日曜日, 6月 30 2019

日曜日, 6月 30 2019

気づきの日記「こころの思いをまもる習慣」

こどもの頃に、シリアスなイジメ ・・・ とまではいかなくても、ちょっとしたからかいやイジワル、仲間ハズレにされた体験というのは誰にでもあるものです。

たわいもないイジワルとして思い出されるものであっても、そのことが自分の「ものの見方のモノサシ」に影響をあたえ、それをゆがめ、意外にもずっとあとをひいていたりします。

自分とはどういう存在なのか(愛される?愛されない?)、人とはどういうものなのか(愛してくれる?攻撃してくる?)、またこの世界とはどんなところなのか(優しい?拒絶してくる?)という、自分や人、世界に対する概念が無意識のうちにツラく危険なものになってしまい、その怖れが自分の人生の足を引っぱるようになってしまいます。

まちがった概念の呪縛は、三十になっても、四十になっても、六十になってもとけることがありませんん。むしろ強化されているように感じます(いったん刷りこまれた概念は、自ら気づいて訂正するまで修正することができないのです)。それゆえに、なぜ自分自身を肯定できないのか、幸せや自由を感じられないのか、自分でもわかりません。

こどものときに受けいれてしまったまちがった自己概念が、自分に災いしていることに気づくことができないでいます。

たとえば・・・

幼稚園のときに ・・・ ○○くんに「おまえはヘンだ!」とからかわれてしまった、とします。

だから、私は人とちがってヘンな存在にちがいない。きっと恥ずかしいにちがいない(こどもは、まわりから言われたことをなんの検閲もかけずにそのまま信じこんでしまうスポンジのような存在なのです)。

だから、ヘンだということがばれないように、自分を隠しておこう、あるいは、ちがった自分のふりをしよう・・・ というように、たった一人から言われたことが原因で自分を恥じるようになります。

しかし、しだいにその出来事やそこで決心したことは忘れさられ無意識的になってしまい、ただ「私は恥ずかしい存在なのだから、隠しておこう」とか、「人よりも努力して頑張らないとだめなんだ」という思いだけがこころのなかで意識され、それはとてもまっとうに感じられるのです。

あるがままの自分を受けいれることができていないので、まるでラットが踏み車をこぎつづけるように忙しく努力しつづけます。それは、「私は恥ずかしい存在だ」という信念がいすわっているからなのです。

ちょっとしたイジメをまにうけてしまい、「自分はダメだ」と決めつけてしまったことから、しなくていい努力をするようになってしまいます。そして、わけのわからない努力をすることで、ほんとうの自分から離れ、ダミーの自分をつくりだすことで、さらにダメな自分という思いを強めていきます。

しかし ・・・ほんとうはイジワルをしたほうこそが、問題あり!なのです。また、イジワルをしたことでさらにその子は問題を深めてしまっているのです。

イジメやイジワルがなぜ起こるかというと、「それをしないとやってられないよ〜!」と感じるからです。

自分が「足りていない」「価値がない」と感じているとき、

それをどのように埋めあわせてよいのかわからず、手っとりばやく「誰かを自分よりももっと足りなくする、価値をなくす」ことができれば勝手に自分の価値があがるのでは ・・・ と考えます。

つまり、「私がスゴくなるためには、全員ダメなやつになってくれ!」というわけです。そのために、人をおとしめて価値をなくすことをはじめます(これが、イジメやイジワルとよばれるものですが、もとはたんに劣等感からはじまります)。

短絡的に、自分以外を足りなくさえすれば自分は優越感を感じられるにちがいない、というメカニズムです。

でもこれをしてしまうと ・・・ 「私のためにバカになってください」と言いはなった人たちを仲間と呼ぶことはできず、結局は孤立して孤独に感じます。

また、人のことをこのように攻撃したという思いから、無意識のうちに罪悪感を感じ、自分を罰してつらいめにあわせるようになるために人生に困難が多くなります。

つまり、「足りてる」ことを実感したいがためにしたことによって、より孤独になり、助けがえられないために不足感は強まり、またいたいめにあうように感じることになるのです。

まわりを貶めて、自分が優越感を感じようとすると、結局はさらに大きくマイナスをつくってしまう、ということが起こります。

私が優越感を感じるために、あなたはダメ人間になってください。大丈夫、私があなたを貶めますから、あなたはすぐダメ人間になれますよ。

このセリフは人に向けられているように感じますが、イジワルをするその本人のこころのなかにあるものです。誰に対して効力を発揮するかといえば、「自分」のこころに対してだけなのです。

それはある意味、自分に対する呪いとなります。

自分のこころで思うことは、「自分が思っている」からこそ、自分へ呪いともなれば、自分への贈りものにもなります。

だから、自分に足りなさを感じるときに、人を貶めてしまえば、いっしょに自分も貶められます。自分の思いから自分を除外することはできません。だったら・・・

自分が引きあげられるために、人のなかにすばらしいところを見つけてそれを賞賛してあげることで、自分もいっしょに引きあげられる、このほうが賢いやり方なのです。

どんなときでも、自分の苦しみの原因は自分のこころにしかなく、自分の敵はまさに自分自身であり、自分の考えそのものなのです。

だから、なにかが足りていないと思うときには、人にマイナスをあたえることで救われようとしないで、逆にまわりのひとたちのなかに足りているところ、輝いてあふれているところをたくさん見つけてあげることです。

そうすることで、そのこころは「足りている」という思いでいっぱいになり、その思いは自分の目にするものすべてに影響を及ぼすので、「足りている」状態を目にすることができるようになります。

私たちは身体の健康のためには、あれを食べて、これを節制して・・・とこころを砕きますが、そんなことはささいなことにすぎません。

自分が「苦しまない」ためには、もっと大切なことがあります。それは、自分のこころの「思い」を守ることなのです。

「思い」が幸せであれば、それが自分を満たし、またそれが自分自身から広がって、自分の目にする満たされた世界をつくりだします。自分の身体も、その目にする世界にふくまれています。

不幸に感じるときには、いま起こっていることが問題というよりは、自分の思いじたいが危険なときです。自分の思いが自分に牙をむいているのです。

だから、いちばんやらなくちゃならないのは、こころの健康。自分の思いが健康であることです。健康であるということは、攻撃の思いがなく(自分を攻撃しないために)、愛と安らぎがあること(自分に愛をもち、安らかでいられるように)。

そのために、人や自分に対する攻撃的な気持ちに敏感になり、そのような気持ちを自分のこころからすぐに排除することが大切です。

目にする世界が自分のこころそのものであり、世界が自分であると気づきはじめると、攻撃的な思いをもつことが、自分で自分を斬りつけるようにいかにキケンであり、苦しい結果をもたらすことになるかがわかりはじめます。

どの思いも、まちがいなくそれを思う自分自身に影響せずにはいないのならば、自分自身のためにも、どんな思いでいつも満たされていたいのか ・・・ 自分の思いというものをもっと大切にする必要があります。

私たちは、世界という鏡を使ってしか自分を知ることができません。それならば、そこに何を見つづけるのか、醜さか美しさ、冷酷さか思いやりか、愛か怖れか ・・・ そしてそれこそが直接、自分というものの価値にかかわってくるです。

こどものときにまちがった概念を受けいれてしまったと気づいたら、落ちこむ必要はありません。

手放すためには、まずは気づくという段階が必要だからです(気づけない人の方が多いのです)。気づけたからこそ、手放せるということです。

幸いにもまちがいに気づいてしまったら、自分では取り除けないので、ハイヤーセルフに「この思いはもういらないものです」と差しだしてもって行ってもらいましょう。

それをどけてあげるだけで、OKです。本来のあなたの輝きは姿をあらわします。

それはなくなっていたのではなく、ただまちがったもので隠されていただけだったからです。

さあ! まちがいに気づいたら、お掃除☆ お掃除☆

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

19-06-30 こころの思いをまもる習慣

こどもの頃に、シリアスなイジメ ・・・ とまではいかなくても、ちょっとしたからかいやイジワル、仲間ハズレにされた体験というのは誰にでもあるものです。

たわいもないイジワルとして思い出されるものであっても、そのことが自分の「ものの見方のモノサシ」に影響をあたえ、それをゆがめ、意外にもずっとあとをひいていたりします。

自分とはどういう存在なのか(愛される?愛されない?)、人とはどういうものなのか(愛してくれる?攻撃してくる?)、またこの世界とはどんなところなのか(優しい?拒絶してくる?)という、自分や人、世界に対する概念が無意識のうちにツラく危険なものになってしまい、その怖れが自分の人生の足を引っぱるようになってしまいます。

まちがった概念の呪縛は、三十になっても、四十になっても、六十になってもとけることがありませんん。むしろ強化されているように感じます(いったん刷りこまれた概念は、自ら気づいて訂正するまで修正することができないのです)。それゆえに、なぜ自分自身を肯定できないのか、幸せや自由を感じられないのか、自分でもわかりません。

こどものときに受けいれてしまったまちがった自己概念が、自分に災いしていることに気づくことができないでいます。

たとえば・・・

幼稚園のときに ・・・ ○○くんに「おまえはヘンだ!」とからかわれてしまった、とします。

だから、私は人とちがってヘンな存在にちがいない。きっと恥ずかしいにちがいない(こどもは、まわりから言われたことをなんの検閲もかけずにそのまま信じこんでしまうスポンジのような存在なのです)。

だから、ヘンだということがばれないように、自分を隠しておこう、あるいは、ちがった自分のふりをしよう・・・ というように、たった一人から言われたことが原因で自分を恥じるようになります。

しかし、しだいにその出来事やそこで決心したことは忘れさられ無意識的になってしまい、ただ「私は恥ずかしい存在なのだから、隠しておこう」とか、「人よりも努力して頑張らないとだめなんだ」という思いだけがこころのなかで意識され、それはとてもまっとうに感じられるのです。

あるがままの自分を受けいれることができていないので、まるでラットが踏み車をこぎつづけるように忙しく努力しつづけます。それは、「私は恥ずかしい存在だ」という信念がいすわっているからなのです。

ちょっとしたイジメをまにうけてしまい、「自分はダメだ」と決めつけてしまったことから、しなくていい努力をするようになってしまいます。そして、わけのわからない努力をすることで、ほんとうの自分から離れ、ダミーの自分をつくりだすことで、さらにダメな自分という思いを強めていきます。

しかし ・・・ほんとうはイジワルをしたほうこそが、問題あり!なのです。また、イジワルをしたことでさらにその子は問題を深めてしまっているのです。

イジメやイジワルがなぜ起こるかというと、「それをしないとやってられないよ〜!」と感じるからです。

自分が「足りていない」「価値がない」と感じているとき、

それをどのように埋めあわせてよいのかわからず、手っとりばやく「誰かを自分よりももっと足りなくする、価値をなくす」ことができれば勝手に自分の価値があがるのでは ・・・ と考えます。

つまり、「私がスゴくなるためには、全員ダメなやつになってくれ!」というわけです。そのために、人をおとしめて価値をなくすことをはじめます(これが、イジメやイジワルとよばれるものですが、もとはたんに劣等感からはじまります)。

短絡的に、自分以外を足りなくさえすれば自分は優越感を感じられるにちがいない、というメカニズムです。

でもこれをしてしまうと ・・・ 「私のためにバカになってください」と言いはなった人たちを仲間と呼ぶことはできず、結局は孤立して孤独に感じます。

また、人のことをこのように攻撃したという思いから、無意識のうちに罪悪感を感じ、自分を罰してつらいめにあわせるようになるために人生に困難が多くなります。

つまり、「足りてる」ことを実感したいがためにしたことによって、より孤独になり、助けがえられないために不足感は強まり、またいたいめにあうように感じることになるのです。

まわりを貶めて、自分が優越感を感じようとすると、結局はさらに大きくマイナスをつくってしまう、ということが起こります。

私が優越感を感じるために、あなたはダメ人間になってください。大丈夫、私があなたを貶めますから、あなたはすぐダメ人間になれますよ。

このセリフは人に向けられているように感じますが、イジワルをするその本人のこころのなかにあるものです。誰に対して効力を発揮するかといえば、「自分」のこころに対してだけなのです。

それはある意味、自分に対する呪いとなります。

自分のこころで思うことは、「自分が思っている」からこそ、自分へ呪いともなれば、自分への贈りものにもなります。

だから、自分に足りなさを感じるときに、人を貶めてしまえば、いっしょに自分も貶められます。自分の思いから自分を除外することはできません。だったら・・・

自分が引きあげられるために、人のなかにすばらしいところを見つけてそれを賞賛してあげることで、自分もいっしょに引きあげられる、このほうが賢いやり方なのです。

どんなときでも、自分の苦しみの原因は自分のこころにしかなく、自分の敵はまさに自分自身であり、自分の考えそのものなのです。

だから、なにかが足りていないと思うときには、人にマイナスをあたえることで救われようとしないで、逆にまわりのひとたちのなかに足りているところ、輝いてあふれているところをたくさん見つけてあげることです。

そうすることで、そのこころは「足りている」という思いでいっぱいになり、その思いは自分の目にするものすべてに影響を及ぼすので、「足りている」状態を目にすることができるようになります。

私たちは身体の健康のためには、あれを食べて、これを節制して・・・とこころを砕きますが、そんなことはささいなことにすぎません。

自分が「苦しまない」ためには、もっと大切なことがあります。それは、自分のこころの「思い」を守ることなのです。

「思い」が幸せであれば、それが自分を満たし、またそれが自分自身から広がって、自分の目にする満たされた世界をつくりだします。自分の身体も、その目にする世界にふくまれています。

不幸に感じるときには、いま起こっていることが問題というよりは、自分の思いじたいが危険なときです。自分の思いが自分に牙をむいているのです。

だから、いちばんやらなくちゃならないのは、こころの健康。自分の思いが健康であることです。健康であるということは、攻撃の思いがなく(自分を攻撃しないために)、愛と安らぎがあること(自分に愛をもち、安らかでいられるように)。

そのために、人や自分に対する攻撃的な気持ちに敏感になり、そのような気持ちを自分のこころからすぐに排除することが大切です。

目にする世界が自分のこころそのものであり、世界が自分であると気づきはじめると、攻撃的な思いをもつことが、自分で自分を斬りつけるようにいかにキケンであり、苦しい結果をもたらすことになるかがわかりはじめます。

どの思いも、まちがいなくそれを思う自分自身に影響せずにはいないのならば、自分自身のためにも、どんな思いでいつも満たされていたいのか ・・・ 自分の思いというものをもっと大切にする必要があります。

私たちは、世界という鏡を使ってしか自分を知ることができません。それならば、そこに何を見つづけるのか、醜さか美しさ、冷酷さか思いやりか、愛か怖れか ・・・ そしてそれこそが直接、自分というものの価値にかかわってくるです。

こどものときにまちがった概念を受けいれてしまったと気づいたら、落ちこむ必要はありません。

手放すためには、まずは気づくという段階が必要だからです(気づけない人の方が多いのです)。気づけたからこそ、手放せるということです。

幸いにもまちがいに気づいてしまったら、自分では取り除けないので、ハイヤーセルフに「この思いはもういらないものです」と差しだしてもって行ってもらいましょう。

それをどけてあげるだけで、OKです。本来のあなたの輝きは姿をあらわします。

それはなくなっていたのではなく、ただまちがったもので隠されていただけだったからです。

さあ! まちがいに気づいたら、お掃除☆ お掃除☆

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング