17-12-13 そこにある“完璧さ”をうけとる

Q:「いろいろな本に、“ すべては完璧です ”と書いてあるのを目にします。しかし、私にはその “ 完璧さ ”の意味がまったくわかりません。いろんな状況は、完璧とはほど遠い状態です。いったい “ すべては完璧 ”とは、どういうことなのでしょうか?」

A: たしかに、たしかに ・・・。以前、私もそのように思ったことがありました。「完璧って言われても ・・・ ぜんぜん思うようになってないしぃ〜」って。

そもそも、“ 完璧さ ” ということじたいが、「私が望む」「私がイメージする」私の好きな完璧さではないのです。「私が望む」完璧さは、私の欲求、ニーズにあっていて、私だけに利益があり、私がこうだと信じている幸せへとたどり着くためのもの。

でも、その「私」「私」と声高に主張している存在がクセモノなのです!

「私を幸せにしろ〜〜〜!!(怒)」って。 ・・・ その「私」っていったいどなたですか?

私たちが「私」というとき、それは個人である自分です。身体をもった孤立した私というエゴが、「あの仕事がしたい」だの、「将来こうなりたい」だの、「ああなるべきだ、こうならなければならないのだ」と願望を抱いていて、それが叶わないと「ぜんぜん完璧じゃないじゃない」とぼやきます。

その「あ〜したい、こ〜したい」のベースになっているのは、じつは怖れをベースにした自己防御の気持ちなのです。怯えている気持ちが動機だということです。

怯えているからこそ、自分の主張が叶わないとキケンだわ、安全に生きていけないわ、大変なことになるわとあせりまくり、いろいろな願望としての「あ〜したい、こ〜したい」が生まれてくるわけです。

でも、私たちを運んでくれている大きな人生の流れは、何も怖れることがないまさに「完璧な私」に気づくことに向かって流れているので、そんな小さなエゴのおびえた叫びなど、どうだっていいわけです。

それよりも、「なんでそんなにコワがっているんですか〜?」ということのほうが先決問題です。

「なにがコワいのか?」 ・・・ 私が思うような道筋で、私が思うような成果をあげ、私が思うような成功と幸せをくれ〜〜!、さもないと・・・。こんなにせっぱつまっていて、自分にとっての本当によいことがわかっているのでしょうか?

結局、完璧さとは誰にとっての完璧さなのか ・・・ なのです。

小さなエゴの自分から見た完璧さなのか、それともホンモノの限界のない自分から見た完璧さなのか、ということなのです。そして、それぞれの完璧さには、それなりの結果がついてきます。

無限の宇宙のなかでおびえたように小さくしている存在の幸せは、まわりの大きさにのまれないように闘うことかもしれないし。無限の存在にとっての幸せは、すでにそこにあるので何もしなくてよいことでしょう。ただ受けとるだけ。

私たちはつねに、自分のこころの状態の反映を目にするこになります。自分が小さなエゴとしての自分だと思っている限り、完璧さは見えないし、また覚えることもやめられないというわけです。

エゴが口をひらいて、価値判断したり、文句を言ったり、コントロールしたり、抵抗したり、画策したり ・・・ エゴが参画してくることによって、もともとそこにあった完璧さが跡形なくなくなってしまいます。

「完璧さ」とは、エゴが手をふれていないことによる完璧さなのですね。

だから、人生の流れに対して口をはさみたくなったら、逆にエゴに質問してみましょう?

「なんで、文句を言いたいの?」「なんで自分の思いどおりにならないとイヤなの?」と。結局は、「そうでないと、困る」「大変なことになる」・・・そして「生きていけない」「死んじゃう」というところまでたどりつきます(汗)。

それってホントのこと? とりあえず今は生きているし・・・。今ここには問題はないし。 ・・・ そして、今に問題がなければ、それでOKなはず。未来だって、いつも今になるわけだし。

エゴが叫んでいるときには、ただ静かに見守っていてあげましょう(そう、この見ている方がホンモノの自分です!)。しだいにエゴの大騒ぎも静かになって消え去ってしまいます。相手にしなければ消え去るのですね。

また、しばらくするとエゴは参戦してくるかもしれませんが、そのたびに静かに見てあげましょう。見るやいなや、エゴは口を閉ざしてしまうのもおもしろいところです(けっこう素直じゃありませんこと?!)。

このくり返しで、うるさいエゴもだんだんと静かになってゆきます。

ホンモノかニセモノか、どっちの自分を大切にするのか? 大切にしたほうが健やかに育ってしまうというわけです。

「完璧さ」を知りたかったら、静かにしてみること。ニセモノの自分を。

「完璧さ」は、エゴに黙ってもらって、この今という現実に指一本ふれないでいてもらうことで現れてきます。

それは、忍耐するこころと信頼する力も必要となります。何か言いたくてもジッと口を閉ざし、静かに見守りながら待つこと。

エゴの提供しようとする幸せは、どれも最後にはくじかれて痛みに変わって、私たちを苦しめるけれど、この現実という流れのなかにもともとそなわっている完璧さは、エゴの妨害さえなければちゃんと花ひらいてくれるものなのです。

なので、エゴのおしゃべりが始まったら、すぐに気づいて、そこから離れて、ただ見てみることをしましょう。そして、本当の自分であるハイヤーセルフをたびたび思い出して、しっかりとナビをしてもらえるようにお願いいたしましょう。

「完璧さ」は創り出すものではなくて、すでにそこにあるもの。私たちがエゴで汚さない限りは、静かに受けとることができる贈りものなのですね。 ( ・◡・ )♫

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

気づきの日記「そこにある“完璧さ”をうけとる」

Q:「いろいろな本に、“ すべては完璧です ”と書いてあるのを目にします。しかし、私にはその “ 完璧さ ”の意味がまったくわかりません。いろんな状況は、完璧とはほど遠い状態です。いったい “ すべては完璧 ”とは、どういうことなのでしょうか?」

A: たしかに、たしかに ・・・。以前、私もそのように思ったことがありました。「完璧って言われても ・・・ ぜんぜん思うようになってないしぃ〜」って。

そもそも、“ 完璧さ ” ということじたいが、「私が望む」「私がイメージする」私の好きな完璧さではないのです。「私が望む」完璧さは、私の欲求、ニーズにあっていて、私だけに利益があり、私がこうだと信じている幸せへとたどり着くためのもの。

でも、その「私」「私」と声高に主張している存在がクセモノなのです!

「私を幸せにしろ〜〜〜!!(怒)」って。 ・・・ その「私」っていったいどなたですか?

私たちが「私」というとき、それは個人である自分です。身体をもった孤立した私というエゴが、「あの仕事がしたい」だの、「将来こうなりたい」だの、「ああなるべきだ、こうならなければならないのだ」と願望を抱いていて、それが叶わないと「ぜんぜん完璧じゃないじゃない」とぼやきます。

その「あ〜したい、こ〜したい」のベースになっているのは、じつは怖れをベースにした自己防御の気持ちなのです。怯えている気持ちが動機だということです。

怯えているからこそ、自分の主張が叶わないとキケンだわ、安全に生きていけないわ、大変なことになるわとあせりまくり、いろいろな願望としての「あ〜したい、こ〜したい」が生まれてくるわけです。

でも、私たちを運んでくれている大きな人生の流れは、何も怖れることがないまさに「完璧な私」に気づくことに向かって流れているので、そんな小さなエゴのおびえた叫びなど、どうだっていいわけです。

 それよりも、「なんでそんなにコワがっているんですか〜?」ということのほうが先決問題です。

「なにがコワいのか?」 ・・・ 私が思うような道筋で、私が思うような成果をあげ、私が思うような成功と幸せをくれ〜〜!、さもないと・・・。こんなにせっぱつまっていて、自分にとっての本当によいことがわかっているのでしょうか?

結局、完璧さとは誰にとっての完璧さなのか ・・・ なのです。

小さなエゴの自分から見た完璧さなのか、それともホンモノの限界のない自分から見た完璧さなのか、ということなのです。そして、それぞれの完璧さには、それなりの結果がついてきます。

無限の宇宙のなかでおびえたように小さくしている存在の幸せは、まわりの大きさにのまれないように闘うことかもしれないし。無限の存在にとっての幸せは、すでにそこにあるので何もしなくてよいことでしょう。ただ受けとるだけ。

私たちはつねに、自分のこころの状態の反映を目にするこになります。自分が小さなエゴとしての自分だと思っている限り、完璧さは見えないし、また覚えることもやめられないというわけです。

エゴが口をひらいて、価値判断したり、文句を言ったり、コントロールしたり、抵抗したり、画策したり ・・・ エゴが参画してくることによって、もともとそこにあった完璧さが跡形なくなくなってしまいます。

「完璧さ」とは、エゴが手をふれていないことによる完璧さなのですね。

だから、人生の流れに対して口をはさみたくなったら、逆にエゴに質問してみましょう?

「なんで、文句を言いたいの?」「なんで自分の思いどおりにならないとイヤなの?」と。結局は、「そうでないと、困る」「大変なことになる」・・・そして「生きていけない」「死んじゃう」というところまでたどりつきます(汗)。

それってホントのこと? とりあえず今は生きているし・・・。今ここには問題はないし。 ・・・ そして、今に問題がなければ、それでOKなはず。未来だって、いつも今になるわけだし。

エゴが叫んでいるときには、ただ静かに見守っていてあげましょう(そう、この見ている方がホンモノの自分です!)。しだいにエゴの大騒ぎも静かになって消え去ってしまいます。相手にしなければ消え去るのですね。

また、しばらくするとエゴは参戦してくるかもしれませんが、そのたびに静かに見てあげましょう。見るやいなや、エゴは口を閉ざしてしまうのもおもしろいところです(けっこう素直じゃありませんこと?!)。

このくり返しで、うるさいエゴもだんだんと静かになってゆきます。

ホンモノかニセモノか、どっちの自分を大切にするのか? 大切にしたほうが健やかに育ってしまうというわけです。

「完璧さ」を知りたかったら、静かにしてみること。ニセモノの自分を。

「完璧さ」は、エゴに黙ってもらって、この今という現実に指一本ふれないでいてもらうことで現れてきます。

それは、忍耐するこころと信頼する力も必要となります。何か言いたくてもジッと口を閉ざし、静かに見守りながら待つこと。

エゴの提供しようとする幸せは、どれも最後にはくじかれて痛みに変わって、私たちを苦しめるけれど、この現実という流れのなかにもともとそなわっている完璧さは、エゴの妨害さえなければちゃんと花ひらいてくれるものなのです。

なので、エゴのおしゃべりが始まったら、すぐに気づいて、そこから離れて、ただ見てみることをしましょう。そして、本当の自分であるハイヤーセルフをたびたび思い出して、しっかりとナビをしてもらえるようにお願いいたしましょう。

「完璧さ」は創り出すものではなくて、すでにそこにあるもの。私たちがエゴで汚さない限りは、静かに受けとることができる贈りものなのですね。 ( ・◡・ )♫

 

 

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17-12-07 なにも握らない・・・

「私たちって、ホントなんでもかんでも握りしめちゃいますよね〜」。

クライエントのAさんと話しあっていたのは、すでに過ぎ去ったことに対して、私たちがいつまでも執拗に「あ〜だ、こ〜だ」とこころのなかでこだわりつづけることについて。それは、自分を責めていることもあれば、他人に不平不満を言いつづけていることもあります。

たまに、ブツブツとあるいは大声でしゃべりまくるオジサンに道ばたで出くわしたりしますが、もし私たちのこころに拡声器がついていたなら、まあ、同じような状態になることでしょう(汗)。

私たちがこころのなかでぶつぶつ言いつづけるそのパワーと執念といったら ・・・。外にもれ聞こえてこないだけ幸いです。

テレビをつけると、ワイドショーやら報道番組のほとんどが、すでに過ぎさった過去の出来事について、当事者でもないのに、何時間も何週間も「あ〜だこ〜だ」「誰が悪い」「こうするべきだった」と論じ続けています。

もう過ぎ去ってしまって、ここにはないことをいじくるのに、多大な労力を注いでいるようです。

時間というものは一瞬一瞬あたらしくやってくるというのに、私たちのこころはあたらしい時間のすべてを過去というペンキであっというまに塗りつぶしてしまい、過去と同じ時間にしてしまうようです。

まっさらな時という「贈りもの」は、おなじみの汚れたペンキでべとべとです(汗)。

幼いこどもがお母さんのエプロンのはしをぎゅっと握りしめることにはじまって、さらにお気に入りの毛布やぬいぐるみを握りしめ ・・・

だんだん大人になるにつれて握りしめることから卒業するのかと思いきや、たんに対象がすり変わるだけで、握りしめるということはあからさまに、あるいはこっそりとつづけられてゆきます。

親、パートナー、こどもを握りしめ(依存し)、さらにお金、ステータス、美しさ、習慣(お酒、ギャンブル、タバコ、過食、ショッッピング・・・)を握りしめ。また、ひきこもりやウツといったこころの状態も、つらい記憶も握りしめているもののひとつです。

このように、私たちは日々、人やモノ、感情、思い、出来事、行為、記憶を握りしめつづけます。

いくつかの握りしめ状態はそうとう強固に長時間つづいたため、握りしめていることさえまったく気づかなくなってしまうこともあります(「私は何も握りしめていませんよ!」と思われた方、そうなっている可能性も・・・)。

何かを全力で握りしめつづけると、手はその状態に固まってしまい、握りしめているという自覚さえなくなってしまうのですね。いわば、麻痺状態。そうなると、もはやどう手を開いていいのかわかりません。手放してください、と言われてもなんのことかわからなくなってしまうのです。

こんなにさまざまなものを握りしめつづける私たちは、千手観音のようにたくさんの手が必要になります。手が足りなくなれば、ついには着ぐるみのように頭からかぶってしまうかもしれません。

そうなると、もはや自分が誰であるのか、人はおろか自分にとってもまったく正体不明となります。

私たちが幸せを目指したいと思うなら ・・・ じつは「引き算」がかかせないのです。

握りしめているものも、かぶっちゃっているものも、自分でないものをひとつ残らず、ことごとく取り去ってゆく必要があります。取り去ってしまえば、何もしなくてもホンモノが出てきます。

ところが、「握りしめ」が起こるというのは、怖れを感じているからなのです。コワイからつかんでいたい、つかんで自分のものにしてしまいたい。つまり、自分に「つけ足したい」という「足し算」の衝動が、握りしめるという行動をひき起こしています(これじゃ、ホンモノの自分とは逆方向!)。

そんなコワさから、何でもかんでもとりあえず去らせない、行かせない。握りしめて、ためておけば、安心 ・・・ みたいな。(^^;;

残念ながら「ほんとうの自分」というものは、何かをつけ足してせっせと創りあげてゆくものではなく、はじめっからそこに輝いているものです。今も無傷で。なにひとつ不純物があってはいけないのです。

ほんとうの自分を知りたかったら、何ひとつとして握らないし、掴まないし、とどめてもいけないのです。

だから、思いも、感情も、出来事も、行為、記憶も ・・・自分というスペースのなかにあらわれたら、さらさらと小川の流れのごとく通りぬけさせてあげなければなりません。何ひとつとして跡形も残さずに。

すべて、 自分というスペースを横切ってゆく通行人のようなもの。家のまえを歩いてゆくただの通行人にいちいち声をかけて引きとめて、意見を言ったり、ダメだしをしたり、文句を言ったり、指図をしたりしないように。思いも、感情も、出来事も、行為、記憶も、そのままほっておいてあげてよいのです。

まったくコメントせず、価値判断せず、口を開かず、指一本ふれません。見てるだけ。なんせ通行人ですから。さっさと通りすぎもらいます。

でも、いったん声をかけたり、ちょっかいを出したり、かかわってしまおうものなら、その通行人は親切にもそこにとどまって、ずっと相手をしてくれるというわけです。

思いも、感情も、出来事も、行為も 、記憶も、あるがままにほっておきさえすれば、あとかたもなく消え去ってゆくのです。そして、こころのスペースには、余計なものがない状態となります。

さて ・・・ 余計なものがないスペースには何があるのでしょうか? ・・・ 静けさ、安らぎ、穏やかさ、そしてホンモノの自分といる喜び ・・・。

そして、さらに、私たちが絶対握りしめて放したくない「私」という思いも、手をゆるめて放してしまいましょう。

「私」という思いが強くなると、何が起こるかというと ・・・

「私」という思いは、「私」以外のその他大勢をつくりだし、孤独や分離、疎外感を強めます。

さまざまな美しさが映りこむ一枚の世界という集合写真のなかから、「私」だけハサミでジョキジョキ切り離して別のところにもっていってしまうということ。全体という完全さから、「私」だけを切り抜いてしまうのです。

すでにそこには調和、完全さ、美しさがあったのに、「私」という意識こそが自分をそこから追放してしまい、孤立させてしまうのです。そうすると、自ら全体からの完全さを受けとれない状態をつくってしまいます。自分だけ離れ小島に隔離されて、なんの供給もない状態をつくりだしてしまうのです。

不思議です。「私」という意識がなければ、「その他大勢」は存在しません。そして、「私」という感覚がなくなってゆくと、全部が自分になってゆくのです。そして、「私」がなくなると、じつは問題というものも存在できなくなってくるのです(「私」と「あなた」という摩擦があるところにだけ、問題は生じます)。

「握りしめない」ということは、こだわらない、ということ。

感情にしろ、出来事にしろ、何かが気になっていて握りしめているなと思ったら、ただ立ち止まって、それに気づいてみてください。そう考えたがっている、そう感じたがっている自分がいるということを、ただ静かに客観的に気づいています。ただ眺めてみるだけで言葉はいりません。

そうすると、もうそれを放していることに気がつきます。握りしめることなく、姿を消してゆきます。

握りしめてしまったあとでも、意識的になることですぐにそれをやめることができます。

また、「握りしめたがっている」自分がいたら、「なぜ?」と聞いてみてください。そのこころの声に耳を傾けてあげることも大切なことなのです。聞いてあげないからこそ、叫びつづけます。

耳を傾けることで、そこに傷ついたままの自分が声をあげているのに気がつくかもしれません。その自分に対して「もう、大丈夫だから」と声をかけながら、気づかって安心させてあげてください。

何も握りしめないでいると、自分のなかにもともとある宝ものに気づくことができるようになります。そことつながることによって、握りしめる必要もなくなるのです。

自分のなかがクリアになってくると、そこには今までなかった静けさ、穏やかさ、平和、安らぎ、愛を見つけることができるようになるかもしれません。

 

 

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気づきの日記「なにも握らない・・・」

「私たちって、ホントなんでもかんでも握りしめちゃいますよね〜」。

クライエントのAさんと話しあっていたのは、すでに過ぎ去ったことに対して、私たちがいつまでも執拗に「あ〜だ、こ〜だ」とこころのなかでこだわりつづけることについて。それは、自分を責めていることもあれば、他人に不平不満を言いつづけていることもあります。

たまに、ブツブツとあるいは大声でしゃべりまくるオジサンに道ばたで出くわしたりしますが、もし私たちのこころに拡声器がついていたなら、まあ、同じような状態になることでしょう(汗)。

私たちがこころのなかでぶつぶつ言いつづけるそのパワーと執念といったら ・・・。外にもれ聞こえてこないだけ幸いです。

テレビをつけると、ワイドショーやら報道番組のほとんどが、すでに過ぎさった過去の出来事について、当事者でもないのに、何時間も何週間も「あ〜だこ〜だ」「誰が悪い」「こうするべきだった」と論じ続けています。

もう過ぎ去ってしまって、ここにはないことをいじくるのに、多大な労力を注いでいるようです。

時間というものは一瞬一瞬あたらしくやってくるというのに、私たちのこころはあたらしい時間のすべてを過去というペンキであっというまに塗りつぶしてしまい、過去と同じ時間にしてしまうようです。

まっさらな時という「贈りもの」は、おなじみの汚れたペンキでべとべとです(汗)。

幼いこどもがお母さんのエプロンのはしをぎゅっと握りしめることにはじまって、さらにお気に入りの毛布やぬいぐるみを握りしめ ・・・

だんだん大人になるにつれて握りしめることから卒業するのかと思いきや、たんに対象がすり変わるだけで、握りしめるということはあからさまに、あるいはこっそりとつづけられてゆきます。

親、パートナー、こどもを握りしめ(依存し)、さらにお金、ステータス、美しさ、習慣(お酒、ギャンブル、タバコ、過食、ショッッピング・・・)を握りしめ。また、ひきこもりやウツといったこころの状態も、つらい記憶も握りしめているもののひとつです。

このように、私たちは日々、人やモノ、感情、思い、出来事、行為、記憶を握りしめつづけます。

いくつかの握りしめ状態はそうとう強固に長時間つづいたため、握りしめていることさえまったく気づかなくなってしまうこともあります(「私は何も握りしめていませんよ!」と思われた方、そうなっている可能性も・・・)。

何かを全力で握りしめつづけると、手はその状態に固まってしまい、握りしめているという自覚さえなくなってしまうのですね。いわば、麻痺状態。そうなると、もはやどう手を開いていいのかわかりません。手放してください、と言われてもなんのことかわからなくなってしまうのです。

こんなにさまざまなものを握りしめつづける私たちは、千手観音のようにたくさんの手が必要になります。手が足りなくなれば、ついには着ぐるみのように頭からかぶってしまうかもしれません。

そうなると、もはや自分が誰であるのか、人はおろか自分にとってもまったく正体不明となります。

私たちが幸せを目指したいと思うなら ・・・ じつは「引き算」がかかせないのです。

握りしめているものも、かぶっちゃっているものも、自分でないものをひとつ残らず、ことごとく取り去ってゆく必要があります。取り去ってしまえば、何もしなくてもホンモノが出てきます。

ところが、「握りしめ」が起こるというのは、怖れを感じているからなのです。コワイからつかんでいたい、つかんで自分のものにしてしまいたい。つまり、自分に「つけ足したい」という「足し算」の衝動が、握りしめるという行動をひき起こしています(これじゃ、ホンモノの自分とは逆方向!)。

そんなコワさから、何でもかんでもとりあえず去らせない、行かせない。握りしめて、ためておけば、安心 ・・・ みたいな。(^^;;

残念ながら「ほんとうの自分」というものは、何かをつけ足してせっせと創りあげてゆくものではなく、はじめっからそこに輝いているものです。今も無傷で。なにひとつ不純物があってはいけないのです。

ほんとうの自分を知りたかったら、何ひとつとして握らないし、掴まないし、とどめてもいけないのです。

だから、思いも、感情も、出来事も、行為、記憶も ・・・自分というスペースのなかにあらわれたら、さらさらと小川の流れのごとく通りぬけさせてあげなければなりません。何ひとつとして跡形も残さずに。

すべて、 自分というスペースを横切ってゆく通行人のようなもの。家のまえを歩いてゆくただの通行人にいちいち声をかけて引きとめて、意見を言ったり、ダメだしをしたり、文句を言ったり、指図をしたりしないように。思いも、感情も、出来事も、行為、記憶も、そのままほっておいてあげてよいのです。

まったくコメントせず、価値判断せず、口を開かず、指一本ふれません。見てるだけ。なんせ通行人ですから。さっさと通りすぎもらいます。

でも、いったん声をかけたり、ちょっかいを出したり、かかわってしまおうものなら、その通行人は親切にもそこにとどまって、ずっと相手をしてくれるというわけです。

思いも、感情も、出来事も、行為も 、記憶も、あるがままにほっておきさえすれば、あとかたもなく消え去ってゆくのです。そして、こころのスペースには、余計なものがない状態となります。

さて ・・・ 余計なものがないスペースには何があるのでしょうか? ・・・ 静けさ、安らぎ、穏やかさ、そしてホンモノの自分といる喜び ・・・。

そして、さらに、私たちが絶対握りしめて放したくない「私」という思いも、手をゆるめて放してしまいましょう。

「私」という思いが強くなると、何が起こるかというと ・・・

「私」という思いは、「私」以外のその他大勢をつくりだし、孤独や分離、疎外感を強めます。

さまざまな美しさが映りこむ一枚の世界という集合写真のなかから、「私」だけハサミでジョキジョキ切り離して別のところにもっていってしまうということ。全体という完全さから、「私」だけを切り抜いてしまうのです。

すでにそこには調和、完全さ、美しさがあったのに、「私」という意識こそが自分をそこから追放してしまい、孤立させてしまうのです。そうすると、自ら全体からの完全さを受けとれない状態をつくってしまいます。自分だけ離れ小島に隔離されて、なんの供給もない状態をつくりだしてしまうのです。

不思議です。「私」という意識がなければ、「その他大勢」は存在しません。そして、「私」という感覚がなくなってゆくと、全部が自分になってゆくのです。そして、「私」がなくなると、じつは問題というものも存在できなくなってくるのです(「私」と「あなた」という摩擦があるところにだけ、問題は生じます)。

「握りしめない」ということは、こだわらない、ということ。

感情にしろ、出来事にしろ、何かが気になっていて握りしめているなと思ったら、ただ立ち止まって、それに気づいてみてください。そう考えたがっている、そう感じたがっている自分がいるということを、ただ静かに客観的に気づいています。ただ眺めてみるだけで言葉はいりません。

そうすると、もうそれを放していることに気がつきます。握りしめることなく、姿を消してゆきます。

握りしめてしまったあとでも、意識的になることですぐにそれをやめることができます。

また、「握りしめたがっている」自分がいたら、「なぜ?」と聞いてみてください。そのこころの声に耳を傾けてあげることも大切なことなのです。聞いてあげないからこそ、叫びつづけます。

耳を傾けることで、そこに傷ついたままの自分が声をあげているのに気がつくかもしれません。その自分に対して「もう、大丈夫だから」と声をかけながら、気づかって安心させてあげてください。

何も握りしめないでいると、自分のなかにもともとある宝ものに気づくことができるようになります。そことつながることによって、握りしめる必要もなくなるのです。

自分のなかがクリアになってくると、そこには今までなかった静けさ、穏やかさ、平和、安らぎ、愛を見つけることができるようになるかもしれません。

 

 

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11月の「ヒプノセラピー体験セミナー」by 日本ヒプノセラピー協会 のご案内

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

次回の「ヒプノセラピー体験セミナー」は、新年あけて1月の開催です。

わたしたちの忙しい日常生活のなかでは、なかなか自分の「こころ」と向きあう機会をもつことができません。しかし、私たちの「こころ」こそが、幸せや安らぎを見つけることができる唯一の場所であり、またほんとうの自分と出会える場所でもあります。

ぜひ、新しい年の始まりに、ヒプノについて学びながら、ふだんは縮こまってしまっている「こころ」をゆったりとストレッチさせてあげる時間をとってみてください。

いままでの体験セミナーは平日夜の開催でしたが、今回は日曜日の午後となっております。

ヒプノセラピーについて知りたい方も、リラックスしたみたい方も、ただ遊びにいらっしゃりたい方も、休日のひととき、ぜひお気軽にご参加ください。

1月の開催は以下のとおりです。

【 ヒプノセラピー体験プチセミナー 1 月 のご案内】

「ヒプノセラピーってなに?」「どんな効果があるの?」「誰にでもできるの?」「ほかのセラピーとどう違うの?」「セラピストになるには?」・・・

リラックスした雰囲気のなかで、ヒプノセラピーについてのあれこれを学びながら、実際に体験することができるプチセミナーです。日々の疲れがとれたり、あるいは、心について、自分自身について、新たな気づきがあるかもしれません。どなたでも、気軽にご参加ください♪

*内容
・ヒプノセラピーってなに? どんな効果があるの?
・ヒプノセラピーと他のセラピーの違いは?
・ヒプノにかからない人がいる? 誰にでもできるの?
・ヒプノセラピーはなぜそんなに効果的なの?
・リラックスできるヒプノセラピー、プチ体験
・ヒプノセラピストになりたいけど・・・養成コースについてもっと知りたい
・お茶を飲みながら、ヒプノセラピーなんでも Q&A

*日時 : 1 月21日(日) 14:00~15:15

*場所 : 表参道(渋谷区)

*講師 : 古川貴子
(ヒプノセラピスト、日本ヒプノセラピー協会講師)

*参加料 : 2,000円(お茶とお菓子つき)

*お申し込み方法 → こちらのフォームからどうぞ

(「体験コース」参加希望とご記入のうえ、希望の日にちをご明記ください。)
追って詳細をお知らせさせていただきます。

ヒプノセラピーってなに? → こちらから
ヒプノセラピーを受けてみたい → こちらから
ヒプノセラピーを学んでみたい → こちらから(日本ヒプノセラピー協会サイト)

 

最近のお気に入り♡

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ポイントをためはじめてから、スタバ率が高くなっているこのごろです。

徒歩圏内にある8つのスタバを、朝イチ、仕事のあいま、仕事のあと、と時間と曜日で使いわけています。

昨日は仕事終わりに運動もかねて、徒歩15分ほどのいちばん遠いスタバまで。

しかし ・・・ ウォーキングの成果をことごとく台無しにするこのチョイス!(汗)

このシーズンだとジンジャーブレッドラテがお好みですが、今年はこのキャンディーピスタチオのフラペチーノにハマってます。ピスタチオとサクサクのラズベリークッキーがおいし〜♡ けど・・・なんせサイズが大きいのですよ、これ。

お腹ひえひえですが、最近はおトシごろのせいで若干クールダウンが必要なので、ぜんぜんオッケー。(^^;;

二杯分のコーヒー豆(スマトラだ!)、お土産にいただきました♪

 

 

銀杏並木もそろそろ店じまい

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

この秋は、真冬と小春日和が交互にやってくるような日々でした。しかし、そろそろ本格的に寒くなりそう。

外苑の銀杏並木の色づきを見たことがない、というお友だちをご案内して神宮へ。

もうだいぶ散っていましたが、それでも連なる並木のシュッと天にむかうようなシルエットは美しいです。

都内にいても、最後の紅葉が楽しめますね。

 

秋の山手散策

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まるで、デートの王道のような一日。

場所は横浜・・・ あの素敵な洋館、山手十番館からスタート。お二階でフレンチをいただき、

食後は港に見える丘公園(あれ?港が見えない丘公園になってる?!)と、山手の外人墓地や洋館あたりをそぞろ歩き、

元町におりてきて、老舗の喜久家さんでひと休み、お土産のラムボールも忘れずに、

そして船で横浜の夜景を眺めながら帰途につく・・・(残念ながら、ベニスではないので家の入口までとはいきませんが)。

ちなみにデートのお相手は女子ですが(笑)、なんだかはしゃいでしまう一日でした♪

なんたって、このあたりにやって来たのは学生のとき以来なのですもの。あの頃は、山手の異国情緒に憧れたものです。今は、みなとみらい線ができてぐっと近くなったのですよね。また来ようっと!

 

 

 

 

 

山手十番館のフレンチ、とってもおいしかった♡ ・・・ メニューは、前菜いろいろ、シナモンの香りの鳴門金時のポタージュ、かさごと海老、タンシチュー(これ、オイシイ☆)、ラ フランスのアイスクリーム、でした。

 

17-11-25 D・ホフマン、老紳士の恋のゆくえ

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

「リチャード・カーティス脚本」にひかれて見た一本、「素敵なウソの恋まじまい」。

リチャード・カーティスさんは、わたしの好きな作品のひとつである「ラブ アクチュアリー」の監督さん。最近、「アバウト・タイム 〜愛おしい時間について~ 」を最後に監督業を引退されたのです。彼の作品は、ユーモアがあって、どこか哀しくもあり、人生への愛が伝わってくるような何度も観たくなる作品。今回はシナリオだけですが、でもしっかりカーティスさん色でこころが温まります。

バルコニーをお花でいっぱいにしているその老紳士、ホッピーさん(ダスティン・ホフマン)はこころ優しい、けどちょっとばかり不器用。彼が恋したのは、アパートの階下に住む未亡人の老婦人、シルバーさん(ジュディ・デンチ)。

ホッピーさんは奥手すぎて、恋のチャンスがやってきてもぜんぜんものにできないのです(それがまた、なんともカワイイのですが)。そして、愛するシルバーさんがカメを溺愛しているのを見て、カメになりたいとさえ思います。

ある日、シルバーさんはカメのアルフィーがなかなか大きくならないことを不憫に思っていると、ホッピーさんに打ち明けます。ホッピーさんは彼女を喜ばせれば好きになってくれるかも!という魂胆で、カメが大きくなる呪文を伝授するのです。もちろん、そんな呪文では大きくならないので、すでに次なる作戦をねっていました。それは、2日に一度、シルバーさんのベランダにいるカメを少しづつ大きいサイズのカメにすりかえてゆくということ。彼女の喜ぶ顔を見て、さらに愛情もゲットしおう考えたわけです。

その作戦のため、彼は少しづつ大きさの違うカメを100匹手に入れて、共同生活をはじめるのです。そのホッピーさんとカメたちの様子が、ひとつの重大ミッションを目指すチームのようでおかしいのです(と、いってもホッピーさんが一方的にカメたちに話しかけているだけですが)。しかし、そのうち、強力な恋のライバルが出現し・・・、作戦も難航しはじめ・・・。

でも彼のひとこと「愛されなくったって、愛する気持ちはとめられない・・・」。

いくつになろうとも、いったん恋をしたら有頂天になったり落ち込んだり、一生懸命。ほっこりしたいときにオススメの一本です♡ キュートなふたりの様子は、まるで5才の男の子と女の子のようです


ダスティン・ホフマンもすっかり、老紳士がお似合いのおとしとなったのですね。

でも、ショーン・コネリーだって、リチャード・ギアだって、ロバート・デ・ニーロだって、みんなシニアになってからのほうがずっとずっとよい感じでした。余計ないろいろ(・・・ってなんだ?)がすっかりおちて、そのままでいいおダシが出ている・・・ そんな感じ。このジュディ・デンチも、花柄のサンドレスが似合うとってもとってもキュートなおばあちゃんです♡

 

 

お茶の間シネマトーク「D・ホフマン、老紳士の恋のゆくえ」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

「リチャード・カーティス脚本」にひかれて見た一本、「素敵なウソの恋まじまい」。

リチャード・カーティスさんは、わたしの好きな作品のひとつである「ラブ アクチュアリー」の監督さん。最近、「アバウト・タイム 〜愛おしい時間について~ 」を最後に監督業を引退されたのです。彼の作品は、ユーモアがあって、どこか哀しくもあり、人生への愛が伝わってくるような何度も観たくなる作品。今回はシナリオだけですが、でもしっかりカーティスさん色でこころが温まります。

バルコニーをお花でいっぱいにしているその老紳士、ホッピーさん(ダスティン・ホフマン)はこころ優しい、けどちょっとばかり不器用。彼が恋したのは、アパートの階下に住む未亡人の老婦人、シルバーさん(ジュディ・デンチ)。

ホッピーさんは奥手すぎて、恋のチャンスがやってきてもぜんぜんものにできないのです(それがまた、なんともカワイイのですが)。そして、愛するシルバーさんがカメを溺愛しているのを見て、カメになりたいとさえ思います。

ある日、シルバーさんはカメのアルフィーがなかなか大きくならないことを不憫に思っていると、ホッピーさんに打ち明けます。ホッピーさんは彼女を喜ばせれば好きになってくれるかも!という魂胆で、カメが大きくなる呪文を伝授するのです。もちろん、そんな呪文では大きくならないので、すでに次なる作戦をねっていました。それは、2日に一度、シルバーさんのベランダにいるカメを少しづつ大きいサイズのカメにすりかえてゆくということ。彼女の喜ぶ顔を見て、さらに愛情もゲットしおう考えたわけです。

その作戦のため、彼は少しづつ大きさの違うカメを100匹手に入れて、共同生活をはじめるのです。そのホッピーさんとカメたちの様子が、ひとつの重大ミッションを目指すチームのようでおかしいのです(と、いってもホッピーさんが一方的にカメたちに話しかけているだけですが)。しかし、そのうち、強力な恋のライバルが出現し・・・、作戦も難航しはじめ・・・。

でも彼のひとこと「愛されなくったって、愛する気持ちはとめられない・・・」。

いくつになろうとも、いったん恋をしたら有頂天になったり落ち込んだり、一生懸命。ほっこりしたいときにオススメの一本です♡ キュートなふたりの様子は、まるで5才の男の子と女の子のようです


ダスティン・ホフマンもすっかり、老紳士がお似合いのおとしとなったのですね。

でも、ショーン・コネリーだって、リチャード・ギアだって、ロバート・デ・ニーロだって、みんなシニアになってからのほうがずっとずっとよい感じでした。余計ないろいろ(・・・ってなんだ?)がすっかりおちて、そのままでいいおダシが出ている・・・ そんな感じ。このジュディ・デンチも、花柄のサンドレスが似合うとってもとってもキュートなおばあちゃんです♡