furukawaさんのブログ

お茶の間シネマトーク「MISS ミス・フランスになりたい!」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

「私は将来、お花屋さんになりたいです」「僕は電車の運転手さんです」。小学校の授業でよく見かける風景です。

9さいのアレックスくんはみんなのまえで「僕の夢はミス・フランス!」と、なんの躊躇もなく宣言するのですが、みんなから失笑をかってしまいます。

それからときは流れ、27さいのアレックスくん。ボクシングジムで働きながらも、うつうつとした毎日を過ごしています。

そこに幼なじみが現れ、彼と話しているうちにかつての夢がふたたびアレックスくんのこころに浮上しはじめ ・・・

彼はついに「ミス・フランス」のコンテストに挑戦することをこころに決めるのです。(→予告を見る

アレックスくんがお化粧をして女性のいでたちをするとあまりに自然なので、「あれ?これは大柄の女優さんを起用しているのかしら?」と思ったのですが、やはり男性でジェンダーレスモデルのアレクサンドル・ヴェテールさんという方でした。

この映画に起用されたというよりも、監督が彼に出会って、彼の生き方に触発され、彼のために作ったような作品です。

もともとゴルチェのモデルさんからスタートしたそうですが、キャスティングディレクターには男性と女性と両方のコスチュームの写真を渡していたそうです。

この物語のなかで、アレックスくんがほんとうに自分の気持ちに正直になり、やりたかったことに勇気をもってつき進んでゆく姿に感動するのは、アレクサンドルさん自身がそんな生き方を貫いている方だからなのでしょう。

彼自身の生きざまがアレックスくんをリアルにして迫力をあたえています。

まだまだ世の中にはいろいろなジェンダーや年齢やもろもろの制限があふれかえっています。

たとえば「ミス・コン」にしても、自分はミスだと思っている人、コンテストに出る資格がある!と自分が思っている人がみな出られたらいいのにと思います。たとえ80さいのレディーであってもね。

「他人に自分の価値を決めさせるな!」・・・ ズバン!とこのメッセージが胸に飛びこんできます。

PS 予告はちょっとキラキラポッブなハリウッド仕様になっていますが、こちらフランス映画でそんなにイケイケな感じではありませぬ。

涙壷度:★★☆☆☆(アレックスの正面切って自分であろうとする姿に涙がでました)

 

 

気づきの日記「確かな答えをうけとる」

 

自分の顔は、自分では見られません。

鏡を使ってようやく見ることができます。

自分のこころも、自分では見ることができません。

では、自分のこころを見たいとき何を使えばよいのでしょうか?

やはり、鏡を使います。それは、「世界や人」という鏡です。

世界や人は、まさに自分のこころの状態をそのまま映しだしてくれています。意識できるこころも、無意識に隠されたこころ〜怖れや怒りや罪、傷ついたおもい〜などもすべてです。。

なぜなら、「自分」こそがそれを見て、「自分」こそがそれを感じているので、それはまさに「自分」そのものを見ていることになるからです。

この世界・人という鏡があるからこそ、私たちは自分のこころの間違いに気づき、それを正すことができます。そうでなければ、正すための手がかりがなくなってしまいます。

また、私たちのこころにはすべてのことに対する答えが存在しています。それは万能の答えです。

この答えを受けとるためにも、また鏡を必要とします。

じかに答えを受けとろうとしても、疑いや怖れなどの癒されていないおもいにブロックされ、じかに答えに到達することができないからです。

自分を導き救ってくれる答えを手にするためには、自分のこころのすべてを映しだしてくれる世界・人という鏡を使って受けとることができるのですが、

そもそも鏡を信頼していないのなら、信頼できない答えしか見つけることができません。いつでも私たちは自分のこころが決めたものだけを受けとるからです。

自分にとってまさに助けとなる答えを受けとるためには、鏡への信頼が欠かせないことになります。

それは、世界や人を、自分の勝手なおもいで歪曲することなく、素のままに見ようとすること。何もつけずに、まっさらに見てあげること。

あるがままに味わいめでること ・・・ それは、そのまま受けとる、ということなのです。

この信頼こそが、いつでも自分を導き救ってくれる答えを自分にもたらしてくれます。

安らぎのなかで世界や人を味わいめでるとき、自分のなかにあるすべての答えが鏡にきれいに映し出されます。

信頼を与えられた鏡は、信頼を輝きかえしてくれるからです。

こころを映し出してくれる世界や人という鏡をきれいにする、というこは、安らかなおもいで、あるがままに見ること。味わいめでること。

その穏やかさのなかで、鏡が確かな答えを輝きかえしてくれるのを受けとりましょう。

 

 

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脱輪ゴム

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

ペンケースって、いざ買おうとするとなかなかよいあんばいのものが見つかりません。

使い勝手はいいけど透明なビニール製は味気なし、かといって可愛いタイプは完全にお子ちゃま仕様。

おとな可愛いペンケースがほしい!とおもいつつ、鉛筆やマーカーを輪ゴムでくくって持ち歩くこと数年・・・。すっかりペンケースが欲しいことも忘れていました。

そんなある日、「食べたら、ペンケースにでもして」とおともだちにいただいたカンカン。

わっ、かわいい♡

「たかちゃん色だと思って選んだ」そうです。そういえば、以前にプレゼントしていただいたストールもグリーンにオレンジという同じ色合いでしたっけ。

自分らしい色合いって、本人がいちばん知らなかったりします。たしかに、身につける小物はグリーンとオレンジが多いかもしれません。

このカンカン、ガレットクッキーが入っていたのですが、まさにわたしの望むペンケースにピッタリ!

ペンにマーカー、目薬に耳栓、はさみに付箋、修正テープに定規まで・・・何でも入ってしまうわりにはコンパクトで願ったりかなったり!

輪ゴムさん、長年お世話になりました。

 

 

お茶の間シネマトーク「Coda あいのうた」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

今年度のオスカーを獲得した作品です。劇場で観た友人からも「よかった!」と聞いていました。

観はじめてみると、すごいデジャヴ感・・・。つぎつぎ何か起こるかわかっちゃう。私って、サイキック?!

いえいえ! あとでわかりましたが、これは以前に観たフランス映画の「エール!」という作品のリメイクでした。

コーダとは、耳が聞こえない親をもつこどものこと。主人公のルビーは、家族のなかで自分以外の両親と兄は耳が聞こえません。

漁業を営む一家にとって、家族が社会につながり機能してゆくためにルビーはこどもの頃から彼らの耳であり言葉となってきたのです。

そんなルビーが高校生になったとき、気になる男の子が合唱部に入部したのにつられてルビーも合唱をはじめます。

声を発しない家族で育ったルビーにとって、人まえで歌うことはプレッシャーだったのですが、彼女の才能はすぐに発掘されてしまいました!

でも、ルビーの家族はルビーのことを「いてくれて当然」と思っているので、歌のレッスンという単独行動は認められないのです。それになんといっても、ルビーの歌の才能を知るよしもありません。

先生のなかば強引な個人レッスンと家族とのあいだで、ルビーはホンロウされ悩みます。

開きはじめる未来への夢の扉と、家族という重し・・・。自分の夢を追いかけることは家族を裏切ることになるのでしょうか・・・? (→予告をみる

ルビーが憧れる同級生は、「シング・ストリート」の美少年コナーくんじゃありませんかっ!

すっかり青年になってる〜! でも、白桃のような色白ほっぺは変わっていません。

このストーリーのなかでも歌ってくれています♪(たしか、もともとはオペラを歌う男の子でしたよね)  そして、このストーリーのなかでも、また水に飛び込んでくれます(笑)。

ルビーが学校の発表会で歌うシーン。人々がうっとりと聴き入るなか、その歌声が ふと・・・ 消え去ります。

あ・・・ これがルビーの両親とおにいちゃんが生きている世界なんだ。

愛しいルビーが目のまえで一生懸命歌っているけれど、その歌声も、歌詞すらもわからないのです。幸せな表情のひとびとのなかで置きざりにされているような感覚。

聞こえないってこういうことなんだ、とあらためて感じました。

ルビー役のエミリア・ジョーンズの歌声、こころにしみ入ります♡(→こちらから

ストーリーじたいは、「エール!」と同じですが、ハリウッド流の見せ方でオスカーになってしまうのですねっ!

涙壷度:★★★☆☆(すべての解決策は、おのずとやってくる!)

 

 

 

気づきの日記「ざわざわはギアチェンジのサイン」

 

クルマを運転しているとき、速度をだしすぎるとアラームで知らせてくれます。

方向が違っているときも、ナビがちゃんと教えてくれます。

だからこそ、こまごま気にすることなく安心して楽しむことができるのです。

クルマ同様、私たちにもさまざまなアラームやナビがついています。

たとえばアラーム。

「ギアをチェンジしてください」「速度を落としてください」とダイレクトなアナウンスはありませんが、お知らせはちゃんとやってきています。

そのお知らせとは ・・・ 自分のなかのぞわぞわ、ざわわさ、どきどき・・・というこころが波だつ感じや怖れ、居心地の悪さという感覚です。

怖れや居心地の悪さを感じたときには、このまま同じように走りつづけないでください、走り方や方向などなんらかの変更が必要です!という合図なのです。

それは、「もう、今までのやり方では通用しないところにきました」「もしつづけるなら、悪い状態になってしまいます」と警告してくれています。

でもたいてい、ぞわぞわ、ざわわさ、どきどきという怖れを感じはじめると、「こんな気持ち、感じてたまるか!」といわんばかり、さらにアクセルをふみこみ、同じルートを無我夢中で走り抜けようとしてしまいがちです。

まさか、自分を正してくれる大切なアラームが鳴っているとは気づかず、さらに同じやり方に没頭してしまうのです。

ぞわぞわ、ざわわさ、どきどき・・・という怖れのアラームを感知したら誤摩化すことはせず、まずはいったん止まってみましょう。

「もう今までのやり方は通用しないことを教えてくれているんだ。同じやり方をすれば、自分の首をしめて苦しくなってしまうと教えてくれているんだ」と認識しましょう。

そうなのです、ぞわぞわ、ざわわさ、どきどきという怖れは、まったく本来の自分の状態ではないので、もうそれじたいがソク、アラーム状態なのですが、私たちはアラーム鳴りっぱなしに慣れっこになってしまっているようです。

なぜ同じやり方ではダメなのか? それは、自分が自分をみくびっていること、裏切っていることに気づいていないからです。本来の自分というものを完全に忘れて、そこから離れてしまって別物になってしまっているのです。

自分がなくなっているからこそ不安にかられるのであり、怖いからこそうめあわせの愚作に走りまわってしまいます。

自分でつくりあげた架空の不安にこころを奪われて、あれこれしなければならないと感じてしまうのです。

もし自分自身でいるならば、自分のこころの光こそがすべてを正してくれるのを信じられるはずです。

でも、自分が失われているので、その光も、そのちからも失われています。

さて、どうしましょう?

すべてのちからの源である自分自身が失われているのなら、自分をちゃんと覚えていてくれている存在とつながることが先決です。

自分を導くナビゲーションシステム、あるいは安全装置として、いつもほんとうの自分を覚えていてくれている高い自己であるハイヤーセルフとつながりましょう。そのために、つながるためのスペースをつくってあげましょう。

それは、外に向いていた注意をハイヤーセルフとコンタクトがとれる内側のスペースへと向けることです。そして、静まりましょう。ハイヤーセルフの導きが届くように。

そして、自分自身の強さのなかですべての完全さを見ることができるように、ハイヤーセルフにとっちらかったこころを正してもらいましょう。

「自らハイヤーセルフにつながって、導きを受けたい、正してもらいたい」という自主的な意図をもつことが大切です。自分が望まなければ、なにも起こらないからです。

そして、必要なステップがあれば教えてもらいましょう。

尋ねたあとは、信頼してこころを開いておきます。自分で勝手にあれこれいじくりまわすことはせず、ただ今の現実からいったん手を引くことです。

ハイヤーセルフは、「あなたは正しくものごとを見られないために、自分で自分を怖れさせています。まずは、あなたのこころの間違った方向性を正すために静かになってください。そして、正しく進むために、静けさのなかで私の指示に身をゆだねてください」と、完全な自動操縦(明け渡し)のなかで優しく導いてくれます。

なにかを心配しつづける、怖れつづけるということも、心配と怖れに執着している証拠です。心配も怖れも手放して、自分をからっぽのスペースにしてみましょう。

なかなかこころが静まらないときには、少し呼吸に注意を向けてみるといいと思います。ゆっくりと鼻から息を吸って、一回止めて、さらにゆっくりと吐く、という腹式呼吸にしばらく集中してみると、こころの注意がほどけやすくなります。

ハイヤーセルフはあなたに、「あなたが自らつくりだした状況ですけれど、もう今は必要ないことに気づいてください」「これではない、安らかな現実を望むのだということをこころに決めてください」と教えてくれます。

ハイヤーセルフの導きは、いろいろなところにやってきます。

知り合いの誰か、テレビやラジオの誰か、道ですれ違う誰かが、何かを言っているかもしれません。

あるいは、たまたま目に飛び込んできたこと、ひらめいたこと、こころが広がる感じがすることに気づいてみてください。

ぞわぞわ、ざわわさ、どきどきという修正のアラームがきたときには、その怖れの感覚にホンロウされて走りまわることをせずに、ただ静けさのなかでハイヤーセルフとつながることを覚えておきましょう。

静けさのなかで、方向転換のサインがあらわれます。

まるで夜の飛行場で機体を誘導するランプが整然と光を放つように、サインをひとつひとつをたどってゆくと、完全に今までとは違うルートをあるきはじめた自分に気づくのです。

もちろんそのルートは、ハイヤーセルフに守られ、また自分の真のちからにも守られたルートです。安らかで優しく、そしてたやすいルートで、かならずや笑顔になるルートです。

まずは、アラームをこわがることなく、ただ気づいて、「過去にはこの道を望んだかもしれないけれど、私は今それを手放してただ導きに従う」と、安らぎのなかでこころを開いてみましょう。

 

 

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再びつながる、がテーマのこの頃

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

仕事のことで二十数年ぶりの方から連絡をいただき、さらにそのことで同じく二十数年ぶりの別の方に電話を入れることになり・・・

「お久しぶり!お仕事のことだけど、こんなふうにまたお話できて嬉しいわ♡」「ぜんぜんお変わりなくなてなにより」と、思わぬつながりあいを喜びました。

するとこんどは、十六年ほどの海外生活から帰国した方から連絡が入り、遊びにいらしたりと ・・・

なつかしい方々と「再びつながる」がテーマだったここ数日。

十五年にしろ二十年にしろ、それだけの月日がたつとさまざまな出来事や経験にでくわし、ものの見方も考え方もそれなりに変わるものです。

それぐらいまえの自分の様子を思い出すと、「あれは前世の人?」と思えるぐらいすんごく変わったと感じる一方で、時間すら超越してまるで変わっていないとも感じます。

変わったのは、モノごとや世界、自分に対する向きあい方で、

変わっていないのは、存在としての「わたし」の感覚。

こまごまとした考えや感じ方は変わっているけれど、「わたし」という存在感は変わっていない、ということ。

再会してまったく違和感を感じないときは、きっとコミュニケーションをとっているのが、お互いの「わたし」という存在感の部分なのでしょう。

それは、もっとも深いそれぞれの核の部分、存在そのものの部分。

それぞれにとって存在の核は決して変わらないから(五才の自分ともそれは変わっていない気がします)、だからこそまったく違和感なく何十年も会っていなくても「あら、二〜三年ぐらいご無沙汰だった?」という気軽さでつながることができるように感じます。

コロナという時代を生きていきて、再会に対しても今まで以上に「ああ〜、ご無事でなにより。元気な声が聞けて、姿が見られて嬉しいわ」と、誰とでもこころから喜んで気づかいあえるようになった気がします。

 

 

気づきの日記「感じて受けとめて、終わりにする」

 

不安な気持ちになったとき ・・・ 私たちはすぐさま考えることをはじめます。

「お金がない!どうしよう?この調子でいったら来月には・・・そうしたら・・・云々」
「身体の調子がおかしい・・・。よからぬことが起こっているのかも。もっとひどくなって働けなくなったら、将来は・・・云々」

思考は未来へ未来へと前のめりになり、ありもしないストーリーを次々紡ぎだし、不安を増大させてゆきます。

・・・ということは、そもそも「あれこれ考える」ことじたいがまさに不安をあおってしまっている、ということです!

そもそも不安な気持ちが浮上してきたのは、それをあるがままに感じて、受けとめてほしいから。

自分のなかで長いあいだ拒絶され、無視され、抑圧されてきた感情は、何度々々も浮上することで受けとめてもらうことを求めます。

なぜなら、それがまさに自分自身の流れの障害となり、詰まりをつくりだし、自然な成長をはばんでいるから。

だから、ただそれを感じて受けとめて、終わりにしてほしいのです。

それは、あれこれの思考やストーリーをくっつけることなしに、ただハダカのそのままの感じを受けいれること。

でも、そもそも私たちは感じることに慣れていません。なぜなら感じるよりも、言葉・思考にすりかえることに慣れて、あまりにも思考への依存症に陥っているからです。

だから、明けっぴろげにすべてを感じるのはキケンきわまりないことのように思えるのです。

感じるよりも考えでアタマをいっぱいにすることで、感じる余地を残さずにいればなにも感じずに安全だ!と信じているのです。たとえ、その思考が自分を震えあがらせるキョーフの考えであっても。

まさに、感じることがコワイからこそ、世界という混沌を編みだして、まったく感じないままホンロウされることを選んで、その結果、自分自身さえも正体不明になってしまってしまいました。

先日、多くのスターを育て、メガヒットを生み出してきた米国の有名作曲家でありプロデューサーである男性のドキュメンタリーを観ていました。

彼は何十年もスタジオに缶詰めで多忙きわまりない日々を過ごしてきました。もちろん仕事では大成功を治めているのですが、そんなワーカホリックが災いして女性関係はうまくいかず、奥さんは寂しさのあまり次々に去ってしまいます。そして、五回めの結婚にいたりました。

そんな彼のひとこと。「セラピー?まっぴらゴメンだね。自分の内側をみるなんて、コワくてとてもできない」と。彼の言葉は、「ぜったい立ちどまるもんか!」という感じです。

回遊魚状態の彼は、そもそも内側を見たくないからこそ決して立ちどまれないのです。

立ちどまってしまったら ・・・ 静かにしてしまったら ・・・、自分自身と向きあわなければならなくなります。絶対見たくない!と断言していたものと対峙しなければならないのです。

ただただ動き回る状態は、ある意味ヤク中のような状態であり、自分をフラフラにすることでなにも感じないように誤摩化しています。

ほんとうの意味での幸せとは、こころがどこまでも安らかなことです。安らかなこころには、安らかな世界が映ります。それは、自分がフラフラでなにもわからない状態にしていては見ることができません。

そして、深い安らぎを自分のなかに感じるためには、安らぎを乱すこころのなかの抵抗勢力を無効にしてゆくことが必須です。

そのために闘う必要はありません。ただ抵抗勢力を受けいれて、消し去りましょう。受けいれられたものは、支えであるエネルギーを失い、消滅してしまいます。

自分のなかにどのような感情が湧きあがってきても、判断したり、抵抗したり、拒絶したり、抑圧することをやめましょう。

不安や怖れやざわざわが出てくると、私たちはすぐに言葉をくっつけて、考えはじめます。「なぜなの?」「どうする?」「原因は?」

これは、すでに脇道にそれてしまっているのです。「感じ」ではなく「思考」というルートに入ってしまいました。

そうではなく、なにも言葉をくっつけずに、ただその感情をあるがままに、まるで感情に感電するがごとく感じてみましょう。その感情とともに存在しましょう。

言葉がなければ、それは「不安」でも「怖れ」でもなく、ただビリビリ・ジンジン・シクシク・ドキドキ・ズンズン ・・・なのです。

言葉というものに逃げこまずに、積極的に、正面から正々堂々と、あますことなく感情に自分を開いて感じてあげましょう。

受けいれたものは、自分自身のなかに吸収され、ようやく姿を消してゆきます。

そのためには、言葉は減らして静かにし、自分がいったいなにを感じているのかに敏感になってみましょう。

これを習慣化していると、かつての「不安」も「怖れ」も自分をおびやかすようなパワーを失い、静かで安らかな穏やかさを感じる瞬間がふえてゆきます。

こころが静かだと、目にうつるものもきっと穏やかになってくることと思います。

感情から逃げていたときの世界とは違う世界、もっと穏やかで、美しく、優しさにあふれた世界が目に映ることでしょう。

 

 

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クセになるブツ

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最近、あやしい小包が行き来しています。

それはときには、ヤバいハッパ・・・だったり、クセになるアレ・・・だったり、アブナいブツ・・・だったり。

そのうえ、上モノだとか、キケンなルートだとか・・・ (^^;;

いったい何をやりとりしているかというと、お友だちのKちゃんとお互いのお気に入りを送りあっているのです。

ヤバいハッパはおいしい紅茶、クセになるアレは食べだすとやめられないお菓子、アブナいブツは効果抜群のスグレものコスメなどなど・・・。

昨日もKちゃんから、どっしりと重たいブツがとどきました。

Kちゃんからのメッセージには、「貴子姐さんに使ってほしいわてのお気に入り」とあります。

なんだろう??

わっ☆ メッチャかわいいパッケージです♡

「私らしく輝かせてくれる」そうな・・・(まるで、セラピーの文言みたいですね〜!)

わ〜〜! シャンプーとトリートメントだ〜♡

さっそく使ってみました。

サロンのシャンプーのようにもっこもこの泡で、とってもクリーミイ。

私はクセっ毛なので、あまりサラサラになるシャンプーだとウェーブがぺたんこになってしまうのですが、これはぜんぜんつぶれずにヨイ使い心地です。

香りはフリージア(フリージア、大好き♡)。もううっとり、癒されます。

これは、かなりのヤバいブツだわ♡ (笑)

K姐さん、お心づかいありがとう♪ 香りに癒されながら、暑い夏をのりきります。モチロン、パッケージも使いますよ〜(なにを入れようかな♪)Smile

 

 

 

お茶の間シネマトーク「世界で一番美しい少年」

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「ベニスに死す」のビョルン・アンドレセンをはじめて見たとき、「わあ!ベルバラのオスカルに似ているわ♡」と思いました。

とくに、軍服風のコスチュームに身をつつみスッと視線を送る表情など、「ベルバラ実写版は彼で決まり!」と思ったものです。

・・・が、じつは逆でした。オスカルこそビョルン・アンドレセンがモデルだったのですね!

「ミッドサマー」のトレイラーで彼の姿を数十年ぶりに目にして(そう、あの少年の姿以来50年ぶりですと!)、予想外の仙人チックな風貌にびっくり。

この仙人さんの役柄は、まるであの最高峰の美少年といういまわしい(?)過去を一撃で破壊してしまうような役柄でした(ああ、ビックリ☆視聴にはくれぐれもご注意を!)。

「世界で一番美しい少年」というこの作品は、当時の彼のオーディション映像からはじまって(いきなり服を脱げと指示され、とまどう姿が痛々しいです)、彼の生い立ち、そして現在の生活や心境を撮影したビョルン・アンドレセンのドキュメンタリーです。(→予告を見る

世界中で「彫刻のような少年」を探し求めていたヴィスコンティに見出され、「世界で一番美しい」と彼に認められた少年はさぞ幸せな人生を歩んできたのか・・・と思いきや、15歳にして大人の社会のあれこれに翻弄されたあげzくに、鬱やアルコール依存に悩まされてきた日々でした。

「ベニスに死す」撮影当時は、まだ初々しい風貌の15才。翌年のカンヌ映画祭で世界にお披露目されたときにはすでに「彼は完璧だったが、今はふけてしまった」というヴィスコンティの衝撃おはらい箱発言。(ヴィスコンティ、なにをのたまう?!汗)

撮影中はヴィスコンティに守られていたものの、その後は美しいがゆえに同性愛者のマスコットにされ、そこから救い出し守ってくれる家族もいずに苦労も多かったようです。

現在、仙人のような風貌で(といっても、十分にダンディですが)、かなり不器用に暮らす様子が写し出されています。

彼がプールで泳ぐ姿は手足がまるで棒っきれのように頼りなげで、あの浜辺のタジオ少年よりももっと幼く感じてしまいました。

彼の目を見ていると、白髪のはずなのにあのときの少年の顔にしか見えなくなってしまいました。

年のはなれた恋人が何から何まで面倒をみる様子が、お母さんと小さな男の子のようでした。

PS ビョルン・アンドレセンが日本をふたたび訪れる場面。
満開の八重桜をバックに写っているのですが、すぐご近所の目黒川の風景でした。なんか嬉しいわ♪

 

 

涼やかな癒しのひと皿

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氷のようなガラスのプレートにもりつけられたゼリー寄せ。

新鮮なお魚や海老とともにオクラやベビーコーンがお星さまのようにちりばめられていて、色鮮やかなズッキーニで形が整えられています。

なんという繊細なお仕事☆

この日いただいたお料理はどれも「わっ♡」と歓声をあげてしまうような美しさでしたが、いちばん印象に残った目も舌も癒される涼やかなひと皿でした。

ひさしぶりに訪れた箱根。大きな窓から見渡せる深い緑も、もうひとつのご馳走ですね。

お友だちとゆったりとすごすとてもゼイタクなひととき。終始、目がハートになるようなお姫さま気分の一日でした♡感謝♡