気づきの日記「怒りとは・・・自分を傷つけてしまうもの」

先日、クリニックに健診の結果を聞きに行ったとき、待合室でやたらと声をはりあげている男性がいました。

看護師さん相手に「不審者が来たみたいな顔をしやがって!」と大声をだしているのです。

最初は、顔見知り同士で冗談を言いあっているのかしら?・・・と見ていたのですが、その後も男性の言動はエスカレートし、「座るところがね~んだよ!」「まったくおせ~なぁ!」「どいつもこいつも・・・」「チッ!」と、まるで今にも椅子を蹴飛ばしそうな剣幕です。

看護師さんたちも「あの人はいったいなぜ怒っているのかしら?」とびくびく困惑顔。

見ているかぎりでは「何かがあった」というより、完全に「怒りたいから怒っている」、そして「怒っているうちに止まらなくなってしまった」という感じでした。

怒りはあくまでも個人的な感情です。

なぜなら、全員が全員、そのような場面で同じ怒りを感じるわけではないからです。

他の人にとっては何でもないことであっても、その人にとっては腹わたが煮えくりかえるような怒りを感じる出来事となってしまうのです。その違いとはいったいなんでしょうか?

怒りを引き起こすのはいつも、私たちのこころにかかったフィルターの仕業であり、決して外側で起きている物事が原因なのではありません。

こころのフィルターとは、ものごとを「どのように認知するのか」を決める自分独自の解釈のことです。このこころのフィルターに余計なものがたくさんついて汚れてしまっていると、ものごとが歪んで知覚されるため、そこから間違った反応が引き起こされます。

こころのフィルターについた汚れの主なものは、自己嫌悪・無価値感・劣等感・罪悪感などです。

汚れのせいでものごとが歪んで見えるので、その状況は自分にとって脅威と感じられ、「自分を守らなければならない。そのためには、外に対して先制攻撃をしかけるべき・・・」「そうすれば、自分は安全だし、欲しいものが手に入る」、そう勘違いして攻撃的な言動へと駆り立てられてしまいます。

こころのフィルターに余計なものがついていなければ、私たちはものごとを歪めることなくあるがままに知覚できるので、そこには脅威となるものもキケンなものも存在しないのです。

まさに怒りとは、ものごとの間違った解釈から引き起こされる「弱い自分を保護するための威嚇行動」であり、「やられてしまわないための先制攻撃」であり、「自分が手にしたいものを手にしようとする手段」なのです。それは強さとは何の関係もなく、びくびくと怯えた弱さの証です。

この男性も、そもそも自分のことを「不審者みたいだ」と思っていなかったら、ただ目があっただけの看護師さんに「不審者扱いしやがって」と詰め寄ることはありません。さらに、自分のことを「しいたげられている存在」と信じていなかったら、椅子があいていなければただ立って待っていたことでしょう。

怒りの原因は外側の出来事とは関係がなく、「自分とはどういう存在なのか」という自分の解釈に基づいています。その自分という存在の解釈が歪んでいて「お粗末」であると、そのお粗末さを証明するような事柄をあちこちに見つけだし、それに対して腹を立てることになります。しかし、自分をお粗末だと決めたのは誰でもなく、まさに自分自身なのです。

もし自分に対して正当な自尊心をもっていたのなら、私たちは穏やかな気持ちで行動することができることでしょう。

「自分には価値がない」とか「相手にしてもらえない」などという勝手な自己認識こそが自分を苦しめてしまう原因であり、その間違った自己認識ゆえに世界が自分に敵対しているように感じられてしまい、怒らずにはいられなくなってしまうのです。

すべては、自分をどのような存在だと認識しているかにかかっているので、その間違った認識に気づくことでそれを正してあげることができます。

怒りについてやっかいなことは、怒りをぶちまけるとそのときは一時的に「爽快感」を感じられる、ということです。

非力だと感じていた自分が急にパワフルになったように感じ、周りを支配できるような威厳が感じられるのです。また、自分のなかに永らく抑圧してきたイヤな感情を、ついに吐き出すことがでたという爽快感もあります。

そのため、怒りは中毒性があるのです。相手を攻撃できるようなチャンスがあれば見過ごすことなく、すかさず怒りをぶちまけようと待ち構えます。

けれど、その後のなりゆきを見てみると、けっして「怒って気持ちがよかった!!」だけではすまされません。

怒ったそのあとには、なぜか憂鬱感、罪悪感、落ちこみ・・・などの心理的な不調や、あるいは痛い思いをする、ケガをする、もっと悪くすると病気になるなど、自分にとって心地よくない身体的な問題が起こります。

たいていの人はこれらの心理的・身体的不快感を自分の怒りと関連づけて考えることはないので、怒りと不快感とのつながりは見落とされています。

しかし、私たちのこころには正義というものがあり、不均衡を正そうと働いています。

こころは自分の勝手な解釈で他の人を攻撃してしまったこと、それは決してフェアではないことがわかっていて、罪悪感を感じます。そして、もしかすると報復されるかもしれないし、何らかの罰が下されるのでは・・・と怯えるのです。

そうであるなら、そんなことが起こってしまうまえに「自分で自分を罰しておけば、それで差し引きゼロになるはず!」と考え、怒りをぶちまけたあとに自分が痛い思いをしたり、気分が悪くなるようなことを起こして、バランスをとることで「自分の身を守る」ということをするのです。

これは、私は人を叩いてしまった。けれど、自分のことも二倍ボコボコに叩いておきましたから、どうぞ罪に問わずに忘れてください、というような感じです。

また、怒りの感情というものは、別な意味でも自分を苦しめます。なぜなら、怒りは「自分のこころのなかで湧き起こり、自分のこころで燃えさかる」ものです。だから、ひりひりとヤケドを負うのはいつも自分自身なのです。

結局のところ、怒りの感情は自分を攻撃することになってしまい、被害を被るのは自分なのです。

このように、自分で自分を傷つけないためにも、自分のなかに湧いてくる怒りの感情には注意を払い、怒りにブレーキをかけられるように訓練しなければなりません。

自分の怒りに対処できるようになるには、自分の感情をつねに客観的に観察する習慣をもつことです。

私がクリニックで怒りをぶちまける男性を眺めていたように、自分の怒りも他人事のように距離をもって眺めてみましょう。すると、感情に巻き込まれて思わぬ行動をとってしまったり、自分で自分を苦しめてしまうことがなくなります。

怒りを客観的に眺めることができると、「わあ~、今すごく腹が立っているね~」とか「自分が大切にされていないように感じて悲しいんだね~」と、自分のこころの動きを知ることができます。

怒りを感じている最中にこれをするのは難しく感じるかもしれません。まずは怒っってしまった場面を振りかえることから練習してみましょう。その場面をもう一度思い出して、傍観者として眺めてみましょう。そして、怒りの下にある自分の悲しみや恐れややるせなさという感情に気づいてみましょう。

まるで第三者のように観察する習慣をつけると、怒っている最中、あるいは怒りを感じはじめたときに、自分のこころのなかで何が起きているのかがわかるようになり、冷静になることができます。容易に感情に巻き込まれ、我を忘れてしまうということが減ってくることでしょう。

自分の怒りを冷静に眺められるようになると、怒りを引き起こしていた間違った自己認識を明らかにすることができます。

「今、怒りを感じている」→「それは、どうしても状況が自分の思うようにならないと気がすまないと感じているから」→「なぜなら、思いどおりにならないと不安になるから」→「それは自分が弱いと感じているせい」・・・このように怒りを引き起こしている自分に対する間違った解釈に意識的に気づくことによって、それを終わりにすることができます。しっかりと認識されたものは、消え去ってゆくからです。

また、役に立たない自己認識を見つけたら、高い自己であるハイヤーセルフにお願いして、それらを完全にこころから取り去ってもらいましょう。「私は弱いという思いを、私のこころから取り去ってください。本来の自分自身は何をも恐れない存在です。正しい自己認識をもてるように助けてください」とお願いします。

本来はなかなか気づくことができない自己認識ですが、自分の怒りやネガティブな感情が浮上したときには、その誤った自己認識に気づくことができ、それを手放す機会にすることができます。

どのような好ましくない感情であったとしても、このように自分のこころを浄化するための貴重な機会として役立てることができるのです。

ただ怒ってしまった・・・と罪悪感を感じるのではなく、自分のなかにある何ごとにも脅かされない光が輝き出すことができるように、気づきと目覚めの機会といたしましょう。

間違った自己認識を手放してゆくうちに、大いなる存在にいつも守られ、愛され、大切にされている自分という「正しい自己認識」が目覚めはじめます。その「正しい自己認識」こそが、安らかな世界を自分に見せてくれるものなのです。

自分のこころの間違いに気づいて「正しい自己認識」をもつことこそが、自分の幸せにとってて何よりも大切なことなのです。

関連記事一覧