furukawaさんのブログ

気づきの日記「私はこころのなかの住人」

「私たちのこころにある秘められた目的が、何を目にするのかを決めている」

「秘められた」ってことは自分でも気づくことができない想いがこころにあり、それこそが自分の目にする世界をつくっている?!

私たちは物理的な世界に住んでいて、その物理的な世界は自分の外側に存在している、と信じています。そして、その世界からやってくる刺激の数々に反応し、折り合いをつけること。

それが、私たちが考えている「生きること」。

でも、(現在の量子物理学でも言われていますが)じつは世界とは私たちのこころのなかに存在しているイメージであると言われています。つまり、意識がただ夢を見ている状態です。

そして、自分でも気づくことがない秘められた「こころの想い」というものを、つねにイメージにして世界という形で見つづけているというわけです。

実際、外側というものは存在せず自分のこころが発信しているならば、目にするものに反応してしまうと、自分のこころのなかにある思いこみをどんどん強化することになります。

知らぬまに、世界という形をとった自分の思いこみの被害者になってしまいます。自分は外と闘っていると思っていても、じつは闘っている相手は自分自身なのですね。

人生とは、自分の外側に存在する世界とかかわることだ ・・・ と信じる時点で、私たちは世界という名の自分のこころのなかに閉じこめられてしまいます。自分のこころがつくりだしたイメージの、登場人物の一人と化してしまったのです。

世界というものは、自分が信じていることしか映しだせないのだとすると、同じことのくり返しを生きることになります。景色は変わっても根底にあるパターン・力動は変わらないからず、なにかが同じなのです。

昼がきて夜がくることも、暑い日があって寒い日があることも、大雨があって干ばつがあることも、生まれて死んじゃうことも ・・・ 私たちのこころが正気でないことをあらわしているイメージにすぎません。こころが分裂していることから、つねに相反する二つのあいだを行ったりきたりする二元性という葛藤に悩まされているのです。

そうなると、人生も登ったかと思うと下って、下ったかと思うと登る ・・・ これもこころのなかの二元性のあらわれであり、当然の成りゆきとなります。

しかし、私たちは自分で何がどうなっているのかまったくわかっていないので、それを修正するすべがありません。

そもそも、目に映るものが自分の外にあると思ってしまった時点で、コントロール不能になってしまい、世界 対 自分という葛藤のドラマに巻きこまれてしまったのです。さらに、その被害者であると信じることで、自分のこころのなかの世界にどんどん取りこまれてゆきます。

何かがうまくいかなくなったとき、必死で外側のことを変えようと努力すると ・・・ 一見うまくいったように思えても、じつはなかなか長続きする結果にはつながりません。

なぜなら、自分に何かを思いこませたり、信じたりという表面的なこころのパワーを使って変化を起こそうとしても、少しは変わったような錯覚は起こっても、やはりそれは表面だけのこと。心底のパターンが変わるという、真の変化にはいたらないのです。

じゃあ、真の変化はどこからやってくるのでしょうか?

それは、こころのなかに囚われている自分(この世界にいる自分)に頼らなくなったときです。こころのなかの世界の囚われ人には変える力がありません。

囚われ人がホンモノの自分であるはずがないからです。これがニセモノであるなら、必ずホンモノがいるはずです。

まずは、「目にしてることにだまされない」ことが重要です。「自分が見ていることは、こころが見たいように見ているからそうなっている」ということを理解する必要があります。こころによって、知覚は自在に変わるからです。

「ヘンなものが見えている!」「ああ、これは私のこころ自体がおかしいからだわ」と、過度なリアクションをすることをやめます。

そして、「自分のこころは、じつはこのような葛藤(問題)を信じていたのだ」と改めて認識します。私こそが望んでそれをしていたのだ、私がこうしていたのだ、ということを受け入れます(被害者をやめます)。

私はイメージのなかに囚われている人なのか、それともそれを外から観察している存在なのか、もう一度選びなおします。

イメージの外にいる制限のない存在、大いなる無限のワンネスとひとつである存在であるなら、自分の当然の権利である完全さを求めてよいはずです。

囚われ人のニセモノの自分を頼りにすることなく、自分の正気の部分である高い意識(ハイヤーセルフと呼んでも、スピリットと呼んでも、エンジェルでもかまいません)とつながり、訂正のお願いをします。「自分がでっちあげている世界を手放したい」「ここから脱出して、ほんとうのことを見たい」「ほんとうの自分を体験したい」と。そして、間違ったこころとその結果となった知覚を取り消してもらいましょう。

この取り消しをしてゆくことは、自分の勘違い、つまりこころのゴミを取り除いてゆくことです。

こころのゴミはたまりすぎて、間違った人格を主張しはじめました。私になりすましているニセモノです。ニセモノだからこそ、落ちこんだり、行き詰まったり、とち狂ったことをしてしまいます。

結局、自分の人生に立ちはだかるように見える障害は、どこか外側から急にやってくるのではなく、自分のこころがゴミでいっぱいになってしまったために目のまえの世界(というイメージ)をゴミ捨場にしてしまったのです。そして、それを見て「なんでこんなところにゴミ(問題)が!」とびっくりしているだけなのです。

でも、たんねんにこころのゴミを取り除く習慣をつけてゆくと、もう外の世界へゴミ出しをする必要はなくなります。あるがままの自分、ワンネスとしての完全な力をもつ自分が輝きだすことができるようになります。

すると今度は、ゴミの山ではなく、自分のなかにある真の輝きを目のまえに映し出すことができるようになります。この輝きのなかには完全さがあるので、何かを引寄せる努力をする必要も、なにかをクリエイションする必要も、違った自分になる必要もありません。

自然体のこころでありながら、安らかさが感じられるようになります。なぜなら、自分が目にしているのは、自分のこころのなかにあるほんとうの安らぎだからです。

こころのゴミ出しをしてゆくと、ネガティブな記憶、感情、思いこみが少しずつ清算されてゆきます。

それらは、すべて「こんなことがあった!」「あんなことも起こった!」という過去の思いなので、ゴミがどんどんなくなると、自分にとっての過去というものもあまり意味をもたなくなってゆきます。

過去を手放すと、現在の目にするものに対しての見方がまったく変わります。なぜなら、私たちは何を見たとしても、すべて過去の知識、判断、思いこみ、記憶をつかって、「これはどういうものか」「どういう意味があるのか」を決めているからです。過去を手放すとラベリングがなくなり、すべてがただのまっさらな「あるがまま」へと落ち着くのです。

これによって、世界の見え方、意味がまったく変わり、新しい知覚が生まれます。

それはある意味、罪のない知覚、無垢の知覚といえるかもしれません。

この無垢な知覚は二元的ではないので、相反するものを含むことがなく、自分を守ろうとする必要もなくなり、怖れや不安という感情も少なくなってゆきます。

私たちの受けてきた教育では、外に見えるものを判断して、どうするか行動を決めるように教わってきました。

でも、残念ながら真実はまったく逆なのでした。外に見えるものが好きでなかったら、いったんスルーして反応せず、まずは原因であるこころへと立ち返ること。自分のこころのなかのイメージを見ているのだ、と認めること。

そしてこころのなかにある分裂や、攻撃、怖れの想いに気づくことで、それらを危険物処理班である高い意識にひとつひとつ申告して、きっちりと処理してもらうことです(これは、自分のこころのドラマの登場人物にすぎないエゴである自分にはできません)。

ひとつひとつ片づけてゆくと、知覚が変化してゆきます。外にあったはずのすべてが、だんだんこころのなかに戻ってきます(外というものがなくなってきます)。まるで、手袋が裏返るようなヘンな感覚(どんな感覚?!笑)。

そして、必ず自分がもともともっていた輝きや完全さというものにふれる瞬間が多くなってくるのです。そうすると、こころに安らぎが生まれ、より高い意識とのプロセスを信頼することがでるようになります。流れを信頼できると、新たな循環が生まれます。

お部屋もこまめな掃除機がけが必要なように、こころもこんなお片づけの習慣をもってみることによって、アタマで考えているのとはまったく違った変化というものを体験できるようになったりするのです。

 

 

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お茶の間シネマトーク「ポリーナ、私を踊る」

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フランスの人気バレエ漫画「ポリーナ」(日本でも出版されているそうな)の実写版シネマ「ポリーナ、私を踊る」。

誰もが経験する「自分らしく生きる」という人生の葛藤を描くとともに、ふんだんにもりこまれているコンテンポラリーダンスがとても美しいです。

ジュリエット・ビノシュが振付家として登場し彼女のダンスも披露していますが、まるでほんものダンサーの迫力。また、かつてオペラ座のエトワールだったジェレミー・ベランガールのコンテンポラリーダンスもすばらしいです。

貧しいポリーナの両親は、娘をプリマ バレリーナにすることが夢。

借金とりに悩まされながらポリーナを厳しいバレエ学校に通わせつづけるのですが、まったく目をかけてもらえない日々。そんな屈辱にたえながらたゆまぬ努力をつづけ、成長したポリーナはついにボリショイバレエ団のオーディションに受かることができたのです。さあ!これから、というそのとき ・・・ ポリーナは古典バレエではなく、コンテンポラリーダンスに突如目覚めてしまうのです。「もう他人の振り付けをマネるのはいや!」と、そこから彼女の踊りと自分さがしの葛藤の日々がはじまります。

ロシアから南フランス、そしてアントワープへ。深夜のバーで働き、両親とも疎遠になり、完全に身をもちくずしたように見えるポリーナは ・・・。



本人がどう葛藤しようとも、自分のなかにある自分という種は、いつかは発芽してその姿をあらわさずにはいられないのです。本人がどうであろうとも。

一見どんなに違う方向に進んでしまったように見えたとしても、じつはそのひとつひとつの体験が発芽する力をたくわえるエネルギーに変わり、じっとその日を待っています。

ポリーナにとって、褒められることもなくこきおろされつづけた幼い日のバレエのレッスンも、チャンスがめぐっても主役を掴みきれなかったことも、恋人と破綻したことも、住むところすらなくなってしまったことも、すべて挫折というラベルをはることもできるけれど、じつはそのすべてがほんとうの自分が待っている梯子を登りつめるための大切なステップ。どれひとつがぬけ落ちても、上に進むことができないのです。

ポリーナ本人以上に彼女の「人生」のほうが、よっぽど彼女にとって何が真実であるのかを知りつくしていたのようです。

そして、私たちも同じ。

アタマでああだこうだいろいろと考えるけれど、考えたとしても結局は思うようにはまらず、エネルギーばかりを消耗してしまいます。なぜなら、本当は自分は何もできないから。知っていると思っているけれど、ほんとうは何もわからないから。

けれど、勝手に展開してゆくように見える人生こそがすべてを知っていて、それこそが真実そのもの。勝手にさせておくことこそが、いちばんの贈り物となるのです。なぜなら、それは間違いようがないからです。わたしたちは間違うけれど、人生という真実は間違いません。

つまり、自分こそが「やっている!」というおごりがあるときのほうが、こんがらがってしまうようです。あまりにも自分がチャチャをいれすぎてうるさくすると、「ちょっと静かにしていてくださいね」と愛の一撃をくらって静かにせざるをえなくなります。なぜなら、展開することこそが真実だから。ただリラックスして、人生に勝手に生きてもらいましょう。

必ず、自分が思っているよりも気にいる結末になるに違いありません!

その昔、モスクワの劇場でボイショイバレエを観たとき、舞台の真横にある桟敷席だったのです。

白鳥の湖の王子がソロで跳躍するたびに、その着地の音というか響きのすごさにびっくりしましたっけ。羽のように優雅に見えているのに、近くで観ているとすごい重力が伝わってきます。

上から観ていると舞台に死角ができて、そこに王子が踊りながら消え去ったときにドスン!という地響きがすると、王子が転んだのでは!とひやひやしたものでした(そんなわけない! 苦笑)。

肉体の酷使だけでなく、さらに芸術性の追求も加わって、ほんとうにダンサーさんたちはすごいな〜と感心しましたっけ。

 

 

ゴールデンウィークですね♪

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わたしは通常営業のため、気分転換にカフェにお出かけするぐらいですが、たっぷりの緑とここちよい風にじゅうぶんリフレッシュしています。5月、LOVEです ♡

お休み画像はなにもないので ・・・ 最近のいただきものおやつ画像などを・・・(笑)。チョコばっかりです。

カラフル、マトちゃんチョコ。

あまりに可愛いくて、しばらくラップをかけて飾っていました。

アメリカのお土産チョコ with  Bunny。

歯がキーンとするぐらい甘いチョコ。おかげさまで、一粒で手がとまるのでダイエットに良しです!

イースターエッグに入ったチョコ。

外国製の缶は模様が凝っています。日本では、アンティーク以外には可愛い缶にお目にかかれません。

これ、イチゴに見えますが、たしかにイチゴです。フリーズドライの。

ホワイトチョコとラム酒の香り。固いはずなのに口のなかでチョコが溶けるので、ジューシーに感じる不思議な食感です。

そしてこちらは、わたしの好きなイタリアのコーヒーによくあう、イタリアのチョコ。

コーヒーブレイクのあと、きまってすごい眠気に襲われてソファまで這っていって爆睡状態。そんなことが三回も。

そんなに疲れていたかな〜と不思議に思っていたのですが、どうやらこのチョコの仕業と判明。たっぷりのリキュールとサクランボが入っているのがおいしくって、たて続けに三つも食べたら完全に酔っぱらっていたのでした(汗)。

・・・というように、ひところチョコレートばかりをいただいていたのですが、最近のブームはなぜか「ケンミン ビーフン」(かなり、レアです・笑)。

会うお友だちごとにビーフンを携えてやってくるのです(なぜっ? いったいみんな、どうしたの?)。「これ、おいしいし、お野菜いっぱいとれるし、作るの簡単だよ! フタしておくだけ。わたし大好きなの」って、みんな同じご意見。

なんというシンクロニシティ! 宇宙はわたしにビーフンを食べさせたいようです(苦笑)。

店頭に並んでいないホタテ味、かなりオススメですが、もう食べちゃいました。

 

 

気づきの日記「すぐにあやまっちゃうクセ、じつはそれって攻撃?」

「あやまらなくていい場面で、ついあやまってしまうんです」とA子さん。

けれど、「悪いのはあっちなのに、なぜ私が!?」と腹がたってきてしまい、もう無為にあやまるのをやめたいのです、と。

「ごめんなさい」「すみません」は英語の「エクスキューズ ミー」と同じように使われるけれど、ちょっと違うとように感じてしまいます。

「エクスキューズ ミー」は「おっと、失礼!」というような軽い感じで、それはアクシデントだったね!という感じ。一方、「ごめんなさい」「すみません」はもう少しジメっとした罪の意識がある感じで、「私が悪うございました」「私のせいで」的な自分のしたことを責めるニュアンスが含まれているように感じます。

あやまらなくていいところであやまっちゃう、という方は結構多いようです。意識してか、無意識でか、口グセのように「ゴメン!ゴメン!」を連発する方もいます。あいさつがわりに「あ〜、ゴメン!ゴメン!」、何かしてても「あ〜、ゴメン!ゴメン!」。ほとんであいのてのようで、何に対してのゴメンなのかかわからない感じです(汗)。

「ゴメン」という言葉は何気ない言葉のように思えますが、無意識的に「私は間違っている人」という想いをこころにインプットしてしまいます。

そして「私は間違った人です」という信念があると、自ずと外側に「間違った人である証拠」として、自分へのとがめや攻撃を見やすくなってしまいます。

安易な「ゴメン」は自分を痛めつけることになるので、要注意なのです。是非、クチぐせをチェックいたしましょう。自分ではあまりにも無意識になっているせいで、言っていないと思うかもしれません。家族や友人からは、「いっつも言っているよ〜!」と太鼓判をおされるかもしれません。

無意識にとってしまう反応(無意識のゴメン発言)は、そこにどんな思いこみが存在してそれをやっているのかをはっきり意識化することがとても大切なことです。意識化によって、はじめて手放すことができるようになります。

そこで、A子さんのあやまっちゃうクセの底にある信念を一緒に探求してみました。

自分は悪くないと思っているのにとっさにあやまっちゃう → でも理不尽だと怒りがわいてくる → それでもあまやるのは、万が一相手が怒って攻撃してきたら困るから → 私は小さい存在だから守りきれない → どんな助けもやってこないのだから、私一人で守って闘わなければならない → つまり、私は見捨てられているのだ → なんとか自力で守るほかない → だったら、さっさと自分が悪者になってしまえば、攻撃にさらされることもなく丸くおさまる → 私は喜んで間違っているものになりたい → だから、あやまることだ!

A子さんのなかには、こんなふうに孤独に感じている見捨てられ信念が潜んでいて、どんなときでも自分を守るためには「私さえ悪者になれば」あるいは「自分で自分を罰すれば」、わたしは誰からも攻撃されずに安全に生きることができる。安全に生きるためには、率先して自分を痛めつけるに限るのだ、と信じていたのでした。

でも・・・・この考え、いっけんヨワヨワに見えますが、けっこう攻撃的な考えなのです、ほんとうは。

「わたしさえ悪者になって我慢すればいいんです」といのは、「そうです、わたしはあなたの被害者でしょ?」、つまり「あなたは加害者で決まりですね! わたしを傷つけているんです」、「私は、弱々しい正しい人です」、だから「あなたこそ、本当は悪いヤツなんです」・・・ と遠回しに言っているのです。

「わたしはあなたのせいで、我慢しているんです」「心底悪いのは、あなたなのに」と、すっかり被害者になっています。これは口に出していなくても、あきらかに攻撃に他なりません。

そして、こころで思っていることこそ、自分にとっての真実にならざるをえないのです。

これでは、間違った自分のイメージを育むことになり、また人との距離も広がってゆき、世界が自分にとって敵になってしまいます。

自分のこころはこっそりと相手を攻撃したのを知っているので、その攻撃に対するリベンジがやってくることに怖れおののくことになります。

「与えたものこそが、受けとるもの」。攻撃したからこそ、攻撃がふりかかってくることになります。その怖れから、人や世界から自分をさらに切り離して孤立を深めます。自分が幸せになるのを自分が阻んでいるのです。

「ちゃっかり相手を攻撃して、知らぬふりをしている」という罪悪感によって、無意識のうちに自分を罰することで攻撃をのがれようとくわだてます。

大きな問題ではないにしても ・・・ どこかで転ぶ、頭をぶつける、包丁で手を切る、自転車がつっこんでくるなどなど ・・・ 大小あらゆるイタタな、あるいは残念な体験をつくってバランスをとろうとするのです。

A子さんに限らず私たち誰ものなかに、うまくオブラートでカモフラージュされた攻撃の想いが棲んでいます。自分では、まったく攻撃とは気づくことができていません。

そんなうまく隠された攻撃の想いによって、自分で自分の足をすくっていたりするのです。

自分のしょうもないパターンをぶちこわしてあげるには、しっかりと白日のもとにさららし、つぶさに見てあげることが必要です。たまに立ち止まって、自分の言動の意図やら想いをじっくりとながめてみることをオススメします。

あまりにも巧妙に被害者を装っているにもかかわらず、それでもしっかりと攻撃していることに気づき、自ら笑っちゃうことがあります。

でも、笑えたらオシマイ! めでたくGAME OVER です☆

その不毛なエゴの想いは、気づいたらすべて高い意識に渡してしまい、こころから取り去ってもらいます。そして、隠されていた本来の自分の想い(闘いなど知らない安らぎ)へと戻してもらいましょう。

ゴミさえ捨てることで、いつでも真実はそこにあるのです。

外のあれこれなどまったく関係なく、そこに隠されていた安らぎ、安心、豊かな思いこそが、本当に安全で安らかで豊かな人生に大切なものです。そのこころからこそ、完全に安らかな世界の知覚は立ちあらわれるからです。

外はカゲロウ。自分のこころのイメージにすぎません。自分のこころを整えることで、そこにすでに備わっているものは自然と世界へと輝きだしてくれるのです ☆☆☆ それが、ゆるぎない安全のある世界です ★★★

 

 

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ギンザ シックスに初上陸

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アフタヌーンティー行脚をはじめてからというもの、割引特典がついたアフタヌーンティーがあるとお友だちがすかさずゲットしてくれます。

おかげさまで、順調に制覇中。ちゃんとしたディナーよりもお高めだったりするので、割引大歓迎です。

さて今回は、テレビでもよく紹介されているオシャレ商業施設 ギンザ シックスにある「ザ・グラン ラウンジ」です。

ここのお店は敷居が高めで近よったことがなかったので(1万円の珈琲豆が話題になっていたのです)、楽しみにやってきました。

予想以上に可愛いらしくて、ひとつひとつのクオリティが高いアフタヌーンティーでびっくりでした(小さなセイボリーはお食事なみ!)。

アフタヌーンティーなので、いちおうスコーンもコロンと一個ついてきます。

どれも丁寧につくられていて、かなりの満足度。最後にはマキシムのミルフィーユがでます・・・ってことは、もしや?

サーブして下さる女性に「とってもおいしいでした♪ パティシエの方によろしく」と声をかけると、「ちゃんとしたものが作っておりますので・・・」というお返事。

「ちゃんとしたもの」??  

もしや? と思った予想は当っていました。こちらのアフタヌーンティー、マキシムのパティシエさん監修だったのでした。どうりで ・・・ 実力は隠しても隠しきれませんね〜(笑)。

出されるお茶は Kusmi ティー。Kusmi ティーも最近よく見かけるようになりました。

「プリンス ウラジミール」というお茶がおいしくて、「ウラジミール王子って誰よ?!」と笑いながら味わわせていただきました。

後日、ヒカリエで Kusmi ティー を発見。ウラジミール王子も!

さすがフランス生まれ! パッケージの色が、カラフルで可愛いです。フレーバーも変わったのがあるけれど、あまり主張しずぎないおさえめの香りが気に入っています。

ギンザシックスのアフタヌーンティーは、お友だちもともにリピートあり 「◎」という感想でした。

 

 

気づきの日記「なにひとつ、原因なんてない!」

前回のブログで、具合が悪くなったときに「なぜ?」と原因探しをするのはやめなさい、と教えられたことをチラリと書きました。で、つづきはまたね!と終わったのですが・・・。

その後、何人かの方から「あのつづきはどうなりました? 私もすぐに原因探しをしちゃうたちなので、気になっているのです」とメールをいただきました。

ひゃひゃっ(汗)。自分のなかだけで完結してしまったため、すっかりアタマから抜け落ちておりました。ご愛読にあらためて感謝いたします。

では、つづきを!

私たちのエゴは、「なぜ?」「どうして?」「なんでこうなったかな?」が大好きなセリフのひとつです。

なぜなら、「なぜ?」と言ってしまったとき、パワーは外側へとうつってしまうからです。「あんなことを思ったのがいけなかったんだ」「あれをしなかったからに違いない(したからに違いない)」「あの人のせいだ」「あのとき間違った」 ・・・。

原因ははるか遠くの時間と空間へと引き離され、巧妙にも、そのとたんに自分はなにか得体の知れないものの「被害者」へとなりすましてしまったわけです。

つまり、かよわい私 VS おそいかかる災難のいろいろ、という被害者ストーリー。

でも本当は ・・・ 「原因」などというものはないのです。

「原因」を考えさせることもエゴのトリックのひとつでです。自分をかよわい被害者にして、世界や人やものごとを悪者にし、敵にまわすことで、自分を孤立させ、弱体化させるためのものです。

そうすることで、さらに被害者意識が強まります。

前回のブログのなかに、時間というのはきっちりと重ねられたカルタのようなものだと書きました。

前世も、来世も、あらゆる瞬間がひとつのポイントにまっすぐに積み上がっています。つまり、すべて同時に存在しているのです。

そして、瞬間瞬間をあらわすカルタの札はそれぞれ完全に独立しているため、他の瞬間とはなんのつながりも影響もありません。どの札も、原因にも結果にもなりえないのです。まさに、一枚づつ存在するカルタのイメージです。

たとえ私たちがそれを横に並べて見ることによって、あるストーリーをでっちあげているとしても、ほんとうはそれぞれの瞬間は独立したもので、そこには意味のあるストーリーというものは存在していないのです。

「なぜ?」と言って原因探しをするとき、わたしたちは完全に違う方向に向かってエネルギーを注ぎ始めています。

あれやこれや文句を言ったり、後悔したり、自分や誰かを責めたり ・・・・。被害者になりすまして、存在しない加害者(悪者)を特定しようとしているのです。

これをしているときに、何が起きているのでしょうか?

完全に自分が「今、そこで感じている気持ち」から注意がそらされていて、ストーリー(思考)という幻想のなかに迷いこんでいるのです。この思考というまがいものは、相手さえしてくれれば魑魅魍魎としたドラマへといつでも連れ去ってくれるものです。

そうなると、自分がそこで感じていた「怖れ」や「罪悪感」、「無価値観」などが完全に置き去りにされることになります。そして、どんどん架空の世界へと入りこみ、架空のドラマで被害者をストーリーを演じつづけられるのです。

これこそがエゴのおもうツボです。苦しみ、怖れという、まさに問題の源である感情になど、焦点をあてて欲しくないのです。

さきほど書いたように、カルタの一枚一枚のカード(起こる一瞬一瞬)はつながりがありません。

だから、「なぜ」はやめなければなりません。答えのない質問だからです。ただ、それはそうなのです。

あえて向き合うものがあるとしたら、今、たった今、問題のようなものを見て「動揺しているこの感情」こそが問題そのものなのです。

目のまえのものを「問題であると決めている、その感情」をしっかりと捉えなければなりません。あますところなく、しっかりと受けとめることなのです。

「ああ、私のなかにまだこんな怖れがある。罪悪感がある、これがあるからこそ、問題のないことろでいつもジタバタ動揺しているのだ」と、気づくことです。

問題というのは、しっかりと意識化されなかったため抑圧された感情がくり返し浮上してきて、目のまえのものにかぶせられ、すかさずそのことが自分をおびやかしているように感じます。

ほんとうは、自分がおびやかされているのは、自分の感情、しっかりと意識化していない感情のせいなのです。

これを受けとめそこねていることから、さまざまな形をとった問題となって同じ感情を何度も喚起させられることになっているのです。パターンは違えども、結局同じ感情を感じる問題が勃発するのです。

「なぜだろう?」はやめて、たった今の自分の感情をじっと、しっかりと受けとめて、感じつくしてみましょう。

今まで、まるでドッヂボールでうまくかわして、ちょっとボールにかすりそうになったけどOK!とのがれていたのを、身体の真ん中、お腹の真ん中で「どすん!」と受けとめてしまいましょう。

あまりに強い感情が出てきて、びっくりするかもしれません。

そうなったら、おめでとうございます! それだけ、いらない感情の棚卸しができて、もう未来にそれを投影する必要がなくなります。確実に怖れが少なくなるのです。

ああだ、こうだ、原因を考えるのではなく、ものごとを「正面から受けとめる(ちょっとも逃げずに感じる)」、そんなことをこころがけてみてください!

そして、私は怖れではなく、私の本来の感情である喜びのなかで生きる! と決め直してみましょう♡

 

 

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スペシャルなランチは??

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

「ハースデーのお祝いは何がいい?」とたずねたところ、

「ピザかパンケーキ!」と即答。

リーズナブルなうえに、今どきのお子ちゃまでもなかなかしないリクエスト(ちなみに、成人男子です!)。

それに、いつも食べてるじゃない ・・・ と思ったけれど、いつだって好きなものがいちばんのゴチソウに他ならないのですよね。

じゃあ、ど〜〜んと叶えちゃいましょう!

ということで、ちょっとステキな眺めもプラスして(ここからは、オフィス・るんがばっちり見えます)、

前菜もつけちゃおう。

そして、お願いごとができるようにキャンドルも忘れずに♡

さあ、さあ、遠慮はいりませぬ。た〜んと召し上がれ!!(いきなり太っ腹になったようで、えらく気分がイイです・笑)

楽しい一年になりますように♡

 

気づきの日記「チラつくイメージを信頼する」

いつも診ていただいている先生のところで「前回、風邪をひいたのはいつですか?」と尋ねられたとき、しばらく考えこんでしまいました。それぐらい元気な最近です。

ところが、数日まえ、ふと ・・・水も飲めないぐらい自分が弱ってる、そんな具合の悪そうな画像がアタマをよぎったのです。「うわ!こんなのやだわ」とスルーしました。

そうしたらほどなく ・・・ 水さえ飲めないまったく同じ症状にみまわれてしまいました。十数年ぶりに三日間ほどダウンしてしまったしだいです。

本日より、めでたくやわやわと営業開始です(予約変更で大変ご迷惑をおかけいたしました)。

「考えには力があるから、そんなことを考えたからそうなったのではありませんか?」と思われるかもしれませんが、じつは私たちの考えが影響するというのはそのような細々としたレベルのもののことではなく、もっと根幹にある考えのことです。

一瞬一瞬よぎる細々とした考えこそが、そのベースにある信念の結果なのです。

そして、そのようなイメージというのは考えるまでもなく、勝手にやってくるものです。じつは自分でそれを阻止することもできません。(自分で好んでイメージしたり考えているのではなく、どこからもなくやってくるだけです。)

この場合は、少し先にある情報をキャッチして、そのようなイメージとなったようなのです。

時間というのは、「たった今、すべてが一瞬に起こっている」と言われています。

つまり、カルタがきっちりとそろえられて、一つの山にまとまって置かれている、というのが正しい時間のイメージです。(この場合、カルタの札は透明で、上から全部が一度に見通せるような状態です。)

ところが私たちはなぜか、時間をすべて横並び、一列にして、端からちょっとずつ、ちびちびと眺めているようなのです。すると、一枚のカルタを見ているときも、お隣や二枚先のカルタが何気で目に入ってしまったりします。絵札なので、目のはしに映るだけで何なのかがわかってしまうのですね。

これがいわば、わたしたちが未来をかいま見てしまう瞬間です。だから、目のよい人、視野の広い人は、ずっと先の札までも、あるいは今回の人生よりも前の札までも、そして自分だけでなく他の人の札も見えてしまうわけです。(これは耳のいい人、鼻のいい人がいるのを同じで、超人というわけではありません。ちょっとした特技と同じです。)

ときどき、「前世がわかる、未来がみえる」というだけで、覚醒しているように思ってしまうことがありますが、ただ認識する力の問題なので、それは「こころの目覚めの状態」とは何も関係がないのです。そして、「こころの目覚めの状態」とは、この画面の外に出て個人を手放せたときのことをいいます。

どうやら私は、ふと数枚先の「具合の悪い」札をちらりと見てしまい、「ああ、いやだ!」と反応していたのでした(苦笑)。

このように、誰でも何枚か先の札をふと目にすることがあります。何気に脳裏をよぎるイメージや感覚、言葉、感情が、これから起こることを教えてくれていたりするのです。

だから、「なんでこんなイメージが出てきたんだろう?」というときには、「もしや?!」と思ってみると、これから起こることに供えることもできるかもしれません。

しかし、「ああしたい!」「こうしたい!」「これはイヤだ」などの欲求や怖れの気持ちが強いと、それらはかなり強いパワーがあり、そのようなかすかなイメージをかき消してしまいます。メッセージを受けとりたいときには、自分の内側を静かにする時間を持つことも重要なのです。

もしよからぬ何かがよぎってしまって「あ、いやだな」と感じたら、ハイヤーセルフに渡して「これは望みません」と取り消しをお願いすることで回避することもできるのです。

具合が悪すぎて、寝るに寝られず、楽しくないトランス状態を漂っていたのですが、怒濤のごとくさまざまな考え(考えといっても、まったく言葉でもイメージでもないのですが)を受けとることになりました。

でも、元気になるにつれて、指のあいだから砂がこぼれるようにどんどん消え失せていきます。

今回、「なんでこんなに具合が悪くなったの?」と、まわりの方々をはじめお医者さんが原因をつきとめようとします。わたしも、最初はなぜだろうと考えていました。そうしたら、うつらうつらしながら「なぜ? にひっかかってはいけません」とメッセージがきました。

おお! そうでした! 私たちはすぐに、「なぜ?」と言いたがり、それによって大切なことを忘れます。これも、エゴのトリックが隠されています。

これは、また次回に書かせていただいますね!(*´∀`*)ノ

 

 

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チーズケーキには紅茶?!

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

チーズケーキ好きのお友だちと、近所の紅茶のお店へ行きました。

代官山にある「milk. black. lemon. by gogo no kocha」という KIRINプロデュースのティールーム。スウィーツはチーズケーキ オンリーなのです。

紅茶にペアリングするのは、じつはチーズケーキがベストマッチだそうな。

最初にそれを耳にしたとき、「ホント?!紅茶+チーズケーキってあうかな〜?」 と疑心暗鬼(笑)。チーズケーキにはいつも珈琲派だったから。でも、たしかにチーズの味わいを楽しむには、刺激の強い珈琲よりもお茶のほうが風味が感じられそうではあります。

スウィーツは、チーズのクリームブリュレにしました。チーズ風味が濃厚で美味です♡

紅茶はお店がオススメしているキャンディという紅茶のミルクティー。ハッピーな気分になるお茶だそうです。

いただいてみると、紅茶のお店なのにチーズのスウィーツのほうが印象に残るような、紅茶が主張していないところがかえってホッとする組み合わせでした。

お店にはこんなゆらゆら揺れる藤の椅子もあります。ここに坐ったらまるでマユのなかにいるような心地よさで、何時間でもリラックスできそうです。

壁やガラスのパネルに並んでいるのはライトなのですが、ひとつひとつがグラスに入ったミルクティーやフルーツティーになっていて可愛いのです。

天上が高いので、まわりのテーブルの声がまったく気になりません。おいしいスウィーツと紅茶をいただきながら、時を忘れて何時間も楽しいおしゃべりタイムを過ごすことができました。

チーズケーキお好きな方は是非どうぞ♪

 

 

気づきの日記「判断・批判・攻撃という剣を手放す」

剣を手にしたとたんに、対戦相手が立ちあらわれる

・・・ なんだか、今どきのゲームのスクリーンみたいですね。

これは私たちが日々やっていることとなんら変わりがないのです。

「剣? そんなぶっそうなモノ、私は身におぼえがありません」って?

「剣」とは、こころにいだく「判断」や「批判」「ぷちイラっと」な攻撃の想いのことです。

この「剣」が合図となり、目のまえに闘いの世界が立ちあらわれます。すべては自分の「想い」から始まるのであり、自分のこころこそがスタート地点となります。

この主人公は「剣(判断・批判・攻撃)」なしでは、この世界を生き延びられないと信じています。

なぜなら、つねに自分の信じているルールをおびやかされて不安になるからです。そのため、危険を察知するやいなや、判断・批判・攻撃の「剣」をふりまわします。やられるまえになんとか優位に立ちたいからです。その剣によって自分もボロボロになるのですが、ここのキケンさにはかえられないのだと信じています。

しかし、「剣(判断・批判・攻撃)」など使わなくてすむ愛とやすらぎのゲームもごまんとある、ということをすっかり忘れています。自分のこころが「これ」を選んでいるということがわからなくなっているのです。

そろそろこの主人公も、「剣(判断・批判・攻撃)」をおいてもいいときなのです。さもないと、身体が傷だらけになりこれ以上闘えなくなるか、にっちもさっちもいかない状態においこまれることになります。

彼(彼女)は、ほんとうは何を見たいのでしょうか? どんな世界を体験したいのでししょうか? どこを目指しているのでしょうか?

ほんとうは、「その目的こそが目にするものをきめている」ということを忘れています。

私たちはどんなときにも、自分の内側の世界を外に見ています。それが見るということなのです。

 

「剣」さえない愛とやすらぎの世界は、「剣(判断・批判・攻撃)」の威力に頼りきり、「剣」によってこそ支配できると信じている者には、とうてい見ることができない世界です。

「剣」でどうにかしようとしても、さらなる怒りや復讐という闘いのストーリーをつむぐだけであって、結局のところ「剣(判断・批判・攻撃)」を握っている限りは、平和とか、幸せとか、愛というものとは無縁なのです。「剣」に頼ることでこころのやすらぎに到達することはできないと、知らなければなりません。

こころは常に「思っているとおりにしか見せてくれない」ことを、思い出さなければなりません。愛とやすらぎにあふれた世界が見たいのであれば、「剣(判断・批判・攻撃)」を大切にすることよりも、自分のこころの愛とやすらぎの想いがやどる部分にしっかりとチューニングする必要があります。

でも、長いあいだ闘いの習慣によって、闘いのみを信じるこころの部分だけがイキイキと活気づいています。愛とやすらぎ担当の部分は、まるで気絶したかのように存在が消えうせたようになっています。そのため、なかなかこころの方向を変えられずにいます。

それでもちゃんと、愛とやすらぎの部分は存在しています。それこそが、本当の自分のこころだからです。

そんなときには自分でどうにかしようとせずに、自分の正気の部分である高い自己(ハイヤーセルフ・天使といってもよいのですが、源・神からの直感などの導きを送ってくれたり、やすらかな道にナビをしてくれる頼もしい存在です)にお願いして、「剣(判断・批判・攻撃)」を頼りにしそうになっているこころを正してもらい、愛とやすらぎの状態へとこころを方向転換してもらわなければなりません。

私たちはこの高い存在に安全に守られて導かれいるという信頼の感覚なしには、なかなか安心して「剣」をおくことはできないからです。

なんせこころは、「やられてしまうに違いない、そのまえにどうにかしたい」と言いはってやめないのですから。それぐらいこわがりさんなのです。

だから、なかなか自分ひとりでは間違った考えを手放すことができません。そのため、平和な世界を見たいと思うときには、助けが必要なのです。大きな存在にすでに守られているという、「信頼」と「安心感」が必須となります。

小さなこどもでも、「ママに見守られている」という信頼のあるこどもは安心して冒険にでることができます。なにがあっても戻ってくる場所があるし、また見守ってくれている存在があるという安心感があるから勇敢になれるのです。チャレンジできるのです(そんな意味でも、こどもの頃の「安全の感覚」は大切です。)

自分にもいつでも守ってくれているハイヤーセルフという存在がちゃんといて、いつなんどきでも自分にとってのセイフティーネットになってくれるんだと信じることができていれば、剣を手放す勇気ももてるようになるのです。

この世界を生きていくとき、「剣」に頼るのか(つまり攻撃を前提とするのか)、それとももともと守ってくれている大きな存在を信頼するのか、それによって「攻撃や痛みを見る」のか「攻撃や痛みとは無縁の世界を見せてもらえる」のかが決まるのです。

「攻撃のない世界」を見るということは、高い意識の力をかりながら、自分のこころのなかにある「怖れや罪悪感の思い」を正してもらうことで、本来の怖れのないこころの状態に戻してもらうことです。

どんなときでも「自分のこころで信じていることが見える」のであれば、怖れを手放すことで、自分の世界に怖れや痛みを反映することがなくなります。

今までは自分のちからをブイブイいわせて、なんでもかんでもコントロールしようとしてきたのを、ひとつひとつ高い自己のもとにおくようにしなければなりません。(本当はそうすることこそが、いちばんの安全であり、たったひとつの間違いのない道なのですが。)

いったん高い意識にお願いするお気楽さと安全性を知ると、日溜まりでリラックスしていても大丈夫だと安心できます。そうしたら、もう誰もホラーや戦闘のストーリーのまっただ中に身を投じたいと思わなくなります。

そのためにはまず、自分の高い意識との関係を築きはじめることです。永らく断絶してきた関係を修復することです。

それは難しいことではありません。日々お友だちや家族にするように、ハイヤーセルフに話しかけて、尋ねて、信頼して、耳を傾けることです。すると、直感や自然な行動として、安全に導かれるようになるのです。

そう考えると、お友だちや家族も大切だけれど、まずいちばん最初にコミュニケーションをしなければならない存在は、自分自身の高い自己だとわかります。その高い自己との信頼関係こそが、「剣(判断・批判・攻撃)」などというチャチなものは必要ないと気づかせてくれます。

ハイヤーセルフの手をとって(ハイヤーセルフの手をとったら、もう剣は握っていられません)、愛とやすらぎの世界へと導いてもらいましょう。

「私は、闘いよりも愛とやすらぎがほしいんだった!」とはっきり自覚し、それをハイヤーセルフに伝えることで、「剣」とは無縁の本来の正しいこころの状態へと方向転換をすることができるのです。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング