水曜日, 1月 29 2020

水曜日, 1月 29 2020

気づきの日記「何かを強く願うよりも・・・」

「このことをうまくいかせたい」「あれを手に入れたい」「これをぜったい叶えたい」・・・

このように自分の願望を実現したいとき、そのことに集中しているとそれが手にはいるように「見えます」。

はい、たしかに!

そして、「引寄せることができた!」「自分でつくれた!」と感じてうれしくなります。そしてもっともっと、あれもこれもと頑張ります。

手にはいるように「見える」と書いたのは ・・・ こころは望むことはなんでも「見せてくれる」からです。望めば、それが映しだされて「見える」のです。

「注意をたくさん向けたもの、強く想ったものを素直に目のまえに映しだす」というのがこころの働きそのものです。「見たい」という願望があれば、それは「見る」ことにつながります。

それは、「こころが求めていることは叶えられる」ということでもあるのですが、これは諸刃の剣です。

じつは、こころはニセモノとホンモノの二本立てになっていて、ほぼニセモノに憑依されているからです。そして、その憑依がふつうの状態となっています。

そして、ニセモノが望むのであれば、結果はおのずとニセモノとなり、それは痛みや苦しみや分裂という体験になります。

それでも、「願ったことが叶った」という嬉しさによってカモフラージュされているので、ニセモノのこころが仕切っていることや、その顛末までには気がつきません。

そもそも、幸せになるために「なにか特定なモノを望む」というのは、じつはあまりオススメしない方法です。

なぜなら、「なにか特定なモノを望む」ということは、すでに自分のために存在している無限の宝庫のなかからそれだけをチョキチョキ切り取って、「これだけください。あとのすべてはいりませんから廃棄してください」と言っているようなものです。

つまり、「これが欲しいのだ!」と執着するのは、自分がもっていたあらゆるものの中からほんの小さなものだけを選びだして、他のすべてを失うことであり、全体から小さく切り取られたえたいのしれないものを大切にしている、ということになります。

だから、いくら手にしてもほんとうに満足がえられず、またふたたび別のものを選んでチョキチョキすることになります。

それはまるで、大きく立派においしげる木からその美しい枝のひとつを切り取って自分のものにしたのはいいけれど、自分が握りしめている小枝はすでに死んでしまって、意味のない棒っきれになっている、というようなもの。一方、目もくれなかった大きな木は今もいきいきと生い茂っているのです。


エゴはとにかくスペシャルになりたいので、自分が手にしているものが死んでいようが意味がなかろうがどうでもいいのです。

「自分が欲しいものを自分で手にいれた!」という慢心のほうをエゴは大切にするのです。たとえ、手にしたものがゴミのような意味のないものであったとしてもそのことに気がつきません。

イソップ物語のなかに、肉をくわえた犬が水面に映った自分の姿をうらやんで、その肉を手にいれようと吠えたら、くわえていた肉がぽちゃんと水のなかに落ちてしまった、というお話があります。

すでにもっていることを忘れて、「それこそが欲しいのだ!」と水に映る幻を求めたことで、すでにもっていたものは失われてしまったのでした。

どうやらこの犬と同様に、私たちも「もっていること」がわからないことが問題なのかもしれません。その欠乏感から求めることをやめられずにいます。

そして、求めることは失うことだと気づくことができません。

けれども、「あっちだ!こっちだ!」と意識が外へ外へと向いていたら、自分の内側がすでに満たされていることに気づくことができず、それはまったくないことと同様なのです。

私たちが目にする世界は物理的に外にあるのではなく、こころの状態を映し出しているスクリーンなので、まずこころを整える、正しいこころに立て直すことがなによりも大切なのです。

こころを立て直すことは、すべてを与えられている自分を受け入れることでもあるのです。

不足を信じるこころに騙されてなにかを強く追い求めるよりも、まず「私がすでに与えられているすべてを知ることができますように」「それらを受けいれて目にすることができますように」とハイヤーセルフにお願いすることからはじめます。

正しいこころで「見る」ことができるようになることが、すべての豊かさにつながります。

そうすることによって、幻を追い求めながら満たされずにさまよいつづけるのではなく、「すでにあるのだ」という正しい目線から生まれる豊かさを映しだして「見る」ことができるようになります。

そしてそのとき、身体という小さなものの目で世界を見るのではなく、こころの目で世界を見るようにします。

背景のなかに静かに下がっていって、全体をこころで見てみましょう。ホンモノの自分として、全体を見てみましょう。

それは、外にあると思っていた世界が自分のこころのなかにあり、それらはちりぢりばらばらのこま切れではなく、ぜんぶが自分とひとつのものであり、すでに満たされているという感覚があります。

その目線から、ハイヤーセルフに豊かさの知覚をおしえてもらいましょう。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

20-01-29 何かを強く願うよりも・・・

「このことをうまくいかせたい」「あれを手に入れたい」「これをぜったい叶えたい」・・・

このように自分の願望を実現したいとき、そのことに集中しているとそれが手にはいるように「見えます」。

はい、たしかに!

そして、「引寄せることができた!」「自分でつくれた!」と感じてうれしくなります。そしてもっともっと、あれもこれもと頑張ります。

手にはいるように「見える」と書いたのは ・・・ こころは望むことはなんでも「見せてくれる」からです。望めば、それが映しだされて「見える」のです。

「注意をたくさん向けたもの、強く想ったものを素直に目のまえに映しだす」というのがこころの働きそのものです。「見たい」という願望があれば、それは「見る」ことにつながります。

それは、「こころが求めていることは叶えられる」ということでもあるのですが、これは諸刃の剣です。

じつは、こころはニセモノとホンモノの二本立てになっていて、ほぼニセモノに憑依されているからです。そして、その憑依がふつうの状態となっています。

そして、ニセモノが望むのであれば、結果はおのずとニセモノとなり、それは痛みや苦しみや分裂という体験になります。

それでも、「願ったことが叶った」という嬉しさによってカモフラージュされているので、ニセモノのこころが仕切っていることや、その顛末までには気がつきません。

そもそも、幸せになるために「なにか特定なモノを望む」というのは、じつはあまりオススメしない方法です。

なぜなら、「なにか特定なモノを望む」ということは、すでに自分のために存在している無限の宝庫のなかからそれだけをチョキチョキ切り取って、「これだけください。あとのすべてはいりませんから廃棄してください」と言っているようなものです。

つまり、「これが欲しいのだ!」と執着するのは、自分がもっていたあらゆるものの中からほんの小さなものだけを選びだして、他のすべてを失うことであり、全体から小さく切り取られたえたいのしれないものを大切にしている、ということになります。

だから、いくら手にしてもほんとうに満足がえられず、またふたたび別のものを選んでチョキチョキすることになります。

それはまるで、大きく立派においしげる木からその美しい枝のひとつを切り取って自分のものにしたのはいいけれど、自分が握りしめている小枝はすでに死んでしまって、意味のない棒っきれになっている、というようなもの。一方、目もくれなかった大きな木は今もいきいきと生い茂っているのです。


エゴはとにかくスペシャルになりたいので、自分が手にしているものが死んでいようが意味がなかろうがどうでもいいのです。

「自分が欲しいものを自分で手にいれた!」という慢心のほうをエゴは大切にするのです。たとえ、手にしたものがゴミのような意味のないものであったとしてもそのことに気がつきません。

イソップ物語のなかに、肉をくわえた犬が水面に映った自分の姿をうらやんで、その肉を手にいれようと吠えたら、くわえていた肉がぽちゃんと水のなかに落ちてしまった、というお話があります。

すでにもっていることを忘れて、「それこそが欲しいのだ!」と水に映る幻を求めたことで、すでにもっていたものは失われてしまったのでした。

どうやらこの犬と同様に、私たちも「もっていること」がわからないことが問題なのかもしれません。その欠乏感から求めることをやめられずにいます。

そして、求めることは失うことだと気づくことができません。

けれども、「あっちだ!こっちだ!」と意識が外へ外へと向いていたら、自分の内側がすでに満たされていることに気づくことができず、それはまったくないことと同様なのです。

私たちが目にする世界は物理的に外にあるのではなく、こころの状態を映し出しているスクリーンなので、まずこころを整える、正しいこころに立て直すことがなによりも大切なのです。

こころを立て直すことは、すべてを与えられている自分を受け入れることでもあるのです。

不足を信じるこころに騙されてなにかを強く追い求めるよりも、まず「私がすでに与えられているすべてを知ることができますように」「それらを受けいれて目にすることができますように」とハイヤーセルフにお願いすることからはじめます。

正しいこころで「見る」ことができるようになることが、すべての豊かさにつながります。

そうすることによって、幻を追い求めながら満たされずにさまよいつづけるのではなく、「すでにあるのだ」という正しい目線から生まれる豊かさを映しだして「見る」ことができるようになります。

そしてそのとき、身体という小さなものの目で世界を見るのではなく、こころの目で世界を見るようにします。

背景のなかに静かに下がっていって、全体をこころで見てみましょう。ホンモノの自分として、全体を見てみましょう。

それは、外にあると思っていた世界が自分のこころのなかにあり、それらはちりぢりばらばらのこま切れではなく、ぜんぶが自分とひとつのものであり、すでに満たされているという感覚があります。

その目線から、ハイヤーセルフに豊かさの知覚をおしえてもらいましょう。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング