日曜日, 12月 1 2019

日曜日, 12月 1 2019

気づきの日記「ほんとうの自分を感じてみましょう」

悩んだり、ぐるぐる考えすぎたりしているとき、私たちはその考えにエネルギーを注ぎつづけます。

私たちはエネルギーを集中したまさにそのものになってゆくので、考えつづけているうちに、きゅ〜っと小さな思考の塊になってしまったように感じます。

悩んでいるとき、考えすぎているときに感じる息苦しさ、苦痛は、自分ではないものになってしまった苦しさなのです。本来の自分の広がりを失い、自分を小さな塊のなかにおしこめて窒息してしまったのです。

これが、悩んでいるときの苦しさの原因です。

そして、考えつづけることがやんだとき、塊からわっと解放されて、もとの広がった状態にもどることができます。このふわっと視界が広がる、自分が広がるような解放感は、誰もが感じたことがあるのではないでしょうか?

ふつうは、問題が解決したからこそ、こんなふうに自由になったのだと感じますが、それは問題の解決というよりは、ちっちゃく固まっていた自分がもとに戻った解放感なのです。かちかちだったふえるワカメちゃんが、ようやくぶわっと広がって、手足をのばして自由になったような喜びなのです。

この収縮の度合いが極度だったとき(激しい恐怖や絶望などによって)、自分がぶわっと広がったときにどこまでも広がって、二度と伸びたり縮んだりしなくなる場合もあります。(激しさのあまり、まるでバネがこわれてしまい、広がったままになってしまうのです。)

極端な状態から覚醒した、という方は、このタイプなのです。

この広がりきった制限されない感じが、もともとの私たちの状態であり、深い安らぎや自由の感覚、解放感、喜びの状態です。

この状態でいるためにわざわざ落ちこみをつくりだす必要はなく、そもそも本来の自分自身が縮まないようにすることのほうが大切です。

縮まないようにするというのは、境界、限界のない自分をそのままにしてあげるということです。なにかに注意を固定しないで、ふんわりと広がったままでいること。

私たちはふだん、無意識のうちに「考え」や「感情」と一体化し、それを自分であると考えがちです。自分自身とは、「考え」であり「感情」であると勘違いしてしまうのです。

しかし、自分のなかにイジワルな考え、あるいは不安が湧いてきたとき ・・・ 私たちはこの「湧いてくる」という言葉を使います。その言葉を使うことじたい、自分のスペースのなかにそれが突如意図せずにやってきて、コントロールできないという感じをあらわしています。

また、「私、今、こんなイジワルなこと考えちゃったわ」とか「今、不安があがってきた」と言うとき、若干、それを傍観者としてながめています。傍観者になれるということは、その感情はどうやら自分とは別もののようなのです。

もし、完全に自分と一体化していたら、スキマがないので、こんな考えがあるわ、こんな感情を感じているわ、と気づくことすらできないことでしょう。

そういったわけで、私たちは自分でないものである考えや感情に一体化して、さも自分であるかのようにその状態を自分をして認めています。

この自分でないものに一体化する習慣が、自分を小さく切り取ってしまいます。

自分を切り取って、その小さな塊である自分 VS 宇宙に存在するすべてという対立構造をつくります。これが危機感や恐怖をいだかせます。

チリのような自分は、この広大は宇宙のおびただしいもののなかで、どうやったら自分を安全に保っていけるのでしょう? 戦いによって安全を確保しようとしますが、戦いの気持ちじたいがさらなる恐怖を呼び起こします。

ちょっと目を閉じてみてください。

目を閉じたとき、自分自身の意識の空間が無限に広がっています。(気絶していたらこの空間はないので、確かにこの空間は自分のようです。)

それは無色透明なので闇としてしか感じるとができませんが、そのスペースはたしかにどこまでも広がっていて終わりがありません。(私の意識はここで終わりです、というポイントは見つからないのです。)

小さな考えや感情の塊になってしまうのではなく、ほんとうのこの自分の広がりを失わないために、そのスペースに気づいていること、意識できるようになることが大切です。

たとえば・・・

この世界という画面から数歩退くような意識をもってみます。それは、スペースのなかに溶けこんでゆく感じ、見ているもの全部になっている感じ。あるいは、自分の無色透明な意識というものに、世界という影絵が映し出されている感じ。

この感覚は、全体と自分が離れていなくて、全体こそが自分なので、とても穏やかに安らいでいる心地よさがあります。

そのとき、出来事というのは外からやってくるというよりは、自分のなかで起こっていて、ちょっと距離をおいて見ることができます。(まるで、むかしに起こった出来事のように静かにながめることができます。)

自分は小さく切り取られてはいないので、自分のこころにすべてをいだいている親密感があります。

このスペースにゆったりと広がっていると、あの問題からふと解放されたときのような軽やかさを感じることができるようになります。

この開かれたスペースのなかでは、なにもつかみとろうとしないので、ものごとはスムーズに流れてゆくように感じます。

眠るまえに、ふとお茶を飲んでいるときに、電車にゆられているときに、あるいは疲れを感じたときに、このスペースにたびたび戻ってみましょう。

意識がふわっと広がって、自分のなかに穏やかさや新鮮な何かが感じられるかもしれません。ここにとどまることが、ほんとうの自分に対する信頼の感覚を育んでくれるのです。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

19-12-01 ほんとうの自分を感じてみましょう

悩んだり、ぐるぐる考えすぎたりしているとき、私たちはその考えにエネルギーを注ぎつづけます。

私たちはエネルギーを集中したまさにそのものになってゆくので、考えつづけているうちに、きゅ〜っと小さな思考の塊になってしまったように感じます。

悩んでいるとき、考えすぎているときに感じる息苦しさ、苦痛は、自分ではないものになってしまった苦しさなのです。本来の自分の広がりを失い、自分を小さな塊のなかにおしこめて窒息してしまったのです。

これが、悩んでいるときの苦しさの原因です。

そして、考えつづけることがやんだとき、塊からわっと解放されて、もとの広がった状態にもどることができます。このふわっと視界が広がる、自分が広がるような解放感は、誰もが感じたことがあるのではないでしょうか?

ふつうは、問題が解決したからこそ、こんなふうに自由になったのだと感じますが、それは問題の解決というよりは、ちっちゃく固まっていた自分がもとに戻った解放感なのです。かちかちだったふえるワカメちゃんが、ようやくぶわっと広がって、手足をのばして自由になったような喜びなのです。

この収縮の度合いが極度だったとき(激しい恐怖や絶望などによって)、自分がぶわっと広がったときにどこまでも広がって、二度と伸びたり縮んだりしなくなる場合もあります。(激しさのあまり、まるでバネがこわれてしまい、広がったままになってしまうのです。)

極端な状態から覚醒した、という方は、このタイプなのです。

この広がりきった制限されない感じが、もともとの私たちの状態であり、深い安らぎや自由の感覚、解放感、喜びの状態です。

この状態でいるためにわざわざ落ちこみをつくりだす必要はなく、そもそも本来の自分自身が縮まないようにすることのほうが大切です。

縮まないようにするというのは、境界、限界のない自分をそのままにしてあげるということです。なにかに注意を固定しないで、ふんわりと広がったままでいること。

私たちはふだん、無意識のうちに「考え」や「感情」と一体化し、それを自分であると考えがちです。自分自身とは、「考え」であり「感情」であると勘違いしてしまうのです。

しかし、自分のなかにイジワルな考え、あるいは不安が湧いてきたとき ・・・ 私たちはこの「湧いてくる」という言葉を使います。その言葉を使うことじたい、自分のスペースのなかにそれが突如意図せずにやってきて、コントロールできないという感じをあらわしています。

また、「私、今、こんなイジワルなこと考えちゃったわ」とか「今、不安があがってきた」と言うとき、若干、それを傍観者としてながめています。傍観者になれるということは、その感情はどうやら自分とは別もののようなのです。

もし、完全に自分と一体化していたら、スキマがないので、こんな考えがあるわ、こんな感情を感じているわ、と気づくことすらできないことでしょう。

そういったわけで、私たちは自分でないものである考えや感情に一体化して、さも自分であるかのようにその状態を自分をして認めています。

この自分でないものに一体化する習慣が、自分を小さく切り取ってしまいます。

自分を切り取って、その小さな塊である自分 VS 宇宙に存在するすべてという対立構造をつくります。これが危機感や恐怖をいだかせます。

チリのような自分は、この広大は宇宙のおびただしいもののなかで、どうやったら自分を安全に保っていけるのでしょう? 戦いによって安全を確保しようとしますが、戦いの気持ちじたいがさらなる恐怖を呼び起こします。

ちょっと目を閉じてみてください。

目を閉じたとき、自分自身の意識の空間が無限に広がっています。(気絶していたらこの空間はないので、確かにこの空間は自分のようです。)

それは無色透明なので闇としてしか感じるとができませんが、そのスペースはたしかにどこまでも広がっていて終わりがありません。(私の意識はここで終わりです、というポイントは見つからないのです。)

小さな考えや感情の塊になってしまうのではなく、ほんとうのこの自分の広がりを失わないために、そのスペースに気づいていること、意識できるようになることが大切です。

たとえば・・・

この世界という画面から数歩退くような意識をもってみます。それは、スペースのなかに溶けこんでゆく感じ、見ているもの全部になっている感じ。あるいは、自分の無色透明な意識というものに、世界という影絵が映し出されている感じ。

この感覚は、全体と自分が離れていなくて、全体こそが自分なので、とても穏やかに安らいでいる心地よさがあります。

そのとき、出来事というのは外からやってくるというよりは、自分のなかで起こっていて、ちょっと距離をおいて見ることができます。(まるで、むかしに起こった出来事のように静かにながめることができます。)

自分は小さく切り取られてはいないので、自分のこころにすべてをいだいている親密感があります。

このスペースにゆったりと広がっていると、あの問題からふと解放されたときのような軽やかさを感じることができるようになります。

この開かれたスペースのなかでは、なにもつかみとろうとしないので、ものごとはスムーズに流れてゆくように感じます。

眠るまえに、ふとお茶を飲んでいるときに、電車にゆられているときに、あるいは疲れを感じたときに、このスペースにたびたび戻ってみましょう。

意識がふわっと広がって、自分のなかに穏やかさや新鮮な何かが感じられるかもしれません。ここにとどまることが、ほんとうの自分に対する信頼の感覚を育んでくれるのです。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング