furukawaさんのブログ

気づきの日記「人生を紡(つむ)・・・がない」

私たちのエゴ(思考)は、お喋りが大好き。だから、ほっておくと一日じゅう「ああだ、こうだ」と喋りつづけることができます。

ためしに、少しのあいだ何も考えないようにしてみましょう。すると ・・・ あっというまにアタマのなかにお喋りの洪水が勝手にまきおこって、それに参戦している自分に気づくと思います。

路上でぶつぶつ言いながら歩いている人を目にすると、「あの人、頭がおかしい」とコワがりますが、もし私たちのこころに拡声器がついていようものなら、まちがいなく全員「アブナイ人」です!(笑) いつか目にしたアブナイおじさんのつぶやきと、たいして変わらないことに笑ってしまうことでしょう。

エゴ(思考)はひっきりなしに、ものごとに意味づけしたり、原因を推測したり、結果を予測したり、あれはうまくいったのいかなかったのとジャッジしたりするのが大好き。ちょっとまえの出来事に対しても、だいじに握りしめておいてあれこれ批判やコメントをくりかえします。

しかし、これをすることじたいが私たちの苦しさの原因なのだ、ということになかなか気づくことができません。

どうやらエゴは、ものごとの理由がわからないと落ち着かないらしいし、原因さえわかれば納得できると思っているようだし、結果はこうだと決めておけば安心できると信じているし、なによりも自分のルールにのっとってものごとを把握しておかないと気がすまないのです(私こそが “神” と思っていますから・笑)。

でも、ぜんぜんそれらは正しくないので、起こることとのあいだにさらに葛藤を生みだします。そして、「こんなはずじゃなかった・・・汗」という予想外が生み出されます(もともと、あれこれ考えることさえしなかったら、こんながっかり感も起こらなかったのですが・・・)。

予想外とは、もともと自分のたったひとつの考えに固執していることから生じるものです。

エゴがなんでこんなに忙しく喋っているのかというと、コワイからです。

こころが静かになっちゃったら、イヤ〜な気持ちが浮上してきそうだから、とりあえずこころを雑音で満たしておきたいのですね。あるいは、カラッポ感が耐えられないので、ウソでもなんでもいいからお喋りをつめこんでおきたいのです。

そんな理由から、私たちは何かを目にするとすぐに意味づけをしたくなります。

たった一枚の絵を見せられても、すぐさまストーリーを紡ぎはじめるのです。

たとえば、こんな絵 ・・・

「ああ、赤ずきんちゃんのオオカミね」「おばあさんになりすまして、食べてやろうと赤ずきんちゃんを待ってるのね」「でも、大丈夫!ハッピーエンドだから」とほとんどの方が「赤ずきんちゃん」のストーリーが浮かんだと思うのです。

でも、絵のなかには、赤ずきんの姿も、おばあさんのかわりだというくだりも、「食べちゃうぞ!」の文字も、危険が襲っても大丈夫だということも、さらにこれがオオカミであることすら、この絵はこれっぽちも示していません。

ただ、「こういう」絵なのです。

じゃあ、なぜわかったの? なぜ、こんな長々とストーリーを語ったの? ・・・ それは、過去から情報を引っぱってきたからです。「オオカミ」「ナイトキャップ」「ベッド」・・・ 「赤ずきんちゃんね!って。

私たちは、自分の過去の体験や知識からさまざまなものを集めてきて、いろいろなものごとがちゃんとわかったような気になっているけれど、ほんとうにわかっているのでしょうか?

それはかえって「あるがまま」を混乱させることになっているのかもしれません。

つまり、この絵には何の意味もない、ということなのです。どんな意味も内容も暗示していないし、そんな凶暴なストーリーもハッピーエンドも語っていはいません(宇宙人がみたら、まったく何がなんだかわからないでしょう)。

そんなふうに、私たちは自分の過去から、即座に今、目にしているものに対して意味づけを行います。自分でそうしているともわからないほど、瞬時に意味をでっちあげているのです。

しかしその意味づけは、この一枚の絵が教えてくれているように、ぜんんぜん正しくはないし、ほんとうではない、ということなのです。

これはただ、これだけです。

じつは、人生の一瞬、一瞬もこの一枚の絵のようなものです。

いろいろな絵柄の絵が積みあげられていて、私たちはそれをつぎつぎにめくっていきながら、即座にストーリーを紡ぎはじめます。

まったく吹き出しも注釈もない一枚一枚の絵(瞬間)は、じつはどのようにも解釈できるので。

そうそう、松本人志さんの「IPPONグランプリ」という番組で、芸人さんたちが提示された写真や絵を見て、瞬時にストーリーやセリフをつけるというのがありますが、同じ絵柄がシニカルになったり、笑えたり、悲惨だったり ・・・ 芸人さんの目線でまったく違う意味あいをおびてきます。

まさにわたしたちもそれをやっている、というわけです。

そして、それらの絵たちは、解釈されたままにストーリーを紡ぎはじめます。なぜなら、私たちは自分が「見る」と決めたものをなんとしてでも目にするからです。

しかし実際のところ、一枚一枚の絵には何の意味もないし、ましてや他の絵札との因果関係もまったくないのです(カルタが一枚一枚独立しているのと同じです)。

あれがあったから、こうなって、きっとああなる ・・・ 私たちは一瞬という絵札を並べて自分なりの物語を語っていますが、そこにはそんな物語はどこにも存在していません。一枚の絵(一瞬)は、それぞれそれでそのまま完結しています。

ただ「あるがまま」があるだけなのです。そして、一瞬は一瞬で完結します。私たちが意味をあたえて、つなげない限り、ストーリーはどんなストーリーも紡がれないのです。

ときどき思います。まったく過去の記憶がなく、自分に対するイメージも、人に対する決めつけもなかったら ・・・ 一瞬一瞬はどうなるのだろう? どんなふうに感じるのだろう? と。

おそらく、毎瞬、毎瞬、「はじめまして」の気持ちで人に会うかもしれないし、なんてことない体験でもびっくりするぐらい新鮮かもしれないし、すべてがきっと驚きで満ちていることでしょう。それが「あるがまま」の素晴らしさですね。(毎日毎日、記憶をなくしてしまう女の子と恋をして、毎日がファーストキスなんていう話しがありましたっけ。「50回目のファースト・キス」、私が観たのはドリュー・バリモア バージョン)。

つながりがないと、じつは怖れというものも存在しなくなります。

また、過去からリベンジするためにもちこむあれこれもなく、まったくプレッシャーがなくなって、きっとどれだけ軽くなることか・・・。

「きょうは新しい日」「私はきょう生まれました」、あるいは「一瞬一瞬、私は新しい」・・・ まったくストーリーを紡ぐことなく、こんなまっさらな気持ちでいっときいっときに向きあったら、どんな感じがするでしょうね?

ほんとうは、一瞬とはそんな無垢なまっさらなものであり、それが私たち自身のまっさらさなのですね。

 

 

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ふわっふわ・・・に癒される♡

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お友だちとのお茶タイム♪

スコーンでもないし、ワッフルでもなし ・・・ なにがいいかな〜と考えていたところ、お友だちから「ふわふわパンケーキ♡」というリクエストが。

そうそう、それそれ! わたしも、ふわふわが食べたかったんだわ♡ と思い出しました。

じつは前回パンケーキにトライしたお店で、ふわふわを期待していたにもかかわらず、ずっしりでかっちんこっちんだったのです(ああいうモノだったのか、手違いか? ナゾです)。

あのガッカリ感、まだリベンジしていなかったのに気がつきました。

このさい、ふつ〜のふわふわではなくおもいっきりふわっふわを探したら、「世界いちふわふわ」というパンケーキを発見。

これ! 期待にたがわずふわっふわでした♡

それに、はちみつとバターのいい香り。何枚でもいただけそうです。シロップも焦がしキャラメルのような風味があります。

お友だちはお腹がすいていたので、お食事タイプのパンケーキ。

こちらは全粒粉のようなつぶつぶ食感で、ふわふわだけど食べごたえがあります。

作っているところを見ていたら、ほとんどメレンゲなのですよね〜。だから、ぷるぷるふわふわ。

人気のパンケーキ屋さんというと行列にうんざりしがちですが、こちらはネット予約OKです。銀座のお店にうかがいましたが、わりと静かな雰囲気でした。@幸せのパンケーキ

お味のチョイスもたくさんあります。ふわっふわに癒されたい方、オススメですよ〜♡ ٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

 

 

お茶の間シネマトーク「IT “それ”が見えたら、終わり」

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“それ” は、どこにでもあらわれる
“それ”は、どんな姿にも形を変える
“それ”が見えたら、終わり

ホラーはあまり観ないけれど、このキャッチにひかれました。これって、こころが感じる怖れの定義と同じじゃない?って。

いったんこころに「怖れ」をもったなら、その怖れの対象は容赦なくどこにでもあらわれるし、その「怖れ」をもっている人がもっともコワイと感じる形で目のまえにあらわれるし ・・・。けれども、外側にある怖れの対象にむかっていた注意の方向を逆にして、自分のこころに向きなおり、「怖れの正体を見てみよう!」とこころのなかをのぞくと、なぜかそれは消えてしまうのです。

これもそういうことかしら? こどものときは何でもコワく見えたし、キョーフがキョーフを呼ぶのです。

はて? これはホラーなの?? なぜか笑っちゃうぐらいコワくありませんでした。

ホラー映画歴代首位なんていううたい文句に、期待がふくらみすぎちゃったかしら?

こどもにとっては壁のシミがお化けに見えたり、風のうなる音が叫び声に聞こえたり、妄想がふくらめばふくらむほど知覚が狂っていくものなのですよね。

なぜなら、私たちの知覚は自分のこころが感じたいと思うものしか感じさせてくれないので、怖さを握りしめているだけでどんどんホラーな世界にはまりこむことができるのです。

まさに知覚のワナで、それは堂々巡りです。自分でやっていることがわかるまで抜け出せません。

こどもたちにとって恐怖の対象がピエロとして現れるのですが、冒頭の男の子が行方不明になるシーンなど、水がじゃぶじゃぶあふれる側溝のなかから顔をのぞかせる殺人ピエロを見たとき、コワいというよりは「あんさん、そこでなにしてはる?」と思わず笑っちゃうしまつ(なんかすごくギャグっぽく見えた・・・汗)。

なんでしょね? コワさが足りない・・・。トシのせい??

で・・・ たんだん観ているうちに疲れてきて(けっこう長いんです、これ) ・・・ 三分の二ぐらのところまできたら、なぜだか画像がいきなりぐちゃぐちゃになってしまいあえなく観るのを断念しました(観なくていいってこと?)。どちらかといえば、こっちの出来事のほうがよっぽどホラーです(笑)。

最後になにか衝撃的なオチでもあったのでしょうか? ちょっと気になりますが。

ホラー度を期待しすぎなければ、こどもたちが恐怖と闘いながらひと夏をすごす「スタンド・バイ・ミー」ホラー版のような成長物語として楽しめます。幼少の頃の自分と重ねあわせて、共感できることもあるかもしれません。

「サイコ」とか「キャリー」とか「オーメン」とか・・・むかしのホラーはめっちゃコワかったです(汗)。「エクソシスト」なんて、女の子の首が一回転するだけなのに、なぜあんなに盛りあがったのか??(笑)。むかしのホラー、いえ恐怖映画は、あまり直接的ではない、何が起こっているのかわからない不気味さにこそぞわぞわさせられたのだと思います。

 

夕方のお散歩

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昨夕の「神さま散歩」♪

知らぬまに、空中散歩?? (´▽`)

 

 

気づきのぷちノート「神さま散歩」

今年の夏は格段に暑かったので、あまりお散歩する気になれなかったのですが、すっかり気候がよくなり、夕方お散歩するのが楽しくなりました。でも、とっぷり暮れてしまいますが・・・。

私のお散歩は「神さま散歩」。つまり、神さまとお散歩を楽しむのです。

どういうことかというと ・・・

私たちはふだん歩いているときには、目にするものにいちいち反応するか、あるいはさまざまな考えごと、空想でアタマがいっぱいになっています。つまり、ずっと考えつづけてココロここにあらず。

これは、エゴとお散歩している状態で、神さまが入ってくる余地がありません。

エゴのかわりに、お散歩の同伴者として神さまに来ていただくのが「神さま散歩」。やり方はいたってシンプルです。

ふつ〜にお散歩するのですが、いくつかルールがあります。

* 【反応しない】目にするものに、意見や価値判断、反応をもたない。何を見てもニュートラルな状態です。

* 【明け渡す】五感を今ここに開きます。街の匂い、風、温度、音、色など、その場にあるものに自分を明け渡してしまいます。

* 【それとして存在する】すると、目にするものが全部自分のなかに入ってきて、気づきの中に存在する状態になります。

* 【考えはスルーする】ときどき反応や考えが自動的にあらわれますが、ただそれに気づいて、じっと見つめると消えてなくなります。

* 【リラックスを楽しむ】ただ「ここにある」という静けさがあり、深くリラックスしてきます。その感覚を楽しみます。

ある意味じゃ、歩きながらの瞑想ともいえるのですが。

瞑想というと、リラックスはするものの、ここちよさという架空のイメージのなかに入ってしまって、「ここ」にしっかりと存在しなくなっていることが多々あります(光やら平和というイメージのなかに入りこんでしまうのです)。

でも、「神さま散歩」で大切なのは、「今」ここにしっかりと存在することなので、歩きながら五感でしっかりと街をとらえて、まさにその空間そのものになってしまいます。

そして、考えやイメージがないとき、神さまが入ってきてくれます。

「神さま散歩」をしていると、だんだんその状態がいつでももてるようになるので、エゴに憑依されてあれこれ考えることが少なくなってきます。

あれこれの考えに占拠されることが諸悪の根源なのですね。

そして、アタマで考えることなく、そのまま自然に最善へと導かれるようになっていきます。これがエゴに導かれるのではなく、もっと大きな力にゆだねる、流れにのるということです。

いちばん大きなメリットは「怖れ」「動揺」というものに乗っとられることが少なくなり、安らぎ・平安を感じられるようになることです。安らぎ・平安のひとときこそが、私たちが望んでいる幸せなひとときにほかなりません。

秋風を感じながら、ぜひ神さまとお散歩を楽しまれてみては? ( ・◡・ )

 

 

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気づきのぷちノート「“私”から生まれる問題」

ことばには、力があります。

ポジティブなことばを使えば、こころは前向きに立ちあがってくるし、ネガティブなことばばかりだと、こころは空気が抜けたようになります。

そんなことばのもつ魔法の力は、もっと大きなところでも働いています。

ことばがないところでは、世界は一枚の絵のように存在しています。

ことばがあらわれてモノゴトをひとつづつ切りとるまでは、それはひとつでありつづけます(「それ」といわなければ「あれ」はなく、「私」といわなければ「あなた」は存在しません)。

だから、いったん「私」ということばが発せられると、「私」と世界が一気に分裂します。

「私」vs あなた、「私」vs そこにある木、「私」vs 病原菌、「私」vs お金、「私」vs 私以外の75億数千万人、「私」vs 銀河系の星々、「私」vs あれや、これや、それや ・・・ 「私」がいるやいなや、ひとつだったものがバラバラになり、「私」が相手をしなければならない雑多なものに圧倒されてしまいます。

でも、「私」という考えがなくなると、見ているものはひとつのイメージとして自分の意識のなかに存在しているだけとなります。目にしているもの全体、つまり世界全体が「私」になってしまいます。

ことばがなければ「私」はいなくなり、そのように考えというものがない状態のときには、じつはどこにも問題が存在できなくなります。

問題は、「あれが私を困らせる!」と決めつけたときに、はじめて自分にとっての問題となります。「私」も考えもないときには問題はなく、ただのあるがままだけがあります。

「私がどんな存在であるか」が目にするものを決めるので、どのポジションから見ようとするのかによって、見えてくるものがまったく変わってきます。

自分をこの大きな宇宙のなかにポツンと存在するほんの小さな点にすることもできるし、あるいはすべてを自分のなかにもつ至高の存在に戻してあげることもできるのです。それは自分のことば(考え)しだいなのですね。

☆スポーツ選手がよくいうゾーンといわれる状態は、まさに「私」がいない状態なので、ひとつとしての完璧さがあります。だからこそ、個の「私」をこえた力が働くのですね。自意識が強くなると、自分をどんどん小さくしてしまうので、結局自分の邪魔をしてしまうことになります ☆

 

 

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お茶の間シネマトーク「スリー・ビルボード」

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路肩に立てられた三つの広告看板から巻き起こされるドラマ。

ことのはじまりは・・・ 娘を殺害された母親が、その事件にまつわる自らの罪悪感をもてあまし、それをいまだ事件を解決できない警察に対する怒りにかえて、路肩に三枚の広告看板を立てたこと。

その罪悪感と怒りと悲しみによって立てられた真っ赤な三枚の広告看板は、それを目にする人たちのこころをザワつかせ、そこから引き起こされる出来事の数々・・・。

ひとりの怒りがほかの怒りをよびさまし、エラく破壊的な状況へとつながってゆきます。

殺人・暴力・自殺・襲撃 ・・・ しかし、観ていてあまり暗い気分にならないのはなぜでしょうか? メリメリはまりこむことなく、どこかドラマの外側からふかんして観ている感じがあります。

おそらくそれは、音楽のせいもあるかも?

はじまりのBGMなど、やたらのどかで平和です。その後も、楽しげな音楽が奏でられます。(私たちも日常で、メイメリとドラマにハマりこみそうになっているときには、突拍子もなくのどかの音楽をかけてみるといいかもしれませんね。シリアスになれません。笑)

また、いろんなところで小さく裏切られるストーリー展開 ・・・。

「きっと、こうに違いないよね」「こうなるよね!」というところで、「え? そうくるの? 」という驚きがいくつかあり、そのミスマッチな流れのせいで緊張感がうすらぐのかもしれません。

凶暴でとても笑えないはずの場面で、思わず苦笑しちゃったりします。

重苦しくならざるをえないストーリーのはずが、どこかに和やかででやさしい空気が流れているのを感じられて、観終わったあとも不思議な感覚の作品でした。

ほんとうにハリウッドの女優さんのリアリティはすごいな〜と感じます。

日本の女優さんだと、すさんだ様をメイクで作ろうとするけれど、この女優さん(フランシス・マクドーマンド)、マジな感覚があふれていて迫力があります。

だから、リアリティが圧倒的に違うのです(さすが、演劇の三冠王!)。凶暴性もハンパなくって笑えてしまうのですが、その反面、ピュアなところが愛しくうつります。

予想していた内容とは違っていた! という意味で、おもしろかったです。

 

秋の空にさそわれて

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台風一過の真夏日から、きょうは空気が秋へと変わりました。

空もすっかり高くなり・・・ もう十月ですものね。

雲が美しかったので、ついついお散歩も長めに。

公園に到着したら、ちょうど日没でした。

ビール片手に夕陽を愛でるひと、犬の散歩をするひと、こどもと遊ぶひと ・・・ それぞれの一日が暮れてゆきます。

あすも、よい一日でありますように♡

 

 

お茶の間シネマトーク「ギフテッド」

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天才数学者が志なかばで突然この世を去り ・・・ あとに残された幼い娘のメアリーもまた、たぐいまれなる数学の才能に恵まれているこどもだったのです。

その子を託されたのは天才数学者の弟、つまりおじさんにあたる存在のフランク。彼はメアリーをなんら特別扱いすることなく、ふつうの学校に通わせます。が、なんせアタマがよすぎるせいで、さまざまな問題が勃発・・・。

一年生の算数なんてちゃんちゃらおかしくってやってられない ・・・ となると、まわりに対するメアリーの態度もだんだん横柄になり・・・。先生すらこの子にたいして、まるで腫れものにさわるような態度。

さて、この子はいったいどう育てたらいいのでしょうか?

そこにあらわれたのが、おばあちゃん。亡くなった娘がなしえなかった夢をかなえるべく、メアリーの養育権を主張しはじめます。

しかし、そのおばあちゃんは娘を天才数学者へと育てあげはしたものの、結局は自殺においこんでしまった人物。けれど、当の本人はなぜ娘がこの世を去ったのか、なぜ孫娘が弟(息子)の手に託されたのか、その理由が自分にあろうとは自覚していないのです。

こどもにとって、何がいちばんいいのか・・・、幸せなのか・・・。

それはときとして、親が自分の物差しで自分に足りていなかったと感じていることや、自分が夢みていたこと、挫折してしまったことなどに、「こどものための愛」というラベルをはって達成させようとしてしまいがちです。

こどもはこどもで、それが自分が欲しいものとは一致しないため、押しつけられていると感じて怒りを覚えます。

ほんとうのところは、それがどんな表現になっていても「自分が思っているいちばんいいものをあげたい」という愛以外のなにものでもないのですが。相手のニーズを考えていないというところが問題なのです。

ただ愛の思いだったものが、親の不足感やら、怖れやら、羨望やら、欲望やら、さまざまな癒されていない過去の思いとごちゃまぜにされてさし出されると、与えてもらった人にとっては愛を感じるというよりは、攻撃されていると感じてしまうのです。

親「ホラ、あなたのことを思って、いちばんいいものを与えているのだから、なぜ喜んで受けとれないの?」 子「いえ、そんなものはいりません(望んだこともないし〜)」  親「せっかく、あなたの幸せを思ってそうしているんだから ・・・ 素直に従ってちょうだい」 子「怒・・・(それって私のじゃなくって、自分の幸せなんじゃない?)」・・・ ってなことに。

フランクのちょっとワイルドでぶきっちょな、真っ正面から向き合う子育ては、あたまでっかちになりそうだったメアリーを感性豊かな、楽しむことをしっている子どもに育ててゆきます。

メアリーが、「私なんていなくてもよかったんだ!」と落ちこんだとき、フランクがメアリーをあるところにつれて行く場面があります。これは涙腺崩壊。きっと観ているひとそれぞれが、自分のことに想いをはせて重ねあわせることと思います。「そうか、私もこんなふうに喜ばれて生まれてきたんだ」って。

子役の女の子がほんとにキュートで観てて癒されます。おじさん役のクリス・エヴァンスもワイルドでかっこよく、思った以上に泣ける映画でした。「(500)日のサマー」の監督さんです(「(500)日のサマー」も好きです♡)。

「ギフテッド」涙壷度:★★★★☆

 

 

青春の・・・♡

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構想○年! ついに実現にいたる!・・・ なんて、なにごとかと思っちゃいますが・・・

お友だちのAちゃんが「私の青春のハンバーグに、是非ご案内したい」と提案してくれてから早三年あまり。ようやく実現したお出かけです。

それは、電車・電車・バス・徒歩というとても近いとはいえないロケーションにあるのですが、Aちゃんが高校生からうん十年をすごした丘のうえにあるレストランだそうで、折々の場面で数えきれないほど通っていたそう。

高校の頃に想いをはせるAちゃんの懐かしい話をいろいろ聞きながら、雨上がりの秋の香りや開きはじめた金木犀を楽しみつつ・・・ ようやく到着。

こんな高い天井にトーテムポールがそびえる緑に囲まれたお店です。なんと窓の外には、大きなシッポのリスが走りぬけてゆきます。お隣にある大きな県立公園からやってくるのですね。

Aちゃんは、18歳のころからお世話になっていたウェイターの Oさんを見つけて大喜び♡ 当時40代ぐらいだった Oさんは、もう80歳になられるそう。そして、Aちゃんにとって、はじめてのおネエことばの男性だったそうな・・・それは今も変わらず・笑。

このウェイターの Oさんがとってもステキな方で、しじゅういろいろと気にかけてくださり、お水を注ぎに来てくださるときも「おいしいお水ある?」とか、パンを給仕するときも「ハイ、おいしいパン!」というように、お店のことも、お客さんのこともとっても愛しているのです。

80歳目前なのにあまりにお元気で、「元気の秘訣はなに?」とAちゃんがたずねると、「感謝! 感謝よ〜♡」とおネエことばで答えてくださいました。

他のお客さんにもとっても人気があるらしく、愛があふれているから、さらにいっぱい愛されて、きらきら輝いているようでした。

私たちにはチョコやプチおみやげまでもってきてくださって ・・・ 帰りぎわ、Oさんは私に向かって「おねえさん(Aちゃん)のこと、よろしくね♡」とAちゃんを気づかうひとこまも。

Aちゃんの心のよりどころとなっていたお店は、今もなおあたたかな愛を放射しておりました。

青春の話しを聞きながらここまでやって来るのも楽しかったけれど、AちゃんとOさんのあたたかな心の交流をまのあたりにできたのもステキなひとときでした。

さて、ハンバーグはどうだったか・・・?

炭火でじっくりと焼いた大きな俵型のハンバーグで、目のまえでふたつに割ってくれます。

ざっくりひいた牛肉のうまみに、特製のソースがさらにおいしさを引きたてて、やみつきになるのがわかるな〜(街中に支店もあるようなのですが、ココが格別だそうです)。

また、行きたくなりました(ハンバーグだけでなく、Oさんの魅力もね!)。

@Hungry Tiger 保土ヶ谷本店

Aちゃん、素敵な時間をありがとう♪