火曜日, 5月 21 2019

火曜日, 5月 21 2019

気づきの日記「自分で自分を傷つけないために」

「なぜ、この人は私にこんなことを言うのだろう?私は傷ついてしまった」
「なぜ、あの人は私をこんなめにあわせるのだろう?私はすっかり混乱している」

誰もがこころのなかでこんなふうにつぶやいたことがあると思います。

「あの言葉が、この行動が ・・・ 私を傷つけた」と言うとき、私は被害者で無力であるように感じられます。 ・・・ ほんとうのところはどうなのでしょうか?

もしかすると、自分で自分を傷つけることにまんまと成功している ・・・ ということもあるかもしれません。

「自分で勝手に傷ついた?まさか!たしかにひどいことを言われたし、傷つけられたじゃない?」 ・・・ でも、同じ言葉を耳にし同じ体験をしても、それを何とも思わない人もいれば、まったく異なった解釈をする人もいます。

相手の言葉や行動じたいが凶器なわけではないのです。

「こんな意味のことを言われた」「こういう内容のことをされた」と判断したのは、誰なのでしょうか?

それは自分自身です。自分がそのように意味づけをしています。

私たちは自分が目にしたり耳にしたことに瞬時に反応し、即座に意味づけを行います。それまでは、自分にとって特定の意味は存在していません。自分が自分にとっての意味を選び、受け入れます。

ものごとはまるで、無声映画のように流れてゆきます。あるいは、セリフやト書きのない絵本と考えてもいいかもしれません。

「今見たもので、好きなストーリーを語ってください」というわけです。

こどもの頃、知能テストのなかに、玄関に立っているお母さんと雨合羽を着たこどもの絵があって、「これについて話してください」という問いがあったのを思い出しました。悲劇でも、お笑いでも、ただの描写でも、何でもつくれます。

以前のブログでも、映画のアフレコ遊びについて書きました。

イタリアでテレビを見ていたら「マジソン郡の橋」という映画をやっていたのです。さっぱり言葉がわからないので、テレビの音声を消して自分たちで勝手にアフレコをして遊んでいたのです。そうしたら、悲恋どころか間抜けなお話になってしまいました。

私たちは目にしたり耳にしたことに対して、自分の独自のシナリオをもとにその状況に意味づけを行います。シナリオにそっていればそれは「よいこと」であり、そっていなければ「悪いこと」で攻撃の対象になります。

たとえば、お母さんが「ねえ、手があいてるならそれやっといてちょうだい!」と言ったとします。

自分のスケジュールやイライラ感があったりすると、「え〜〜!何言ってるの?そんなこと自分でやってよね」と、母からの言葉は自分への攻撃だと感じられ、被害者の気持ちになるかもしれません。

一方、こころが満たされていて、また母に対して理解の気持ちがもてたら、「ああ、お母さん、忙しいのね。他に何か手伝える?」と思いやれるかもしれません。

母からかけられた言葉はまったく同じです。そのひとことに対して、抱く気持ちや反応は十人十色です。たったひとつの意味があるわけではなく、受けとった人が自分にとっての意味を決定しています。

そして、自分が傷ついたと感じるときには、自分が下した「その意味づけ」が自分を攻撃しているのです。つまり、自分が傷ついたと感じるとき、「自分を傷つけているのは自分の意味づけだ」ということになります。

「こんなことを言うなんて!」とはつまり、「私個人」が抱いているシナリオにあなたは従っていない。だから、あなたは私のために自分を改めるべき、と感じているときです。

「こんなめにあわせるなんて!」とは、「私個人」の欲しいものをあなたは与えようとしない。あなたは私に満足を与えるギムがあるのに、それがまったくできていないと批判しています。(ほんとうは、そのこととは関係なくもともと不満や不足感があったことが問題です。)

私たちはこのように腹を立てているとき、「あなた」という人は私を満たすためにいるのだ!と無意識のうちに信じています。それができないのなら、あなたは私からの攻撃を受けて当然なのだ!と。

このように信じてしまうと、じつは自分自身を不自由にしてしまいます。

なぜなら、与えるものは受けとるもの。人は自分に仕えるものだと思っていると、自分もかならず人に仕えることとなり、不自由になるからです。それが自分のルールだからです。(もとはといえば、その不自由さが慢性的な不満の原因だったかもしれません。)

自分のこころにあるそのルールが自分に犠牲をしいているので、怒りを感じるようになります。それが攻撃的な気持ちとなり、人との距離を生みだします。「私はこんなにガマンしているのだから、あなたもガマンするべき」と、同じ生き方を強要するようになってしまいます。

自分の思いが自分を攻撃して、まんまと被害者になっていた ・・・ と認めるのは抵抗があるかもしれません。

けれども、「私の選択した思いがそれをしていたのかも」と認めることは、「自分でこれをした」のだから自分には改善の余地があるということです。人が勝手にしているのなら、それは変えられません。

自分の思いが自分の幸せの邪魔をしていたのだったら、幸せの邪魔をする思いに敏感になり、それとは縁を切ろう!と決めることです。

自分を邪魔する考えとはもともと自分自身に敵対する考えなので、それがなくなるとほんとうの自分が自ずとあらわれます。ほんとうの自分とは、「愛」あり「幸せ」「安らぎ」「喜び」ともいいます。

考えは自分のこころのなかにあるものなので、それがどこに向けられていようと結局は自分に対して威力をふるってしまいます。人に対しても自分に対しても、攻撃的な考えに一つづつ気づいて、手放すことが大切です。

手放すときには自分でやろうとせずに、すべてを司り自分の面倒を見てくれているハイヤーセルフに手渡して、取りさってもらいましょう。「これは私が持ちたくない考えです。私ではないので取りさってください。(私は愛そのものなのだから)」とお願いします。

そうすることで、自分自身も人もその思いの呪縛から解放され、自由になります。日々の出来事に対して攻撃的な思いや反応がなくなれば、より自然に安らぎを感じられるようになります。安らぎのまたの名は、幸せです。

私こそが怯えていて自分のシナリオに固執していたから、何を見てもコワく感じて攻撃していたのだ、と気づくようになります。こころの重荷が癒されれば癒されるほど、目にする世界に対して怖れがなくなるので、すでにそこにあった幸せを受けとることができるようになります。

どんなときでも、自分を幸せにするのは自分の責任です。誰かがするべき、と信じてしまうと怒りを抱くことになります。

自分が幸せでいるためには、つねに被害者になりたがるエゴに気づきつつ、自分を蝕んでしまうような攻撃の思いに敏感になり、誰に対してもどこに向けても、攻撃的な気持ちをもたないと決意することが大切なのですね。

自分に対する攻撃をやめることで怖れが取りのぞかれ、安らぎという日だまりのなかでくつろいでいる自分に気づけるようになるのですね ( ・◡・ )♫♪

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

19-05-21 自分で自分を傷つけないために

「なぜ、この人は私にこんなことを言うのだろう?私は傷ついてしまった」
「なぜ、あの人は私をこんなめにあわせるのだろう?私はすっかり混乱している」

誰もがこころのなかでこんなふうにつぶやいたことがあると思います。

「あの言葉が、この行動が ・・・ 私を傷つけた」と言うとき、私は被害者で無力であるように感じられます。 ・・・ ほんとうのところはどうなのでしょうか?

もしかすると、自分で自分を傷つけることにまんまと成功している ・・・ ということもあるかもしれません。

「自分で勝手に傷ついた?まさか!たしかにひどいことを言われたし、傷つけられたじゃない?」 ・・・ でも、同じ言葉を耳にし同じ体験をしても、それを何とも思わない人もいれば、まったく異なった解釈をする人もいます。

相手の言葉や行動じたいが凶器なわけではないのです。

「こんな意味のことを言われた」「こういう内容のことをされた」と判断したのは、誰なのでしょうか?

それは自分自身です。自分がそのように意味づけをしています。

私たちは自分が目にしたり耳にしたことに瞬時に反応し、即座に意味づけを行います。それまでは、自分にとって特定の意味は存在していません。自分が自分にとっての意味を選び、受け入れます。

ものごとはまるで、無声映画のように流れてゆきます。あるいは、セリフやト書きのない絵本と考えてもいいかもしれません。

「今見たもので、好きなストーリーを語ってください」というわけです。

こどもの頃、知能テストのなかに、玄関に立っているお母さんと雨合羽を着たこどもの絵があって、「これについて話してください」という問いがあったのを思い出しました。悲劇でも、お笑いでも、ただの描写でも、何でもつくれます。

以前のブログでも、映画のアフレコ遊びについて書きました。

イタリアでテレビを見ていたら「マジソン郡の橋」という映画をやっていたのです。さっぱり言葉がわからないので、テレビの音声を消して自分たちで勝手にアフレコをして遊んでいたのです。そうしたら、悲恋どころか間抜けなお話になってしまいました。

私たちは目にしたり耳にしたことに対して、自分の独自のシナリオをもとにその状況に意味づけを行います。シナリオにそっていればそれは「よいこと」であり、そっていなければ「悪いこと」で攻撃の対象になります。

たとえば、お母さんが「ねえ、手があいてるならそれやっといてちょうだい!」と言ったとします。

自分のスケジュールやイライラ感があったりすると、「え〜〜!何言ってるの?そんなこと自分でやってよね」と、母からの言葉は自分への攻撃だと感じられ、被害者の気持ちになるかもしれません。

一方、こころが満たされていて、また母に対して理解の気持ちがもてたら、「ああ、お母さん、忙しいのね。他に何か手伝える?」と思いやれるかもしれません。

母からかけられた言葉はまったく同じです。そのひとことに対して、抱く気持ちや反応は十人十色です。たったひとつの意味があるわけではなく、受けとった人が自分にとっての意味を決定しています。

そして、自分が傷ついたと感じるときには、自分が下した「その意味づけ」が自分を攻撃しているのです。つまり、自分が傷ついたと感じるとき、「自分を傷つけているのは自分の意味づけだ」ということになります。

「こんなことを言うなんて!」とはつまり、「私個人」が抱いているシナリオにあなたは従っていない。だから、あなたは私のために自分を改めるべき、と感じているときです。

「こんなめにあわせるなんて!」とは、「私個人」の欲しいものをあなたは与えようとしない。あなたは私に満足を与えるギムがあるのに、それがまったくできていないと批判しています。(ほんとうは、そのこととは関係なくもともと不満や不足感があったことが問題です。)

私たちはこのように腹を立てているとき、「あなた」という人は私を満たすためにいるのだ!と無意識のうちに信じています。それができないのなら、あなたは私からの攻撃を受けて当然なのだ!と。

このように信じてしまうと、じつは自分自身を不自由にしてしまいます。

なぜなら、与えるものは受けとるもの。人は自分に仕えるものだと思っていると、自分もかならず人に仕えることとなり、不自由になるからです。それが自分のルールだからです。(もとはといえば、その不自由さが慢性的な不満の原因だったかもしれません。)

自分のこころにあるそのルールが自分に犠牲をしいているので、怒りを感じるようになります。それが攻撃的な気持ちとなり、人との距離を生みだします。「私はこんなにガマンしているのだから、あなたもガマンするべき」と、同じ生き方を強要するようになってしまいます。

自分の思いが自分を攻撃して、まんまと被害者になっていた ・・・ と認めるのは抵抗があるかもしれません。

けれども、「私の選択した思いがそれをしていたのかも」と認めることは、「自分でこれをした」のだから自分には改善の余地があるということです。人が勝手にしているのなら、それは変えられません。

自分の思いが自分の幸せの邪魔をしていたのだったら、幸せの邪魔をする思いに敏感になり、それとは縁を切ろう!と決めることです。

自分を邪魔する考えとはもともと自分自身に敵対する考えなので、それがなくなるとほんとうの自分が自ずとあらわれます。ほんとうの自分とは、「愛」あり「幸せ」「安らぎ」「喜び」ともいいます。

考えは自分のこころのなかにあるものなので、それがどこに向けられていようと結局は自分に対して威力をふるってしまいます。人に対しても自分に対しても、攻撃的な考えに一つづつ気づいて、手放すことが大切です。

手放すときには自分でやろうとせずに、すべてを司り自分の面倒を見てくれているハイヤーセルフに手渡して、取りさってもらいましょう。「これは私が持ちたくない考えです。私ではないので取りさってください。(私は愛そのものなのだから)」とお願いします。

そうすることで、自分自身も人もその思いの呪縛から解放され、自由になります。日々の出来事に対して攻撃的な思いや反応がなくなれば、より自然に安らぎを感じられるようになります。安らぎのまたの名は、幸せです。

私こそが怯えていて自分のシナリオに固執していたから、何を見てもコワく感じて攻撃していたのだ、と気づくようになります。こころの重荷が癒されれば癒されるほど、目にする世界に対して怖れがなくなるので、すでにそこにあった幸せを受けとることができるようになります。

どんなときでも、自分を幸せにするのは自分の責任です。誰かがするべき、と信じてしまうと怒りを抱くことになります。

自分が幸せでいるためには、つねに被害者になりたがるエゴに気づきつつ、自分を蝕んでしまうような攻撃の思いに敏感になり、誰に対してもどこに向けても、攻撃的な気持ちをもたないと決意することが大切なのですね。

自分に対する攻撃をやめることで怖れが取りのぞかれ、安らぎという日だまりのなかでくつろいでいる自分に気づけるようになるのですね ( ・◡・ )♫♪

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング