水曜日, 5月 2 2018

水曜日, 5月 2 2018

気づきの日記「すぐにあやまっちゃうクセ、じつはそれって攻撃?」

「あやまらなくていい場面で、ついあやまってしまうんです」とA子さん。

けれど、「悪いのはあっちなのに、なぜ私が!?」と腹がたってきてしまい、もう無為にあやまるのをやめたいのです、と。

「ごめんなさい」「すみません」は英語の「エクスキューズ ミー」と同じように使われるけれど、ちょっと違うとように感じてしまいます。

「エクスキューズ ミー」は「おっと、失礼!」というような軽い感じで、それはアクシデントだったね!という感じ。一方、「ごめんなさい」「すみません」はもう少しジメっとした罪の意識がある感じで、「私が悪うございました」「私のせいで」的な自分のしたことを責めるニュアンスが含まれているように感じます。

あやまらなくていいところであやまっちゃう、という方は結構多いようです。意識してか、無意識でか、口グセのように「ゴメン!ゴメン!」を連発する方もいます。あいさつがわりに「あ〜、ゴメン!ゴメン!」、何かしてても「あ〜、ゴメン!ゴメン!」。ほとんであいのてのようで、何に対してのゴメンなのかかわからない感じです(汗)。

「ゴメン」という言葉は何気ない言葉のように思えますが、無意識的に「私は間違っている人」という想いをこころにインプットしてしまいます。

そして「私は間違った人です」という信念があると、自ずと外側に「間違った人である証拠」として、自分へのとがめや攻撃を見やすくなってしまいます。

安易な「ゴメン」は自分を痛めつけることになるので、要注意なのです。是非、クチぐせをチェックいたしましょう。自分ではあまりにも無意識になっているせいで、言っていないと思うかもしれません。家族や友人からは、「いっつも言っているよ〜!」と太鼓判をおされるかもしれません。

無意識にとってしまう反応(無意識のゴメン発言)は、そこにどんな思いこみが存在してそれをやっているのかをはっきり意識化することがとても大切なことです。意識化によって、はじめて手放すことができるようになります。

そこで、A子さんのあやまっちゃうクセの底にある信念を一緒に探求してみました。

自分は悪くないと思っているのにとっさにあやまっちゃう → でも理不尽だと怒りがわいてくる → それでもあまやるのは、万が一相手が怒って攻撃してきたら困るから → 私は小さい存在だから守りきれない → どんな助けもやってこないのだから、私一人で守って闘わなければならない → つまり、私は見捨てられているのだ → なんとか自力で守るほかない → だったら、さっさと自分が悪者になってしまえば、攻撃にさらされることもなく丸くおさまる → 私は喜んで間違っているものになりたい → だから、あやまることだ!

A子さんのなかには、こんなふうに孤独に感じている見捨てられ信念が潜んでいて、どんなときでも自分を守るためには「私さえ悪者になれば」あるいは「自分で自分を罰すれば」、わたしは誰からも攻撃されずに安全に生きることができる。安全に生きるためには、率先して自分を痛めつけるに限るのだ、と信じていたのでした。

でも・・・・この考え、いっけんヨワヨワに見えますが、けっこう攻撃的な考えなのです、ほんとうは。

「わたしさえ悪者になって我慢すればいいんです」といのは、「そうです、わたしはあなたの被害者でしょ?」、つまり「あなたは加害者で決まりですね! わたしを傷つけているんです」、「私は、弱々しい正しい人です」、だから「あなたこそ、本当は悪いヤツなんです」・・・ と遠回しに言っているのです。

「わたしはあなたのせいで、我慢しているんです」「心底悪いのは、あなたなのに」と、すっかり被害者になっています。これは口に出していなくても、あきらかに攻撃に他なりません。

そして、こころで思っていることこそ、自分にとっての真実にならざるをえないのです。

これでは、間違った自分のイメージを育むことになり、また人との距離も広がってゆき、世界が自分にとって敵になってしまいます。

自分のこころはこっそりと相手を攻撃したのを知っているので、その攻撃に対するリベンジがやってくることに怖れおののくことになります。

「与えたものこそが、受けとるもの」。攻撃したからこそ、攻撃がふりかかってくることになります。その怖れから、人や世界から自分をさらに切り離して孤立を深めます。自分が幸せになるのを自分が阻んでいるのです。

「ちゃっかり相手を攻撃して、知らぬふりをしている」という罪悪感によって、無意識のうちに自分を罰することで攻撃をのがれようとくわだてます。

大きな問題ではないにしても ・・・ どこかで転ぶ、頭をぶつける、包丁で手を切る、自転車がつっこんでくるなどなど ・・・ 大小あらゆるイタタな、あるいは残念な体験をつくってバランスをとろうとするのです。

A子さんに限らず私たち誰ものなかに、うまくオブラートでカモフラージュされた攻撃の想いが棲んでいます。自分では、まったく攻撃とは気づくことができていません。

そんなうまく隠された攻撃の想いによって、自分で自分の足をすくっていたりするのです。

自分のしょうもないパターンをぶちこわしてあげるには、しっかりと白日のもとにさららし、つぶさに見てあげることが必要です。たまに立ち止まって、自分の言動の意図やら想いをじっくりとながめてみることをオススメします。

あまりにも巧妙に被害者を装っているにもかかわらず、それでもしっかりと攻撃していることに気づき、自ら笑っちゃうことがあります。

でも、笑えたらオシマイ! めでたくGAME OVER です☆

その不毛なエゴの想いは、気づいたらすべて高い意識に渡してしまい、こころから取り去ってもらいます。そして、隠されていた本来の自分の想い(闘いなど知らない安らぎ)へと戻してもらいましょう。

ゴミさえ捨てることで、いつでも真実はそこにあるのです。

外のあれこれなどまったく関係なく、そこに隠されていた安らぎ、安心、豊かな思いこそが、本当に安全で安らかで豊かな人生に大切なものです。そのこころからこそ、完全に安らかな世界の知覚は立ちあらわれるからです。

外はカゲロウ。自分のこころのイメージにすぎません。自分のこころを整えることで、そこにすでに備わっているものは自然と世界へと輝きだしてくれるのです ☆☆☆ それが、ゆるぎない安全のある世界です ★★★

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

18-05-02 すぐにあやまっちゃうクセ、じつはそれって攻撃?

「あやまらなくていい場面で、ついあやまってしまうんです」とA子さん。

けれど、「悪いのはあっちなのに、なぜ私が!?」と腹がたってきてしまい、もう無為にあやまるのをやめたいのです、と。

「ごめんなさい」「すみません」は英語の「エクスキューズ ミー」と同じように使われるけれど、ちょっと違うとように感じてしまいます。

「エクスキューズ ミー」は「おっと、失礼!」というような軽い感じで、それはアクシデントだったね!という感じ。一方、「ごめんなさい」「すみません」はもう少しジメっとした罪の意識がある感じで、「私が悪うございました」「私のせいで」的な自分のしたことを責めるニュアンスが含まれているように感じます。

あやまらなくていいところであやまっちゃう、という方は結構多いようです。意識してか、無意識でか、口グセのように「ゴメン!ゴメン!」を連発する方もいます。あいさつがわりに「あ〜、ゴメン!ゴメン!」、何かしてても「あ〜、ゴメン!ゴメン!」。ほとんであいのてのようで、何に対してのゴメンなのかかわからない感じです(汗)。

「ゴメン」という言葉は何気ない言葉のように思えますが、無意識的に「私は間違っている人」という想いをこころにインプットしてしまいます。

そして「私は間違った人です」という信念があると、自ずと外側に「間違った人である証拠」として、自分へのとがめや攻撃を見やすくなってしまいます。

安易な「ゴメン」は自分を痛めつけることになるので、要注意なのです。是非、クチぐせをチェックいたしましょう。自分ではあまりにも無意識になっているせいで、言っていないと思うかもしれません。家族や友人からは、「いっつも言っているよ〜!」と太鼓判をおされるかもしれません。

無意識にとってしまう反応(無意識のゴメン発言)は、そこにどんな思いこみが存在してそれをやっているのかをはっきり意識化することがとても大切なことです。意識化によって、はじめて手放すことができるようになります。

そこで、A子さんのあやまっちゃうクセの底にある信念を一緒に探求してみました。

自分は悪くないと思っているのにとっさにあやまっちゃう → でも理不尽だと怒りがわいてくる → それでもあまやるのは、万が一相手が怒って攻撃してきたら困るから → 私は小さい存在だから守りきれない → どんな助けもやってこないのだから、私一人で守って闘わなければならない → つまり、私は見捨てられているのだ → なんとか自力で守るほかない → だったら、さっさと自分が悪者になってしまえば、攻撃にさらされることもなく丸くおさまる → 私は喜んで間違っているものになりたい → だから、あやまることだ!

A子さんのなかには、こんなふうに孤独に感じている見捨てられ信念が潜んでいて、どんなときでも自分を守るためには「私さえ悪者になれば」あるいは「自分で自分を罰すれば」、わたしは誰からも攻撃されずに安全に生きることができる。安全に生きるためには、率先して自分を痛めつけるに限るのだ、と信じていたのでした。

でも・・・・この考え、いっけんヨワヨワに見えますが、けっこう攻撃的な考えなのです、ほんとうは。

「わたしさえ悪者になって我慢すればいいんです」といのは、「そうです、わたしはあなたの被害者でしょ?」、つまり「あなたは加害者で決まりですね! わたしを傷つけているんです」、「私は、弱々しい正しい人です」、だから「あなたこそ、本当は悪いヤツなんです」・・・ と遠回しに言っているのです。

「わたしはあなたのせいで、我慢しているんです」「心底悪いのは、あなたなのに」と、すっかり被害者になっています。これは口に出していなくても、あきらかに攻撃に他なりません。

そして、こころで思っていることこそ、自分にとっての真実にならざるをえないのです。

これでは、間違った自分のイメージを育むことになり、また人との距離も広がってゆき、世界が自分にとって敵になってしまいます。

自分のこころはこっそりと相手を攻撃したのを知っているので、その攻撃に対するリベンジがやってくることに怖れおののくことになります。

「与えたものこそが、受けとるもの」。攻撃したからこそ、攻撃がふりかかってくることになります。その怖れから、人や世界から自分をさらに切り離して孤立を深めます。自分が幸せになるのを自分が阻んでいるのです。

「ちゃっかり相手を攻撃して、知らぬふりをしている」という罪悪感によって、無意識のうちに自分を罰することで攻撃をのがれようとくわだてます。

大きな問題ではないにしても ・・・ どこかで転ぶ、頭をぶつける、包丁で手を切る、自転車がつっこんでくるなどなど ・・・ 大小あらゆるイタタな、あるいは残念な体験をつくってバランスをとろうとするのです。

A子さんに限らず私たち誰ものなかに、うまくオブラートでカモフラージュされた攻撃の想いが棲んでいます。自分では、まったく攻撃とは気づくことができていません。

そんなうまく隠された攻撃の想いによって、自分で自分の足をすくっていたりするのです。

自分のしょうもないパターンをぶちこわしてあげるには、しっかりと白日のもとにさららし、つぶさに見てあげることが必要です。たまに立ち止まって、自分の言動の意図やら想いをじっくりとながめてみることをオススメします。

あまりにも巧妙に被害者を装っているにもかかわらず、それでもしっかりと攻撃していることに気づき、自ら笑っちゃうことがあります。

でも、笑えたらオシマイ! めでたくGAME OVER です☆

その不毛なエゴの想いは、気づいたらすべて高い意識に渡してしまい、こころから取り去ってもらいます。そして、隠されていた本来の自分の想い(闘いなど知らない安らぎ)へと戻してもらいましょう。

ゴミさえ捨てることで、いつでも真実はそこにあるのです。

外のあれこれなどまったく関係なく、そこに隠されていた安らぎ、安心、豊かな思いこそが、本当に安全で安らかで豊かな人生に大切なものです。そのこころからこそ、完全に安らかな世界の知覚は立ちあらわれるからです。

外はカゲロウ。自分のこころのイメージにすぎません。自分のこころを整えることで、そこにすでに備わっているものは自然と世界へと輝きだしてくれるのです ☆☆☆ それが、ゆるぎない安全のある世界です ★★★

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング