furukawaさんのブログ

お茶の間シネマトーク「爆音&ショーマン」

最近観た二本。まず一本目は・・・

スクリーンのまえには大きなスピーカーがゴロゴロ。コンサートが始まるような風景ですが・・・。

これは「爆音映画祭」の爆音上映会で、いくつかフィーチャーされた作品が爆音で上映されます。

爆音といってもただ音がガンガン大きいということではなく、普通の上映では拾われていないようなさまざまな音、むしろ意図的にカットされているような自然音などもその場面によって音が大きくされているのです。

でも、それによってかえって、登場人物の心理状態をあらわにしていたり、その場面がとてもリアルな感覚で伝わってきたりします。

私が観たのはジョン・カーニー監督の「はじまりのうた」。

キーラ・ナイトレイ扮するグレタがシンガーソングライターなので、彼女の歌声とさらに恋人役のアダム・レヴィーン(彼は何度もグラミー賞をとっています)の歌をたっぷり聴くことができます。

そして、これは以前に観ている作品なので、オリジナルとの違いがわかりやすいのです。



例えば、浮気をされて傷心のグレタが友人のライブハウスの片隅でボーっと飲んでいるのですが、突然ステージで彼女の歌を披露する機会を与えられるシーン。

バーカウンターの向こうのグラスや氷をあつかう音とか、ホールの人のさざめきが本来の作品よりも強調されていて、そのために彼女のこころの孤独感とか疎外感がよりひしひしと伝わってくるのです。

アダム・レヴィーンのライブのシーンなどは、まるでなまライブ会場にきているような臨場感。

どの場面もまったく不自然ではなく、むしろ街の喧噪やら、場面々々の自然な音をしっかりととらえているので、よりストーリーは現実味をましていたように感じたのでした。

これはお気に入りだったので、音を楽しみながら再び観られて楽しかった!

さて、もう一本は「グレイテスト・ショーマン」。

こちらも音楽が楽しめるミュージカル作品です。去年の今頃ヒットしていたオシャレなミュージカル「ラ ラ ランド」のスタッフが手がけたといいますが、こちらはだんとつゴージャスでパワフル!

テレビのトレイラーでもおなじみの「This is ME !」の歌声は圧巻です。この季節、新しい環境で新しいチャレンジをはじめるたくさんの人たちの背中をおしてくれるナンバーですよね。

テンポのいい展開とパワフルな歌声とダンス、そしてどの場面もきらきらゴージャスで、あっというまの2時間余でした。



私たちはみんな、自分には足りていないと思っているものをつけ足すことに忙しくって、それこそが幸せへの道のりであり、人生だと思ってしまっているけれど・・・それが粉々にくだけ散って、「そこには何も手にするものはなかったのだ」と悟るまでは、なかなかほんとうに大切なものに気づくことができません。

苦しい思いをしながら長い長い旅をして、結局はもといたところに舞い戻ってきて ... けれども、その旅の果てにこそ、「ようやくすべてはOKだった」ということを知ることができるのですよね。

ヒュー・ジャックマンのショーマン、はまり役でした。

 

 

ここはどこ?

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その1
一見、公園のように見えるこの景色・・・

これは、皇居を上からながめています。

なかほどの広々しているところには、もう一般人は入れません。その奥にあるうす緑色の屋根は宮内庁の建物。さらにその後ろに広がるうっそうとした森こそが御所のありか。いつも平らなところで見ているので、「なるほど!前おきの部分だけでもこんなにひろいのね」と驚きます。

見下ろしてはいけないエイアなので高さ制限があり、このあたりまでは許されるそう。そんな眺めを楽しみながらのランチでした。

その2
沼地? ぬかるみ?

いいえ、これは池です。カラッポになっている池。

吉祥寺にある井の頭公園に散歩に行ったら、ナント、池がこんなことになっておりました。

そういえば、ニュースで池の総ざらいをしている様子を見ましたっけ。底から自転車が出てきたり、えたいの知れない外来種の生物がいたり・・・。

幼少の頃からこの池を庭のようにして育った私ですが、こんな様子ははじめてです。

桜がひらく頃にはお掃除もすっかり終わるそうなので、いつものこんな美しいお姿に戻っていることでしょう。その頃にまた行ってみましょ!

 

 

気づきの日記「怖れの原因って・・・?」

爆音映画祭」を観てきました。

これは、誰もが知っていて観たことがあるような作品(「ラ ラ ランド」とか「シング ストリート」とか)を、「音」というものにこだわって大音響で上映しているのです。

けれど、大雑把な爆音ではなくって、本来の作品のなかでひろわれていないような音をあらためて強調したりすることで、また違ったストーリーがみえてくるというもの。

観ていて思ったけれど、「音」こそがじつはストーリーを紡いでいるのではないのか? ということ。

つまり、起こっていることは「単なる」出来事で、良くも悪くもなく「あるがまま」であるのに対して、いったん音がついてしまうと、それがとつぜん重要性をおびたり、緊張感を生んだり、歓喜に舞いあがったり、とんでもないホラーにもなったりします。

電車の壁に埋めこまれているモニターをイメージするとわかりやすのですが、どのような画像が流れていようが「音」はついていません。

そうすると、どんなシーンであろうが、けっこう「どうでもいい」のです。かりに、ジェイソンが襲いかかろうとしていようが、ジョーズが大口を開けようが ・・・ 「あ、そうですか・・・」っていうクールな目線で見られるのです。

いったん音がついちゃうと(そう、あのお決まりのジョーズ登場の音)、ヒレが見えているだけで一気に恐怖感が高まります(でも、ヒレはヒレなのですが)。

あのお決まりの音には、「とんでもない恐怖が起こる!」「目もあてられない惨劇になるに違いない」「血まみれ」「痛み、絶叫」・・・ という記憶や思考というこころの音がつけ加えられて、「あるがまま」だったものを一気にキョーフに陥れます。

でも、「音」さえなくなっちゃえば、ヒレが海面にあらわれても「ただヒレだな〜」という素直な感想でしかありません。たとえそのあと何かが起きても、実際よりはすごくたんたんとしています。

だから、ホラー映画から「効果音」と、さらに記憶・思考・価値判断というこころの「音」をとってしまうと、もはやホラーでさえなくなっちゃうのです。

私たちは「音」にホンロウされている、といってよいようです。

ってことは ・・・ 起きている出来事よりも、そこにくっつけちゃう「音」こそがキョーフの源なのです。

そして、私たちは毎日毎日、「あるがまま」であるはずの人生という画像にせっせと効果「音」をつけることにたいそう忙しいようです。思考、感情、記憶、感覚という音を。

「あるがまま」という人生にそんな「音」をつけることこそが、人生で自分がするべきことだと思っているのかもしれません。

なんせ、「あるがまま」という何もついていない状況はおちつきませんから。

私たちは極度に「何もない」ということにおびえているので、とにかく何かで埋めたい。埋め尽くしたい。「何もない」ということがみじんもわからなくなるまで。

だから、「何か」を目にするやいなや、いろいろな意味や判断や感情や過去をくっつけまくります。「あるがまま」があとかたもなく消えさるまで。(こりゃ、神経症としかいえませんわね。)

でも、「音」のない電車のモニターがそうであるように、「あるがまま」はただたんたんと、あるがままに流れ行く ということを知ったら、あれこれをくっつけるというエネルギーの消耗にこそウンザリするし、そんな神経症のすべてが笑えてくるかもしれません。

私たちが人生というストーリにくっつけている「音」(=思考、感情、記憶、感覚)をたんなる効果「音」なのだと気づくと、「音」に踊らされなくなる自分に気づきます。ただあれこれの雑音に気づいているだけで、すぐにスルーできる感じ。

「現れては消えさってゆくものはどうでもいい」っていう感じで、いちいちかまってエネルギーを使わなくなるのです

そうすると、その後ろがわに隠れていたもの、安らかさや「静寂」に気づけるかもしれません。あ、安らぎはいつもここにあって、どこかに探しに行かなくてよかったんだ!ってね。

こころのなかの効果「音」(思考、感情、記憶、感覚)をただ「音」として気づくようにしてみましょう。そうすると、心配だったこと、重くのしかかっていたことなど、いろいろなことから重要性、シリアスさがはがれ落ちてしまうかもしれません。なんかやたら楽やかになって、どうでもよくなります♪

 

 

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春をかんじるイチゴ いろいろ

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二月は真冬といえども、どこか春気分が感じられる月。

お洋服屋さんのウィンドウも軽やかな色あいにかわり、花屋さんもカラフルでいい香り。そして、スウィーツショップもいちごフェア。

ながらくお世話になったミカンに別れをつげて、つやつやみずみずしいイチゴについ手がのびてしまいます。

こちらは、いただきもののいちご。

とっても香りのいいストロベリーティーと桜のかたちをしたストロベリークッキー。イチゴのお菓子は、まだ寒いこの季節にいただくと春気分がもりあがってさらにおいしいものです。

おうちカフェだけでなくて、おそとカフェでもイチゴを。

数あるスウィーツのなかから、お友だちも私もいちごの魅力にひかれました。

そして、いちごはサラダにも。

こちらはイタリアンの前菜、カプレーゼ。リーフのかげにはまん丸のモッツァレラチーズがかくれていて、トマトのかわりにいちごなのですが、バルサミコの甘酸っぱさにとってもあっていておいしかった。なるほど〜。いちごはトマトのかわりにお料理にも使えそう。

春をまつ気分もいいものです♪

 

 

Happy Valentine's Day ♡

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いつも頑張っている自分にも、おいしいチョコを!

 

気づきの日記「ついつい食べ過ぎて、罪悪感・・・」

おもしろいのですが、いらっしゃるクライエントさんにはその月ごとにシンクロニシティがあったりします。

どういうことかというと、オール「16歳の女の子」オンパレードの一ヶ月とか、先月についていえば「32歳の男子」てんこもり(いったい32歳の男性になにが起きたのか?!)。そして、相談内容も、「浮気されちゃいました」ばかりの一ヶ月とか、「私の人生、行き止まり」連発の一ヶ月とか ・・・。

昨年のご相談内容のなかでもけっこう多かったテーマのひとつとしては、「つい食べるのがやめられなくって、あとですごくイヤな気分になりへこみます」というもの。

これは女性に多いのです。きっと男性はたくさん食べてしまっても「それがどうかした?」という感じで、あまり問題意識がないのかもしれませんね。

男性の場合は、「アルコールを飲み過ぎる」「ギャンブルをやめられない」「浮気がとまらない」など。女性だと、「買い物がとまらない」「彼氏にかまってもらわないとダメ」など。すべて同じ原理で起こります。

しかし、他の「やめられない」に比べて、「食べ過ぎ」は罪悪感を強く感じやすいようです。おそらく、食べ過ぎると気持ち悪くなるので、もともともっていたイヤな感じと食べ過ぎた気持ち悪さがダブルでやってきて、「あ〜あ、またやっちゃった!」感を強く感じるのだと思います。

なので、本日は「つい食べるのがやめられないことと罪悪感」について。

過食についてよく言われるのは、「こころに穴があいているから、食べものをつめこんで埋めてしまいたいのだ」ということ。

たしかに、「埋めたい」「ごまかしたい」というのが、あらゆる中毒や依存症のメカニズムです(アルコール中毒、ギャンブル中毒、恋愛中毒、携帯中毒、ワーカホリック・・・などなどみんな問題を煙にまいてしまうためのお道具なのです)。

そこで、なぜ「埋めたい」のか「ごまかしたい」のか? という、さらに深い動機を明らかにしてゆく必要があります。

「なにをごまかしたいのか?」 というと、シラフではやってられないほどの「イヤな感情」がそこにある、ということです。

とにかく、今ここにあるこのイヤな感じに向きあいたくないから逃避をくわだてます。イヤな感じとは、嫌悪であったり、恐怖であったらい、罪悪感であったり、苦痛の記憶であったり、それらがごちゃまぜになった胸が悪くなるような感じ。

その「ついごまかして隠しておきたいイヤな感じ」を、ほんとうはちゃんと片づけてあげる必要があるのです。しかし、あまりにも嫌悪感が強いために、そちらに顔を向けてまっすぐに見てあげることすらできないことに問題があるのです。

見たくないからこそ、そのイヤな感じから気をそらすために、たくさん食べることによって、あふれるほどの味覚や満腹感で感情をかき消し追いはらおうとします。

しかしその結果として、「ああ、またやってしまった・・・」という自責の念、罪悪感を感じることになります。ちゃんと本当の問題に向き合っていないのだということが自分でわかっているからなのですね。

そしてさらに、その罪悪感をかき消すためにまた食べる、という負の堂々巡りにおちいるわけです。

ほんとうのところ、こころのなかでは「隠しつづけておきたいイヤな感情」と向きあわなくちゃいけないぐらいだったら、この食べ過ぎによる罪悪感を感じているほうがよっぽどましだわ ・・・ とヘンに矛盾した決断をしているのかもしれません。

なので、やらなければならないのは、そこにひそんでいる「嫌悪感、イヤな感じ」をしっかりとつきとめて、勇気をもって向かいあってあげることが必要となります。

それをちゃんと見るために、まずその「嫌悪券」の真の原因をはっきりさせるということです。(慣れてくると感情だけ感じてもよいのですが、最初はいったいなにが起こっているのかを認識する必要があります。認識することで、ものごとは終わりにすることができます。)

たいてい過食に走ってしまうときには、「ある出来事」が起こっていて、それによる動揺が原因となって過食をしてしまいます。でも、その表面上の「出来事」は真の過食の原因ではないと気づくことが必要です。その「出来後」がこころに抑圧されていた感情を刺激してしまったため、そこにもともとあった「嫌悪感」が浮上してきてしまったというわけです。

つまり、その「出来事」はたんに引き金にすぎなかったのです。

たとえば、クライエントのA子さんのケースをみてみると、表面上の出来事と問題の原因が違うことがよくわかります。

A子さんの問題は、「男性から大切にされる」ということが起こると、過食をしてしまうのだということなのです。ふつうだと、何かトラウマがあり、男性恐怖症なのでしょうか?と思ってしまいますが。

実際なにが起こっているのか調べてみると、

「男性に愛される」→「私は女性だと意識する」→「女性=母のイメージ」→「母は私を傷つけて苦しめた」→「つまり私は女性=母と同じひどい人間だと感じてしまう」→「男性に近づかれる=母にまつわるイヤな感情がわきあがる」→「そのすべてのイヤな感情を隠すために味覚と満腹感に頼ろうとする」→「じゃんじゃん食べて感情をかき消そうとする」→「すごく満腹で苦しい」→「感情は解決されず、まだそこにある」→「失敗した感じ」→「満腹の苦しさとともに、またやってしまったという敗北感、罪悪感を感じる」→「でも、もともともっていた母への苦しみよりもこの罪悪感のほうが少しはマシかもしれない(これは無意識的)」→「やめられない」というプログラミングになっていたのです。

この呪縛をとくためには、とにかく抑圧してしまった対象の人物(母)とのあいだの感情を少しづつ地道に丁寧に手放してゆくことが必要となります。

しかし、過食やなんらかの中毒、依存症状で苦しんでいる人だけが抑圧した感情を抱えているというわけではありません。

ほんとうは私たちの誰もが、「見たくない」「向きあいたくない」「隠しておきたい」感情を抱えています。それは時限爆弾を抱えているようなものです。いつかは爆発します(今世でなくとも・・・)。

だからこそ、ゆったりとくつろぐことにも恐怖を感じます。爆弾が突如爆発するのではないか・・・とうすうす感じているからです。

会社なんかに行かないで暮らせたらいいのに、長い休みがあったらいいのに、と言いつつもいざ一ヶ月も休みができたら、まったくどう過ごしたらいいのかわからなくなってしまいます。それによってイキイキするどころではなく、魂をぬかれたように元気がなくなってしまう人もいて、かつての忙殺されていた頃の自分を懐かしんだりします。

「だって、止まったら死んじゃうの!」という回遊魚状態というのは、やめられない慢性病なのです。

そんな私たちにとって、ケータイは「自分の抱えている爆弾を直視しなくてもいい」「爆弾を忘れさせてくれる」という、とっても重宝なヒマつぶしになるわけです。

だから、もしも今苦しく感じているのであれば、たんに「私はこころの荷下ろしの時期にきているのだわ」と思って、ただお片づけに励めばよいわけです。何かが間違ってしまったというよりは、ただそういう時期にきているのです。そうすれば、爆弾によってこっぱみじんになることを避けることができます。

一方、爆弾は今だ深く自分のこころに埋めこまれたままで、まったくピンとこない方もいらっしゃることでしょう。でも、それもその方のペースで、今は穏やかな時期を楽しめばよいのです。

そういうお片づけの時期にきちゃったときには、ただ「ごまかさない」ことが大切です。つまり、何かに逃げこまないこと。

「え〜! そんな?! それは苦しすぎます。コワすぎます!」と感じますか?

それそれ! それです! その感じ! それこそを感じてみましょう! それが、たまりにたまっていて、自分の人生を見るレンズを泥だらけにしてしまい、ほんとうの自分を見えなくしているものです。そのため自分をみくびって、とても小さな価値のない存在にしてしまっているのは自分自身なのです。

感情のお片づけをするときに大切なのは、感情に善悪の価値判断やストーリー、文句、セリフ、あれやこれやをつけないこと。つまり、沈黙すること。

もし、自分のセリフやら、場面、情景がくっついていると、とてもじゃないけれど怖くて受け入れがたくなります。それらは自分が個人的にくっつけているものなのです。感情とは、ただそのまま、それだけです。本当は善悪の判断も、セリフも、場面も、記憶もないのです。

どんな感情も、それらは電気で感電したときの感じと大差はありません。コンセントを触ってしまってビリっときたら、「わ、びっくりした!」。それでおしまいです。

感情も出てきて、それに出くわして、感じて、「わ、びっくりした!」・・・ハイ、それでおしまい!

そのぐらいシンプルです。ただ、感情に感電して(笑・そうでう感情は感電です)、それで終わりにしちゃいしょう。大丈夫です。ビリっとしますが、死にはいたりません。

なので、すべてのあれこれをとりはらって、ただの体験、感覚だけにしてゆく必要があります。

そうすると、善悪なしでそれに共鳴し、許され、ほんとうのあるがままの「受け入れ」をすることができます。人生においては自然な「受け入れ」がなされたとき、人生は本来の流れを取り戻し、キケンなものではなくなるのです。

そのためには、アタマをストップする、セリフをくっつけない、ということが大切なことです。これが感情において、正しくあるがままに「感電する」ポイントです(感電に正しいやり方などあったのね?!笑イ。

問題に出くわしたら、なにが起こっているのか探求して、そこに感情が出てきたらただ何も考えずに「感電してみる」。

とくに過食の場合には、食べてしまうこと自体はそのまま自分に許してあげることが大切です。なるべく罪悪感をふやさないようにすることです。ただ、食べてしまうまえに、そこにある動揺を「感電するようにただ感じてみること」をします。そして、食べましょう。

これを少しづつ行ってゆくことで、隠しておいた感情の塊が少しづつ削りとられて小さくなってゆきます。そうすると、その不快さをカバーするために使っていた味覚や満腹感はだんだんと必要なくなってくることでしょう。

これも、頑張ってするのではなく、少しづつでよいのです。

逃避するのではなく、向きあう方向に向かおうとすると、必ず自分自身の高い意識があとは引き受けてくれます。その力にゆだねて、お任せしてしまいましょう。

高い意識のサポートを信頼しつつ、自分の感情に正直に、怖れずに受け入れて、あるがままに完全に「感電」してみる・・・。このように「受け入れる」気持ちが起こると、人生との戦いが終息にむかい、向い風がいつのまにか背中をおして、ふわりと持ちあげてくれるように感じられるかもしれません。そうしたら、委ねて運ばれてみましょう。

PS A子さん、こころのなかで起きていたことを見破りさえしたら、あとはそれにまつわる感情の手放してゆくことです。来週は一緒に練習して、感電(感情の解放)のエキスパートになってしまいましょう! 少しづつ練習してゆくうちに、いつのまにか感情の塊がどんどん小さくなって、楽しみながら適度な量を食べられるりますよ。また来週お待ちしています♡♡

 

 

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またまたブライスちゃんち

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また、ブライスちゃんの館に行ってまいりました(代官山 Junie Moonさん)。ブライスちゃんとは、大きな瞳が印象的なお人形さんです。

今回はおともだちと一緒。つぶさにブライスの館を物色してまいりました。おともだちにも気にいっていただけたよう。じつはここ、訪れるのはオトナ女子ばっかりなのです。

ほんとうに見れば見るほど、ブライスちゃんのハイセンスな着こなしにうなってしまいます。何を着せても可愛いな〜。

たとえば、小物で売られているこんな帽子・・・

ちょっとごついんじゃないの? って思ったけど、

ブライスちゃんならこう着こなします。フェミニンなトップスとロングスカート、そして編みあげブーツで引きしめて・・・ほどよいバランスに。ほら、ステキ♡

お洋服も可愛いけど、そのコーディネイトにあわせた小物もすごく手がこんでいるので「私もこんなの欲し〜い!」って見とれてしまいます。

ちっちゃいトートやリュック、アクセサリー、そしてタイツやタビまであるのです。

ウィンドウのディスプレイも、アリスちゃんから一変して、

ウサギとパンダの着ぐるみスタイル。ウサギはイースターを先取り? そして、パンダという流行もはずしていません(笑)。こんなあまあま着ぐるみスタイルも、どこか憂いのある表情で着こなしてしまいます。(どこか、70年代の雰囲気がありますね〜。)

ブライスちゃんのおべべはけっこう高いので、たっぷりおしゃれをさせてあげるだけの経済力もなく(汗)、残念ながらブライスちゃんをうちにつれてくるわけにはいかず・・・。もっぱらお散歩コースにいるブライスちゃんを愛でております。

また一ヶ月ぐらいすると、ディスプレイのテーマが変わります。次はなんだろう? 楽しみ♪

 

 

大人の習いごと

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今、大人の音楽教室がとても人気なんですと。

それを証明するかのごとく、私のお友だちも最近、楽器のおけいこをはじめています。

Sちゃんが三線、Y氏がロックギター。ふたりとも順調に続けているご様子で、とても楽しそう。

そんなお二人と新年会。Sちゃんが三線の腕前を披露してくれました。

自らデザインしたというSちゃんらしい花柄三線の弾き語り(本人の希望で顔出しNGなり)。

びっくりしました☆☆

Sちゃんの歌のうまさに! 「三線ではなくってそっちかい!?」と言われましたが、いえいえ、もちろん三線もすごく上手だけど、歌のインパクトにびっくり。

すご〜く感化されて、ちょっとご無沙汰しているピアノをいじってみたくなりました。三人でセッションしようよと計画中。

さてさて、新年会のごちそうは、タイ料理のデリバリーと持ちよりおつまみ&デザート。

このタイ料理5品のなかに、激辛あり。ロシアンルーレットです。

「ぜ〜んぜん大丈夫!甘いよ」と言っていたら、じつは時差があったのですね。あとからゼイゼイ、ハアハア&大汗でした(笑)。

楽しい新年会でした♪

 

 

気づきの日記「イジワルな人に対処するには?」

Q: 職場にイジワルな上司がいて、ことあるごとにいやがらせをされます。収入にも影響してきます。なぜ自分ばっかり、と落ち込みます。

A: 社会と関わりをもっていると、どこにいても一人ぐらいはイジワルな人がいたりします。そんな人と毎日仕事をしなければならないとき、どう対処いたしましょうか?

まず、【相手の態度・言動を、個人的にうけとらない】ということ。

つまり、「私に対してなされている」と受けとらないことです。なぜなら、その人は「ただそういう人」だからです。そういう振る舞いをすることしかできないのです。

その人は相手が変わっても、場所が変わっても、ずっとそれをやり続けます。それこそがその人らしく振る舞っているということだからです。そこにたまたま出くわしてしまっているのです。

でも、私たちは誰でも無意識の罪悪感というものをもっているので、相手の機嫌が悪いと「ただこういう人なのだ」と受けとれず、自分に対して行われていると思ってしまます。そして、相手の態度のせいで「私がいけないのか?」と自分を責めて自信をなくしてしまう傾向があります。相手の問題をひきうけて、自分のこととして悩んでしまうのです。

自分のこととせずに、単に「この人はこういう人なのだ」と割り切ることが大切です。

なぜ、こういう人なのか? 理由はいろいろです。その人の生い立ちや(あまり安心感や自尊心を感じられずに育ったのかもしれません)、さまざまな体験や(劣等感や自己嫌悪があるのかもしれません)、トラウマや(この人こそ、いじめられていたのかもしれません)、私たちには計り知れないいろいろなことが組み合わさっているのでしょう。たしかなことは、自分のなかが混乱していて、自分自身のことを受け入れられない人以外、人をおとしめようとすることはないということです。

だから、いい人になってもらおうと期待するのも、改善させようと挑むのも無意味です。そのままそうさせておきましょう。まるでテレビや映画のなかのイジワルな人を見るように、客観的に、静かに、無反応で、ただ観察していましょう。

このような人は自分のイジワルによって相手がどれだけダメージを受けたか成果を感じたいので、逆に無反応を返されると拍子抜けすることでターゲットにならずにすむかもしれません。なので、ひょうひょうとしていることが大切です。

それから、【自分のアタマのなかでおしゃべりを延々と続けない】こと。

起こっている事実よりも、このアタマのなかのおしゃべりのほうがずっと有害です。

「なんで、この人はこんなことをするの?」「ひどい、なんで私ばっかり」「こんなことされたらお給料が減っちゃう」「そうしたら、ああなって、こうなって、そして・・・」と、相手に反応すると延々とアタマのなかのネガティブなおしゃべりが続き、実際に起こったこととは関係のないストーリーがでっちあげられてゆきます。

相手の態度よりも、それに「反応すること」によって「あたまのなかのおしゃべりがエキサイトしてゆくこと」の方がずっとコワイし自分を消耗させます。

アタマのなかでストーリーがどんどんでっちあげられ、まだ何ひとつ起きてもいないのに悲惨な自分にしたてあげます。もとをただせば、相手のイジワルな態度があっただけなのに、アタマのなかではとんでもなくみじめな未来の自分を見ていたりします。

このようなアタマのお喋りこそ、自分への虐待です。

アタマのなかで被害者チックなお喋りが延々とつづいているときには、それに気づきいて、ただ静かにながめてみましょう。するとおしゃべりは自然と止まり、静かになります。「気づくこと」と「アタマの勝手なおしゃべり」は両立しないのです。

このアタマのお喋りは、相手をしてあげなければあまり出てこなくなるのです。なので、気づいたときには早めに対処して、ストップさせてしまいましょう。

アタマのなかのお喋りを撃退したあと、イヤな感情だけが残っている場合があります。

その感情はこの出来事への反応として受けとられるので、さらにこの出来事が不吉に感じられてアタマのお喋りを助長したりします。

じつは、この出来事のせいで感じていると思っているこの感情は、実は出来事とは別ものなのです。

私たちは誰もが未解決の怖れや罪悪感を抑圧してためこんできました。そのため、「問題」のようなことが起こると抑圧していた感情が浮上してきて、その出来事と感情がドッキングしてしまいます。そして、その出来事でそのように感じていると勘違いし、「ホラ、こんなにイヤな感じがするからこれはひどいことに違いない」と被害者意識を強めてしまうのです。

でも、感情はただためこんでいたものが浮上してきているだけなので、上がってきたのをがっつりとつかまえて、お掃除するチャンスといたしましょう。

そのためには、その感情をムリになくそうとするのではなく、ただ感じるままに受け入れて感じてあげるだけでOKです。思考がくっついていなければ、感情はそのまま消滅してゆきます。たた受け入れてみましょう。

* 相手がどんな態度であろうと、相手に巻きこまれてしまうのではなく、ただ客観的に静かにながめて、自分の思考を助長しないようにします。こころのなかで沈黙を保ちましょう。

* 感情が残っていれば、それはただ感じて処理いたしましょう。

「この人、そうとう強烈なキャラだけど、ただこういう人なんだわ」とニュートラルに接することができるように練習をしてみてくださいね。

自分のなかが穏やかだと、どうしたらよいのかという次のステップも見えてきやすくなります。チャンスもキャッチしやすくなります。

また、穏やかで自分らしくあることで、きっとまわりの人も理解を示してくれるようになるかもしれません。 ( ・◡・ )

 

 

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雪にもめげず旧友とよもやま話

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先日は久々に足首までずっぽりと埋まる大雪でした。

翌日は23cmもの積雪にもめげず、大宮までお出かけ。十代のときからの旧友 Kちゃんとのランチのお約束なのです。

昔、ふたりでたくさんの美術館巡りをしていて、パリやロンドンの美術館にも行きましたっけ。そのときの思い出話しいろいろを。

それはいつも航空券が安いと〜っても寒い時期。極寒のなか朝から夕方まで、クリスマスデコレーションが美しい街並を地図を片手にすみずみまで歩き回ったものでした。寒さにめげず、とにかく歩いた、歩いた。

おかげで、今でもパリの地図はアタマのなかに。でも ・・・ 覚えているのは絵画ではなく、凍えてとびこんだカフェのおいしいカフェオレやあつあつのタルトなのです。あきらかに、花よりダンゴの私たちなのでした。٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

あとね、旅先でお互いのファッションをコートまで含めて丸々とっかえっこして着るというお遊びも。着る人が変わると、ちゃんと着る人テイストの洋服になっておもしろかったのです。

あと十年ぐらいしたら、また二人で同じところに行ってみたいね〜、と話しています。きっと、同じ場所も違った風景に見えそうです。

Kちゃんとのランチはパレスホテル大宮の「欅」さんでした。春らしい色合いの和食に癒されました。

ところが、育ちざかり(?)の私たちは和食コースにまったくあきたらず、あげ焼きパンのお店「象のミミ cafe」さんへ。

象のミミっぽいかたちのあげパンは、予想とは違ってとってもさっぱり。パリパリさくさくの食感で香ばしくて、いくらでもたべられそう。コーヒーもお豆にこだわっていてとってもおいしいのです。

Kちゃんはスウィーツ系とゴハン系のあげパンをふたつ(頼もしい食欲!笑)、私はおっきなあげパンパフェをいただきました〜。

こじんまりとした暖かな雰囲気の可愛らしいカフェでした。