furukawaさんのブログ

気づきの日記「イヤな気分はものごとのせいじゃない☆追伸」

 

「街でお買い物をしていたとき、知らない人に理不尽な言葉をなげかけられイヤな気分になっていましたが、昨日のブログ『イヤな気分はものごとのせいじゃない』が役に立ちました」とAさんから気づきのシェアをいただきました。

よかった!グッドタイミングですね ( ・◡・ )

イヤな気分になる出来事に遭遇したときのために、もう少々つけ足しておきましょう。

じつは・・・そのイヤな出来事というのは、お初の体験ではありません。自分のこころのなかで、すでに何度も上映されてきたおなじみの場面なのです。

ビデオで同じ場面を何度も見ているように、今回がはじめてなのではないのです(それをこころが覚えている場合は、デジャヴ感がよみがえります)。

その場面は、こころが正しく認識するまで永遠に繰りかえされる映像なのです。(いいかげん飽きそうですが、うんざりしてホントにもうイヤになるときがきたら、案外あっさりとやめられるかもしれません・汗。)

正しく処理されたあかつきには、きれいに消去され終わりになります。

つまり、そのことに遭遇したのは偶然ではなく必然の出来事です。

また、そのときに感じる動揺もそのストーリーの一部であり、自動的に起こっているので自分を責める必要はありません(勝手にそうなっています)。

大切なのはそのあとです。そのあとにどう対処するか? それが、再び繰りかえすか、もう終わりにするか、のわかれめです。

イヤな気持ちを抑圧したり無視したりすると、それはこころに保存されてしまうのでまたやってくることになります。それに対する怒りも、そこに罪が存在すると信じていることになるので、やはりふたたび罪を見ることになります。

昨日のブログでも書きましたが、正しい対処の仕方は、「なぜ、イヤな気分になったのか?」。その「イヤな気分の原因となった考え」を探求して、それをハイヤーセルフに手放すこと、でした。

たとえばこんなふうにやります。・・・「 理不尽な言葉をなげかけられてイヤな気持ちになってしまった」 ・・・ なぜなら、

→ 私は攻撃されたと感じた → 私は簡単にやられてしまう存在だ → 私は小さく脆い → 大きな力に守られてはいない → 私はひとりぼっちだ → 誰とも何ともつながっていない → つながれない私は何かが間違っているに違いない → 間違ってしまった私 → 罪悪感
(注:これはAさんの信じていることではありません。ひとつのモデルです。)

正さなければならないのは、この攻撃や間違いや罪を信じているこころそのものです。

これらを信じているからこそ、同じストーリーを繰りかえし見つづけ、脱却できずにいます。

何度も見てきたこの場面で、今度こそ「ここに罪(間違い)が存在することを信じている自分」、「それを見ている自分」をゆるす、つまり「ぜんぶ、私こそが間違っていました」ということを自ら認めなければならないのです。

このように自分のこころにおいて被害者意識を手放すことが、自分の体験を変えるためのポイントとなる場所であり、考えです。

被害者をやめ、間違い・罪を信じていた自分を自分自身がゆるす、ということです。

ゆるす、ということは、こころのゴミを手放すことであり、そのゴミの下には自分の正しいこころがあります。それは、間違いを知らない、愛そのものです。

私たちが目にするイヤなこととは、自分が無視してきた無意識のなかにある思いそのものであり、それがイメージとしてあらわれたものです。

それを出来事として見たり感じられたときにはじめて、自分で「気づく」ことができ、手放す意図をもつことができます。

だから今度こそ、そこに見ていた(そこにおしつけていた)自分の無意識下の不幸をよぶ考えを手放す機会を役立てなくてはなりません。

このような取り消しを行ってゆくと、同じような傷つく場面は削除されてゆき、自分が目にするストーリーがしだしに穏やかになってゆきます。

なぜなら、そこにある愛という光が輝きだす余地が生まれて、その光のなかで世界が見えるからです。

自分を傷づけることができるのは自分だけ。そして、いつでもそれをやめるために気づくことができるのです♡ (´▽`)v

 

 

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気づきの日記「イヤな気分はものごとのせいじゃない」

 

Q: ある出来事からイヤな気分を引きづっています。まるで、こころにうっすらと雲がかかったように感じるのですが・・・。

A: イヤな気分に出くわすと、まず私たちがしようとするのは気分転換。あるいは、「私はぜんぜん大丈夫!」とまったく感じていないフリをすることも。

このような感情の抑圧や無視は、そのときはうまくいくように感じるかもしれません。が、遅かれ早かれ同じ気持ちが戻ってくることになり、自分の感情に対して手におえないという敗北や挫折を感じることになります。

じつは「イヤな気分」というのは、「なにかが間違っている」というお知らせにすぎません。そこでするべきことは、間違いを正すことだけです。

そして、「間違っているなにか」とは自分の考えのことです。イヤな気分を感じているというのは、どこかで自分の考えが間違ってしまった、ということなのです。

「気分」というのは、自分の考えの結果として感じられるものです。

私たちは「ものごと」そのものがイヤな気分をもたらしたのだ信じがちです。けれど、「ものごと」には意味はなく、まったく罪はありません。

ひとつの「ものごと」でも、人によって「よかったじゃない!」と喜ぶ人もいれば、「最低最悪!」と落ちこむ人もいるし、こころになんの印象を残さない人もいます。

それぞれが意味を与えているので、人の数だけ「ものごと」の意味があるといえます。

ならば、「ものごと」じたいがイヤな気分を引き起こす原因ではないとわかります。

イヤな気分になるとしたら、どこかで「自分を傷つける考え方」を採用してしまった、ということになります。そのものごとに、「自分を傷つけるような解釈」を与えてしまったのです。

そして、そのとき感じるイヤな気分こそが、いつ自分で自分を傷つけてしまったのかを教えてくれるブザーのような役割をはたしてくれています。

しかし、私たちはイヤな気分を感じたとたん、そそくさとそこから逃げ出したくなってしまうのです。

なぜなら、外からやってきたなにかが自分をイヤな気持ちにさせたのだと信じているから。さらなる攻撃にさらされないうちに、早くそこから逃げなくてはと感じるのです。

そうすると、せっかくのお知らせブザーもスルーされ、「間違い」を正すためのチャンスがまた見送られてしまうことになります。

私たちのエゴは、イヤな気分という怖れを使って、目のまえのことに自分を釘づけにしようと企んでいます。

イヤな気分と出来事をリンクさせることで、その出来事こそが自分にとって脅威であるように勘違いさせることができるからです。すると、それに怯えて、きゃ〜きゃ〜わ〜わ〜することで、怖れというエゴは肥大して力を増すことができるのです。

つまり、こころのなかにあった怖れの気持ちとまったく関係のない事柄をリンクさせ、さもコワイことが起こっているように偽造することで、こころのなかで怖れを解決することを阻止しているのです。

そして怖れが温存されることにより、ほんとうの自分を思い出すことができなくなります。

本当の自分を思い出すことができなければ、安らぎは決して感じることができなくなり、安らぎがなければ幸せになることはできません。

解決策は、イヤな気分になったときには、出来事はさておき、イヤな気分をしっかりととらえて、それに向き合うことです。

「なぜ、今、私はイヤな気分になったのか?」 ・・・ この反応が起こるまえにあった、間違った考え、自分を傷つけている考えを洗いだしてみましょう。

そして、それが真実であるのか、問いただしてみましょう。自分ではわからないときには、自分自身の高い自己に尋ねてみましょう。

つねに自分に優しくない考え方を採用することによって、、自分自身を攻撃していたことにただ気づいてみましょう。(攻撃されていれば、誰だってイヤな気分になってしまうのです。)

その間違った考え方はハイヤーセルフに委ねて、正しくものごとを解釈できるようにお願いします。

自分のなかにある愛を、間違った考えで歪めてしまわない限り、怖れに遭遇することはありません。愛だけで見ていれば、すべてはキケンではないのです。

そのような自分本来の愛ある見方ができるようになるために、イヤな気分を喜んで訂正の機会とすることができます。

イヤな気分がやってくるたびに、自分の知覚に間違ったフィルターがかかって正しく見られていないことに気づきましょう。そして、汚れたフィルターをお掃除する機会といたしましょう。

お掃除さえしていれば、光は自分のなかにあるので、なににつけてもただその光を外に放ってあげればよいだけとなります

光は愛そのものなので、すべてを愛のなかで見せてくれます。

あらゆるものを自分の光のなかであるがままに見るのか、あるいは自分の傷ついた考えをとおして痛みのフィルターで見るのか・・・

すべきことは、ただせっせとこころのフィルターのお掃除あるのみなのです。

あとは、もともとそこに輝いている光におまかせなのです☆☆☆

 

 

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お茶の間シネマトーク「幸福なラザロ」

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とあるイタリアの小さな村でのこと。

その村はひどく貧しい。人々は公爵夫人の小作人で、働けど働けど農作物のすべてを搾取されてしまう。でも、人々は他の世界を知らないがゆえに、必死で働きつづける。

その村でいちばんの働きものはラザロという青年。彼は不平や不満、文句を知らず、せっせと働く。なぜなら、彼のこころはまったく判断をしないから、あるがままのなかで平和に暮らしている。

そんなある日、公爵夫人の息子が起こした偽装誘拐事件によって、村の人々は小作人制度がすでに廃止されている事実を知らされる。そして、人々はそこから解放されることになるのだが・・・ラザロの姿はどこにもない。(→予告を見る)

ラザロは新約聖書のなかに登場するイエスのお友だちの名前です。亡くなって数日後、イエスはラザロのお墓を訪れて「ラザロ、出てきなさい」と声をかけると、ラザロはお墓から出てくる・・・つまりイエスによって蘇った人物で、のちに聖人に列せられています。

この作品のなかのラザロ青年はまさに純粋無垢な存在なのですが、彼のあまりにまっすぐな瞳に衝撃を受けます。

この俳優さんは役者さんではないそうで、素人の高校生さんたちのなかからスカウトされたそうな。まるで裁くことを知らず、なにが起ころうとも平和のなかに生きているラザロのイメージにぴったりの青年でした。

ストーリーの結末はいろいろな解釈ができるので、観た人なりに感じることもさまざまだと思います。

ここでは私の感想はふせておきますが(ああ・・・言いたいっ!)、ただ「罪なきこころにはなんでもありなのだわ!」と深く感じいりました。

この作品はカンヌで脚本賞を受賞しているのですが、このアリーチェ・ロルバケルという監督さんは以前にもカンヌでグランプリを受賞されていて、そのときの作品が「夏をゆく人々」。

あら、「夏をゆく人々」は以前から私の「観たいものリスト」にすでに入っていた作品です。さっそくこちらも観てみたくなりました。

涙壷度:★★☆☆☆(じわっと涙が誘われました)

ストーリー自体も興味をひくのですが、この青年の存在があったからこそ、彼のまなざしあってこそ、さらに引きこまれます。

そしてなによりも、こころが澄みきっていることこそがいちばんの幸福なのだわ、と感じたのでした♡

PS お友だちが、BGMは大好きなイタリアの作曲家ベッリーニのオペラアリア「清らかな女神」だと教えてくださいました。「ラザロくんの目がダビデ像のお目めにそっくり」というコメントも、まさに! 彼の目は、世界を反射せず澄んでいるのです。

 

 

 

ちょっと緊張しつつお出かけ

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さまざまな活動が再開され「さあ、これから!」というところで、ふたたび雲ゆきが妖しくなってきました。四連休をまえにまたもや自粛ムードです。

ガマンしていたお出かけも、ほんのつかのまのこと。でも、数ヶ月ぶりのお外ゴハンでお友だちと寛ぎタイムをもつことができました。

「私たちのダイニング」と呼んでいるペニンシュラホテルのラウンジは、天井が高く通気性もよく、予約も一回に十名ほどなので安心してゆったりとお食事ができる雰囲気です。

私たちのお目あては、いつも楽しみにしている季節のスープ!(メインよりもスープ LOVE♡で、ずっと来たいと思っていました。 スープとパンだけで幸せになれる私たち)。今回は冷たいコーンスープで、優しい甘さに癒されました。

スープのつぎは、デザートとカフェラテがお目あて! デザートは甘さや酸味、バターの香りが絶妙で濃いめのカフェラテがとってもあいます。この日は、サブレにのったマンゴームースでした。

もちろんメインのお食事もとってもおいしかったです。レンズ豆をつけあわせたイベリコ豚のグリル♡

お友だちとはなにかと連絡はとっていたものの、やっぱり顔を合わせたときにしかできない話しもあり、あっというまの楽しいひとときでした。

「早くこころおきなくお出かけできるようになるといいね〜」とホテルをあとにする私たちは、まるで兜の緒をしめなおすようにしっかりとマスクをかけて、ちょっとばかり戦場に向かうような緊張感を感じつつ家路についたのでした。

PS ひさしぶりに地下鉄に乗ってびっくりしたのは、駅がひとつふえていたこと。高輪以外にも虎ノ門にもふえていたのね!まるで浦島さんです(笑)。

 

 

 

お茶の間シネマトーク「ラスト クリスマス」

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時間があいて何をしようかな〜? というときはいつも、私の高い自己であるハイヤーセルフにおうかがいをたてます。

お散歩でもしてくれば? というときもあれば、お昼寝や、読書、お友だちとのおしゃべりをオススメされるときもあります。

このときは、シアタータイムのご提案。では、なにを観ましょうか?

これもまた決めてもらいます。そうすれば映画を楽しむとともに、そのときに必要なメッセージやインスピレーションの贈りものも受けとることができます。

今回は「ラスト クリスマス」ですって? ・・・ 今どき、まさかのクリスマス映画?! といぶかりつつも素直に観てみることに・・・。

クリスマスソングの定番、ワムの「ラスト クリスマス」をモチーフにした作品です。

ロンドンのクリスマスショップで働くケイトという、ちょっと自己破壊的な生き方をしている女の子と、ミステリアスな雰囲気をもつトムという青年の出会い。

自分の欲望のはけ口としてしか相手を求めないケイトにとってトムはぜんぜんタイプではなかったのですが、非日常的で不思議な包容力のあるトムに惹かれはじめます。ところが、トムにはケイトお得意の恋愛テクは一切通用せず。神出鬼没でどこかつかみどころがない存在なのです。

近づけそうで近づけない・・・いったい彼はなにもの?!

私も自分なりに推測したけれど、ちょっと意外な過去が明らかになります。

ワムの「ラスト クリスマス」は軽快なメロディで楽しげなクリスマスソングに聞こえますが、歌詞を聞くとちょっと悲しいのです。

Last Christmas I gave you my heart
But very next day you gave it away....

それが答えでした。

ラスト30分ぐらいはけっこう泣けます。(→予告を見る)

私たちはこころを開いて人に自分をさしだすことで、自分自身を発見し、人も発見します。ケイトが勇気をもって自分を開きはじめることで、まわりも巻き込んで変化が広がってゆく様子が印象的です。

ほんとうの自分を求めて自分と闘っているケイトにトムがささやくいくつかの言葉がこころに残っています。
「普通なんてない。 普通っていう言葉がひとを傷つけている」
「なぜ何かになりたがる? 特別ってことが過大評価されている」

普通にも、特別にもなる必要がない。自分らしささえも探す必要はない・・・と。

観終わったあとにお友だちにシェアをしたら、何かを感じとったお友だちもすぐにこの作品を時差鑑賞して、まるでともに映画館に出かけたように感想を語りあうことができました。

さすがハイヤーセルフのオススメだけあって、お友だちにも大切なメッセージがある作品だったようです(なによりも、ケイト役が大好きな女優さんだったそうな)。

むかし、クリスマスの時期にロンドンを訪れたことがあり懐かしくなりました。

この作品のなかではクリスマスイルミネーションは濡れた道路に映しだされて二倍にきらきらしているのですが、そう、ロンドンはいつも小雨でしたっけ。

こんな時期のクリスマス気分もよいものです。 Merry Christmas ☆

涙壷度:★★★☆☆

PS 全編、ジョージ・マイケルの歌ですが、パブにジョージ・マイケルのそっくりさん風がさりげなく登場してました。

 

 

気づきの日記「くり返す不調を取り消す」

 

A:「頭痛やだるさ、発熱など、体調の悪さをくり返しています。クスリもだんだん効かなくなってきました」

Q:「そうですよね〜。こんな梅雨どきは誰もが体調の悪さに悩まされがちです。それにコロナのストレスもありますし」 ・・・

そう言われると「そうだよね!」とちょっと安心したりしますが、こんな「もっともらしい答え」にだまされてはなりません。真の原因と解決から自分を遠ざけてしまうからです。

無難な答えはそれっぽく聞こえるので納得しがちですが、ほんとうの答えを見つけないためのオトリにすぎません。

自分の外側で起こっていることは一切、自分の原因とはなりえないのです。だから、問題が解決することはありえず、また再び起こります。

自分に起こることはなんであろうと自分のこころにしか原因はなく、決して外側にはないからです。

私たちはいつでもどんなときでも、「自分のこころが望んでいるもの」だけをきっちりと自分に体験させることをくり返しています。

「そうはいっても、体調の悪さなんて自分は望んだ覚えがないのですが」・・・たしかに ・・・。

私たちのこころの大部分は意識することができない無意識の部分なので、そこにどのような決断があるのかは当の本人にもわからないのです。

それが苦痛や不調、問題となってあらわれてはじめて、自分のこころになにが潜んでいるのかを知ることができます。

さらに、私たちのこころのなかには二人の自分(ホンモノとニセモノ)が存在していて、ホンモノはニセモノによってまんまとのっとられている状態なのです。

ということは、私たちの目にする問題は「意識できないこころに潜むニセモノの決断からやってくる」ということになります。

ホンモノの自分からしたら、「そんな体調の悪さは、私にはありえない!だってわたしは完全さそのものだから。喜びやしあわせ以外、私にふさわしくないのです」というはずです。

けれど、ニセモノに完全にのっとられた状態であるならば、この体調の悪さ、不調はニセモノのお望みの結果であり、それを目にしているにすぎません。

それを解消するためには、「ニセモノ(エゴ)はいったい、この体調の悪さを使ってなにを企てているのか」を暴くことが必要です。

くり返して一生懸命やっていることはすべて、なにか大きなメリット、手にできるなにかがあるからこそ続けられるのです。エゴはそれを手にして喜びたいのです。

つまり、体調の悪さや痛みはエゴにとってはなにか大変価値のあるものがてっ取り早く手に入る方法であり、それは絶対やめられないオイシさがあるわけです。

さて、そのオイシイなにかとはなんでしょうか?

人によっては、体調が悪くなることで、

「人に気づかってもらえる。優しくしてもらえる。つまり、注目されて愛をいっぱいもらえる」とか、
「やらなくちゃならないことをサボるための言い訳になる」
「仕事のパフォーマンスが悪くても、万がいち失敗しても、適切な口実になる」
「絶好調になってしまったら、どんどん責任がふえてしまう。頼られてしまう」
「不幸そうに見える自分でいることで、罪悪感を感じさせ反省させたい相手がいる」・・・etc

というような企みがあり、こういったことを達成しようとしているのです・・・が、

それを手に入れようとすればするほど、自分の「安らぎ」が失われていくことに気づくことができません。

私たちにとって、こころの「安らぎ」こそがしあわせの唯一の原因となるものです。うちに「安らぎ」があってこそ、それが外側へと映しだされ、それを自分が受けとることになるからです。

なのに、そのしあわせの原因である「安らぎ」をやすやすと失っていることに気づくことができません。

しかしエゴにとっては、「やすらぎ? そんなものはクソくらえだ!」というレベルなのです。

エゴの企みを野放しにしておけば、しあわせになるための原因は失われたままとなります。

内側の「安らぎ」が「しあわせ」のための唯一の条件であるなら、しあわせになりたかったらそれを死守しなければならないのです。

自分の「安らぎ」を乱すものは1ミリたりともこころに侵入させないぞ!というぐらいの勢いで。

そうとなれば、エゴの企みをしっかりと暴く必要があります。

エゴがこの体調の悪さを使って、どのように欲しいものを手にいれようとしているのかを見てみると、それはただ「欠乏、不足」という間違った考えを守ろうとしているにすぎないことに気づきます。

間違った信念に気づいたら、ただその想いをキャンセルするだけです。(用途なないと認められたものは、たやすく手放すことができます。)キャンセルは自分でする必要はなく、ただ高い意識(ハイヤーセルフ)に不用なものを渡してしまうことで完了します。

大切にすべきこころの「安らぎ」は、たんに邪魔な想いをひとつひとつ取り去ることで達成されます。

邪魔なものがなくなれば、そこにはすでにまるまる完全なこころが存在しているからです。それこそが安らぎそのものです。

こころにしろ身体にしろ、なにか不具合を感じるときには、無意識となっているエゴの企みを暴いて手放すための浄化の機会といえます。体験となってあらわれてくれたからこそ、それを手放すことができるのです。

不調にむきあって、いったいエゴはなにを得ようと頑張っているのか、正直な気持ちでこころを探求してみましょう。

エゴの企みを見つけて冷静にながめてみれば、すでに完全であるはずの自分にとって、そのようなことをする必要などないことがわかります。

ハイヤーセルフに不用な想いはすべて委ね、完全さを受け入れることができるようにお願いしましょう。

する必要のないことをやめることこそが、自分の完全さを受け入れるために必要なことなのです。

エゴの想いをハイヤーセルフに渡したら、すでにそこにある「安らぎ」(本来の自分のスペース)のなかにゆったりと溶けこんでリラックスしましょう。

いままで不具合そのものに向けつづけていた注意を、「安らぎ」のスペースへと注いでみましょう。ほんとうの自分である「安らぎ」がよりリアルに力をましてゆきます。

そして、それが自分の外側に映しだされるようになることで、自分の見る世界を変えてくれるのです。

それが自分にとっての幸せな世界です。

すでにこころのなかにある「安らぎ」が輝きだすように、不毛な企みはすべてハイヤーセルフに手放してしまいましょう。

 

 

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「ブツおくりました」・・・

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お友だちのKちゃんとのあいだでときどき交わされる、このセリフ。

「ブツ」とは何か?というと・・・

私からのブツはたいてい、珈琲やチーズのお菓子、サプリなどで(Kちゃんは珈琲とチーズ好きなので)、一方Kちゃんからのブツは、Kちゃんよりすぐりの凄腕コスメやファッショングッズ。

つまり、ブツとはおたのしみ袋ならぬ、おたのしみ箱のこと。

今回は「夏仕様のブツ」と書いてあります?

夏仕様???なにかしら? ・・・ と楽しみにしていたら、こちらがとどきました。

ゴールドのスケルトンバッグ!

わあ☆ めっちゃ、Kちゃんらしいわぁ! 二十代の頃からとび抜けたセンスの持ち主なのです。

たしかにスケスケ夏仕様(笑) 。

中身まるみえって、ちょっと恥ずかしいのでは? と思いつつ ・・・ じっさい、入れてみたら、

お財布の柄がよい感じにマッチして、オトナかわいい雰囲気になりました。ゴールドのポーチがついているので、雑多なあれこれはスッキリそのなかへ。

Kちゃんいわく、神かがり的な買い物運の持ち主だそうで、目をつけているブツはいつも激安になるんだとか(笑)。そして、その恩恵にいつもあずからせていただいている私 ・・・ なむなむ・合掌!

たくさん入るので、この夏はいっぱいお世話になりそう(ああ、お出かけしたいっ!!)。

Kちゃん、いつもワクワクをありがと〜〜 ٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

 

 

気づきの日記「戦う相手はいつも自分」

 

私たちが何かに悩んでいるとき・・・ たいてい、そのスタート地点ですでに間違ってしまっていることに気がつきません。

悩んでいる・・・ つまり、苦しんでいる、ということは、何かによって攻撃されているということですが、その何かがじつは存在していないものなのです。

たとえば、クライエントのAさん。

「最近、彼が連絡をくれません。嫌われてしまったのかも ・・・」「もう私には興味がなく、終わりになってしまうにちがいない」と涙をこぼされます。

「スタート地点で間違っている」というのをAさんの場合で考えると、

彼はAさんに対して、「嫌いになりました」「興味がありません」とはひとことも言っていないのです。さらに、「連絡がない」 = 「嫌いになった」証拠ではありません。自分で勝手に解釈し、悲しい結論を出してしまっています。

つまり ・・・ 心配ごとは、全部Aさん自身の考えによるものであり、推測にすぎない、ということなのです。実際に起こっていることではなく、自分の解釈です。

自分の解釈に対して抵抗していることになります。

「連絡がない」とき ・・・ 彼は、生活するだけで手いっぱいなのかもしれないし、なにかこころがモヤモヤしているのかもしれないし、あるいはただ自分の活動に集中しているだけなのかもしれません。はたまた、最近心配な表情を見せるAさんに対して、自分こそ嫌われたと不安に思っているのかもしれません。

が、これも全部推測です。結局、何を考えても真実ではないのです。

私たちは「何も本当のことを知らない」し、「何が真実かもわからない」のです。

自分の考えとは、自分独自の解釈で、ある意味「でっちあげ」なので、その考えに悩まされていることになります。

私たちの自動的な解釈は、自分を守りたいという自己防衛本能が働いているため、どうしても「攻撃的な見方」「被害者的な考え」になりがちです。

「私は攻撃されている」「傷つけられている」「ひどい立場におかれている」「悲惨なことが進行している」・・・エゴはドラマチックな悲劇の主人公が大好きです。

その目線からものごとを見れば、なんでも脅威に感じるし、自分を守らなければならないと感じて反撃にでてしまいます。

ついにその不安に耐えられなくなると、自ら関係を破壊し、立ち去ることでラクになろうとします。(あんなに相手を失うのがイヤといっていたのに、自分から破壊して去って行くのは本末転倒です。エゴのおもいは、いつもツジツマがあっていません!汗)

「可哀想な独りばっち」になることこそが、エゴがもくろんでいることだからです。

なので、他からやってくるように見えるどのような攻撃であっても、「攻撃」は自分のこころのなかにしか存在しないのです。

目にうつる出来事(形)は、じつは何も意味していません。

形だけで判断してしまうと、そこにある意味(内容)が見えなくなってしまいます。星の王子さまが言ったように、「ほんとうのことは目に見えない」からです。

だから、見かけではほんとうのことはわからないことを理解して、まったく判断などしないことです。

Aさんにも、「そのいろいろな推測がなかったらどんな気持ち?」とおうかがいしたら、「平和な気持ち」とおっしゃいました。その自分の判断こそが、苦しくさせているがわかります。

だから、判断するよりもこころをからっぽにして、あるがままを受け入れます。判断のかわりに、つながる気持ち、思いやりの気持ちで状況を見てみます。

この関係において、自分がすることは「反撃すること」ではなく、「愛すること」だと思い出しましょう。

批判はすでに攻撃なのです。攻撃してしまったら、もう愛するという選択肢は失われてしまいます。相手は敵になってしまったからです。

ただなにも判断せずに(攻撃せずに)、こころをカラッポにしておくと、そこにはすでに愛があります。そしてカラになったスペースに、ハイヤーセルフからただしい見方がポトリと落ちてきて導いてくれます。

たとえば、Aさんの場合だったら、すでに不安になっている感情は受けとめて感じてあげます。そして、「私は彼に何が起きているのかわかりません」といったんこころをカラにして、「ハイヤーセルフ、私が彼にできることは何でしょう?」と尋ねます。

もしかすると、「彼のこころは今、モヤモヤしているのかもしれない(そう!私たちは誰でも自分でもわからずモヤモヤするときがあります。)だったら、電話をして、彼の話しをとことん聞いてみようかな。そうしたら、こころが少し軽くなるかも」・・・そんなインスピレーションがやってくるかもしれません。

愛するとは、つながろうとすること。「してもらうこと」をじっと待っているよりも、なにができるかな?と相手に対して「できること、与えられること」を思いやります。つながろうとします。

自分の悲惨なストーリーにはまりこむことなく、おもいやり、気づかい、つながりのこころで与えようとするのです。

私たちのこころには、つねに自分を不幸にしようとするエゴの声がひそんでいます。

その声をやすやすと受け入れてしまうと、存在さえしない架空のストーリーに迷いこみ翻弄されることになります。

怖れの気持ちを手放して、こころをまっさらにして、ただ受け入れる、近づく、与える、つながりあうことだけを目標にしてみましょう。

自作のでっちあげのストーリーさえなければ、安らかなこころのなかでただそこにあるほんとうのことだけが見えてきます。

そして、それはいつもお互いにとって必ず癒しになるように働き、こころが繋がりあうことを体験できるようになります。そもそも出会いの意味じたいが、癒してつながりあうためなのですから大丈夫☆

エゴの悲しいストーリーは、すべてハイヤーセルフに渡してしまいましょう。そして、攻撃という見方ではなく、つねに愛とつながりを選びましょう。

ただまっさらなこころでおもいやりや気づかいを「与える」ために、相手とつながってみましょう!

それが、私たちがここに学びにやってきたことだから。学べがかならず贈りものがやってくるからです ♫•*¨*•.¸¸♪

 

 

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気づきの日記「勝つために退くこと」

 

仕事にしろ、人間関係にしろ、お金や病気やさまざまな苦痛、困難にしろ ・・・ 世にいう問題が目のまえにあらわれると、私たちはおのずと問題を敵として扱い、「問題(敵)」vs 「自分」という構図で戦おうとします。

でも ・・・ もし、その問題自体が自分の足をすくうために自分自身が編みだしたものであるなら、それに挑みかかることは自ら術中にはまりこむことになります。まさに自爆行為です。自分と戦っても勝者はどこにもいません。

もともと転ばせることが目的ならば、対決姿勢で問題は解決されることはなくさらに悪化することになります。

だとすれば、問題を解決するためには別のやり方が必要です。

問題が見えているとき、それはこころが真の自己からそれて偽りのエゴとして障害を作り出しているときです。

ならば、こころを真の自己に戻してあげることこそが解決策となります。

しかし ・・・ 残念ながらエゴが自分で自分を正気にしてあげることはできません。すでに何が正気かわからないからです。

ニセモノに憑依されているときに、自ら正気になれるのであればとっくに正気になっているはずです。(それに、狂人こそ自分がまっとうだと主張しがちです・笑)

いったん脱線してしまった列車が自力でもとに戻れないように、正気に戻るにはより力のある存在の助けが必要になります。上に吊りあげてもらって、正しい位置にリセットしてもらわなければなりません。

そのためには、とりあえず脱線していること(問題があること)に気づいて、「自分ひとりでは正しい状態に戻ることができません」「助けてください」と謙虚に負けを認めることが必要です。(負けていると認めない限り、だれも真摯に助けを受け入れないからです。)

そして、大きな力に働いてもらうために、すでにおかしくなっている自分は脇にどく必要があります。脇に退いて高い存在に場所をあけ、そのちからに委ねることこそがエゴのワナからの脱出方法です。

しかし、これが簡単なようでなかなかできません。

負けを認めることは、プライドがゆるさないからです。助けを求めることは弱さであり、恥ずかしいことであると信じているので誰の手を握ることもできません。

だから、自分ひとりで挽回できると信じて、エゴの仕掛けたワナのなかで戦いつづけることを選択します(・・・負け戦とはつゆ知らず)。

どこまでも私たちはボス面をしていたいのです。

「脱線したので正してください」と高い存在に丸投げしてしまえば、すぐさま光のクレーンがやってきて正してもらうことができるのに・・・トホホ・・・残念なことです(汗)。

以前に観た「War Room」という映画を思い出しました。そこには、「退く」「明け渡す」「委ねる」ということをみごとに行いながら、すべての問題を解決するクララという女性が描かれていました。

クララの家には、Answered Prayer(叶えられた祈り)という額が掲げられています。

これは、すでに答えが与えられた問題の数々が誇らしげに列挙されているのですが、その答えのすべてはこの家の片隅にある「War Room」という小さなスペースから生み出されていたのです。

「War Room」とは、戦いのための戦略を練る部屋、いわば参謀本部ことです。

クララの「War Room」はウォークインクローゼット。彼女は日課としてそこにひとり退き、静かに高い存在とつながる時間をもち、自分やまわりの人々の問題のすべてを委ねることをしています。

これが、クララにとって問題と戦うための戦略なのです。

クララいわく、「みんな戦う相手が誰であるかわかっていない。さらに、戦うためには、正しい戦い方と戦略が必要なのだ」と。

つまり彼女は、自分のこころ(エゴ)が生み出したものと直接戦うことで問題は解決できないことを知っていたのです。さらに、正しい戦略とはものごとを変えようとすることではなく、こころこそを変えてほしいと高い存在にお願いすることだともわかっていました。

だから問題に直面すると、自分が脱線状態であることを正直に認めて、どうか正しい場所に戻してくれるよう熱心に祈るのです。実際に問題と戦うことはせずに、静かに退くことに時間を費やします。

クララはキリスト教徒なので、まるで目のまえいにイエスが立っているがごとく情熱的に語りかけます。大いなる存在と自分との距離がまったく存在せず、まるで信頼できる友人に困りごとを相談するように、助けがえられることを確信して話しつづけます。

完全に委ねきるために真剣に祈ることこそが、正しい問題解決法なのだとクララは知っていたのでした。(この映画は「War Room」というタイトルですが、邦題は「祈りのちから」となっていました。)

私たちのエゴは私たちがここで失敗をくり返し、罪悪感の壁をどんどんぶ厚くしながら、本来の自分自身のから遠のいて闇に沈んでゆくことに喜びを感じています。

だから、真の解決法とはワナである問題に突進して戦いを挑むことではなく、そのような問題をつくり出したエゴのこころを正してもらうべく、自分は静かに退いて高い存在に助けを乞うことなのです。

高い存在とは、自分にとって心地よいシンボルであればかまわないので、ブッダでもエンジェルでもマリアさまでも大いなる光でもなんでもよいのです。

そして、自分は助けが必要であることを謙虚に認め、間違ったこころを正してもらえるように真剣にお願いし、すべてを委ねます。

あとは、その後に自然に起こってくることに抵抗せず、信頼して身をまかせてゆきます。ただ安心して見ているだけで、特別なことは必要ありません。

これがこころの脱線を正すことであり、自然な流れのなかで関係するすべての人にとって役にたつ真の解決へと導かれる方法なのです。

PS War Room がなくっても、大切なのはしっかりとこころを高い存在に向けてつながろうとすること。それは人との関係とまったく同じですね。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

 

お茶の間シネマトーク「ベロニカとの記憶」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

老年のトニーはひとり暮らし。

離婚した妻や娘とは良好な関係を保ってはいるものの、実際、人に対してあまり興味はなくこころを開かない。

ある日、トニーは弁護士からの手紙を受けとる。それは、学生時代の親友エイドリアンの日記が遺言によって自分に託されている、という内容だった。

しかし、エイドリアンは学生時代に自殺しており、その遺言の主はエイドリアン本人ではなく学生時代の恋人の母親だった。

なぜ今頃、旧友の日記が自分に遺されたのか? なぜ元恋人の母親からなのか? 疑問を抱きながらもその日記を請求すると、遺言執行人である元恋人のベロニカは「もう日記は焼いてしまった」と。

この出来事を機にトニーの記憶の扉が開き、学生時代のさまざまな場面がフラッシュバックのように甦る。

またベロニカとも40年ぶりに再会することとなり、忘れさっていたこころのうずきを感じはじめる。

なにも語ろうとしないベロニカとの間で、トニーの記憶はゆらぎはじめる・・・。(→予告を見る)

嬉しかったり、傷ついたり、恥ずかしかったり・・・私たちのこころのなかにある様々な記憶。

そもそも記憶は私たちのこころによって取捨選択されうるし、また記憶のモトになっている自分自身の認知じたいが「ほんとうのことを見ることができない」ということに私たちは気づきません。

私たちが見ている世界は、まるでカギ穴から覗いているような限られた一部であって、それはあるがままの事実とは違うのです。

さらに、私たちにはあらかじめ自分で目にしたいと思っているストーリーがあり(たいていは被害者のストーリー)、そこにあわせて起こっていることをあてはめて自分なりの物語を紡いでゆきます。

つまり、あるがままではなく、起こっている一部をつなぎ合わせて、組み立てて、自分好みのストーリーにして納得しているのです。でもそれは、自分が「傷ついた」というストーリーであることが多いのです。

このお話のなかのトニーも、自分が思い出した過去の記憶というものが、この「日記」の出来事から揺らぎはじめます。

自分がねつ造した「カギ穴」から見たストーリーではなく、ドアを開け放ち全体を知りはじめたとき、そこにはまったく違うものが見えはじめるのです。

トニーがそのことに気づきはじめたとき、彼はなんと自分が自分を被害者にしていたことか、そのために心をとざしてそこにある愛も拒否していたことに気づきはじめます。

神さまのような目線ですべての出来事の全体を、そのうわべだけでなく内容もながめ渡すことができたとしたら、ほんとうは傷ついたり、被害者になったりすることはできないのかもしれません。

そして、自分のこころの癒しを求めるとき、こころで全体で見ようとする気持ちが欠かせないのだと感じます。

PS 再会したトニーのまえで、なにも語ろうとしない元恋人のベロニカ。シャーロット・ランプリングの存在感だけですべてを語っている感じがします。