気づきの日記「人の顔色をうかがってしまう」

人の反応が気になってしまう、というA子さん。

「人の反応で傷ついてしまうことがあるので、つい人の顔色をうかがってしまいます。どのように接したらよいのかわからず、人づきあいが苦手です」とおっしゃいます。

人の反応ばかりが気になってしまうとき、じつは私たちは人から何かを期待してしまっているのです。

それは、「優しくしてほしい」とか、「いい人だと思われたい」とか、「ちゃんとしていると思われたい」、少なくとも「ヘンな人だと思われたくない」などです。

つまり、「あなたはそれで大丈夫です」「何も間違っていません」という承認を期待しているのです。だから、期待した反応が見出せないと、「私はやっぱり何か間違っているのかもしれない」「人とは違うのかもしれない」と不安になってしまうのです。

私たちは、自分のなかで足りていないものを無意識のうちに人に求めてしまっています。それは、「自信」であったり、「承認」であったり、「愛」であったり、たんに「注意を注いでもらうこと」であったりします。

A子さんの場合も、人との関係のなかで自分が暗に求めていたものが人から得られなかったためにガッカリして傷ついてしまう、ということが起こっていたのです。

相手の反応というものは、予測できるものではありません。

声をかければ返事がかえってくる、親切にすれば感謝される、ああすればこうなる・・・と予測しますが、そうなるとは限りません。「このように接すれば、こういう反応がかえってくる」という方程式があるわけではないので、結果は予測不能です。

どんな反応がかえってくるかは、あくまでも相手の都合なのです。

決してコントロールできない相手の反応に対して、「自分に責任がある」と感じてしまうと混乱を引き起こします。コントロールが及ばないことをコントロールしようと試みているからです。

たとえこちらが好意をもって接したとして、「ムシのいどころが悪い、体調が悪い、問題をかかえている」など、その日の気分の良し悪しで最悪な反応が返ってくることもありえます。あるいは、その人がどのような育ち方をしたのか、どのような経験を重ねてきたのか、どのような気質なのか、神経質だったり、攻撃的だったり、無関心だったり、あることにトラウマがあったりなどさまざまです。それは一見して判断することはできません。

だから、全員が全員、同じ反応を期待できるということではないのです。相手がどんな反応をしようと、それはその人にとってそれ以外にはありえない反応の仕方であり、それでいいのです。

その人の過去のすべてを神さまのように把握できていたのなら、その人の反応のすべてをすぐに赦せるかもしれません。

このような理由から、自分が足りないと思っているものを外に求め、不足を埋めてもらおうとしても、外から思ったように不足分を調達することはできないことがわかります。

相手さえも足りないと感じているかもしれないし、皆それぞれが自分のことで手一杯なのです。

だったら、自分に足りないと思うものは自分自らが満たすしか方法がありません。

いちばん簡単な方法は、何ものとも自分自身を比較しない、ということです。

比較すれば、違いにばかり目がいってしまい、それらの違いを埋めることにばかり囚われてしまいます。それは、いつも自分が足りないという感覚を植えつけてしまいます。そして、本来自分のもっている良さに気づくことができなくなってしまうのです。

私たちはつねに、外からの刺激に気をとられがちなのです。とくに人からの反応は、自分の注意を釘づけにしてしまうこともあります。

「なぜあの人は、私にあんな態度をとったのだろう?」「あの一言はいったいどういう意味だったのだろう?」、そんなことを延々と考えつづけたことはありませんか?

でも、答えは「そのとき、その人はそういう態度しかとれなかった」・・・ただそれだけです。

そして、それはその人のこれまでの人生を眺めてみることで、合点がいくのです。

その態度を気にして、「私は失敗してしまった」とか「嫌われている」とか「無視された」などと、勝手に独自の妄想をでっちあげてしまうことのほうが、よほど自分を傷つけてしまいます。

私たちは外側のことばかりに注意をひかれていると、自分自身のバランスを失ってしまうのです。

自分のハートが、外のことへとグイグイと引っぱられて行くイメージです。

すると、どうしても前のめりになってバランスを崩してしまい、転びそうになってしまいます。もっと引っぱられたなら、ハートがスポッと抜けてしまったように感じることでしょう。

何かに完全に気をとられているときには、まさに自分自身からハートが抜けてしまったようにカラッポに感じられるのです。空虚で、こころもとなく、不安定な感じです。

これが、人のことばかりに気をとられていることによって起こる「自己空洞化現象」です。

そうならないためにも、私たちは人のことばかりに気をとられるのではなく、いつも自分のこころにしっかりと踏みとどまる必要があります。

踏みとどまるというのは、人の反応をそのままにしておくことです。

相手がどうしてそのように反応したのかとか、なぜそんなことを言ったのかなど、相手のエリアにまで侵入せずに自分のエリアにしっかりととどまることです。

相手の表情にばかり気をとられていると、相手の顔のまえに貼りついているような状態になります。そうなると、自分自身はお留守で空洞化してしまうのです。

相手の反応はあくまでも相手の自己都合であり、自分とは何の関係もありません。自分らしい振るまいをしたなら、その先はどうでもよいのです。手放してしまいましょう。

なにごとも相手を中心にして考えたり行動しようとするのではなく、「自分がそうしたいから」「自分にとってそれをすることが自然に感じられるから」「それが自分らしいから」ということを行動のモノサシにしましょう。

そして、自分のこころに従って行動したら、あとは何が起こるか、相手がどのように反応するか、それは自分が関わることではありません。自分の領域のことではないのです。

すべては「自分がそのように振る舞いたかった」という意図が大切なのであって、そのあとの相手の反応は自分の管轄外です。

人に贈りものをするときを考えてみましょう。どのような贈りものでも、贈りたいという気持ちがあってそれを人に贈ります。

受け取った人はそれを開封しないかもしれないし、また誰かにあげてしまうかもしれません。ごみ箱に捨ててしまうことだってありえます。

その人がそれどのようにしようと、それはかまいわないのです。それは受け取った人の自由です。

私たちにとって、それを贈りたいという気持ち、そして贈ったということ、それが自分にとって大切なことだからです。

いつも自分のハートに耳を澄ませるようにしてみましょう。自分のハートに正直になって、ハートが導くように自然にふるまってみましょう。それで間違いはありません。

あなたの贈り物を受け取ったその人は、表面では何の反応も示さないかもしれません。でも、その人の深いところでは、しっかりとあなたからの思いやりや愛を余すことなく受け取っています。そしていつか、表面の意識でもその愛や思いやりに気づいて感謝するかもしれません。

表面にあらわれていなくても、すべてのことは何らかの影響を及ぼしています。そして、与えることと受け取ることは、いつも完璧な関係のなかでで完璧なタイミングで、確実に両者に与えて受け取られているからです。

私たちは自分のハートに正直になりさえすれば、何ひとつ間違うことはありません。静かに自分のハートとつながって行動し、こころのなかで「すべてはこれで大丈夫!これでいい!」とつぶやいてみましょう。

そして、つねに自分らしく、自分の直感に従って行動することに自信をもってみましょう。自分のハートに従うとき、それは自分に喜びをもたらし、自分にとってもまわりの人にとっても必ずよきことにつながってゆくのです。

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