わりです。みなさまの今年の夢は叶ったでしょうか?

わたしは、10年前の夢をふと思い出しました。夢、というか・・・こんなだったらいいな〜っていう憧れを。

そして思いましたよ。「あれ?いつのまにか叶ってる・・・!」って。それも、たいした感動もなく静かに。

そうなんですよ。昔の夢って、あんがい知らないうちに叶っていたりします。でもね、「知らないうち」なのは、「夢」がそれほど「夢」でなくなったとき、つまり自分にとってそんなに高らかな目標でなくなったときに静かに勝手に叶っているようなのです。

こんな言葉を耳にしたことがあります。『憧れは手に入らない』と。

例えば、スターに憧れる。憧れって、相手はずっと高いところ、雲の上にいて、自分は下から目をハートにして見上げているような感じです。だから、「憧れ」の人とは立っているステージがまったく違っていて、心理的にも距離がぐっと離れているのです。「憧れる」=「あなたは手の届かないずっと高いところにいる」と。「憧れ」によって自分を低いところにおいてしまうことにより、決して相手と肩を並べて対等な間柄にはなれないのです。(わたしたちは自分と同じレベルの人やモノしか、手に入れることができないのですね。そのレベルというのは自己イメージであったり、自分の現在の立ち位置であったり・・・。)

つまり「憧れ」てしまった段階で、すでに自分で手に入らない状況をつくってしまっています。

なので、「誰かを好きになったら憧れちゃだめだよ」とアドバイスします。憧れちゃったら、「わたしとあなたは世界が違う」というように、接点がなくなってしまいます。同じ土俵にすでにいません。

「夢」もしかり。その「憧れ」というものが薄れたところで、どうやら叶っているような気がするのです。

わたしの10年前の「夢」も、決してどうでもよくなったわけではないのですが、他のもっと「夢」っぽいことが登場して、10年前の夢に対する憧れが薄れてしまったような・・・。だから、知らないうちに手に入ってしまったのかもしれません。もちろん、時とともに自分も成長し、10年前の夢もだんだん自分の現実と合致するようになったせいかもあるかもしれません。身の丈にあう、というか・・・。いずれにしろ、自分の現実と「夢」との間の距離がなくなったのです。

ほんとうは、めちゃくちゃ憧れのある段階で手に入ったなら、感動もひとしおだったのにね。手に入ったぞ〜!と小躍りしたかったのに。ざんねん・・・。

みなさんも何年か前の夢を調べてみてください。今ではちょっとどうでもよくなっていて、あんがいしっかりと手に入っているかもしれません。

みなさまが2013年の目標を立てられる際には是非、「夢」や「憧れ」ではなくって、それがしっかりと現実に自分の人生にあることをイメージしてみてください。そして、自分にとって「あたりまえ」レベルにしてしまうことが大切のようです。

そして、一度しっかりと夢(目標)を決めたなら、「叶うかな〜」「叶わないかな〜」とあれこれ考えるよりも、とるべき行動に集中することも大切です(叶うかな〜、叶わないかな〜、もまだ憧れレベルです。)行動することによって、ぐっとそれを現実レベルへと引寄せられます。

また、「夢」が現実になったとき、どんな自分になっているのかを考えて、そんな自分を先取りするのもいいかもしれません。

とにかく「夢」は、「夢」であるうちは叶わない、と頭におきつつ・・・「夢」を今の現実に引寄せる工夫をいたしましょう。

2013年に向かって、よい「夢」を〜!(^-^)ノ

 

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13-01-10 十年、気がつかない間違い

わたしたちはお寿司が食べたいときには、トンカツ屋さんには行きません。
ヘアーカットしたいときにも、歯医者さんには行きません。

こう書くととても極端で、「そりゃ、そうでしょ!」と言われそうですが・・・。

日頃セラピーをしながら多くの方のお悩みを聞いていると、日常のレベルでこんな勘違いな行動を無意識のうちにとってしまっている方がじつは多いということに気がつきます。

どういうことかというと、

穏やで安らぎのある生活を求めているのに、パートナーにはハデハデ、ギラギラ、落ち着きのない人を選んでしまう人。

自分の能力を発揮しながらいきいき仕事をしたいのに、気がついたら不得意きわまりない仕事をしている人。・・・etc。

そして、毎日がツライ、苦しい、わたしの人生なんでこうなっちゃったの?となるわけです。

なんでか?というと、お寿司が好きなのにトンカツ屋をチョイスしたからに他なりません。


わたしたちは、こと自分のパートナーとか仕事のことになると、本末転倒なチョイスを平気でしてしまいます(洋服選びや家具選びは、わりとまっとうにできるのにね)。

この場合、目に見える情報に簡単にごまかされてしまったのです。華やかだったり、きれいだったり、賑やかだったり、自分の知らない世界だったり・・・。つ
まりお寿司やさんを目指していたはずなのに、途中にあった賑やかで楽しそうなトンカツ屋さんにひっかかる、そんな感じでしょうか?

問題は、自分が何に価値をおいているのか、何が重要なのか、何に幸せを感じるのか、ということをあんがい意識していないことです。意識していないからこ
そ、目の前に現れた見栄えのいいトンカツ屋にとびつくことになります。なので、日頃から自分が目指しているものや状態を明らかにしておくことがとても大切。


この場合、ずいぶんと長い時間がたつまで、自分がしでかした間違いチョイスに気がつかない場合がおおいのです。おかしい、おかしい、こんなはずではない、とうすうす気づきながらも、かなりたってから「絶対おかしい!いつまでたってもお寿司が出てこないじゃないの!もしや・・・選択を間違えた?」みたいな感じになります。その気づきまで、10年かかったりすることもざらです(パートナーとの不一致の場合、だいたい10年ぐらいでハタと大きな間違いに気がついたりしますね)。(^。^;

そんな間違いで人生の大切な時間をロスしないように、ふだんから自分のココロの声に耳を傾けてあげることが大切です。わたしはどんなとき気分がよくなっているのかな〜?わたしはどんなときに感動するのかな〜?わたしはどんなときひどく落ち込んじゃうのかな〜?わたしのゆずれない価値観ってな〜に?という具合に。

ココロの声に耳を傾けてあげると、自然と自分を大切にしてあげることができます。そして、自分を大切にしていると、鏡のごとく、まわりの人々もきっとあなたのことを大切にあつかってくれることでしょう。

自分のココロの声をくみとりながら、自分にやさしくする、そんな一年にしたいものですね。

PS でも、どんな間違いも意味のあるもの。必ずわたしたちは学んで成長しています!

 

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13-02-24 やっぱり、すべては「こころ」から

一通のメールが届きました。先日、骨髄移植をされたAさんから!

あの日はもちろん、あれからず〜っと気になっていました。「経過はどうだろう?苦しんでいないかな?」と。

彼女のドクターいわく「成功した」そうで、大変な期間も通常よりもずっと短い3日間位という奇跡的なプロセスだったそうです。適合の割合から考えると成功率はそう高くないそうですし、受けたあとの経過も悲惨だと耳にしていたので、ほんとうによかったね!おめでとう!

Aさんは、「当日は、私もドナーの方の骨髄を受け入れて、私の身体の中で仲良くやっていこう、という願いと共におりました。最初は骨髄の入った点滴バッグに向かって、どうぞ宜しくね!と声を掛けスタートしました」と。

そう、ここが肝心ですよね。結局、身体に異物が入ってきたことにより身体の中で戦いが起こり具合が悪くなるのですから、この「一緒にに仲良くやっていきましょう!」という歓迎のご挨拶こそが反応をより穏やかにする大切なポイントです。

苦しい期間が通常よりも短かったとはいえ、誰かにかわってもらえるわけでもなく、孤独で堪えがたい戦いの日々だったと思います。本当によく頑張ったなあと思うと同時に、ぴったりくる言葉がみつからないけれど、I'm really proud of you. (あなたを心から誇りに思います)、そんな気持ちです

じつは、同じ日にもう一つ良い知らせを受けとりました。それは友人にお孫さんができたということ。

この友人の娘さんは数年前、同じように白血病を煩い入院したため、お見舞いがてらセッションをしに伺ったことがありました。無菌室で彼女と向き合い手をとり、彼女の深いところにある病気をつくりだしている信念を探り、取り除き、新しい信念の置きかえを行い、そしてヒーリングも。

その後、彼女はみるみる回復し、去年結婚。なんと赤ちゃんができたのでした。

他にもガンとかいろいろな病気から回復するクライアントさんを今までたくさんみてきました。もちろん、たくさんの医療的な処置が施され、その中でわたしの行うカウンセリングやヒーリングはとても小さな部分であり、微力ではあるけれど、でも、改めて確信しています。

やっぱり、どんな病気にしろすべての病は「こころ」から起きているということ。「こころ」が変われば、すべてが変わるのです。もちろん表面的な処置は重要ですが、まずは「こころ」が癒されなければなりません。

心が何らかの気づきを得たり、癒しを感じたり、役に立たない信念を手放すことができれば、身体はそれこそ際限なく、常識を越えて、ぐんぐん治癒する力を手にすることができるのです。そこではたくさんの奇跡とよばれることが、まるで「普通」のこととなります。

まさに、身体の不調、人生の不調の原因のすべては「こころ」にあり。「こころ」が変われば、そして健康であれば、そこから新しいチャンス、新しい未来、自分のほしい現実を創り出していくことができます。

目には見えないけれど、身体以上に気にかけて、メンテナンスをして、栄養を与えて、優しくいたわってあげなければならないのが「こころ」なのです。

どうぞみなさま、「こころ」を大切に!

そして、みなさまの「こころ」が少しでも明るくなって、希望がもてて、未来に向かっていけるように、これからも「こころ」をこめてお手伝いしていきたい!と改めて思った、嬉しい知らせを二つも受けとった日なのでした。

 

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13-03-02 ココロがメルトダウンする前に

家族や友人がココロのバランスを崩したら、精神科や心療内科に連れていきますか?

お医者さまに診て頂くことはまったく悪いことではないのですが、最近とても気になることがあります。

たった5分ほどの問診でウツなどのクスリを処方され飲みはじめ・・・ピークタイムにはその痛みを和らげるのに効果はあると思うのですが・・・しばらくして別の問題が勃発するということ。

それは、クスリをやめたいのにやめられないこと。もとの問題はさしおいて、このクスリとつきあっていくことにウンザリしていらっしゃるクライアントさんからのご相談が最近、とっても多いのです。

そして、これらのクライアントさんの心理状態はクスリをとる前とはまた違った、かなり危険な不安定さをあらわしています。

クスリをとりはじめると脳内ホルモンが変化し、気分は少しよくなるものの、感性が鈍くなり、世の中がカラーからモノクロになったように感じます。そして意欲がなくなり、世界にかかわる気持ちも萎えはじめます。悪くすると性格まで変わってしまうことも。またクスリのせいで太りやすくなったり、顔つきも変わってしまい、そのことだけでも自己イメージが大きく低下し、自分に対してガックリきてしまうことも。でも、クスリをやめるのは不安すぎる。またあんな気持ちになったらどうしよう・・・と。

このクスリの引き起こす負のサイクルが、もしかすると自殺率を上げているのか、とさえ感じてしまいます。

しばらくすると、症状にフタをして隠しているだけで(つまり、ココロの中で完全にメルトダウンした危険なものに水をかけたり、おおいをするのではなく)、本当のウツの「原因」に向きあっていなかったと気がつき・・・とようやく自分の心と正直に向き合うセラピーが始まるのです(危ない燃料棒はちゃんと取りだして、どこかに葬ってあげなくちゃ)。

もちろんクスリの量やとる期間に細心の注意を払い、心理療法も並行すればより効果もあり、安全なのでしょうけれど、なかなかそこまのケアが行きとどかないのが現状です。そして、クスリに頼りきったことから心理的に常習性が生まれ、やめるにはかなりのエネルギーが必要になります。

クスリをとって症状が和らげば一件落着のように見えるものの、じつは痛みにフタをして抑圧しただけで、得体の知れないモヤモヤはまだそこにあるのですね。それを「隠す」ことよりっも「放出」させることが治療にはいちばん重要なのです。

ココロの問題には、安易なクスリの処方だけでなく、もっと時間をかけてココロとていねいに向き合う細やかな心理療法が必要だと感じます。

また日常でも、ご本人が信頼できる人に親身になって聴いてもらうなど、シリアスになってしまう前のちょっとしたケアも大切です。自分のココロをありのままに表現して受けとめてもらい、共感してもらうこと。

たった「一人だけでも」、真剣に、共感的に、耳を傾けてくれる人がいるだけでクスリに頼りきるリスクは減らせるのではないかと感じるこの頃です。

そして一見、非生産的に見える「長々とグチを言いあう」ようなおしゃべりタイムも、じつはココロの健康にとっては欠かせないものです。

たまにはおいしいお菓子でも買って帰って、ムダ話を楽しむおしゃべりタイムでリラックスしてみてはいかがでしょうか?
Smile

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13-03-06 好かれようと努力すれども・・・

Aさんはいつもキラキラ、フワフワ、スパンコールやシフォンのようなお洋服を着ています。とってもゴージャスできれいです。

でも、なぜかわたしは彼女と話しているとちょっとした違和感を感じてしまうのです。

なぜでしょう?・・・・何と言ったらいいのか・・・なんだかホンモノと話しをしている感じがしない、とでもいいましょうか?

どうやら服装も態度も「作りこみ」すぎていて、そのままの彼女が伝わってこないので、どこかフェイク感がぬぐえません。

もちろん、わたしたちは洋服を選ぶとき、メイクをするとき、さらに話しをするとき、より相手に好印象を与えるために「作っている」ところは必ずあるものです。「このピンクを着たら、よりやさしいイメージになるかしら?」「この口紅だったら、今っぽい女の子に見えそう」「こんなふうに笑えば、きっと明るいと思われるわ」という具合に。

でも、あまりに「作りこみ」すぎると、まるで自分のまわりにフェンスを作っているようで、人はその人に近づけなくなります。近づいてほしくてやっているのに、これでは逆効果。(~.~) 

「作りこんで」いるときには、そこには策略が存在します。「もっと愛してもらうために」「もっと素敵だと思ってもらうために」「もっと注目を浴びるために」・・・。でもその策略のさらに下には「それをしなければ愛される価値もないわたし」という怖れが存在するために、この策略を使うときには「注目や愛を奪おうとする」エネルギーが存在します。

そうです。「ちょ〜だい!ちょ〜だい!」エネルギーを発しているので、人はそれをどこかで察知して引いてしまいます。人は何か奪いとられる感じのところには近づきたくありません。だって、自分だって十分ではないと思っているのに・・・。

今はやりの、「与えることによって、より与えてもらう」という戦略を使っても、もともとの動機が「奪い取る(愛を、注意を、尊敬を)」ものなので、いくら与えても人は違和感を感じて逃げてしまいます。

そして、「もらう」ために策略しているときは自分のことしか考えていないので、相手に対する興味や関心、思いやり、暖かさはお留守になります。結局、自分のことしか考えていない様子が丸出しになってしまい、さらに減点!というわけです。

先ほどのオシャレな彼女も、ほんとうにそのスタイルが好きで、無意識でいつもそれを選んで、着ることを楽しんでいるなら、きっと彼女にとても似合っているし、オリジナリティがあって人は彼女のことを素敵だと思うし、真似したいと思うかもしれません。

でも、いつもまわりの反応を先回りして予測し、「こんな服装だったら、きっとチャーミングで特別な女性に見えそう」と、それに合わせるように装い、振る舞うと、まわりからは「ニセモノ感」が強くなってしまうのですね(結局、その下に隠されている「ダメダメ信念」がより透けてみえちゃうのです)。

だから、本当に好かれたかったら、まわりの反応など気にすることなく、自分が本当に好きなもので装い、好きなように振る舞うこと、そのほうが素敵に見えるのです(・・・というか、好かれている人は、好かれるか、否かなんて、まったく頓着していないのですね)。

え?好きなように振る舞ったら嫌われちゃう?・・・・いえいえ、メディアで時の人として注目されているのは、たいていはそのままに振る舞っている人です(つくられたアイドルは除く)。その人がのびのびとそれをしていると、あら、不思議・・・・なんだかそれがとっても素敵に見えてきちゃう。その人のゆるぎない自信は、まわりにもすぐに伝染します。「あら、これって素敵かも?!」と・・・そうして流行がつくられるのですね。

クライアントさんのご相談でも、どうも人から嫌われる、どうも人から敵意を向けられる、というような場合、たいていは「好かれようとする姿勢に計算があって、あざとく感じられてしまい、結局嫌われちゃうパターンが多いのです(人はコントロールされる感じにとても反応します)。そうそう、こんなクライアントさんもいらっしゃいました。好かれたいがために、あまり好きでない人に愛想よく話しかける・・・でも、結果はかえってネガティブな反応が返ってくるということでした。相手の人は、やはり作為的なものを感じて自分がコントロールされるのが嫌だったのですね。

だから、究極的には好かれるためには、好かれようとしない、そのままの自分で「これがわたしです!文句ありますか!?」ぐらいに開き直ることの方が必要です。

そうしていると、ちょっと落ち度があっても、「まあ、あれが○○ちゃんだから、仕方がないわね」とそのままを認めてもらえるようになります。

これから暖かくなって春のお洋服の新調を考えていらっしゃる方も多いと思います。外からのウケはさておいて、自分が着てみたい、やりたいファッションを思いきって楽しんでみてください。きっと、自分にフィットしてて、より自分らしく素敵に見えるとことと思います。

自分で自分を十分に認められたときに、きっと外からも同じような承認がやってくると思います。

そして、「作りこんで」いるときには人が近よれないと同時に、たとえ愛されたとしても、自分がいちばん「ニセモノ」の自分を知っているので受けとることができません。でもそのままの自分でいるときには、人もそのままその人の欠点も含めて丸ごと愛することができるし、なによりも自分がその愛情をしっかりと受けとめられるようになるのです。愛情は、自分がしっかりと受けとめることができてこそ、はじめて「存在するもの」になりますからね!

 

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13-03-10 わたしの考えはわたしの人生、そのもの

本当に自分の考えというのは、自分の世界そのものだな〜と感じます。

自分は自分の考えの中の住人、自分の考えの中に生きている、といってもよいぐらいです。

その考えを通して知覚する世界は、いつも自分の考えの色に染め上げられています。

○子さんとはカウンセリングを進めていくうちに、彼女の中に「わたしは他人の期待には応えるべきである、応えてあたりまえ」という信念があることに気がつきました。そしてその信念が、さまざまな場面で彼女を苦しめ、ついには過食にまで走らせているということが・・・。

この考えは、かなり厳しかったお母さまからの愛や注意を勝ちとる唯一の方法であったに違いありません。人がある考えにしがみつくのは、そこに手放しがたい報酬があってこそです。手に入るものがあるとき、わたしたしはその考えにしがみつきます。

厳しい母はきっと、彼女が期待に応えて優秀だったときには優しかったり満足気だったのかもしれません。そこまでの反応はなかったとしても、期待に応えたときには叱責しなかったのかもしれません。

すると彼女の中には「人生とは人の期待に応えるものである」→「応えてこそ、安全」という方程式が当然のことのように刷り込まれます。もはや、「それって正しい考えかどうか」と判断する余裕もなく、まったくあたりまえとしか思えないのです。もちろん、無力なこども時代には自らの防御に役立っていた考えでも、おとなになるとかえって足をひっぱってしまうことがしばしばです。

さて、『人の期待に応えるのは当然なのでしょうか?』・・・もしかすると、この文章を読んでらっしゃる方の中にも、「わたしも、そう思う」と当然に感じている方もいらっしゃるかもしれません。「何がいけないの?」って。

「人の期待に応えるのは当然」と信じていると、「人にも自分の期待に応えて当然」と思うようになり、期待に応えてもらえない場合は怒りを感じたり、裏切られたように思い、苦しくなります(世の多くの人が「期待に応えなくても当然」と思っていると、自分はいつも肩すかし状態にあいます)。そしてなによりも、地球上に70億の人がいるとすると、人の期待というものは70億種類の違った期待があることになり、それにいちいち「応えてあたりまえ」と信じていることとイコールになるのです。もやは、自分の人生を生きるヒマがなくなっちゃいますね。

でも、信じていることって、あまりにも自分と一体化しすぎて、自分にとっての普遍的な真実になっているので、いくら説明してもおかしいぐらいにその誤りがピンとこなかったりするのです。(実際、○子さんにも、それを信じているとこんなに大変なことになるよ!と説明しても、なかなか腑におちないご様子でしたもの。)

「人の期待を生きる」ということは、常に人のニーズを知ろうとして、自分の注意・関心が外へ外へと向かう結果になります。その結果、自分の気持ちがおざなりになり、自分を大切にできなくなります。いつも自分のニーズよりも人のニーズを優先してしまうことになるからです。

外ばかり気にしていると自分の中がカラッポになり、まるで詰めものが抜けたヘロヘロの縫いぐるみ状態。カラッポの自分にあわてて、そこへぐいぐいと詰めものを詰め込むように食べ物を詰めることになります。シャキっとしろ!とぐいぐい詰め込んでも、自分に注意が戻ってこない限りは満たされません。そして、ついには過食になってしまいます。

そして過食のあとは、必ず情けない自分への罪悪感がやってき、ひどい気分におそわれます。そこでまた、よい気分になるためには「期待に応える」→「ほめてもらう」→「価値があるように感じる」という悪循環を繰りかえすことになります。

人は確かにさまざまな期待を自分に対して持っていたりしますが、それはその人の勝手、その人の都合で、自分とはまったく関係のないことなのです。人のことは気にすることなく、自分は自分のペースで生きればいいのです。自分らしく生きはじめて、自分が心地よく感じ、また自分に対する自信が持てるようになると、そのポジティブな気持ちは他の人にも伝染するし、まわりも前向きな気持ちになってゆきます。

○子さんは仕事や親との関係だけでなく、恋愛においても「期待に応えるべき」という考えで自分も相手も苦しくなる状況を生みだしていることに気がつきました。苦しい考え方は自分の首をしめるだけでなく、まわりの人にも負の影響を及ぼしてしまいます。

なので、「人の期待に応える」努力をするよりも、自分が幸せになる努力をすることで、自然と自分のまわりの世界にもよい影響を及ぼして、また幸せな関係を築き上げることができます。外を気にして、外に向けっぱなしにしてきた注意を、自分の気持ちやニーズを丁寧に感じて、受けとめ、応えるようにしてあげます。

そのことで、自分が安心し、満足し、しっかりと地面に根っこをはりだしたような安定感を感じることができるでしょう。そこからは、人の期待に気持ちよく、できる範囲で応える心の余裕も生まれるかもしれません。

飛行機に乗ると、何かアクシデントがあったときには、まず自分が酸素マスクをつけて、ライフジャケットを着てから、こどもに着けてあげてください、と指示されますね。まずは、自分をOKにしてあげることが大切なのです。

たまには自分にとって「あたりまえ」と思っている考えが本当に自分を幸せにしているのか(苦しくしていないか)、またその考えが正しいのか、親しい人とチェックしあってみるのもいいかもしれません。また、何か苦しい気持ちを感じているとしたら、きっとそこにはすでに役に立たなくなった考えが横たわっていることでしょう。

自分の考えが人生の色あいを決め、筋書きさえも左右してゆきます。ちょっと考えを変えたり、手放すだけで、わたしたちは見える景色が違ってくるし、住む世界さえもガラリと変えることができるのです。

(こちらのブログはご本人のご了承を頂いた上で書かせていただきました)

 

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13-03-23 わたしたちの行動には、ワケがある? その1

「「なにごとにも”超せっかち”なんです」というクライエントのAさん。

やることはなんせ早く、そのうえ人にまかせられない性格。なぜなら、自分がやったほうがよっぽど早いですからね。しかし、なんでこんなにせっかちなのか?

彼女の深い意識を調べてみると、こんな思い込みがありました。「せっかちになって、自分が一方的にイニシアチブをとってしまえば、人からコントロールされることもなく、安全でいられる。だから、すべてを超高速で行うべし」。こんな指令が潜在意識から出ていたのですね。もちろんご本人も潜在意識のこのような意図にはまったく気づいていません。


どうやらこれは支配的な母親の影響らしく、支配から逃れるためには、なんでもとっととやっちゃうのがいちばん!と信じたのです。しかし、おもしろいことに支配されるのがイヤだったはずなのに、いつのまにか自分も人を支配していたんですね・・・「先に支配しちゃうぞ、支配されないためには」と。

まったくもって、「親のああいうところだけはイヤだ」と言っていると、まさに知らぬまに汚染されているとうか、同類になっているのがわたしたち。

これは親への抵抗が強いほど明らかです。たとえば、親が小さいときに蒸発した ・・・と嘆いていると自分も蒸発することになり、また親の浮気が嫌だった ・・・と嫌悪していると自分も知らぬまに浮気をしていたり、最たるものは家庭内暴力。あんなに虐待や暴力されていやだったはずなのに、無意識のうちに大切な人をぶったり、言葉で虐待したり、と同じ態度をとっていたりします。

わかっていたら、もちろんやりませんよね。すべて無意識です。無意識層へと刷り込まれた行動や考えは、無意識のうちに出てきちゃう。(わたしたちの行動のほとんどは「無意識」だって知ってました?何か・・・つまり、信念に乗っとられて無意識に動いたり、喋っているのです。)

セラピーをしながらたくさんの方にお目にかかっていると、当のご本人はまったく気づいていなくても、まるで親と同じパターンの生き方や行動をしている場合が多々あります。その生き方しかお手本がないのがこども時代。好きだろうが、嫌いだろうが、それしかお手本がないので、パターンとして刷り込まれてしまうのですね。そして、本人は気づかなくても、外から見ていると「あら、あら、あんなにイヤだと言っていたのに、まったく同じことしてるよ」と気がついてしまいます。

Aさんはせっかちになることによって、まんまと自分のペースでコトを運び、人には支配されないですんでいるのですが、じつは「ぜんぜん楽しくなかった」そうなのです。Aさんいわく、「四十数年生きてきて、一度も楽しくないの」と。

あらあら、どうしたことでしょうか?いつも明るくて、頭の回転が早くて、手際のいい彼女がそんなふうに感じているなんて思いもよりませんでした。

でも、それもそのはず・・・。せっかちさんは、いつも頭がクルクル高速で回転していて、まるで頭の中で「思考」というバーチャルな世界を生きているのです。パッと見て、ササッと判断する。「ああ、それってこういうことね」「ふんふん、それなら知ってる」「それって、こういう感じなのよ」・・・すべてを過去の記憶というストックから引っぱってきて、それで片づけてしまいます。それに、思考は実体をともなっていません。さきほども書いたように、バーチャルなのです。「思考」とはつながっても、「今」という実体とはなんら接触していません。

するとどうなるか・・・だんだん、だんだん人生が無味乾燥状態になっていきます。イキイキした生気が感じられません。ワクワク感もドキドキ感もなく。どうやって楽しんだり、リラックスしていいのかわかりません。

こんな症状、会社でバリバリと働いてきた男性にも見られがちです。

さてさて、どうしたらよいのでしょうか?

(その2に続く)

 

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13-03-23 わたしたちの行動には、ワケがある? その2


(その1より)

やることがとにかく早いという、せっかちなAさん。でも、人生、今だかつて心から楽しんだことがない・・・と。

それもそのはず。せっかちさんは思考がクルクル超高速で回転しています。そして思考だけで現実の表面をスルスルと滑っていく感覚です。それには実体が伴いません。ある意味、バーチャル・リアリティ。

自分の生き生きとした生命力が、怒濤のような自分の思考の中に埋もれ、自分のパワーとふれあうことがないのですね。

「生きる」ということは五感をフルに稼働させること、実際に身体を使って体験すること、それによって自分の中の生命力が喜ぶこと。ところがAさんの場合は、暴走気味の自分の思考についていくことが精一杯で、「今、ここ」を体験しながら、それを自分の生命力で受けとめることがおざなりになっているようです。

思考にたより、永らく五感を使っていないと、「ん??感じるって、ど〜いうこと?」となってしまいます。ご本人は「感じている」つもりでも、すぐに「考えたり」「解釈したり」というモードに入っているのですよね。これは男性にとても多く、ご自分の感覚・感情について尋ねても、応えは一般論なのです。

「いろいろな味を感じる」「季節の風や花の匂いを感じる」「人のぬくもりを感じる」「愛を感じる」「くつろぎを感じる」「美しい音色を感じる」「自然にあふれる色を感じる」「言葉にできない感じを感じる」・・・・など、日々の生活の中で感じられること、体験できることは様々。

感じるときには、五感のすべてのモードを使って、それがどんなか感じようとします。呼吸はゆっくりになり、忙しかった頭はお休みして、どちらかというと身体全体を使う感じです。リラックスして、身体の中にエネルギーが戻ってくる感じがします。また、感じることによって、自分の中に広がりを感じるし、自分の中の「思考ではない」もっとイキイキしたものに出会うことができます。

思考を続けていて、このようなリラックス感、イキイキ感を感じることはありません。

Aさんの場合は「コントロールされないようにするためにせっかちになって、感じるかわりに思考モードになってしまった」わけですが、同時につらい母娘関係であったために「これ以上感じてしまったら、自分がだめになってしまう」と思い、自分を防御するひとつの方法として、感情を感じるヒマを与えなくしたという理由もあるようです。

いずれにしても、「感じる」モードが閉じた人生を過ごしていると、どうにも人生が味気なくなって「こんなはずじゃなかった」ということになります。それぐらい「感じること」は大切で、「感じること」はまさに自分の生命力に出会うことであり、いきいきした人生を送るカギでもあります。

Aさんの子どもの頃から握りしめていた「(母から)支配されないために、なんでも超高速でやるべき」という信念は、彼女が小さな子どもとして無力であったときには役に立ちましたが、もう十分に自分のことを自分で守ることができる今となっては、彼女の人生を楽しくするには役に立っていないようです。

「こんな、いらない信念を握りしめていたんだ!」と単に気づいて意識にのぼらせ、何かこれからの自分に役に立つ新しい信念を決めるだけでも、変化を起こすことができます。すぐに体験する自分の世界が変わってくるのに気がつきます。(セラピーのセッションの場合には、もう少し深いところから信念を取り去し、入れ替えるという作業をしてあげます。)

Aさんの場合は、旧い信念をお掃除したあと、「人に対しても、自分に対しても、支配とは無縁である」という新しい信念に置き換えたのでした。それと同時に、思考をスローダウンするために、自分の注意を頭の中におかず、外に出して、ひとつひとつを感じてみることも練習してみます。

翌々日にお目にかかったAさんのモードは、どこかゆったりしてきているように感じられましたよ。

おもしろいもので、わたしたちは「自分の信じていること」を少し置き替えてあげるだけで、すぐさま見える世界が変わります。つまり、わたしたちは自分の信念という色眼鏡で色づけした世界しか見ることができないので、適切なレンズの交換(信念の交換)は見える世界をバージョンアップさせるためにはとても大切なことなのですね。

コンタクトレンズでも眼鏡でも、こどものときからの度数ではあわなくなるのは当然。今の自分にあった度数のコンタクトや眼鏡(信念)が心地よい世界をつくってくれるのです。

そして不思議なもので、一人の見方が少し変わることで、その人に関係している多くの人たちの見方もまた同時に変わっていくことが起ります(たとえば、家族の誰かがセラピーを受けると、他の家族までいろいろと変わっている・・・という具合に)。そう、これは「わたしたちは常に自分がこうだと思っている世界を見ている」ということ。

自分が変われば、モロモロも一緒に変わる。みんな連動しているのです。すべては、世界は、ひとつですからね♪

 

(こちらのブログはご本人のご了承を頂いた上で書かせていただきました)

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13-04-07 「べき」が大好き!わたしたち その1

「なんで、妻は片づけられないのか?(掃除は、毎日するべきだ!)」

「夫はどうして、だらしないのか?(もっと身だしなみを整えるべきだ!)」

「○○ちゃんのファッション、超似合わない。(もっと、トシ相応にすべきだ!)」

「上司(部下)はこうあるべき・・・」

「○○さんには、ああすべきではなかった・・・こうすべき」「

こんな「べき」言葉が、セラピーではよくつぶやかれます。

何をそんなに気にしているのでしょう?じつは、これらはみんな「他人」についてのことなのですよね。「自分」についてのことじゃない・・・。他の人のことだったら本来どうでもいいはずなのに、それがなぜか「どうでもよくない!」。そして、「こうすべきだ!」と首をつっこんでしまうわたしたち。そこにストレスや苦しみが生まれます。

わたしたちには、「人はこうふるまって、あたりまえ」「ものごとは、かくあるべき」という自分独自の決めつけやルールがあります。そして、そのルールのモノサシを人やものごとに安易にふりかざし、押しつけようとします。

でも、押しつければ押しつけるほど、自分の理想と現実とのギャップを思い知らされるだけで、結局その落差に苦しむのは自分なのです。「べき」と言うたびに、自分の中にいらぬ苦しみをつくってしまいます。

「こうであるべき」と、いくら言ってみたものの、たいてい相手がしていることはその人にとってはごく「ふつう」のことなのですよね。つまり、わたしの「ふつう」と相手の「ふつう」がイコールではないのがこの世の中。(自分の「ふつう」は、じつはすごく「ヘン」かもしれません。)

相手の「ふうう」=つまり「あるがまま」に自分の「ふつう」=「こうあるべき」を押しつけると、結局は「こうあるべき」は敗北するしかなくなります。相手の「あるがまま」はまぎれもなく、今の現実だから・・・「そうじゃない!」「そんなはずじゃない!」「こうしろ〜!」といくら叫んでも、静かにそれは「そうである」のが事実なわけです。

「こうあるべきでしょ!」と理想をふりかざして迫られても、しょせんそれは「あなたの考え」、「なんでわたしが、あなたの理想にあわせなきゃいけないのよ?」ということになってしまいます。

そうなのですよね。「そうであるもの」「そうである人」は、今の時点では限りなく「そうである」のです。いくら地団駄踏んで、「ちがうよ〜!!そうじゃないでしょ〜!」と叫ぼうとも、そうであるものは現実に「そう」なのでした!残念ながら・・・。

「そうじゃない!」と叫び続けるだけ、かなりのエネルギーを消耗します。自分の中のストレスが増していきます。

なんでわたしたちは自分をこんなに苦しい状態にしてまで、現実である事実に「そうじゃないんだ!こうするべきだ!」と抵抗したいのでしょうか?自分がストレスでいっぱいになろうとも、なぜに自分のルールを押しつけたくってしょうがないのでしょうか?

自分のルールは、自分だけで大切にすればいいはずなのにね。

自分のルールと相手の「あるがまま」とに、いったいどんな関係やこだわりがあるのでしょう?

(その2につづく)

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13-04-07 「べき」が大好き!わたしたち その2

(その1より)

なぜに、こうもわたしたちは自分の「べき」ルールに人を従わせたいと思うのでしょうか?「自分のルールの通りにして、あたりまえなのだ」という感さえあります。

それは、「わたしたちがコワガリだから」。

正確にいえば、「わたしたち」というよりは、「わたしたちの中のエゴ」がコワガリだから。(わたしたちの中には、エゴの自分とホンモノの自分の二人の自分がいます。意地悪になったり、自分のことしか考えていないときは、エゴの自分。まったく怖れがなく穏やかで愛がいっぱいのときには、ホンモノの自分。たいていはエゴの自分が優勢で、完全に乗っとられていますが・・・。)

エゴの自分は「この世はコワイところだ」「やるか、やられるかだ」と思っているからいつも怯えていて、そのため予測不能なことや自分でコントロールできないことが大嫌い。脅威なのです。だから、ちゃんとはじめから支配権を握っていたい。自分のルール、「○○するべき」をさっさと押しつけて、やられる前にやっちゃえ!というわけです。

でも実際に、手綱を握れるのは自分の現実だけ。人さまの世界まではコントロールできません。できないものをできると思ってしまっているところに苦しみが生まれちゃうわけです。

また、「人は好きなように振るまう権利がある」という基本的なことがスッポリ抜けているため、「べき」ルールを押しつけちゃうということもあります。つまり、自分の「ふつう」は、他人の「ふつう」だと信じちゃっているのです。そこには「自分はいつだって正しいのだ」という思いこみがあります。(これは劣等感の裏返し。自分で自分を信じていたら、あえて「正しさ」を主張する必要はありません。)

まあ、こんな様々な理由があって自分のルールを押しつけているわけですが、「こうであるべき」という言葉のもとに、コントロールできないものを懸命にコントロールしようとすることは、それはそれは疲れます。イライラします。・・・いくら頑張ってもコントロールできないからね。

だから、さっさと降参したほうがいいのです。消耗しないために。

サル山で日がな一日、毛づくろいにほうけているサルに「きみたちはもっと勤勉にするべきだ!」と言っても、できないものはできないし。飼ってるイヌやネコに「食べたら食器を洗うべきだ!」と力説しても、できないものはできないのです。

今、「できていない」ものは「できない」んだから。(将来のいつかの時点で、できるようになることはあるかもしれませんが。)

それを「できるはずなんだ」と信じきり、「わたしが言ったとおりにするんだ!降参しろ!ほら、やってみろ!」と地団駄ふんで指図してもしょせん、「できない」現実をつきつけられ、苦しみや葛藤が生まれちゃうわけです。

ジョン・レノンが歌っていました。「Let it be, let it be.  Let it be, let it be.  Whisper words of wisdom  Let it be」・・・物事を変えようとしないで、あるがままにしておこうよ。そのまま、そのまま、あるがまま、この智恵ある言葉をつぶやいてごらん・・・と。

できないものはできてない、ただそれを受け入れましょう。それが真実の姿なのですね。

「そうか〜、今目の前にあることが唯一の現実だ、変えようとするのはやめよう」と思うと、なんかグッと肩の荷が降りるかんじです。「そっか〜、この人はたんにできないんだ・・・。わたしは何を戦っていたんだろ〜?」って。

そしておもしろいもので、現実の「あるがまま」を受けいれてあげると、不思議と現実が自分にやさしく寄りそってきてくれるのを感じるんですよね。

これが戦わずして勝利をおさめる極意?「手放す」と「やってくる」ってことでしょうか?

セラピーでも、失恋相手や離婚したパートナーへの執着やコントロールを手放すと、一気に相手の方からよりを戻すような動きが起るのはおもしろいものです。

自然界は「コントロール」を嫌うのですね。コントロールを手放して、そのまま、そのまま、あるがままにしておくと、いちばんいいことが起るし、気持ちよくすべてと共棲ができる。

でもね、わかってはいても、いちばんこだわっていることに対しての「あるがまま」が本当にお腹に落ちるのには、5年や10年、かかってしまうこともあります。それだけ、「あるがまま」って、かんたんなようでいて、難しい。

「あるがまま」に抵抗しないって、ある意味じゃ弱さのようにも感じてしまいます。

でも、自分の新しいスタンスとして「すべてをそのまま、あるがままで受けいれる」という考えを取りいれてみると、また違った世界や流れが展開されてくるのかもしれません。

 

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13-04-21 悩みがなくなったら困るんです・・・

「現実(reality)」と「想像力(imagination)」とが勝負したら、どっちが勝つと思いますか?

どっちが、より自分への影響力が大きいでのしょう?

ほとんどの方は「そりゃ、現実でしょう。なんせ、現実はリアル、自分の目の前にありますからね!現実以外はこわくないですよ」とおっしゃいます。

・・・ところが「現実」と「想像力」とが力くらべすると、「想像力」の方に簡単に軍配が上がっちゃうのです。つまり、わたしたちは「現実」世界よりも「想像力」に支配されている・・・ということです。

ちょっと信じられませんか?

わたしたちが悩んだり、苦しんでいるとき...それは自分の「想像力」におびやかされているからです。「現実」に対してではなくって、これから起るであろう未来への「想像」であり、すでに過ぎ去ってしまった過去への「想像」なのです。

そして、「想像力」は簡単に人を病気にし、また命さえも落とさせてしまいます。

おそるべし「想像力」・・・。

「でも、実際、目の前の現実的なことに悩んでいる人もいるでしょ?」・・・じつはそれは、現実に対する自分の考え、未来はこうなるのでは?という「想像」
に悩まされているのです。現実は現実、そこに怖れのストーリーをくっつけなければ、それは何の意味もなく、有害ではないのですね。

「想像」にハマりすぎて、グルグル、グルグル、未来や過去を考えすぎた結果、にっちもさっちもいかなくなります。もはや、恐ろしいストーリーの餌食です。完全に食べられています。

世の中の悩みのすべては、「想像力」から生まれている、といってもいいぐらいです。

でもセラピーでこの性癖を治そうとすると、つまり「想像力」に入りこんでストーリーに浸る癖を改善しようとすると・・・不思議なことが起ることがあります。

クライエントさんが急に「や〜めた!」と言いはじめるのです。・・・・せっかく、お悩みからほとんど脱しかけているのに、どうしたことでしょう?

一度じっくりとその事情を追求してみたことがあります。するとなんと、「悩みがなくなったら、やることが何もなくなってしまうようで・・・とても空虚な感じがして、コワいのです。とりあえず、まだ悩んでいます」と。

「!!」なんと!悩むことはヒマつぶし??

自分と向き合うのがコワいから、とりあえず悩みでもこしらえてそっちにかかわっっていようかな〜というケースが多いことに気がつきました。

そんなにコワい自分って・・・・(汗)。

でも、この「自分と向き合いたくない」パターンは恋愛にも多々みられます。自分と向き合いたくないから、相手に依存しすぎる、境界線を越えてまで相手の現実に踏み込んでおせっかいを焼います。

悩みをつくってそれにかかわらなくちゃいけないほど、自分と向き合うのはコワい?自分がなくなるほどの恋愛をしなくちゃならないほど、自分といたくない?

・・・・現代の悩みの多くは、自分からお出かけしちゃう「自分エスケープ」・・・汗。

 

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13-06-07 こころのキモチと、あたまのキモチ その1

クライエントのAさんは30代のシングルマザー。お仕事をしながら5歳の娘さんを育てています。

ところがいつからか、熱がでたり、頭痛がしたり、体調がすぐれない日が多くなったとか。風邪かな? とほっておいたら、ついには何をする気力もなくなってしまい、夜、娘さんのためにゴハンを作らなくちゃと思っても、キッチンの床にぺったりと座りこんだまま、ただハラハラ涙をこぼすようになってしまったとか。

「わたしの人生、こんなはずじゃなかった」「娘のことも苦しめている」「両親だって心配しているし」・・・「それも、これも、わたしがいけないからだ」・・・と、自分自身を責める気持ちに苦しみながらセラピーにいらっしゃいました。

Aさんはふだん、まわりを気遣うとても優しい性格。職場でも明るく雰囲気を盛りあげていました。

しかし、「なんとかこの職場で、好かれながらうまくやりたい」という意識が強くなりすぎたせいで、注意が外を気にすることばかり注がれ、自分を気遣ってあげることがすっかりお留守になっていたようです。

じつは、家のことと職場のことですご〜く疲れているのに「必要以上に元気にふるまったり」、同僚のちょっとしたひとことに傷ついてしまったのに「まるで気にしていないふりをしたり」、理不尽な残業をおしつけられても全然大丈夫ですと「笑顔で引き受けてしまったり」・・・明らかにこころと態度に大きなずれが生じていたのです。

これは意図的にそうしていたわけではなく、無意識のうちに大丈夫な自分を演じていたため、自分の内側の気持ち、こころの叫びを汲みとれなくなっていたのです。

わたしたちは小さい頃から、「もっとアタマを使いなさい」と理性的であることをよしとされます。そのまま気持ちを出そうものなら、たいてい親に嫌がられるのです。

「なにめそめそしてるの?」
「いつまでスネてるつまり?」
「文句ばっかり言って」

こどもは上手な感情の伝え方を知らないのでそのまま感情を爆発させるわけですが、それをちゃんと受けとってもらったためしがありません。いつも否定される反応が戻ってくるのです

すると、感情はいけないものだ、これは嫌われる、と「飲みこむ」クセがついてしまうのです。(飲みこまず、人にぶつけ続けるパターンもあります。)「飲みこんだ」感情はなくなりません。感情はしっかりと受け止めない限り、潜在意識にしっかりと抱えこまれてしまいます。

抱えこむといっけん無くなったように見えます。「おお、わたしって、立ち直り早いわ!」「何言われてもぜ〜んぜん平気じゃないの」と。

いえいえ、そんなことはありません。ちゃ〜んとためこまれていて、ある引き金を引かれたときに、いっぺんに全部が飛び出してくることがあるのです。「え〜、あの温厚な人が?」「え?あのおとなしい彼女が?」と、手をつけられないぐらいの爆発ぶりに周囲はアゼンとします。

いったん火がついたら、大爆発にいたるわけです。あるいは、ためこんでいた同じようなものに引火して手が付けられなくなることも。(ははは・・・そんなこともありましたって、思いあたっちゃったりして・・・(^^ゞ   )

自分の感じていることに関しては、アタマよりもカラダの方が正直です。自分では気がつかなくても、カラダは一生懸命、メッセージを発してくれているのですね。たとえば、眠れない、胃の調子が悪い、頭痛がする、下痢・便秘になる・・・など、心身症としてカラダがメッセージを伝えてきます。それでも、わたしたちは自分のこころの叫びに気づくことができません。

アタマはまるで、「わたしの言うことをきけ!」「ちゃんとやるんだ!」「イヤだなんていわせないぞ」と、いやがる馬(こころとカラダ)にまたがりビシビシとむちを打ちこむ暴君のようですよね。

「元気なふり」「なんでもないふり」・・・「ふり」をするのは、ある種、自分への虐待です。こころやカラダが何を言おうと、ぜったい耳を傾けず、いやがることを強いるわけです。一方、自分以外の人の気持ち、意見にはとても敏感に反応して、気遣ってあげるわけです。(これじゃ、ココロが反乱をおこしても仕方がありません・・・。)

(その2につづく)

 

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13-06-07 こころのキモチと、あたまのキモチ その2

(その1より)

このココロの声を無視して大丈夫なフリをしていると、外から見るとどこか不自然な感じと不正直さが伝わってしまいます。わたしたちの醸しだす雰囲気って、本人がそれを隠しているつもりでも、かなり的確にまわりに伝わってしまうものです。なので、大丈夫なフリをすればするほど、態度と言葉が一致していない不安定さを感じさせてしまいます。

それと同時に、自分を大切にしていないと、相手にもOKを出せるようにはなりません。(「わたしがこんなにガマンしているんだから、あなただってこのぐらいはガマンするべきでしょ!」と同じレベルのつらさを相手にも要求するようになってしまうのですね。)

A子さんにおうかがいすると、やっぱり小さい頃から自分の感情は押し殺す「いい子」を演じてきたようです。きっと、人生のとても早い時期に、感情表現をしたら傷つく体験をしたのでしょう。

・・・ということは、もしかするとA子さんは、「自分の感情がわからない人」ではなくて、じつは「誰よりも感情に敏感な人」、つまり「感情が豊かで、感情を感じやすくたくさん表現していた人」だったのかもしれません・・・だから、よけいに傷つきやすかったのかもしれません。

そうなんですよね〜。幼いころ傷ついた部分は、性格が反転してしまうのです。いっしょうけんめいいろんなことをお喋りをする子だった、けれど父も母も耳を傾けてくれなかった → もう、彼らには喋らないを!と決める → 無口な子、というように・・・。なので、「わたしの性格のこの部分が嫌いで・・・」というクライエントさんには、「大丈夫ですよ〜。もともとそういう方じゃないですから」と、今は反転しておおい隠されてしまっている本当の自分がいることをお話しします。

A子さんには日々の生活の中で、まずは「自分が何を感じているのか」を折々の場面で自覚する練習をしていただくことにしました。

「ねえ、今、あなたはどんな気持ち?」と一日に何回も自分に問いかけます。

的確に自分が感じていることを捕らえるのはむずかしいと感じるかもしれませんが、「なんかモヤモヤしてるな」とか、「落ち着かないよ」と漠然とした感じならわかるかもしれません。

そうしたら、それが身体のどこにあるかもうちょっと調べてみます。「う〜ん、そのモヤモヤは胸のとこかな?・・・あ〜、さっき言われたことに納得していなくて、ムリやりおしつけられたことに悲しんでいるかも」。

そうしたら、それに対しては「いい」とも「悪い」とも価値判断することなく、ただ受けとめてあげます。「そっか〜、さっきの言葉で傷ついちゃったんだね〜」

人とのコミュニケーションの中でもそうですが、わたしたちは全面的に、無条件に、真剣に「受け入れてもらう」ととても安心します。すると、何も状況は変わっていないけれど、「よし!頑張ってみようかな」と前向きな気持ちになることができます。

気持ちにおいてもしかり。自分の気持ちを「いい」「悪い」の判断なして、しっかりと受けとめて、認めてあげると、その気持ちは安心します。ちょうどドッヂボールをしていて、正面からきたボールをお腹でドスンと受けとめるような感じです。正々堂々と、真っ正面から真剣に受けとめてあげます。

そうするとなんかいったん落ち着いて、その後にどうすればいいのかも見えてきたりします。「やっぱり、納得していないな〜。ちゃんと気持ちを伝えて、できませんって言ってみようかな〜」というふうに。

なんでもそうですが、姿がはっきりしない得体の知れないものはイヤな感じがしますよね。でも、いったん「それが何であるか」を見きわめることができると、わたしたちはホッとするのです。(気持ちを文字にして書き出してみるのも、オススメです。)

A子さんは自分の気持ちをちゃんと文字にしてはっきりと認めてあげる習慣をつけたら、娘さんとのコミュニケーションも変化したそうです。一方的に押しつけることはなくなって、かならず娘さんの気持ちを聞いて、しっかりと受け入れてあげてから、さてどうしようかと二人で一緒に考えることができるようになったそうです。そうすると、娘さんもたくさん気持ちを話してくれるようになり、A子さんも素直に「ママ、きょう疲れてちょっとイライラしてるかも」と自分の弱さを出せるようになりました。

こんなふうに、決してなくなることがない感情エネルギーをうまくガス抜きする習慣を持つと、自分が自分の感情にホンロウされて「人生、こんなはずじゃなかったよ〜」と後悔することが少なくなるかもしれません。

やっぱりいつでも大切なことは、理屈をこねくりまわして「オッケー!」といいそうになるウソつきなあたまのキモチはおいておいて、まずは自分のこころのキモチをていねいにひろってあげて、自分を大切に尊重してあげることなのですね。

やさしくするのは、まずは自分から!

この姿勢を持てるようになると、外側を気にしてブンブン振りまわされることも少なくなり、だんだんと自分のペースができてくるし、自分のことが信頼できるようにもなってくるのです。(^_^)v

 


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13-06-15 ニュータイプのうつ、“新型うつ”って?

最近、働く現場では若い世代を中心に「新型うつ」というのがふえているそうです。

「うつ」の新型、とはいったいなんぞや・・・??

そこで「新型うつ 傾向と対策」セミナーに行ってきました。

従来の「うつ」は脳内のセロトニンの不足などが原因で不眠、気力の低下、食欲不振など、生体エネルギーが著しく低下した状態になります。

一方、「新型うつ」は脳内ホルモンうんぬん・・・というよりは、生育環境、親との関係、性格などが原因だそうな。つまり、過保護、過干渉、母子密着、愛情飢餓、父親不在、自己愛着性、未熟な人格が職場や学校のストレスと絡むことで起っているのですよね。「うつ」っていうよりはセラピーによく持ちこまれる典型的なココロのお悩みのように映ります。

症状も、見るからに「うつ」という一般的な「うつ」状態とは違い、まずは「自分大好きの自己中」で、「いやなことは一切やらない」「人間関係では空気が読めなず」そして「すぐ人のせいにしちゃう」など。たんに「これってワガママじゃないの?」と受けとられてしまうような症状。

つまり、勤務中はうだうだ、でもアフター5はめちゃ元気、気に入らない仕事は平気でスルー、認めてもらえないとガマンができず、失敗したら人のせい、ちょっと強めにしかられるともう欠勤、・・・などなど、そこから休職、ひきこもりへ。

 

「うつ」というカテゴリーに入れられていることじたいが不思議な「新型うつ」。こんな方がいたら、こりゃ適応障害だわ、と思っちゃいます。だから、職場では「ワガママ病」のレッテルをはられて相手にされず、改善するどころか事態は悪化するばかり。

性格的な傾向とストレスが絡んでいるので、クスリはあまり効かないそうな。カウンセリングとストレスをやわらげることで対処します。だから、何がストレスになっているのかを見極めずに、「ワガママな!」と叱ろうものならもっと悪化するのです。

また、従来の「うつ」は「うつですよ」という診断が下されると「自分がうつのはずがない」と拒絶反応を示すのですが、「新型うつ」はかえって喜んじゃう。つまり、堂々と休める口実ができた!じゃあ、休みますのでよろしく、という具合に。

「新型うつ」をみていると、あまりに「うつ」っぽくないので、もともと「うつ」って何だっけと思っちゃいます・・・汗。

職場や学校で、ワガママ、無責任、自己中気味、すぐ調子悪くなって休んじゃう  +  なんとなく抑うつ気味の人がいたら、ご注意を!

 

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13-07-13 人の話なんか聞いちゃいません、私達 その1

急に猛暑がやってきましたね。まだ夏の準備ができていない体はびっくりしています。みなさまは大丈夫でしょうか?

さて、このところ思春期のお子さまとのコミュニケーションのご相談が続いているので、きょうはそんなテーマです。

お母さまいわく、「思春期の娘に気をつかって、以前よりも時間をとって娘の言うことに耳を傾けているんです。なのに、“お母さんはまったく私の話を聞いていない”といわれてしまって・・・」

「う〜ん、おかしいですね?時間までさいて聞いているのに・・・。ちなみに、どんな聞き方をされているのでしょうね?わたしが娘さんになりますから、ちょっとやってみましょうか」と最近の問題を再現してみることに。

娘役のわたし「もう、学校行きたくなくなっちゃった」
お母さま「行きたくないなんて・・・突然どうしたの?まだ三ヶ月だし、それに頑張って受検した学校じゃない」
娘役のわたし「でも、行きたくないんだよね・・・」
お母様「何が問題?あんなに入りたいって言って入った学校じゃない」
娘役のわたし「・・・・」
お母様「ここの学校がいいって言ったのはあなたよ。この学校じゃないと大学受験も不利になるでしょ」

たった一分やりましたが・・・お母さん、ダメです〜。これだと娘役のわたしはすでに話せなくなりました。

なぜなら、行きたくない気持ちを打ち明けたら、いきなり「それはおかしい」といわんばかりの否定モードで、「そこを選んだのはあなただ」とさとされ、そのあとに続くのは「あなたの将来はだめになる」という脅しモード。これは「聞いている」というより、「もう、あなたの言い分なんか聞きたくない」と言っているようなものです。

娘さんが「学校に行きたくない」という場合は、「行きたくない」という事実よりも、そのウラにある気持ちが重要で、自分でもその気持ちに葛藤しているのです。だから、迷いを汲みとって共感して欲しいと思っています。

でも、たいていお母さま方は「この子は未熟だから、何かを間違えてしまっている。だから、教えたり、正したり、いましめたり、指示をしなければいけない」と考えていて、その子が口を開くやいなや、その子の言葉の間違い探しを始めてしまいます。正しいとことは聞くけれど、そうでないところはまったく聞かないのです。

これは、「聞いている」というよりは、「一方的に正されている」としか感じません。せっかく時間をとっても娘さんが満足しないのは、この一方的に結果を決めつけて押しつけられているような、上から目線の態度がいやなのかもしれません。

わたしもこんなことがありました。近しい人がえらく落ちこんでその気持ちを話してくれたとき、「何か、早くいい気づきを与えなくちゃ!」とばかりに、さっさとアドバイスしようとしたら怒られました。「何も言わなくていいから、ただ聴いてくれ!」と。「聴いてくれるだけでアドバイスはいらない」とまで言われたのでした。

そのとき、ハッと気づきましたよ、まったく「聞いちゃいない自分」に。そして、アドバイスしたいわたしはじつはネガティブを怖れている・・・と。ネガティブに感染するのがいやで、さっさとこの場を切り抜けようとしていたのです。そして、聞いているといいつつも、じつは自分に都合のいいことしか聞こうとしないのです。(セラピストと言えども、日常はこんなもんです・・・苦笑。)

落ち込んだり、悩んだりしている人はその気持ちを吐き出したいのです。

では、話をちゃんと聞く、ってどういうことでしょうか?

(その2につづく)

 

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13-07-13 人の話なんか聞いちゃいません、私達 その2

(その1より)

幼児や小学生の頃は、正すことも、教えてあげることも必要だけれど、思春期にもなったら独立したひとりの人間として考えを尊重してもらう必要があります。(大人であったら、なおさらです!)

それは必ずしも言っていること全部にOKを出すことではなくって、たとえその意見が間違っているように思えても、「一人の人間の感じ方、考え方」としてまずは大切に受け入れて理解しようとしてあげること。わたしたちは「それは違っている」と思うと、ソク、切り捨てたり、却下したりしたくなってしまいます。でも、「今のあなたは、そう感じているのね」とまずは受けとってあげることが大切。

全部まるごと判断しないで受けとったあと、「自分とは違うな・・・」と思うところがあったらあとから、「この部分は、わたしはこう感じたんだけど、こんなふうにも考えられないかしら?」と提案して話しあってみることになります。これだと、会話はキャッチボールが続いて、しっかり「聴いてもっている」感を持つことができます。

つまり、幼児の頃は教育する(教え、さとし、導く)ことはしなければならないけれど、思春期をすぎたら見守り、応援し、話しあう。(幼児であっても、このキャッチボールのボールはちゃんと受けとってあげないといけませんよね。)

わたしたちはみんな自分が正しいと思っているので、相手が間違っているのをそのままにしておくのはイヤなのです。とくに、それが自分が「生んで」「育ててきた」対象だと、なおさら。未熟なイメージしかありません。とにかく、とっととコンントロールをして、修正して、自分が安心したいのです。自分の理想の道筋に乗せたい。・・・でも、これは自分と相手の境界線を越えている行いです。人間の間には、一個の個人として尊重すべき、おかしてはいけない境界線があります。こどもといえども、自分の考えを大切にしてもらう権利があるし、自分の考えで間違えてみる権利もあるのです(危険や生命をおかさない限りで)。

そうやって見守ることで育っていく、見守ることで本当の自分を思いだしていく、その成長のプロセスを信頼してあげなければなりません。・・・見守ることって、とってもエネルギーがいりますね。

「さっさとアドバイスしたいわたしはじつはネガティブを怖れている、ネガティブに感染するのがいやなのだ」と「その1」の中で書きましたが、わたしたちはネガティブに侵食されるのを極度に怖がっています。まるで悪い伝染病にかからないようにしているみたいに。

それは、「小さいときから、ネガティブさを感じることを自分に許していないから」。つまり、落ちこんだ感情、自己否定的な感情、現実逃避的な感情、破壊的な感情・・・。これらの感情はよくないと教育されているので、ほんとうに自分が感じていることを自分に感じさせることを許してきていません。すぐに理由をつけて他の感情にすりかえたり、ムリやり大丈夫だと思わせようとしたり、その感情をなかったことにしたり・・・自分の中にネガティブさを見つけると、さっさとそれを処理しにかかります。

そんなクセがついているので、人の中にネガティブを見つけると、ソワソワしてきて耐えられず、自分のものじゃないのにさっさと片づけにとりかかろうとするわけです。

カウンセリングやセラピーにおいても、クライエントさんに対して「この人は悩んでいるかわいそうな人。助けてあげなくてはいけない人」として改善しようとすると、セッションはうまくいきません。相手から抵抗が出てきます。

「あなたはダメだから、変えてあげよう」という考えは、そもそも相手への否定から始まっています。そして、人は変えられたくなんかないのです。変わるんだったら自ら気づいて、自分で変わりたい。

そして、わたしたちは、たった一人でもいいから、誰かに自分の潜在的な力(まだ見えていない力)を信頼してもらうことによって、それを確実に自分のものにしていく力があります。

潜在的な力とは、その人の奥に眠るどんな状況も乗りこえて、成長してゆける逞しさ、完璧さ。「あなたは大丈夫なんだ」という見方を貫いてあげることによって、潜在的にその人の中に眠るお宝を発掘してあげるこことができるのです。そしてそのお宝は、それを信じられる人のもとにしかやってきません。

「まだうまくできていないあなただけれど、でもちゃんとプロセスの上にいるから大丈夫。あなたの中にはうまくやる力がちゃんとある。わたしはそれを知っているし、わたしはそれを見守っているよ。だから、今は弱音を吐くこともOK。こころおきなく、安心して吐き出してごらん」こんなふうに言ってもらって、気持ちを判断されたり、切り捨てられたりすることなくしっかりと受けとめて聴いてもらえると、「よ〜し!もう一度、頑張っちゃおうかな〜」と自分の中から力が湧いてくるものです。

そして、その人の可能性・完璧さを信じてあげることは、同時に自分自身の可能性・完璧さを信じるという、自分への大きな贈りものにもなるのです。わたしたちは、いつも自分が信じているものを受けとります。

信じることは、相手への、そして自分への、何にもかえがたい贈りもの。そして、それをしてあげられるのは、やっぱり、親であり、パートナーであり、親友であり・・・。だから、近しい人を修正しようとやっきになるよりも、手放しで最高の応援団長になってあげることが、その人のスゴイ力へと目覚めさせ、変身する呼び水になるのですね。そして、自分も同じ方向に導かれていく・・・。

さてさて、あなたは誰の応援団長になりますか?そう、まずは・・・自分、ですよね!Wink

 

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13-07-26 憑依されてる(?)わたしたち

心配ごとを考えすぎて、頭がぱんぱん!そして、頭の中の声が止まらないっ!自分でさえ、その声にヘキエキしてしまう、ってことありますよね。

「誰か、このおしゃべりを止めて〜!」と思っても、止まりません。コントロールしようとすると、さらにうるさくなります・・・・おかしいですよね。自分の頭の中の声なのに。

自分の声が制御不能って、どういうことでしょ?

こんなとき、じつは「本当の自分はお留守」・・・というか、スミに追いやられて、他の人格(怖れ、不安、怒り、悲しみなど)が自分を乗っとっている状態。つまり・・・感情の憑依状態。

そもそも、わたしたちの中には二人の自分が住んでいます。「感情的で怖がりでおしゃべりな自分」と「それをじっと観察している静かで穏やかな自分」。でも悲しいことに、わたしたちはたいてい、ニセモノの方を自分だと思っているのです。つまりニセモノとは、おしゃべりな自分、次から次へと沸き上がる頭の中の声。ひっきりなしに心配したり、怒ったり、人も自分も責めて、文句を言う。そのうえ、めったに褒めてはくれません。しょっちゅう登場してきて、常にああだこうだ言うけれど・・・、じつは、この声を冷静に聞いているもう一人の自分がいます。「ああ〜、またはじまったね」と、静かにそれを眺めている自分。

考えているんだから、それがホンモノじゃないの?と思いますか?考えていても、冷静に「そう考えている自分」に気づいている意識があります。

そうです!この後ろから冷静に眺めているのがホンモノの自分。でも・・・この二人は共存できないのです。ぶつぶつうるさい「感情の憑依くん」にパワーを渡してしまうと、あっというまにホンモノはかき消えて姿をなくしてしまいます。一方、ぶつぶつ「感情の憑依くん」にパワーを渡さず、ホンモノの自分がずっとそれを静かに観察していると、ぶつぶつくんは消えていってくれるのです・・・が、これがなかなかできなかったりします・・・汗。

わたしたちは本当の自分でいることよりも、ほとんど感情の憑依状態で過ごしているようなものなのです。ある感情に乗っとられている・・・でも感情は、じつは自分自身ではないとは・・・。刺激が加わると現れる、条件反射的なもの。そして、その感情に支配されて、無意識的に次々と行動を起こしてしまいます。(ちゃんと考えてるよ!って?いえいえ、憑依した声に従っているにすぎません。)

この声は、仕事も人間関係も、そして自分自身さえも、めちゃくちゃにしてしまうことがあります。なぜなら、その声は怖れに満ちていて、近視眼的で、自分にも人にも、とてもイジワルです。この声に従っていると、どんどん被害者チックで可哀想なわたしになっていきます。

人で賑わう渋谷のスクランブル交差点にしろ、ごったがえす原宿の竹下通りにしろ、自分の感情にのっとられた憑依状態の人たちがわやわやとひしめきあっている・・・というわけです。(ゾンビ映画のようですね〜・・・)

わたしは常々、「セラピストって、エクソシストだ」って思うのです。セラピーもエクソシストも似ているのです。なぜなら、どちらも、何かに乗っとられ、その乗っとられた人は完全に何かに支配されて、別人格。それを、セラピーするわたしは毎日、その感情に憑依されたクライエントさんから「悪魔払い」をしているのす。(オドロオドロしい?・・・)

なんてったって、ココロが「過去」や「未来」に漂い出したがために、お留守のうちに怖れや欲望や自分を苦しめる感影にすっかり乗っとられてしまいます。その乗っとっている感情や考えを取り除き、「今、ここ」の正気に戻すという・・・まあ、ある種のお祓い。

霊であろうが、ネガティブな考え、怖れ、欲望であろうが、とにかく憑依されないためには、ココロがお出かけしないこと。ちゃんと自分の身体と一緒に、「今、ここ」に根をはっていることが大切です。

それは、過去をイジイジ思い出して後悔したり、未来をざわざおもいやってわ心配したり、あるいは人を批判したり、指図したり、誰かに夢中になりすぎたりし
て、人さまの現実にちょっかいを出しすぎないことです。これらをしているときには、わたしたちは自分がお留守になっています・・・過去へ行ったり、未来へ
飛んだり、人さまの現実に介入したり。

ひたすら、「今、この瞬間」の自分と仲良くすること。

この瞬間とお友だちになればなるほど、もちろんココロがお出かけして憑依されなくなるし、何よりも今まで気がつかなかった美しいものが見えてきます。

そして・・・そして・・・今、ここにいればいるほど、わたしたちはパワフルになることができます。存在感が色濃くなって(そうですよね、身体の中にちゃ〜んといるんですもの!)、人への影響力も大きくなるし、なによりも、ココロのパワーが強くなるので、自分の思いがあちこちにくまなく届きやすくなり、自分と現実が仲良くなって、どんどん動き出す感じがします。

夏はお化けの季節。へんな感情に憑依されて、頭がぱんぱんになったり、それに気づかず突き動かされる、なんてことにならないように、「今、わたしは何を考えているかな?ちょっと観察しててみよう」とココロの門番さんに見張ってもらいましょう。

 

 

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13-09-19 あなたは変わるべきだ!って、ホント?

「夫はむかしと変わってしまったんです。だから別れてたいんです」

「こんなはずじゃなかったんです。彼女にはもうガマンができません」

「彼が(彼女が)変わってくれないと、もうムリです・・・」

パートナーシップにおいて、こんなご相談が多く持ちこまれます。

ほんとうに、相手は変わってしまったのでしょうか・・・?違う人になったのでしょうか・・・?

もしもご本人に尋ねたら、きっと「いや、昔からこうですよ」「何も変わっていません」と言うに違いありません。

じゃあ、何が問題なのでしょう?

わたしたちは「誰かを好きになるとき」、じつは妄想たくましくなっています。

☆「彼は向井理似だ」(事実) → つまり「性格もいいはずだ」「女性に優しいはずだ」「スマートな振る舞いをするはずだ」(これは勝手な妄想)
☆「彼女は色白だ」(事実) → つまり「おしとやかに違いない」「素直なはずだ」「男性を立ててくれるだろう」(これは勝手な妄想)

わたしたちはあることがらを手がかりに、相手に対して勝手なイメージやストーリーをでっちあげ、ふくらませてしまいます。

本当は、「色白」であることは「おしとやか」とは何ら関係がありません。「向井理」に似ていようとも、どうしようもなくイヤミな男性かもしれません。つまり、相手の「真実」には一向に目をむけず、自分にとって好ましい手がかりを見つけるやいなや、そこから都合のよいストーリをでっち上げ、「相手はこういう人に違いない、いや、そうなのだ!」という妄想に溺れていくのです。

でっち上げたストーリーはしだいに、強固なイメージとして一人歩きをはじめます。でも、そのイメージと本人はまったく何のつながりもないのです。たんなる妄想・・・.

でも、そこに気がつかず、彼を(彼女を)そのイメージ・ストーリーの中にはめこみ、ちょっとでも相手がそのイメージからはずれようものなら、ソクそれを修正するために戦いを挑みます。「なんであなたはそんなこと言うの?」「どうしてそんな振る舞いをするの?」(向井理のようにふるまわなくっちゃダメでしょ!)。「どうして君はそんなにガサツなんだ」「どうしてそう勝手なんだ」(色白だったら、そんなはずはない!)。つまり、なんであなたはわたしのイメージどおりに生きられないの?!と。

・・・・答えはただひとつ・・・「だって、わたしはそういう人じゃないんだもん」。

いや〜、どこでどう間違っちゃったんだか・・・。

でも、わたしたちは「こんなはずじゃない。相手は間違っている。だから変えねばならない」と信じていて、日々、妄想した相手に近づいてくれるようにプレッシャーをかけ、相手を非難し、変えようとします。

相手にしてみたら、たまったものではありません。いったいいつから「あるがままの自分」でいる権利を失ってしまったのでしょう?そのままの自分で生きてはいけなくなったのでしょう?そして、相手の妄想の中の人物を演じなければならなくなったのでしょう?

そもそも最初の最初から、「本当の相手の姿」などまったく見ていなかったのです。そんなことよりも、、理想の彼(彼女)に出会ったと勝手に思い込み、自分がでっちあげた架空の誰かに恋をしていたのです。相手にしてみれば、架空の誰かを強要されたらたまったものではありません。


わたしたちは相手に対して、何を期待しているのでしょう?期待に答えてくれないと、何に腹をたてているのでしょう?何を与えるべきだと信じているのでしょう?相手はそれを本当に与える「べき」なのでしょうか?それは本当に自分では持っていないのでしょうか?

「相手がそれを与えるべきだ」と信じると、わたしたちはとたんに不自由になります。相手の好みの自分でいなくちゃならないし、相手にあわせなくちゃいけないし・・・自分のパワーを相手に渡して、すべてのことが相手しだいになってしまいます。

わたしたちはそれぞれ、自分で自分の面倒をしっかりみて、自分で自分の人生を豊かにし、自分で自分を幸せにして、自分で自分を成長させなければなりません。それをするために生まれてきました。その役は誰も変わってくれません。つまり、自分としっかり向き合って、自分の人生をちゃんと生きること。その大切なお仕事を誰かに丸投げしてしまうと、とたんに人生は不自由になって、相手しだいになってしまうのです。

・・・ということは、「相手がどうの、こうの」とちょっかいを出しているヒマがあったら、まず自分の面倒を見なくてはなりません。今までの自分の人生で足りなかったものを自分で自分に与えてあげること。

人は自分の人生を生きる、責任を持つという意味で「自己完結型」であり、また自分に必要なものは自分にちゃんと与えるという意味で「自給自足」を心得なければならないものだと感じます。

相手に求めなくなったとき、不平不満がなくなり、相手とのバトルがなくなりよい関係を築くことができます。なによりも、相手を「あるがまま」に解放してあげることによって、ココロが平和になります。そして、自分も「あるがままでいいんだ」という安心感を感じられるようになります。

自分に足りないものは自分で満たす・・・すると「ちょ〜だい!」ちょ〜だい」の欠乏やコントロールや怖れに満ちた関係から、相手と自分の「あるがまま」を楽しめるリラックスした関係になってゆくのでしょうね。

 

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13-11-18 “怖がり”さんな私たち、さてどうする?

「明日、授業で短編のリーディングをするんだけど、“怖れ”がテーマなんだ。“怖れ”について何か生徒に教えてあげられることあるかな?」とアドバイスを求められました。

ふむふむ、怖れね〜・・・。

古代の賢人曰く、「わたしはずいぶん長いこと人間をやってきた。今まで心配のタネは尽きなかった。しかし、そのほとんどが“現実には起らなかった”」。また、アメリカの学者さんの研究では、「わたしたちの心配ごとの97%は実際には起らない」という統計があります。

ということは、わたしたちは無為に怖がり過ぎ、ってこと?

それもそのはず、怖れは本能で、その昔、ほら穴に住んでいた頃、闇の中で自分よりも強い動物に食べられちゃわないためにたっぷりと怖れをもって警戒して、命をつないできたのでした。

でも現代には、恐竜もいないし、街にクマも歩いていないしね。そんなに年がら年中怖れている必要もないわけです。(原始人の時代からずっと、わたしたちのDNAの「怖れスイッチ」は入りっぱなしなのかも。)

だからといって、まったく怖れがなくてもちょっとマズいことになります。スカイツリーに登って、「大丈夫、こっから飛び降りられる」と思っちゃうかもしれないしね。なので、適度な怖れは自分のお守りになっているのですね。

セラピーをしていて感じるのは、「怖れ」が薄紙のように人生をおおっていて、なんだかいつもぼんやりと怖れの色に人生が染まっている人が多い、ということ。スッキリ、サッパリ、元気に生きたいのに、そこはかとなくいつも「怖れ」ているのです。そうなると、発揮できる才能や力さえも封印してしまいます。

じつは、怖がっているのは「本当の自分」ではありません。そもそも、わたしたちの中には二種類の自分が存在していて、ひとつは何も怖いものなんてない、のびのびして、ありのままな「本当の自分」。そしてもうひとつは、いつも人と競争して、臆病で、問題が大好きな「エゴの自分」。

まさにいつも怖がっている正体は「エゴの自分」のほう。何かを見ると、すぐに問題にしたくなるし、戦いたくなるし、被害者になりたくなる自分です。「エゴの自分」は大騒ぎが大好き。物事のなにげないプロセスや変化にさえも、これは大問題だ!恐ろしいことが起る!といい張るのです。

なので、まずは「怖がっているのは本当の自分ではない」ということを知り、怖がっている正体は恐ろしくネガティブが大好きだということを認識することが大切です。(「怖い」と感じているとき、客観的に「あ、もう一人の自分が怖がっている」と眺めてみてください。この眺めている存在がホンモノの方です。)

そして、「エゴの自分」がいい張る怖れをリストアップしてみるといいと思います。怖れが引き起こすであろう結末も書いてみて、客観的にながめてみます。

そもそも「怖れ」って、得体がしれないから怖いのであって、スポットライトを当てちゃうと、そんなにこわくなかったりします。紙に書き出すのはスポットライトを当てる作業。書いているうちに冷静になって、「これは確率的にそんなに起こりえないな〜」とか、「そうなる前に、これもできるし、あれもできる」・・・と頭が明晰になってきます。

ひとしきり書き出したら、解決策だけ残して、怖れの部分のリストアップは破いて捨ててしまいましょう。サッパリします。

他に怖れ解決策としては・・・

怖れを感じているときには「今」にいない状態で、まだ来ていない「未来」にお出かけしている状態です。わたしたちは、「今、ここ」に根を張っていないと、すぐに精神状態があやうくなります。なぜなら、生命エネルギーは、今、自分が生きている「ここ」にしか存在しないからです。

だから、しっかりと「今、ここ」に戻ってきて、「今、ここ」で自分ができること、それがどんなに小さなことでも、行動を起こしてみましょう。行動を起こしていないと怖れは大きくなります。いったん行動を起こすと、おもしろいもので次のステップが自然と見えてきたりしますよね。

あと、おもしろがってお遊び的に「思いっきりコワがる」のも、怖れ解消には有効です。その場合、部屋をおもいっきり転げ回るなど、ハデハデしくやるのがポイントですよ。

そんなこんなで「怖れ」について考えたひとときでした。

 

 

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13-11-28 赤ちゃんが欲しいのに・・・悩みの本当の理由は?

赤ちゃんが欲しくて、永らく不妊治療を続けていらっしゃるA美さん。どうしてもあきらめきれず、年齢を考えながらもその精神的なつらさと身体的な痛みに耐えながらの治療・・・でも、落胆の連続・・・。ずっと、そのお姿を拝見し、また応援させていただいてきました。

今回のご相談は、「自分が今や何を感じているのか、この先どうしたいのか、わからなくなってしまった・・・」ということ。

じつは最近、体温の高温期が続き「もしや・・・!!」という期待を抱かれた時期があったそうです。でも、すぐにそれは間違いであることがわかりました。A美さんいわく、「勝手に想像妊娠しちゃうなんて・・・。そんな自分がいやなんです。やっと、どうでもいいと思えていたのに」と肩を落とします。

今は、子どもが欲しいのかさえもわからないし、どんな気持ちでいていいのかもわからない・・・と。そして、そんな自分を責めているご様子。

A美さん、「どんな気持ちでいるべきか」よりも、今、自分が抱えている気持ちをまずちゃんと感じてあげなくちゃね。そうしたら、自然と次が見えてくるはずです。

A美さんに「本当にいつも赤ちゃんのことで心を痛めて、その上治療でたくさんの苦痛を味わって、それでも一生懸命続けてきたのだもの。がっかりしてあたりまえ。悲しくってあたりまえ。そういうふうに感じてあたりまえだよね」と声をかけると、A美さんの目からみるみる涙が溢れて、それは30分ほど続きました。(家ではぜんぜん泣けなかったというA美さん。きっと、感じちゃったら大変なことになりそうで、無意識に気持ちを押さえ込んでいたのでしょうね。)

「今、泣いているA美ちゃんの隣に、もう一人の自分が見守っていたらどんなかな?」と声をかけると、「隣に寄りそっていてくれている」とA美さん。「そうだね。頑張ってきたから、たくさん泣いていいんだよって言ってるよね」

もう一人の自分に見守られながら、ひとしきり涙を流したA美さん。そこで、わたしがふとひらめいたことがあったので質問してみました。

「自分の子どもじゃなくても欲しいのかな?赤ちゃん。それとも・・・もしかすると・・・赤ちゃんが大切なのではなくって、赤ちゃんを通して手に入る何か別のことを望んでいるのかな?・・・たとえば、だんなさんにもっと注目してもらったり、認めてもらったりすることとか・・・」

するとA美さん、「そう!そう!そうです!まさに認めてもらうこと。・・・わたし、赤ちゃんがいてこそ一人まえ、ってずっと思っていました。そうしたら認められるって・・・ああ、だから赤ちゃんが欲しかった。認められたかったんです。・・・そうです。すっきりしました」と。

さらにうかがってみると、幼い頃、A美さんのお母さまが「あなたってお父さんにそっくりだわ」とよく口にしていたそう。「もしや、ご両親、夫婦仲が悪かったのでは?」とうかがうと、「そうです。母は、父を認めていなかった」とA美さん。「そうなんですね。お父さんに似ているから、お母さんはA美さんを認めていないってずっと信じてきたんですね。ということは、近しい人、だんなさんも自分を認めていないと思ってるんだ」「はい、彼は子どもはいなくていい、って言ってくれているのに、受け入れられなかった」とA美さん。

なるほど〜。「お父さん似=大切な人には認められない」と深い意識にインプットされてしまい、A美さんなりの解決策は何が何でも母になること。つまり、自分が考える一人前になることだったのです。

結局、「赤ちゃんができない苦しみ」のご相談の本当のテーマは、「認められること」だったわけです。

でもね。A美さん、まず自分を自分がちゃ〜んと認めてあげなくちゃ。そうしたら、人が自分を認めるかなんて、けっこうどうでもよくなるかもしれません。自分を認めるためには、今日やったように、自分が感じていることをちゃんと感じるように、自分に許してあげること。しっかりと自分の感情を受けとめること。自分にやさしくしてあげましょうね。

セラピーの最後には、「わたしは自分を認めている」「人からの愛情も無条件に受け入れている」という新しい信念をインプットして終了したのでした。

さっきまで言えなかった言葉、「わたしは赤ちゃんがいなくてもいい」を今は言うことができます!とA美さん。

今後、赤ちゃんがまた欲しくなっても、きっとちょっと違った心の余裕が出てくるかもしれませんね。

(ご本人のご了解をいただいたうえで、ブログにさせていただいています。)

 

 

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13-12-07 自分を日々、ホメちゃいましょう!

わたしたちが必要としている言葉とは何でしょう?
何を言われたくて、わたしたしは日々努力しているのでしょう?

「あなたが必要だ」と誰かに言ってもらうこと?
「大切な人だ」「かけがえのない存在だ」「あなたじゃなくちゃダメなんだ」と・・・それは職場でも親密な人間関係でも同じです。わたしたちは「そのままの自分で大切にされたい、認められたい、かけがえのない存在だと言われたい」のです。

そのために、日々努力しています。ときには、本当の自分とは違うものになってもいい・・・認められるためならば・・・と。

でも人はあてになりません。あなたに感謝していても口に出してくれるとは限らないし・・・なによりもみんな、人生をサバイバルすることに忙しくって、「人を認めている」ヒマがあったら「わたしが先に、認められたい」とさえ思っているわけです。(かなり余力がないと、人をほめられません。)

だから、自分が欲しいものが「外からやってくる」のをじっと待っていると、いつまでたってもやってこないことにガッカリするし、やってこないのは自分に価値がないからと思ってしまいます。

なのに、わたしたちは常に外を気にすることを覚えてしまいました。「何かはいつも外からやってくる」と思っているから。コワイものも、与えられるものも、みんな外からくると・・・。だから、外を気にすることに全部のエネルギーを使ってしまうのです。

・・・じつは・・・「外と内は同じ」であること。「外側と自分は、じつはつながっている」ということを誰も教えてくれなかったから。

ほんとうは、「外側は自分の内側の合わせ鏡」。

よ〜く、よ〜く気をつけて見ていると、外側の世界は自分のココロの世界を追いかけてきているのがわかります。自分の持っていた気持ち・感情をなぞるように、象徴するような何かが起ってくるのです。

外側のことにびっくりして、反応すればするほど、じつはその渦の中に巻きこまれて、何がなんだかわからなくなってしまいます。

さて・・・そもそも、なぜそんなに外側から認められたいと思うようになってしまったのでしょう?

わたしたちは幼少の頃、家でも学校でも、常に「ちゃんんとできているか」「できていないか」をジャッッジされてきたし、常に採点されてきたのです。・・・だから、うまくいっているのか、これでいいのか、ここに存在していていいのか、間違っていないのか・・・取り返しがつかないうちに、誰かに何かを言ってほしいのです。

誰かの言葉を待っていると、たとえその言葉がきたとしても、その言葉の主に依存してしまうことになります。その言葉なしではいられなくなっちゃう。

基本的には人生、「自給自足」なのです!外からやってくるのを期待をしてもんもんとするよりも、まずは自分に自分で与えてあげることが大切なのですね。

なにはともあれ、まずは自分で自分にOKを出してあげましょう!

自分で自分をホメてあげましょう!自分で自分にハイタッチしてあげましょう!自分で自分にハグしてあげましょう!・・・そして、自分で自分にちゃんとごほうびをあげましょう!

わたしたちは自分の大切な人だと一生懸命ねぎらうけれど、こと自分に関しては、まるで存在していないようにないがしろにしがちです。

なかなかすぐに大きな承認はできないかもしれませんが、夜、眠る前に「きょうの努力」をちゃんとホメたたえてあげること。「雨の中、よく会社に行ったよね〜」「あの上司、機嫌がわるかったけど、よくガマンして仕事したよね〜」「8時間も働いて偉いね〜」「あのレポート、間に合ったね!すごいね」(実際、わたしたちは日々たくさんの努力をしているのです。ひとつひとつ、「あたりまえだ!」なんて冷たく言い放たずに、ねぎらってあげましょう。)

こんなシンプルな自分をホメるクセでも、じつは心にはとても大きな癒し効果、平安効果があります。

こまめにやっていると・・・外から賞賛されるか、認められるかなんて、あまり気にならなくなるし、人に対して、腹がたったり、ひがんだりしなくなるし。・・・そして、なによりもよいことは、自分が自分をホメていると、あら不思議、まわりも自分のことをホメてくれるようになってくるのです。(そうそう!外は自分の合わせ鏡!ホメられる自分を見せてくれる。)

もうすぐクりスマスですね。この一年の自分の努力やいろいろをねぎらって、是非、自分自身にすてきなクリスマスプレゼントを買って、お疲れさま会でもしてくださいね〜。自分との望年会も!

まわりの人よりも、まずは、自分にやさしく♡やさしく♡


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: 古川 貴子/心理療法家・ヒプノセラピスト)

14-02-22 人生午後の時間に学ぶ

「 人生、午前の時間と午後の時間 」

心理学者のユングは、人生には午前の時間と午後の時間があるといいました。午前は、成長や発達に象徴される「やればやっただけよくなる」時間帯。いわば上向きカーブ。

ところが正面から照らしていた太陽が徐々に頭上にさしかかり、後方へずれたその瞬間、人生午後の時間のはじまり、はじまり〜!そこでは、今まで見たこともない自分の「影」に直面することになります。たとえば、「ある日突然あらわれるカラスの足跡」やら「どんどんふえる白髪」など、努力とはうらはらな下向きカーブ、そして今までのルールが通用しない時間でもあるのです。

「 美しいはずの午前の時間は、けっこうシンドイ 」

なんかがっかりしちゃいました? でも、成果がばりばりにでる美しいはずの午前の時間、わたしたちは本当にハッピーなのでしょうか?

流行のお洋服や最新のメークアップにイケメンの恋人・・・ 。気にして、比較して、競って、手に入れようとするのが午前の時間。でも決して心が安らぐことはありません。益していくのは焦燥感や欠乏感や劣等感ばかり。もっと、もっと、もっと上を・・・と。

「 午後の時間のおくりもの 」

一方、失うものが目につく午後の時間は、じつは「今までのものにしがみついても、そこに幸せはありませんでしたよね。すべてのものは移り変わっていくもの。一生懸命かき集めても、それは時間とともにもれなく失われいくものです。それよりも“ 変わらないもの ”ともっと仲良くしませんか?」 と教えてくれているのです。

「 変わらないものとは“ 内なる自分自身 ” 」

つまり、それまでまわりばかりが気になって外へ外へとお出かけグセのあった意識を、自分の内側に戻してそこに留まってみませんか? というお誘いです。自分の心の声を聞いて、それを尊重して、内なる自分自身と仲良くする。すると、今までお出かけばかりで空き家のように空虚でカラッポになっていた自分の心の中にようやく「 主 」が戻ってくるように、安定感や充足感、信頼感がよみがえるようになります

「 内なる自分と仲良くする=つながる 」ことは、常に外側の変化にもまれて大海原にホンロウされる小舟のようだった自分が、「え?じつはわたし自身がが大海原だった?」と感るような安らかさを与えてもらえることでもまるのです。そうなって、ようやっとくつろげるわけです。

人生の午後、自分の人生の影に直面してはじめて、わたしたちは自分自身へと戻ってくるように仕向けられますが、人生の午前中にいようとも、外側から内側の世界へと注意を向けなおしてあげることによって、より人生の安定感が益してくるのだと思います。( 人生の午後時間まっしぐらなわたしですが、もっと早くそのことに気づきたかったです・・・ 汗 。)

まだまだ余裕で人生午前中の方も、意識のおでかけグセをなおして、お家(内側)に意識を向けることで、きっと今までとは違った感覚を感じられることと思います。

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14-03-13 あなたの人生はいつだって正しい♪

「 “ 人生間違ってしまった ”という焦り 」

「失恋してしまった」「仕事で失敗してしまった」「努力してきた目標が叶わなかった」・・・そんなとき、私たちの頭をよぎるのは「人生、どっかで間違ってしまった」「何か正すべきことがある」という思い。そして腕まくりをして間違いさがしをし、人生を正すことにとりかかります。

それも仕方がありません。小さいときから、いっぱい間違えて、いっぱい正されて大きくなったのですもの。何かがおかしかったら「正す」ことが性になっています。

「正す」というのは「自分の思いどおりにすること」。もちろん思いどおりになったほうが楽しいけれど・・・おそらく、人生思いどおりにならないとわかっているからこそ、思いどおりにするんだと焦る悪循環。「コントロールしなくちゃ症候群」です。ほんとうに思いどおりにするのがいいことなのでしょうか ・・・?!

「 怖がりさんは、おまかせするのが苦手 」

思思いどおりにしたいと主張しているのは、自分の中にいる小さな怖がりさんのエゴ。怖がりさんは予想外のことやハプニングが大嫌い。だからきっちり、整然とコントロールできるように「操縦桿をにぎらせろ!」と主張します。

その一方で、「あのおかげで今の自分がいる。今思えば、やっぱりあのことがあってよかったよ」という発言も多々耳にするのです。・・・ってことは、起ることの本当の価値は、起きているときにはわからないのです。けれど長い目で見れば「すべてよし!」、それ以上のご利益があったということ。

エゴの怖がりさんには先見の明がないから、自分の予想を越えたことにはすぐに「間違っている」というラベルを貼りたがります。そしてそれに抵抗したり、追いやことにすべてのエネルギーを使いつくし、戦うことが人生でのメインのお仕事になっちゃう。・・・う〜ん、これは落とし穴かも。

「 すべてはそのままでOK 」

起ったことは、すでに起ったこと。起ったことに抵抗すると、苦しさがまします。

「それがあってよかったよ」発言でもわかるように、じつは自分に「起ること」は「うまくいくための一番の近道」を教えてくれています。気づきと成長へのショートカットであり、贈りもの。もしそれが私たちの高い次元の自己からの贈りものであるなら、そこには完璧なおもいやり知性、気づきと成長のための栄養がたっぷりと含まれているはずです。

突然「起きてくる」ことはちょっとショック療法的でもありますが、レストランでの「おまかせ」コースがいちばんおいしくてお得で楽しいように、人生のおまかせコースももっとスペシャルです。怖がって抵抗することにエネルギーを使うよりも、おもしろがって人生の「おまかせコースのメニュー」に身を委ねてみると、すいすい進んでいる自分に気づくはず。

覚者は「考えさえしなければ、問題は存在しない」と言いました。そりゃそうです!・・・ってことは「間違っている」と主張しなければ、それは「間違い」にもならず、「間違い」は即座に消えてなくなってしまうという不思議・・・。

エネルギーを消耗する「間違いさがし」や「コントロール」の達人は卒業して、今やってきている経験の前でちょっとくつろいでみましょう。力を抜いて・・・ものごとを放っておきましょう。  (^-^)v

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14-04-15 誰も教えてくれなかったホントのこと

もしスマホやパソコンを買って、取り扱いマニュアルがついてこなかったら??・・・かなり困ります。

でもわたしたちが生まれたとき、取り扱いマニュアルはついてきませんでした。なので、本当のところわたしたちは誰ひとり、自分の取り扱いがよくわかっていません。

だから自分に関して「ホントだ」と思っていることの中にはあんがい間違いがいっぱいあって、それが知らないうちに自分を苦しめていたりするのです。

たとえば小さい頃によく言われたこんなこと・・・

●「何も考えてないでしょ?もっと頭を使いなさい!」・・・誰もがこんな注意をされたことがありますよね。「もっと考えなさい」って。

でも正しくは、「考えるのをやめましょう。頭をからっぽにしましょう」が「自分取り扱いマニュアル」に書いてあることです。

「この人はどんな人だろう」と考えるとき、わたしたちは自分の経験からしか考えられないので、ほとんど自分に都合のいいでっちあげの人物像をつくりあげます。そのように、一生懸命考えても、しょせん自分の思考の中をいったり来たりして、真実とはかなりかけ離れてしまう始末。そして、そんなふうに「本当でないこと」をたえまなく考え続けることによって、結局、問題と苦しみが生まれてきます。

もちろん、作業をしたり、何かを選択するときには頭を使う価値があるのですが、その一瞬でじゅうぶん。問題なのは年がら年じゅう、一日中、ああだこうだと考え続けてしまうこと。価値判断したり、後悔したり、裁いたり、罪悪感を感じたり・・・それはとめどもない連鎖を生みます。

思考というのはエネルギーであって、自分の中にふと沸きあがってきては去っていくもの。でも、この中に飛び込んで一体化しちゃうと、思考が自分になりかわっちゃう。自分というものが思考に占拠され、ハイジャックされちゃうわけです(でもハイジャックされても気づいていない・・・汗)。

とくに、わたしたちは自分を傷つける考えに反応しがちで、自ら吸いよせられるようにその中に飛び込んで一体化しちゃうという悪いクセがあります。そして、そこから出てこようともしません。まさに考えていることが自分そのもののようになっちゃいます。

思考は言います、「離してくれさえすれば、あっちに行くのに・・・」と。そうです。「思考」はたんなるエネルギーです。さっさと、そっから出てきましょう。そのためには、「頭はなるだけカラッポ、考えない」のがよいのですね。

●「頼らないでちゃんと自分ひとりでやりなさい」・・・これもよく聞いたセリフですよね。「人にばっかり頼っちゃダメよ!」って。

これも正しくは、「自分でやらないで、おうかがいをたてるか、ゆだねましょう」です。

もちろん日常のこまごまは自分でちゃんとやらないといけませんが、わたしたちが何かを決めるとき、選択するとき・・・自分の小さな限られたアタマですべてを決断しようとしても、じつはデータが足りなすぎます。それに、データははっきりいって間違っていることが多い・・・。となると、偏った決断しかできません。

でも、じつは自分をずっと支えて、導いてくれている、もっと大きな存在がちゃんといるのです。生まれたときからずっと。それは、この世にやってくるための護衛役であり知恵袋。もれなく一人ひとりについています。その存在に気づくことによって、その存在にお伺いをたてて、導きをもらうのが、この人生での賢いショートカットのやり方です。

護衛役さんは謙虚なので、こちらからお伺いをたてたり、お願いしないと、決してでしゃばることはありません。だから、たくさん訊ねる、おうかがいをたてる、甘えちゃうことが必要なのです。

これをセラピーのときにクライエントさんにお話すると、「え〜、いつも頭使えって言われてきたし、全部自分でやらなくちゃいけないと教えられてきました〜」という驚きの声が聞かれます。・・・・そうですよね。そもそも取り扱いマニュアルがなかったから・・・。でも、もしマニュアルがあったとしたら、そこには「あなたはすでにスーパーコンピユーターに接続されています。だから、自分でジタバタいじくりまわさずに、安心してゆだねて下さい。ごちゃごちゃ頭でおしゃべりをしたり、あまりにも自分でやろうとすると、接続がフリーズします」って書いてあったかもしれません。

考えすぎるとスーパーコンピューターからのアウトプットの情報がやってこなくなるし、なんでもかんでも自分ひとりでやろうとすろとスパコンのメッセージも理解できないかもしれません。

しょせん「端末器具(?)」であるわたしたちは、自分をからっぽにして、素直にあけわたして、宇宙からの電気が流れて、本来の機能が働くようにしてあげれなければなりません。(たしかにそうです。うちのトースターやホットプレートがいきなり自己主張しはじめたら困りますもの・・・汗。)

なんでも自分でやらなくちゃ!と構えてたわたしたちにとっては、ちょっとした意識の転換が必要ですが、きっと慣れてきたら「考えない、自分でやらないなんて、ラクチ〜ン♪」と思うに違いありません。

 

 

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14-05-12 じつはラッキーなわたしたち

知人に赤ちゃんが生まれました。 (^_^)/

今さらですが、赤ちゃんてデカッ!(お母さんてすごいね。)さらにあたりまえですが、赤ちゃんてスッポンポン!未知の世界にやってくるわりには何の装備もなく、ちっちゃな下着一枚さえも身にまとわないこの無防備さ。わたしたちも、ここまで手ぶらでやってきたのですね。

しかし・・・どうでしょう。「ここ」の居住年数が増えればふえるほど、わたしたちの態度ときたら・・・。

「足りない」だの、「もっとよこせ」だの、「そんなはずじゃなかった」だの、「わたしの思い通りにしろ」だの・・・。持ち物や状況やお金や人間関係に対して、日々ブイブイ文句を鳴らしています。

何ひとつ持たずにやってきて、ぜ〜んぶあとからいただいたものなのに。そんなに文句言うんだったら「全部没収!」と宣告されかねません(汗)。

いただいているものが「あたりまえだ」「そういうものだ」と思ってしまうと、人間ってどんどんわがままになっていきます。ちょっとでもそれが少なくなったり、なくなったり、変わったりすると、思いっきり文句を言ってじたばたします。「そんなはずじゃない!」と怒ります。

「でもね、あなた。スッポンポンだったのよ〜、もともとは。な〜んにも持ってなかったの」・・・「だからなくてあたりまえなのよ」と言われたら、それはごもっともなのです。

もし、すべての「借りもの」は一日一日の終わりに全部お返しするルールになっていて、また新たに翌朝支給されるとしたらどうでしょう?

わあ〜い、寝心地のいいベッドに寝てる。ラッキー!ベッドの支給ありがとうございます!
お部屋に天井があるし、窓ガラスもついてるし、カーテンまで。ありがとうございます!
お財布をあけたら、小銭が、お札までもがちゃんと入っている。ありがとうございます!
わあ〜い!水洗トイレだ、蛇口からちゃんと水もでる。ありがとうございます!
電話がかかってきた!わたしには友達も支給されてるんだ。ありがた〜い!

・・・・って、感謝が延々と続きます。なんてラッキーな人なんでしょう。

見方を変えると、とってもリッチでなんとも運のいい人に思えてくるのです。「豊かさ」の秘訣は「自分がすでに豊かであると感じること」。はい、とっても豊かに感じられるのです。

・・・・なんて、赤ちゃんの写真をながめながら考えたのでありました。あはは。

 

 

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14-05-23 大学生のお悩み相談 その1

先日、大学で授業をしたとき、Q&A タイムにとくに多かったご質問。

ひとつは、「人のことをどうしても見下して、バカにしてしまうんです」というもの。もうひとつは、「人がこわいんです」というご相談。

じつはどちらも、「自分の小ささ」「不十分さ」というところで根っこは同じものなのです。

●「人のことをどうしても見下してしまうんです」

「見下す」ということは、相手を自分よりも下においておきたい気持ちです。同じレベルであってはいけないし、ましてや自分よりも上だなんてもってのほか!

「見下して」自分よりも下におくことで、自分よりもデキの悪い人をしっかりとつくっておく必要があるのです。すると「自分よりも下」な格付けができて、自分は偉い人になれる。

それは「自分の価値」を自分自身で認めてあげることができず、つねに劣等感でくすぶっている証拠です。自分よりもデキが悪いと言い放っておけば、おのずと自分の価値があがるし、そんなひとことを言えちゃう自分も偉いのだわ・・・と錯覚します。なので、相手を批判したり、ダメだししたり、あるいはコントロールすることで、自分の傘下においておけば優越感が感じられて安心なわけです。

これって一見、自分のために役立っているように見えますが、じつはとんでもないことが起っています。なぜなら、「こころの中は一人称である」という大切なことを忘れているからです。つまり、「こころは人に対して考えたことは、自分に対して考えたこと」として受けとるということ。

そうなると、「人を見下す」というのは自分の価値をおとしめる行為で、自分をバカにして自分の首を締めていることになります。わたしたちは自分に対する価値を外側に投影して、それが人からの扱いという形をとって戻ってきます。となると、自分の価値を下げて、いいかげんに扱われる原因をつくっていることになるのです。

本当に自分に対して「ありのまま」の自分を認めてあげると、おのずと他人のことはどうでもよくなります。他の人がどのような生き方をしていようとも、「ああ、それがその人の生き方なんだな〜」「その人の自由なんだな〜」とそのままにしておくことができます。

気に障るのは、自分の中の劣等感も相手の中に見えちゃうと、何か言いたくなっちゃうのですね。

どんな生き方であろうと本人が納得しているのなら、その人にはその人を生きる権利があり、誰からも指図をされたり侵害されたりするものではありません。わたしたちは、あまりにも安易にそれぞれの人が持っている「境界線」というものを踏みこえて、「あ〜だ、こ〜だ」と言ってしまいがちですなのですね。

まずは自分に注意を向けて可愛がってあげることで、自分が心地よく安心できるようになります。すると、おのずと人へのちょっかいは減ってくるのです。

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もうひとつのお悩み相談、「人がこわいんです」はまた次回に!!

 

 

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14-05-23 大学生のお悩み相談 その2

(その1より)

先日、大学で授業をしたとき、Q&A タイムにとくに多かったご質問。

「人のことをどうしても見下して、バカにしてしまうんです」、そしてもうひとつは、「人がこわいんです」というご相談。

 

●「人がこわいんです」

ある特定の人に対して「こわさ」や「脅威」を感じる人はあんがい多いもの。「こわさ」とまでいかなくても、苦手意識であるかもしれません。

じつは「こわい」と感じる目のまえの相手は、その「こわさ」の直接原因ではありません。そして「こわい」と感じているときは、幸いにも「より自分がバージョンアップする」ための「サイン」を受けとっているときでもあるのです。

さて、それはどういうことでしょうか?

「こわい」と感じるからには、たしかに傷ついた経験があるのです。しかし、それはもっともっと昔のこと。無力な子どもだったときのことです。

目のまえの人や状況は、そのときに似ているのです、なにかが・・・。たんに顔が似ているだけかもしれないし、状況がどこか似ているのかもしれません ・・・。その昔、幼い自分がその体験に圧倒されて、湧き上がってきたおそろしい感情をどうしていいのかわからなかったため、そのこわさを心の奥にねじ込んでもう無いことにしようと決めたのです。「ほ〜ら、目のまえにもうないじゃない。だからぜんぜ〜ん平気。傷ついてなんかいないし」・・・って。 でも、それはどこかに行ったわけではなくて、いまも心の中にありありと存在していて、ちょっとした共通点があると痛みが浮上してくるのです。

いま目のまえの人はその「こわさ」とは関係がないので、ここで勘違いをして「相手を変えよう」としたり、その人から「逃げても」まったく解決策とはなりません。その「こわさ」はいつも自分と一緒で、どこまでも追いかけてきます。そのたびに、無力感やおそろしさが甦ってくるのです。

放置しておいたこわさは、時間の流れとともに肥大化します。もうこころの押し入れには収まりきれなくなって、意識の表面に浮かび上がってはうろうろします。何度も、何度も・・・。

それは、「もう押し入れを掃除しましょうよ!そろそろ身軽になってもいいんじゃないですか?」というメッセージです。「向き合っても大丈夫なぐらいあなたは成長したし、強いし、もう荷物を整理して自由になるときがきましたよ」と教えてくれているのです。次のステップへの、成長へのご招待状。

解放してあげるためには、「認めて」「感じて」「安心させる」・・・
1、 ああ、この怖れは今のことじゃないんだな〜。自分の過去のどこかからきてたマボロシなんだ〜と「認め」ます。
2、 解放するために、その怖れをあるがままに「感じて」あげます。すべては体験するために存在します。なので、ただ受けとめて、「ああ、こんな感じか〜」と体験してあげると感情の任務が終わって消えていきます。(ここでは、言葉は使わないで感覚だけで感じてあげるとラクです。)
3、 そして、自分の中のこわがっている子どもをイメージして、「もう、大丈夫。わたしがあなたを守るから。もう一人じゃないよ」と声をかけて安心させてあげてください。

幼い頃のわたしたちは、手に負えないように感じる自分の感情に対して、どうやって向き合ったらいいのか誰も対処法を教えてくれませんでした。そうなると、わからないものは無視してほっておくしかなかったのですね。

またわたしたちは、まわりの期待に答えることが愛されることだと勘違いして、自分の感じている正直な感情を無視して一生懸命大丈夫なふりをしようとします。ほら、「さっきの感情jはもうない!わたしはもう大丈夫!」と言い聞かせるけれど、じつは痛みの塊をこころの奥深くに押しやって見ないふりをしていただけなのです。

日々の生活の中でこころに痛みを感じるときはいつでも、幼い自分がこわがって泣いているときです。本当は「今」の自分はぜんぜんOKなのです。

そして、その痛みは成長しなさい、といつも促てくれています。その痛みを手離すチャンスが訪れているということです。もうあなたはこわさに支配される必要はありません、身軽になりなさいと。痛みは、こころの荷下ろしをして軽くなって、本来のくったくのない自分に戻る作業を促しているといえます。

痛みを感じたら、ネガティブにとらえるよりも、「ああ、またひとつむかしの痛みの残骸を処分するサインだな〜。これをちゃんと感じて片付けて、より軽やかでくったくのない自分になろう」と前向きにとらえてみましょう。

 

 

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14-06-03 悩めば、ものごと解決する・・・?

問題があるとき・・・わたしたちは、「あ〜でもない」「こ〜でもない」と考えて悩むことでそれを解決できると信じています。

ちゃんと心配しないと、問題を放置しているような、真面目にやっていないような、サポっているような後ろめたさがあるようです。問題があるんだから、ちゃんと悩まなくっちゃ・・・って。あれこれ悩めばきっと解決策があるのでは・・・と考えるのです。

悩んだり考え続けるのって、ものすご〜くエネルギーを消耗します。だから、頭も身体もぐったり疲れるし、新たなアクションを起こすエネルギーも奪われかねません。

でも残念なことに、ひっきりなしに考えるということは「それにエネルギーをがんがん注ぎ続ける」ということなのです。次の瞬間も、そしてその次の瞬間も・・・同じものを持続させているようなもの。解決したいと思っているのに、逆にいっしょうけんめい創りだしているなんて・・・これは悪循環。

わたしたちは「未来はどうなるんだろう」「過去のあのことさえなければ」と悩んでいるときには必ず、「今、ここ」に存在していません。あ〜だ、こ〜だ、と心配しているときには、自分がいるべき時間から消えていなくなっているのです。

でも、「時間」というのは、「今、ここ」「この瞬間」しか存在しないといいます。物理学的にも。

だから、わたしたちがすべてのものを手にできる源も、「今、ここ」この瞬間においてしか存在しません。わたしたちは自分のパワーを「ここ」でしか供給できないのですね。「今、ここ」こそパワーの供給源なのです。

「あ〜だ、こ〜だ」の瞬間は、いつもその人はからっぽです。心はここに存在せず、未来や過去にお出かけ中。となると、あらゆるものを創り出せる「今、ここ」から残念ながら脱落しちゃっているわけです。パワーも供給されず、宙ぶらりん。これはなおさら不安定になります。

問題があるときこそ、エネルギーを消耗して、パワーの電源から切断されちゃう「考える」ことをしっかりとストップして、「今、ここ」に戻ってくるときです。

「考える」必要があるときだけしっかり考えるようにして、思考のスイッチはいったんオフに。

そして、せめてたった今だけでも「悩みはすべて解決された」「わたしには何の問題も存在しない」という感覚をつくりだしてみます。そうするとより「今」にいやすくなります。

風を感じて、光を感じて、匂いを感じて、音を感じて、温度を感じて・・・ここにいる感覚を強めてあげると「頭」の中から出てきて、ここにしっかりといられるようになります。「今、ここ」は頭の中にくらべたら、ぜんぜん怖いところではありません。

さあて、じゃあ、「今」「きょう」できる小さなことを見つけて、こころをこめてやってみましょう。

何にしても今に集中してできることをはじめると、次のステップが自然と姿をあらわします。・・・ちゃんと「今、ここ」にいるとこころが軽くなってきます。

かならずや、「今、ここ」がエネルギーを供給してくれて、次にしっかりと導いてくれるのです。

 

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14-06-11 あなたへのプチ メッセージ 1

もし、あなたがまったく問題とは無縁の悩みのない人だったら、どんなふうに感じているでしょうか?
たった今、イメージして、その感覚をつくりだしてみてください。
・・・あなたはその状態を自分に引き寄せはじめています。

一生懸命心配したとしても、今の状況を変えるなんの役にもたちません。むしろ、その状態にエネルギーを注ぎ、長続きさせてしまいます。
それよりも、いま自分が望む状態をイメージして、それに意識を向けてみましょう。
それが方向転換する方法です。

「いま」というときは、あなたのパワーの源です。
あなたがしっかりと「いま」に存在しているとき、あなたは宇宙のパワーにとつながっています。そこは、あなたが必要とするすべてで充たされているところなのです。

毎瞬、あなたは「思考」というメッセージを宇宙へと発信しています。毎瞬、毎瞬、いつも、いつも・・・。そして、発信したそのものを受けとっているのです。
少し意識的になってみましょう!自分が考えていること、感じていることに。
意識して、安らぎや平和、思いやりや愛を選びましょう。

たとえ今、悩みや問題があったとしても、それは自分の人生のなかのほんの小さな一部分です。
それにすべてのパワーを与えて、乗っとらせないように気をつけましょう。
人生のなかには、他にもたくさんのいいことや、嬉しいこと、感謝することが日々存在しています。それらに注意を向けて味わい愛でましょう。そのうちに、あなたの人生の流れが穏やかにかわってくるのを感じることでしょう。

 

 

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14-06-18 プチな感情を見逃さない

プチなるものは、かんたんに見過ごされがちです。

たとえば、こころのなかのプチもやもや、プチざわざわ、プチいらいら・・・。

こんな感情もしょせんプチなので、さっさと楽しいことに集中したり、お酒やスウィーツで気をまぎらわせたり、スポーツで発散すれば・・・「ホラ、もうぜんぜんOK!わたしってポジティブ」となるのです。

気分転換はまったく悪くないのですが・・・問題なのは、プチなる不快感は依然としてまだそこにあるということ。無視してもけっしてなくならないのです。このプチなるものを軽く扱うと、あとでしっぺ返しがやってきます。

なぜかというと、プチなる不快感は全然プチなどではないからです。表面の意識と、隠れている意識の大きさを比べたら、がぜん隠れている意識のほうが巨大で、プチ不快感はガチにそこに根をはっていて、それがチクリと表面意識を刺激してきます。だからほんとうの姿はかなりパワフルで、人生の障害物となってたびたび姿をあらわします。

プチだという理由で無視してしまったがために、わたしたちはこのプチが発する問題に足をとられつづけるのです。

このプチなる不快感こそが、わたしたちが隠している本当の気持ちや、本当に信じていることを教えてくれるシグナル。そして、プチとして表面化する目的は、隠されつづけたその不快感を片づけてほしいといっているのです。

自分の中で放置され、見捨てられた感情が、ケアされることを要求しています。これはちゃんと見てもらえるまで、手をかえ品をかえシグナルを送りつづけるのです。

人生にあまり問題をつくらないようにしようと思ったら、このプチなるもやもややざわざわと丁寧に向きあうことが大切です。

かすかにいやな感じがしたときに、いったん立ち止まり、「あれ?なんでこんな気持ちになった?」「なにをいやがってる?」「どうあるべきだと思ってる?」 ・・・と、ずっと無視してきた自分の中の声と向きあってあげます。その弱さ、悲しみ、ふがいなさを無条件に受けとめて、ただそのまま感じてあげます。

すると、それはあんがい簡単に消え去ります。わたしたちの生きる目的は「感じること」なので、こうしてちゃんと向き合って感じてあげると、それは消滅して、自分の大きな部分とひとつになります。そして、弱さだったものがパワーや強さへと姿を変えます。

これを繰り返しやっていると、クセになるのです。なぜかというと、このプチなる不快感をしっかりと受けとめて感じたあとに、なんか笑っちゃうような軽やかさがやってくるとこと。(ひとりでクックックと笑っていて、かなり不気味な人になったりしていますが・・・)

そして、いったん片づけるともうそれは戻ってこなくなります(片づくまで同じパターンは戻ってくることがあります)。勝手にこころがもやもやしたり、ざわざわすることがなくなって、スッキリしてくる感じがあります。

こうして、潜在意識を占領して、圧力をかけていたエネルギーの付加をどんどん減らしていくことができます。このプチ不快感が隠れていたスペースがすっきりするほど、どうやら本来の働きであった平和な感じとか、喜びとか、愛情とか・・・喜ばしいものがやっと姿をあらわせるようになります。

わたしたちのこころは、いつも「ひとつである(Oneness)」の状態に恋いこがれています。だから、この抵抗されて切り離されているプチ不快感を自分の中に戻して、ひとつにしてあげなければならないのです。こころの中でこの「ひとつである」の感じが達成されればされるほど、外の世界も「ひとつ」になり、対立や不和、不調和な問題が消えていくのです。

外側の問題を物理的に解決することも大切ですが、こころの中にある不快感としっかりとむきあってあげることは意外なほどに人生をスムーズにするパワーがあります。

ざわっときたら、もやもやっとしたら、気分を変えるまえに、是非一度、その感情を受けとめて、ひとつになって、感じてみることをしてみてください。それが終わったら、いつもの気分転換へどうぞ♪

 

 

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14-06-27 “ 生きること ”は今の気持ちを大切にすること 

そろそろ今年も半分終わろうとしています・・・なんと早いこと!

わたしたちは日々の忙しさに追われ、そのあれこれに対処することこそが「生きること」になってしまっています。

でもほんとうのところ・・・それは本末転倒。

なぜかというと、目のまえの現実は「自分のこころ」が生み出した結果なので、その結果に右往左往するよりはそもそもの原因である、すべてが生みだされる「こころ」をコントロールする方がかんたんなのです。

そのためには、一日一回は静かに自分と向きあって、今の瞬間に「何を感じているのか」を感じてみましょう。その「感じていること」こそが、現実を創りだす「素」となるものです。

お風呂の中でゆったりこころを静めてみてもいいし、電車の中でもかまいません。日々の刺激の下に横たわっている、ほんとうの自分の気持ち、ほんとうに感じていること。・・・なにか他のものでごまかすことなく、ただそのまま正直に感じてみましょう。この自分のバイブレーションともいえる気持ちが、日々の色合いを決めていきます。

ほんとうはちょっと沈んでいるのに、それを一生懸命忙しさや、他の気持ちを装ってごまかしていたかもしれません。見ないふりをしていたのかもしれません。

それがそこにあるのは、「そこにあること」をちゃんと認めてあげていなかったから。だから、ずっとずっとそこに横たわっていて、そのバイブレーションで人生全体の色調を支配してしまっているのです。

ただ「ほんとうに感じていることを感じてあげる」だけで、それは終わりにすることができます。自分のこころの上にかかっていた臼雲を追いはらうことができるのです。癒してあげることができるのです。

「ほんとうに感じていること」を見つけたら、言葉をつかわずにただ「その感じ」を全身で受けとめてあげます。

「ほんとうに感じていることを感じる」ことこそが、「ほんとうに生きる」ということ。指先の細胞までがびりびりとするかもしれないし、胃のあたりがどくどくと感じるかもしれません。全身で「感じて」ください、「生きて」ください。しっかりと、今の感覚を受けとめます。

そして、わたしたちの魂は、身体は、「ほほ〜、こんなバイブレーションもあるんだね〜。なるほど。わかった、わかった。体験したからもういいや」・・・とその経験、感覚は終わりになるのです。そして、ハイつぎへ!・・.駒をすすめることができます。

ポジティブな感情に関しては問題なく全身で感じることはできても、ネガティブといわれるものに関してはついついブロックして、すぐに他の感情にすりかえてしまうわたしたち。だから、同じネガティブなものからなかなか抜けられず、繰りかえすことになります。

 

今、この瞬間の気持ちを大切に感じてあげることは、立ち止まらずに生きるうえで大切なことなのです。

今の感情を大切にすると、ずっとながらく溜まっていた潜在意識の中のジャンクな感情をお掃除することにもなり、二度と足をひっぱられなくなります。そして、本来の自分らしさとつながるスペースも広がります。本来の自分らしくなることこそが、流れにのることなのです。

さて、今、なにを感じているでしょう?思考ではなくて、こころの深いところではなにが起きているのでしょう?静かに立ち止まって、深く呼吸をして、その気持ちをそのまま受け入れてあげましょう。

 

 

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14-07-03 星の数ほどの未来

「すべては自分のこころが創りあげた現実」とありましたが、わたしはマイナスのことしか創り出せません」・・・ブログ読者のAさまよりのメール。

わたしたちは毎瞬、毎瞬、思いや感情、信念を、バイブレーションというかたちでまわりに発し続けています。休むことなく、いつも、いつも、いつも・・・。

わたしたちだけでなく、机だって、椅子だって、石ころでさえも、独自のバイブレーションを発しています。だからこそ、「この洋服を着ていると落ち着く」「この場所は心地よい」「この人といると楽しい」というように、自分と同じ種類のバイブレーションを感じることができます。

わたしたちのもつ、このバイブレーションションこそが、わたしたちの次の体験を創り出してくれます。創り出す、というよりは、むしろ「バイブレーションによって次の現実が選択される」といったほうが正しいかもしれません。

なぜなら次の瞬間の可能性は、じつは星の数ほど存すでに在しているからです。

NASAのバップル望遠鏡がとらえた星団の写真。宇宙とは、こんな星がひしめく様子が無限に広がっているところです。

もし星一個がわたしたちの可能性のひとつだとすると、これが無限に存在し、その中からわたしたちはひとつの次なる現実を選択します。自分のバイブレーションがそれを選びだしてくれます。・・・だから、ほんとうは何でもアリ!どんな未来でもアリなのです。

物理学者のカク・ミチオ氏は、パラレルワールドとしてすでに存在しているたくさんの可能性を紹介されていました。カク氏の表現では、すでに存在するたくさんの現実は泡のようで、シャボンをぶくぶくしたように隣あってたくさん存在していると。そして、泡同士の膜は薄いので、他の現実に移動するのはじつはとても簡単なことなのだと説明されていました。

さて、そんなふうにすでに選び放題のたくさんの現実がわたしたちを待ち受けていてくれているわけです。だから、あとはその目指す現実にチューニングしてあげるだけ。つまり、体験したい現実のバイブレーションに自分が今ここでなってみること、これが他の現実を選ぶために大切なことのようです。

そのためには、まず、

ステップ1: 今の現実で被害者にはならず、「わたしがこれを創りました。まさしくわたしの仕業です!」とちゃんと認める。(「わたしじゃないもん!」と、外に原因があると考えると自分のパワーを外側に渡してしまいます。はっきりはわからないにしても、かならずどこかの時点でその現実を選択しているものです。)

ステップ2: 「自分でした!」と認めると、自分にものごとを変えるパワーが戻ってきます。

ステップ3: そして、今、思い通りになっていないがために直面している「イヤな感情」をまずは無条件で受けとめて、全身で感じてあげます。「感じること」はものごとを正して、軌道にのせるには大切なこと。(じつはこれは、今起っていることではなく、こども時代に抑圧した感情を解放するために、わざわざその感情が引っぱり出される状況を自分で創り出しています。全身で感じて、その抑圧した感情を解放し終わりにしてあげます。)

ステップ4: そしてここではじめて、新たに創り出したいもの(可能性の中から選びたいもの)を決めて、その場面をありありと思い描きます。もう、そうなっている自分を感じます。そうすると、そのバイブレーションを創り出すことができます。

ステップ5:  そしてはじめて、あまたある未来の中から、想い描いたものにチューニングし、その現実のなかで生きはじめます。

・・・というよいうに、まず被害者にならないこと、そして今、出てきているイヤな感情にちゃんと向き合うこと、これができてはじめて新しい現実を選ぶパワーを手にすることができるのです。。

わたしは、NASAの宇宙の写真をながめるのが大好きです。だって、「わたしの未来、こ〜〜〜んなに選び放題!」って嬉しくなるから。・・・その事実を知るだけでも、自分の意識が、可能性が、自然と広がってくれるのです。

 

 

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14-07-15 がんばらずに甘える習慣

わたしがしばしば感じること・・・

それは、「ポットやトースターといったシンプルな家電にでさえ【取り扱い説明書】がついているのに、なんで人間には【取り説】がついていないのだ?!」ということ。

それってスーパーコンピューターを与えられて、「あとは勝手にいじってね」と言われているようなもの。

ぜひぜひ小学校で、いえ幼稚園でもいいです、こころの取り扱い説明を義務づけてほしいと思ってしまいます。それは漢字が書けることよりも、計算が早いよりも、ずっと大切なこと!(こころこそが人生を「創りだす」モト!こころを制すれば、人生を制するともいえるのです。)

残念ながら取り説はないけど  ・・・ どうやら「ナビ」はついているようです。

「ナビなんてあったの」って?  ・・・ はい、みなさまおひとりおひとりにナビ搭載!それも、かなり正確な!

たしかに、最近のスマホのように、自分から話しかけておうかがいをたてないとまったく起動はしないのです。それを知っていて、おうかがいをたてた人だけのものなのです。

スマホの「しゃべってコンシャルジュ」だって、なにも尋ねてないのに勝手に指図をしたりはしません。たずねたときだけ、対応してくれます。

なので、わたしたちのナビも控えめに謙虚に、役にたてるときをじっと待っていくれているのです。

ひとたび尋ねることが習慣になると、じゃんじゃんお答えがくるのに驚くかもしれません。

このナビはわたしたちと違って、過去も未来もすべてを見通して視野に入れたうえで、そこに関係する人全員がハッピーになるような、そんなベストな解決策をいつも提示してくれるのです。一方、つねに過去の経験に縛られて、過去の繰り返ししか頭に浮かばないわたしたちにとっては、まったく考えもつかない解決策であったり、また新しい流れに運んでくれたり・・・おうかがいをたてることは大切です。

ただ自分を静かにして、自分自身に「この問題の解決策を高い視点から教えてください」とお願いするだけ。あとは答えがやってくるのを期待しながら、ひらめくまでほっておきます。ちゃんと期待するとやってきます。直感としてやってくるかもしれないし、友人のアドバイスであるかもしれないし、ふと目にする、耳にするひとことかもしれません。 ・・・つまり、いったんお願いしたら、どこからでも答えはふってくるのです。 ・・・お答えのキャッチもうまくならなくてはなりません。

これに慣れてしまうと、決断の怖れや、進むときの迷いや、もろもろの面倒くさい思考から解放されはじめます。(これに慣れるといっても、ナビは結局、本当の自分からやってくるので「自分」であることには違いないのですが)。そして、その結果にも必ずや満足すると思います。

どうも一人で頑張っちゃうクセがついている方、たよっちゃいけないと思っている方、自分で考えすぎてわからなくなっちゃう方  ・・・ 甘えちゃいましょうよ!ほんとうの自分に!

 

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14-07-20 わたし、使命を知りたいのですが・・・

しばしばクライエントさんから尋ねられるご質問、「わたしの使命って何でしょうか?」「わたしは何をするため生まれてきたのでしょうか?」と。

自分がここにいる意味を自覚したい・・・ということですよね。もちろん、セラピーのなかにはそのような内容も含まれるのですが・・・。それはわたしが答えることではなく、自分の中で感じること。

たとえば・・・「今、あなたがたくさんのネコに囲まれているイメージが浮かびました。ネコにかかわるお仕事がいいでしょう」なんて答えたとします(ぜったいありえませんが・・・汗)。でも、その方はネコアレルギーかもしれないし、イヌの方が好きかもしれません。万がいちネコが好きだったとしても、仕事にはしたくないかもしれません。

たしかにセラピーでお話ししているうちに、ご本人よりも客観的に長所や短所をとらえられたり、才能がみえてきたり、深い意識の中で表現されたがっているものに気づいてしまうことは多々あります。

それでも、占いであろうとセラピーであろうと、外から一方的に与えられたものは本当の意味で自分に役に立つことはありません。たとえそれに従ったとしても、与えられたものには真の喜びやイキイキ感、自分がつき動かされるエネルギーはがないのです。

わたしたちが本当にお腹の底から「わかった」「知った」「実感した」とき感じられたときこそ、それが自分を突き動かしてくれるもの。そのお腹の底からがっつりと気がつくプロセスをお手伝いするのが、セラピーの役割。だからそれは与えられるというよりも、セラピーを進めていくプロセスのなかで自分の深い部分と通じるようになってなじめて、自ずと自分のなかに明かされてくるもの。ご本人の深い部分につなげていくのが、セラピーセッションなのです。

セラピーはいわば、「ほんとうのすべてを知っている自分」の上にかぶさったた〜くさんのホコリ、仮面(それは今生のものだけではないかもしれません)を、きれいに取りのぞいて、そのホコリや仮面でさえもエネルギーとして自分の中に取りこみ一体化し、真の部分の輝きをのびのびと取り戻すこと。

生きてくる中で怖れから築いてしまったたくさんの防御やまちがった考え方に気づいていくうちに、傷つかないように奥へ奥へと追いやった本当の自分が少しずつあらわれはじめます。これこそが、わたしたちの人生を導いてくれる水先案内人でありパワーなのです。

その部分こそが、自分は何をしたくてここにいるのか、どうやって生きたいのかをちゃんと知っていて、そしてその部分に耳を傾けるほどにそれは語りはじめ、魂がふるえるほどの愛情や感動やイキイキした感じを人生にフィードバックしてくれることろでもあるのです。

ついついわたしたちは、何かが欲しいときに外へ外へと探しに出かけます。でも、外には実際何ひとつ答えはありません。外に頼るということは、そこにあるほんとうの自分の力を信頼せず、ないがしろにすることでもあるのです。いつまでたっても、そこにある燃え上がるようなパワーを見つけることはできません。

外に探しに行くとき、もはやわたしたちの深い部分の叡智はすでにあなたに語りかけることができなくなります。あなたが耳を傾けなくなってしまったから・・・・。

自分を信じるスタート地点は「自分が何を感じているのか」常に気遣ってあげること。「ほんとうのところはどうなの?」と自分の本心を包み隠さずくみとってあげること。たとえそれが最悪に落ち込んでいようとも、元気づけるよりはただ感じて一緒にいて、「そうだよね。感じてあたりまえだよね」とそう感じることを許してあげること。

嬉しいときは簡単ですが、つらいときにはわたしたちはさっさとその感情をなかったことにして潜在意識の中へ深くしまいこみます。あるいはニセの感情とすり変えようとします。これこそが自分の輝きを阻止するホコロや仮面へと変わってしまいます。

しかし、丁寧に感じることをしていくうちに、ひとつひとつの自分の秘密を明かしてくれるようになるのです。

生きることは、つねに自分対自分との関係。それが世の中に投影されてきます。それをわたしたちは常に見ているのです。

そろそろ外側にばかり答えを探しに行くのをやめて、静かに自分の中にある本当のことへと目線を移してみましょう。もっともっと、自分の内側を感じ、大切にして、たとえそれが最悪でも、やさしい友のようにただ受けとめて、よりそってあげましょう。

そうすると、あなたの中心から大切なことが解き明かされて、パワーや愛とともにそれを感じられるようになってくるのです。

 

 

(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/心理療法家・ヒプノセラピスト)

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14-07-25 人生をよくするカギは子ども時代にあり

日々、カウンセリング・セラピーというお仕事をしながら、クライエントさんとともにさまざまな人生の問題を紐といていくうちに、ほんとうに私たちは子どもの頃の間違った思い込み(誤解)を、宇宙の普遍的なルールのように後生大事に意識のなかに抱えこんで生きているんだな〜と感じます。

そしてそれは、自分にとってあまりに「あたりまえ」すぎて、本当かどうか疑ってみる機会さえありません。当然のあまり自分の一部になっています。

幼い頃はそのルールに従っていれば、親の保護やら愛情らしきものがもらえたように思えたかもしれません。でも、お子ちゃま向けだったルールが大人にとって役に立ち続けるとは、誰が考えてもおかしな話。・・・私たちが握りしめている子どものルールは、大人のわたしたちの首をしめて、それはそれは生き心地を悪くします。なぜなら、それは本当の自分でいることを許さないからです。

私たちは何が子どもの頃のルールかも調べることもせず、ただただそれを持ち続けることによって、同じストーリーを再生し続けます。

たとえば・・・あまりにもはしゃぎすぎて元気がよすぎて、ほとばしるエネルギーで母親をぶってしまった男の子は、「もう、なんて乱暴なの、この子は!」と母はカッとして力いっぱい払いのけるかもしれません。するとその動作とひとことによって、その子は「自分のなかから湧き上がるエネルギーを表現すると一気に愛を失うのだ」と、心に決めるかもしれません。「ボクがほんとうの自分でイキイキしてると、嫌われて一人ぼっちになる」・・・。

でも、母は母で、子どもが荒っぽく飛びついてきた瞬間に、もしかすると幼い頃、男の子にいじめられた体験が甦ったのかもしれません。無邪気な表現を、無意識のうちに攻撃と解釈してしまったのです。

とくに大きなトラウマ的な体験がなくっても、こんなたった一回の経験で子どもだった私たちの無邪気なハートは一生閉じてしまったりするのです。 ・・・ 「あの日、お母さんはお父さんとケンカしていらいらしていたんだよ」とか、「ひとりぼっちの子育てに疲れて、誰かにあたりたかったんだよ」とか、「子どものとき、いじめられたのを思い出したの」とか・・・誰かが誤解をといてくれるまで「ありのままでは愛されない自分」というレッテルを貼り続けてしまうのです。

この自分に対する間違った思い込みは、のちの人間関係の中で何度も痛みをつくりだします。何度も、何度も、同じように戻ってくるのです。

なぜなら、自分の高い意識は「どうしてもこれを癒したい」と思っているからです。そのためには、問題を目の前にぶらさげて、自覚してもらう必要があるからです。「ねえ、ねえ、早く問題に気がついて、この誤解を癒そうよ」と。

そしてさらに高い目線から見ると、子どものときの母からの傷ついた一言でさえ、じつはもっと昔の魂レベルの痛みを浮上させるために起きています。つまり、もっと前の人生での課題が、子どものときの親との関係に再生されて、それが人生での癒しのテーマとなるのです。

私たちがここに生まれてくるのは、「すべての誤解をといて、本当の自分を取り戻すため」。そのために、ここにやってきて、早いうちから親に問題提起をしてもらい、その後の人生で同じ問題を繰り返すことにより、自分が今回どんな問題のどんな誤解を解かなければならないかを問題に直面しながら気がついていく・・・ということです。

でも、問題を外型のせいにして、「あいつが悪い!」と言ってしまうと、延々と自分が自由になるチャンスを逃します。

外に何がみえようとも、「これはいったい、わたしの中で何が起きているのだ?小さいころの痛みとこの問題の関連性は何?何が繰り返されているの?」と自分に問いかけると、だんだんと自分の誤解をとくポイントが見えてきます。高い意識も気づきに参加してて、誤解のからくりが見えてきます。

何かあったときに外側と戦うことをやめて、自分の中に何があるかお問い合わせする習慣をもつと、もう同じパターンの問題で苦しめられることはなくなります。

さてさて、あなたの幼少期の心の痛みとは何だったのでしょう?(トラウマというものがなくっても、私たちの子ども時代はフラストレーションがいっぱいあったはずです)、それはどんな形で再生され続けているのでしょう?そして、そこにはどんな誤解がひそんでいるのでしょうか??

探偵になったつもりでナゾときをしてみると、「あ〜〜!・・・なるほどね」という気づきがやってくるかもしれません。そうしたら、ついに固くとじていた環がとけるときです。

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14-08-15 恋愛のカラクリ・・・落とし穴

私たちは、「自分に欠けている」「足りない」と思うものを日々調達する旅を続けています。

それは、お金であったり、知識であったり、資格やステータス、あるいは自分をもっと素敵に見せてくれる恋人であったり・・・。

これは自分のこころにポッカリと穴があいていて、まるで傷口がさらされているように感じているため、その穴を満たしてくれる「誰か」や「何か」をたえず探し求めているわけです。

そのポッカリあいた穴をピタリと満たしてくれたり、なんだ穴なんてなかったんだと忘れさせてくれるのが、理想の相手、恋する人となります。

この穴を埋めてもらうにはあの人じゃなくっちゃ!あの人が必要だ!と頑張るわけです。頑張るというのは、背伸びをしてもっと素敵である自分を演出することで特別になって注意をひこうとします。

いったん相手を手にしたら、絶対逃げられてはいけません。またあの穴があらわになったら、自分はとてもみじめな気持ちになるし、そんな自分を認めたくないからです。まさに、相手が自分を愛してくれることが生存にかかわるようにさえ感じてしまうわけです。

しかし、手に入れた安心感はつかの間。・・・こんどは相手との戦いがはじまります。なぜなら、自分の穴にぴったりであっていいはずの相手は、勝手に振る舞いはじめるからです。

これは相手が意地悪して勝手に振る舞っているのではなく、感じるままに自分らしくありのままに、ふつ〜に生きているだけなのです。

私たちはその人のある一点が自分のニーズにあっていると、あたかも全部が自分の思ったとおりであると勘違いします。相手のすべての姿を知るわけもなく、近づけば近づくほど実際の相手の姿、自分にとっては「相手の未知の部分」が姿を現すわけです。

また同時に、近しい相手は自分の隠された意識を「鏡」のように映しだす役割をしてくれます。そもそも「自分は欠けていて、どうしようもない」という思いか
ら相手を求めているので、相手の中に見えるものはさらに自分が隠し持っていた劣等感で、それを強化してくれるものとなります。例えば、相手のなにげない言
動に自分がひけめを感じたり、大切にされていないのではと不安になったり・・・「欠けている」証拠をいっぱい見つけてしまうのです。

この相手がいれば自分のこころの痛みは癒されると思ったのに、残念ながらその痛みをさらに強化することになってしまいます。また、相手の注意をひくために
本来の自分ではない自分をやり続けてきたツケもまわってきます。自分がその関係の中でどんどん息苦しくなっていくのです。

私たちは「足りないもの」があると本能的に外に向かって探しに出かけますが、本当は外の世界から得られるものは何もないようなのです。

自分の中に「あった!」と思うものが、しっかりと外に現れる・・・・つまり、まったく逆のメカニズムなのですね。

だから、自分の中にポッカリと穴を感じたら、まず自分がその穴にちゃんと向き合ってあげる必要があります。人に絆創膏の役割を押しつけるのではなくて、自分自身がちゃんとケアしてあげること。

「ああ、こんな痛みを持っていたんだね〜。ずっと痛かったね〜。つらかったね〜」と痛みがあることを認めて、共感して、そしてどうして欲しかったのかその痛みに聞いてあげること。「ああ、もっと優しくしてほしかったんだね〜」「一緒にいてほしかったんだね〜」「そのままでいいって言ってほしかったんだね〜」とその声をちゃんと汲み取ってあげるとこ。それを与えてあげるのは、今でもぜんぜん遅くないのです。

私たちが自分の中に「痛み」があることにちゃんと気づきはじめると、それを外側に「どうにかしろ!」と要求しなくなります。そう、「痛み」の存在に気づくまでは、わたしたちは「パートナーこそが私を幸せにするべきだ!」という勘違いをしています。でも、自分も自由に生きたいように、パートナーも自由に生きたいし、生きる権利があるのです。

本当のところ、誰も「自分を幸せにするべき」ではないのです。もし一人だけいるとしたら、それは自分自身。

セラピーにおける恋愛、パートナーシップのご相談も、もとをただせば「相手がわたしの要求を満たさない。だから相手を変えるべきか、別れるべきか」なのです。関係がうまくいくとは、自分の要求がスムーズに満たされるかどうか。・・・相手にこれをしているときには気づきませんが、相手にこんな気持ちで自分を見られていたらいやですよね。「わたしは道具じゃないぞ!」と言いたくなります。

そもそも相手は「自分を幸せにするために存在している」のではなく、お互い自分らしい人生を生きて、それを「分かち合うために」存在している、という目線でみはじめると、今までもっていた怒りが「ちょっと違っていたかも・・・」と思えるようになります。

とくに映画やドラマの恋愛にこってりはまっていた方は、「え〜〜〜、相手に求めちゃいけないの?」とすごい意識の大転換になるのです。

すべては「自給自足」。外から調達しようとすると、相手に戦いを挑むことになります。大切だったはずの相手が「敵」になっちゃう。

でも自分の内側を変えてみると・・・これは予想外に大きなパワーがあるのですが・・・自分のこころが変わると、おのずと世界がそれについてきてくれる・・・そんな不思議を体験をすることになります。

 

 

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14-08-24 最近の恋愛事情におもうこと・・・

最近、恋愛についてのカウンセリングをしていてとみに感じること・・・・

それは、どうして恋愛だけ、他の人間関係と著しく違うルールをあてはめてしまうのか・・・ということ。

ふつうにいい人間関係を育てたいと思っているときには絶対やらないことを、恋愛ではなぜか平気でやっちゃう。

もともと恋愛も、一人の人ともう一人の人との関係にすぎません。なのに、ふつうの関係ではやらないイレギュラー、あるいは反則行為ともいえることが恋愛では横行している感じなのです。

自分の親友にだったら、クリスマスに「あれ買え!」「これ買え!」「こんな安いものですませるなんて!」・・・という文句はおおよそ言わないのに、「彼氏」という名札がついたとたんに妙に搾取的になれる不思議・・・。

連絡だって、親友だったら「話したいとき」「相手を思いやりたいとき」に自然と電話をするのに、これも「彼氏」という名札がついている人には、「自分からはぜったいかけない」「じらせたほうがいい」、「心配させたほうがいい」など ・・・ そんなことをススメる指南書がいっぱいあって、またまたそれがベストセラーになっていたりします。

でも、そんな恋愛ルールブックでほんとうに幸せになっている人がいたら見てみたいです♪ 恋愛ルール本が教えているのは、相手のココロをもてあそぶ、あるいは支配下におく方法であって、本当に仲良くなる、距離を縮めてわかりあう、愛しあう方法は教えていないのです。

「愛」というものとはほど遠い、どちらかといえば戦いに「勝つ」方法。そうなったらパートナーとの関係は「安らぎ」ではなく「勝つか、負けるか」の攻防戦になっちゃうのですよね〜。大切だったはずのひとは、いつのまにか自分にとって打ち勝つべき「敵」となっているわけです。

だからふつうの人間関係はちゃんと問題なくこなせるのに、「恋愛」という名札のまえにはすっかり混乱しちゃう。「彼氏ができた!」というスペシャルな状況に舞い上がり、そこに今までの理想のすべてをつぎこむわけです。

とくにお若い世代は「ルール本」や「ドラマ」や「映画」にいっぱい擦りこみをされていて、同じようにやらなくちゃ・・・と思ったとたん、シンプルな人対人のあたたかなつながりだったものが、へんにデフョルメされてグロテスクなもにに変わっていく感じがします。

結局、人が二人でうまくやっていくには、まさに「二人三脚」の助け合い以外のなにものでもありません。だから、恋愛に悩むクライエントさんには、「自分の彼氏」だとか「恋愛関係」だとか、そんな名札はおいておいて、これはガチにひとりの人ともうひとりの人が助けあってうまくサバイバルしていく「互助会システム」だと思ってください、とアドバイスします。(互助会にだましあいは不要です!笑)

「彼との恋愛」という名札を「互助会システム」という名札に変えるだけでまったく違った関係が生まれます(笑)。だって、よい関係は「だましあい」じゃなくって、愛のある「助けあい」にしかありませんものね。

 

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14-09-01 どんなときだって、すべては完璧♪

前回のブログに、セミナーで使ったメッセージカードのことを書きました。

セミナー会場でご自分の席を選んでいただきます。まずそこに置いてあるレジュメの裏にメッセージが貼付けてあり、それが今回のセミナーテーマについてのその方ご自身の「原因」となるメッセージ。テーマ「頑張っていても報われない・・」の場合だと、報われてない原因です。その後のお茶タイムでトレーからひとつクッキーを手にすると、その裏にもメッセージが。これはその方の問題の「解決策」となるメッセージ。そして、最後に小さな封筒に入ったカードをひいていただきます。ここには、「解決策」の向こうに待ってる未来の「贈り物」のメッセージがあります。(それぞれ、違うことが書いてあります。そして、すべてその方に選んでいただきます。)

たとえば、最初の原因のカードが「わたしには価値がない」、次に解決策が「許し」、最後の未来のギフトが「豊かさ、あなたは宇宙のこども。愛も豊かさも平和も、すべてがあなたの当然の権利でです。たっぷり受けとりましょう!」だとすると・・・・ああ、わたしは自分に対して価値がないという考え方にしがみついていて、自分の考えこそが自分自身をいじめていたんだな〜。そろそろ自分と和解をして、そのままの自分をやさしく受け入れるときがきた。そうしたら、本来自分にたっぷりと与えられていた自分の豊かさが受けとれるようになるんだ〜」・・・というふうに、カードの意味がつながっていくわけです。

ご参加の皆様のセミナーアンケートの中にも、メッセージがあまりにも自分にぴったりすぎて驚いた!とのコメントがありましたが、その後もメールで「図星でした」「わかった気がしました」「あぜんとしました」など、いろいろとフィードバックをいただいております。・・・ほんと、毎回、すべての完璧さにわたしもびっくりします。

宇宙には「たまたま」はないので、どれをひいてもパーフェクトになるのです。

これはセミナーに限らず、個人カウンセリングの中でも使っているのですが、これまた驚くほど正確!ひとしきり、クライエントさんさんとお話して、「じゃあ、潜在意識にどんなパターンがあるかカードに教えてもらいましょうか?」とカードをひくと、まさにそこまでにお話してきたことがまるごと要約されて出てきます。

たとえば、BFくんにあれこれ要求しちゃうことが悩みのたねだった女性は「依存」というカードにびっくり! 解決策は「自分を信じること」でした。つまり、「自分にはない」と決めて外に求めるのではなく、自分の中にすべてがあることを知りましょう、とうことです。そして未来のギフトは、「魅力」。つまり、外に求めないことで、あなたはもっともっと魅力を放ち、恋人とうまくいくようになるのです、ということです。

みなさま、あまりにぴったりなことに驚いて「カード、全部見せてください」とおっしゃるのですが、お見せすると「このひいたカードが、やぱりいちばんぴったりです」とおっしゃいます。そして続いてひく「解決策」と「未来のギフト」のカードも、クライエントさんさんがまさに何を求めてセラピーの扉をおしたのか、「そうそう!これがほしくって、ここに来たんです」とおっしゃいます。

こんなふうにメッセージカードたちは、「世の中には偶然なんてないんだよ」「あなたが選んだものは、いつだって正しい」と教えてくれるのです。

しかし、こと人生となると・・・少し完璧さを見つけるのがむずかしくなります。そこには長い時間というものが存在して、原因と結果のつながりが混沌としてしまいがちです。そうなると、出来事は全部バラバラに起きているように感じてしまいます。

ものごとをたまたま選んだとか、偶然そうしたとわたしたちは思っています。そしてそれが、どこにどのようにつながっているかなんてまったくわかりません。でも、カードは人生の縮図のように、「すべてのことに偶然はなく、それらはきれいにつながって、ちゃんとうまくいっているのですよ、完璧なのですよ」と教えてくれるのです。

美術館で大きなタペストリーの作品を観るとき、あまりに近よりすぎると何がなんだかわからなくなります。でも距離をとってながめると、明るい色もあり、暗い色もあり、それで美しい構図がなりたっているのがわかるのですよね。

だから、自分の人生のただなかにあるわたしたちは人生に近寄りすぎて、意味がまったくわからなくなっているともいえるのです。でも宇宙は、「大丈夫!今は全体は見えないから不安でしょ?でも、もっと離れて、全体から、長い目でみたときに、すべてはあなたの最善の幸せのためにベストなのですよ」と言ってくれています。

全体を観るまではその完璧さにはなかなか気がつかないのかもしれません。でも、「きっときょうの出来事も、明日の出来事も、今どう見えようとも大きな幸せのためにちゃんと完璧うまくいっている」、そう信じて肩の力をぬいてみましょう!

 

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14-09-06 頑張っても報われない・・・そのわけは?

みんな、日々いろいろ頑張っています。お仕事に、家事に、子育てに、お勉強に・・・。

「頑張って努力すれば、報われるはず」と信じているからこそ頑張っちゃう私たち。たしかに努力はちゃんと答えてくれるところもありますが・・・でもこのテーマに共感する方が多いということは、どうやら努力に対する報酬は見あっていないようです。

なぜ私たちは、頑張っても報われないのでしょうか?

「頑張ったら報われる」と信じていることじたい「頑張らないと報われない」、つまり「そのままの私ではダメ」という無価値感がひそんでいます。そしてさらに、「頑張ることで、誰かが報いてくれるはず」とも信じています。つまり、報われるか報われないかは自分以外の誰かが決めるのだ、という無力感もここにあります。

私たちは「報酬(いいこと)」は常に外からやってくるものだと信じているので、外側へアピールしたり、外側をコントロールしたり、外側を気にすることにエネルギーのすべてを使ってきたわけです。そうなると報われなかった場合、上司や、夫や妻、先生、親など、まわりに腹がたち、自分はおのずと被害者になってしまいます。「なんでみんな報いてくれないんだよ〜!」と。

少し違った見方で世界を見てみると・・・私たちは自分の知覚の中に住んでいるともいえるのです。外に見えている世界はじつは自分の心なかの世界。自分が世界に与えた意味を体験し、自分の世界への解釈を知覚するのです。

つまり、世界じたいに意味はなく、意味を与えたり、解釈したり、知覚するかは自分しだい。自分が見たいように見て、見たとおりに体験している、ということです。

「報われない」という体験をする場合、先ほども書いたように「自分は無価値だから、無力だから、報われるはずはない」という考えが先にあって、それを通して世界に向き合っているので、まさにそういう世界が見えてくるといえます。

私たちは大きくなっていくなかで、さまざまな感情を体験します。両親とのあいだに大きなトラウマはなかったとはいっても、「ねだったオモチャを買ってもらえなかった」とか「(躾と称して)あれこれ怒られた」というだけで、こどもは「価値がないから」そう扱われんだ、とすぐに自虐的な解釈をしてしまいます(こどもは自己中心的ですから、全体など見られません)。

そして誰かがその誤解を解いてくれるまで、つまりお父さんとお母さんはあなたを愛していなかったわけではなく躾をしていたんだよとか、たまたま機嫌が悪かっただけであなたのせいじゃないよと、本当のことを教えてもらうまで、その無価値観の思いこみは後生大事に心の中にしまいこまれています。

一生、その思いこみが訂正されないままである場合もあります。そうして、この「価値がない」という信念を通して世の中を知覚すると、容易に自分をものごとの被害者に仕立ててしまいます。すると、人生に対して「報われない」体験がましてくるわけです。

「頑張っているのに報われない」というとき、本当はなにが起きているかというと、この後生大事に隠しもっていた間違った信念、誤解を正すことが起きているのです。正すために、それを外側に見せてくれているのです。

わたしたちにとって「生きる」ということは、「なんの歪みも抵抗もない、そのままのピュアな自分に戻る」プロセス。なので、日常で遭遇する「うまくいかない、報われない」ポイントとは、小さいころからの自分に対する誤解が何なのかを教えてくれているわけです。小さい頃くっつけてしまったいらない自己イメージを解消するために、外側に映しだして教えてくれているのです。

たとえば、いくら頑張っても会社で正当に評価されない男性。彼はいつも「俺のことをもっと認めろ〜」という怒りにも似たフラストレーションを抱えています。この気持ちこそ、小さいころに慢性的に親との間で感じていた気持ちでした。運動会でいくら一等をとっても、テストで100点をとっても、さして反応を示さない親に、彼は「もっと褒めてよ!認めてよ!」と悲しい気持ちを抱いていたのかもしれません。でも幼いこどもは自分のつらい感情をどのように処理していいのかわからないので、自分の心の奥に抑圧して「なかったこと」にしてしまいす。つまり、心のゴミ箱に捨てて、てフタをして、もう大丈夫!何もなかった! OK!と思っていたのです。

でも、そのゴミ箱は透けていて、その中に捨てたものは、全部自分の外側、自分の見ている世界に映し出されてきます。結局、自分が拒否したものに、自分の世界の中で直面することになるのです。

それは、ちゃんとゴミ箱をカラにして、ゴミが外に映し出されることがないように、ゴミを永遠に処理すして、ピュアな「そのままで価値のあるあなた」に戻るためなのメッセージなのです。

うまくいかないことは、「心のゴミ」が何であるかを教えてくれていて、「何を手放せばいいのか」のヒントです。

「報われない」ときに感じる感情は、まさにこどものころに慢性的に感じていたフラストレーションと同じものです。先ほどの褒めてもらえなかった男性を考えると、社会に出てからもこどもの頃のように「褒めてもらえない」同じようなパターンが起こり、同じ感情の痛みを感じ、自分の持っているキズを教えてもらうのです。

では、「報われない」パターンを手放してみましょう!

【  1  】 まず日常緒で繰り返されている「報われない」パターンが、決して外からやってくるのではなく、自分の内側からやってきていることに気づきます。(「○○さんのせいで報われないと思っていましたが、ぜんぶ私でした。わたしの心の中のゴミが外に見えていたのです。こどものときの「認められたい」痛みがまだそこにあったのです」と被害者になることなく認識します。)
【  2  】 その感情を無条件に感じて、手放してあげます。(「認められたかった」悲しみを、言葉ではなくエネルギーとして全身で受けとめてあげます。感情はちゃんと受け入れて、「感じてあげる」ことで無くすことができます。)
【  3  】 感情を受けとめたら、新しい選択をします。(この感情は、過去のこどもが感じていたものだった。それはもうここでは起っていない。今の自分はもう、じゅうぶん認められてもいいんだ!)
【  4  】 そして同時に、まわりの人に自分が求めていたものを与えてあげること、つまり積極的に他の人を「認めてあげる」こと。(自分が外側に与えてあげることは、心の中では「自分はすでにそれを持っているだ」と認識します。)

「報われないパターン」によって過去の痛みに気がつき、自分に対する誤解を手放すことによって、だんだんとほんとうの自分が姿をあらわすことができます。痛みを繰りかえし続ける人生ではなく、ついに痛みを手放した「本当の自分自身」が外側に映し出されることこそが、自分らしい人生となっていくのです。

自分に「報われないパターン」を見つけたら、じつはそれはチャンスです!被害者、犠牲者になって外を責めるのをやめて、今起きている現実は「自分の心の中の世界」のあらわれとして気づいてみます。気づいたらただ手放してあげるだけ。まずは認識することこそが大切です。

修正のポイントは決して外の世界ではなく、いつも自分の心の中にあるのです。

そして一つひとつの痛みを手放すことによって、わたしたちの目にする世界をだんだんと平和にしていくことができるのです。

 

 

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14-09-19 「今」という贈り物

過去が悔やまれますか?

未来が気にかかりますか?

でもあなたが唯一存在できる時間は、「今、ここ」だけしかありません。

自分が存在することがゆるされているたったひとつの場所は、「今」なのです。

「今」にとどまりましょう。

過去や未来はまったく存在していない架空の迷路のようなもの。いったんそこに迷いこむとなかなか出口が見つけられず、しだいに暗い迷路の住人になってしまいます。

それでも、今というこの場所は退屈に感じられますか?

じつは今という場所はあなたにとって、とても安全な場所であり、豊かさにあふれる空間であり、過去や未来に比べてだんぜんコワくないはず。

あなたの魂が「今」という瞬間に出会うときだけ、今という時間のなかに喜びを見つけだすことができ、あなたのほんとうのパワーが魔法のように姿をあらわします。

「今(present)」にとどまりましょう。「今」は、あなたにとって大切な贈り物(present)なのです。 (^-^)v 

 

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14-10-14  幸せになるためのシンプルな選択

誰もが「幸せになりたい!」がために、日々頑張っています。誰にとっても「幸せになること」が最終ゴール。人生の目的。

いつかやってくる幸せな日のために、いい仕事を探し、いい伴侶を求め、日々ガマンを重ね、かなり努力もし ・・・・。

でもその夢見る「幸せ」って、いったいいつやってくるのでしょう?

いつだって未来に設定されている「幸せな日」は、まるで目のまえにぶらさがったニンジンのようです。それを求めて走れど走れど、決してニンジンにたどりつく日はやってこないという ・・・。

よくよく気づいてみると、時間というものはいつもここにある「今」しかなくって、誰も「今」というこの時間以外を生きたことはありません。「わたしこそがあなたが夢みていた未来ですよ〜」なんて未来が仰々しくやってきたことはないし、「もうすぐ未来に突入します」なんてアナウンスされたこともありません。

でも、わたしたちのエゴは「今なんて退屈でしょ。未来こそ楽しみにしなくっちゃ!」とそそのかします。未来に希望をもたせて探求させることによって、ほんとうはここしかない「今」という時間をもぬけのカラにして不幸な気持ちにさせるのがエゴの策略。わたしたちの中に住むエゴは、あの手この手でわたしたちの幸せを奪おうとします。

思い描いていた「いつかやってくる幸せ」やら「将来、なばなばしく夢が叶うこと」・・・はエゴがでっちあげる幻想なのですね。

「今」「今」「今」の連続が人生なら、「今」幸せでないなら、いったいいつ幸せになるのでしょう?

そうなると、「今しかない今ここで、ちゃんと幸せなろう」と腹をくくることがなによりも大切になります。唯一の「今」という時とちゃんと向き合って、「今」をとことん大切にすること。「今」の質をレベルアップしてあげることが本当の幸せのヒケツのようです。

「今」の質をよくすることは、今ここですでに楽しくって安らいでいること。つまり、どこにも存在しない「いつか」じゃなくって、たった「今」ここでハッピーになってしまえば問題は解決するわけです。

「今」というここちよい時間の連続・・・ ささやかですが、じつはこれこそが「ハッピーな人生」の正体。(シンプルすぎて、つまらない?)

実際、「今」しかないのに、みんな「今」という時の重要さにはほとんど注目をしないで、「今」の自分の気持ちもないがしろにしがちです。 ・・・ というか、「未来」がそのうちわたしの気分をよくしてくれると思っているのです。でも、それはありえません。未来はないから。

とりあえず「今」の気持ちを大切にして、「今」ここで自分でちゃんとハッピーになってみることです。・・・たった「今」がハッピーなら、じつはずっとハッピー。

もし、何か心に不安があるならば・・・おそらく、それは未来に関すること。それは今はまだ起きていません。ならば、今、このひとときは心配しないでくつろいでみる選択をすることもできます。

もし、誰かに腹がたっているのならば・・・それもおそらく、今ではなくって過去のこと。今ここでは何も起きていないはず。だったら、今、このひとときは怒りに汚染されるよりも安らかでいることを選択することもできます。

実際、幸せになることって、しっかりと「決断」して「選択」することが大切だと感じます。

ただなんとなく、いつか幸せになろうとしても、「いつか」はそもそも存在しないので、達成されません。「今、ここで幸せになるぞ!一刻の猶予もない、今、
ここ!」と決めると、自分の気持ちをちゃんと選択しようとします。「今」このときは、安らぎを選ぼう!それこそが幸せなのだから・・・と。

そして、決してここには存在しない未来や過去にとらわれない選択も必要です。たいていのモヤモヤ感情は、今、目のまえのことというよりも、未来を心配した
り、過去を思い悩んだりしているときのもの。過去や未来のワナにははまらないぞ!という、今ここで「安らかにいよう」という「選択」も必要なのですね。

自分が腹をくくって、「わたしは幸せになる!そのために、もう自動的に外側に反応するのはやめるし、外側が自分を幸せにしてくれるのを期待するものやめ
る。自分しか自分の気持ちを幸せにできないのだから、自分の心を乱す考え方はすぐにでも手放す」。幸せになるには、こんなふうにちゃんと決めてあげること
が大切です。

幸せって、毎瞬、毎瞬、どんな気持ちを選ぶのか、そんなシンプルな決定の連続なのですね。

 

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14-10-30 あなたの「今ここ」お助けグッズはなに?

時間はもともと「今」しか存在しないといいます。

だから、わたしたちは存在していないはずの時間、過去や未来をウロウロすると、たちどころにこころの調子が悪くなります。モヤモヤしたり、イライラしたり、グジグジしているときは、わたしたちはきまって過去を悔いているし、未来に対して怖れをいだいているのです。

そうはわかってはいても、なかなかわたしたちの過去や未来へのお出かけグセはやめられません。

でも、何か緊急事態が起ったり、あるいは究極に今を楽しんでいるときには、100%ここにいて、そのことによってすごいバカちからが出たり、おもわぬ潜在能力が発揮されたりします(そう、フロー状態です)。

今までの人生の中で、究極的に「今」にいた瞬間っていつだろう?と 考えてみました。たとえば、試験などで論述を書いていたりするとき ...すべてを惜しみなく出しつつ時間内に仕上げてなくてはならないので、なりふりかまわない100%の「今」体験をした気がします(つい最近もそんな論述書きましたよ〜)。

「でもこれがいちばんだな〜」という 100%「今」体験は ・・・ 地上5000メートルからの落下です。つまり、スカイダイビング。

なんで好きこのんで地上5000メートルから落ちてみようと思ったかというと、じつはわたしは泳げません。浮かないわけではなく、あの水の中の息ができない感じが大嫌いなのです(おそらく溺死の過去生あり)。

なので水はあきらめて、お空へと活路を求めてみたものの 、それは大間違いでした・・・ 空も水中と同じだとは(汗) ・・・ いえ、水中よりももっと過酷。だって、息ができないのは同じだし、落下するとき G がかかるので、まさに水の中のお魚は空ではヒラキになった感じです(圧力がかかって内蔵はぺったんこ、そしてサバ折りというよりはぱっくりとヒラキ ・・・)

1分間フリーフォールのあいだ絶叫していたわたしに、うしろでサポートしてくれていた元US Air Force のリック兄さんは、わたしが喜んでいると勘違いしたらしく、弾丸のごとく落下させてくれたのでした(お気遣いアリガトウ・・・)。

髪をアップにしていたバレッタはふっとび、わたしのロングヘアはきっとリック兄さんの顔面を襲って窒息させたことでしょう・笑 (生きて着地できてよかった !)。

こんなときには、1分というよりは1秒にしっかりと注意がむいていて、「○○さんがああいった言葉の意味はなんだったの?」とか、「△△さんのああいうところはイヤ」なんて考えているどころじゃありません。

1秒にいのちをかけるという究極の「今にいる」という快感を一回体験すると、きっと人ははまるのでしょうね(あ、わたしはヒラキは好きじゃなかったので、1秒への快感に未練はありましたが落下はもう十分です)。人が理解に苦しむような危険な登山や命をかけたスポーツにのめりこむのは、この1秒、この一瞬に100%存在するという快感への憧れなのだと思います。

でもわたしはヒラキにならなくても、命をかけなくても、ひとつのおいしいスウィーツでここに100%いられることを発見しましたよ(おいしいスウィーツは、わたしにとって時間を消滅させてくれます)。

忙しい日常のなかでも、自分が楽しみながら時間を消滅させて100% ここにいられる瞬間を自分にプレゼントしてあげることは大切です。そんなとき、インスピレーションが自然とわき出してくるし、枯渇していた自分のエネルギーが泉のごとくわきでてくるのをきっと感じられると思います。

そんな100% 「今ここ」を助けてくれるアイテムをリストアップしておくといいと思います。

週末はそのリストを取りだして、いくつか自分にプレゼントしてあげるとかね!もちろんヒラキが好きな方は是非、お空もおためしくださいね。

 

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14-11-15 あなた専用、セキュリティシステムって?

「アマゾンさんは玄関、2号さんはリビング・・・」そんな セキュリティ住宅のCM がありましたね。ご本人を守るのは何号さんなんでしょ?

こんなにたくさん仮面ライダーを雇わなくっても、じつはわたしたち一人ひとりには専属のボディガードというか、セキュリティシステムがすでに備わっています。

でも、使い方を習ったことがないし、そもそもその存在を教えてもらったことがないので、活用されているとはいえません。そこらのセキュリティシステムやナビシステム、検索システムよりもずっと優秀で、いったんこのシステムの威力を知ったら、他に頼ることは意味がないとさえ感じるほど頼もしいのです。

まず間違うことはないし、それは過去( &過去生)・現在・未来( &未来生)のすべてを見通して、まわりの状況も考慮したうえで、いちばんベストな判断や選択を示してくれます。だから、そのときだけうまくいくのではなくあとあとの人生までたやすくなるし、またかかわるすべての人が恩恵を受けることができる、そんないちばんいい選択をはじきだしてくれるのです。

そんな都合のいいシステムって?!

それは ・・・ 「ハイヤーセルフ」と呼んでもいいし、「高い自己」、「スピリット」、「天使さん」、あるいは「直感」と呼んでもいいのですが( そもそも名前がない・・・)、ただそれが存在していることを知っていて、その力を信頼している人にしか使いこなせないのが難点。

使い方は簡単。いつもスイッチはオンになっているので、ただその存在がいてくれることを認識して、そちらにこころを向けて、その存在にお願いしたいことを伝えるだけ。あとは静かにじっとお答えを待ちます。必ず答えがやってくるという確信をもって。

いったんたずねれば、誤作動することもなく、確実に、必ず、すぐにお答えが返ってきます。

その働きはとても優秀で、またパワフルなのですが、わたしたちの「意志」を邪魔しないようにと、とてもひかえめにしてくれています。いつもスイッチは入っているにしても、「わたし、自分で全部やりたいんです」という人の意志を尊重して、お呼びがかかったときだけ積極的に働いてくれます。だから、自ら「お願いする」ことがとても大切。そしてお願いしたら、そのお答えを受けとるときの繊細さも必要です。

そのお答えはやさしく穏やかなエネルチーなので、怖れやネガティブな気持ちという強い感情には簡単にかき消されてしまうからです。だから、自分の感情をていねいに感じることが上手になればなるほどキャッチしやすくなります。高い存在からくるエネルギーは、わたしたちの感情よりもさらに繊細なエネルギーなのです。

お答えのやってき方は、さまざま。自分のなかに「穏やかな確信」あるいは「打ち消すことができないポジティブなおもい」としてやってくるとこともあるし、あるいはまわりの人を使って伝えられることもあります。だから、自分のまわりの人の言葉に注意している必要もあるのです。

あるいは、カフェで隣に坐った人たちのおしゃべりの声がたまたま耳に入って、それが答えになっていることもあるし、またふとつけたテレビのキャスターが話していることの中にあるかもしれません。本の中に、新聞の中に ・・・ 目にはいるもの、耳に聞こえること、すべてがメッセージにあふれてきます。そうなると、しっかりと守られて、導かれているのを感じられるようになります。

いったんたずねたら、答えを受けとると決めてわくわくして待つ ... そうするときっと気づきやすくなります。たまに、たずねたことをすっかり忘れてしまったりすると、答えがきていてもまったく気づかずじまいになってしまうこともあります・・・(汗)。

このシステムで提供されるサービスはいろいろ。「人生のナビシステム」だったり、どんなお問い合わせにも対応可能な「検索システム」や「未来予知システム」、どんな危険からも守ってくれる「セキュリティシステム」などなど。わたしたちが受けとれる分だけ、受けとることができます。

どんどんたずねる習慣ができると、どれだけその答えが正しくて、また安心できるものであり、問題を確実に解決してくれるのかもわかってきます。そうすると、きっともっともっと自分のセキュリティシステムを活用したくなって、その結果を見ることによってさらに信頼が深まって、さらに導かれる ・・・ という好循環ができあがります。

自分の不確かな判断よりもずっと安心!確実!うまくいく!

自分がまだこのセキュリティシステムを活用できていなかった頃、それはまるで暗闇の中を手さぐりであっちこっちにボコボコぶつかりながら歩いていて、道ではない道をゆき、植えこみのなかを傷だらけになりながらむりやりに歩いていたようにさえ感じます。

このセキュリティシステムはおっきな懐中電灯、いえ、もっとパワフル、サーチライトつきの自動運転の乗りものに乗って、おまかせして安全に運ばれている感じ。

そして自分がどんどん人生のハンドル、人生のコントロールを手放すことができるようになってくると、自分の判断でヘタに干渉しないことが人生の「安全運転」にとってなによりも大切なことだったとわかるようになります。

いまさらながら、わたしって人生の運転の仕方を知らないたんなる暴走族だったのね〜、と反省。自分の判断でつっぱしっていたときには、自分も傷だらけだったし、周りに大迷惑だったのでした・・・汗。

 

 

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14-12-07 世の中みんなアルツハイマー?

最近、世の中では「認知症」への怖れや、「危険ドラッグ」への脅威などがささやかれております。

なっちゃったらどうしよう、巻きぞえくったらどうしよう・・・と。

先日、友人と大笑いしたのですが、「そんなことを心配するよりも、“すでに” わたしたちみんな、アルツハイマーだし、パラノイアだし、そのうえハートショットやっちゃってるよね」「いや〜、手がつけられない。全員、隔離だわ」って。

どういうことかという・・・

アルツハイマーなわたしたちは、自分勝手なアルツハイマーものさしでしかものごとを判断できず、つねにアップしてはダウンするという一喜一憂の連続人生(アップのままではいきません)。そのものの見方はひどく制限され判断にみちているので、自分も人も深く傷つけることになります。というのも、アルツハイマーなわたしたちはものごと全体など把握できず、目にはっきりと見えるものしか信じられないからです。

パラノイアなわたしたちは、すぐに被害者になります。なぜなら世の中はコワイところだと信じているので、ありもしない自作でっちあげドラマにはまり、怖いものしか見えなくなります。コワイから、やたらに人やものごとにかみつき攻撃的になります。また、かわいそうな自分、不幸な自分でいれば、愛のおこぼれがもらえるかも!と期待もあって、かわいそうな自分をやめられないジレンマ。やり続けることによりどんどん被害妄想が深まっていきます。

ハートショットやっちゃっているわたしたちは、自分勝手なでっちあげドラマに耽溺して、そのドラマのなかで大騒ぎをし、それを人にもおしつけちゃったりします。わたしの理想の恋人を演じろと強要したり、わたしを幸せにしろと迫ったり、あらゆる要求をつきつけてあたりまえだと信じています。

というぐあいに、わたしたちも日常ではなにげで、アルツハイマー、パラノイア、ハートショット患者の診断を下されそうです。「一人一人隔離していったら、誰もいなくなっちゃうね」と笑ってしまいました。

でもね、そんなわたしたちの本当の部分はちゃんと健常者です。光です。愛です。

あまりにも外の世界を気にしすぎて、またそこに怖れを抱いてしまったために、エゴちゃんが優勢になり、本当の自分を記憶喪失。

あらら・・・アルツハイマー、パラノイア、危険ドラッグだけでなくって、記憶喪失までも?!(たいへんだわ!)

まずは、そんなコワガりの自分に気がついて、いかに「自分を護らなければ」という力が入った意識で外側の世界と向きあっていたかを知ることが大切。

自分の中にちゃんと備わっている健常者の部分、それはまさに「愛」とか「信頼」とか「安らぎ」の部分ですが、そこから常にものごとを見たり行動できることが大切ですよね。(「愛は怖れをサバ折りにする」、むかしそんな本のサブタイトルがありましたっけ。)「怖れ」を手放して、ほんとうの自分、「愛」にもどりましょ!♡

 

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15-01-10 被害者にならない、今どきの子育て

最近の子育ては、少し変わってきているのだな〜と若いお母さんを見ていて感じました。

以前はひとりっ子で過保護にされすぎで、まるでこどもがコワレモノ扱いだったような。転べば大騒ぎ、ひざをすりむいたりケガをしようものなら事件にもなりかねない ・・・。

へんに大切にされすぎたこともは転んで泣けば「痛かったのね〜。かわいそうに」とより大切にされる、注意をいっぱいもらえると勘違いして、すっかり「かわいそうな無力な被害者」な自分を演じはじめます。そんなに痛くないのにわざと泣くとか。

でもそれを演じているうちに、だんだん自分が無力なのだと信じはじめてしまうのがこわいところ。

昨日、カフェの隣のテーブルにいた若いお母さんはちょっと違っていました。

よちよち歩きのこどもがテーブルに思いっきり頭をぶつけて烈火のごとく泣き出したとき、そのお母さん、それはそれは冷静に「あら、自分でぶつけたのにおかしいな〜(泣いてるなんて)」、そして「ほら、痛い痛いの飛んでけ〜」と宙に放りなげるジェスチャーをすると、こどももそれを見てもうニコニコしていたのです。

「このお母さん、やるな!」と思いましたよ。

自動的に「痛くてかわいそうなわたし」になりそうなところを、さっさと自分で責任をとらせているのです。「ぶつけたのはあなたですよ。それは外から襲いかかってきたのではありませんよ。あなたの不注意です」と。そして痛みはさっさと放り投げるようにして処理をして、「被害者意識」と「痛み」がいっしょにならないようにしているのですよね。

こどもが「痛み」を感じたときに、「かわいそうに」と言ってそれに注意をむけすぎると、こどもは「痛がれば」いつもにはない余分な愛がもらえるんだと勘違いしてしまいます。「愛」は「かわいそうな人」にならないともらえないと擦りこまれてしまうのです。

また、わたしたちは、おうおうに「痛み」をかんじるとその痛みをそのままにはせず、そのあとに頭で考えた判断をつけ加えます。「ついてない自分」とか「いつもこうなっちゃうわたし」「これは罰にちがいない」とか・・・自分のよけいな考えを「痛み」にくっつけて、「痛み」に意味を与えてしまいます。ほんとうは、「痛み」はただシンプルに「痛み」、ただそれだけなのです。頭でいろいろとセリフを考えなければ、わたしたちは被害者にも、かわいそうな自分にも、報われない自分にもなっていないはずなのです。

この若いお母さんは、あざやかに「こどもに自分の人生の責任をとらせる」ということを理解させ、なおかつ「痛みはそのまま手放せばいいのだ」ということも教えていました。

わたしたちのこころの中にある「わたしこそ、かわいそうな存在」という(すでに無意識にまでなっている)思いこみこそが、じつは自分の人生の山や谷をつくっているのですよね。「かわいそうなわたし」と思えば思うほど、それに答えてくれるわたしたちの「創造力」!
(これこそ、自由意志)。

わたしもお店の店員さんの態度がよくないときとか、何かが思ったようにいかないとき ・・・ いまだに被害者、かわいそうな自分をやっていることに気がつくときがあります(腹を立てていることじたい、すでに被害者になっているのですよね)。しみついた習慣はなかなか消えない・・・。まだまだ、気をつけないといけないな〜と感じます。

 

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15-01-22 ついついイラっとくるわたしたち、あのナッツ姫も

先日、ネットでレストランを予約したときのこと。

待てどくらせど返事がこない ・・・。なので、もう一度メールをしてみた。 ・・・が返信なし。 ・・・しょうがなしなし、お店に電話をかけてみると、あっけらかんとした様子で「ああ、メール、見てませんでした!」と (おいっ!メールでご予約ください、って書いてあるじゃありませんかっ)。

まったく反省の色がないと、こちらもイラっとくる。こごとのひとつも言いたくなった。・・・けど、わたしがしたいのはこの人を教育しなおすことではなくって、「ただ、予約がとれるかとれないかを知ること」だったのだ!と思い直し、怒りをひっこめたのでした。

このところ世間を騒がせた、あの「ナッツリラーン騒動」だってそう。ナッツを袋のままじゃダメなんじゃないの?、が彼女が確認したかったであろうことであって、あの「怒り」はほんとうはまったく必要ないのですよね。(でも、彼女の場合は本当はナッツが問題じゃないのです。怒りたかった!)

ことほどさように、わたしたちはまったくもって「自分の権利だ!」とばかりに怒りをふりかざすことが大好きなようです。

相手が間違っていると気づいたら、ここそとばかりに「怒り」で攻めこむ。「ここで怒って当然でしょ!」と。

・・・でも、ほんとうはただ「それ、間違ってますよ」と静かに教えてあげるだけで十分で、わざわざ「怒り」のトッピングはいらないような。

ただ教えてあげればすむことに、なんでこんなにももれなく「怒り」がドッキングされてしまうのでしょう?

それはさっきもナッツ姫のところで書いたように、わたしたちがじつは「怒りたい」から。

メールを見忘れたレストランの店員も、ナッツを袋のまま出してしまったCAも、ほんとうは相手の「怒り」の原因などではないのです。

じゃあ、なにがその「怒り」の原因なんでしょ?

じつは、原因なんてなくって、わたしたちはたんに口実がほしいだけなのです。「怒り狂う」ための。

なんと、そこまでわたしたちは無意識のうちに怒りをためこんでいるし(怒りというよりも、自分の無力感にうんざりしていて本当は当たり散らしたい気持ちでいっぱいなのです)、また自分のある部分では「自分のことを絶対幸せにするものか!」と企んで人生をメチャクチャにしようとしています。

なぜなら、自分にとってすべてが一人称のこの世の中では、攻撃的になればなるほどその結果として自分を攻撃するする人をつくりだすし、また自分の発した攻撃性が人生の行く手に多くの山や谷をつくりだし、自分の歩む道を険しくします。これこそが、自分の幸せをぜったい認めないエゴの策略なのです。

むやみに人にイライラしたり、攻撃的になることが、どれだけ自分の人生にとって運を悪くしたり問題を勃発させることになるかわかっていたら、世の中もうちょっと平和で穏やかになるかもしれません。

世間をゴミ箱あつかいにして自分の「怒り」をなげすてても、結局はご丁寧に自分にもどってくるのでした。(ハイ!「与えるものは、受けとるもの」・・・)

どこかこころの中でわたしたちは、「この場面では怒ってあたりまえでしょ!」という常識のように考えている怒りのガイドラインがあるように感じますが(たとえば、レストランで待たされたら怒ってあたりまえ、店員が不手際だったら怒ってあたりまえ)、けれど自分に戻ってくることを考えたら「あたりまえ」の怒りなどないのですね。

まだまだ日常で、自動的にイライラしている自分を見つけてハッとします。身に染みついた習慣は、かなり意識的にならないとなかなか改善できませんよね〜(汗)。

でも、自分のイライラを世間にまき散らすのをやめるだけでも、じつは自分の人生の流れってずいぶんと穏やかに変わるものなのです。自分の人生に平和をもたらすために、自分のこころのイライラ、ムカっをちょっと気にしてみるのをおススメします!

 

 

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15-02-03 彼氏は「お道具」?

昨日電車で、前に立っていた女の子ふたりのおしゃべり・・・。

「新しい彼氏、どう?」 「うん・・・忙しそうであまり会えないけど。でも国際的な仕事してるみたいで、三ヶ国語ぐらい話すんだ。だから、将来海外に連れて行ってもらえそうだし...」 「いいな〜、私の彼はぱっとしないから。そういう人選ぶべきだよね」「デートのときもワインとかよく知ってるし、段取りも完璧なんだよね」 「へえ〜、すごい!うらやましい」 ・・・。

こんな感じでえんえんと彼氏の有能さや将来性が話題にのぼり、そのお方の性格や人間性が語られることはついぞありませんでした。

焦点があたるのはもっぱら、どれだけ「おお、すごい!」と思えるか、どれだけ有能であるか、どれだけ特別感があるか・・・それを手にすることで、自分がランクアップ、バージョンアッップする感じ。

う〜ん、それって「道具」選びとさほど変わらないような。・・・彼氏って、結婚って、自分が密かに足りないと思っているところを一気に挽回してくれる魔法のお道具感覚??

そうなんです。自分のパートナー選びって、(意識していなくっても)「自分に役立つお道具」選びのよう。(まあ、わたしたちは何にしろ、自分にとって「何かを手に入れられるもの」にしか飛びつきませんが。だから、地味に隠されているほんとうの輝きや感動や喜びやすばらしさというものを、やすやすと見逃してしまいがちなのですよね。)

パートナーとは・・・ (わたしが隠しもってきた劣等感を補ってくれる)有能さがあって、(わたしの飽きあきした日常に魔法をかけて一変させるという)ニーズにあっていて、(平凡なわたしがキラキラと輝きだしそうな)スペシャル感もあって・・・。自分の人生をランクアップさせてくれて、自分の隠しもった劣等感をカバーしてくれる、そんな魔法のお道具。自分を救いだしてくれる白馬の王子さまなのです。

だから自然と相手に対する要求が大きくなるし、期待もふくらんで、こうであるべきという勝手な理想のイメージを相手にすっぽりとかぶせちゃいます。もう、そういう人だと思ってしか見ないのです。ここがその後のバトルの元凶・・・(汗)。

そもそもワインを知っているからステキな人であるはずもなく(いえ、もちろんワインを知っているすご〜くステキな方もいます!“るん”スタッフのようにね♡)、バイリンガルだからって性格がいいわけでもなく・・・でもなぜか、そんな一点スペシャルなところをみつけると(それは自分の劣等感をうめあわせてくれるポイントなのですが)、全部が全部ステキに違いない、輝いているに違いない、違う世界を知ってるステキな人、この人がわたしを引き上げてくれる・・・と勘違いして、すべてのイメージを勝手にでっちあげちゃうのがこのお年ごろ。(いや、一生やってる場合もあります・・・!)

最初に理想にあてはめちゃうと、あとはボロが出るだけになります。ボロが出るのではなく、相手のほんとうの姿を知るだけなのですが・・・、それがまたゆるせない。

相手のありのままの姿なのに、「そんなはずじゃなかった!」と怒りが爆発(最初からそんな人じゃななかったからね!)。自分がでっちあげたとおりに振るまうようにと攻撃をしかけます。・・・でも、「話が違うじゃない!」とつっかかられても、たんにもともとの姿でそこに存在しているのに過ぎないのですよね。

カウンセリングやセラピーのなかで取り扱われるパートナーシップ、夫婦の問題も、みんなこれが出発点です。そもそも、誤解していたのです。相手のほんとうの姿をちゃんと知ろうとさえしていなかった。

「こんなはずじゃない」「なんでちゃんとできないの?」というバトルが10年、15年と繰りかえされ続けて、ようやく「そうか、もともとこういう人だったのかも。そういう人をわたしは選んじゃったのかも」と気づけるか、気づけないか・・・。(なかなか、自分のなかで起っていることは気づきにくいものです。)

「要求」や「期待」が災いしているのです。だから何に対してもそうですが、もうほんとうに「要求するのはやめよう」「期待するのはやめよう」と決めると、ぜったい裏切られることがありません。怒りもわいてこないし、責める口実もなくなります。

わたしも、なにかとコントロールしたくなったり、イラついてしまうような相手に対して、もう金輪際いっさい「この人のしていることを批判しないし、この人に対して要求しないし、期待もしない」と決めたことがありました。

そもそも腹が立つときって、「要求」や「期待」がかなえられないことで腹が立つので、それをいっさいしなくなるとまったく腹が立つ、イライラするということがなくなりました。

この人がどのように生きていようとも、この人のあるがままなんだからこれでいいんだ。わたしがそれに対して何かを言いたくなるとしたら、自分の利益のために道具化しようとしているに違いない、と気づくようになってきたら、それによって関係がしだいによくなり、ついにはこの「要求」や「期待」によって手にしたいと思っていたものがすべて自然にやってくることになりました。

ものごとは「あるがままに」ほっといてあげる・・・ そこから不思議なことが見えてくる、芽生えてくるのだな〜と実感した体験でした。

パートナーにしろ、子どもにしろ、何にしろ、「要求」や「期待」をしているときには、自分にとって都合のいい「お道具」に仕立てあげようとしているとき。「要求」「期待」がないときには、今まで見えなかったものが見えはじめます。つまり、それによってどれだけ大切なことを見えなくしていたか思いしらされます。

何に対しても「要求しない」「期待しない」というのは、自分の心に平和をもたらしてくれるし、よい関係を運んできてくれるだけでなく、不思議とほっておくことですべてがちゃんと整っていくという「流れ」というものを感じることができるのでした。

 

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15-02-13 千切りは天につながる道?

「野菜の千切りをしていたら、はじめて声がきこえたんです!」とY子さん。

昨年ヒプノセラピーを受けられてからいろいろと気づきがあったそうですが、頭のなかで「自分のものではない声」が聞こえたのはこれが初めてだとか。その声は「もっと自分を大切にするように・・・」と教えてくれたそうです。

Y子さんの野菜の千切りの話で、はたと思い出しました。そのむかし、セラピーでたくさんの方にお会いしたり、ちょっとこみいったセッションがあった日には、よく野菜の千切りをしていたな〜と。あるいは、粉をこねることにもはまっていたときも。

野菜を刻むことも、粉をこねることも、心を空っぽにしてくれるのですよね。

Y子さんの場合は、その空っぽになった心に高い意識からの声がぽとりと落ちてきたのだと思います。

とはいっても、高い意識は野菜の千切りをしているから話しかけてくれるのではなく、いつでも年がら年中、365日、語りかけ続けてくれているのですが、わたしたちがまったく聞く耳をもっていません。頭のなかの雑音がうるさすぎて、その声をすくいあげることができないのです。

単純でリズムのある作業をしているとき、ふとトランス状態になって、いつも聞きのがしているその声が浮かびあがってきます。高い意識にしてみたら、「おお〜、やっと静かにしてくれたか!」という感じでしょうか?

そう、わたしたちの頭はあまりにもうるさすぎ。人の話もあまり聞いちゃいないけど、自分の高い意識の語りかけにはまったく耳を傾けていません。

以前にこんなことがありました。それは、「貴子さん、あなたのガイドスピリット(高い意識)があなたに話しかけようと頑張っているのですが、まったく聞い
てもらえないといっています。だから、わたしのところに話しかけてきたのですよ。これこれ、しかじかだそうです」と、親しくさせていただいていた「いろん
なものが見えて聞こえちゃう」男性にいわれたことがありました。それは、そのときにいちばん必要だったひとことで、それがわたしの背中を押してくれました。

その頃のわたしは、まだこの仕事をはじめたばかりでいろいろとパニクっていて、心の声に耳を傾ける余裕などまったくない状態で、まさにそんな迷走状態のわたしだからこそ、わたしの高い意識は「聞いてほしい大切なこと」があったのでしょう。こんなふうに、他の人の口をかりて重要なメッセージがやってくることもあります。

なにも不思議な力を持っている方だけがメッセンジャーになるのではなく、ふつ〜の友人から語られることも自分の高い意識からのメッセージです。お友だちとの雑談で高い意識が語ってくれることも多いのです。

また、メッセージを受けとりたい!とかまえて瞑想しようとすると、かえって力が入って、頭のなかに期待がふくらみ、うまくいかない体験をすることがあります。だからこそ、野菜を刻んだり、粉をこねたりという修道僧の黙想のような単純作業のほうが、簡単に頭をからっぽにできるようです。

野菜を刻む、粉をこねるほかにも、拭き掃除をする、アイロンかけをする・・・なんていうのもいいかもしれません。そうそう、以前ぬり絵をいただいたことがあるのですが(それはマンダラぬり絵という、モチーフに色をつけるものでしたが)、ひたすら色をぬるというのも身体がリラックスして、心も空っぽになるので、おススメです。

「セッションルームの出口のところにキャベツを並べておいたら売れるかもしれませんね!」とY子さん。セラピーが終わると、みんな千切りにするキャベツを大事そうに抱えて帰るのを想像したら笑ってしまいました。

 

 

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15-02-28 「怖れ」のデトックス

わたしたちにとって「ニュース」というと、悲惨や怖れ、戦いしか対象にならないのでしょうか? ・・・

暗いニュースのオンパレードにそんなふうに感じてしまうこの頃です。世のなかでは、すばらしいことだってたくさん起きているはずなのに・・・。

ひっきりなしにテレビで流されていた IS (イスラム国)による戦慄の映像がおさまってきたと思ったら、こんどはこどもが河川敷で殺害されるという悲惨な事件。ふたたびあの IS の処刑イメージと重なって、胸が苦しくなりました。

もちろん真実を報道することは大切だし、それを知ることも必要です。でも、まるでヒプノティックに暗示をかけるがごとく四六時中同じニュースが流されると、ひとつの事件が何倍にも増幅していくように感じてしまうのです。たった一回だったことが、まるで何回も起きたように心は錯覚し傷つきます。(あの 9.11 や 東北の津波のときもそうでした・・・。まさにこれこそ擦り込み。)

じつは、わたしたちのエゴは怖いことが大好き。怖いことを糧にエゴは生きのびる、とさえいえます。

だからこそ、テレビ番組はこぞって「怖れ」をテーマにしているともいえます。「主治医が見つかる・・・」とか「本当は怖い家庭の・・・」とか、「直下地震で生きのびるには」とか、「富士山の噴火」がどうとか。わたしたちのなかのエゴには、おおいにうけるテーマですからね!

人の怖れをあおり、罪悪感を刺激すれば、確実にモノは売れるし、視聴率もあがるわけです・・・。

わたしたちは自分の「思い」というのがどのぐらいのパワーがあるのか、ということを忘れすぎている気がします。

わたしたちの「思い」こそがここまで文明を発達させ、いろいろなものを創りだしてきました。「思い」はさまざまなものを創造し、影響を与えます。それはひとりひとりの人生にもいえることです。

しかし、「怖れ」の思いからは怖ろしい現実しか生まれえないし、一方、「愛」や「喜び」「平和」な思いからは、そのような世界が必ず生まれます。わたしたちは、それぞれを意図したとおりの現実しか体験することができません。完全に「怖れ」に動機づけられてしまったからこそ、このような悲惨な事件が続発したともいえるのです。

「怖れ」や「悪」といわれるものを分析することに時間を費やすのではなく、それよりもわたしたちは「何を望むのか、何を見たいののか、何を体験したいのか」にもっと敏感になるべきだし、時間を費やすべきなのでしょうね。

わたしたちの思いは、「愛」か「怖れ」のふたつにひとつしかありえません。

ちょっとだけ「怖れ」で、あとは「愛」というのはなく、選べるのはどちらかきっぱりとひとつのみです。そして自分が選んだとおりに体験することになるのです。「怖れ」を選んでおいて、「愛」や「平和」を体験することはできません。

たくさんの恐ろしい映像や怖いニュースにあふれていようとも、ちょっとテレビからはなれて・・・ 自然のなかで太陽をあびてゆっくり過ごすとか、のんびり音楽を聴くとか、家族や友人と暗い話ではなく楽しいことについて語り合うとか、こころあたたまる本を読む、映画をみるとか、自分にやさしくしてすごすとか、誰かにやさしくするとか・・・温泉やマッサージもいいかも。

さまざまな自分のための怖れのデトックスがありますよね。それぞれが自分のこころを平和に保つだけでも大きな力があります。その平和は必ずまわりにも影響を与えるし、連鎖していくものです。バタフライエフェクトのように・・・。

一週間に一回は、心から「怖れ」の気持ちや重苦しい気持ちを追い出して自分にやさしく過ごす ・・・ 「怖れ」がはびこる日常ではそんなデトックスタイムがぜひ必要ですね。

 

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15-03-18 誰もがもってる○○されちゃう怖れ

声楽を教えている友人からのメール。「風邪をひいた生徒さんがレッスンにやってきて、どうやらその風邪をもらってしまったみたい(汗)。風邪のときはご遠慮くださいとお願いしてたのに・・・」と。

そうですよね〜。思いっきり声をはりあげて歌うレッスンでは、ひどい風邪っぴきはそりゃ気になるでしょう。じつはわたしも小さなカウンセリングルームで、クライエントさんがマスクもされずひどい風邪をひかれているとやっぱり気になることがあります。

友人の場合は「お願いしてたにもかかわらず、来ちゃった!」 そうな ・・・。そうなんですよね。こうしてほしいと思っても、自分以外のことは完璧にコントロールすることはまずできません。だからといって、ビクビク被害者でいるのもね。

実際わたしも「いやだな〜。風邪うつったらどうしよう」と思っていると、ただちにもらってしまったものです。「ノロウィルスから回復しました」とおっしゃっているクライエントからも、しっかりともれなくいただきました。

いいえ、これはもらったのではなくって、私が私のためにつくったのです。つまり、自作自演!

なぜなら、「私以外は、誰ひとりとして私に影響を及ぼすことはできない」のです(ほんとうは被害者なんて、誰にもなれっこないのです)。

そして、「怖れるものは、もれなく確実にやってくる」ということ。

かつて風邪をひきやすかった私は(毎冬、ひいてました)、あるときハタと「私ってもしかすると、けっこう被害者チックなのかも・・・」と思い当たり、自分の考えを調べてみました。

というのは、そもそも私たちは身体ではなく、エネルギー体。そしてふだん自分自身がどんな存在か、まったく記憶喪失者のごとく忘れているのですが、じつはそのエネルギーとしての自分は宇宙にも入りきらないほどの広大さがある存在です。なぜなら、私たちはみんな創造の源とひとつだから。宇宙をつくったものは、宇宙よりも当然大きいのですよね。

それがどうしちゃったことか、何の間違いか、ひとの目にも見えないほどのちっぽけな細菌に怯え、あっというまに征服されるなんて・・・ど〜ゆうこと? それって、ゾウさんとムシの戦いよりも話しにならないものです。宇宙以上の存在と菌なんてね。

私たちの体験はすべて、「わたしたちが世界をどのように見るか」にかかっています。自分の見ようとしているものしか見ることができません。

怖れの目を通してみれば、自分を攻撃し迫害し、死にいたらしめるものがうようよしているように見えて、戦々恐々として、日々守り、戦わねばなりません。

もし安らぎ(愛)という目を通してみれば、じつはそこには何の戦いもなく、されば怖れるものも、自分の身を守らなければならないものも存在しない、平和な世界が広がって自分が安らいでいるのがわかるのです。

見たいものを見せてもらえる自由があるのが、この世界です。

ついつい自分の広大さを忘れてしまうと、自分のことを細菌よりもちっちゃくて、ちっぽけで、すぐさま破壊されてしまうようなはかない存在だと勘違いしてしまいます。勘違いからは勘違いな体験がもれなくやってきて、その思いこみから、どんな小さなものにもこてんぱんにされてしまう自分という自己イメージをでっちあげ、さらに自分が小さくなり恐ろしものだらけになり・・・延々と悪循環におちいります。

なんだ! 宇宙以上のもの(私)と細菌(風邪)の戦いか〜。勝敗は見えている。 ・・・と冷静に考えるようになってから、去年も今年も風邪をひかなくなりましたよ〜。ちょっとだけ、被害者を脱したみたいです(いやいや、まだまだ無意識でいろいろやってますがな ・・・苦笑)。

 

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15-03-26 アトピーやじん麻疹、すべて心の問題

春先になったせいでしょうか? じん麻疹やアトピーのご相談がふえてきました。 ・・・といっても、ここは皮膚科のお医者さんではありません。こころのセラピーをするところ。

繰りかえされるじん麻疹や消えないアトピーというしつこい皮膚トラブルに対して、飲み薬や軟膏、○○療法などの外から何かすることでは解決にはならないということがだんだん理解されてきているようです。そうなのです。わたしたちが経験することで、「こころ」が原因になっていないものなど、なにひとつ存在しません。

皮膚トラブルをもつクライエントさんのカウンセリングをしていて、共通点に気がついてきました。

それは、みなさまとても「よい方」なのです。人あたりがよくて、頑張り屋さん。だからこそ、人と争いたくないので自分の「感情をのみこみ」がち。

「それはちがうでしょ」と理不尽さに腹がたっても、すごくイヤなことがあって落ち込んでも、すぐに気持ちを切りかえて「ハイ!もう大丈夫!全然わすれちゃったよ。立ち直りの早いわたし」とまったくこだわらずさっぱりした明るい人に見えます。(そう、タフに見える人ほどじつはデリケートだから、さっさといやなことはなかったことにしたいのです。でもぜんぜん大丈夫じゃないのです。ほんとうのところは。)

いっけんこだわらないように見える人は、お酒の力を飲んで気分を変えたり、友人にちょっとばかりグチってすっきりしたような気になったり、ゲームをしたり映画を見たり趣味に注意を向けて気をはらしたり。まあ、世にいわれている「気分転換でもしてきなさい!」なのですが、いずれにしても「解決した」というよりは「押し入れにつめこんで」見えなくしたから、ハイ、部屋はきれいになったよ〜!メデタシ、メデタシという感じです。 ・・・でも、遅かれ早かれ、押し入れの扉がふっとび、なかに隠しもっていたものが爆発的にあらわになるときがやってきます。

いままで何回もブログのなかで書いてきましたが、感情は飲みこんでも、無視しても、なかったことにしても、なくなりません。しっかりと受けとめて、味わって、経験してあげたときに、すべてきれいに跡かたもなくなくなり、未来にも影響を与えなくなります。感情は感じたが勝ち!なのです。

その押し入れの扉がついにふっとんですべてがぶちまけられるとき、だからといってそのむかし理不尽に扱われた相手につかみかかるわけではありません。もうちょっとひかえめな(腰がひけた?)表現方法。

・・・ それが皮膚トラブル。まさかおデコに「○○さん、わたしは怒っているんだぞ〜!」というテロップを流すわけにもいかないので、まるで怒って攻撃しているカメレオンやトカゲのように皮膚の色や状態を変えることを「武器」にして、攻撃をしかけているわけです。

もちろんご本人、これを意識的にやっているわけではありません。まあ、わたしたちの行動のほとんどすべては無意識です。だから、この皮膚をつかって抗議するという策も、もちろん無意識でやっています。しかし、残念ながらあまり功を奏していません。

ちゃんと理性的になっていたら、こんな相手には抗議とも受けとられず無視され、苦しむのはそれをやってる自分だけの方法なんて、とてもじゃないけれどやっていられません。でもここで大切なのは、「こんなにかわいそうなわたしを見てちょうだい!」「こんなひどいことになっています!」なのです。そして無言のうちに「あなたが気づいて反省するまで、わたしはこれをやめません」と。

しつこい蕁麻疹やアトピーでいちばんこころを痛められるのは、ご本人以上にその方のご両親です。そして、そのご本人が「忘れてくれるなよ!」と思ってメッセージを送っているのも、じつはご両親に対してのことが多いようです。

傷つけた相手に抗議するだけでなく、その傷ついた本人は「もう二度とこんなふうには傷つきたくない」とこころに決めています。皮膚トラブルは人との問題が起きて再び傷つかないように、まさに人との距離をとる方法なのです。痛いから触れてくれるな!、近よってきて見ないで!・・・ 深い意識は自分を守ろうと、危険なもの(つまり傷つけるだろう人たち)は近づけないようにしています。まるでヤマアラシのトゲトゲ状態。でも、ヤマアタシのジレンマといいますが、ヤマアラシは孤独なのです。自分のことはまんまと守れたけど、その代償に人とつながる、親密感を持つことを犠牲にしています。

傷つけられたことへの怒りを持ち続けるリスクは、冷静になってみるとぜんぜんわりにあわないことがわかります。知らないうちに、孤立感だけでなく、人生の自由も失ってしまったりしするのです。

そもそもの傷ついたむかしの記憶をたとってみると、だいたいそんなにたいしたことではありません。たいてい子供時代、それも幼児の頃の出来事です。そのぐらいのこどもは、ものごとの全体を見ることができないし、起っていることにたいして説明してくれる人がいないので、出来事が実際よりもシリアスにとらえられているし、また誤ったものの見方で解釈されているものです。

だからイメージのなかでもういちどその場面にもどって、現在の大人の自分がその困っている小さな自分を助けて、導いてあげて、それを正しく再体験させてあげることによって、そこからの人生の展開が大きくかわってきます。ようやく、トゲとしての皮膚トラブルをひっこめる決心をすることができるのです。

わたしたちが現在目のまえに抱えている問題(身体のことであろうと、他の人がかかわることであろうと)、それらはみんな「今」のことが原因というよりは、もっともっとむかしに培われた「幼い自分のものの見方」が、あらゆるバージョンで形をかえて人生の問題としてあらわれているだけなのです。ですから、目のまえにあることを一生懸命いじくっても、じつはほんとうの解決にはなりません。

じん麻疹やアトピーも、まずは「怒ってるんだぞ!!」と叫んでいる自分のなかの癒されていない小さなこどもに気ついてあげて、その子の声をちゃんとききとってあげることによって、その問題も解決できるし、またほんとうの自分自身に対する自信もともに手に入るものなのです。

 

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15-04-13 DVD鑑賞とモグラたたきな人生

映画にしてもDVDにしても、どっぷり感情移入ができて、ドラマにはまりこめる作品ほど楽しめるものはありません。ドキドキ、ハラハラ、まるで違う人生をもうひとつ生きたような気になれる。だからみんな、映画が大好き。

でもこれも度をこしたら、バーチャルとホンモノの区別がつかなくなり、架空のドラマのなかに生きている困った妄想癖のある人になってしまいます。

そして「その困った人こそがあなたです!」・・・ といわれたら びっくりしますか?

どうやらわたしたちも、この人生ドラマというDVDにどっぷりと感情移入して夢中になりすぎているうちに、ほんとは自分が誰だったのか、ほんとはどこにいるのかさえわからなくなってしまったようです ・・・(大汗)。

つまり、DVDを鑑賞していた自分はどこへやら、ストーリーのなかの人物と一心同体。ワクワク、スリルがあったはずのドラマ展開も、楽しんでいる余裕などなくなり ・・・。今や、このドラマのなかでサバイバルすることこそが最重要課題、唯一の問題なのですから。

でもいま観てるDVDは、すでに脚本が書かれているし、そのとおりに演じられているし、わたしたちはだまって観ていることしかできないはずなのに・・・ドラマの渦中にいると勘違いしてしまったわたしたちは、このドラマの筋書きをなんとか自分好みにコントロールしようと必死にいどみかかっています。(映画の筋書きは変えられませ〜ん!)

どんな努力をしてもなぜか水のあわ、結果がでません。筋書きを変えようとあせればあせるほど、どんどんホラーの様相を呈してきます。(あらら、ポップコーンを食べながら余裕で楽しめるはずだったはずなのに、おかしいですね〜。)

ここでできるひとつのことは、ただちに「スクリーンのまえの椅子」に戻ってくること、それだけです。

じつはセラピーでできること、していることは、まさにこれ! なのです。

ストーリーにのみこまれてホンロウされている状態から、その外側、眺めている冷静な自分に戻ってくること。

そして「すでに脚本がきまっていることに抵抗しても、何も変えられないんだ」と気づき、「このDVDは好きじゃないわ。あまりハッピーなストーリーじゃないもの。他のディスクを選ぼう」、あるいは「もうDVD鑑賞はあきたわ!や〜めた!」ということもできるのです。

わたしたちが見ているものを何でもリアルに感じることができるのは、ひとつの才能でもあるけれど、でもそれが自分を脅かしているのであれば、それに気づかなければなりません。オロオロとただ感じることから、もっと客観的になることもできるし、さらに自分が何を観るのかを決めるという選択肢もあるということなのです。

人生にはいろ〜〜んな問題が、モグラたたきのように次から次。これに騙されて、ひとつひとつのモグラに対処しようとすると、より混乱することになるし、果てしない問題にぐったりと疲れはてます。

モグラたたきというゲームじたいから降りることだって選んでもいいのす。「このゲームはもうつまらない。だってぜったい終わらないんだもん。もうその手にはひっかからないぞ。それに、このマシーンで遊ぶほどもう子どもじゃないよ!」といいう具合にね! (^_^)v

 

 

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15-04-29 セラピーって、ナゾとき

セラピストって、探偵か刑事さんのようなのです。

なぜなら、表面にみえている「これこそ問題でしょ!」というものが、その本当の原因になっていることはないので、みかけの問題にだまされることなく捜査(セラピー)を行います。

たとえそれが、人間関係にはじまって、病気や金銭、自己価値・・・などさまざまな問題のオンパレードでいったいどこから手をつけたらいいの?という場合でも、決して見えているものにだまされちゃいけないのです。原因はシンプルにひとつ。表面にあらわれているものをちまちまと片づけようとしても、一生解決をみないことになってしまいます。

じつは、わたしたちのココロのなかには二人の自分がいて、一人は愛にみちた自己、そしてもう一方はおそろしくイジワルで破壊的な自己(エゴ)なのです。そのイジワルな自己は過激な一面があって、わたしたちにまさに幸せがやってこようとすると、「なにがあってもおまえを幸せになんかしてやるものか!失敗させてやる、破滅させてやる。ボロボロになって死んでしまえ〜!」と邪魔をはじめます。

そのイジワルな自己であるエゴが、問題の本当の原因がバレないように、さまざまなかたちで問題をでっちあげて、捜査(セラピー)をかく乱してぜったい解決できないようにもくろんでいます。「ほ〜ら、こんなにたくさん問題があったら、どっから手をつけていいかわからないだろ〜が・・・」と。そのうえ、誰かほかの人のせいにすることで自分を被害者にでっちあげ、人を責め続けることで本当の解決策である自分自身に決して注意を向けないようにしています。

だから見えているままに問題をひとつひとつ解決しようとすると、「ひとつがひっこむと他がでっぱる」というモグラたたきゲームがえんえんとくりかえされることになります。まさに、Never ending story!

じゃあ、ほんとうの問題ってどこにあるのでしょう?

セラピーをしながら人の意識の深いところを探ると、とてつもない深い穴のようなものに出くわします。

こころのなかにポッカリと口をあけた、真っ黒なブラックホールのような巨大な空(くう)。その空は怖れそのもので、「わたしは宇宙のみなし子だ。誰もわたしを見むきもしない。助けなどこないから、ひとりですべてを解決してゆかなければならない。怖い!」という深い孤独と絶望感をいだいています。

その穴はあまりにも真っ暗で深くて恐ろしすぎるので、わたしたちは回遊魚のようになります。自分の気持ちと向きあわないですむように、そんな穴があるなんて気づかないように、「ぜったい止まっちゃダメ!動き続けるのだ!」と自分を忙しくします。必死でスケジュールをうめつくし、あれやこれやで忙しく動き回ります。「立ち止まったら、静かにしてしまったら、何か恐ろしいものに向き合ってしまうかもしれない」と、何もしないではいられないし、ひとりではいられなくなります。

そして、何がなんだかわからないうちに人生が終わっちゃう。・・・けれど、まだ解決しない問題をかかえながらふたたび新たな人生をスタートするはめになってしまいます。

セラピーは、そのいっけん恐ろしくみえる虚空の探検に出かけます。

本当にそれは底なしの穴なのか、中にはなにかあるのか、じっさい恐ろしいものなのか・・・・。

そこに光をもってきて調べてるのです。すると・・・ ん?ん?ん?

わたしたちが感じる怖れというものは、頭のなかででっちあげられたものなので、たいてい「ほんとうにコワイ」ものにちゃんと向きあってみると「な〜んだ!ぜんぜんこわくなかった!」ということになります。ちゃんと見られていないことこそ、怖れの原因なのです。見ていないことこそが怖いのです。

だから、ちゃんと底なしのような穴に向かいあってみると、じつは穴はどこへやら・・・怖いものよりも、ステキなものが見つかってしまいます。つまり、自分の中のお宝をみつけることになります。

何によってでもぜったいうめることのできなかった自分の中の欠乏感を終わりにしてくれる、力強い安らぎや愛や平和というものが見つかるのです。それは、刺激のある生活のなかでは、あまり大切だと思ってこなかったものかもしれません。でもいざ、それが自分を満たしはじめると、その感覚はほかのどんなものとも代用がきかないことに気がつくし、自分のまわりに勃発していたさまざまな問題を終結にむかわせてくれることがわかるのです。

わたしたちの幸せを望まないエゴが見つけてほしくなかったのは、まさにコレ!問題をたくさん並べることで、決して自分の内側の宝には気づいてほしくなかったのです。

結局、問題とは「手に入らないものを手に入らないところで見つけるようにと、誤摩化されていた」ということにまります。形のあるものでは埋めることのできないココロの飢餓感は、さまざまな形の問題として姿をあらわします。しかし、それは自分の外で解決されることは決してありません。自分自身のココロとむきあって、すでにそこにある答えを手にするしかありません。

だから、探偵や刑事さんのごとくセラピーという捜査を続けていくと、エゴの作り出していたさまざまトリックをあばきつつも、じつは恐ろしいものは何もなかった、それよりも自分の中に隠されていたあらゆることの解決策を見つけることになるのです。

イジワルなエゴが見つけてほしくなかったものこそ、この自分のなかの宝なのですね!

 

 

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15-05-16 3分しか続かないウルトラマンレベルの怒り

精神分裂か、はたまた多重人格か、そんな疑いをかけられそうなわたし。

だってさっきまで烈火のごとく怒っていたのに、つぎの瞬間、まったく何ごともなかったようににこにこしてて、友好的な態度になっているから。

心をゆるせる間柄だからこそ、お互いわがままやいらぬ感情がむき出しになったりするものですよね。でも最悪なほど言いあいになったとしても、その感情が3分もたないのです。

急にバカらしくなっちゃうのです・・・。争っていることが。(^^ゞ

でも、相手は急変するわたしに何が起っているのかわからないので、この急転直下の変貌ぶりにたじろぎます。(そりゃそうだ!苦笑)

怒りにしても、怖れなどのネガティブな感情にしても、それが外側からやってきて自分を脅かしていると思っているうちは、ほんとうの意味で克服するのはむずかしいものです。

だって、それはたしかに成されたし、そうであったと思うから。そして「わたしは外からやってくるものの被害者だ」と思うからこそ腹がたつし、どうにもできないことに怯えるのです。

幼少のころから、「自分の目にするものは、自分の外の世界にある」とうことを徹底的にたたきこまれているわたしたちは、今までに誰も「それはちがいますよ!」「あなたは自分の心のなかのイメージしか目にできないのです。目にしているものは存在していません。たんなる自分の信念であり、心のイメージです。もし目にしているものをまに受けたとしたら、あなたは世界に対して怯えつづける小さな存在になってしまいますよ」なんて教えてくれなかったし。

今でも、きっと誰もそんなことを教えてくれる人はいないから、わたしたちはいつまでも「目に見えているものに反応しつづけ、それによって感情や人生が左右されてしまい、またそれが外側に見えて、さらに怯える」という悪循環におちいります。

でも、これはたんに不思議なことを言っているわけではなく、まったく本当のこと。今の超心理学は量子物理学と重なってきていますが、どちらも「世界は存在すらせず、意識のなかに住むわたしたち」を解いているのです。そして覚醒した人が言うのも、まったく同じこと。

だから、セラピーをしていてもしっかりと結果を手にできるのは、「どこまで新しい考え方に心を開けるか」ということがとても重要になってきます。

そして、さらにもうひとつ需要なのは、「被害者ゲームを本当にやめたいと思っているのか」ということ。

例えば自分の近し人(家族やパートナー)とケンカをしたとき、ずっと腹をたてて被害者のふりをしていたいと思うことがあります。おヘソを曲げている時間が長ければ、相手に「あなたが決定的に悪いのだ」と罪悪感を感じさせられるし、反省もうながすことができると思っているから。

でも、これをやっちゃうと、わたしたちは無意識のうちで自分を責めるようになります。自分はちゃんとわかっているのです。これがフェアじゃないことを。だからこんな被害者になって相手を責める手を使うと、自分で自分を無意識のうちに罰するようになります。すると、ものごとがうまく運ばないように自分の意識が妨害をしたり、アクシデントや病気さえも起こしたりしてしまいます。

わたしも最近、「こりゃ、どうみたって、あなたが理不尽でしょ!」という場面に出くわしました。相手を謝らせたい、反省させたい気持ちでいっぱい。そんなときに、被害者であることを手放して「すべてはわたしでございました。わたしの心の中のイメージだけを見ていたのです。わたしがつくりました。」というのは、なんとなんと苦しいことか。

でもそんなときこそ、「自分が目にしていることは事実ではなくって、自分の潜在意識の中の影絵であり、それを外にばらまきたいんだ」、そして「相手をまんまと悪者にして、自分がいい子のふりをすることで優越感を感じたいとエゴが叫んでいるんだ。でもそれをしてしまったら、自分を罰することになり、自分の人生にデコボコをふやすだけなんだ」といいきかせ、なんとかのりきるのでした。(ときには、クールダウンするのに時間がかかることもありますが、でも自分で責任をとろうとする態度こそ大切なのですね。)

この考え方をすると、さっきまで火山爆発のように怒っていたのがスっと沈静化します。自分の人生ハードにしたくないからね(笑)。

そして、なにごともなかったように相手にやさしくすると、こんな心のやりとりが起っていたと知らない相手は面食らうようです。この人、多重人格か情緒不安定なのではないか・・・そんな疑いをかけられながらも、でも3分しか続かない怒りは、結局は自分を穏やかにして安らぎを与えてくれるのです。 (^o^)v

 

 

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15-06-22 いま、何パーセントしあわせですか?

「なんか楽しめないんだよね・・・」  こんなセリフをよく聞きます。

あるいは、「楽しんじゃいけない気がするんです」。

ずっと夢みていた異国の地をついに旅しているときも、ようやくとれた休暇でやってきた南の島でねそべっているときも・・・そこはかとなくまとわりつく、不安感、罪悪感、違和感・怖れ・・・ こんなところでこんなことをしていていいのだろうか、何か間違っていないのだろうか・・・と。

楽しんでいるときにそんなふうに感じる人は、あんがい多いものです。

ずいぶん前のこと、夏に4週間ほどバリ島ですごしたものですが、海辺のコテージに泊まり、マリンスポーツを楽しみ、川ではラフティングをし、朝日を求めて山を登り、夜はバリダンスを楽しみ・・・そんなパラダイスな日々でも、お仲間に「今、何パーセントぐらい楽しんでいる?」と尋ねると、ナント45% とか、よくても 65%  とか 70% ぐらいだったのです。そういうわたしだって、手放しで100% なんてとても楽しめてなかったものです。

これはセラピーでも起ることで、今まで年がら年じゅう調子が悪くてウツっぽかった人がだんだん幸せな気分になってくると、「何かおかしいぞ」と不安になってくるのです。落ちつかない。

わたしたちの身体に恒常性があるように(体温、自律神経、体調をつねに一定に保つ働き)、じつはこころにも恒常性、つまり慣れた状態に保っておこうとする働きがあります。なのでウツっぽい状態が長く続いていると、それがその人にとってはふつうの状態になるために、よい気分になるとこころが危険信号を発してストップさせようとします。「そんなよい気分はおかしいのだ!もとに戻れ!」と。

どうやら、パラダイスな休暇もたまにしかやっってこないので、この恒常性を保つシステムがアラームを鳴らして、いやな気分になるのかもしれません。

それだけ、わたしたちにとっては窮屈な状態が「ふつう」になってしまっているのか?!

真にこころから解放されて、みじんの不安も怖れもネガティブさもなく、どこまでもつづく真っ青な大空のように開放感を味わったことがあるでしょうか?こころおきなく、なんのてらいもなく、自分を思い切り表現したことがあるでしょうか?

でも、すべては「慣れ」なのだと思います。わたしたちは「幸せです」といいながらも、かなりベールのかかった精神状態にいます。こどものときに、ふざけて母のストッキングをかぶったことがありました。よく見えない世界。・・・きっと本当にクリアな喜びのある幸せな世界に比べたら、わたしたちの「幸せです」はかなりストッキング状態に近いのかもしれません。

そんなそこはかとないウツな状態、ネガティブが漂う状態に慣れてしまっているなら、恒常性のアラームが鳴らないようにだましだまし変えていくこと。こころから楽しむことを少しづつ習慣にすること、自分をこころおきなく解放することをゆるしてあげること。

何がわたしを縛っているのでしょうか?

それは神様でもないし、宇宙でもないし・・・むしろ、神様も宇宙も、その完璧さから創造されたわたしたちに完璧さ、喜び、幸せをじゅうぶんに堪能してほしいと願っています。

それを許さないのが「自分の頭」「自分の思考」。

南の島で楽しんでいるときでも、見ているのは真っ青な空でもなく、エメラルドグリーンの海でもなく・・・見つめているのは、まだ来ていない未来だったりします。「こんなにお金使っちゃって大丈夫だろうか?」「この先どうなるの?」「戻ったら仕事を探さなくちゃ。すぐにないかもしれない」・・・せっかく楽しい経験をしていても、こころはいつも架空の不安のなかをさまよっています。まだ起ってもいないし、起るのかもわからないでっちあげの不安のなかで、まえもってしっかりと苦しんでいるのです。

「幸せは、いつかやってくるだろう」

残念ながらやってこないのです。

幸せは、今、たった今、自分が自分で自分を幸せにしてあげること。そうやって、今幸せであることで、幸せのレンズをとおして幸せが目の前に広がる様子が見えるようになるものです。

だから、たった今、自分から幸せになってみる。自分を幸せにしてあげる、幸せでいようとする・・・これが大切なのだと思います。

いつも自分に少しづつ幸せをあげていると、不幸の恒常性アラームが突然鳴りひびくこともなく、気がついたら幸せな人になっていられるのだと思います。

ちっちゃなことから、幸せでいましょうね♡ 何を自分にプレゼントしてあげましょうね?

 

 

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15-07-02 トビラがひらく魔法のことば

梅雨まっさかりです。

ひんやりしているようで、寝苦しい。そんな心地悪さから、先日、明け方に長い夢を見ました。もちろんハッピーとはほど遠い夢。あまりにリアルで、目が覚めてからしばらくのあいだ夢のダメージから抜けられず「この事態をどうしよう・・・」と考えてしまったほどです。

しっかり目が覚めてしまえば、その滑稽さ、つじつまの合わなさにただ笑ってしまうだけなのですが・・・ (>_<) 。

その夢のなかでは、わたしの大好きな信頼している人がありえないほど酷くイジワルで怖かった。

なぜにあんなにいい人をこんなにも悪者にしちゃったのか・・・ごめんなさいね〜! という気持ち。

そうです、夢にでてくる人はすべて自分そのもの。自分の隠しもっている感情や無意識に信じていることを見せてくれます。だから、あの人のイジワルさは、まさに自分のイジワルさであり怒りであり、凶暴性、攻撃性のあらわれ。わたしたちは自分のなかで持ちきれなくなった気持ちや思考を、夢のなかで表現してカタをつけようとします。誰かを悪者にして、自分は悪くないと安心したいのです。

自分のなかに「汚物」を抱えているのはなんとも気持ち悪い。だから誰かほかの人のせいにして、自分のネガティブさのすべてを被せて演じさせちゃう。そして自分はちんまりと可哀想な被害者でいようとします。でもほんとうは、凶暴なのはあくまでも自分の思考であって、まあ、自分でもわからないように自分で自分に噛みついているようなものです・・・。

じつは、この自分のなかのゴミ捨て作業は夢のなかだけで秘密裏に行われているわけではありません。日常生活、現実と思えるところでも、まったく同じことを行っているのです

日常生活で登場する自分にとっての悪者は、もれなく自分の影であり、この世の理不尽さ、残酷さ、はかなさも、すべて見たくないと思っている自分の感情と思考を外側にぶちまけたもの。だから、ここも結局は夢のなかと同じ世界、自分がでっちあげている白昼夢の世界なのです。

夢も、そしてこの現実といえる夢も、自分の心のゴミ捨て場となっています。自分の心のなかで、持ちきれなくなったものを捨てることによってできあがってしまった世界。(イメージ・思考を投影した世界。)

なんということか、そのゴミ捨て場のなかに自分は住みついています(まあ、そうですよね。心の中のいらないものを外に捨てても、結局は自分が目にするのはそれしかありません)。ゴミ屋敷の住人のように、わたしたちは自分の捨てたものやその汚さに気づきもしないのです。

最近、自分にとって大切なひととケンカをしました。二十数年の関係のなかで、もっともシリアスなケンカ。

「あれ、この人、こんなにシンラツな人だった? こんな残酷だった?こんな傷つけるようなセリフ言うなんてどうしちゃったの?」と思ったけど・・・。

まてまて、シンラツなのは誰だ?残酷なのは誰?傷つけているのは誰?・・・ ここも、夢のなかと同じ、自分の思考の世界。ここでもわたしは自分の凶暴性に出会ってしまいました。そして、ほんとうは愛情いっぱいで穏やかな人に、すごい悪役を演じさせているし・・・。ここでも「こんなヒドイ人にでっちあげてゴメンナサイ」なのです。

ところで、死んじゃって、あちらの世界に行って「あ〜、やっとヘンな現実をいう白昼夢の世界から脱出した」と思うかもしれません。でも、夢の世界は入れ子状態、マトリョーシカのようになっています。じつは、まだ夢は続きます。眠ってみる夢、起きてみている夢、死んじゃったと思っている夢、そして生まれかわる夢・・・。

いったいどこに終わりがあるのでしょう。このメビウスの環に出口があるのでしょうか?

「この世界、ヘんなことばっかり起る。スピリットのはずのわたしたちは身体という容れものの調子が悪くなるのを見るし、愛情いっぱいの人がキレはじめたり、愛が成就したと思ったら死んじゃったり、これ以上の幸せはないと思ったとたんにありえない不幸が襲ってきたり・・・。これはほんとじゃない。こんな世界おかしいぞ!(怒)本当のことが知りたい!」・・・それがほんとうにお腹の底からの叫びになったときに、ポロリと手のなかに見たことのないカギが落ちてきます。このメビウスの環のなかにある隠し扉、脱出口のカギ。

でもこのカギが手のひらに落ちてくるには、こころの底からの正直な叫びが必要な気がします。

わたしたちは、自分の気持ちを誤摩化しているうちはなかなかこの白昼夢のような世界のおかしさに気づかないし(そう、みんな自分をなだめなだめ生きています。「そんなにここは悪いところじゃないよね!」って(まあ、そうでもいっていないとやっていられないとこでもあります)。でも、心の深いところでは、みんなじつは疲れ果てているし、絶望しているし、神さまにに対して怒ってる。

その気持ちを正直に認めて、「これはおかしいよ!これってほんと? 真実を知りたい!」と心から思ったときに、ちゃんと宇宙はそれに答えてくれるのです。

夢のなかで、信頼する人が残酷だった。・・・ あ〜、夢でよかった!
白昼夢のなかで、大切な人が怒りまくって攻撃してきた。・・・ お〜、これも夢だったか!

「これはわたしの心のなかの間違った思いからつくりだしたイメージであって、ほんものなんかじゃない、わたしはほんとうのことを見たいんだ!」

そう決めると、宇宙はその声にかならず答えてくれるし、はかりしれないパワーのある自分の心もそれに従って違うものを見せはじめます。

目のまえのホラーにくさらずに、ひとつひとつのことを間違ったイメージをキャンセルするチャンスにしていくこと。「これほんとうじゃない、わたしが見たいのはこれじゃない」・・・ これこそ、悪夢から脱出する魔法のことば、新しいトビラがひらくことば。

「わたしが見たいのは、愛であり平和であり、喜びであり光です。なぜなら、わたしこそが愛だから」と!

わたしたちの自由意志を尊重してくれている宇宙は、このひとことこそを待っているのです。「そうです!幸せを選んでくださいね ♡ あなたは幸せになる権利があるのです。そして幸せはすでに用意されています。あなたはあなたが選んだものを見るのです」と! 

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15-07-10 こころのストレス度診断 〜Part 1 〜

考え方のクセで、おもわぬ心のエネルギーを浪費しているかもしれません。
あなたは、いくつあてはまりますか?

□ 1. モノやひとに対して、すぐコメント、価値判断したくなる

□ 2. 推理や妄想が、先走りがち

□ 3, いつも何か考えている

□ 4. 人生は計画や目標が大切だ

□ 5. 状況をコントロールしたい、主導権を握りたい

□ 6. 「こうするべきだ」「〜しなければ」と考えがち

□ 7. 幸せになるには、苦労や努力が必要だ

□ 8. そういう星の下に生まれた

□ 9. なにかあると自分を責めがちだ

□ 10. まだ許せない人がいる

□ 11. 自分の気持ちを感じるのが苦手

□ 12. スケジュールがカラになると不安だ


【診断】

6つ以上の方は、知らぬうちに心がお疲れモードになり、いらぬエネルギーを浪費しているかもしれません。ほんとうに使いたいところにエネルギーが注げなくなっているのでは?

それぞれのコメントは・・・。

1. 無意識のうちに、自分の価値や能力を疑っています。自信がないので、ものや人を価値判断、コメントすることで自分が優位に立てると感じます。あるがままの自分を怖れずに受け入れましょう。

2. 「今」この瞬間にいるのが苦手なので、自分のでっちあげたドラマ(思考)の中だけで生きています。しかし、時間は「今ここ」にしかありません。今ここを生きることでしか、自分の本当のパワーを使うことはできません。またドラマの中で生きることで、被害者のポジションを好むことになります。

3. 現実を怖れて拒否しています。現実から逃げるといつも空虚で、決して心からの充実感を感じることはありません。深呼吸をして、「今」に戻ってきましょう。

4. 自分で人生の舵をとりたいとあせっています。無意識のうちに「先手をとらないとやられてしまう」と信じているからです。しかし、充実した未来を手にするには、しっかりと「今」ここに意識を向けることが大切です。その瞬間には、その瞬間に必要なものは与えられますが、受けとるためには「今」にいる必要があります。先のことは手放して、この瞬間にすべてのエネルギーを注ぎましょう。

5. ほっておいたら不利になる、攻撃される・・・という怖れがあります。力をぬいて委ねたときに、人生の流れは自分とって完璧になります。自分を包みこんでいる完璧な宇宙の流れにお任せする、という信頼の気持ちを大切にしましょう。

6. あるがまま」に抵抗しています。しかし、「あるがまま」の現実に抵抗すると、必ず敗北します。なぜなら、すべては「あるがまま」でしかないからです。戦うよりも、自分を包みこんでいる流れに任せましょう。

1〜6はすべて、「あるがまま」に対する抵抗です。あるがままの自分、あるがままの今、あるがままの状況。「あるがまま」にしておくとひどいことになる、という怖れの信念から、必死でコントロールを試みます。しかし、すべてをつくりだしているのは「心」であって、「心」が原因なので、目に見えるものを必死でコントロールしようとしてもエネルギーが枯渇し、敗北感がつのります。

「あるがまま」にできない「怖れ」こそ、取り組むべきものです。

「いったい何を怖れているのか」という自分の心のなかにある真の「原因」を明らかにして、それが本当のことなのかを問うことが大切です。怖れを本当に正面から見つめると、たいてい間違ったものの見方が明らかになります。その思いこみは真実ではありません。

何を怖れているのか、明らかにしてみましょう!

7以降のコメントは次回にて♪

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15-07-14 こころのストレス度診断 〜Part 2 〜

(Part 1 はこちらから)

さてさて、考え方のクセですが、そのクセによって、自分で自分を縛ってしまい、息苦しくしていることがあります。でも、その考えじたいを自分で疑ってみるまで、その不合理さになかなか気づけないものです。

では、7番からをみてみましょう。

□ 7. 幸せになるには、苦労や努力が必要だ

□ 8. そういう星の下に生まれた

□ 9. なにかあると自分を責めがちだ

□ 10. まだ許せない人がいる

□ 11. 自分の気持ちを感じるのが苦手

□ 12. スケジュールがカラになると不安だ

【診断】

7. 自分が「今、幸せを選択していない」言い訳です。幸せというものは、いつかやってくるように感じてしまいがちですが、じつはそれはこころのトリック
です。「いつか」はなく、「今」だけがあるのを知らなくてはなりません。だから、潔く、今、この瞬間に「いい気分」を選択してみること。すすんで、「怖
れ」よりも「愛」を選択しましょう。「自分は生まれつき、幸せになる権利がある」ということを認めて受け入れましょう。

8. こちらも 7と同様、自分の価値を認めない言い訳です。このひとことを言ってしまえばカタがついたように感じて、自分の気持ちを納得させることができるように感じられるのです。でも幸せは、まず「幸せになる意志」のあるところにやってきます。

9. どこかで「自分は申し訳ない存在だ」と勘違いして自分を責めているようです。これこそ「虐待」です。テレビで報道されている虐待を云々するまえに、
まず自分への虐待をやめなければなりません。他人に優しく接するように、まず自分自身に対して優しくしてあげましょう。そうしたら、きっと人への過度な要
求もへり、人生がもっと穏やかに感じられることでしょう。

10. 自分で責任をとるよりも、被害者でいたいと感じているようです。相手を許さないメリットとは何でしょう?それは、相手をずっと「悪者」にしておけ
ることです。では、なぜ相手を「悪者」にしておく必要があるのでしょう?それは無意識のうちに「自分は悪い」「価値がない」と信じているので、なんとか
「悪者」をつくっておいて、その罪悪感から逃れようとするからです。あなたはなにも悪くありません。最初から、素直に愛をたっぷり受けとっていい存在で
す。被害者をやめることで、あなたから「愛」が循環しはじめ、もっともっと「愛」を感じられるようになります。

11. なにを怖がっているのでしょう?感じてしまったら大変なことになりますか?あるいは、なにも感じていないフリをしますか?感じるのが苦手なとき、
わたしたちは自分の気持ちとは恐ろしいもの、あるいは空っぽなブラックホールのようなものと勘違いしています。しかし、自分の気持ちを感じることができな
いと、幸せも充実感も感じることはできません。ポジティブな気持ちも、ネガティブな気持ちも、怖れずにそのまま感じてみましょう。感情は感じて流してあげ
るもの。空を流れる雲のように、そのまま消えていきます。

12. 忙しくしていないと、いったいなにが起るというのでしょう?いつも外を見ていないと、静かに自分と向きあっちゃったら大変なことになりますか?な
にを怖れているのでしょう?回遊魚のように立ち止まることなく人生が過ぎてゆき、また新たな人生が始まり、無我夢中でまわり・・・いったいいつになったら
立ち止まるのでしょう?じつは、立ち止まることでしか、この出口のないような環から抜けだすすべがありません。静かに向きあった自分の中からしか「本当の
答え」が聞こえてこないのです。すべてを越えてあなたを幸せにする安らぎは、あなたの中からやってきます。あなたのほんとうの声に耳を傾けられるように、
少し立ち止まって尋ねてみましょう。あなたの内に住む、あなたの最強のガイドと仲良くしましょう。

*正しい思考は安らぎのある世界を見せてくれます。あなたの考え方がすべてです。苦しいとき、何かがうまくいっていないように感じるときは、きっとあなたの考え方が「怖れ」に傾いているとき、正しく考えられていないときです。


*自分の外側ばかりを気にしたり大切にすることで、自分のパワーを外側に与えないようにしましょう。


*あなたを幸せにできるのは「あなた」だけです。あなたのなかには、あなたを幸せに導く「声」がすでにそなわっています。あなたからコミュニケートしなけ
れば、その声は開通しません。静かに自分自身に聞き耳をたてることで、今まで聞いていなかった「声」、あなたのナビゲーションシステムを迎えいれてくださ
い。ただ話しかけ、たずねるだけです。必ず答えがやってきます。誰がくれるよりも正確な答えが!

 

 

(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ヒプノセラピスト・心理カウンセラー

 

15-07-21 「思考」もペットと同じ、しつけましょ!

わたしたちを苦しめる元凶ともいえるのが、じつは「思考」・・・自分の考えです。

外からふりかかってくる問題や過去の出来事が自分を苦しめると信じていますが、まさか自分の考えで自分の首をしめていたとは・・・。

実際に起ったことよりも、そのことに対する自分の意味づけ、自分のなかでくり返されるセリフこそが問題! それが、起ったことを自分にとってどんな体験であったかを決めてしまうのです。

たとえば、こんなことありませんか? あ〜だこ〜だと悩み続けて苦しくて、世界もどんよりと暗く見えたのが、ある考えがひらめいたときから、急に希望を見えたり、落としどころが見つかったり、そして世界までもがパ〜っと明るく感じられるようになったこと。実際、現状はまったく変化していないのに「ものの見方」の変化だけで急に未来が開けます。(カウンセリングでやっているのはこれですね!)

つまり、自分を殺すも生かすも、幸せになるのも闇のなかでいきるのも、結局は自分のチョイス、思考のチョイスだといえます。

っていうことは、思考はあくまでもチョイスするものであって、チョイスするべき「誰か」が存在しているということです。

それこそが「自分自身」。あ〜だこ〜だ考えはじめると、まるでそれが自分自身のように感じられますが、決してあ〜だこ〜だと次から次へとわいてくる思考が自分なのではありません。そんな考えに気づいている存在じたいが「わたし」です。

わたしたちはイジワルな考えを持つと、「なんてヒドイ自分なんだ」と罪悪感をもちますが、じつは自分じゃなかった!!(オメデトウゴザイマス!)

つまり、部屋が自分だとすると、思考ってそこに流れてくる匂いであったり、そこにたまるホコリのようなもの。どこからともなくやってくる不思議な存在です。

だから、そんな実体のない存在と真っ向からむきあってご意見に耳を傾けているうちに、完全に一体化してしまうのは懸命とはいえません。部屋であるわたしが、匂いやホコリにのっとられて、自分を匂いやホコリだと思っている状態。

だから思考も、調教する必要がある、と感じます。まるでワンちゃんを教育するときみたいにね。

悪いことは、無視したり、はっきりとノーということで受け入れない。そして良いことはほめてあげる。のばしてあげる。そうすることで、「思考」よりも上の存在である自分をしっかりと自覚します。

自分の自己評価から過去のことまで、「あのときああだったら、もっとよくなっていたのに」「愛してくれなかったから、わたしはこんなになってしまった」「もっとよい教育をうけていたら、こんな人生ではなかったかもしれない」「あの母親でなかったら」「あの環境でなかったら」・・・。

慢性的なネガティブな考えは、それを野放しにして、そこに注意を注いだがために、わがもの顔でのさばっています。ついには、「わたし」のふりをはじめrのです。

そして、不幸な思考はつきることがありません。なぜなら、わたしたちは基本的に被害者、犠牲者であることが大好きで、できることならそのポジションを手放したくないし、誰かを悪者にしたてて、なんとか自分の面目を保とうと必死なのです。

思考の教育方法もペットと同じ。よくないものは、重要視せずにスルー(無視)して、ぜんぜん相手にもしていないことを示すこと。あるいは、その場その場で、しっかりと正しいもの(感じたい感情や考え)にいちいち置きかえていくこと。

つまり、「今、わたしは〜のように感じているけれど、これはわたしが望むものではありません。わたしは、〜(愛、やさしさ、喜び、平和、楽しさ・・・)を選びます」というように。

最近テレビでもおバカ犬を教育するような番組がありますね。あんな感じで、野放し好き放題にふるまっていた思考を、「きょうからはわたしがご主人さまだ!」というのをちゃんと示して、威厳をもって、すきじゃない思考は無視して見むきもせず、それとともに間違いは指摘して正しい思考というのを教えていってあげなければなりません。

自虐的になっても大丈夫、過去があ〜だこ〜だと気になっても大丈夫、そして未来の心配がはじまっても大丈夫。それらのセリフはちっともほんとうのことではありません。何も自分を証明していません。もう、これ以上だまされるのはやめましょう!

いきあたりばったりのことしか考えられない思考がじたばたしているにすぎません。注意を向けることなく、わたしの部屋から出ていってもらいましょう!

その選択肢がわたしたちにはあるのです。

 

 

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15-07-30 だんなさんはイヌ以下?!

このあたりではよく見かけるバギーにのせられてお散歩するワンちゃんの光景。

奥さんがバギーを押しながら、お洋服を着ておめかしたワンちゃんに話しかけています。そのすこしあとから、だんなさまと見られる男性がトボトボ・・・とついてくる。

かつてはきっと、ワンちゃんのリードをひきながら、ふたり肩をならべて歩いていたでしょうに。今や、ワンちゃんとだんなさんのポジションが完全に入れかわったような・・・。

奥さんの言い分としてはきっと、「愛がなくなったわけじゃないのよ。あの人、なにをしてあげても無反応なの。でもね、この子はいつも機嫌がよくて、シッポをふったり跳びはねたりして全力で喜んでくれるのよね」。

ダンナさんにしたら、「そもそもシッポなんてないし・・・  跳びはねるなんて腰が痛くってもってのほか!」といわれそう。(ハイ、ごもっとも!あなたは犬ではありません!笑)

「愛してあげても、わたしの期待と要求にこたえようとするどころか、感謝すらしてくれないし・・・。それなら今後、愛の供給はストップさせていただきます」・・・そんな奥さんのセリフが聞こえてきそうです。

わたしたちはその関係から自分が欲しいものが手に入っているあいだは「愛」があるように感じています。が・・・ いざ、そこからなにも吸いとれるものがなくなると「愛は冷めた」といわんばかりに、かつて愛していたはずのひとはワンちゃんよりもランクが下になっちゃう。

ワンちゃんのゴハンのほうが先!ワンちゃんの洋服代はだんなさんよりも多い!いつも見つめてもらって、たくさんの愛の言葉もかけてもらえる!

「愛」ってそんなにあったり、なくなったり、あっちに行ったり、こっちにきたりするものでしょうか?

それは「愛」と思っていたものが、じつは「必要性」が「愛」のフリをしていただけでは?!・・・世で俗にいう「愛」(とくに恋愛)とは、「必要性」を「愛」と呼んだもの。だから、この彼氏(夫)から自分の必要性が満たされなくなると、「そろそろ他をあたる時期かしら?」と乗りかえの作業(別れ)がはじまります。(たんに、自分の欲しいものが以前にくらべて手に入らなくなっただけなのですが。)

人はそれぞれ自分の人生を生きていて、自分の人生を生きることこそが人生の目的。だから、相手の必要性を期待どおりに満たせるはずもなく、また相手の必要性を満たすことばかり考えていると自分の欲求がお留守になり、犠牲した感が強まり、相手に対して怒りが湧きあがってきます。(相手に尽くしすぎると、いつかは相手に対して怒りを抱きます。これも「ここまでやったのに、なにもなしか!」という策略したのに思うように手に入らなかったというがっかり感です。)

ハイ! 自分の必要性は自分で満たしましょう! 他に期待したり、依存すると、常に失望か怒りへ行きつきます。

奥さんがだんなさんに「愛の供給はストップさせていただきます」と言おうとも、わたしたちはもともと「愛」の存在。本質は「愛」。だから、「愛」を止めると苦しくなってくるのです。

その結果、どこかにそのたまっていた溢れんばかりの愛を注ぎたい! それこそが、近頃のワンちゃんへの溺愛なのでは?! と思ってしまいます。(外国人が、あのバギーやお衣装を見ると「ウソだろ?!あれはイヌだぜ!」といいます。海外では動物は動物。決して人間と同じレベルにはなれないのですね、)

そう考えると、日本人は人間関係における愛の交流に、なにか問題があるのだろうか? と思わざるをえません。だって、このあたりの朝のオープンカフェはワンちゃんを抱えた人たちが集まってきて、椅子にブランケットをひきワンちゃんが坐りお茶会がはじまります。そんなグループがあちこちに。

もちろんワンちゃんをかわいがるのは問題はないけれど、溺愛はどこか大切な人間関係における愛の欠落を感じてしまうのです。

 

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15-08-09 受けとるレッスン、お姫さま編

セラピーセッションの最初の頃、クライエントさんに「自分で自分を大切にする」という宿題をだします。

自分自身におもてなしをして与える練習をすることで、ついつい外に求めてしまう「気づかいや愛情、思いやり、豊かさ」を自分で自分に与えるということを学び、受けとる習慣をつけるためです。

愛情にしても、物質にしても、何にしても、それらは「外の世界から調達すべきものである」と勘違いしてしまうことが間違いのはじまり。すると、「得ること」=「与えてもらう」ことにエネルギーを注ぎすぎて、卑屈になったり、臆病になったり、装ったりと違う自分になってしまい、本来の自分のよさをのびのび表現できなくなってしまいます。(違うものをつくりだしてしまうと、本来の豊かさの「流れ」からはずれてしまいます。)

すべての起源、生まれ出るところは、じつはただひとつ、「自分のこころ」からでしかありません。それらがたんに外の世界に映しだされて、自分に与えられるように見えるのです。

その「自分を大切にする」宿題は、「まるでお姫さまにおもてなしをするような気持ちで、ご自分にいろいろとやさしく気づかってあげてくださいね」とお話します。

たとえば、自分のうちにどこからかやってきたお姫さまが滞在していたら ・・・ きっと気持ちよく過ごせるように、いろいろと気づかいをしてあげると思うのです。

リラックスできるように、お風呂にはいい香りのバスソルトを入れてあげましょうとか、とっておきのふっかふかのタオルとお客さま用にしまっておいた石けんとか。お茶をいれるカップも、大切にしてたブランドもの。もちろんお茶の入れ方もていねいにおいしく ・・・。自分のためにはしないけれど、きっと特別なお姫さまのためなら、いろいろなおもてなしを思いつくことでしょう。

それを全部、自分に与えてあげます。

わたしたちは、人のためにはたいそうやさしくしてあげるけれど、つい自分のこととなると、キツイひとことをあびせたり、ムチうつような無理をさせたりと、決してやさしいとはいえません。(たまに何かおいしいものをプレゼントしてあげても、次の瞬間には厳しいひとことや皮肉を言い放っていたりします。)

だから、「ほんとうに自分にやさしく接する」「自分を尊重して大切にする」ということを、正しく、習慣的にするのはむづかしかったりします。

クライエントさんのM子さんにも、セラピーセッションの流れのなかで「自分におもてなしをして大切にしましょう」という宿題を出していました。

後日、M子さんがいらしたとき「先生、今おもしろい本を読んでいます」と一冊の本のことを話してくださいました。それは「お姫さまごっこ」をするという本で、M子さんはその本のおかげで「自分を大切にする」ということが体験的によくわかったとおっしゃっていました。

宿題どおりに自分を大切にしようとするとき、じつは今ひとつ「どうしていいのか」わからなかったそうな。

この本では、イメージで自分をお姫さまにしたてて(あるいは自分のなかにお姫さまのイメージをつくって)、そこに執事や王子さまを登場させながら、自分を大切にすることを学ぶという、いわばイメージトレーニング。

姫が執事や王子さまに大切にされ見守られながら、自分の正直な気持ちに気づき、自分の望むことを自分に与えることに躊躇しなくなる・・・つまり、価値のあるものを受けとる力をつけていくのです。

おもしろいのは、自分に対して手厳しくなりがちな「自分の考え」をイジワルな執事に見立てて、その厳しいことを言う執事にはおヒマをだしてしまうのです。

そのかわりに、お姫さま(自分)に忠実で、いつも好意的に励ましたり、気づかったり、やさしく仕えてくれる新しい執事を雇います。(それは自分に対する好意的な自分の声。)

そして、ロマンチックで姫にぞっこんの王子さまも登場させます。(自分をほめて励まし、いいところを見つける自分の声。)

結局は全部の役を自分でやるのですが、自分の気持ちを尊重したり、とことん尽くすのは、自分自身だとなかなかうまくいかないものなのです。が、やさしい執事として自分が自分にしてあげると結構なんでもできちゃうし、自分も姫として受け取りやすくなります。

王子さまだって自分ですから、バッチリとかゆいところに手が届く理想の王子さまとして、歯が浮くような褒め言葉だって口にさせることができるのです。 (^。^;

たとえばこんな感じ。

昨日、わたしはお休みだったのですが、「貴子姫とやさしい執事の休日のひとこま」(笑)。

「姫さま、本日はお休みでございますね。お好きなランチをご用意いたしますが、何がよろしいでしょうか」
「そうね、ほうれん草とチーズのカレーがいいかしら」(じつは、以前から食べたくてレトルトを買ってあったけれど、なかなか食べる機会がなかったもの。)
「かしこまりました。それでは、ナンとグリーンサラダ、ラッシーもご用意いたします」(って、ナンはそれから自力で買いに行きました。ラッシーなんて、ふだんはめったに作らないけれど姫さまのためだから、これも自力で作っちゃいます。ヨーグルトと牛乳と蜂蜜でOK!よし、サラダもだ!・・・とふだんは面倒くさくてやらないレベルのこともやっちゃう。)

(食後)「姫さま、午後はどのように過ごされますか?」
「そうね、お願いしておいたDVDは手に入ったかしら?」
「はい、届いております」(って、それから自力で借りに行きましたが。姫さまのためと思うとやってしまう・苦笑。)
「姫さま、DVDとお茶をお持ちしました」
(お客様用カップにとっておきのお茶葉でお茶をいれ、きれいなトレーにうやうやしくのせる)

・・・という具合で、尽くしてくれる執事がいると、自分に対してはふだんはしないおもてなしや気づかいがいろいろとできるのです。

たしかに、やりながら「何をやっているんだ」とおかしくなるときもあります。でも、たしかに自分に対して丁寧になってくるのがおもしろいのです。

自分を大切にするって、そうそうお金もかからないけれど、やってみるととっても心が豊かに感じられるのに気がつきます。

よく「宇宙はあなたに無条件にすべてのものを与えている」というような言葉を耳にしますが、正直「それって、どこに??」と思ってしまうこともあります。でもこれをしてみると、「確かに、受けとる側に問題があったかも」と気がつきます。「受けとります」と言いつつ、全然、受けとれる態勢になっていないことが多いのです。

つまり、本当に受けとるということは、「受けとってもいい自分の価値」というものをちゃんと認めているということ。それがわかっているからこそ、フルに「受けとれる」し、受けとるべきものに気がつくようになります。

執事や王子さまに尽くしてもらっている姫は、自然と受けとり上手になるのだな〜と思いましたよ。

そして、執事や王子さまが問いかけたり提案してくれたりするおかげで、ついつい単調になりがちな日々の生活に色どりも出てくるのだと感じます。

日々の平和な生活をこころから楽しめることこそ、ほんとうのしあわせ感です。

M子さん、役に立つご本教えてくださってありがとうございました。

こちらのご本です。(Kindle もあります)→ 「1日5分のお姫様ごっこ」幸川玲巳さん著

 

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15-09-17 人生、ほかの筋書きを選ぶには その1

先日、レンタルDVD屋さんでのこと。

パッケージの違う二本のDVDが目に入りました。どちらも同じストーリーのよう。違うのは、一方は女性の目線から、もう一方は相手の男性の目線からその恋愛をとらえたもの。二本立てにしたということは、視点が変われば同じなりゆきも違ったドラマになる・・・ということ。(DVD「ラブストーリーズ コナーの涙 / エリナーの愛情」)

そういえばむかし、「冷静と情熱のあいだ」という同じような小説(映画)がありました。辻仁成さんと江國香織さんという二人の作家が同じ筋書きの恋愛ドラマを男女それぞれの目線から書いていましたっけ。ひとつの恋愛も二人の目線から見ると、二つのまったく違うドラマが存在しているのです。

まさに、「人生で起ることはニュートラル」。なんの意味もない。「意味は体験する人が与えるもの」。与えた意味のとおりのドラマになる、ということです。

まっさらな出来事に、見る人が色あいをつける。・・・ということは、わたしたちは日々自分の人生に色をぬっていて、それが人生の明暗をわけていることになります。

決して最初から色のついたもの(意味があるもの)をさし出されて、それに対して一定の反応を求められているのではないということです。

まっさらな下絵に対して、わたしがどんな色づけ(意味づけや選択)をするかでホラーにもコメディにもなっちゃう。暗い色合いを選べば、それは当然鬱々とした絵になるけど、同じ下絵でもきゃりーぱみゅぱみゅ的なカラフル&ポップな色柄をつけたら、「まあ♡ とってもラブリー!ステキだわ」ということになるのです。

だから「ヒドイ体験に見まわれた!」というときは、無意識のうちに自分なりの色つけが完了していて、それに対してあらためて自分が反応していることになります。

どうやらわたしたしはほっておくと、自動的にものごとに対してダークな色つけ(意味づけや選択)をしてしまうようです。たしかに、何かを見ればすぐに「あ〜だ、こ〜だ」という価値判断がはじまり、そのものごとが自分にとって役に立つのか立たないのかが唯一の判断の基準となります。

つまり、自分の自己保存とサバイバルにとってプラスになるかどうかで、ものごとをばっさばっさと切り捨てているのです。(サヨナラする彼氏彼女、妻、夫は、自己保存においてもはや役に立たなくなったので、じゃあレプレイスしましょ!ということです。・・・あじゃ〜・汗)

 

自分を守るためにする解釈は当然、怖れのこころに基づいています。そして、怖れが動機となっていれば、行きつくところはやはり怖れの結末。 ・・・だから気がついてみたら、結局は失敗、悲しみ、痛み、苦しみ、怖れ、罪悪感、無価値観、怒り、後悔などなど・・・ 残念な結果にたどりつきます。

成功に見えた転職も、仕事がきつくて地獄の職場に ・・・。ついに運命の人だ!と思った出会いも、メッキがはがれて史上最悪、バトルの絶えない間柄に ・・・。マイホームさえ手にすれば完璧と思っていたのに、天災にみまわれた ・・・というように。

けれども、わたしたちにはもっと別なハッピーな人生の色づけ、ストーリー展開につながる選択もすることができるのです。

それはあまり使ってなかったので、すっかり忘れられている選択の仕方なのですが。さて、それは・・・。

(その2につづく)

 

 

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15-09-25 人生、ほかの筋書きを選ぶには その2

(その1より)

まったく同じ体験をしていても、その経験のインパクトは人によって人生の明暗をわけるほど違っていたりします。ある人にとっては、記憶に残らないほどささいなことであっても、別の人にとっては一生消えないようなトラウマ的な出来事になってしまったり。

それは前回のブログでも書いたように、出来事じたいが問題なのではなく、体験した人がそれにどんな色づけ(意味づけ)をするのか・・・によるものでした。

私たちはそのときどきで自分で色づけ(意味づけ)を決めていると思っていますが、実はこれは自動的に行われます。

脳科学でも言われているように、私たちの知覚は自分の信じていることによって歪められているからです。正しくものごとを見ているどころか、じつは自分が信じていることにあったドラマをでっちあげています。自分の知覚に騙されているのですね。だから、もし自分は悲惨であると信じていれば、悲惨さばかりが目につく・・・というように、自分の無意識の思いで見るものは決定されています。

そんなわけで、自分のくだす判断に従うということは、じつは同じところをぐるぐる回るはめになります。新しい人生が展開をしているように見えながらいつも同じ信念に従っているので、基本的にはどの道も「いつかきた道」、知ってる道。何をしても「あれれ?また同じ結末になった!いつも同じだわ(汗)」ということになります。

「も〜、いつもなんでこうなるの?」「結局、いつも同じ結果になっちゃうよね!」「うまくいっていると思ったのに、やっぱりダメだ!」というとき、通いなれている道をグルグルしている証拠なのです。

なんせ同じプログラミングだからね。・・・まさに、私たちは自分のなかの同じプログラミングに従って、いっけん違うように見える同じ道を歩きます。

違う道を行くには、やり方を変えないといけません。 ・・・ それは、同じ道しか選べない「自分の判断に頼らない」こと。

「自分の判断」以外に頼るべき存在がいるのです! いつも自分とともに。

それは、いつも自分で判断することによっておおい隠されてしまっています。だから自分の判断の後ろには、もっと大きな存在、高い知性が存在しています。そこからは自分にとってのすべてにおいてのベストな回答が得られるのです。

その秘密の存在ともいえる大きな存在、高い知性に接続するには、そもそもその存在を知って、信頼して、それに対してこころを開いていなければなりません。

そして問いをインプットすることによって答えが得られるコンピューターのように、自分からつながって問いかけなければなりません。

その高い知性は、まったく違う目線で私たちがベストな幸せへたどりつく方法をしっかりと見通してくれています。だから、同じ出来事が起きていても、まったく違う体験にする色づけ(意味づけ)する方法を教えてくれるのです。それによって、まったく違ったストーリーを紡ぎ出されることになり。「最悪」に違いないと思えたことでも、じつは「人生最大の贈り物」に変わっちゃったりするのです。

高い知性は、問いかければ今までとは違う新しい世界の見方を教えてくれます。

これは実際体験してみてわかるのですが、じつはその出来事には数えきれないほどの別バージョンの現実がすでに存在しているのだな〜とわかります。なぜなら、高い知性からの回答によって出来事の流れがまったく変わってしまうことが多々あるからです。それって、無限に創造されてるパラレルワールドのひとつを選ぶように!

あ、パラレルワールドと聞いて、笑ってはいけません。SFでもなんでもありません。物理学者ミチオ・カク氏の本のなかにもパラレルワールドが紹介されているのですが、想像できる以上の別バージョンの現実が存在していて、ひとつひとつは密接にくっついるそうな。そして簡単に移動できるとか。だから思考を変えることで、あっというまに別の展開にワープすることも可能なのでしょう。

自分の高い知性につながるって判断をゆだねるのは、他のストーリーがあるのを知っている高い存在に、自分にとってベストなストーリーを選んでもらうこと。完璧な幸せを願っているわたしたちの高い知性はそのお願いを聞いて、すでに存在している無数のパラレルワールドから今いちばんベストな筋書きを私たちのために選んで、そこに接続してくれるのです。

つまり、自分でものごとを勝手に解釈しない。(自分で判断すれば、いつもワンパターンになる。)高い知性は、「自分でやらないで、すべてゆだねて渡しなさい。私が正しい道を指示します」と言ってくれています。誰よりも完璧な幸せを願ってくれる高い知性に、もっともっと甘えてよいのですね〜。

高い知性へゆだねるには・・・

なにかものごとが起きていて自動的に反応してしまったとき、

それに気づいて、いったん立ち止まる・・・

そして「わたしは今、目のまえの出来事を〜〜だと判断していいます。でも、これはいつものパターンにつながる道です。私は自分にとってのベストな判断がわかってはいません」

「私の高い知性、わたしのためにこの出来事を判断して、それをわたしに教えてください。あなたに決定のすべてをゆだねます」

そして、なるべくこころをからっぽにして答えを待ちます。

答えは「声」が聞こえる、というよりも、自分の感情や直感で納得するという場合が多いです。あとは、親しい人の言葉からくる場合もあるし、読んでいる本が教えてくれる場合もあります。いずれにしろ、こころを開いているときっとキャッチすることができます。

というように、自分でやろうとすることを手放して、自分のスーパーコンピューターである高い知性を意識しながら、そこに判断をゆだねます。

大切なのは、「自分ではやりません。お願いします」という GO サインです。

さて、GO サインを出したら、あとは高い知性が無限のバージョンのなかからどんな新しい筋書きの幸せのドラマを提供してくれるのか ・・・楽しみに答えを待ちましょう♪

 

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15-10-05 まさか!「犠牲者こそが生きる道」だったとは?

わたしたちは、幼い頃の人間関係や体験から『人生とはこういうものだ!』という自分なりの見解をうちたてます。そして、まさにその考えに沿って人生を生きていくようになります。幼い頃に信じたことこそが、人生の青写真。

とくにそのなかで大きな力を持っているのは、兄弟との関係。そこで培われる信念です。兄弟関係をとおして、「親しい人間関係とはどういうものか」「人生とはどうやったら安全にサバイバルできるのか」という生きるための自分なりの智恵をつけていくのです。

しかし残念なことに、こどもの智恵 = サル智恵に近く(汗)、その当時は少しは役にたつのですが、のちのち自分の首をしめることになってしまいます。

兄弟関係には、兄弟葛藤といわれるさまざまな問題が存在します。つまり、上の子には上の子なりの痛みがあり、下の子には下の子なりの傷があります。

じゃあ、ひとりっ子は問題ないのか ・・・ というとそんなことはなく、ひとりっ子にはひとりっ子の問題があります。そして兄弟葛藤はトラウマというよりは、もっと無意識で静かなもの。しかし、何度もその兄弟葛藤に直面し、なんとかサバイバルしようとしているうちに、そこで使った方法が自分が幸せになるための手段に違いないと勘違いしてしまうのです。

たとえば、わたしの場合 ・・・ 兄がいてわたしは下、妹です。

さて、兄弟葛藤からどんな信念をつくりあげ、その信念がその後の人生にどう影響したのでしょうか? (あくまでもわたし目線ですが。)

兄はわたしが生まれてくるまでは、はじめてのこどもで、まるで王子さま、スターでした。しかし、わずか一年で王子さまの座が危うくなります。まるまる太った、ものおじしない、たくましくうるさいやつ(わたし)が突然登場するのです。それは乳飲み子なので、すごく手がかかる。昼だって夜中だって、お母さんのおっぱいとおひざを一人じめ。

兄からみればひとつ違いは心理的にも脅威になります。なによりも、今まで100%注がれていた愛情を奪われたように感じて不安になります。(親からしたら、少しも愛情は減っていないよ!というでしょう。)

そのころ父がとりためていた8ミリ(ビデオ)を見ると、わたしが寝ているベビーベッドのなかに兄が乱暴にオモチャを投げ入れていったり、庭で砂遊びをするわたしの背後に兄が静かにしのびより頭から砂をかけるといった姿が写っていました。これは兄が特別いじわるだったわけではなく、下が生まれたときの上の子の反応はたいていこんなものです。だから、この8ミリを見たとき、家族もわたしも笑っていたものです。

けっして仲が悪かったわけではなく、むしろよかったと思うのです。ふつ〜に仲のよい兄弟でした。しかし、そこにはつねにこどもにとって神、あるいは生きるための源ともいえる両親からの愛情をめぐって、兄弟葛藤というある種の攻防が繰り広げられていたのです。その攻防のなかでわたしたちは、人生とは、人間関係とは、「どうすればサバイバルできるか」「幸せでいられるのか」という、自分なりのある考えをつくりだしていきます。そして、これこそがその後の自分の人生の「方針」ともいえるものになるのです。

たいていは仲よく遊んでいるのですが、でもケンカがはじまると(こどもにケンカはつきもの)、兄の手が出る、足も出る。男の子のケンカはちからづく。たまったものではありません。そこで「たちうちできない」と感じたわたしは、サバイバル方法として何をするようになったのか? はい!それは、最強の手段 ・・・ 大声で泣くこと。そうすれば、すぐにわれらの神(母)がかけつけてきて、救いだしてくれるのです!

さきほど、「こどもの頃の信念にそって、その後の人生を生きる」と書きましたが・・・じゃあ、これがどのようにわたしの後々の行動に影響したのか?

兄とのケンカの体験からわたしが信じたのは、「仲のいい相手(兄)でさえ、ときには容赦なく攻撃してくるから、それに対してわたしができるのは泣くことによって助けがやってくるのを待つこと。そうすれば窮地を脱する」ということ。

つまり、「自分の愛する人は自分を攻撃してくるものだ。それは避けられない。それに対してわたしが唯一できることは、かわいそうな犠牲者になりすまし、助けをえることである」。

冷静に考えたらあまりよいアイデアとは思えないのですが、当時のサル智恵ではベストなサバイバル方法だったわけです。

この信念によって、人生において安全に幸せになるには  ・・・ 助けてもらうことが必須である → それをえるためには犠牲者になる必要がある → 犠牲者には攻撃が必要である ・・・ というわけで、幸せになりたいわたしは大切な人間関係のなかで無意識に攻撃されるためのいさかいをわざとつくりだして、かわいそうな自分という役をになっていたのです。

「ゲゲ〜!こんな幸せのなり方なんてイヤだ!」と思いますが、じつはみんなもれなく、そんな不毛な役にたたないパターンで幸せをめざしています。やり方はさまざまですが、意識化されていないだけです。

こんなことを自分が信じていたことに気がついたとき、自分の愛する人とのあいだで繰りかえしているパターン化している争いやら、なかなか解決しない問題の理由がわかったのです。幸せのために、攻撃こそ大切!と思っていたのですから。

わたしが自分はかわいそうな犠牲者であるいう役まわりを手放さず、助けをえるために犠牲者でいたがっていたという。まさに、自分に痛みを与えることこそ、自分が幸せになる道だと思っていたのですね・・・(大汗)。

誰のこころにも、探求してみるともれなくこんな不毛な、幸せとは逆方向に向かう信念を握りしめていて、それこそが自分に幸せをもたらすと信じています。努力しながら逆方向に向かっているのです。

信念というのは、意識化されることでようやく手放すことができます。自分の手のひらのうえにのせて「え〜!わたしはこんな悲惨なことを信じていたのね。まさか、首をしめながら幸せになろうとしていたなんて」と気がついて笑いとばすことができたとき、それを終わりにすることができます。わたしも、もちろん手放しました。

そうしたら、あきらかにムダな戦いがなくなりました(戦いがなくなってみて、はじめて戦っていたことに気づくことも・・・)。そして、幸せになるためにわざわざつらいめにあって犠牲者になろうとする気持ちがなくなり、生活がシンプルに自然に、安らかで平和になってきたと感じます。

なぜかいまひとつ人生がすっきりしないとき、もっと幸せ感を感じたいとき、是非、兄弟関係のなかで、あるいは兄弟がいないことで、幼い頃にどうしたら自分が傷つかずに安全にサバイバルできると考えてきたか? そのために何をしてきたか? を探求してみてください。そこからきっと、今の人生のパターンや、繰りかえし起こる問題などとの間のつながりを発見することができると思います。

それがどんなパターンか?  ・・・気づいちゃったら、もうそれは終わりです!パチパチ♪

 

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15-10-13 わたしたちはバラバラ好き

こどもはなんでもバラバラにするのが大好き♡

好き放題にバラバラにできるから、ブロック遊びがお気に入りなのですね。

ブロックにとどまらず、男の子だったら懐中電灯や置き時計にはじまり、はてはラジオまでも、手あたりしだいにバラバラにしてきたはず。女の子だって、ティッシュボックスのティッシュをつぎつぎひっぱりだしてバラバラにしたり、ひもの通ったビースをバラバラにしてみたり、いろいろなバラバラ体験があることでしょう。

そのままで完璧だったものをバラバラにする。すると、それらはひとつでは意味のわからないピースになる ・・・ 。

バラバラにしてしまうと、意味が失われます。つまらなくなります。ブロックは全体が組み上がることで楽しいけれど、たった一個もっていてもあそべない。機械だって、部品一個を手にとってみても意味がわかりません。これ、いったいど〜するの? っていう感じです。

それでも「バラバラにしたい」という不思議な欲求は、じつはおとなになった今でもわたしたちのなかで健在なのです。そしてそのことによって、いろいろなことの「ほんとうの意味」が失われるということが起っています。

たとえば ・・・日常のなかで人のふとした言動をまのあたりにして、「あ〜、この人ってこういう人なんだ。(はいはい、もうわかりましたよ)」とすべてがわかった気になっているとき ・・・(その人には、ほかの膨大な部分があるのですが)。あるいは、日常のひとこまに起きた出来事にたいして、「きっと、これってこういう意味だわ(わかった、わかった、そうなのよ)」 ・・・とわかっちゃった気分の自分になっているとき(それも、大きな流れのなかのほんの一点にすぎません)。

これらはまぎれもなく、バラバラにしている作業なのです。一瞬でものごとを価値判断することによって、完璧だった全体の意味から一部だけをきりはなして、ほんとうはわけがわからなくしているという。

そのとき、ものごとや人のなかにすでに保たれている完全性は無視されています。ただ自分の注意がひかれたある一部だけが大切に扱われてピックアップされ、意味づけがなされ、答えが与えられます。

自分がたまたま手にとった小さな意味のわからないピースだけを見て、「はい、この意味はわかりました」と理解した気になっているけれども、じつはぜんぜん意味などなしていないのです。それは意味などないピースだから。ピースのままでは意味がない。全体があってこそ、はじめてそこに意味が生まれるのです。

だから、わたしたちは「わかった!わかった!」と言ってしまうとき、それは全体の意味は無視して、一部の意味のないものだけによって無理やり意味を決めてしまった、ということになります。

これはおそらく、無意識のうちに「わたしたちは目にしたものにすばやく反応し、意味を理解しなければバカな子だと思われるに違いない」という怖れがあるから。小学生のころ、教室で先生が問いをなげかけたら、間髪をいれずに反応しなければならなかったし、そこにはいつもちゃんとした答えがあってあたりまえだと教わったから。すばやく答えをさがしに行くことになれているのです。

だからわたしたちは「これってなんだ?」と疑問に思うやいなや、ほんとうはわかってなどいないのに「ああ、知ってる知ってる!」と答えをねつ造し、わかった気になってしまうクセがついているようです。目にしたらとりあえず答えをでっちあげるというルール。

でも、わたしたちの「こころ」にはとてつもない力があります。

その真実などではないでっちあげを答えとして受けいれると、結局は自分が不自由になります。自分で言い放った言葉は、自分にとって真実であり、自分にとっての規則になります。自分はそこから出ていくことができなくなっちゃう。自分の言葉が自分の足かせになってしまうのです。

自分の放つ言葉はいつも一人称的であり、自分にとっていいきかせるもの、自分にとっての呪文のようなものです。自分がてきとうに言い放ったことによって、自分が制限されてしまう不都合が起るのです。

自分にとってのおなじみの意味を与えるということは、自分のおなじみの世界に入っていきます。おなじみの景色が見え、おなじみのパターンがくりかえされ、おなじみの結末がやってくる、そして同じようにがっかりする・・・というかわりばえのしない世界。

つまり、価値判断するということは、宇宙が決めたはかりしれない完璧な意味と全体性は無視しておいて、意味をなさない一点だけをきりとってバラバラにし、「これこそが真実である」と主張し、その真実とはいえない規則を自分の人生の絶対的なルールとして受けいれてしまうこと。これではうまくいかないのは当たりまえです。

自分のでっちあげた意味に人生を左右されないために ・・・見たものをただ観察するだけにとどめること。なにも価値判断しないこと。それにたいして黙っていること。あーだ、こーだと意味をくっつけたり、解釈しないこと。

でもわたしたちは、どうしても意味を知りたい存在です。意味こそ、生きる目的であると。だったら・・・

自分で答えないで、ほんとうの自分ともいえる自分の高い意識(ハイヤーセルフ)に意味のお答えのパートは担当していただきましょう。

「これはいったいなんでしょうか? どんな意味があるのでしょうか? わたしにはわかりません。教えてください」とお願いして、パーツの意味を理解することをあきらめて、全体のもつ完璧性をあらわす意味を教えてもらいます。

完璧性をあらわす意味とは ・・・まさに自分にとっての完璧なる幸せ。わたしたちにとって、「完璧なる幸せ」なんて見たことも、経験したこともないからわからない範疇のことですが、それは自分の価値判断というものの外に出ないと完璧性は見えてこないということです。自分の考えに頼っている限りは、完璧のなかのほんのちっちゃな一点だけを凝視することになってしまいます。

わたしたちが即座に自分で意味を与えてしまうのは、意味がわからないで放っておくほどコワいことはないと思っているから。暗闇のなかで光を見失った気分になるのです。でも、急いで意味を与えたい衝動こそ押さえて、じっとがまん!! つねづね自分が与えている意味が間違っていて、それこそが自分を制限していることを認識すれば、意味を与えることを踏みとどまるのも難しくありません。

オモチャの小さなピースにこだわっていては、全体の働きや目的はいつまでもわからないのです。

自分の習慣的な判断には一歩ふみとどまって、「尋ねる」という習慣をつけること。ほんとうの自分にいつもおうかがいをたてるクセをつけること。

意味をなさない小さなピースで遊ぶのになれていたけれど、完璧に完成した意味のある楽しいおもちゃを知りたい、見たい、体験したいとこころに決めて、一歩自分がひきさがって教えてもらうこと。そうすると、自分が知らない展開や違った感じ方、新しい世界を見せてもらえるようになるのだと思います。

「おっと、まてよ!」 ・・・「これについてはわからない」 ・・・「教えてください」 ・・・そして「じっと待つ」 ・・・これを習慣にしましょう♪ 

 

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15-10-16 いつだって、問題の原因はわたし!

わたしたちは、自分の現実のなかに何かコワイものを見つけると ・・・「うひゃっ!」っとおびえてちぢみあがります。自分が小さくなったように感じます。 ・・・すると外側がさらに大きくなったように見えて ・・・またまた自分はちぢこまる ・・・。

心が怖がっているとき、自分が限りなく小さくなってゆく ・・・という悪循環におちいります。

コワイものに反応するたびに小さくなるので、まるで負のスパイラル。そして、問題はさらに悪化していくように見えます。

怖がっている心は、自分のなかにある恐ろしさを外の世界へと投げ捨てたくなります。それこそが、自分の目がとらえるイメージとなるので、怖がれば怖がるほど怖いものはふえていく、大きくなっていくようです。

この状態だと、問題はいつまでも自分のまえに大きく立ちふさがります。

でもそこで、「見ているものは自分の心のイメージにすぎない。外には何も存在しない」ということに冷静に気づくことができれば ・・・それは、流れを変えるチャンス♪

目をとじて、少し静かにして、心のなかに光をイメージしてみます。

とってもあたたかな光が心のなかに広がって、その光に自分がすっぽりと包まれて、安全に安らかに守られている感じ。その光のなかでは、すべてのことが完璧で安全。やさしい母性にいだかれて、すべてをゆだねて安らいでいる感じ。愛に見守られて、育まれている感じ。

そのような暖かさや安心感、くつろぎが感じられたら、さらにそこに注意を注いでみます。そこにしっかりとフォーカスし味わすことで、その感覚がさらに強さをましてきます。

十分にその感覚が感じられたら、その感じが光となって自分のハートから外に向かって放射されているのをイメージします。

その光がどんどん広がって、世界を照らしだしているのを見ます。その光が世界をあたたかく包みこんで、そのなかですべてが愛されて大切にされて育まれている様子。

わたしたちが目にしているのは、もともとそこにある事実だ! と思いがちですが、じつはじつは、「自分の心の状態」だけを外に見ているのいすぎません。だからこそ、ひとりひとりの世界は違うのです。

怖いものを自分が見ているときは、自分のなかが混乱をきたしているサイン。スパイラルにのみこまれないように、方向を変えましょうというサインです。

自分のなかにもういちど安らかさと愛の光を取りもどして、それを外に放射してあげること。それによってのみ、わたしたちは平和な愛の世界を目にできるようです。

幸せになりたい!と、せっせと外に働きかけることは、エネルギーの浪費につながります。効果が出ないところにエネルギーを注ぎこむことになるからです。

ほんとうに効果を生むところ、それは自分の心の状態。

だから、まずは自分の心のなかをのぞきこんで、♡穏やかさと愛と光でいっぱいにしてあげること♡。これこそが、目にしている問題の対処につながることなのですね。

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15-10-29 恋愛体質?ホレっぽいのが悩み

会社に「ホレっぽくて問題になっている」男性がいる、と友人。「まわりが気をもむのよ」と話してくれた。

社内でも、取引先でも、飲み会でも、出会った女性にすぐ恋愛感情をいだいてしまうとか。もちろんそれに続くさまざまなアクションを、ソクとりはじめるそうな。

おひとりだったら問題はないのですが、パートナーとお子さんあり。そうなるとホレっぽいのは問題で、まわりもそのたびにハラハラするとか。

これが原因で一度は離婚の憂きめにあい、新しいパートナーに落ち着くかとおもいきや、またもや熱烈に愛する人を見つけて恋愛が進行中。

「なぜ、わたしはこんなにもホレっぽいのでしょうね?」と、悩んでいるのか自慢なのかわからないつぶやきをこぼしているとか(笑)。ご自分では愛がたくさんあるから、と納得していらっしゃるようですが。

誰かを好きになる・・・ って、もちろん悪いことであるはずがありません。自分のなかの愛があふれだしているわけですから。

でもここで問題なのは、「運命の人」が新しくつぎからつぎへとあらわれること。つまり出会う人をすぐに「運命の人」と思ってしまい執着すること。

この「決まったひとがいてももっとほかに欲しい」という飢餓感、執着感が問題なのです

わたしたちは育ってくる環境のなかで、たくさんの妥協を経験してきます。

どんな妥協かというと、ほんとうの自分を手放すという妥協。

より愛されるためにほんとうの自分を捨てて親の好みにあわせるとか、兄弟から攻撃をうけないように我慢したり妥協するとか、幼稚園や学校という社会でより認められ仲間に入れてもらえるように別の自分を装うとか ・・・。

そんなことをしているうちに、どんどん本来の自分がデフォルメされて違うものに仕立てあげられていきます。そしてしまいには、ほんとうの自分らしさ、自分の輝きがどんなだったのか、自分でもまるで思い出すことができません。妥協をしてきたことすら、自分で気がついていないのですから。

当然、本当の自分で生きていないなら、こころのどこかに葛藤をかかえているし、こころから満足することはありません。

そして、その葛藤さえも自分で気づかないふりをして生きています。何か違うと思っているのに、どこかがおかしいと思っているのに、それをはっきりとこころで自覚できず、なにかすっきと晴れ渡ることができない空のように、うっすらとモヤがかかったような状態。でも、その状態にもいつしか慣れて、それがふつうだ、そんなもんなんだと感じてしまいます。

ほんとうは、こころは知っているのです。大切な輝きを失ってしまっていることに。

そして誰かに出会います。

こころがすごく動いた!ドキドキした!・・・ じつは、これはとうに失ってしまったと思っていた輝きの片鱗にとつじょ出会ってしまった驚きです。だから、とっても知っている感じ、懐かしい何かに出会った感じ、見つけてしまったことに興奮します。

そしてたいてい、「この人こそ、自分にとって大切な人なんだ!」「この人をのがしてはいけない!」と思いこんでしまいます。

ほんとうは、それはうまく生きようと努力した幼少時代に、自分が自分から切り離してしまったほんとうの自分の輝きです。自分のこころの奥の奥の奥のほうに隠されつづけてきたものの輝きを、相手がいま見せてくれているのです。「そろそろほんとうの自分に戻りなさい」、そんなメッセージがきているわけです。

それを自分のこととしてではなく、相手がすべてであると信じると相手にひどく執着することになります。この人が去ってしまったら、またこの感覚が失くなってしまうと怖れるわけです。

失う怖れからコントロールに走ったり、あるいは自分のすべてのパワーを丸投げして相手に依存してしまったり、あるいは強迫的に相手に幸せにしてもらおうとまた違う自分を装いはじめます。

このワナにはまると、せっかく自分の輝きの片鱗を見つけてほんとうの自分に戻ろうとしていたにもかかわらず、ふたたび自分を完全に失うゲームに突入してしまいます。「自分にはなにもありません。あなたがわたしの幸せのすべてです」ということになってしまうからです。

それはまるで、イソップ物語にでてくる肉をくわえた犬のよう。肉をちゃんとくわえているのに、水に映った自分の姿に反応して「わん!」と吠えたら肉は水にボチャン。自分がすでにもっているものを外にあると勘違いして執着することによって、もっていたものを失う方向へと進んでしまいます。

なので、この男性もモテるから恋愛体質というわけではなく、自分のなかに何かを失っているという飢餓感が強いのだと感じます。そして、せっかく失ったものを取り戻す手がかりを見つけられそうになったときに、いつも相手に執着して自分を失うパターンにはまっているわけです。

相手に魅力を感じたときに、自分のこころが「懐かしがっているもの」を感じているということに気づいてあげること。そして、それがじつは自分の奥深くにしまいこまれていることを知って、そこに注意をむけて解放してあげる ・・・ということをしてあげるのが自分が幸せになるやり方。

よく「人に見える美しさは、すでにあなたのなかにある」といいますが、まさにそうなのですね。良い例でも悪い例でも、いつでも人は自分を映しだしてくれる鏡です。

人に魅力を感じたときには、自分のなかで遠い昔になくしてしまったと思っていた輝きをもういちど自分の手のなかに取り戻すチャンス。相手のよさを尊敬して、慈しんで、そして自分のなかにもそれがあるのだと感じてあげることによって、きっと眠っていた輝きが目を覚まして、そして自分の世界をより明るしてくれるのだと思います。

こんな見方ができるとホレっぽさも、自分をより幸せにしてくれますよね。

 

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15-11-07 問題はもう一人の自分からの挑戦状

なにか問題が起ったとき私たちは、「いったい、自分のなにがいけなかったのか?」「自分のなにが足りなかったのか?」と、自分の間違いさがしをはじめます。

たとえば彼氏(彼女)とひどくケンカしたとき、「あの私のひとことがいけなかったのかも」とか、「いや、あのとき私がああしなければよかったのかも」と。そう考えれば考えるほどこの次会うときに、そのままの自分でいられなくなり萎縮してしまいます。

あるいは病気になってしまったとき。「お肉ばっかり食べていたのがいけなかったのかも」「もっと早く食習慣を変えてさえいれば」「いや、私のくよくよグセのせい?」」と、手あたりしだい自分の過去を責めて否定する方向にいってしまいます。

でも問題のほんとうの原因って、じつは自分が思っているようなところにはないものです。それに、そもそも行動が原因になっていることはありません。すべてはこころの問題。セラピーをしていると本当によくわかりますが、問題の根本はご本人にも思いもよらないような、ふとした思い込みにあったりするのです。

過去の自分のあれこれを批判することは、いたずらに自分に対する罪悪感と無価値感をふやしてしまうことになりかねません。

それに、人生に問題はつきもの!そのたびごとに自分を責めてしまうとさらに自分を小さくする悪循環にはまってしまいます。

じつは、それこそが問題が起きている最大の目的でもあるのですが・・・。

私たちのなかには、自分をくじこうとするイジワルなもう一人の自分がいます。いつも「どうせできっこないよ!」とか「そんなことしたってムダ!」「どうせそんな自分さ」とささやきかけるその存在です!

そのイジワルな自分が問題を作りだしては、その問題を使って無力な価値のないダメな私として自信をなくさせようとしかけてくるのです。いったい自分の「何が足りなくて」「何がダメで」「何が間違っちゃって」・・・というダメだらけの自分の信念をより強固にゆるぎないものにするために。

自信をくじき、罪悪感を深めることこそ、問題の目的なのですね。

だから、「いつだってうまくできずに問題を作っちゃう不十分な私」という自責の念は、まさにイジワルな自分のおもうツボ。

いずれにしもイジワルな自分はたえず問題をふっかけてくるし、それはドラマチックになるようにしくまれています。

そうとなれば、問題が目のまえにやってきたら、そのワナにはまらないためにサッと意識を変えることこそが必要になります。

イジワルな自分からの挑戦状には、まっこうから勝負しようとしてもラチがあかないのです。問題の原因はやすやすと見つからないようにできています。

原因探しでいたずらに自分を責めることはやめて、問題を光の下にもっていって「贈りもの」に変えてしまうことが大切。それは、たった今起きていることが、どんなふうに自分の最高の幸せの役に立ってくれるのか?そのために、これをどう生かしたらいいのか? ・・・その方向に意識を向けて、それを見せてほしいと高い意識にお願いします。

たとえば、料理人さんが今夜の食材としてレンコン一本を渡されたとします。「えっ?こんなものじゃおいしいものはなにも作れない。どうしてこんなもの買ってくるんだ?指示の仕方が間違っていたのか?」えんえんと、なぜここにレンコンがあるのかに不満を言ってもラチがあきません。

問題を贈りものに変えるとは、「なるほど〜。レンコン買ってきちゃったのね。レンコンの新しいレシピを作るいい機会だわ。じゃあ、今までにないとびっきりのびっくりするようなメニューを作って、こんなレンコン食べたことないと言わせてみましょう!手持ちのどの食材といちばん合うかな?」とくるりと方向を変えることもできます。

よりよく生きること、幸せに生きることって、目のまえで起きた問題を大騒ぎすることでも、あれこれ分析することでもなく、それをすぐに材料に変えて「最善」のなにかに仕立てる、ギフトに変えてしまう、というチャレンジ。

それによって、ラッキーな人になるのか、あるいは悲惨な被害者になるのか。それは、神さまが決めることではなく、自分が選択することなのですね。

じつは、こんなことを感じて考えたのも、数日まえに会った友人のおかげ。

彼女はふつうに言えば、にっちもさっちもいかない、いかなる迂回路も逃げ道もないように見えるガケっぷちに立たされちゃった人。

まさにガケのギリギリに立っているように見えはするけれど、彼女はすでにこれをしっかりと贈りものに変えてしまっていたのです。つまり、ガケっぷちにいる彼女の背中にはたくましい羽が生えていたのです。

そんな彼女は、いろいろないらないものそぎ落として、とっても透明でピュアでシンプルで、ほんとうのことだけを見据えているようなすがすがしさと軽やかさがありました。

そして、日に日に強まっていく愛と感謝を味方に、たくさんのミラクルを見はじめている。まさに、「なんで?」「どうして?」というのをとおりこして、その状況に光をあてて、贈りものに変えて、そしてわたしにもその光を照らしかえしてくれているのです。

問題のおもうツボでボコボコな被害者になるのか、それともそれを確かに贈りものであると認識して本当に極上の贈りものに変えてしまうのか。

「今がすごく幸せ。すべてが感謝だ」と言う友人は、まさに、究極のカケっぷちに魔法をかけて、光を放っているのを感じましたよ。

そんな生き方をするのに、わざわざガケっぷちは必要ありませんが、あらためてどんな問題も、ひとつひとつ輝きに変えてゆくことがわたしたちにとって生きるということで、その魔法は望むことで手に入れることができるのだな〜とこの友人を見ていて、強く感じたのでした。

こんなひとつひとつの出会いによって、わたしは今まで『いつだってミラクルは起る!』ということを身をもって教えられてきたし、もはや疑いようのないものになっているのですが、またひとつそれを見せてもらっています。Dちゃんに感謝です♡

 

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15-11-11 私たちはスネたこどもみたい

アタマでは「考え」として知っているつもりになっていても、どうもなかなか自分の中心からそれを生きることができないことってあります。

「そんなこと知っているよ!」と思うけれど、それを「生きているか」といわれたら ・・・ぜんぜんそうじゃない。「知っている」のと、それを「生きている」のとは大違い。まだ、その考えと自分とのあいだにミゾがある・・・。

アタマでは理解しているんだけどな〜。でも、どこか自分のものになっていない。それが生きられたらいいのに・・・って。

でも、きょう ・・・無心で床に雑巾をかけていたとき、ふと、ストン!!と自分の中心に「確信」のようなものがふってきた。

突如、それがインストールされちゃった感じ。はからずも・・・。

もうそれを理解しようともしていないし、信じようともしていない。まさに自分がそれになっている感覚なのです。

ああ、「気づき」ってこうやってやってくるんだ。ちょっとづつ、ちょっとづつ、変化が起っていつかわかるようになるのではなく、それは突然やってくる・・・天から直球、ストン! という感じ。

そして、きょうは11月11日。

「 1 」は文句なく、始まりを意味する数字。それが四つも並んでいて、新しいスタート感満載の日です! (^_^)v

自分のなかにストンと落ちてみると、じつは今まですごく「抵抗」してきた自分に気がつきます。「わかってなんかやるもんか!」みたいな。

もちろんそれは無意識なのですが・・・こんな意味のない抵抗、反逆をしていて、妙に疲れちゃったりしていたのだと思います。(これがわたしのパターンか?!)

もっと素直でいいのにね。

心理学の実験におけるアンビバレントなこども・・・を思い出しました。

お母さんがその子とともにいて、その後知らないうちにその子をおいてどこかに行ってしまいます。 ・・・そしてお母さんがふたたび戻ってきたとき、

「ママ〜!」とばかりに素直に走りよるこどもは安定型。

ほんとうは心から「ママ!ママ!どこ行ってたんだよ〜!うえ〜ん!寂しかったよ〜」と叫んで甘えたいこころをぐっと押さえて、すごくクールに知らん顔を装って、お母さんが戻ってきてもひたすら無視する子。これが、アンビバレント型のこども。

自分のなかに葛藤をかかえているのです。

こんなアンビバレント型のこどものように、わたしたちって宇宙からおもいっきり気づかってもらっているのに、わざと背を向けて知らんぷりしているところがあるな〜と思うのです。

ほら!全部、必要なものはここにあるよ。こっちに来てみてごらん!といわれているのに、「いいんです! 自分でどうにかしますから!どうぞご心配なく」みたいな・・・。(笑)

ノドから手がでるほど欲しいのに。なにをそんなにスネちゃっているのでしょうね?

ほんとうは、「うえ〜ん!寂しかったよ〜!怖かったよ〜!ひとりぽっちでどうしようかと思っていたよ〜!」と叫んで甘えたいのに。

甘えちゃえ!叫んじゃえ! おもいっきり。

そうしたら、ストンとなにかが、天からおちてくるかも! (^_-)-☆

 

PS ところで、今、FMで J.  カビラさんがいっていましたが、11月11日は「ブタ饅頭の日」(ブタの鼻に見えるから)、「モヤシの日 」・・・ですって!(笑)

 

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15-12-16 みんな、自分が嫌い?! その1

「職場で自分に対する嫌がらせが続いている。そしてそれが、だんだんエスカレートしてきている」とつらそうに語る友人のAちゃん。「そんな扱いを受けるんだから、じつは自分ってひどい人間に違いないんだ ・・・」と、すっかり自信をなくしてしまっている様子です。

私たちがしてしまう最大のミスは、外側の反応を見て、それで「自分の価値」や「自分の性質」を決めてしまうこと。こういう扱いを受けるんだから、そういう人に違いない ・・・と。でも、この考えだとメビウスの環にはまってしまいます。外にあるのは自分の心の投影(イメージの映しだし)なのに、みんなの反応こそ本当の自分を教えていると思ってしまうと、自分の間違った思い込みをさらに強化することになってしまうのです。そして、訂正の糸口がなくなってしまいます。

そこで、少しでも正しい考え方の助けになれば・・・と思い、一緒にランチをしたときに「嫌がらせが起ってしまう本当のメカニズム」について少し説明させてもらいました。

それはまず、「自分の体験することで、なに一つとして自分の思いとは別に外から勝手にやってくるものはない」ということ。つまり「わたしたちは常に自分の思いを外側に映しだして、それを体験している」。だから、「問題というのは、つねに外にあるのではなく自分の心のなかにこそあるのだ」、そして「あの人にあんなことをされた・・・と被害者になってしまうと、自分のなかにあるはずの問題をすり替えてしまい、まったく問題の解決に至れない」。結局は、「外に映しだされたものを見て、自分の心のなかにある思いに素直に気づいて、ただそれを変える必要がある」だけだということ。

すると、Aちゃんは「ああ、すべて自分なんだ」と理解できたところまではよかったのですが ・・・今度は、「この人たちにこんなひどいことをさせてる自分の思いって、いったい ・・・??そうとうヒドイに違いない。そんな自分こそゆるすことができない」になってしまったのです。

ありゃりゃ・・・さらに、Aちゃんは自分を責めるほうにいってしまいました。(いかん!逆効果!)わたしたちは、人に自分の痛みを被せて加害者に仕立てるか、あるいは自分こそが自分に対しての加害者になるか(自分を虐待するか)、つねにこのどちらかをギッタンバッコン、行ったり来たりしています。

でも、そのどちらも本当じゃないよ〜!!解説が足りてないようでした・・・(汗)。

セラピーをしていて思いますが、「自分をゆるせない」「こんな自分が嫌い」と感じている方は、ほんとうにほんとうに多いのです。そして、外がわで起っていることこそがまさに「自分をゆるすことができない」という自分の気持ちのあらわれです。つまり、誰も自分をひどく扱っているのではなく、結局は自分に対する自分の「虐待の気持ち」を変える、必要なのはこれだけです。

「問題は外にあるのではなくて、自分のなかにこそあることを認めなさい。つまり、あなたはそれだけひどいものを持っている、醜いのですよ」と言っているわけではないのです。

確かに、外にあるものは自分の心のなかのイメージです。これは心理学用語で投影といいます。自分の持っているとつらい思いを、外に投げ捨てて、まさに誰かのなかに見る。誰かのせいにして、「悪いのは私ではなくって、アイツだ!」というわけです。

でもここで、自分で持っていられずにばらまくことになってしまったものが「本当の自分」であると思ってしまうと、かなり絶望的なことになります。それを認めれば、自分の醜さを認めることになってしまうのですから。

でもね、わたしたちが持っている自分に対するイメージというのは、じつはまったく正しくなどありません。わたしたちは自分すら正しくみることができず、そのせいで人のことも正しく見ることができないのです。

私たちの自分に対するイメージは、まさに誤解の「かたまり」ともいえます。

さきほども書きましたが、はっきりと口にしなくても、あるいはちゃんと意識していなくても、みんな自分のことが本当は好きではないのです。ほんとうに正直になったとき、残念ながらみんな自分を憎んでしまっています。

「自分大好き!」と豪語して自分磨きにいそしんでいるお方でさえも、心の奥にひそむ自分を認めない感情が動機となって、さまざまなものを手に入れたり、さまざまな行動を起こしたり、さまざまなことを目指します。自分にモノやら体験やら、あらゆることをプラスせずには、そのままではとても認めることができず躍起になってしまっているのです。それが回遊魚のごとく忙しく自分を駆り立てる理由です。(もちろん、それを意識していることはまれです。)

でも、こんな必死の欠乏感も、不十分な自分という信念も・・・みんな勘違いから生じています。私たちはみんな、自分に対して勘違いなイメージばかりを握りしめて、その埋め合わせをするために日々を費やし、あたふたと動きまわっています。本当の自分のことはまったく理解していないのですね。

どうやって、本当の自分に出会うことができるのでしょうか?どうしたら、本当の自分を認められるようになれるのでしょうか?


(その2につづく)

 

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15-12-21 みんな、自分が嫌い?! その2

(その1より)

外の世界に見えるものが自分の心のなかにあるイメージの投影(映しだし)であるのなら、じゃあ、イヤな体験をしている自分って、結局自分が悪いのか ・・・そう思ってしまいます。

たしかに、すべては「自分発」で、そうでないものなどないのですが、その「自分発」のものがほんとうに真実なのか・・・というと、じつはそうではありません。「真実ではない」 ということなのです。つまり、自分でもほんとうの自分がわかっていません。

ほんとうの自分を外に投影している ・・・というよりは、じつは自分のなかで持ちきれなくなったゴミを外に見ているという方が正しいのです。自分でもちゃんとわかっているのですね。「こんなの、ほんとうの自分のイメージではない」ということが。だから、外にゴミ捨てして、無かったことにしたいのですが、結局はつねに目にすることになってしまっていますが。

私たちが自分だと思っているイメージは、両親からの扱いや評価、幼稚園や学校などでの自分の立ち位置など ・・・すべて外からの影響によって洗脳されていきます。

たとえば、自分の性質がとても活発だったとします。それを好む親であれば「よい子」と評価され、好まれないならば変えるように仕向けられるかもしれません。あるがままの自分を受けいれてもらえないと、その子は自分が「ダメな子なんだ」「劣っているから親が困っている。親を困らせる自分は価値がない」というように決めつけてしまいます。ほんとうは、親のお好みに合わなかった、ただそれだけで、他の家に生まれていたらまた事情は違っていたかもしれません。

そして、家で、幼稚園で、学校で、仲間内で、つねに外の反応を気にしているうちに、自分の価値も自尊心もゆらいできて、すっかり自分が誰だかわからなくなってしまいます。強いお姉ちゃんがいたら、うまく巻かれておいたほうが生きやすいと思うかもしれないし、親に過剰に期待されると、すっかり「よい子の仮面」と一体化してしまうかもしれません。人の目を気にしていると、なにを基準に自分のアイデンティティを確立してよいのか、さっぱりわからなくなります。

そして、ほんものじゃないズレてる自分を生きてるのはとってもエネルギーを消耗するし、フラストレーションを感じます。私たちがわけもなく憂鬱になったりイヤな気持ちになるのは、ほんとうの自分とはズレた自分を生きつづけ、それが自分に定着してしまった嫌悪感やウソっぽさから湧き上がってくるものです。

私たちの高い自己(ハイヤーセルフ)はそんなズレた状態のまま私たちをほっておくことはしないのです!(これは、ホッとしますよね。)

高い自己のアラーム、「あなた、ズレてますよ!ほんとうの自分にそろそろ戻るときですよ」というお知らせは、じつはイヤな出来事をとおしてやってきます。楽しいばかりだったら、人はなにひとつ改善する必要を感じられないからです。

「イヤな気持ち」「うまくいかない出来事」「くりかえす問題」は、ちょっと立ち止まりなさいというシグナル。

でも、人はそのシグナルに気づくとなにをするかというと、それを解決すべくしゃかりきになってさらに行動を起こそうとします。なにか手を打たねば!行動せねば!と。すると、さらに迷宮に入ってしまいます。

だって、立ち止まって欲しいために鳴っていたシグナルですから。(仕方ありませんよね。私たちはこういうことに関して、まったく学校で教育されていません。でも、英語を習うよりも先に、自分と自分の心について学ぶことの方が大切だと感じてしまいます。)

問題あれこれが起きてイヤ〜な気持ちになったとき、みんなそんな気持ちは感じたくないから、どうにか誤摩化そう、気晴らしをしようとします。けれど大切なことは、まずはしっかりと立ち止まって、ちゃんと自分の気持ちを感じることが大切なのです。

気持ちを感じたくないから逃げるのですが、この際、ドッジボールです!正面から、その感情のボールを受け止めましょう!

なぜなら、小さい頃に「対応不可能」と決めつけてガンガン呑みこんだたくさんのネガティブな感情こそが、ほんとうの自分につながることを邪魔しているからです。

ひとつひとつの言われた言葉やされた扱いを思い出すかもしれませんが、とにかく解放しなくちゃならないのは、そのとき呑みこんだ気持ちです。これが自分の晴れ晴れとした快晴の青空のような広がりのうえをスモッグのようにすっぽりとおおって、まったく光を通さなくなっているからです。

ほんとうの自分とのディスコネクト(分離)状態・・・。パワーがまったく供給されません。

だから不安になって、あらゆることに手を出します。買い物依存、恋愛依存、アルコール依存、ギャンブル依存、過食、薬物依存、回遊魚のような絶えまない活動・・・。そのうち、自分のダメなイメージともすっかりと仲良しになり、イヤな気持ちも慢性化してしまいます。

問題があるなしにかかわらず、つねに自分がなにを今感じているのかに気をつけているというのは、自分のなかをクリーニングする習慣をもつようなもの。

イヤな気持ちを見つけたら、しっかりと受けとめて、抱きしめて愛おしむような気持ちで感じてあげます。イヤな気持ちを泣いている小さな子どものようにイメージして、抱きしめてあげます。(イヤな気持ちだったはずなのに、愛おしくて泣けてきたりします。)すると、自分のなかにす〜っと溶けるように、消え去っていきます。(マシュマロがココアのなかに溶けてくみたい。)

そして、これがすんだら次なるステップへ。

自分に対する間違った考え(自己卑下や被害者意識など)は自分がしっかりと握りしめてきた考えなので、なかなか自分では訂正することができません。

なので、高い意識に委ねて、ほんとうのことを見せてもらいます。「わたしは、自分が(価値がない、嫌いである)と信じています。でももう、この考えは持ち続けたくありません。ほんとうのことを見せてください。感じさせてください」とお願いします。

自分が見たがっているほんとうの自分とはなんでしょう?・・・それは、唯一のもの、ワンネスの一部である完璧な自分。愛であり、安らぎであり、喜びであり、豊かさであり、輝きである自分。ひとつのもの(完璧さ)しか存在しないのであれば、それ以外を見てるわたしたちはどこかおかしいということになります。

おかしいということは、正す必要があるということ。でも、それを自分ではどうすることもできない ・・・となれば、ホンモノの自分自身の記憶ともいえる存在、正気の自分ともいえる存在である高い自己(ハイヤーセルフ)にお願いして、それを見せてもらうことが必要なのです。

それを理解すると、問題が見えたときにはつねに自分を正す、ほんとうの自分に連れ戻してあげるチャンスとなります。間違いは目にしない限り、どこが間違ってしまっているのか気づきようがありません。目にしたときには、「ここを変えましょう。もうこれを手放しましょう」と教えてもらっているということです。

だから、被害者意識をもったり、あるいは自分を責めるとなく、「自分の心の間違っているところ教えてもらった」「これを手放せばいいんだ」と心を切り変えればいいわけです。

そして、手放すときも決して自分でやる必要がないところが、なんともお手軽で嬉しいところ。

ただ高い意識に「これは外になるのではなく、私の心の中の問題です。これをもう持ち続けたくありません。どうぞ手放せるように助けてください」と、人のせいにしないで自分の間違いを認めて、手放す意思を示すと高い自己は即座にそれを行ってくれます。

だから、こんな問題をつくってしまって!とか、こんなことを外に見る自分は酷すぎる!と、自分を責めることはなく、ただ静かに取り消しをしていきます。

わたしも以前はイヤな気持ちを感じると、過剰に活動的になったり、あるいはいろいろと気晴らしをしたり、刺激を求めたりしたものです。でも、どれも根本的な解決ではないと気づいたのも、だいぶいろいろとやってからです。(ほんとうに解決になっていないと心の底から気づかないと、なかなかやめないものですね。汗)

せっかく「ほんとうの自分に戻ってね!」というアラームが鳴っているのであれば、目をそらすことなく、どれどれ、この問題に関する気持ちをしっかりと真っ正面から受けとめて、そして高い自己に丸投げしちゃって、あとはうまくやってもらいましょう!(この渡す姿勢こそが重要なようです!)

まずは、イヤ〜な気持ちをちゃんと感じて受けとめる。そして、高い自己に委ねて依頼する!

あとは少しづつ気持ちも落ち着いてくるし、ムリに自分を好きにならなくても自然とありのままの自分でよいのだ!という信頼がもどってきます。そうすると、外の世界も安らぎが感じられるようになてくると思います。(^_^)v

 

 

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16-01-09 こころのゴミ屋敷をお掃除しましょ!

昨晩、あるテレビ番組で「卑弥呼と天照大神は同一人物なのか?」と検証していたとき、あるパネラーさんが「人間は、都合の悪いことをぜんぶ神様のせいにしてきた。それが神話なんです」というような説明をされていました。

「なるほど〜・・・ たしかに」と思いましたよ。

だって、世界的ベストセラーの大河小説(?)のなかでも、神様に楽園をおわれたカップルの悲劇のストーリーがありましたっけ。それを執筆したのは神様ではなくって人間なのだ、ということを忘れてはいけません。それでも、「そんなことはしとらんぞ〜!」と激怒して雷をおとさない神様の器はやっぱり宇宙規模に大きいのです。

わたしたちは、無意識のうちにひどいことが起ると「なぜですか?神様!」と嘆き、「もう神など信じない」と背をむけます。みんな何がしかのことで、神様に恨みをもっているのです。

そんなふうに見える神様がなぜイジワルではないとわかるのか・・・というと、日々、セラピーするなかで、クライエントさんの問題をどんどんつきつめていくと、究極的には神様(あるいは、大いなる力)に対して、「ごめんなさい。私が悪うございました。すべてわたしでございます」という信念が出てくるからなのです。「勝手に家出をしたのはわたしです」と。

そして、この信念ゆえに「自分を小さく小さくして、見つからないように隠れていよう」とか、「この世の果てまでも逃げきるぞ」とか、「まったく違う自分になって、ぜったいバレないように目をくらまそう」なんていうことをやっているのです。すると、とっても孤独で、とっても怯えていて、とっても悲しい自分になってしまうのです。自分こそが裏切り者だと知っているから。

こんなことを聞くと「まさか!」と思うかもしれませんが、それぞれの暗いこころの下にはこんな思いがもれなく身をひそめているのです。そしてその隠し持っている思いに気づいてしまったら大変なので、自分を忙しくして何がなんだかわからなくしたり、いろいろな物・人・出来事とかかわって自分が満たされているフリをしたり ・・・どうにか裏切り者の孤独で苦しい気持ちを忘れようとします。

「るん」のセラピーのなかでは、クライエントさんがほんとうに信じていることを探求するために、どんどんこころを掘りすすめるようなことをしていくのですが、わたし自信も日常で「プチいやな気分」のときも、あるいは「メガ級落ちこみ」のときも、ひるまずに自分に対してこの「信じていることの探求」を行っています。

セラピーセッションでは、口頭のやりとりで行いますが自分でやるときにはどんどんノートに書きとめていくのです。

昨日、お茶をしていたときにもふと「そこはかとない不安」を感じました。別にほうっておいてもどうってことはないほどのかすかなものです。けれど、こんなちっちゃな不安こそ、深いところに隠れている何か大きなものから浮かびあがってきた泡のようにとらえます。下に何かがあるぞ!というように。

そこで、さっそく喜々として探求をはじめました。

「そこはかとなく不安を感じる 」→ なぜなら、いつ何が起るかわからない世の中だから(いっけん妥当な答えのように感じても騙されてはいけません)→ (するとこんなイメージがわいてきました)古代コロッセオのなかに迷いこんでライオンに食われそうな自分 → 神様は外から見てるけど何も関知していない、助けようともしない → なぜなら、わたしはちっちゃい存在だから → 今度は、鈴虫になった自分が大きなカブトムシに食べられそうになっているイメージ → わたしは虫ケラのように小さくて神様にとってどうでもいいんだ → この宇宙の無限さが示すように、それぐらわたしは源(神)からはるか彼方に逃げてきた → だから自分でサバイバルするしかない → ついに強大なうしろだてを失ってしまった。不安だ・・・。

強力なバックアップ(神様)から家出をしてきて、すべてを失って昆虫のようにか弱く生きているイメージが「そこはかとない不安」の原因だったのです。

そのときどきの問題やテーマで出てくるイメージはいろいろですが、結局のところは「家出してきた(逃亡してきた)」あるいは「見捨てられた(と思いたい)」という信念が深いところにあります。

自分で「家出してきた」ことは認めたくないから、神様に「見捨てられたかわいそうなわたし」という被害者の美談をでっちあげたいのですよね〜。神様が悪い、神様のせいだ!って。

でも、癒しを起こすにはつねに「はい、わたしでございました」「すべてわたしです」というところに戻らなくてななりません。

そうちゃんと認められたときにこそ、こんな思いはこれ以上もっていなくていいのだと知ることができます。

どれだけ自分の信念、思いによって、自分を虐待していることか。ひとつひとつの間違った思いを手放していくことこそ、こころの安らぎなのです。

幸せであることとは、まさに自分の思いで自分を虐待することなく、間違った思いのひとつひとつを手放してちゃんともとのクリーンなこころに戻してあげることなのです。そうすると、自然な状態こそが「安らぎ・喜び」といえるようになるのですよね。

ゴミ屋敷に住んでいるひとは、自分の家がゴミでいっぱいだという認識をもっていませんよね。こころもじつは同じ。ほんとは悲惨なゴミ屋敷だったりします。(^。^;  (まわりは知ってても、言わなかったりして・・・。)

クリーンで快適なおうちに住みたいですね〜。

今年もみなさまとともに、せっせとこころのゴミ捨てに励みたいと思います!!

 

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16-02-02 「凶」のおみくじ、さあどうする?

アメリカから遊びにきた家族を案内して、浅草寺を訪れたというA氏。

夕方、彼からなにやらあせった口調のメールが送られたきた。メモのようなコピーも添付されていて、そこには「凶」の文字がデカデカと。どうやらおみくじをひいたらしく、その結果に動揺されているご様子。「凶」は、たしかにハッピーにはしてくれませんが・・・。

「それ、ただの紙片だから」となだめても納得せず・・・。しまいには「日本の神社は人をおどしておいて、お祓いやお守りでお金儲けをする気か!」とご立腹。(はいはい、お気持ちはわかりますが、世界中どの宗教も似たりよったりです。「恐怖」を使っている点ではね。)

・・・というぐあいに、私たちは外からやってくるものに怯えて、攻撃されているように感じて被害者になります。それがごくふつうの反応の仕方のように思えますが ・・・じつはうまくハメられているのです。だれに?

・・・ 自分自身に。

このせいで不安だ、このために苦痛だ、あの人のせいで頭にくる・・・不安や苦痛や怒りの理由はさまざまですが、じつはどんな出来事がおきていようと、「その出来事はあとづけだ」ということなのです。

ほんとうは、自分の「感情」こそ先にありき! なのです。

何がおきていようが、自分の感情こそが、出来事の真犯人。そして、出来事はもともとあった感情にあわせて、ココロがうまくでっちあげています。

だから、このおみくじ騒動にしても、不安な感情が自分のなかに先にあって、その不安をかかえているのが不快なので、ココロはどうにかそれを処理しようとします。自分の中にあると気持ちがよくないものを、外のせいにすればすっきりするというわけです。そこで、ココロは「自分の感情(不安、苦痛、怒り)にあった出来事をうまくマッチングさせる」わけです。なにかをでっちあげて、この不安のつじつまをあわせようとします。(すると、たんなる紙片がキョーフになります。)

不安に理由(あとづけのできごと)をくっつけると、なんだかその感情をもっていても納得できるのです。(こういうおみくじが出たら、ひどい気持ちになってあたりまえ!と。)

ココロは、その不安の原因になりそうな「出来事」を上手にあとづけして、このおみくじのせいで自分はとっても不安だ。このせいなのだ。いや、もともと悪いのは神社だ。あこぎだ、金儲けしてる、気分が悪い!・・・と。(どんどん自分という本当の原因からは遠ざかっていき、外のものを責めます。)

結局、抑圧していた自分のイヤな感情がずっとそこにあったことを無視して、「このいやな感じはこのせいでした。私はなにも悪くありません」とホコ先を変えられるのです。外に悪者を見て、そこを責めることでイヤな感じが決着すると信じたいのです。

そして、あまりにも素早くでっちあげるから、自分でやっていることながらまったく気がつきません。

結局、自分の見ている世界は、自分の感じていること、信じていることにそったあとづけ、でっちあげ。自分のもてあましたイヤな感情が先にありきで、その感情のつじつまをあわせるために責めるべき人、ものをこしらえています。(ココロはイリュージョンをするマジシャンみたいです。)

自分が無価値だと思えば、無能で的はずれの人が目のまえにいてその人に腹をたてるし(ほんとは、自分に腹がたっている)、自分が無力だと思えば、自分が病気になってそこをなげくこともあります(モノとか人のかわりに、自分の身体もそのでっちあげの対象になるのです。)

おみくじのA氏には、自分がもともともっていた不安感のシンボルがそのおみくじであることを説明して、その不安を教えてくれていたのだから感謝すべきなのだよ〜説明しました。

だから、避けようとするのではなくちゃんと感じて、手放して(感情はちゃんと感じると終わりになります)、ひとつ潜在意識の中の付加が減ったことをお祝いするべきなのです。ココロのごみを片づけると、イヤな人、ものごとに出会うことがだんだん少なくなります。平和な世界になるのです。そして、おみくじは燃やすなどして、ココロのお掃除の完了の証にするとよいですよね。

よくないおみくじは癒すべきポイントを教えてくれていると思って感謝して受け取ることで、自分の幸せのための足がかりとしての道具になるのですね。そして、どんなことであれ感情が波立つときにはいつでも、自分の感情のお掃除をうながされているようです。

 

 

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16-03-20 セラピーって怖くないですか?

「セラピーを受けたいけれど抵抗があります。自分のなかにコワイものがあるようで」 ・・・こんなお問い合わせをよくいただきます。

醜い自分、怖がりな自分、やたら怒る自分、利己的な自分、けっこう残酷な自分、自信のない自分、特別になりたい自分、人を見下す自分 ・・・それらは自分がなりたい理想の自分とはかけ離れているので、そんな邪悪な自分の片鱗を感じるとわたしたちは必死でこころにフタをし封印しようとします。だからこころをのぞかれるのは困っちゃう。本当の自分なんて見せられないし、見たくない。・・・

この考え自体が、そもそも間違った考えから生じているのです。

わたしたちは誰もがもれなく、自分のなかにいるダメな自分を怖れています。だからでっちあげの自分像を完璧にするために、日々頑張ることに人生を費やします。それが幸せになるためのモチベーションであり、自分磨きであり、自己啓発とも呼ばれています。「足りないダメな自分」が前提になっていて、それを必死で繕うわけです。

なので、セラピーも「足りない自分につけ足すもの」あるいは、「ダメなところを修復すること」というように、何かを正したり、つけ足すものだと思われがちです。

しかし、セラピーは「足し算」をするものではないのです。じつは限りなく、せっせと「引き算」をしていくもの。「引き算」こそセラピーです。そう、こころのゴミだし。

誰のなかにも、完璧なその人らしさ、輝きがすでにあります。まったくキズのない宝石そのもの。ピカピカ!

しかし生まれてから様々な環境におかれ教育を受けるなかで、「人と同じにならなくちゃ」「あれもできなくちゃ、これもできなくちゃ」とあらゆる比較や価値判断にさらされた結果、自分は「人並みじゃないダメな人間だ」「完全に足りてない人」というレッテルを貼ってしまいます。

その間違ったレッテルを基準にしてその後も生きていくので、どんどん「わたしはダメ」という闇が深まります。「ダメさ」をメイクアップするためにすべての行動をとるようになります。

(余談ですが、「すんごく明るい人」というのも、じつは深いところでダメさを深く感じているがゆえに、それを繕うための偽りの明るさだったりします。その場合、無意識にそのように振る舞っているため、本人も気づいてない場合が多いのですが。)

自分の輝く宝石がその間違った思いですっぽりと被われてしまうと、自分がじっと見つめるのは間違ったレッテルだけとなります。

つまり、自分のキラキラの完璧な宝石のうえに邪悪な醜いプロジェクトマッピンクの映像を投影してしまった感じです。見えるのは、その恐ろしい自分の映像で、本当のことは隠されてしまいます。

だからこそセラピーの目的は、その間違ったプロジェクトマッピングをストップすること(自分の本当のアイデンティティ、完璧さを思い出すこと)。そして、本来の輝きがあわわれるようにホコリを払ってあげること(さまざまな間違ったものの見方を訂正すること)。

自分が怖れを感じていた自分の本性とは、じつは恐ろしいものではなく輝かしいものなのです。本当の自分のうえにかぶせていたプロジェクトマッピング(誤解されたアイデンティティ)こそが恐ろしいものだったわけです。

こんなふうに「こころ」のうえにゴミがたまったり違うイメージをかぶせてしまつことが、すべての問題の元凶。

だからこそ、「引き算」が大切。「引き算」こそがセラピーなのです。

「こころ」こそが、そして「こころ」のみが、このように問題をつくりだし、抱えることができます。。

そして、このホコリと間違ったイメージを取り去ると、なにもつけ足したり修理することなく、自分の宝石の輝きが外側に広がります。この自分の輝きが広がる視界こそが、愛や安らぎ、喜び、平和、満足、豊かさを映し出してくれます。これが安定した安らぎをもたらしてくれるのです。

この自分のこころの完璧さを知ることでしか、ほんとうの幸せ、安らぎはえられないのですね。

セラピーは怖いものに直面するのではなく、こころのジャンクをお掃除して、ほんとうの自分の完璧な輝きに出会う方法なのです。

クライエントのみなさまの感想は、「セラピーは楽しい♪」「もっと本当の自分をしりたい♡」・・・そうなのです! 本当の自分に出会うのは喜びです。ワクワクします。だからセラピーはエンターテイメントなのです ♬

 

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16-03-29 メッセージを受けとるには・・・

桜も開きはじめて、いよいよ春本番ですね。部屋の観葉植物もぐんぐん新芽がのびています。

このところ「春眠・・・」ではありませんが、二度寝のクセがついてしまいました。それは計画的二度寝で、一つめの目覚ましをいつもより30分ぐらい早くかけているからなのです。

次が鳴るまでまどろんでいると、昼間覚醒しているときには使っていないアンテナがオンになるのか、ふだんキャッチできないインスピレーションがやってきます。つまり、高い意識とのコミュニケーションのための二度寝。(^_^)v

それは特別なことではなく、誰にでもインスピレーションやメッセージは平等にやってきます。まるで陽射しがさんさんとふりそそぐように、絶えまなく、じゃんじゃんと。でも、どのチャネル(どんな方法)でやってくるのかわからないと受けとれなくって、「わたしには来ないんだ」と決めてしまったりします。

あるいは、アタマのなかのおしゃべりがうるさかったり、即座に判断を下してしまうクセで受けることができない場合もあります。来ているのにはじかれちゃってるのです。

メッセージというと、まるで言葉でくるようなイメージですが、どちらかというと閃いちゃった感じや、ワクワクする感じ、ゆるぎない確信という感情や感覚だったり、あるいは ・・・人や本のなかの言葉、テレビやラジオで語られていること、街の看板や車の広告までもがすべてメッセージだったりします。(わたしの場合、セッションにいらっしゃる方の名前を、走りさる車の屋号などでよく教えられます。あるいはお顔が浮かぶので、どなたから予約が入るかわるのです。)

なので、ちゃんと受けとる気になって気をつけていると、さまざまなことをとても丁寧に教えられているのにびっくりします。

さて、二度寝メッセージですが、「わかっちゃった!」という感覚でやってくるので、具体的な言葉ではないのですが。すっかり目が覚めてしまうと消えさってしまうので、半分まどろんでいるような状態で急いでメモをとります。(幸い暖かくなってきたので、助かります。笑)

「全部わかった気がする!」「そうだったのか!」と思ったこともこれを逃してしまうと、あっというまに姿を消してしまいます。雪片が溶けさっていくように・・・。

よく臨死体験をした人が、「すべてがわかってしまったと思ったのに、からだに戻るやいなや消え去った」といいますね。そうですね。毎晩の眠りもからだを放棄する臨死体験のようなものです。(今のところ、よくぞ一回も失敗せずに毎日からだに戻ってこられるものですが・笑。)眠りのなかでも、いっぱい教えられているのでしょう。だったら、せっせと持ってかえってこなくちゃ!

例えばこんなメッセージ・・・。

「あなたは文句を言うべき出来事があるから文句を言っているのではありません。文句を言いたいがために、文句をつけたくなることがらを目のまえにせっせとつくりだしているのです。文句を言えば、何か変化をもたらせると信じています。文句はあなたの世界を変えることはありません。自分を傷つけるだけです。その思いを捨てなさい。そうすれば、もっと平和になります」

そんなに文句を言っているつもりはまったくなかったのですが、じつはお腹の深いところでは小さな文句がけっこうあることに気がつきました。「このテレビキャスターはセンスが悪い」とか、「なんでこんな忙しいときに電話をしてくるの?」とか、「この人、文句が多いわ」とか(←自分のことは棚にあげて!)。たわいもないようなつぶやきが、じつはれっきとした文句 (トホホ・・・)。

さらに最近、ドレッシングの瓶を落としてぶちまけたかと思ったら、お醤油の瓶までひっくりかえし・・・「なんなの〜、いったい!」と文句たらたら。 ・・・なるほど、なにがなんでも文句を言いたいがために瓶をひっくりかえしていたということね。(文句を言うためだったら何でもしちゃう。エスカレートすると、これが事故や災難になったりします。)

文句は、「人やものごとは、わたしのルールに従うべきだ」という主張そのもの。「わたしが王さまだ!」と。・・・自分の思いどおりにならない人・モノを攻撃しているのでした。これでイライラするのは自分だし、無意識のうちに人との距離もつくってしまいます。

ときには、他のひとのためのメッセージがくることもあります。病をわずらっている友人をサポートしていたときには・・・

「そのやり方では解決できないようにできています。解決しようとするのはやめなさい」 ・・・わかったようでわからないこのメッセージ。

つまり、「病」というかたちのあるものをいじくりまわしてもムダです。それは身体になどありません。こころが映しだしている影にすぎないのですから。その「病」の原因となっているこころの誤解をときなさい、ということだったのです。

まだ解釈能力が乏しいせいか、「わかった!」と思った感じを自分なりにちゃんとした言葉にするのに時間がかかるときもあるのですが・・・。最近は聞きたいことを眠るまえにしばし考えたりすると、二度寝タイムにミートしてお答えが受けとれます。

ここ2〜3日は、パズルのように少しづつメッセージがきて、ひとつにつながりつつあります。それはセラピーのやり方についてのメッセージで、「え〜!目からウロコ。そうだったの?もっと早く教えてよ」というようなもの。(←笑・また何がなんでも文句が言いたい!)

聞きたいことがふえたら、一日じゅう寝てることになりかねませんね〜!(^^;; (それも困るね!)

 

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16-04-14 イカるたびに自分を痛めつけてる?!

「こどもにすぐに声を荒げて怒っちゃうんですよ」という若いおとうさん。聞けば、彼の父親もすぐ怒る人だったそうな。

怒鳴る父、イライラをぶつける母、不満をぶちまける大人たち (テレビを観てても、不満オンパレード!)・・・ わたしたちはものごころつく頃から、さまざまな怒りと不満にさらされています。その結果、気に食わないことがあれば「怒り」をあらわにするのは当然で、それが「自分は満足していない」「改めて下さい」という意思表示なのだと学習してしまいます。また怒ることは、必要なものを手に入れる手っとり早い方法だとも信じます。怒れば確実に手に入るさ!と。

でも、だれも怒られて楽しい人はいないので、怒られると引きます。距離をおきます。離れていきます。結果、欲しいものを手にするための策略は、まんまと孤立を招き、手にしたかったものは遠ざかっていくことになります。

相談にいらしたこの若いおとうさんのように、怒った本人こそが罪悪感を感じて苦しくなります。

そして、何よりも困ったことには、自分を責めているひとは “ もれなく「自分を罰する」というワナにはまります ”。予期せぬアクシデントや病気というかたちで痛みを感じることで自分をいじめて、バランスを保とうとするのです。

私たちは「怒る」ことは、手に入れる方法であり、相手をコントロールできる方法であり、また自分のパワーを取り戻せると信じてしまっています。 ・・・ でも、怒ったあとはもれなくイヤな気分が襲ってきて、自己嫌悪。「こんな結果がほしいんじゃない。仲良くしたいのに。いい気分でいたいのに」と離れていった相手を見て苦々しく感じます。自分でもちゃんとわかっているのです。怒りは何の役にも立たないことを。

で、自責の念から無意識のうちに取り消しを行います。

それが、怒ってしまった自分を罰するということ。アクシデントや病気という大きな出来事の場合もあるし、あるいはテーブルの角におもいきり足をぶつけて痛い思いをしたりとか。人に怒ったり攻撃したあと、気をつけていると必ずそんなイタタな経験が起っているのに気がつきます。自分を痛めつけて「ホラ、わたしだってこんな痛い思いをしたんだから、これでおあいこだよね! だからもう忘れてよ!」と自分で勝手にチャラにしようと試みます。罰と思えることにタイムラグがあってつながりがわかりづらいときもありますが、自分の問題というのはたいていそんなところからきています。

いずれにしても、相手は知るよしもなく、自己満足の不毛な償いなのですが・・・。結局、怒ると自分こそがダメージを被っているというわけです。怒ることは、相手にも自分にも全然やさしくありません。

本当のところ、「怒り」はダミーの感情でその下にある本当の感情をカモフラージュするためのもの。ものごとが起ったときに、あまりにも素早く怒りにかわるのでなかなか気づけないのですが、その下に隠された感情があります。

たとえば、「こどもをすぐ怒っちゃうおとうさん」。こどもが手に負えなくなったとき、とっさに感じているのは「無力感」。それはこどもの頃よく感じていた感情で、こころの片隅に放置されていたものです。ものごとが外から襲いかかってくるようで手に負えず、コントロールしたいのに呑みこまれてしまいそうな怖れ。自分のこどもがわんわん泣けば泣くほど、自分のなかに隠していた「無力で小さな自分」が刺激されて小さな自分にもどっていきます。でも、そんなとき、「オット!自分の見たくないものが見えてしまいそうだ。そうだ怒りでごまかそう」と怒りで自分の狼狽した気持ちをごまかします。

ほんとうは、その隠されていた感情を素早く見抜いて、ちゃんと正面から向きあってあげることが大切なのです。「ああ、自分のなかには、まだこんなにおびえてる男の子がいたんだね。もう大丈夫だよ」って言ってあげられたら、その男の子は安心できるようになるし、大人として「今起きていること」を冷静にみることができるようになります。だから、積極的に自分のこころのひだに隠されている「弱さ」を知り、向きあうことは大切なのです。

怒ってしまえば、「あなたが悪い子だから」ですませることができちゃう。自分のなかにある「自己嫌悪」や「自信のなさ」という見たくない感情を向き合わなくてすみます。そうやって永遠に放置しておこうとします。でも、向きあわない限りは怒り続けることになり、愛を遠ざける結果になってしまうわけです。

すべては意識的に気がつかないと終わりにすることはできないのですね。目に見えて気づかないと、「片づけよう」とも思わないからです。でも、気がついたらおしまいにすることができるのです。

だから、怒っちゃったらチャンス! 長年のこころの重荷を降ろすビッグチャンス!

怒りの下でパニックになっている「小さな自分」をその小ささから解放してあげることができるのです(これをしてあげないと、いくつになっても自分の自己イメージはそのときのままにとどまってしまいます)。

自分のなかにあった怒りの原因がわかりはじめると、怒るよりも自分のなかの「弱いと勘違いしている部分」にやさしくできるようになります。「そんなふうに感じていたんだね」とやさしく認めてあげることで、癒しが起ります。そんな弱い自分は安心して消えていきます。もとからある自分の強さ、落ち着きが戻ってきます。

本当の自分を知るには、いらないお荷物を片づけるにつきます。

そして、きっと泣いている目のまえのこどもにも、やさしい共感のまなざしを向けてあげる余裕がでてくると思うのです。

 

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16-05-03 「誰かが私を救ってくれる!」

自分に本当に正直になったとき、これは誰もが必ずもっている信念です。「きっと、誰かが私を救ってくれる!」って。

そして、ある日、ステキなことが起って自分の人生がバラ色になるにちがいない・・・と。

だから、みんな自分の救世主を待ちわびているのです。

たとえば・・・

イケメンでお金持ちの理想のパートナーが、

自分を理解していたわってくれる優しい彼女が、

こどもが大きくなって手を離れたときこそ、

景気こそが回復すれば、

こんどこその転職が、

きっとやってくる昇進が、

このダイエット食品が、

この新しく発売された化粧品シリーズが、

これらのパワーストーンや風水の開運グッズが、

この治療法が、

この占いが、・・・・

それらによって、ようやく問題から解放されて幸せな日々がやってくる ・・・って。

それを手にできたそのときにはワクワクするかもしれないけれど、ワクワクとほんとうの幸せである安らかさは別のもの。ワクワクはたんに刺激に対する反応なので、一瞬強く感じるもののすぐにおさまります。

手にしたもので問題が解決されたように感じるけれど、じつはその問題はちょっとかくれんぼをしただけ。背後にまわったかもしれないし、あるいはどこかに身をかくしただけで、じつはまだそこにいてなおも歩調をあわせてヒタヒタとついてきています。だから、視界に入るのは時間の問題。

外に問題があると思っているあいだは、その問題とイリュージョンごっこを続けることになります。消えた!と思ったら、またこっちに現れて・・・ 。

そしてまた思いつくのです、「別のあれを手にすれば、こんどこそ問題は解決される!」と。別の彼女、別のダイエット食品、別の宝くじ、別の会社、別の顔(整形)・・・と、救い主探しの旅はなおも続きます。

でも足にマメができて、靴がやぶれて、膝がどうにも立たなくなって、身もこころもボロボロになって・・・ はじめて人は救い主探しの旅をもう続けられなくなって、あきらめて「もう、帰ろう・・・」と家路をたどります。とぼとぼ自分に戻ってくるのです。

そのあきらめたときこそが ・・・じつは「オメデトウゴザイマ〜ス!!」とファンファーレがなり響くところ。探していた救い主が待っているところなのです。

外には何もなく、誰にも何にも自分を救うことができない、と思い知った人にこそ、救い主が待ちかまえているのです。

自分を救える唯一の存在とは、じつは自分の「こころ」だけ。答えとは、自分だったのです。

この「こころ」に戻ってきて、大切に向きあうことなく、じつはいっさいの問題の解決はないのです。何かを探して足を棒にするよりも、それはもうここにちゃんとあるってこと。

なぜなら、自分が見ていると思っている世界とは自分のこころのなかの出来事であり、外にあるのではなくって、じつは内側に存在しています。外を探しに出かけると、自分のこころのなかのイメージへと入っていき、まるで袋小路のようになっちゃう。これこそ、イリュージョン!

自分の見ている世界に向かうということは、自分のこころのなかに入っていくことなのです。そして、自分のこころにたくさん溜めてしまったゴミに気づいて、ゴミを出して、ちゃんとこころにむきあってみること ・・・。それはいらない信念をお掃除することであり、お掃除したら深く自分とつながることであり、そしてその輝きを確かめてあげること。

問題も答えも、そこにこそあるのです。

でも ・・・足が棒になってボロボロになるぐらい歩きまわらない限り、わたしたちはなかなか正しい方向へ方向転換することができないようでもあります。

だから、疲れはてているのだったら、もううんざりあきあきしているのだったら、何をやってもダメでほとほと嫌気がさしているのだったら、外を歩きまわるのをやめるとき。おうち(自分)に戻ってくるときです。じつは、それこそが大きなターニングポイント、転換点、気づきになりえるのです。

ほんとうに疲れはてたら、正しい方向に歩きはじめるチャンスだ! 向きをかえてみましょう。

 

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16-05-10 すべてをすぐに解決する方法

「これから、すぐにすべての問題を解決する方法をお教えします」

と、セラピーにいらしたクライエントさんに言ったとしたら、きっとみなさん真剣に聞いてくださると思います。

「それはですね ・・・ そのことについていっさい“ 考えないこと ”です」・・・ 「考えないでください。 ・・・ 以上! これでセラピーを終わります」

なんて言ったら、「はあ?!  ・・・」って呆れられそうですが(笑)。

でも、冗談でもなんでもなく、シンプルに言うならそういうこと。このひとことに尽きます。

「問題について考えない」「問題を価値判断してセリフをならべたてない」。ひどいとか、大変だ、どうしよう、なんで?、これからどうなるの?、もうダメダ 、あの人っていったい!? ・・・などの解釈をいっさいしない。

それについてまったくコメントしなければ、それには意味などなく、じつは問題にはなりえないのですよね。

「あれ」がないと、「それ」も「これ」も存在しないのと同じで、「わたし」がいなければ「あなた」も「その他おおぜい」もいないことになるし、すべてに名前をつけなければ、すべては静かにひとつになってしまいます。

たとえば、こうしてパソコンに向かって文章を書いているとき、私には「私」の自覚がなくなっていて、そんなときってじつは「私」個人はいないのです。かといって気絶しているわけでもなんでもなく、誰のでもない「意識(気づき)」がそこにいるて作業してる感じ。

でもね、わたしたちは学校で「頭をつかう」ことをたたきこまれてきています。

「ほらっ、きみはまったく何も考えていないんだから!」「もっとちゃんとよく考えてからやりなさい」「頭は使うためにあるんだから、ちゃんと考えて!」などなど、つねに考えが足りない、足りないと言われ続けてきたのです。だから、分析、解釈、判断、思考いのちなのです。考えていないことは「おバカ」そのものであって、もっとも避けたいこと。

だから、朝テレビをつけると、いならぶコメンテーターが日々の出来事に関して、「あ〜だ、こ〜だ!」、あらゆる解釈をしてくれます。そして、そのコメントに対しても、またコメントがのべられて、朝のテレビはまさにコメント、解釈、価値判断合戦。

食レポのタレントさんだって、食べたものを解釈できなかったら「使えないひと」といわれ、こと細かに分析し、判断し、解釈できると、感性が豊かだと言われるし。(ほんとは、言葉をさがしているじてんで、味なんてわからなくなっています。)

だから、私たちは賢くいるためには、いつもグルグル考える。なにかが目のまえに現れるやいなや、「これはどうだ、こうだ」、何か言わなくちゃいけない。考えている人はどこか賢そうに見える。

でも、アタマで解釈するほど、じつは問題をつくっているようなもの。なんの意味もなかったものがどんどんこんがらがります。

つまり、私たちが生育過程のなかで習ってきたことは、ほとんど自分のクビをしめて、自分を制限することだったのですよね。

「思考(あ〜だこ〜だ)」は電気反応のように、自分という意識の空間のなかに放電されているようなもの。これを自分だと思ってしまうと、頭が混乱してきます。だって、とにかく一貫性に欠けているから。

大好き、愛してると言っていたかと思えば、何かの拍子に嫌いと言いはじめ、文句を言っているうちに怒りや憎しみまで出てきたり。

あるいは、気分がいいと言っているかと思えば、次の瞬間には死ぬほど最悪な気分に陥ったり、まずまずイケてると思ってた次の日には、世界でいちばんダサいと感じはじめ・・・わあ〜、つきあいきれない。

それらは、何かが実際に起きているというよりも、ほとんど「アタマ」のなかだけで行われていること。すごいバーチャルな世界です。

だから、「思考」には勝手にしててもらいしょ!

「思考」が何かわけのわからないことを言いだしてもまにうけず、てきと〜に流す。「あ、なにか言ってるな」ぐらいに。

あまりにうるさいときには、ひとこと「うるさい!だまりなさい!」と一喝。

こうして相手にしないと、ほんとに静かになってきます。・・・ ということは、相手にするからどんどんうるさくなるのですよね。

 

思考によって価値判断しないことで、すいぶんとコワいことも減るだろうし(そうです、思考が、思考そこがコワイのです)、いやだ!と思っていたことも、思考がなければふつうのことになったりします。

じつは、わたしもこれから「もういいかげんにしてよ!」と思っていることに取り組もうと思っているのですが(だから、きょうはこのトピックになりました・笑)。頭のおしゃべりをさせないと(解釈をしないと)、それじたい別にいいことでも、悪いことでもなくなります。「ただやらなくちゃいけないこと」って感じになりました。

思考によって価値判断してしまうと、自分が「受けとる」結果を決めたことになります。でも、ただ放っておくと、ものごとのなかにある完璧さをみせてもらことができるようになります。

それはそれで完璧なのです。そのままにしておけば。

そう、すべてのことはほっておけば完璧になる。けど、私たちは全部をコントロールしたがるので、完璧さが見えなくなって、自分の怖れの世界のストーリに姿を変えてしまうのですよね。

今は完璧さがわからなくっても、それを信じること。だから、目先のことばかりにあれこれ言う思考には黙っててもらって、ただしゅくしゅくと取り組みましょう。

すべての完璧さが見えるようにお願いしつつ・・・。

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング

16-05-24 じつは、誰もがキケンな山登り人生が好き

今開催中のブータン展を紹介する番組のなかで、ブータンの寺院に立ちならぶ大きな柱がうつしだされ、それを一生懸命ぐるぐるまわすたくさんの人たちが。

この柱、マニ車というものらしく、一回まわすとお経を一巻となえたご利益があるとか。だから、グルングルンすればするほど極楽浄土は近い! ということに。でも、そうかんたんに極楽ご到着の様子はうかがえません。

マニ車をまわすスピードにもまして、エゴが問題をつくりだすスピードもアップしているようです。

マニ車を一回まわせば 、エゴは負けじとばかりにさらなる問題を繰りだすわけです(倍返し?もっとか! 笑)。マニ車がなくっても同じこと。私たちのエゴはいつも、こっそりとバレないように狡猾に、でも決してとぎれることなく問題をつくりつづけます。

なぜ?!  幸せになりたいんじゃ?

わたしたちは幸せになりたいけど、エゴは違うのです。

エゴはヒマになったら困っちゃう。エゴはヒマが大嫌い。そして、安らかさがさらに嫌いです。だから、エゴにとって幸せは NG。

実際わたしたちは「働くのがいやだ〜!会社なんて行きたくない」といいつつも、「もう来なくていいですよ」といわれようものならとたんにブルーになります。「ヒマな人生はいやだ!」「することがないのは地獄だ」とうろたえます。

なんたって、ヒマであることがいちばんコワイ。ヒマになったらエゴは生きていられないから!・・・ そう、安らぎとエゴは、ともに生きられないのです。安らいだらエゴは消えちゃう。苦しみのなかでしか、いきいきと自己主張できないのです。だから、苦しみは大好物、攻撃やめらんない、戦い血が騒ぐ! いつだって戦々恐々としてる必要があるのです。

「いかに苦しみをつくりだすか!それも途切れることなく」、それがエゴの死活問題であり、存在の目的でもあるのです。

だから、お花畑で昼寝をするような人生はもってのほか。

わたしたちは、エゴの生存を保証するために、無意識のうちに苦しみと戦いを求めて生きています。

エゴは、滑落するか遭難するかのような険しい山を征服する人生がお好みです。だから、わざわざ困難をこしらえておいて、危険でドキドキする感じや、征服したときの達成感を感じて、これぞ「生きている」という証なんだぞ〜といい聞かせます。「野原でまどろんでいるなんて、屍同然!イキイキするためには、もっと苦しめ、危険を冒せ。それが人生だ」と。

攻略できないかと思うほど険しい山をわざとつくりだしては、ほとんど死にそうになりながらも征服しようとして、「ああ、でも生きてる。これが生きてるってことだ」といいきかせます。

これじゃあ問題がなくなることはありません。エゴの価値観に耳を傾けtいる限り、日々エヴェレスト登山です。そのうちに、あっというまに人生 The End になっちゃいます。

ほんとうに何度も命を落としそうなほどボロボロになって、「こんなのイヤだ! これはなんか違うぞ」って思うまで、危険な山登りはやめられないのかもしれません。

ほんとうの幸せってどうやら、刺激でも興奮でも、バクバクしたり、ドキドキしたりすることではないような。

たとえば、広々とした大自然のなかで、その景色をながめているうちに景色と自分が一体化しちゃったときのような。まさに自分がすべてに溶けこんでなくなってしまったようなとき、言葉にできない解放感、自由さ、安らかさ、幸福感を感じたことがありました。「自分」はもうそこにはいないのです。・・・じつは、これこそがエゴはゆるせない状況。エゴが抹殺されているのです。

エゴがいなくなったときのこの解放感は、苦しい山登りの達成感とはまったく別もの。それは、自分のワクがなくなる快感と安心感、全部である感覚。

この解放感は、じつは自分の内側にもちゃんとあります。わざわざ自然のなかにお出かけしなくても。

それは、止まって、静かにして、内側に向かうこと。野原でくつろいでいるようなときにこそ、やってくるもの。エゴが生きている証だといいはる、刺激や興奮、攻撃性がおさまったところにしかやってこないもの。

止まって、静かに自分の内側に意識を向けると、じつは広大な自然よりももっと大きく解放された無限の空間があります。そして、そこに静かに溶けこんで、ひとつになること、とどまることは、あの自然とひとつになる感じとまったく同じ。

そのむかしご多分にもれず、「ドキドキ、バクバクこそが生きてる証だ」と信じて疑わなかったわたしは、イキイキ人生を生きるためにありとあらゆるドキドキバクバクを世界中に求めて経験しようとしていました。やれどやれど ・・・「あれ? いつになっても自分が望んでいるような幸せ感はえられないなあ」と気づいたのは、ほとんどやり尽くしたようなとき。ある意味、「もう、飽きた」と感じたのです。

だからわたしの場合は、引き出しのすべてを片っぱしからすべてあけてみて、「ぜんぜんここじゃなかった!」とようやく気づいたしだいです(汗)。

きっとみんないつかは自分に戻ってくることになります。

それは世界の最高峰の危険な山々を登りつくしたあとかもしれないし、あるいはなんかの拍子にエゴの問題大量生産の策略に気づいてしまったのかもしれません。いずれにしても、危険な山登りにあきあきして、外にはなにもないのでは?と思ったときこそ、内側の大きな宇宙を探求するときです。

でもね、「そうだ方向転換だ!内側だ!」と思いついても、最初のうちは内側に向かおうとすると怖れに直面することになるかもしれません。それは、自分でためこんできたジャンク(ゴミの山)にまずは突きあたることになるからです。ジャンクとは、自分が「ないこと」にして感じずに抑圧してきた感情の山のこと。まずはこのお掃除が必要なのです。ほんとうの自分に到達しようとするときには(これがあるからこそ、ひとは内に向かうことをしたくなくなるのです。)

自分の内側に向かおうとするときに直面する空虚感、落ちつかない感じ、嫌悪、孤独、怖さ、とにかくイヤな感じ、を地道にとりのぞいていきます。それをただ「感じる」ことによって終わりにさせてあげること。

ゴミの山にひるむことなくちゃんと向きあうことで、じつはそこにずっとあった、隠されていた大切な宝ものにつながることができます。それは、ほんとうの自分の安らぎ。エゴがいちばん怖れていたものです。

それを見つけたら、もうエゴの陰謀である危険な冒険には興味がなくなっちゃいます。自分を満たすものが刺激や興奮ではなくなってしまい、ただゆるぎない安心感がいちがん大切なものとなるのです。

わたしはクライエントさんとの最初のセッションのときに、「すべては自分の内側にあって、その輝きとつながることこそが大切なこと。だからこころのコミ出しを頑張りましょう!」とお話しします。

エゴからの危険な冒険のお誘いよりも、自分のこころのなかにあるさまざまな落ち着かない感じにひとつひとつ地道に向きあって、ちゃんと感じて消し去ってあげることが、わたしたちにとってマニ車をまわすこと、幸せへの道なのです。

こころのなかのゴミがなくなると、エゴが脅威をおぼえていたヒマとかくつろぎ、静けさが、自分にとってのほんとうの幸せになるようです。

 

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16-06-04 けなしてしまう自分がイヤなんです・・・

クライエントAさんのご相談は、「私はネガティブで、目にするもの何でもけなしてしまうんです」ということ。「こんな自分をやめたい。幸せを感じられるようになりたい」といらっしゃいました。

たしかに ・・・ 幸せを感じたいAさんにとって、「けなす」ことは決して幸せには近づけてくれません。

つねに「けなしてしまう」行為は、たとえ口に出さなくても、ケンカを売っているようなもの。「けなす」ことは攻撃であり、攻撃をしたからには心安らかでいられるはずがありません。平和はやってきません。

じゃあ、Aさんにとってなぜ攻撃が必要なのか?