furukawaさんのブログ

お茶の間シネマトーク「ファンタスティック・プラネット」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

この真っ赤な瞳のインパクトにつられて、ストーリーの概略を読んでみると ・・・

「目だけが赤い巨大なドラーク族が支配している惑星では、人間は虫けら同然に扱われていた・・・」ですと?!

たいていの映画では、人間ありきで人間が主役ですが、そうではないのですね。

私たちが虫けら?!・・・ さきほどまで部屋に出没した小蜘蛛を追い回していた私はさっそく観る気まんまんに。

で ・・・ 蜘蛛さんの気持ちはよ〜くわったしだいです(汗)。別に悪さをしようとしたわけではなく、ただそこに棲息していただけなのにね・・・(ストーリーのなかで、人間も静かに生活してているだけなのにムゲに踏みつぶされています)。

母親が殺されてしまった人間の赤ちゃんをドラーク族の女の子がペットとして飼い始めるというお話です。

その男児はすくすく大きくなり、女の子が部屋にいないときに学習機材を使ってドラーク族と同じように智恵をつけてゆくのです。そして、ついには女の子のもとを脱走し・・・(さあ、どこへ行ったのでしょう?!)。

これを見ても、野生の犬や猫がなかなか人間にこころを開かないのは当然だよね、と感じます。とにかく、なにをされることやらコワイのです。

これは1973年の作品ですが、シュールな画面と斬新な発想にびっくりさせられます。まったく固定観念にとらわれていないのです。

このドラーク族の日常の過ごし方や、食事の仕方。そこに棲息する植物や動物の度肝をぬく形態。ドラーク族の使う道具も、びっくりです(人間につける首輪にはリールはなく、リモコン操作なのですよね。また、3Dプリンタのようなものも使っています)。

いちいち唸りました。(→予告をみる

フランスとチェコの合作とありましたが、う〜ん、納得。チェコの作品って、ときにびっくりするようなオドロオドロしさがあったりします。

●この赤い目と「虫けら同然の人間」というのは、私たちのこころにはちょっとばかりキャッチーでしょうか?

お友だちに「こんなの観たよ〜!」とご紹介したら、あっというまにご覧になり感想と情報をシェアしてくださいました。

「気持ち悪い生物はナウシカっぽいと思ったら、実際、ナウシカに影響を与えた作品だそうです」と。さらに、「コロナウィルスからみた人間って、こんな感じ?!」と。ほんとですね〜。

ところで、このストーリーで「猿の惑星」を思い出したのですが、

子どものときにテレビでチラリと観たのですが、それでもけっこうインパクト大でした。

とくに、一作目のエンディング。「え〜〜〜!!こうなる??」と、うすら寒く感じたものです(そもそも、猿の惑星にたどり着いた宇宙飛行士たちは二千年も旅をしている、という設定がスゴイ・苦笑。地球に生還できたとしても、ピラミッドが高層ビル群になっていますものね・・・汗)。

「猿の惑星」(これは1968年なんですね)、もう一度観たくなりました。

PS 「ファンタスティック・プラネット」の本編は、フランス語、英語ではこちらで閲覧できます。(→こちら

 

 

 

気づきの日記「赦さなくちゃいけないのは自分自身」

 

何か失敗しちゃったとき・・・

私たちはその失敗の内容自体を客観的に見ようとするよりも、それはスルーして、自分自身を責めることに向かいがちです。

「なんでこんな失敗しちゃったんだろう?」「みんなに迷惑かけて、私ってダメだわ」「いっつもこうだよね」「きっとあきれられてるかも」「もう見放されるかも」・・・

ほんとうのところ、そのときするべき正しい反応は、

「自分のしたことは適切じゃなかった」「じゃあ、そうならないためにどうしたらいい?」「不十分だったところはどこだろう?」「それについて何ができる?」「じゃあ、次回はそこを改善しよう!」

「うまくいかなかったポイント」の認知があり、それに対する改善があります。

ところが、私たちがしてしまいがちなのは「裁き」なのです。

「これは ”私の失敗(罪)”」であり、「そんなこともできない ”自分はダメなやつ(罪のある人)”」というふうに。その内容についてではなく、自分についての裁きなのです。それも二度も。

「罪がある」ことのみに焦点があたってしまい、起きた内容は無視されてしまっています。

そして、この「罪がある」という思いは、次から次へと負の連鎖を生み出し、罪のある自分を決定的にしてゆきます。

「失敗しちゃった」→「私はいつもこう」→「嫌われちゃう私」→「そういえば、○○さんの私に対する態度は最近つめたい」→「仕事の担当を変えられるかも」→「私は見捨てられる」→「不安だ」→「この先どうなる?」・・・

どんどん架空のストーリーに巻き込まれてゆき、架空の人生を生きはじめます。

失敗してしまったらすべきことは・・・

*何故そうなったかを検証して、改善点を明らかにして、次から実行すること。

**さらに、こころのなかで「やっちゃった・・・汗」と落ち込んでしまっている自分を赦してあげること。また、その自分を責めつづけている自分も赦すこと。

***そして、たんに改善すればいい状況だったところに罪をおしつけ、罪のストーリーをでっちあげてしまった自分を赦すこと。

私たちは、人のことは赦そうとして、赦す努力をするのですが、

残念ながら、その範疇から自分はスッポリ抜け落ちてしまっているようです。自分に対しては相当なスパルタなのですよね(メッチャ S であり、M でもあります・・・苦笑)。

客観的に改善点を見つけたら、あとはちゃんと自分を赦して解放してあげましょう。

そうなのです、すべては自分を赦すため ・・・ 解放するために起きています。

もしこの人生を何度も何度も生きているとしたら・・・ 赦さないがために罪のストーリーのループにはまりこんでしまって何度も同じところをグルグルしているとしたら・・・。

ならば、今度こそ、今度こそ、そのことに対して違う反応をしなければならないのです。そこから脱しなければならないのです。

責めずに赦すこと。起きたことをそのままにしておくこと。

♪これでいいのだ〜、これでいいのだ〜♪

自分を出口のない同じストーリーのループから解放してあげるために、自分にも優しくしてあげましょう♡

 

 

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連日のサイレン

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

きょうは、午前中に四台。
午後になって、すでに二台・・・。

これは、目のまえの駒沢通りを走り抜けてゆく救急車の数です。

このところ、だいたい日に七〜八台ぐらい。

近くに総合病院があるせいもあるのですが ・・・ 連日テレビで放送される感染者数よりも、走りさる救急車のサイレン音の多さの方がより事態のシリアスさを実感します。

昨日はお友だちに渡すものがありちょこっと外でお茶をしてきたのですが、デルタ株の感染威力を思うとおっかなびっくりです。

入ったカフェはスペースもあり、人もまばらでまずはひと安心。

早めにと思いつつも、ドリンク飲み放題につられてついつい長居してしまいました(コーヒー、紅茶、ジュースを6杯もいただいてしまいました!汗)。

夕方、外に出るとまだ蒸し暑いものの、ずいぶん空が高くなり夏の終わりを感じます。

早くマスクをはずして、季節の映りかわりを全身で感じたいものです。

 

 

 

気づきの日記「ホッパーの絵のように・・・」

 

静まりましょう。

言葉がなくなり静かになると、自分が目にしているあれこれ、感じているあれこれ、聞こえているあれこれが ・・・ 自分の内側に存在するようになります。そして、それらはただ流れてゆきます。

私たちがものごとを目にするやいなや発してしまう「あ〜だこ〜だ」のセリフは、流れゆく一連のものをバラバラに引きちぎってしまい、互いに対立させ、対立しているからこそキケンなものになってしまいます。

だから、問題があるように思えるときは、ただ静かにしてみます。

まったく裁いたり抵抗したりすることなく、それらが私というスペースのなかを無条件に通りすぎてゆくのを赦してあげましょう。(これが受け入れること、つまりほんとうに赦すことです。)

そうすると、それはただ過ぎゆくものとなり、消え去ってゆきます。

しかし、そこにあれやこれやの判断や抵抗がくっついてしまうと、それをしっかりと握りしめ、消え去ることを許さず、イチャモンをつけていることとなります。

ケンカを売っちゃったのは自分、つまりひきとめて消えることを阻止しているのは自分自身なのです。

さまざまな困ったことにしろ、身体の不調にしろ、誰かの困りごともしかり、

私たちは勇んでそれに向き合い、対峙することが正しいと信じてきましたが ・・・ まずは静かにして、すっかり手放してあげましょう。

それらをただスルーしている状態です。

もし、それに対して何かすることがあるのならば、ひらめきがやってきたり、身体が勝手に行動を起こしていることでしょう。必要ならば、なにかを自動的にしているのです。

目のまえを流れてゆくものに注意をつかい果たさなければ、もともと存在していた自分自身の叡智が姿をあらわし、ちゃんとお仕事をしてくれます。

静けさのなかにいるとき、私は窓の外を見ながら、街を歩きながら、カフェに坐りながら、まるで世界がホッパーの絵のようだわ、と感じます。

しんとした静寂のスペースが広がっていて、そこに人がいるにもかかわらずまったくストーリーやドラマは感じられません。空間はなんの混じりっけもなく静けさをたたえたままポカンと広がっていて、まるで時が静止したように感じます。まっさらな感じ。

人によってはエドワード・ホッパーの絵は「孤独」とか「寂寞感」があるといいます。私は、しんと静まりかえって、そこに個々のあれこれと時間の流れがない開放感、そして静かなここちよさを感じさせてくれるのです。

ただ静まってみましょう。

後ろに退いて、まさにホッパーの絵を見ているように目にしている画面全体になってみましょう。(これは、ポカンと何かを見ているときにいつも起こっていることです。自分がいなくって、世界という画面だけが存在します。)

その静けさのなかから、問題やらトラブルと見えていたあれこれが、ただ静かに流れて、姿を消してゆくのを見ていましょう。

このスペースになっているとき、すでにそれらはそんなに重要だったり、どうにかしなければならないことではなくなっているかもしれません。(このスペースには、癒しのちから、解決のちからがあるのです。)

このスペースから見るすべてが、どのように形を変えてゆくのか、ただ見守るものでありましょう。

すると、あとになってきっとこんなふうに感じるかもしれません。「おお、そうきましたか!(喜)なるほど〜♪(満足)完璧! ありがとう♡」

 

 

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気づきの日記「モノゴトを小さく切りとらない」

 

こころがキューっとなにかに集中すると ・・・ それは大きくなります。

そこだけにスポットライトがあたって、大うつしになる感じ。

それは画面いっぱいにふくれあがり、いっぽう自分自身はしゅ〜〜ん・・・とシュリンクしてしまいます。

私たちの注意はまるで拡大鏡のよう。こころは、自分で拡大したものにまんまと囚われてしまうのです。

わかりやすいのが恋愛です。

相手にこころを奪われて相手にばかり気をとられているうちに、相手は自分のなかでパワーアップして巨大化し、ついにいっぱいになってしまいます。(注意という拡大鏡で拡大したら、こころのなかがその映像、思いでいっぱいになってしまった状態です。)

曇り空でさえも太陽の存在が消滅していないのと同じように、そのとき自分自身の存在は決して小さくなったり消えてしまったわけではないのですが、

おもいっきり注意を注いだ相手の存在によってこころはパンパン、まさに太陽不在のごとく自分不在のように感じられてしまいます。自分不在は、無力で居心地が悪いものです。

注意(またの名を執着と欲望という・・・汗)を注いだ相手は、こころのまんなかにデンと強力に居座っています。

「あなたのこと以外なにも考えられなくなってしまいました!苦しいからどいてくださ〜〜い!(汗)」・・・いえいえ、あなたがそれを真ん中に置いたのです。

これは恋愛だけでなく、問題や心配ごとでも同様です。

それに集中しすぎるために、それに自分のスペースを明け渡してしまい、自分自身が忘れさられてしまったがゆえにひどい無力感にさいなまれます。

そうなると、その不安感からなおさらその対象に固執することになってしまいます。(対象をどうにかしようと向かって行ってしまうのです。)

けれども、さらに自分を小さくしパワーを奪ってしまうという悪循環に陥ります。

一点に集中は、見ている対象に巻きこまれて自分を失ってしまうことになり、またひとつに集中することでその他を切り捨てるため、孤独感や孤立感にさいなまれることになってしまうのです。

一点に集中してものごとを見る、というのは自分を幸せにしてあげられる見方ではないのです。

切りとらないものの見方とは・・・たとえば、

寝転がってリラックスし、自分自身が意識のなか(後ろの方)に退くのを感じてみましょう。

そして、自分の見ている世界の「はしっこ」に気づいてみましょう。

はしっこをず〜っとたどってみると、楕円形に世界が入っているのに気がつきます。

そして、その楕円形の世界こそが自分の意識(こころ)に写し映像で、そこには自分だと思っていた人影も見ることができます。でも、そっちはただの映像で、この写し出している土台こそがホンモノです。

このように、目にするすべてのものは自分のこころのなかのもの、自分のこころに映りこんでいるもの。自分とはちょっとも離れていないのです。

今まではキュ〜っと集中してその一部分だけを切り取って、自分 VS それ というように、見知らぬもののように扱っていたものが、じつは「ぜんぶ私だったのね!」と気づくことで、ちょっと落ち着きます。

決してえたいの知れないものは現れていなかったのです。

今まではどこか外側からそれはやってきて、仰天させられたり、ホンロウさせられたり、困らせられたりしていると思っていたものも・・・じつは自分のこころのスクリーンにあらわれているもの。

安心と信頼をもって、全体を受けとめてあげましょう。

それを安心して見れば安心感が、信頼して見れば信頼感がもどってくるのです。なんせ、ひとつのこころだから。

そして、こころのなかで拒絶されることなく受けとめられたものは、そのまま消え去り流れてゆきます。

ひとつひとつを切りとる(価値判断する)ことなく、ただあるがままに行かせてあげましょう。

そうすると、問題も気にならなくなり、すべてが穏やかに過ぎさってゆくのを感じられるかもしれません。

 

 

 

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山梨からの激励

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「東京は、感染拡大で大変ね〜! どうしてる?」と山梨のお友だちからお電話。

山梨というと、全国で感染者が急増していたときも感染者ゼロをキープしていたこともあり、かなり優秀でした(「人がいないだけよ〜」とのこと・笑) ・・・ 今は桃狩り、ぶどう狩りの観光客がおしよせていて危機だそうな。

「桃、送ったから、食べて頑張ってね〜!」と励ましのお言葉。

さっそく、到着〜! 産地直送、もぎたての桃です。

わあ、おっき〜〜い♡(みな歓喜です!)

またも緊急事態宣言が延長されてヘコみましたが、お友だちとの声かけ、助け合いというつながりに日々元気をもらっています。

暑い季節、おうちで涼みながら、元気にやりすごしましょうね〜!

 

 

 

気づきの日記「問題は解決しなくていい」

 

目のまえに問題があらわれたら、解決に取りくむ ・・・ これが、私たちが教えられてきた人生の対処法です。

問題とは解決すべきものであると。

でも・・・もしその姿勢が、より問題を解決できなくしているとしたら? それが、火に油を注いでいることだとしたら?

私たちの人生に対する姿勢は、ものごとをよりよく「変える」ために努力すること。

向上してなんぼ・・・の世界なので、それに対して何もしないことは、前向きでない、やる気がない、怠惰な人と思われてしまいます。

だから、つねに人生をよりよくするために問題点を洗いだし、それについてアタマをひねり、対策を考え、変える努力をすることがよいことだと信じられています。

でも ・・・ 問題をどうにかしよと取り組むということは、「私 VS 問題」という対立構造をつくりだします。

対立は、勝利するために相手と闘うことを意味し、相手という一点に注意を注ぎます。その結果、自分の意識のなかで、それ(問題)をよりリアルで強固なものにしてしまうのです。

問題視すればするほど注意はたっぷりと注がれ、相手は自分にとって手におえない存在となってしまいます。

そうなれば、解決しようとしているはずなのに、その解決策はより相手をパワフルにするものとなっているのです。

ほんとうの解決とは、対立によるものではなく、自分のこころのなかでその存在を手放してあげることです。

つまり、注意をはずしてあげること。

対立によって相手に注意を注ぎまくり、リアルで強固な存在にするのではなく、まったく対立しないこと 〜受容すること、そのままにしてあげること〜 によって、注意という電源を抜いてしまうのです。

その状態にめくじらをたてて闘おうとするのではなく、ただ赦してあげることこそが、それを去らせてあげることができます

これは、「押してダメなら引いてみな(責めるのではなく、赦してごらん)」という、北風と太陽の原理のごとく逆をゆくことでうまく方法です

「こんなの許せない!」「これは問題でしょ!」と腹をたてて騒いでいるのは自分のこころです。その裁いている自分のこころにただ気づいてみましょう。

問題は相手にあるのではなく、じつはこの裁きの気持ちこそが問題なのです。なんたって、自分が問題だ!と言っているのですから。

静かにその気持ちに気づいてみるだけで、その裁きのこころから離れることができます(裁きの気持ちを対象として見たときには、自分自身はもうそこから離れています)。

離れることができたら、それをどうにかしようともせずに、ただ眺めていましょう。自分のこころをそこから離してあげるだけでそれは静まってきます。

出来事を裁いて「闘うべきだ!」と叫ぶこころそのものを静観する習慣をつけることで、問題をつくって問題とたわむれることを生業にしているエゴのスイッチを切ることができます。

すべてを裁きたいエゴのこころは、問題をこしらえては、そこに注意を注ぎまくって、をれを解決できないものに仕立てあげ、それに闘いを挑んでは疲れはて、敗北感を感じ、その敗北感からまた裁きなくなる、という不毛なループを好みます。それに巻きこまれないようにしましょう。

問題は解決すべきもの、ではなく、ただ受け入れて、意識のなかから手放してあげるもの。

問題をつくりだすまえに、をれを問題視しよとしている裁きの気持ちに気づいてみましょう。

裁きの気持ちを見つけたらただ静観することで、「問題だ!」と叫ぶ声は静まってきます。

この裁きの声が生きのびなければ、問題は問題となりえないのです。問題を作ってしまうまえに、この声に気づけるようになり、ただ静かに向きあってみましょう。それはただ消えてゆくのです。

 

 

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お茶の間シネマトーク「蜜蜂と遠雷」

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Mちゃんとおうち鑑賞会。ふたりともすでに観ている「蜜蜂と遠雷」ふたたびです。

Mちゃんは原作も完読ずみ。そうなのです。これは、直木賞と本屋大賞をとった小説が原作。国際ピアノコンクールを舞台に、一流を目指す若き四人の天才ピアニストをめぐるお話です。

なので、全編音であふれています。それぞれが競う即興演奏もあり・・・ 原作はいったい、どのようにそれぞれの個性あふれる演奏を文字としてあらわしていることか。また、その文字からのイメージをこわすことなく実写として演奏するというのは、そうとう大変な作業だったことと思います。

それぞれのキャストは、「よくぞ!」というぐらいはまっています。また、画面全体の色調も透明感があって美しい。なによりも、お話の舞台が演奏家生命をかけたコンクールということで、それぞれの内面の緊迫感や葛藤、孤独観がひしひしとつたわってきます。。

Mちゃんは演奏家さんとして海外のコンクールにも出場していたそうなので、舞台の袖で出を待つシーンなどはドキドキが戻ってきてしまったそうな。

こどもの頃に天才少女として注目をあびながらも、母の死をのりこえられず姿を消していた亜夜。まったく無名ながらも今は亡き巨匠のお墨つきをもつ、天真爛漫で型破りな演奏をする少年、塵。年齢的に最後のチャンスとして挑む、悩める社会人ピアニスト明石。音楽を信じ、自分を信じ、未来を信じる優勝候補のマサル。

迷い悩みながらもそれぞれがピアノを愛し、全力で向きあい ・・・ でも、それだけでは生き残れず、先にも進めないこの世界。立ちはだかるコンクールという壁は、ピアノへの愛をも打ちくだくように見えます。

この数日間、四人は自分と闘いながらも、互いを意識し、その存在によって光を見いだしてゆきます。

この僅差の闘い、誰が制するのでしょうか? そしてそれぞれのピアノへの思いはどうなるのか? 結末は知っているものの、二時間ドキドキ☆(→予告を見る)

観賞後の私たちのおしゃべり♪

楽器店に勤める社会人ピアニスト役の松坂桃李くん。銀ぶちメガネにシャツとカーディガンというゆるい姿がめちゃくちゃふつうっぽいね〜。じわっと感情がこみあげてくるシーンもとても自然で、素なのやら、演技なのやら??

クロークに坐っているだけの片桐ハイリさん。まるでサブリミナルのように一瞬はめこまれる映像なのに、インパクトつよすぎ!

出場者を一人ひとりステージに送りだすマネージャー役の平田満さんも、じいやのような静かな包容力がにじみ出ていて、セリフはほぼないのですが存在観があってイイ感じ。

コンチェルトの指揮者役の鹿賀丈史さん。めっちゃイヤ〜な感じを出してくれてありがとう(笑)。

もう失敗が許されない亜夜のコンチェルト演奏シーン。黒のスパンコールのドレスから亜夜の決意が滲みでています。ボブがゆれる松岡茉優さんのヘアスタイルも、迫力と緊迫感がびりびり伝わってきます。

影武者として演奏しているホンモノピアニストさんたちのテクニック、あっぱれだわ〜。

ひとりごとのように思わず感想をつぶやいても、鑑賞会は応えがかえってくるのが楽しいです(笑)。

 

 

 

気づきの日記「探せば探すほど ・・・なくなる!」

 

このところ、探しものにあけくれています。

じつは、「オフィス・るん」は先月移転いたしました。といっても、旧「オフィス・るん」から、ものの1分ほどなのですが。(お越しになる際は、ご案内させていただきます。)

あまりにも突発的で早業の移転劇だったため、どの箱に何をパッキングしたのかさっぱりわからず。それを丸ごと押し入れに投げこんで「ハイ、終了!」、めでたし、めでたし気分になっていたのです。

ところが、いざ仕事をはじめてみたら「あれがない!」「これもない!」と、日々宝探し状態。

出納帳がない!と、あっちをガサガサ、こっちをゴソゴソ。さらに、家具の下に貼るフェルトシールもたくさん買っておいたはずなのに、どこ?

探しているそばから、どんどん散らかります。

「ないはずはない!」と同じところを何度も見ているうちに、ついには疲れはてて、めまいまでしてくるしまつ。

しまいにはソファーにバッタリ倒れこんで ・・・

そこでようやく、ハタ! ・・・と初心にかえるのです。

探しながらつぶやいているセリフが、まずマズい!(汗)

「なぜ、ないの?」は、「ない」ことを前提にさらに強化していたのでした。

そもそも、「ない」という事態を目にするのは、こころの無意識層にある欠乏と不足の思いをイメージとして見ているのです。

なので、探しつづけるよりもまずは、こころのなかの「ない」という思い、不足の思いを癒すことが先決でした! 見えているものはつねに、ダイレクトに自分のこころの証だからです。

アセりながら「なぜないの?」「ぜんぜんないじゃない!?」と「ない」を強調して決定的にするのはやめて、「おお〜、不足の信念さん、こんにちは。出てきてくれてありがとう。今、成仏させてあげるから」と、不足の信念を手放すことに使ってあげなくてはなりません。

いつも、目のまえに提示されているものごとこそ、自分のこころの誤作動を正す機会となるからです。

そこで、「不足が存在する」という思いに気づき、それを責めることなくハイヤーセルフに委ねて ・・・

ああ〜 ・・・委ねたらなんだか眠くなってきた〜 (暑いなか、バタバタ探し疲れた・・・ )と、ソファで一瞬まどろんでいたら・・・

いきなりきました!

アタマに、本棚の片隅の映像と、エコバッグの映像が浮かんだのです。

すかさずガバっと立ち上がって、本棚とエコバッグをチェックしてみると、

きゃ〜〜ん! やだ〜〜〜! ちゃんとあるじゃない!☆☆☆ 本棚の本にまぎれて出納帳、エコバッグの底にフェルトシール♪(どちらも、思いもよりませんでした!)

ハイヤーセルフにお願いしたら、解決までものの1分たらず(ここまでの疲労感と散らかりよう、いったいどうしてくれよう!)。

大切なことは、

*元となる思考をみきわめて、それをまず手放すこと(この場合は、見つからない=ない=不足の信念)。

*自力でやろうとするのではなく、ハイヤーセルフに委ねて、まかせること(自力だと、まだ「ない」というストーリーに執着して、「ない」という独自の筋書きから脱出できない)。

*ハイヤーセルフにおまかせしたら、アタマをからっぽにしておくこと。(あ〜だ、こ〜だの思考がはびこっていると、ハイヤーセルフからのアイデアが入ってくるスペースがありません。ギリシャの賢人も、たいていひと風呂あびているときにひらめいたものです。)

なにが起ころうとも、これが解決方法。自分の信じていることを手放して、委ねて、アタマをカラにする。

めっちゃ部屋を散らかして、汗だくになって、疲労困憊になるまえに気づきたかった〜(汗)。でも、私たちは疲労困憊になったり、めまいがするところまでいかないと、自分の持論や正しさを手放す気にはならないのかもしれません。

それぐらい、ヘンな方向性で自分を信じているのでしょうね(苦笑)。

めまいがするまえに、さっさと白旗をかかげようっと♪

次回の困りごとの際は、出来事と格闘することから手をひいて、すみやかにこころのなかで正しい解決法を選択するこができますように☆

 

 

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オシャレで美味♡お初スウィーツ

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

コロナでおうち時間がふえてから、めっきり最新カフェ&スウィーツ情報にうとくなっています。

久しぶりにセッションにお越しくださったお友だちがもってきて下さった「Pavlov(パブロフ)」というお店のスウィーツ、これもお初だわ。わっくわく♪

わあ♡ いろんな色のパウンドケーキが並んでいます!

箱の色合いもなんともオシャレ。これはぜったいおいしいでしょ〜♪

本日は、こちらの二つから!

ひとつは、ベリー。酸味がしっかりきいていて、いい香りのバタースポンジとよくあっています。もうひとつは、ピスタチオケーキ。ショコラティエのチョコのようにカカオがいい香りです。

どちらも、きめ細かなしっとりスポンジがとてもいい口あたり。こぶりでも満足感のあるお味なので、濃いめのコーヒーによくあいます。とっても美味♡

元町と虎ノ門ヒルズにカフェがあるみたいなので、夏がすぎたら是非行ってみたいな〜。

I ちゃん、ごちそうさまでした♡